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2014年8月

2014年8月30日 (土)

神奈川フィルハーモニー第301回定期演奏会 小泉和裕指揮

Colleto

日も短くなりました。

しかも、雲におおわれた8月最後の週末の金曜日。

みなとみらいホールへ、急ぎましたよ。

Kanaphill20140829

 神奈川フィルハーモニー第301回定期。

 小泉和裕 特別客演指揮者就任披露演奏会。

  グラズノフ      バレエ音楽「四季」

  チャイコフスキー  交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」

   小泉 和裕 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

          (2014.8.29 @みなとみらいホール)


300回を超えた1回目の定期は、ロシアもの。

ちなみに、続いて、次回はアメリカ、そして英国、ドイツ、北欧と、次々に各国ものをプログラミングしてくる、実に考え抜かれた神奈川フィルの演目です。

涼しさと雨模様の続く首都圏ですが、まさか、そんな気候を想定してはなかったでしょう。
真夏のロシアもの。

クールなリリシズムと、メロディアスな旋律の数々に、ホールをあとにした聴き手は、しっとりした気分に満たされました。

ドイツ系のイメージが強いけれど、以外にもロシアものが得意な小泉さん。
いまや重鎮となった小泉さんの、心強い特別客演指揮者への就任です。

驚いたのは、グラズノフのバレエ曲を暗譜で、完全掌握して振っていたこと。
1~2分のディヴェルティスマンの総集結したようなアラベスク的な音楽の連続。
CDのトラックも、35分の曲で、19もあります。
この曲が好きな小泉さんは、しばしば演奏会で取り上げているそうです。

わたしの所有する唯一の1枚アンセルメ盤は、これまで、ぼんやり聴いていたのみで、このたびは、演奏会の前に、しっかり聴きこみ、小品の連続だけど、全体構成がしっかりとしていて、モティーフも含め統一感がある立派な作品だと思いなおしました。

そして迎えたコンサート。
あっという間の35分間。
あらためて、こんなに楽しい、美しい旋律満載のバレエ曲集であるのだと実感。
今回の演奏は、バレエの舞台を彷彿とさせ、踊りたくなるようなオーケストラピット内のものとしてでなく、完全にオーケストラピースとして、ある意味、4つの連続したシンフォニックな作品としてとらえられるものでした。

冬から始まり、秋に終わるロシアの四季感。
日本人なら間違いなく春から。
そして、日本人が季節への情緒を込めるのも、春と、そして秋。
面白いものです。

最後の秋に、冬のモティーフが、するりと入り込んでくるのが、この演奏会ではとてもよくわかりましたし、もっと言うと、春でも夏でも、幻想的ななかにも、ふっと冬のイメージが浮かんでくるように思えました。
 そんな風に、この曲をよく掌握し、ロシアの風土の香りを滲ませようとしたのが小泉さんの解釈でしょうか。
 加えて、さすがは神奈川フィルです。
石田コンマスを始め、小宮さんも帰ってきて、鉄壁の弦楽陣と若い顔ぶれとベテランの方々のマイルドな木管、柔らかくブリリアントな金管、壮麗なまでの打楽器群。
神奈川フィルの美音が炸裂しました。

この日の会場の聴衆のほとんどが初聴きかもしれないグラズノフでしたが、この素敵な曲の魅力にみなさま気づかれ、魅了されたのではないでしょうか。
「くるみ割り人形」をも彷彿とさせる「四季」でした。
そして、その「くるみ割り」も、いずれは全曲を神奈フィルで、取り上げて欲しいものですね。

後半は、超名曲の「悲愴」。

柳瀬さんの抜けたあとは大きくて、ヴィオラ主席は、毎回客演でしのぐなか、この日のこの曲はちょっと厳しいかな、と思ってましたが、でもよく鳴ってましたね。
冒頭から緊張感を維持しながら開始することができました。
 ほんとうに、いい旋律だなと、うっとりしつつ、しかし、どこか抑え気味の長い1楽章でした。
続く2楽章も、同じような感じで、単調な5拍子。
休憩時に飲んだワインがいまさら自分の耳にまで効いてきたのだろうか?

ところが、3楽章、猛然とスイッチが入ったようで、すさまじい推進力を発揮。
オーケストラも大爆発。
炸裂する打楽器、海老反るように力一杯弾く石田コンマスについてゆく皆さん。
見て、聴いて、大興奮のわたくしたち!

