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2014年6月

2014年6月29日 (日)

東京都交響楽団 作曲家の肖像シリーズ フルシャ指揮

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暑い日曜日、お日様も輝き、日差しも夏。

でも、ところどころに厚い雲も。

池袋の、東京芸術劇場です。

金曜の神奈フィルの、素晴らしすぎたマーラーが、いまだに脳裏に渦巻いているなか、その余韻にまだまだ浸っていたかったのに、どうしても外せない音楽会がここに控えておりました。

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   スーク   組曲「おとぎ話」 op.16

          交響詩「夏の物語」 op.29
.

          ヤクブ・フルシャ 指揮 東京都交響楽団

                    (2014.6.29 @東京芸術劇場)


チェコの作曲家、ヨセフ・スーク(1874~1935)。

同名の著名な名ヴァイオリニストの祖父であるとともに、ドヴォルザークの弟子であり、その娘婿でもあります。

この生没年を見ての通り、世紀末をまたがって活躍した作曲家で、マーラーやR・シュトラウス、同じ年に生まれたシェーンベルク、さらに独墺以外では、プッチーニ、ディーリアス、RVW,バックス、バントック・・・・多土済々。

それら同時代作曲家たちとの、音における共通項も多数あり、さらに、その生涯で、大きく変化させいて、同時代の響きは、その後半のもの。
 義父ドヴォルザークの死が、一番の要因となって、音楽のありようが変貌した。

祖国の大家であり、民族系音楽の教祖のような存在の娘婿としては、その伝統の継承者としての重荷もあったに違いありません。
 事実、初期の作品は、まんま、娘と結婚前の師の音楽そのもので、結婚の重圧すら、そこに慮ることもできます。
メロディアスなそれらの曲もまた、スークの音楽の一面で、とても素敵なものです。

しかし、作風変転後のスークの音楽は、まさに後期ロマン派・世紀末ばりばりです。

わたくしの大好きな領域。

さきにあげた作曲家たちと、相通じる音楽世界を、ボヘミアの民族臭をそこに漂わせながら、全開にしてくれるんです。

数年前より、後半のスークの音楽を中心に聴き続けてきまして、そして、フルシャ&都響のスーク・コンサートとあいなった次第です。

作曲家の肖像シリーズとしてのスークは、これで2回目。
ドヴォルザークの死についで、妻でありその娘のオティリエの死を受けての作品「アスラエル」交響曲は聴き逃してしまいました。

「夏の物語」は、K・ペトレンコの指揮で、何度も聴いて、すっかりお気に入りの曲になっていましたし、「おとぎ話」は、ぺシェクの指揮によるCDを記事にしかけていたところでありました。

わたしには、こんな前段をかけて語るくらいに美味しい演目でも、おそらくみなさま、初聴きのスークの無名曲ふたつのコンサートですから、ホールは閑散、眠り落ち続出かと思ってました。

ところが違いました。

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7割以上席は埋まり、ごく一部をのぞいては、みなさん、一生懸命に、そして楽しそうに聴いてらっしゃる。
この日、都内では多くのコンサートが同時進行するなか、東京という巨大な音楽マーケットの真の層の厚さと、都響の人気、スークの音楽の持つ魅力への認知などを、まざまざと認識することとなりました。

 「おとぎ話」は、30分の4つの場面からなる、劇音楽から選ばれた組曲です。
ロメオとジュリエットのような、敵対勢力の家に生まれた若い二人の悲恋と、最後に結ばれる奇跡を描いた、ロマンティックな音楽。
 独奏ヴァイオリンも活躍し、とても聴きやすい曲です。
フル編成のオーケスオトラは、ここからもう全開で、勢ぞろいの打楽器もごんごん鳴ります。
 愛らしいヴァイオリンソロは、ときに語り部のようで、曲の要所で素敵な効果をあげてます。
 四方さんの、艶やかなソロはまったく素晴らしくて、フルシャの実に的確な、曲を完全掌握した指揮ぶりも、オーケストラから、まだ残るボヘミア民族臭と、世紀末ムードを見事にひきだしていたと思います。

 休憩時に、一昨日、神奈川フィルでマーラーを聴いた方と遭遇し、かなフィル話に花が咲きました!
これだから、コンサートは楽しいですねぇ。

大曲「夏の物語」は5つの場面からなる、シンフォニックな作品で、「おとぎ話」との関連性もあり、また、さらに、世紀末ムードに拍車がかかり、わたくしには、英国作曲家バックスやバントックの荒涼としつつも、ケルト臭満載のシャープな音楽に相通じるものを感じさせる作品です。

マーラーは、この同郷の作曲家のことをずっと気にかけていたようで、「夏の物語」を指揮したかったという手紙も残されていて、その思いも果たせずに亡くなってしまうんです。

5つの楽章からなる50分近い大作。
 
 Ⅰ.「生への呼び声」
 Ⅱ.「真昼」
 Ⅲ.「インテルメッツォ~盲目の音楽家たち」
 Ⅳ.「幻想の力」
 Ⅴ.「夜」


いずれも、幻想味抜群で、目を閉じれば、荒涼たる夏の野原や、涼しげな水辺、緑の牧草地、寂しい湖、荒れた草地・・・・などなど、ヨーロッパ中部の景色を思い描くことができます。

わたくしの好きなのは、第4部の「幻想の力」でして、ここで吹き荒れる嵐のような酩酊感は、まさに混とんとしつつ、甘味な世紀末を思わせます。

そして、今回、ほんとにじっくり、しみじみと聴くことができたのは、3部です。

ハープの調べにのって、2本のイングリッシュホルンが、楚々と、諦念と哀感に満ちた調べを奏でます。
そのあとも、独奏ヴァイオリンとヴィオラのソロが、素敵な合いの手をいれます。
この第3部が、もしかしたら、この日の白眉ではなかったでしょうか。
ほんとに、素晴らしい音楽であり、無垢なる演奏でありました。

この大作を、弛緩なく、的確な指揮ぶりで、見事にまとめ上げたフルシャの指揮ぶりには、自国ものと言う以上に、端倪すべからざる力を感じました。
指揮棒の先から、音符が、音が振りまかれるような、そんな感覚。

大きな拍手に、応えて、最後は、スークのスコアを大切そうに抱えて、われわれ聴衆に、高く掲げてみせました。
そして、自分の胸にも手をあててみせました。
 愛するお国ものの音楽への最大の敬意。
なんか、うらやましくもあり、純真な指揮者に感動も覚えたりもした、そんな日曜の芸劇でした。

神奈フィルでも、いつか、こんな演目でもって、ホールを満杯にしていただきたいな。

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演奏会が終了してみると、外は、ものすごい雷雨でした。

夏の天気は、極端です、全然、ロマンティックじゃないです。
とりわけ、昨今は。

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2014年6月28日 (土)

神奈川フィルハーモニー第300回定期演奏会 川瀬賢太郎指揮

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6時38分で、まだこの明るさ。

あと22分で開演、急げ!

そう、この梅雨空を吹き飛ばすような、あっぱれ、爽快なマーラーを、この日、堪能することとなりました!

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神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第300回定期演奏会

   マーラー  交響曲第2番 ハ短調 「復活」

       S:秦 茂子    A:藤井 美雪

    川瀬 賢太郎指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                神奈フィル合唱団

                (2014.6.27@みなとみらいホール)


記念すべき300回定期演奏会。

その第1回は、1970年にさかのぼります。
ペルゴレージのスターバト・マーテルとモーツァルト40番でした。

そして44年後の300回は、4月より、公益法人制度改革にともなう移行処置の厳しいハードルをクリアしての新スタートと、新たな指揮者体制のもとでの、まさに「復活」という曲が相応しい演目となりました。

満員御礼の客席に、100人超の合唱と同様のオーケストラで、ステージもぎっしり。

見た目のビジュアルも充実極まりないです。

若武者のように颯爽と登場の川瀬さん。

ビシッと渾身の一振りで、弦の緊迫のトレモロ、そして、激しい低弦の出現!
少しばかりモヤっとしたけど、すぐさまにピシリと立ち直り、音は次々、バイバシと決まる。

マーラーの音楽は、スコアに回りくどいくらいに、指揮者や奏者への指示は書かれてます。
ちなみに、冒頭の部分は、「指揮者への注意:主題の第1小節目、低音弦の音型はおよそ、♩=144の速さで激しく突進するようにすばやく奏する。しかし、休符は♩=84-92のテンポで。4小節めの小休止は短くーーいわば新しい力へと身構えるための小休止のように。」

な~んて、書かれてます。テンポの表示以外は、なんのこっちゃ的な指示であります。

マーラーの演奏には、スタンダートはないと思います。

ですから、こんなややこしい、きめ細かい指示をそのままにスコアどおりに演奏するにしても、その指示をどう読み取るかの感性次第でも、無限大の解釈の可能性があります。

この日の、川瀬&神奈川フィルのマーラーは、そんなめんどくさいことは抜きにして、きっと指揮者が素直に感じたまま、そしてそれをオケがしっかりと受け止めて、そのまま音にした、そんな感じの演奏でした。
 4月のブラームスでは、あまりの名曲ゆえ何かの足跡を残さねばという思いが、わたくしには、ちょっとあざとく感じたものですが、今月のマーラーには、そうしたものは微塵も感じることなく、曲のよさと、神奈川フィルが本来持っている美音とを、しっかりと受け止めることができました。

1楽章の随所に感じた、新鮮な発見。
ヴィオラを中心に内声部を巧みに浮かびあがらせたり、カタストロフの不気味さも腰を据えたように重いテンポでもって際立たせてみたり。
そして、いつも注目して聴く、低弦がうごめくように這い上がってきて、そこにイングリッシュホルンが乗るところ、ここの場面の緻密さはCDで聴くアバドの演奏のようで、ほんとうに耳がそば立ちました。

そして歳とともに、しみじみと聴けるようになった、2楽章と3楽章。
デリケートに親しみを込めて演奏された2楽章は、とてもチャーミングで、弦のみなさんが、楽器を抱えてのピチカートに、ピッコロとフルート。
可愛い。
川瀬さんの指揮も、腰も振って表情豊かで、そっくりそのまま音楽にそれが反映されてます。独唱のお二人も、それをにこやかに見守る。

