ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 アバド指揮
アバドが、胃癌に倒れ、療養を発表したのが、2000年6月頃だったかと記憶します。
思えば、その前から、病魔はアバドの体をむしばんでいたはずで、それでも、アバドは不調のなか、ベルリン・フィルと精力的に活動してりましたから、まさかの活動休止の報でした。
当時、取り上げていた演目は、大作ばかり。
ブルックナー9番、マーラー9番、大地の歌、新世界、コシ、ロ短調ミサ、そして「トリスタンとイゾルデ」。
自分が長年、抱いてきたこれらの作品への思いを実現する、その時期に達したという思いがきっとあったに違いありません。
そしてベルリンフィルとの関係も、まさに熟した、ともいえるその頃。
その思い半ばで病に倒れたアバドは、術後、驚異的な回復を示して、10月にはベルリンの聴衆の前に姿を現しました。
そして、11月の末、心配されましたが、日本にベルリンフィルを引き連れ、やってきました。
ザルツブルク・イースター祭の引っ越し公演としての「トリスタンとイゾルデ」の舞台上演を中心に、ベートーヴェンの交響曲。
そして、万が一のためともあり、ヤンソンスが帯同して、彼はドヴォルザークを指揮するという、数あるベルリンフィルの来日では、日本初ベルリンフィルオケピットという超豪華版で。
わたくしは、アバドが休養発表する前、たしか5月の、その日は子どもの運動会かなにか。
そのチケット発売日に、いまや古めかしい携帯を掛けまくり、決死の思いで、「トリスタン」のチケットを入手したのであります。
その後の、癌の告白。
アバドのことが心配で心配でなりませんでした。
そして10月に復活。
そのあとは、ほんとうに日本にやってきてくれるのか?
トリスタンなんて大作、病みあがりで指揮できるのか?
こんどは、それが心配でなりません。
ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」
トリスタン:ジョン・フレデリック・ウエスト イゾルデ:デヴォラ・ポラスキ
マルケ王:ラースロ・ポルガー クルヴェナール:アルベルト・ドーメン
ブランゲーネ:リオバ・ブラウン メロート:ラルフ・ルーカス
牧童・水夫:ライナー・トロスト 舵手:アンドレアス・ヘアル
クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
ヨーロッパ祝祭合唱団
演出:クラウス・ミヒャエル・グリューバー
(2000年11月23,27日、12月1日 @東京文化会館)
オーケストラコンサートより先にトリスタン。
無事に来日し、幕を開けたとの報に、安堵し、情報はシャットアウトして、自分の購入した最終日を迎えました。
奮発して最上の席、そして目の前に現れたアバドの痩せこけた姿を見て、衝撃を受けました。
いつものあの飄々とした挨拶でしたが、くぼんだ目に光る眼光は、とても鋭く、決死の眼差しすら感じました。
そして始まった、トリスタンの「憧れの動機」。
その半音階に絢どられた旋律が、こんなにも悲しく、でも明晰に繊細に響くのを聴いたことがなかった。
続く「愛の旋律」も同じく。
重なりゆき、重層的に響きあい、クライマックスを迎えても、オーケストラピットからは、透明感あふれる繊細なトリスタンが立ちあがってくるのでした。
いまアバドが戻ってきて、しかも、わたくしの最愛のワーグナーの、それも「トリスタン」をわたくしの目の前で指揮している。
それだけで、感無量となり、目の前がぼやけてきてしまいました。
もう13年も前のことですが、昨日のことのように覚えております。
(音楽の友誌より拝借してますので、こんな風に、以下同じ)