そして、もしかしたら小泉さんは、終楽章にそのピークをもってきていたのではないかと思えた切実たるラスト。
2度にわたるピークも、これでもかというばかりの感動の高まりを見せつけてくれました。

深刻になるほどの悲劇性はない、クールでスタイリッシュな悲愴だったけれど、曲が進むにつて、集中力の増してゆく、充実した演奏でありました。
こうした定番の名曲を、安定感豊かに、そして曲のよさをじっくり体感させてくれる新たなコンビのスタートがうれしかったのです。

そして、神奈川フィルのチャイコフスキーは、やっぱりいいね。
今シーズンは、川瀬さんの指揮で、あと2番と5番がアリマス!

終演後は、思いのほか明るく、軽い足取りで、居酒屋へ。

Imogura201408

楽団からお二人のご参加をいただき、今宵の演奏のこと、オーケストラ界のこと、フクロウのこと(?)などなど、楽し時間を過ごしました。

こんなの食べました。

12

オープン・ザ・フタ。
黒豚セイロ蒸し~

荒ぶるメンバー数人は、さらに次のお店を目指して野毛に進攻!

Noge

もう朝も近い、雨の野毛。

明るくなった横浜を走る京浜東北線に乗って爆睡するのでした。

みなさま、お世話になりました。
そして、お疲れさまでした。

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2014年8月28日 (木)

グラズノフ「四季」、チャイコフスキー「悲愴」

Azumayama_201408_11

いったい、どうなっちゃったんでしょう。

夏はどこへ隠れちゃった?

8月の終わり、最後の夏休みを楽しもうという人たちに冷や水を浴びせるかのような、連日のしとしと雨と、低温。
広島の悲しい惨事にくらべたら、こんなのどうということはないけれど、この季節感のなさは、異常で、天気図を見ると、日本列島は、どこかが、前線につねに覆われていた夏でした。

自分の影を映しこむなんて、最低の画像ですが、奥の方にある富士山も見てくださいましな。

 明日は、今シーズンから始まった、8月の定期演奏会です。

 神奈川フィルハーモニー第301回定期。

 小泉和裕 特別客演指揮者就任披露演奏会。

  グラズノフ      バレエ音楽「四季」

  チャイコフスキー  交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」

   小泉 和裕 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団

          2014年8月29日 金曜日 19:00 みなとみらいホール


涼しいけれど、真夏に、ロシアもの。

グラズノフとチャイコフスキーという、これまた、ロシア音楽史のひとコマを感じさせるプログラム。
そして、小泉さんのロシアものは定評あるし、ことに、チャイコフスキーはデビュー時、カラヤン・コンクールの優勝時からの得意演目。
さらに、そして、期せずして、この涼しさと、鬱陶しい厚い雲に覆われた空模様が、露西亜音楽にぴったり。

Glazunov_seasons

  グラズノフ バレエ音楽「四季」

   エルネスト・アンセルメ指揮 スイス・ロマンド管弦楽団

                      (1966.5 @ジュネーヴ)


チャイコフスキーの西欧風ロシアロマン主義と、恩師R・コルサコフら、5人組のロシア民族主義的、その双方のDNAを受け継いだような存在のグラズノフ。
とくに、ライモンダと四季、有名なふたつのバレエ音楽にその傾向は顕著です。

35分ほどのバレエ音楽ですが、その名のとおり、4つの季節を、それもロシア特有の四季を素敵なほどに描いてます。
1~2分ぐらいのディヴェルティスマンの連続する、ある意味めまぐるしく変わりゆくその表情ある音楽たち。

「春夏秋冬」ではなくて、「冬春夏秋」という構成で、「冬」から始まるのが、いかにも、ロシアの風情であります。

①厳しい閉ざされた季節のなかにも、霜や氷、雪などを幻想味ゆたかに表現してる冬。
②ほのぼのとやってくる「春」は、小鳥や花の世界で、たまらなく美しい旋律が続出。
③北国の短い「夏」は、春との境目が緩やかで、恵を予感させ、さらに緩やかな夜も舟歌を歌って楽しげ。
④実りの「秋」は、祭りの秋、豊穣の秋だ。爆発的なバッカナーレがあります。
だが、しかし、最後には、冬の横顔もチラつきだしながらも、晴れやかに幕!

これ、いい曲ですよ。

録音は古くなりましたが、アンセルメの演奏は完璧でしょう。
欲をいえば、指揮もオケも、ロシア臭が皆無なところかな。

美しい神奈川フィルでどうなるかしら?