バシっと決まったティンパニの入り、ムチも入って、流動感豊かな3楽章も楽しい聴きもの。
ほのぼのトランペットも夢ごこちの音色で、素晴らしい。
そして、この楽章後半にあらわれる不吉の予感。そこへの展開と対比も鮮やか。

休みなく続く4楽章「原光」。

「O Röschen roth !」と、アルトの藤井さんの深~い声から始まる。

このあたりから、涙が出始める。
 実は、前日、ネットで、クラウディオ・アバド追悼コンサートを見て、マイアーがこの曲を感情を込めて歌うのを聴いてました。
 そのときの思いがよみがえり、思わずぐぐっと来てしまった。

「おお、くれないの小さきバラよ! 人間は大きな苦難にとざされている。
 むしろわたしは天国にいたい。
わたしは、一本の広い道にたどりついた。
するとひとりの天使が来て、私を先へ進ませまいとした。
 いいえ、私はそうはさせまいとした。
神様のもとから来て、また神様のもとへ戻るのです。
神様はきっと一筋の光を私にくださって、永遠の至福の命にまで、
わたしを照らしてくださるに違いない。」

この詩の言葉が、そのままに身に、心に沁み込むような静謐な演奏でした。
安定の石田ヴァイオリンソロも美しい。
泣けました。

そして大爆発の終楽章。
もう息する間も与えてくれず、わたくしは、それこそ前のめり、斜め前傾姿勢のようにして、聴き惚れ、聴きつくしました。
次々と現れる変転する聴きどころは、もう聴きつくした曲ゆえに、ここはこうして欲し~い、的な思いがそれぞれにあるのですが、それらを、まさに、こちらの思いどおりに、しっかり踏んでいただき、溜飲下がりっぱなし。
素直に、マーラーの音楽の持つカッコよさをも体感。
気持ちいいのだ。

この呼吸感のよさ。

オーケストラもきっと演奏しやすいのではないでしょうか、この指揮は。
 川瀬さん、持ってる!
そんな思いをひしひしと感じながらの終楽章。
最初は席に着いたまま、静かに歌い始めるクロプシュトックの讃歌。
そして加わるソプラノ。
秦さんの透き通るような高音が、すーーっと突き抜けるように耳に届く。
鳥肌がたつほどに感動しましたよ。
 帰りに出口のところで、出ていらした秦さんに、そのことをお話ししました。
気さくで素敵な方でしたよ。

そして怒涛のクライマックス。
わたくしはもう感動のあまり、唇がわなわなとしてしまいました。
そして滲むしょっぱい涙。

地に足のついた、確実なエンディングを築き上げた川瀬さんの指揮ぶり。

一緒に育っていく指揮者と、若い奏者も増えたオーケストラ。
われわれ聴衆も、そんな新鮮な組合わせに、これからも、新しい力をいただくことができそうです。
そんな誇らしい思いで、一生懸命に拍手しました。
 そして、いつも演奏会終了後、指揮者・奏者全員・楽団事務局・幹部のみなさんが全員で、われわれ聴衆をお見送りしてくれるのも、ふれあいを大切にするこのオーケストラならでは。
全員、おひとりひとりに、こちらもありがとうと、激励を差し上げたくなりました。

神奈川フィルを応援してきて、うれしい思いで一杯でした。

そして、コンサートのあとは、お約束のWe Love 神奈川フィルの懇親お食事会(一杯会)。

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素晴らしい演奏会のあとは、言葉もはずみ、飲み物も軽やかなまでに喉をうるおしてくれます。

今回は、ヴァイオリンの平井さんにもご参加いただき、ほんとうに楽しい会でした。
お疲れのところ、ありがとうございました。

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桜木町の駅では、高架下がショッピングモールとなって生まれ変わるそうです。
さらに、新しい改札も出来上がります。

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夜も更けたMM地区。

元気な気分で、この街をあとにすることができました。

最後に、マーラーさんにも、ありがとう。

自分的にも、ちょうど復活と、あらたなスタートの予感もありでしたので。

ちなみに、この演奏会はライブ録音されましてCD化とあいなるそうです。

全国の方々に神奈川フィルの素晴らしさを聴いていただきたいです

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2014年6月26日 (木)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド指揮

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6月26日は、わが敬愛するクラウディオ・アバド81歳の誕生日です。

毎年、この日は、このような出だしで、アバドの音楽を聴いて、その誕生日を祝ってまいりました。

今年も、同じように祝い、そして、偲びたいと思います。

人は、この現世から姿を消しても、それぞれに残された人の心にしっかりと、その姿や声すら伴って親しく生きてゆくものです。
そんな感覚は、肉親を失ってみて強く実感するものでした。

わたくしの場合は、亡父がそうでした。
普段は離れていたし、男同士だから、酒を飲んでもあんまり話し合うということもなかったけれど、あまりに突然いなくなってしまい、その喪失感は半端ない大きなものでした。
しかし、父の話を、いろんな方から聞くにつれ、また、父の好きだった本や庭などを観るにつけ、存命中は知らなかった姿が垣間見られるようになり、父の知らない姿を求めて、人に会ったりもしたものです。
 いまでも、ずっと近くにいて、夢のなかでも会える、そんな父なんです。

兄のように慕っていたアバドにも、亡くなって5ヶ月、思えばそんな感覚をいまや持ってます。
そうした意味では、ビジュアルで残された多くのアバドの遺産は、音源しか残されていない時代の巨匠たちからすると、ずっと近くに思いをつなぎ留めることのできる縁となりますし、その実演にかなり接することができたことも、強い思い出となって五体に刻み込まれているわけなんです。

いまも、わたしのなかで生きているクラウディオ・アバドです。

そんなアバドが、もっとも得意とし、愛した作曲家のひとりが、グフスタフ・マーラーです。
若き日々から、晩年まで、ずっと演奏し続けてきたマーラー。

そして、奇遇にも、明日、神奈川フィルハーモニーは、第300回目の定期演奏会を迎え、その記念すべきプログラムは、マーラーの「復活」なのです。

  神奈川フィルハーモニー管弦楽団 第300回定期演奏会

   マーラー  交響曲第2番 ハ短調 「復活」

       S:秦 茂子    A:藤井 美雪

    川瀬 賢太郎指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
                神奈フィル合唱団

                2014年6月27日 (金) みなとみらいホール


1970年の第1回から、300回の記念に相応しい選曲です。
新公益法人への移行も実現し、新常任とベテラン・世界気鋭の指揮者体制を占うチャレンジ曲でもあります。
聴く前から、感動に震える自分が見える、そんな予感です。

すっかりおなじみの「復活」を、アバドの誕生日に、2日間かけて、アバドのその録音すべてを、とっかえひっかえ聴きます。

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       S:キャロル・ネブレット   A:マリリン・ホーン

  クラウディオ・アバド指揮 シカゴ交響楽団
                  シカゴ交響合唱団

                  (1976.2 @シカゴ、メディナテンプル)

大学時代に学校の生協ですぐさま購入し、夢中で聴きまくった名盤で、アバドの初マーラー。
自分にとって、アバドのマーラーのなかで、一番思い入れのある1枚。
もう37年の月日が経ってしまったけれど、シカゴのシャープな響きと、スリムでしなやかなアバドの感性とが見事に合致した完璧な「復活」だと思います。

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      S:チェリル・ステューダー  Ms:ヴァルトラウト・マイアー

  クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                  ウィーン国立歌劇場合唱団
        
           (1992.11@ウィーン・ムジークフェライン、ライブ)

1986~91年までの、アバドのウィーン国立歌劇場音楽監督としての任期。
1971年からは、ウィーンフィルのパーマネントコンダクターとして、ウィーンフィルとはずっと長らく切ってもきれない関係を保ち続けましたが、ベルリンフィルへ就任し、このマーラーのライブのあとあたりから、どうも関係がぎくしゃくし始めてしまいました。

シカゴ盤から16年。
音楽の隅々に、たっぷりとした貫禄も備わり、表現の幅が大きくなった。
そこにウィーンフィルならではの、丸みのある音色と、ムジークフェラインのまろやかな響きが加わって、シカゴに聴かれるエッジの効いた鋭さが後退したような感じです。

この演奏は、ライブならではの、最後に向かってじわじわと盛り上がってゆく様子が、とても感動的で、ラストの合唱を交えた音楽の高まりは、作為性がまったくなく、自然に築かれた頂点として受けとめることができます。
オペラを知りつくした指揮者とオケ、合唱、独唱者たちです。
2楽章と3楽章も、オケの魅力も感じるしみじみ演奏であります。

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    S:エィエリ・クヴァザヴァ  Ms:アンナ・ラーソン

 クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団
                 オルフェオン・ドノスティアルラ合唱団

                    (2003.8@ルツェルン)


こちらは、さらに9年。シカゴからは、25年の四半世紀が経過。

アバドは、病を経て、それを克服して、ベルリン卒業後のあらたな活動として、ルツェルンに若者とヨーロッパのお気に入りの仲間たちを呼んでスーパーオーケストラを創設しました。

そのスタートも呼ぶべき第1年目のコンサートのライブ。
映像でも出てます。
映像では、まるわかりだけど、尋常じゃない、オーケストラの乗りっぷりと、まんまんのやる気が、音からでもしっかり伝わってくる。

アバドの音楽は、年月を逆行して、前のウィーンよりも若返ってしまったくらいに、ハリと艶、そして明るさに満ちています。
この特徴は、ルツェルン時代に通じてのもので、アバドの行きついた、そして同時に極めつつあった高みで、音楽をすることの喜び、それを演奏を通じて聴き手に届けたいという想いの昇華にほかありません。
 指揮をするアバドの顔には、微笑みがあり、オーケストラは、そんなアバドのことが好きでしょうがなくて、尊敬と親しみの顔で見上げながら、自主的なアンサンブルをお互いに聴きあいながら楽しんでいる、という図にございます。

このコラボレーションは、昨年まで10年間続きました。

もう、あとはナシでもいいような想いがしてます。

このルツェルンの「復活」を聴くと、葬送という暗から、最後の審判を経ての復活の讃歌の明、という図式は、あまり思うことなく、深刻さよりは、音楽すること、そのものの行為の喜びにあふれたシンプルな演奏に思います。
そして、音楽の密度と精度が極めて高いところが練達の由縁です。