グリューバーの演出は、スチールパイプを縦横に組み合わせた無機質的なセットを背景に、どちらかといえば、真新しいものの少ない、むしろファンタジー不足の舞台でしたが、それがかえって、ワーグナーとアバドの作りだす音楽を阻害せず、むしろ過不足なくそこに収まっていたのがよかったです。
アバドとベルリンフィルが、この夜の主役。
熱くもならず、冷たくもならず、不感症でもなく、ましてや絶叫したり、大音響の中に埋もれることもない。
どこまでも、知的で、透明感にあふれ、しなやかで敏感。
濁りのまったくない明晰な響きは、音がどんなに重なっても、そのすべてが耳に届きました。
絹糸のように、繊細に重層的に織り重ねられたライトモティーフの綾。
ワーグナーの筆致に驚くとともに、ベルリンフィルとのスーパー高性能ぶりに驚き、アバドのもとに、完全に一体化していました。
第2幕では、舞台装置がデフォルメされた林のようになっていて、そこで歌われるトリスタンとイゾルデの二重唱が、あまりにも美しくて、ずっと終って欲しくない、マルケ王の踏み込みは、ずっと来ないで欲しいと心底思いました。
ブランゲーネの甘味なる警告と、高まりゆく愛の動機。
この光景を見ながら、わたくしは、シェーンベルクの「浄夜」を思い、脳裡に響いたりもしました。
この場面をピークに、この日、もっとも感銘を受けた歌手のひとり、ポルガーのマルケ王の深いバスの長大なモノローグから、急速に「アバドのトリスタン」は悲しみの色を増してゆきました。
当時の自分のメモを読むと、ここに、マーラーや新ウィーン楽派の響きを感じたとありました。
なるほどに、それほど研ぎ澄まされた、洗練されたワーグナーだったのです。
幕が進むごとに、アバドの指揮ぶりは、鬼気迫るものを感じさせ、音楽にどんどん集中していくのが、そのうしろ姿からあふれ出て見えました。
そんなに、気をこめて、そんなに集中して、そんな姿が必死すぎて、わたくしは、もうマエストロ、いいですから、無理しないで・・・・、そんな風にして祈るようにもして聴きました。
3幕のトリスタンの長大な嘆きも、新鮮な響きが一杯。
バカでかい声の持ち主、ウェストは、アバドの繊細なトリスタンにはどうかと思いましたが、軽々とホールにその声が届いたのは、そのデカ声のせいばかりでもありますまい。
オーケストラは、どんなに抑えてもよく聴こえるし、そこに声がしっかり乗るように響いていたからでした。
そんな協調作業が、素晴らしかったのは、ドーメンのクルヴェナールと、ポラスキのイゾルデでした。
「愛の死」での、細やかで、情のこもったポラスキの歌いぶりと、アバドの指揮する飛翔するかのような、しなやかで暖かなオーケストラ。
わたくしは、もう涙腺決壊し、あふれる涙を押さえきれませんでした。
静かに音楽が消えて、ホールは静寂につつまれました。
そのあとの、大きな拍手とブラボーの嵐は、いうまでもありません。
ずっと続いたカーテン・コールに出てきたアバドの焦燥しきった姿。
でも満足の、いつものあの笑みと、オーケストラを讃えるあの独特の手の平と指。
楽屋口で、出待ちをしました。
おなじみの楽員さんのお顔。
そして大柄で、大らかな笑顔のポラスキ。
でも、アバドには、ずっと待ちましたが会えませんでした。
わたくしの、音楽生活の3大エポックが、いずれもアバドの指揮です。
「スカラ座とのシモン」「ベルリンとのトリスタン」「ルツェルンのマーラー6番」
この「アバドのトリスタン」は、ベルリンでの演奏会形式上演がレコーディングされながら、発売は見送られました。
いつの日か、それを耳にする日が来ることを願います。
アバドが芸術監督をつとめたザルツブルク・イースター音楽祭。
ベルリンに着任してからすぐにそのポストには付かず、カラヤンの後をすぐに継いだショルティを補佐し、正式就任したのが1994年。
スカラ座、ウィーン国立歌劇場、ベルリンフィルがピットに入るザルツブルクと、続けてオペラ上演の場を得たことになります。
