プッチーニ 「わたしのお父さん」 ネトレプコ&アバド
雨にぬれた、椿の花。
先週のことですが、まだ頑張って、咲いてました。
この花が、ぼとん、と落ちてしまうのも、儚いですな。
「椿姫」を思うのは、オペラ好き、クラシック好きなわけですが、何度も書きますが、そもそも、「椿姫」なんて名前は日本だけ。
そうした方が、通名のようになっているから、いいのだけれども。
原題の「ラ・トラヴィアータ」という意味は、「道を踏み外した女」ということで、まさに、イタイ女、ということになって、日本語にすると、ちょっと議論を呼んでしまうことになる訳で、わたくしは、「椿姫」でなく、その意も不明にさせる語感の良さがある、「トラヴィアータ」と呼ぶようにしてますよ。
イタイ女性が、純なる愛に目覚め、幸福をつかむけれど、しかし、愛するがゆえに、自ら身を引いて、やがて病魔に倒れる・・・・。
そんな儚く、けなげな女性の物語なのだから、「椿姫」でよかったのかもしれないのに、原題が痛々しすぎる・・・。
プッチーニ 「ジャンニ・スキッキ」~わたしのお父さん
ラウレッタ:アンナ・ネトレプコ
クラウディオ・アバド指揮 マーラー・チェンバー・オーケストラ
(2004.2・3 @フェラーラ)
こちらは、イタイ女性じゃなくて、恋人も大好き、お父さんも大好きの可愛い娘。
トラヴィアータのヴィオレッタは、もっと大人で、気配りも豊か、超おバカな義父の説得を配慮して自らが、埃をかぶった。
ジャンニ・スキッキのひとり娘、ラウレッタは、もっと娘々していて、思いきり、お父さんに甘えて、甘えまくって、恋人を公認させてしまう。
もう恋人世代じゃ、とっくになくなったワタクシは、どっちの父親にもなりうる存在であり、立場となりました。
父親は、トラヴィアータのジェルモンにも、ジャンニ・スキッキにも、なりうる、そんな単純な存在なんです。
母親の、絶対性には、父は常になれないものなのですな・・・。
前置き長すぎの、本日のこの愛らしいプッチーニのアリアは、ほんの3分くらいの曲ですが、シンプルでかつ、この短いなかに、思いきり娘の思いが詰まっていて、いつでも泣かせてくれます。
そして、本日のこの演奏は、クラウディオ・アバドが正規に残した、唯一のプッチーニなのです。
パヴァロッティと「トスカ」の一節をライブで演奏した記録がありますし、わたくしもその音源は持ってますが、DGのちゃんとした録音はこれが唯一かもです。(たぶん)
ネトレプコの声は、ちょっとおネイサン入りすぎで、カワユサや、蠱惑感は薄目。
でも生真面目ななかの一図さが、とてもよろしくて、アバドのかっちりした指揮にも合ってます。
アバドが、ヴェルディはさかんに指揮したけれど、プッチーニだけは、指揮しようとしなかった。
インタビュー記事で読んだことがあるエピソードですが、「マノン・レスコー」を指揮する寸前にまでなったことがあると。
その時は、同時に「ペレアスとメリザンド」が、舞いこんできて、そちらを優先させたとのこと。
ヴェルディは、きっと、イタリア人として血のたぎるところがあったけれど、プッチーニには、マーラーに共感はできても、コスモポリタンとしての、イタリアの魂に火を着けてくれる存在ではなかったのでありましょう。
いいんです、マエストロ・クラウディオ。
ワタクシが、その分、プッチーニが大好きで、そのすべてを聴き倒してますから。
この、「私のお父さん」だけでも、残してくれたことに、感謝です。
娘が、数年のうちに結婚することがあれば、わたくしは、自ら、この演奏を流したいと思います。
きっと、泣いちゃうんだろな。
過去記事
「アンナ・ネトレプコ アリア集 アバド指揮」
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コメント
購読のS新聞のアバド訃報の記事に於いて、『プッチーニを軽視している訳では、ありません。ただ、私はより革新的な物に惹かれるのです。』との、マエストロのコメントが紹介されてましたね。ヴェルディに精力的に取り組まれていたのは、イタリア人としては至極当然でしょう。ドイツの指揮者にとっての、ベートーヴェンのようなものでしょうか。
投稿: 覆面吾郎 | 2019年5月28日 (火) 09時51分
ムーティもプッチーニは、あまり積極的ではないのですが、マーラーを得意にしたアバドがプッチーニをほとんど手掛けなかったのは、ファンからするとちょっと残念。
文中で、マノン・レスコーをやりかけた、と書きましたが、アバドなら、三部作あたりを見事に振り分けてくれたと思います。
投稿: yokochan | 2019年5月30日 (木) 08時12分