どの「復活」にも、アバドのマーラーの刻印がしっかり押されてます。

ありがとうクラウディオ、これからもずっと、ともにあり、聴いてまいります。
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2014年6月24日 (火)

松本室内管弦楽団 第49回定期演奏会 山本裕康指揮

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緑の中の、音楽ホール。

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島内駅を降りて数分の松本市音楽文化ホールは、今回、2年前に続いて2度目でしたが、またも、最初は、あいにくの空模様。

・・・でしたが、駅へ着くと、雨はあがり、濡れた新緑がとてもきれい。

以前は、震災補修とのことで、小ホールでの演奏会でしたが、今回は、メインホールで、それはまた、響きの素晴らしい驚きのホールなのでした。

Matsumoto_harmonyhall

席数約700のほどよい規模。
高い天井に、音はとてもきれいに溶け合って、客席に降りてくるイメージでした。

こんなホールでバッハが聴いてみたいと、聴く前からつくづく思ったりもしました。

松本室内合奏団は、1989年発足で、月2回の定期のほか、市民オペラでピットに入ったりと、地元に密着した活動を行っている団体です。

2年前の演奏会でも、活力に満ちたやる気あふれる演奏に、驚きと興奮を覚えたものです。

そして、今回も、ホールがこちらの正ホールとなったこともあり、音色の美しい、柔軟なオーケストラという印象も、それに加えて持ちました。

それも、弓を指揮棒に変えて、指揮台に立った山本裕康さんのタクトによるところも大なのではないかと思いました。
 というのも、いつもお馴染みの山本さんの奏でるチェロ、その誠実で柔和な音色、それを思わせるオーケストラの響きだったのですから。

Matsumoto_chamber_2

     モーツァルト    交響曲第29番 イ長調

    ブリテン       シンプル・シンフォニー

    メンデルスゾーン 交響曲第4番 イ長調 「イタリア」

       山本 裕康 指揮 松本室内合奏団

             (2014.6.22 ザ・ハーモニー・ホール 松本)


ブリテンの若書きを、明るい古典とロマンのふたつのイ長調で挟み込んだ秀逸なプログラム。
モーツァルト1774年、メンデルスゾーン1833年、ブリテン1934年。
メンデルスゾーンからブリテンの作品まで、160年。
時代を考えると保守的な作風だったブリテンですが、3つの作品の時代の流れを頭に置きながら聴くのも一興でした。

冒頭のほのぼのとしたモーツァルト。
この曲って、清々しくて、湧き立つような喜びも感じさせる音楽で、「モーツァルトのイ長調」ということで、好きではあるけど、自分的に、実はあんまり聴くことが少ない。
むしろ、常にセットになってる25番の方をよく聴きます。

そんな気持ちで聴き始めましたが、1楽章の前半は、指揮者も奏者もみんな緊張ぎみで、音がしっくり定まらない感じで、聴くわたくしも、耳の具合も落ち着きません。
ホールの響きに音が埋没してしまう感じで、自分の耳にも修正が必要だとも思いつつ、たおやかな2楽章へ。
ところが、ここへきて、旅の疲れか、おいしかったお昼のお蕎麦の影響か、意識がゆる~く遠のく感じ。
そんな気持ちに陥ってしまうほどに、モーツァルトの音楽は耳にも脳みそにも優しく、体も包みこまれてしまうのだ。
 このリラックス効果に、あやうく全落ちしそうになりそうなところでしたが、3楽章できりっと元通りに回復。
唯一の木管、オーボエとホルンの活躍も可愛い3楽章で目覚め、若い駿馬のような4楽章で、ようやく自分のエンジンが全開。
 こんな風に聴いてしまい、申しわけありません。
最初の部分こそ、乱れを感じさせ、慎重すぎるきらいはございましたが、美しく整ったモーツァルトを聴かせていただきました。
 充実様式へと舵を切り始めるモーツァルトのこの曲、まだ多少のギャラントな様相もあり、あとの作品ほどの深みも薄く、シンプルゆえに、難しい音楽ですね。
そういう意味で、この日、サラッと演奏したのは正解だったかも。

次は、ブリテン。

この曲から、演奏も、聴衆も、乗りはじめ、一気にブリテンならではのカッコいいサウンドに引き込まれることになりました。
 大好きなブリテンの音楽は、つねにシリアスであることが多く、ときに社会への憤りや、弱者への優しい目線であったりするのですが、初期作の「シンプル・シンフォニー」にも、そうした萌芽は垣間見ることもできます。
 そんな風に思ったのがこの日の演奏。
わたくし的には、この日のこの演奏は、完璧な出来栄えではなかったかと思います。
シニカルないたずら心すら感じる、洒落た楽章配置と、楽章への命名については、楽員さんが書かれた、コンサートの曲目解説を読むことで、楽しく共感できました。
 そして、「感傷的なサラバンド」と題された、第3楽章には、思わずホロリとしてしまいました。
従来の、格式高くノーブルな英国音楽へのオマージュともいえるような、伝統への回帰と、そこからの旅立ちのように聴きました。
 この合奏団の弦の美しさに、同時に感銘をうけました。
そして、弦を豊かに、そして優しく歌わせることにかけては、さすがは、山本さんでした。
シュナイト&神奈川フィルでも、この曲は聴いたのですが、あのときの大演奏に比べると、もっとスリムで、華奢なイメージですが、ともかく美しかった。

 中庭の緑を見て、休憩後は、とかく流麗・明朗快活のイメージがあるメンデルスゾーン。

山本さんの、紡ぎ出した第1楽章の出だしは、快速メンデルスゾーンでした。
いやはや、驚きました。
一瞬たりと乱れず着いてゆくオケも見事でした。
のほほんと、いつものメンデルスゾーンを聴いてやろうと思ってたら、いきなりガツンとやられました。
シートから背中を離して、斜め前傾姿勢で聴くべきと思い、息もつかせず、1楽章を聴き終えました。
 次ぐ2楽章は、休みを取らずにアタッカですぐさま、あの哀感に満ちた2楽章へ突入。
これもまた、新鮮な驚き。
明るいイ長調の1楽章から、憂愁ニ短調の2楽章へ。
この鮮やかな対比。
メンデルスゾーンの多面性を、あらためて思わせる秀逸な解釈ではなかったかと思います。
明るくて、晴れやかなばかりでない、「イタリア交響曲」へ斬新に切り込む、指揮者とオーケストラに拍手を送りたいです。

3楽章へは、通常のおやすみをとり、思い切り気持ちよく3拍子を堪能させてもらったあと、短めの入りで、すぐさま終楽章。
大胆なテンポや解釈は取らなかったものの、オケの自発性を引出しつつ、そこにゆだねたような、ナチュラルな盛り上がりが、音楽そのものの勢いと相まって、見事なクライマックスを造り上げました。
 ここでも、3楽章は、例のイ長調。4楽章はタランテラの、切迫感あふれるイ短調。

前半・後半の二局面を、巧みに味わうこととなりました。
メンデルスゾーンも油断ならない作曲家だと認識されたりもしましたこの演奏。

山本さんの新鮮な指揮と、やる気とフレキシビリティあふれる松本室内合奏団の、素晴らしい演奏会でした!

Matsumoto_castel

コンサート終了後は、晴れ間も広がり、名城松本城へ。

どうでしょう、この清々しい佇まい。

訪れた一同、みんな、声をあげちゃいました。

そのあとは、地のものを肴に、居酒屋さんへ。

これもまた、この楽旅のおおいなる楽しみのひとつなり。

Kuranomukou_1 Kuranomukou_4

 まずは、ビールで乾杯、それと蕎麦を揚げたものに、クリーミーなチーズソースをかけて。

Kuranomukou_2 Kuranomukou_3

 信州サーモンのお刺身、と馬刺しですが、部位はたてがみ。これまたまったりとウマい。

お酒は、南信に単身赴任中のメンバーの推薦で、「夜明け前」。

これがまた、やばいヤツでして、とんでもなく美味かった。

Kuranomukou_5a

こんな分厚い「馬カツ」は初めて。

あっさりと、ジューシーに揚がってますよ、絶品なり。

今回も、音楽も酒食も、収穫の多かった松本でした。

こんどは、大学時代の友人に会う余裕をもってきたいものです。

そして、山本さん、楽団のみなさん、また機会を作ってください。

次回は弾き振りなんて、いかがでしょうか。

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一息入れたいところを、お邪魔しちゃいました。

どうもお疲れ様でした。

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2014年6月20日 (金)

ビゼー ピアノ作品集 金田仁美

Rose

とりどりのバラの花。

お花屋さんで、パチリ。

バラの花には、色によって、きめ細かく花ことばが据えられていて、へたに贈ると、えらい目に会うかもですよ。

ちなみに、この花束の色をそれぞれ調べてみたら・・・。

 赤  :情熱

 黒赤:永遠の愛

 ピンク:美しい少女、気品

 イエロー:友情

 
 薄オレンジ:さわやか


というようなことになりました。

よって、この花束は、彼女や奥さまに差し上げるのがよろしいかと

わたくしには、もう無縁のことにございますがね。

Bizet_hitomi_kanata

      ビゼー  ピアノ作品集

   1.夜想曲 ニ長調

   2.「カルメン」組曲

   3.「海洋画」

   4.演奏会用半音階的変奏曲

   5.3つの音楽的素描

      ~「トルコ風ロンド」「セレナード」「カプリッチョ」~

   6.「アルルの女」第1組曲

   7.「アルルの女」第2組曲

      ピアノ:金田 仁美

            (2014.4.24 @大阪、吹田メイシアター)


3夜続けてのビゼー。

そして、今回は、ビゼーのピアノ曲ですよ。

え?ってお思いの方もたくさんおいででしょう。

ビゼーのことを書いたものを、ちょっと調べれば必ず出てくる逸話に、リストを、そのピアノの超絶技巧と音の確かさで持って驚かせたオハナシ。

音楽教師を父に、ピアニストを母に、そんな家庭に生まれたビゼーは当然のことながら、愛する母と同じく、ピアノを弾き親しんで育ちました。
音楽学校では、ピアノとオルガンと作曲を学び、その作曲の師のひとり、ジャック・アレヴィの娘、ジュヌヴィエーヌを愛するようになり、結婚もすることとなります。