上演演目は、「ボリス・ゴドゥノフ」(2回)、「エレクトラ」「オテロ」「ヴォツェック」「トリスタンとイゾルデ」「シモン・ヴォッカネグラ」「ファルスタッフ」「パルシファル」の9年間・8演目です。
いずれも、ORFで放送がからんでるはずですので、今後、正規音源化される可能性はなくはないです。
そして、いま視聴可能な「アバドのトリスタン」は、「前奏曲と愛の死」と、ルツェルンでの「第2幕」、非正規ライブの「第3幕」です。
これを3つ繋ぎあわせて、1幕の本編以外を聴くことができます。
こちらは、「前奏曲と愛の死」は、2000年11月の録音で、日本にやってくる直前の演奏。
ルツェルン祝祭管とのライブ映像は、2004年8月。
ウルマーナ、トレレーヴェン、パペ、藤村、ブレッヒュラー。
迫真の指揮と、オーケストラのアバドを見上げる眼差しがいい。
非正規盤は、きっと放送音源からで、音揺れが若干ありますが、かなり音はいいです。
ポラスキ、ヘプナー、サルミネン、ドーメン、リポヴシェク、ゴールドベルクと豪華布陣。
1998年11月9日のフィルハーモニーにおけるライブ。
きっとこの演奏会あたりが録音されているのでしょう。
ヘプナーのトリスタンは素晴らしいです。
このようにして、「アバドのトリスタン」の音源の正規発売に思いを焦がす、わたくし。
あの日、あのときの、アバドの指揮姿を脳裡に刻んで、待ちたいと思います。
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コメント
昨年、パルジファルのCD=ROMを買いまして、その精緻で歌うような演奏(かつ、スペインの物語!らしい明るさ。ペルジファルはゲルマンの森の話ではありません)を楽しんでいます。
ぜひ、トリスタン全曲も聴きたいです(><)
投稿: astar | 2014年2月22日 (土) 07時53分
astarさん、こちらでも、こんにちは。
アバドのワーグナーは、基本、明るいです。
ベルリンフィルを振っても、アルプスの向こう側の明るさを保ち、細部にわたるまで明晰。
いずれ、いろんな音源が正式に出ることを願いますね。
ありがとうございました。
投稿: yokochan | 2014年2月23日 (日) 01時14分
こんにちは。アバドとトリスタンについて検索していたら、こちらのページにたどり着きました。
1998年11月29日にベルリン・フィルハーモニーで行われた演奏会形式公演を聴くことができました。その時が初ベルリンだったので、色々と思い出します。加えてベルリン国立歌劇場の指環通しや、旅行の最終日にはウィーンのフォルクスオーパーでマイスタージンガーのプレミエ上演にも行くことができ、なかなかの過密日程でしたが、充実満足でした。
2000年の日本公演の前にも、夏のザルツブルク音楽祭でアバドがトリスタンを振るという予定があって、ちょうどバイロイト音楽祭とのスケジュールの隙間のタイミングで公演があるのを見つけ……ましたが、体調不良でキャンセル(マゼールに交代)。ザルツブルク往復も断念。
そして日本公演も2回行くことができたのは贅沢かつ至福な時でしたね。
それでは失礼します。
投稿: HIDAMARI | 2023年3月29日 (水) 07時59分
HIDAMARIさん、こんにちは、コメントありがとうございます。
ベルリンでのアバドのトリスタンをお聴きになられたのですね。
うらやましすぎます。
そして体調を壊す前、そして復調後の日本での2公演を体験されたことも、空前ともいえる素晴らしいご体験です。
ザルツブルクではウィーンフィルを指揮する予定だったかと思いますし、同時にコジ・ファン・トゥッテも上演予定でした。
病気をしたアバドの動静に一喜一憂していた当時の私も若かったな、といましみじみと思います。
あらためましてありがとうございます。
よき思い出がよみがえりました。
投稿: yokochan | 2023年4月 3日 (月) 08時50分