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2014年3月11日 (火)

マーラー 交響曲第6番 アバド指揮

Abbado_suntry_2006

アバドのルツェルン時代、2006年には、ともに来日してくれました。

そして、このときが、最後の日本公演ということになりました・・・・・。

演目はふたつ。

 ①モーツァルト コンサート・アリア
            「わが愛しの希望よ・・・」K416
            「ああ、出来るならあなたにご説明を・・」K418
                   「わが感謝をお受けください・・・」K383

       S:ラヘル・ハルニッシュ

  マーラー    交響曲第6番

                    (2006.10.13 @サントリーホール)

 

 ②ブラームス  ピアノ協奏曲第2番

       Pf:マウリツィオ・ポリーニ

  ブルックナー 交響曲第4番 「ロマンティック」

                   (2006.10.19 @サントリーホール) 


それぞれを2回ずつ、合計4公演。

わたくしが、聴いたのは、この日付です。

そして、文字通り、日本で最後の演奏会の②を聴くことができました。

初来日は聴けませんでしたが、スカラ座との1881年、そして最後の2006年。

25年の間隔をへての、日本におけるアバドを聴くことができたこと、おおいなる喜びであり、希少な体験だと思ってます。

最初の画像は、ブルックナー終演後、スタンディングで拍手を続けるわたしたちに応えて、マエストロが、ひとり、にこやかに登場したところ。

両日ともに、このような熱い光景が繰り広げられました。

Mahler_sym6_abbado_lucerne

  マーラー  交響曲第6番 イ短調 「悲劇的」

    クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン音楽祭管弦楽団

                       (2006.8.10 @ルツェルン)


マーラーをふたたび、チクルス化したルツェルンでのアバドは、4年目に「6番」を取り上げました。

まったく同じ演目、来日前の夏の音楽祭での映像は、あのときの感動そのまま。

異常ともいえるハイ・テンションに導かれ、全曲が一気呵成に、まるで名人のひと筆書きのようにして演奏されてます。

マーラーの6番といえば、純交響曲であると同時に、マーラーの私生活をも映しだしたかのような、悲観的な感情みなぎるシンフォニー。

しかし、アバドのマーラー6番は、そのようなマーラーの心情や、背景を感じさせることがない。
そこにあるのは、ただただ、音楽のみ。

その音楽をすることが、本当に楽しそうで、集中して、完全没頭して指揮者がひとり、そこにある。
そして、その指揮者を仰ぎ見る100人のオーケストラ。

アバドに指名され、この場に集い、演奏しているメンバーたちの誇らしい気持ちもよくわかる。
トップ奏者たちの必死の眼差しと、夢中になって演奏する様子、お互いに聴きあって演奏し、アイコンタクトも嬉しそうに交わす。
そんなオーケストラを眺めているだけで、こちらも胸が高鳴ってしまい、そこにオーケストラとともに、居合わせて、アバドの指揮のもとに、音楽を浴びている感覚になってしまった。

100人のオーケストラを、その指揮棒と顔の表情ひとつで、完璧に束ねるアバド。
その人生・人格そのものが、オーラのようになってにじみ出ている瞬間であろうと思います。

何度見ても、この6番の演奏は超絶的な名演であると確信してます。

演奏終了後、ホールには、拍手もできない緊張感が張りつめて、長い静寂が支配しております。
アバドが、もう、いないのだ、という思いが、またもや再燃してきて、終楽章の終わりの方から、涙が止まらなくなりました・・・。
飲みながら視聴してましたが、涙は、お酒のせいばかりでもありません・・・・。


Lucerne

 
10月の来日演奏会。

筆舌に尽くしがたい、壮絶極まりない、極限なまでの演奏だったマーラーの6番。

リハーサル観劇のチケットもあたり、ほぼ全曲を、その前に聴いてはいたのですが、その時のリラックスした様子とはまったく違うオーラが、アバドからにじみ出ていて、会場の雰囲気が、一変してしまった第一音から、最後の衝撃のエンディングまで、息つく間もなく、異常な集中力で持って座席に金縛りにあったようにしておりました。

当時のブログから、最後の部分を引用します。

「終楽章の終わりのあたりで、涙腺を刺激された。もっと続いて欲しい。
だが、曲は無常にも空しい終末を迎える。突然のトゥッティのあとの終結。

アバドが静かに腕を下ろす。われわれ聴衆は拍手も忘れ茫然と縛られたように座り尽くす。オーケストラの面々は動きを止めたまま。静寂が30秒は続いた。

ブラボーの一声が、呪縛を解いた。そのあと嵐のような拍手が続いた。
オケのメンバーの喜ばしい顔、そしてアバドの本当にうれしそうな笑顔。

メンバーが去ったあとも一人歓声に応えるアバド。
私が35年間見つめ続けてきた、偉大で謙虚な小柄な音楽家がそこにあった。

感想らしいことが書けない。言葉がないのだ。
ただひとつ、オーケストラのもの凄さ。ベルリン・フィルの次元とは異にする別ステージ。
くどいようだが、アバドとともに音楽するだけが目的の音楽集団。」

この時の演奏は、ほんとうすごくって、オーケストラのメンバーも、抱き合って、泣いてる姿もそこにはありました。

オペラ以外のコンサートで、おそらく、我が生涯、一番の演奏会であります。

人知の及ばぬ高みに達してしまったことを感じつつも、マエストロ・アバドは、いつも変わらず笑顔。

愛され慕われ、そして飾らず謙虚だったマエストロです。
マーラーで行きついた領域は、2011年のベルリンでの10番「アダージョ」と「大地の歌」を最後に、ピークに達するのでした。
そして、次の挑戦は、ブルックナーとブラームスになるはずでした・・・。