ちなみに、このアレヴィーは、オペラ作曲家でして、「ユダヤの女」のみが有名ですが、「さまよえるユダヤ人」という作品もあって、前から気になっているんです。

そんな師に恵まれたこともあり、さらに至宝のような存在のグノーの教えも受けたこともあって、ビゼーの作曲の主体はオペラ中心となりました。
未完成のものも含めて30作超。
 その合間合間に、残されたピアノ作品は、大作はありませんが、15作超。

それらのうちの4曲と、ビゼー自身の編曲による、「カルメン」と「アルルの女」が収められた1枚を聴きました。
 もちろん、4曲は、初に聴きます。
そして、それらが、とっても素敵な曲だったんです。

Hitomi_kanata


何度も、何度も繰り返し聴いてます。
深刻な要素は、まったくないから、気安く聴けますし、ビゼーのビゼーたる由縁、豊富なメロディに綾どられた旋律たちが、聴く耳にすんなりと、馴染むようにして入ってまいります。

こんなビゼーの世界を、まったく素晴らしく演奏しているのが、金田仁美(かねたひとみ)さんです。

解説書にある、彼女の略歴を。
「大阪生まれ、パリ・エコールノルマル音楽院ディプロム取得、吹田音楽コンクール1位、イル・ド・フランス国際ピアノコンクール第3位、ガブリエル・フォーレ国際ピアノコンクール1位」といった輝かしい経歴をお持ちのほか、名ピアニスト、ブルーノ・リグット氏にも師事されてます。

これで、おわかりのとおり、フランス系の音楽がお得意のようですね。

ビゼーもフランス音楽として捉えることができますが、いわゆるお洒落で、洗練されたおフランスイメージとは違って、もっと旋律的だし、劇的であります。
それは、ピアノ版の「カルメン」と「アルルの女」を聴けば、あたりまえですが、一目(耳)瞭然。

金田さんのピアノは、ビゼーの劇性をしっかりと捉え、曖昧さのない明快な演奏でもって、聴きなれた名曲ふたつを、まったく新鮮な感覚で味わわせてくれます。
 それぞれの管弦楽作品とオペラでもって、2日間、耳に馴染ませてきたビゼーです。
ですから、よけいに、このピアノ版「カルメン」と「アルルの女」は鮮烈でした。

「カルメン」の歌にあふれた間奏曲。
「アルルの女」で、わたくしの大好きなメヌエット(第1)とカリヨンが実にチャーミングでございましたね。
同じく「アルルの女」の間奏曲(第2)は、まさにオペラアリアのような歌心を感じさせる演奏に、わたくしは、これをバックに歌いたくなりましたね。

これらの名曲以上に、楽しめたのが、4曲のピアノ作品でした。

1858年、ビゼー20歳の作品である「3つの素描」。
ビゼーの個性的な味わいは、ここからすでに発揮されてまして、その異なる3つの様相を、金田さん、鮮やかに弾きわけてます。

さきに、記した師の娘、ジュヌヴィエーヌとの恋愛と苦心の結婚の時期にあたったという「夜想曲」。
1868年、30歳のビゼー。
ロマンティックなこの曲、実は一番気にいりました。
いちばん、おフランス系の曲かも。
流れるような曲調に、ビゼーらしい親しみやすいメロディが絡みあいます。
夜、眠る前に、聴いたりする、いわゆるナイトキャップ向きの曲としてキープです。
美しいタッチの仁美さんのピアノで映えます。

同じ年の「海洋画」は、海を行く舟、でもどこか寂しい曲調で、ひっかかるものがあります。
なんだろ、この感覚。
ビゼーは、ようやく結婚して、新生活をスタートさせたものの、その残された人生はあと6年ちょっとだったのですね。
最晩年の「カルメン」の根底に流れる、「宿命」というモティーフは、威勢のよさや、名旋律の影に隠れた、ビゼーの表わしたかったものだと思いますが、なにか、天才ゆえの、複雑な内面を垣間見るような音楽が、このいっけん、麗しい「海洋画」だと思うのですが、いかに。

同年の作品「半音階的変奏曲」は、さらにシリアスで本格的な作品です。
この曲も、完成度は高く、このCDの中で一番の作品に思いますし、かつてグレン・グールドも演奏したそうです。
多種変転しながら進む冒頭の深刻な旋律、そこには常に技巧を尽した奏法がつきまといますが、聴いていてそれが鼻につかないのが、ビゼーの音楽のよさと、キレのよい金田さんのピアノのよさ。
圧倒されるような曲に演奏でした。
コンサートで弾いても、この曲は受けるでしょうね。

ということで、金田仁美さんの、意欲あふれるビゼー作品集。
大いに堪能しました。

そして、このCDは、お馴染み、「EINSATZ RECORDS」企画の記念すべき初セッションレコーディングなのでありました。
もうだいぶになりますが、カウンターを挟んで、お酒を飲みながら、音楽を聴きまくり語りまくったマスターさまのプロデュース作品です。

Einsatz

懐かしい~、この扉の向こうには、いつも酒と音楽がありました。

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2014年6月19日 (木)

ビゼー 「カルメン」 デ・ブルゴス指揮

Red_rose_1

まだ開く前の真っ赤なバラ。

バラの花の、もしかしたら、一番美しい姿かも、と思ってます。

こんなの、妖艶な美女に投げられた日にゃ、おいらもう・・・・。

あ、いえいえ、いまは、男子が、女子に花は捧げるもんですな。

Redrose2

そのバラも、品種にもよりますが、やがて開いて大輪となり、芳香もふりまいて、そして、はらはらと散ってしまいます。

 

あぁ、哀しきバラよ。

 

酒と薔薇の日々は、長くは続かないと申しますし、ディーリアスの声楽作品、ダウソン詩の「日没の歌」にも、そう歌われてます・・・・。

Bizet_carmen_burgos

   ビゼー  歌劇 「カルメン」

  カルメン :グレース・バンブリー    
  ドン・ホセ:ジョン・ヴィッカース
  ミカエラ  :ミレルラ・フレーニ     
  エスカミーリョ:コースタス・パスカリス
  フラスキータ:エリアーネ・ルブリン  
  メルセデス:ヴィオリカ・コルテス
  ダンカイロ:ミシェル・トレフォン     
  レメンダード:アルベルト・フォリ
  モラーレス:クラウデ・モメーニ     
  ツニガ:ベルナルト・ゴンチャレンコ

ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮 パリ・オペラ座管弦楽団
                      パリ・オペラ座合唱団
                       木の十字架少年合唱団

                                         (1969、70@サル・ワグラム、パリ)


今日もビゼー、そして「カルメン」。

誰もが知ってる、泣く子も黙る「カルメン」。

万人の知る「カルメン」のイメージは、爆発的な南国前奏曲に、かっちょええ「闘牛士の歌」、妖艶な「ハバネラ」。
これらに絞られるのではと、思います。

確かに、これらは、スペインと奔放な女性という、このオペラの持つ大きな要素をあらわすものなのです。

 

そして、同じように、このオペラの重要なモティーフは、前奏曲の後半の暗い運命をあらわす宿命動機。
それから、カルメンの正反対の女性、清純なミカエラの愛らしいアリアと、その存在。
そして、なにより、「花の歌」。
 ドン・ホセが、カルメンの強烈な目線に人生初めて会って、別な世界に目覚めてしまった。
その想いが、彼女が投げた一輪の花に集約されていて、ボクちゃんは、すべてを投げ打って、カルメンに夢中になっちゃった。
そして多情なカルメンの気持ちをつなごうと、愛を込めて歌うアリアがそれ。

「カルメン」という、あまりにポピュラーなオペラの持つドラマには、まっとうな男が道を踏み外し、故郷の母も恋人も捨て去り、アンダーグランドの住人となり、思いきり愛した女を殺害するまでの、人生踏み外し物語なんです。
ナイフによる殺傷という、ヴェリスモ的な結末を持つ、これまた血なまぐさいもの。

その半面を見ると、女主人公のカルメンの自由すぎる生き様。
単に、移り気な女性として描かれるだけじゃなくて、縛られることから常に離れていたい自由を謳歌するフリーダム人生。
そのためには、ドン・ホセの殺意すら自らを解放する一手段として受け止めたカルメン。
 そんな風に解釈し、演出もできる、そんなビゼーの描いたカルメンではなかったかと思います。

ですから、「アルルの女」のカップリングとしての管弦楽作品組曲では、とうていわからない「カルメン」の世界は、オペラ全曲を聴き観ることで理解できるものと思います。

しかも、かつてのギロー編のレシタティーボ版では、緊張感がなさすぎなので、いまや、コミーク版として、セリフ付きの劇的な上演や録音の方が、このオペラの本質に迫れるものとなってます。
スペインの風物ながら、フランス語なのも、思えば奇妙なのですが、そこは、天才ビゼーの素晴らしい筆。
匂い立つ音楽、旋律の数々、そして、そこに厳然としてある悲劇的な暗さ。
ほんと、完璧なオペラのひとつです。

今宵は、全曲を聴く時間がないので、要所を何度かにわたってツマミ聴き。

2度目のブログとなります音盤で。

先ごろ、癌のため80歳で逝去した、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴスの指揮で。

デ・ブルゴスは、日本でもお馴染みの指揮者でしたが、わたくしは、一度も実演に接するこがなかったです。
読響を聴くことがあまりなかったからですし、ベルリン・ドイツ・オペラやウィーン響との来日でも聴かなかった。
 もったいないことをしましたが、デ・ブルゴスの来日で、一番印象に残ってるのが、フィルハーモニア管との来日のこと。
NHKの招聘だったので、テレビ・FM放送がありました。
万博以来の、名門フィルハーモニアの来日は、78年頃でしたか。
ムーティが指揮者だったころで、デ・ブルゴスの演目は、ディーリアスの「村のロメジュリ」、メンコン、ブラ2。

スペイン一色のイメージの強かったデ・ブルゴスが、実は、ラファエル・フリューベックというドイツ系でもあったということを、そのとき知りました。

ですから、その後の経歴も、スペインとドイツにポストを歴任したわけです。
ワーグナーも、ドイツ的に、しかも明晰に聴かせる名指揮者だったのですね。

このカルメンでは、パリのオペラ座の少し荒っぽいところもラテンの血でもって解放しつつ、スピーディな解釈でもってキリッと仕上げた全体像を造り上げてます。
本場ものとかはいいたくない、スマートな演奏ではないかと思いますね。

歌手はでこぼこありますが、一番しっくりくるのが、バンブリーのカルメンで、肉太・肉欲系の濃いカルメンじゃ、まったくなくって、贅肉少なめ、スポーティなカルメンに思いますがいかに。
同じく、フレーニのミカエラも、ミミ系のカワユサ。
 一方のホセ君のヴィッカースは粘着系、闘牛士は古風系、ということで少しアカンです。

ビゼーも、シューベルトやメンデルスゾーンのように、早世系の天才だったこと、ますます実感できます。

アバドが、ベルガンサととも施した、もっと優しく知的なカルメン像。
わたしには、いちばんの演奏でありますこと、最後に記しておきます。

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2014年6月18日 (水)

ビゼー 「アルルの女」 バレンボイム指揮

Ouji_ajisai

いま、もっとも盛りの紫陽花です。

アジサイには、いろんな品種があって、しかもパステル調の色合いが、梅雨の時期にぴったり。

Ouji_ajisai_2

じめじめのところにも、道端のほこりだらけのところにも、日の当たる乾燥したところにも、紫陽花は、どこでも強いのであります。

いまの季節、雨の中でも、梅雨の中休みの晴れ間でも、楽しませてくれる紫陽花たちなのでした。

Bizet_barenboim

  ビゼー  「アルルの女」組曲 第1番

    前奏曲、メヌエット、アダージェット、カリオン

  ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団

               (1972.10 パリ)


何故か、ビゼーが、そして「アルルの女」が聴きたい気分。

そして、第1組曲しか録音してくれなかったので、ちょっと残尿感も残る(?)音盤で。

ビゼーがドーテの「アルルの女」に劇付随音楽をつけたのが、全部で27曲。

初演はイマイチの評判だったし、全作が録音されることは、いまでも極めて稀ですが、ビゼーが自信を持って、それらのなかからセレクトした4曲が、この第1組曲。

メヌエットやファランドールが入ってる第2組曲は、友人で、「カルメン」をレシタティーボ付きの華やかなスタイルに補筆したギローが、作者の死後に選んだものです。
 しかも、フルートの美しいメヌエットは「美しいパースの娘」からの転用であります。

ですから、ビゼーのオリジナルの意思を反映しているのは、第1組曲のみ、ということになり、ここで、若きバレンボイムが、そうした選択をしているのは、ひとつの見識でもあります。

まだフルオーケストラを指揮しはじめて間もない頃のバレンボイム。
ありあまる才気を、そこに爆発させているかといえば、必ずしもそうではなく、思いのほか慎重で、爽やかですらある半面、低音もずしりと響かせ、旋律線も、場面によってはねばりを見せたり、曲に切り込もうとする意欲がヒシヒシと出ております。
 そんな、多面性が妙に面白かった、若いころのバレンボイム。

せっかくのパリ管を使っておきながら、お洒落でも、おフランスでもなんでもない。

でも、このオケの管の独特の華やかさと、美しさは、充分に感じられますよ。
EMIの録音も、ここでは悪くはないです。

前奏曲のサキソフォーンの歌いぶり、アダージェットの美しい表情。
そして、わたくしの大好きな2曲、メヌエットとカリオン。
夢のような中間部が素敵なメヌエットに、輝かしいカリオン。
そして、全曲にわたって、どこか暗い影も漂わせるのがバレンボイムの指揮。

そもそも「アルルの女」の物語は、極めて血なまぐさくて、南フランスの血の濃さ。
たぎる情熱が、まるで、南イタリアのようで、イタリアオペラにいう、ヴェリスモみたいな現実の痴話物語でもあるんです。
チレーアの同名のオペラで、その筋を紹介してますので、あらすじだけでも読んでみてください。バカらしくなります。 →チレーア「アルルの女」

ですから、きれいきれいに仕上げるばかりでなく、そんな暗さをも引き出すのも、指揮者の解釈のひとつかもです。

「アルルの女」にも、いろんな楽しみ方があるもんです。
定番のクリュイタンス、明るい歌の満載のオペラティックアバド、ピュアな爽やかマリナー。
これらも大好きです。

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ネットで、オリジナルジャケット見つけました。

懐かしいな。

そして、あたりまえだけど、若いな、バレちゃん。

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2014年6月16日 (月)

モーツァルト 「夕べの想い」 シュヴァルツコップ

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ある日の夕焼け。

今年じゃありませんが、いまどきの晴れ間のあった空が焼けて行きました。

何度も何度も、ここに書きますが、わたくしは、夕焼けが大好きなんですよ。

暗くなるまで、ずっと眺めてます。

そして、頭のなかでは、好きな、いろんな音楽が鳴ります。

もしかしたら、これまではあんまり鳴らなかったけれど、今夜の音楽も、きっと、ゆっくり暮れて行く空には、お似合いの曲かもしれない。

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   モーツァルト 「夕べの想い」 K523

       ソプラノ:エリーザベト・シュヴァルツコップ

       ピアノ: ジェフリー・パーソンズ

                   (1970、8)


モーツァルトの歌曲やアリアには、名曲が数々ありますが、その中でも有名なのがこちら。

1787年の作。
よく言われるように、この曲には、死を予感したかのような告別の念を思わせる詩と、透明感にあふれた曲調とで、いっけん平安な雰囲気のなかにも、シリアスなものを感じさせる名品なのです。

カンペの詩によるもので、その詩の原題は「ラウラに寄せる夕べの想い」ということになってます。

シューベルトの歌曲、ないしは多くの作品に、死の影を見出すことは可能ですが、モーツァルトの音楽で、こうして直截に、その想いがあふれているのは、晩年の作を除いて珍しいかもです。
父レオポルドの死が大きく影響したとも言われておりますが、連続して書かれた次のK524の「クローエに」は、ずっと可愛らしい曲なので、よけいに、「夕べの想い」の厳しさが引き立つわけです。

 はや1日が暮れ、太陽は沈んで、月が銀色の光を投げかけてきます。

 人生の最良の時もこんな風に過ぎ去ってゆくのです、
 
 

 ダンスに夢中になっていた間に・・・とでもいったふうに。

 ------(中略)

 あなたもまた、ひとしずくの涙をわたしに贈り

 一本のすみれを摘んで私の墓に手向け

 あなたの心のこもった眼差しで、やさしくわたしを見おろしてください。

 わたしにひとしずくの涙をささげて、ああ、その捧げものを恥ずかしがらないで

 その涙こそは、わたしの冠のなかの、いちばん美しい真珠になることでしょう

                      (カンペ詩:西野 茂雄訳)


まるで、「わたしのお墓のま~えで・・・・」のあの詩みたいです。

こんな人生へのお別れじみた曲ですが、モーツァルトのシンプルだけど、清涼感あふれる歌は、どこまでも澄み切った空のようで、ピアノの伴奏の緩やかさが、その空に浮かんだ雲みたいな感じです。

今日は、シュヴァルツコップの歌で聴いたけれども、実は、ちょっと重たすぎて気持ちが疲れてしまった。
ともかく、うまい。
声には全盛期のハリはなくなり、揺れも感じるし、ヴィブラートも辛い。
しかし、言葉へ載せる感情の深みといったらない。
フィッシャー=ディースカウもそうだけど、FDはもっと現代的で、切れ味がある。
そんなことを、不遜にも思う昨今。

歌の表現も時代によって変化するもの。

実感が強すぎるこの歌唱は、シュヴァルツコップが達した境地なのかもしれないけれど、モーツァルトは、もっと身近で鳴ってる歌の方がいい。

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ということで、ヘンドリックスとピリスの1枚を聴くと、これがまた全然違う。
爽やかなご近所のお姉さんのほうが、いい。
この方が、いまの自分の耳にはいい。
演奏時間も、大先輩の6分に対して、4分半。

そして、またシュヴァルツコップに戻ると、今度は、ドイツ語の発声の美しさに、今度はまた感嘆。

白井光子、マティス、ボニー、アメリンク、彼女たちのモーツァルトも好きですよ。

というようなわけで、新旧モーツァルトを聴いて夕べに想うのでした。

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2014年6月14日 (土)

藝大フィルハーモニア定期演奏会 尾高忠明指揮

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眩しい青空と、濃い緑。

こちらは、本日(6月13日)の、横浜です。

午後から横浜、そのあと、上野にとって返し、こちらも緑豊かな公園と森を抜け、東京芸術大学奏楽堂へ。

局所的に、雷雨があった日中ですが、幸いにも、怪しい雲は確認しながらも、雨に会うことはありませんでした。

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  R・V・ウィリアムズ  タリスの主題による幻想曲

  ディーリアス     「村のロメオとジュリエット」~楽園への道

  ウォルトン       交響曲第1番 変ロ長調

      尾高 忠明 指揮 藝大フィルハーモニア

                     (2014.06.13@東京藝術大学奏楽堂)


こんなわたくしの大好きな英国プログラムに、飛び付かないはずがない。

初藝大フィル、初奏楽堂でした。

1100席のほどよい規模で、木質の肌触りのホールは、とても心地よい響きで、音の溶け合いも自然で、素晴らしいものでした。

そして、歴史ある藝大フィルも、とても上手くて、フレキシビリティの高い上質なオーケストラでした。

尾高さんが、演奏終了後、指揮棒をマイクに替えてお話されましたが、その中で、英国音楽の素晴らしさ、英国と日本のつながり、そして、3様の異なる性格を持つ今回のプログラムを完璧に演奏しきったオーケストラのことを誉めていらっしゃいました。

古雅な英国王朝時代に想いを馳せることのできるようなRVWの渋い響き、ディーリアスの中でも一番メロディアスでロマンティックなロメジュリ、不安と緊張のなかに、輝かしさも導きださなくてはならないウォルトン。

この3つの様相を持つ3曲でした。

尾高さんの、共感あふれる指揮あってこそ描き出されたものです。

前半の静、後半の動。

タリス幻想曲は、コンサートで聴くのは初めてで、弦楽の奥、フルオケの金管席に、9人の第2奏隊が陣取り、ふたつの弦楽との掛け合いが、教会礼拝の交唱のように溶け合い、その響きがCDで聴くより数倍も耳に美しく、優しく届いたのでした。
ヴィオラのソロも、弦楽の中で分割して奏される四重奏も、いずれも素晴らしかった。
いつもは漫然と聴いてしまうこの曲ですが、こんなにいい曲だとは思わなかった。