ルツェルンで仲間たちと、夏に演奏会を開きつつ、アバドの次なる活動は、2004年の母国イタリアでの若者オーケストラの設立です。
 どこまでも、若い、前向きなアバド。

Mahler_sym6_abbado_csoMahler_sym6_abbado_bpo

アバドのマーラー6番の正規録音は、シカゴ響(79)、ベルリン・フィル(04)のふたつ。

鉄壁のシカゴ響を背景に、鋼のような強靱さと、しなやかさを両立したシカゴ盤。
ルツェルンに近い感触で、余裕と甘味さすら感じる、美しくも明るいベルリンフィル盤。

非正規に、若き日々のローマ放送とウィーンフィルのものがありますが、わたくしは未聴。

Abbbado_wien

その1972年のウィーン芸術週間でのアバドの練習指揮姿は、当時のレコ芸で紹介されていて、その素晴らしいマーラーが絶賛されてました。
マーラーの6番を指揮する、まだ、40歳のアバド。

アバドは、6番が一番好きだったのかもしれません。

わたくしも、アバドのマーラーは、6番と3番の演奏が好きです。

ルツェルンの来日公演を機に、アバド応援の最有力サイト、「con grazia」様を介して、アバド・ファン同士の現実の交流を持つことができました。
ともに、アバドの出待ちを、ホール1階で待ち、アバドに会うこともできましたし、両日ともに、電車がなくなるまで、語り会いましたこと、そちらも、大いなる思い出です。
 皆さまとは、いまも、楽しい交流が続いているんです。

アバドを通じて、知りあった仲間のみなさんとは、これからも親しくアバドのことを語りあっていきたいと願ってます。

ルツェルン音楽祭は、ひとまず終えて、最後の設立ポストのレビューにまいりたいと思います。

過去記事リンク

 「アバド&ルツェルン音楽祭管弦楽団 リハーサル」

 「アバド&ルツェルン音楽祭管弦楽団 演奏会 ①」

 「アバド&ルツェルン音楽祭管弦楽団 演奏会 ②」
 


 

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コメント

2006年ルツェルン日本公演のマーラーSym6は本当に素晴らしかったですね。
アバドの実演を私が初めて聴いたのは1983年ロンドン交響楽団日本公演でした。
その後も来日する度にアバドの実演を聴きましたが、それほどアバドファンではなかったので実演体験はトータルで15回ほどしかありません。
その中でも2006年ルツェルン日本公演でのマーラーSym6はズバ抜けた名演でした。
力んでいないのに演奏に充分な力感があり、何よりも現実を超越したところに音楽の世界があるような稀有な演奏でした。
あの演奏を聴いたからこそ私の中でのアバドの評価は高いものになりました。
2006年ルツェルン日本公演ではその後のブラームスP協2とブルックナーSym4の公演も聴きましたが、やはりマーラーが最高でした。
そしてこの2006年ルツェルン日本公演が私にとってアバドの実演を聴いた最後となってしまったのです。
せめて昨年10月の日本公演が実現されていたならと残念思います。
ネットラジオで聴いたアバド最後のコンサートでのシューベルト「未完成」、ブルックナーSym9は正に白鳥の歌でした。
あのような演奏を日本で聴くことがかなっていたならと本当に残念に思います。

投稿: Macky | 2014年3月13日 (木) 08時37分

Mackyさん、こんにちは。

ルツェルンのあのときの来演は、ポリーニとのブラームスが思ったほど覇気がなく、でも、ブルックナーは、よかったのですが、マーラーの強烈なまでの素晴らしさ、眩しさはありませんでした。
もしかしたら、どこかですれ違っていたかもしれませんね。

>力んでいないのに演奏に充分な力感があり、何よりも現実を超越したところに音楽の世界があるような稀有な演奏でした。<

あのときの演奏、そのものを語るのに、まさに相応しいお言葉と痛感します。

アバドの病後は、ともかく、そのような境地の演奏ばかりですね。
昨年の来日中止。
その頃からまた病魔が蝕んでいたのでしょうね。
最後のルツェルンの、音源化・映像化を是非にもお願いしたいと思います。
ありがとうございました。

投稿: yokochan | 2014年3月13日 (木) 22時24分

 この時の来日公演は日程の関係でブラームスとブルックナーの19日に行くことができました。ポリーニのピアノは昔のアバド、ウイーンフィルの録音ほどの凝集力は感じませんでしたが、どの楽器も美しく歌って、ポリーニの終演後のうれしそうな表情が記憶に残ります。ブルックナーの4番もおおらかな、でも自然な感じで、これがアバドのブルックナーなのだと感じながら聞いておりました。終演後のブラボーはすごかったです。少しはにかみながら、観客にこたえるアバドの姿が今も心に残ります。まさか、これが最後の来日になるとは思わず、今、思い返せば、幸福な一夜でした。

投稿: 新潟のbeaver | 2014年3月15日 (土) 17時05分

新潟のbeaver さん、こんにちは。
わたくしも、同じ日のコンサートでしたが、ポリーニが最初は調子が悪そうで、冴えない前半でした。
後半、ブルネロのチェロから、全体にコクがみなぎり、素晴らしい演奏に変貌したことをよく覚えてます。
蒸留水のような、後半のブルックナーの美しさ。
この日もすごいコンサートでした。
最後の、日本におけるアバドの姿を、こうして、しっかり刻みとめておきたいものですね。
ありがとうございます。

投稿: yokochan | 2014年3月16日 (日) 21時43分

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