そして、ディーリアンを自認するわたくしの、なかでも大好きな「村のロミ・ジュリ」。

寒村で、対立しあう家々の若い男女の愛が、破れ、ふたり、ゆるやかに流れる川に小舟を出し、船底の栓を抜き、やがてその舟は静かに沈んでゆく・・・・

(→「村のロミオとジュリエット」の過去記事)

こんな哀しい物語の後半に演奏される間奏曲は、そのドラマを集約したような、触れれば壊れてしまいそうな、儚くもデリケートな音楽。
そして、胸の熱くなるような盛り上がりも内包。

何度聴いても、美しい音楽で、思わず涙ぐんでしまうわたくしです。

尾高さんの指揮では、これが3度目、あとプロムスでのライブも録音してますが、今回が一番よかった。
この曲の精緻な魅力が、このホールと、オーケストラによっても活かされているように感じましたし。

うってかわって、ダイナミックなウォルトンの音楽へ。

フルオケで、金管・打楽器もばりばり。
ほぼセンターの席でしたが、こうした曲は、後方席の方がよかったかも。
前半では、最高の席でしたが。

しかし、ウォルトンの音楽、ことにこの交響曲は、リズムが全編にわたって、かっこいい。
映画音楽にも通じる活劇的な要素も感じとれる。
第二次大戦へとひた走る時代に作曲されたこの曲には、そうした不安や、割り切れないもどかしさ、憂愁が満載ですが、終楽章に至って、グローリアスな響きにようやく満たされるという、暗→明という、交響曲の常套ともいうべきあり方を備えてます。

1楽章では、音がやや混在して、耳に響いてこないように感じましたが、それは聴いた席かもしれませんし、このホールのシートの背当てにどうも馴染めず、落ち着かないせいもあったかもです。
 しばらくすると、このシリアスな音楽に、いつも通り、こちらの耳もついてゆくことができ、のめり込むようにして聴きました。
クセになるほどの刻みのリズムがずっと耳に残る1楽章。
やたらと難しそうな、ややこしいスケルツォ。
変拍子が、指揮者もオケも大変そうだけど、このコンビ完璧。
 いたたまれないほどの憂鬱さと、晦渋さを持つ3楽章は、これもまたライブで聴いてこそ、全容がわかるというもの。クライマックスでは痺れるほどの感銘を受けました。
 そして明るい終楽章。盛り上がるフーガ形式の重層感。
回想風のトランペットも完璧に決まる。
ラストは、ティンパニ2基、銅鑼、シンバルなど打楽器の乱れ打ちで、いやでも超盛り上がりに興奮のわたくし。
 思わずまた、カッチョエエ、と心のなかで快哉を叫ぶのでした。

いやはや、無理して行ってよかった、素晴らしいコンサート。

上野公園を横切り、時おり、雲の合間から顔をのぞかせる満月を見上げながら、帰宅の途につきました。

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2014年6月12日 (木)

R・シュトラウス 「死と変容」 アバド指揮

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梅雨も、本格化、いや、この激しい雨は、日本の情緒ある梅雨じゃない。

でも、巷には、パステルカラーの紫陽花が咲き乱れてます。

雨がどんなに降ろうが、なにしようが、強い紫陽花なのです。

こちらは、都心の品川神社の絵馬の後ろから、元気よく咲く紫陽花。

いたずら書きは、やめてね。

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  R・シュトラウス  交響詩「死と変容」

    クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

           (1984.4@キングスウェイホール、ロンドン) 

本日、6月11日は、リヒャルト・シュトラウスの150年目の誕生日です。

シュトラウス好きとして、困ったことに、すっかり失念していて、昨日も、ディーリアスの没後80年の命日であること、こちらも忘れてまして、いろんな方から、お教えいただきました。

メモリアルは、それこそ、メモっといて、手帳か、座右に備えておかなきゃ無理ね。

まして、自分の家族や自分の誕生日すら忘れがちなもんで。

 シュトラウスの音楽は、体系的に、本ブログではかなり取り上げてきました。

一部を除いて、聴き尽したと言ってもいいかもしれません。

その一部とは、作品番号のない曲や、初期のもの、膨大な歌曲、室内作品などです。

 これまで聴いてきて、やはり、シュトラウスの本領は、オペラです。

劇作とのコラボレーションが、自身の細やかな指摘や注文、それに万全に応え、それ以上に霊感をあたえられることが出来た台本作者との間で、完璧な仕上がりを見せたオペラ作品たちが、それにあたります。

ブログ開設前に、一度。
開設後に一度記事にして。
シュトラウスのオペラ全作品・全曲聴きをしております。

今年、またやりたいけれど、昨年、ヴェルディも頓挫してしまったので、軽すぎのお約束はいたしません。
初回と異なる音源や映像で、全作また楽しめるはずですので、こちらはまたゆっくり取り組みたいと思います。

あっ、ヴェルディも残りをゆっくりですが、やりますよ。

Abbado

LSO時代のアバド。

CD初期、まだ1枚、4200円もしたCDで購入したのが、当時アバド初挑戦だったR・シュトラウスの1枚でした。

本ブログ2度目の記事です。

アバドは、R・シュトラウスとは、遠くて近い、そんなお付き合いだったかと思います。

本質的には、楽譜にすべてのものが書かれている、しかも雄弁なオーケストレーションに対しては、アバドは意外と不向きです。

写実的なものより、作者が、どう想い、どんな心境での作品だったかを、おもんばかり、その思いに寄り添うような指揮を心がけるのがアバドじゃなかったかと、思うわけです。

シュトラウスの音楽は、完璧で、それ自体が完成された芸術品でもあるわけで、普通に鳴らせば、じつによく聴こえ、耳にも心地よい。
 オペラの場合は、そうはいかない場面が多々あるし、複雑な思いを持ったシュトラウスの登場人物への切り込み具合も、指揮者には求められるわけです。

ですから、オペラを指揮し、わかった指揮者と、交響詩などのみを振る指揮者とでは、同じ交響作品でも、表面の美しさ以外のシュトラウスの歌心とも呼ぶべきもの、プラス、オペラにおける人物描写の深み、といったようなものの、相違が大きく出るような気がしてます。

クラウス、カイルベルト、ベーム、カラヤン、スウィトナー、サヴァリッシュ、ハイティンク・・・などは、完全にオペラ指揮者としての、シュトラウス解釈だったと思います。

蛇足ながら、プレヴィンのシュトラウスは、豪奢でありつつ、音色にもコクがあって、素敵なものですが、さて、オペラの機微は描けるだろうか、と思うと微妙なところで、その点、プレヴィンは真面目すぎるんだろうと思います。
メータや小澤も、そんな感じがつきまといます。

では、アバドはどうでしょう。

この点では、わたくしは、微妙です。

第一、アバドのシュトラウスは少なすぎて、著名な、ツァラや英雄の生涯なんぞには、目もくれず、「ドン・ファン」「ティル」「死と変容」「ブルレスケ」のみ。
オペラでは、「エレクトラ」のみで、唯一ジルヴェスターの「ばらキシ」があるのみ。

この選択こそが、アバドのシュトラウス感でしょうか。

シュトラウスのオペラの中でも、じつは、一番過激なのが「エレクトラ」。
世紀末ムードは、極端な不協和音と、激しい和声、強烈な個性の登場人物たちによって、いやでも高められます。
「サロメ」なんかより、よっぽど過激。

その当時の先端音楽を、アバドならではの心理的な解釈と、絶叫を配した抑えたムードの中に落とし込みました。

アバドのシュトラウスは、従前のギンギン系でない、純音楽的な解釈のもとに、音楽そのものが、自然と語る、そんな演奏を根差したものだったのです。

ですから、高性能ロンドン響との、この1枚も、激しさを排し、音楽のしなやかな流れを重視した流動的な演奏なのでして、初聴きのときは、不甲斐なく思ったりもしましたが、いまは、それは極めて音楽的に完璧な演奏に聴こえるのでした。

 1889年、シュトラウス25歳の作品で、貧しい日々を病で終えんとする人物の、楽しい日々や戦いの日々、愛の日々の回顧、そして、鉄槌の下される容赦ない死へとつながる、そんな描写のなか、4つの部分を持つシンフォニックな要素のある作品です。

 
手持ちのアバドの「死と変容」の音源は、あとふたつ。

 シカゴ交響楽団(1981.10.1 @シカゴ、オーケストラホール)

 ベルリン・フィル(1994.4.6  @ザルツブルク)

ロンドンの前、シカゴでのライブは、オーケストラの鋭い切れ味が魅惑的で、あの一連のマーラー・シリーズを思わせる歯切れの良さと、立ち上がりの反応の素晴らしさを見せつけられます。

それと、ベルリンでは、演奏解釈の懐がもっと深くなり、タメや歌心地の豊かさが増してます。
オケの持つ威力や、味わいも味方にした、アバドならではの協調的な演奏で、聴いていて、とても自然。素晴らしい。

アバドは、ベルリンに登場し、今年、この曲を指揮するはずでした・・・・。


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2014年6月 9日 (月)

ワーグナー 「森のささやき」 テンシュテット指揮

Forest

緑茂る森の景色。

遠景は、丹沢山系、大山です。

雨は嫌だけど、ある程度降らないと、夏が心配だし、緑も褪せたような色で夏を迎えることになっちゃう。

今日、首都圏は梅雨の晴れ間も広がりましたが、夜はまた雨。

Tennnstedt_1

  ワーグナー 楽劇「ジークフリート」から「森のささやき」

   クラウス・テンシュテット指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

     
           
                        (1980.10@ベルリン)


森を描いた音楽をまた聴きます。

こちらは、オペラの中の一節を抜き出して、管弦楽作品としたもの。

オペラには、「森」の場面が、とても多く出てきます。

思い出しただけでも、「魔弾の射手」、「ジークフリート」、「ヘンゼルとグレーテル」、「マクベス」、「ファルスタッフ」、「ルサルカ」、「利口な女狐の物語」、「真夏の夜の夢」・・・・、などなど。

こうして見ると、ロマン派と民族楽派、それからシェイクスピアであります。

ロシア・フランスは、少なめ。

森は、立派な登場人物と化してるんです。

いろんな、ロマンティックな物語を生みだしてきたのが、「森」とそのイメージなんですね。

ワーグナーのこちらは、ご存知、「ニーベルングの指環」4部作の3つめ。
大作のヒーローでもある、ジークフリートの青春時代と、大人になりかけまでの物語を描きますが、その舞台は、大半が「森」と、そして「山の頂き」。

自然児のジークフリート君が、自分と似ても似つかない醜い育ての親ミーメが自分の父親じゃないことを知り、ある意味安心し、自分の命とひきかえに死んでいった母ジークリーンでのこと、そして女性への憧れを歌います。

「ラインの黄金」で現れた美の神フライアのモティーフも登場し、母と女性への想いをあらわします。
そして、木管たちは、森の小鳥たちのさえずりを、楽しげに、優しげに歌います。

こんな場面を聴くと、ワーグナーの筆の冴えは、ほんとうにスゴイものだと思いますね。

本編では、小鳥たちへの歌のお返しに、草笛を造って吹きますが、てんでダメ。
代わりに、お得意の角笛を吹きならしますが、その高らかな角笛(ホルン)は、森に眠れる大蛇(ファフナー)を起こしてしまうことになるんです。
その後は、決闘。

オーケストラピースとしては、ここが省略されて、2幕の最後の場面へと接続されます。
大蛇を倒して、その血を浴びて、口に含んだとたん、小鳥たちの声が聴き分けられるようになり、なんと、彼女は、山のてっぺんに眠る美女ブリュンヒルデのもとへと、導くのであります。
 歓喜して、育った森から元気よく飛び出すジークフリートを、音楽は快活に明るく盛りあげ後押しして閉じます。

悲劇と謀略の渦巻く「リング」にあって、この第2幕の終わりと、第3幕のみが、ハッピーな内容になってます。

数多く出てる、「リング」の管弦楽曲集。

オーケストラのすごさと、いま聴けば、やっぱり本物だったテンシュテットの指揮とあいまった、こちらの1枚がいい。
カラヤンもいた時代ですが、アバド就任前の、ドイツのオケ、っていう見事な鳴りっぷり。
 テンシュテットが亡くなって、もう16年も経つけれど、しがらみのないロンドンでの活動は、居心地がよかったかもしれないけれど、ドイツのオケにポストを持って欲しかった。
ゲヴァントハウスとか、ドレスデン、バイエルンとかね。。。

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2014年6月 7日 (土)

ドビュッシー 「版画」 フランソワ

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雨です。

梅雨とはいえ、よく降ります。

こちらは、2年前に行った天草。

ちょうど今頃の季節で、仕事の日は晴天で、翌日フリーにした一日は、雨でした。

港の対岸がら見た、津崎教会。

偶然ですが、雨にピントがあったようで、遠景は滲んだようにして映りました。

今日聴く、音楽にもぴったりのような気がして、昔の写真をひっぱりだしてきました。

Debussy_francois

   ドビュッシー  「版画」

      ピアノ:サンソン・フランソワ

               (1968.7 )


ドビュッシーの数あるピアノ作品には、練習曲とほか数曲をのぞいて、いずれも、詩的で幻想的なタイトルのついた曲ばかり。

それらは、当然ながら写実的なものでなく、あくまで、曲の雰囲気に寄り添うような、少しばかり曖昧なタイトル表現ばかりといっていい。

初期のものは、まだまだフランス・ロマン主義的な、ざーます系のお洒落音楽に身をまとっていますが、世紀の変わり目あたりから、ドビュッシー特有の印象派としての響きの音楽へと変容していきました。

「版画」は、1903年の作品で、交響詩「海」に取り掛かった頃。

 「塔(パゴダ)」 「グラナダの夕べ」 「雨の庭」

この3つからなります。

エキゾテックな様相の「塔」は、パリ万博で聴いたジャワやシナの音楽にインスパイアされたとされ、ガムランの響きを聴きとることもできます。
ただ、あくまで、それは、ドビュッシーその人の印象の反映というにすぎず、塔そのものを描いたものでないことが、それまでの音楽の在り方と異なる点。

ハバネラ舞曲のリズムにのっとった「グラナダの夕べ」は、同じエキゾテックでも、スペインの下町の物憂い雰囲気。
後年の「イベリア」にも通じるものがありますね。

そして、「雨の庭」というタイトルは、予想に反して、アップテンポのちょっと元気のいい曲で、われわれ、日本人のしっとりと、雨に濡れた庭というイメージからすると、かなり違うような気がする。
フランスの古い童謡などがモティーフとされ、子供時代の自宅の庭に降りしきる雨を思いつつ書いたとされますから、少し浮き立つような子供心をも思わせるところが、元気よく聴こえるんでしょう。

雨のイメージは、お国によって、それぞれさまざまですな。

わたくしは、やはり、そぼ降る雨に、緑がしっとり濡れた、小さな和庭園を思いたいですね。
そして、そんな庭を、障子を少し開いて、見つめながら、ドビュッシーのピアノ曲をひねもす聴いてみたい。

最近の、どしゃどしゃ降る雨なんざ、情緒もへったくれもありゃしない。

サンソン・フランソワ。
このお名前を、鼻から息を抜くようにして、発声してみてください。
それだけで、この方のドビュッシーの演奏が、そのまま想像できますよ。

ステキ。

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2014年6月 6日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第5番 クルツ指揮

Hamamatsucho201406_1

6月の小便小僧クンは、傘をさしたり、レインコートを着たりという予測に反して、なんと野球のユニフォームをまとってましたよ!

そして、なんで、オリックスバッファローズなんだろ?

その答えは、吉田一将選手というピッチャーが、JR東日本出身の期待の大物だからなんです。

そして、いま交流戦の真っただ中ということで、在阪の球団も、首都圏のファンの目にとまりやすい、ということもあるんでしょうね。

Hamamatsucho201406_2

背番号14。

リアルなユニフォーム、素晴らしいです。

Tchaikovsky_sym5_kurz_1

 チャイコフスキー 交響曲第5番 ホ短調

   ジークフリート・クルツ指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

                     (1978 @ドレスデン)


今月の月イチは、チャイ5です。

しかも、ドレスデンのチャイ5。

多くのドレスデン・ファンの聴き手から、絶賛されている名盤。

そのシュターツカペレを指揮するのは、ジークフリート・クルツです。

クルツは、CD音源も少なく、最近の方はその名前すら聞いたことがないかもしれませんが、ドレスデンの街とこのオケにとって、切ってもきれない間柄なんです。

1930年ドレスデン生まれ、最初はトランペット奏者としてスタートし、その後、指揮活動とともに、作曲家としても活動するようになります。
1960年頃から、ドレスデン・シュターツオーパーでオペラを中心にピットで大活躍。
その膨大なレパートリーは、ドイツものから、イタリア・フランス・ロシアと広範に及んでおりまして、70年代には、音楽総監督もつとめました。
ドレスデンとは、ずっと一貫した付き合いを保っておりまして、同時に、ベルリンのシュターツオーパーとも良好な関係を築いておりました。

まだ、存命中のようですが、東西ドイツの統一後の活動は、あまり報じられてないようです。

私がクルツを知ったのは、73年のドレスデンの初来日時に、ザンデルリンク、ブロムシュテットとともに、来日したときのこと。
NHKの放送は、ザンデルリンクのブラ1の演奏会を放送しましたが、このときのドレスデンは、いぶし銀の「ドイツの本物」という評価で、ドイツのオケといえば、西側のオケぐらいしか、登場してなかった日本に、驚きの感動を巻き起こしたものでした。
 その数年前に、ゲヴァントハウスがマズアとともに、やってきていたのですが、ドレスデンの感動は、その比ではなかったものでした。
 テレビでみた、ブラームスと、アンコールのオベロン序曲を、いまでもよく覚えてますよ。

そんな、ドレスデンを支えていたのが、クルツという職人のような指揮者だったのです。
ちなみに、そのときの来日では、「新世界」で、そのあとの、再来日となる78年には、このチャイコフスキーの5番を指揮しているんです。
 ベルリン・シュターツオーパーとの来日でも、スウィトナーとともに、何度も来演してますし、東独のオペラや、伴奏録音でも、よくみると、この人の名前は、意外なところで発見したりします。

 経験豊かなオペラ指揮者として、見た目は頑健なオヤジなのですが、その演奏解釈は、とても柔軟で、極端なことはせずに、自然な流れでもって、音楽をあるがままに聴かせるタイプに思います。
 ドレスデンが好む指揮者の、典型的なタイプではないかと。
ブロムシュテットや若杉さん、フォンクなどに通じます。

このチャイコフスキーも、全体を、インテンポで、すっきりとおしとおし、オーケストラの持つ力と魅力を、さりげなく自然に引き出すことに成功してます。
 かといって、武骨だったり、愛想が悪かったりすることはなく、出てくる音のひとつひとつが、チャイコフスキーのメロディにしっかり奉仕するように、完璧なまでの表現性を備えているんです。
こんなに、どこにも不満のないチャイ5って、自分にとっても珍しいです。
大仰にならない、慎ましさも、これまた微笑ましく、聴きあきない良さがありますし。
最後のフィナーレも、テンポを崩さずに、普通に終わるけれど、充実した音が目一杯詰まっていいるので、大いなる感銘を受けることが約束されております。

このクルツの指揮を得て、いわゆる、ドレスデンで、みなさまが思い描く音色や響きが、100%堪能できます。
分厚いけれど、しなやかな弦に、うなる低弦。
甘く、マイルドな木管に、うるさくないブリリアントな金管。
そして、なによりも、ダムのいるホルン・セクションの素晴らしさ。
オケが、どんなになっても、ホルンを聴き分けることができるし、聴いたことのないようなフレーズがちゃんと聴こえる。
2楽章の質感のよい、甘さも備えたソロには泣かされます。

誉めちぎりがすぎますか。

わたくしは、ここ数年、これを1度聴くと、3回は繰り返し聴いちゃいます。

いい演奏ですよ、これは。

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2014年6月 4日 (水)

シューマン 「森の情景」 ピリス

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緑がまぶしい。

そんな感覚の、新緑の季節は、5月の思いのほか強い日差しにあって映えるもの。

6月は、こんどは、そんな緑が、しっとりと落ち着いた雰囲気にそまる。

季節おりおり、自然もいろんな色合いを見せてくれますな。

今日は、緑の季節に合わせて、そんな選曲と思いましたが。

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   シューマン 「森の情景」

     ピアノ:マリア・ジョアオ・ピリス
  
                (1994.1 @ミュンヘン)


われわれが思う、「森」は、日本の緑豊かな森であったり、鎮守の森であったりと、ときに怖い一面は別途あるかもしれないけれど、そうした生活に密着もした、親しい場所、みたいな感覚を持ってます。

シューマンのピアノ作品、「森の情景」の「森」は、「ドイツの森」です。
ですから、ちょっと怖くて不気味なところと、妖精さんが出てきそうなところとが、混在したような、ファンタジーの世界なんです。

1849年頃までに書きあげられた、シューマンとしては晩年として、あと生涯を7年間残すのみの時期の作品です。
ピアノ作品としては、もっとも後半生のもののひとつでもあります。

9曲の小品の連なりですが、ラウベやアイヘンドルフらの詩に啓発されたものとされ、それぞれに詩的な標題がつけられ、自身も短い詩をつけたともされてましたが、のちに、それらは、ヘッベルによる詩が第4曲に残されたのみで、すべて省かれてしまいました。

ゆえに、われわれ聴き手は、9つの詩的なタイトルから、短い2~3分の各曲を聴きつつ、ドイツの緑の森を思い描きながら聴くという、ある意味、自由なファンタジーの世界に遊ぶという所作が許されるのです。

こんな夢想的な音楽の聴き方ができるのもまた、シューマンならではですし、この時期、ちょっと、軋みの入り始めた彼の心のことも思いつつ、揺れ動く音楽と大胆な表現に身を任せてみるのも、またシューマンの聴き方でしょう。

   1.「森の入り口」
   2.「待ち伏せる狩人」
   3.「もの悲しい花たち」
   4.「呪われた場所」
   5.「親しい風景」
   6.「宿屋」
   7.「予言の鳥」
   8.「狩りの歌」
   9.「別れ」


森に分け入る楽しさと、ちょっとの不安を抱いたかのような「森の入り口」、シューベルトの死の世界観を感じさせもする不安に満ちた「呪われた場所」。
半音階の世界に足を踏み込んだような斬新で、ちょっととりとめない「予言の鳥」。
曲の終わりらしくない、どこか腑に落ちない、そんな終わりかたが、どこか言い足りなさそうで、後ろ髪ひかれる「別れ」。

優しさと鋭い感受性で持って深みのある演奏を繰り広げていたDG時代のピリス。
もう20年前となりますが、いまだに鮮度の高いピアノに思います。

なんか、このところ、シューマンとバッハ、コルンゴルトと英国音楽ばかり聴いてます。

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2014年6月 1日 (日)

「森園ゆり グリーン・ウェーブ・コンサート」

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今年もまたやってまいりました、グリーンウェーブコンサートの日が。

神奈川フィルハーモニーの第1ヴァイオリン奏者の、森園ゆりさんと、ピアノの佐藤裕子さんによるリサイタルコンサートです。

保土ヶ谷区仏向町にある、ハンズゴルフクラブにある、吹き抜けのレストランを会場に行われる、ヴァイオリンとピアノによるお洒落なコンサートなんです。

その収益金は、「かながわトラストみどり財団」に、ゴルフ場からの同額も添えて寄付され、神奈川の緑の保全と育成の資金として役立てられております。
震災後は、被災地支援にも充当されました。

音楽を聴くという、聴き手にとっての喜びの享受という行為が、このようにして社会貢献へと循環するということは、まことに喜ばしく、こうした試みを毎年、果敢に行っていただける「ハンズゴルフクラブ」さんに、あらためまして御礼申し上げます。

いつもお馴染みの、森園さんのヴァイオリンを聴けて、おいしい軽食やスイーツもふんだんにいただき、緑もたっぷり浴びることができるなんて、そんな喜びはありませんからね!

Grennwave2014

    フォーレ           「ドリー」組曲~子守歌

    ヘンデル          ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調

    モーツァルト         ロンド ハ長調  K373

    サラサーテ        「序奏とタランテラ」

    シューマン         「アラベスク」

    パガニーニ        「カンタービレ」 

    クライスラー        「踊る人形」

    シンディング     組曲より「プレリュード」

    エルガー        「夜の歌」、「朝の歌」

    ヴィニャフスキ    「ファウスト幻想曲」

    森園 康香       「緑のうた」

          ヴァイオリン:森園 ゆり

          ピアノ:    佐藤 裕子

               (2014.5.31 @ハンズゴルフクラブ


例年どおり、森園さんご自身の選曲と、曲目解説のプログラムには、作曲家の年譜つきで、時代の相関関係がよくわかる仕組みとなってます。

そして、毎回、掲げられるテーマは、今年は、「春の輝き」。

MCの方が、今年は妙に間が折り合わず(笑)、少し浮足立ったスタートのフォーレ。
ピアノ連弾が原曲の素敵な曲だけど、ヴァイオリンで聴くのもまたいいものでした。
 たおやかな様相を折り目正しく伝えてくれたヘンデルに、やっぱりモーツァルトって、いいわ、可愛いわ、と思わせるロンド。
このあたりで、会場は、いつものような、ほんわかした、いいムードに。

外は、真夏のような暑さだったけれど、会場内は、ほんの少し季節が戻って、うららかな春となりました。

サラサーテは、初聴きの曲だけれど、昔、AMラジオから流れていたような懐かしいメロディの序奏が素敵。
森園さん、情感たっぷりに弾いてらっしゃいましたよ。
そして、一転、超絶技巧のタランテラへの転身がすごい。
毎回、書いてるかもしれませんが、オーケストラの一員として拝見してる森園さんが、バリバリ系の違うお顔を見せる、そんな瞬間なのですが、この日の森園さんは、技巧は確かですが、ちょっとそんなお姿は抑え気味に見受けられました。
鮮やかに曲が終わると、会場内からは、ほぉ~ともとれるため息が。

思わず、緑の映える外を、仰ぎ見てしまいたくなったシューマンのアラベスクは、佐藤さんのピアノソロで。
いい曲、気持ちのいい呼吸豊かな演奏。
前夜の平井さんのヴァイオリンによるシューマンもよかった。
シューマンのピアノ曲、室内作品、歌曲、いま始終聴いてます。
昨今の不安のやどる自分自身の日々に、英国音楽やコルンゴルトとともに、ぴったりのシューマンなのです。

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はじける技巧曲でなく、情感豊かなゆったり系のパガニーニが選択されました。
その名も「カンタービレ」、これ、いい曲ですね。
FM番組のテーマ曲にもなってました。
こんな曲を、感情こめて演奏するお二人、いいですね。しみじみ。

誰もが知るボルディーニの有名な原曲を編曲したクライスラー作品。
伴奏とのリズムの取り方が難しそうな、そしてピチカートの合いの手も妙に難しそうな、意外と難曲に感じましたが、面白い作品でしたね。

森園さんのお話のなかで、思えば毎年聴いてると知ったシンディングの組曲からのプレリュード。
プレストで一気に演奏される勢いと情熱の曲でありますが、サブリミナル効果なのでしょうか、完全に知った曲と、頭の中でしっかり認識されております(笑)。
シンディングは、北欧歌曲のCDなどに必ず入ってる名前ですが、この3曲からなる組曲も、ヴァイオリンがよく鳴り響く、素晴らしい音楽だと思います。

そして、わたくし的にお得意の曲たち、エルガーの「夜の歌」「朝の歌」。
紅茶でもいかがですか?と勧められてるような、エレガントで柔和な音楽に演奏にございました。

以前にも演奏されました、リストのコンソレーションのミルシュテイン編によるヴァイオリン版。
この日の、しっとり情感系の森園さんの演奏の流れの中では、まさにぴったりの曲目。
こんな風に、いろんな時代を横断しながら、多様な作曲家の作品を賞味してくると、それぞれの時代と作曲家の顔の違いに、あらためて新鮮な思いを抱くことになります。
こんな風な音楽の聴き方や、コンサートのあり方って、とてもいいことだと思います。

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最後のトリは、大曲、15分かかりますよ、と覚悟を促す森園さんのお話を受けて、MC嬢も、みなさん、頑張ってと激励(笑)
ヴィニャフスキのファウストラプソディは、グノーの同名のオペラの旋律・アリアをベースにした、初聴きの曲です。
ピアノの部分を、それでも少し割愛しましたとの、お話でしたが、なかなかの充実の大作。
ヴァランティンとマルガレーテのアリア、メフィストフェレスの「金の子牛」、そして華やかなワルツなど、オペラ原曲から素敵な旋律が次々と登場しつつ、そこに華麗な技巧とアリアさながらの歌が満載に散りばめられた音楽でした。
 もう一度、じっくりと聴いてみたい作品です。
この日、森園さん、一番の挑戦曲ではなかったでしょうか。
佐藤さんと、おふたりの熱演に、大きな拍手と掛け声が飛び交いましたよ。

アンコールは、このところのお約束。
ドイツ在の娘さん、森園康香さんの新作の世界初演(!)です。
さきの、康香さんのリサイタルでも、母が初演しますと語っておられました。
「緑のうた」、いかにも爽やかで、優しい音楽。
この日のテーマに相応しく、こぼれる緑と優しく揺れるその影を感じさせましたね。

暖かな気持ちで、We love神奈川フィルメンバーは、緑の会場をあとにして、保土ヶ谷のナイスな居酒屋さんで、喉を潤おして、気持ちよく帰りの途につきました。

 こんなことおこがましいですが、以前の演奏を存じあげませんで恐縮ですが、ちょっと新たな方向へと向かいだした想いを抱いた森園さんのヴァイオリン。
さらに楽しみです。

いつもながら、いいコンサートです。

来年もまた、という前向きな気持ちにもなりました。

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こんな美味しいもの、木漏れ日のなかで、いただいちゃいました。

音楽も、お食事も、どちらも、ごちそうさまでした


これまで聴いたグリーンウェーブコンサート。

 「2011年 第13回」

 「2012年 第14回

 「2013年 第15回」
  

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