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  チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 「悲愴」

    ロリン・マゼール指揮 クリーヴランド管弦楽団

               (1981 @クリーヴランド)


今さらながらの名曲中の名曲。
そのタイトルゆえ、暗さゆえ、ふだんはあんまり聴くことがないけれど、それでも、こうして久しぶりに聴くと、めちゃくちゃいい曲やん、と痛感します。

中高生のころは、アバド&ウィーンフィル、バルビローリ&ハレで、毎日聴きまくり、最後には沈痛の面持ちになったもんだ。

でも、なにも、胸焦がして、悲劇的に聴くことはない、そんな曲なんですよね。
タイトルを考えず、第6交響曲として、すんなり聴けばいい。
幻想曲のような第1楽章に、変拍子ながらワルツ感覚で第2楽章、お祭りさわぎで第3楽章、そして、緩徐楽章としてのユニークは終楽章。

ウィーンフィルとの若き日のチャイコフスキーは、そのシベリウスとともに、マゼール節を警戒して一切所有することも、聴くこともなかったけれど、亡くなってしまったいま、そんなマゼールが懐かしく、なんたって、あんな芸風の指揮者はいまやいないから、とても聴きたい。

クリーヴランドとの再録音盤を入手しましたが、激安のCD頒布会のもので、陳腐なジャケットでした。
オリジナルは、上褐のもの。
死相のあわられた病人顔のくらーーいチャイコフスキーの姿。
これもまた困ったジャケットじゃないですか。

でも、この演奏は、想定外に、すっきりと明確なもので安心、というか、ちょっと裏切られた感じ?
細かいところでは、伸びたり縮んだりと、マゼールらしく、ちょこちょこやらかしてるけれど。
ともかく、オーケストラがうまい。
完璧にマゼールの棒についてゆくフレキシビリティあふれるクリーヴランド。
1楽章の激烈なところでは、かなり追い込んだテンポとなりますが、そこも完璧であります。
全体に、メロディストとしてのチャイコフスキーの魅力を見事に引き出したマゼールの演奏だと思います。

チャイコフスキーを得意にする小泉さんの指揮。
楽しみです。
カラヤンコンクールに優勝後、ザルツブルク音楽祭でウィーンフィルを指揮されましたが、その時の演目が、ハイドンのオックスフォードと、チャイコフスキーの5番。
FM放送を録音しましたが、残念ながらそのテープは消失してしまいました。
慎重な演奏でしたが、美しく、ダイナミックなチャイ5だったかと記憶します。
さらに、3大交響曲を、ロンドンのロイヤルフィルとも録音してますので、それも聴きたいところです。
美音のオケとともに、どんな6番になるでしょうね。

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2014年8月24日 (日)

ダンディ フランスの山人の歌による交響曲 ミュンシュ指揮

Azumayama_201408_9

遠景に雲のかかった富士をいただき、手前には、早咲きのコスモス。

いつもはもっと咲いてるはずなのに、今年はちょっと少なめ。

菜の花に、コスモス、維持管理はたいへんでしょうが、がんばってくださいね、町の人。

昔から、富士山の頭に雲がかかると、風が強くなると言われていたけれど、朝に見たこの富士のとおり、この日は熱風のような風が吹きました。

Munch

  ダンディ 「フランスの山人の歌による交響曲」

       Pf:ニコレ・アンリオ=シュヴァイツァー

    シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団

                   (1958.3 @ボストン)


夏のリゾート系、さわやかミュージックシリーズ。

アルプス交響曲は、ロスフィル・シリーズで、とりあげたばっかりなので、山といえば、その双璧をなす、ダンディの桂作を。

ヴァンサン・ダンディ(1851~1931)は、生粋のパリっ子、フランスの作曲家です。

なかなかの多作家で、ウィキによれば、交響曲は5つ、オペラは6つのほか、すべてのジャンルにその作品を残しているんです。
しかし、そのほとんどが聴かれることなく、唯一、有名なのが、今日のこの不思議なタイトルを持つ交響曲と、管弦楽曲のいくつか。
 わたしのCD棚にも、この曲と、デルヴォーの指揮した2枚の管弦楽曲集のみ。
後輩のラヴェルにすべての点で後塵を拝することとなってしまってます。
 なんたって、前にも書いたけど、フルネームで検索かけなくては、オシャレな意味でのダンディと、芸人のダンディしか出てこないんだから。

音源も調べてみたら、室内作品と器楽があと出てるくらい。
気になるオペラに関しては、まったくない模様で、やはり、いまのところ、ダンディさんといえば、この素敵な交響曲を聴いて、ほかの作品への想像力をたくましくするしかないのです。

そんなわけで、ちょっと手抜きで、前に取り上げた、デュトワ盤の記事のコピペをいたします。

>ピアノソロを伴った交響曲はユニークで、協奏曲のようにピアノ主体でもなく、ピアノもオーケストラの一員でるかのような、ピアノ付きオーケストラのための交響曲といった感じだ。

ダンディもこの時代のフランス系の作曲家の例にもれず、フランク一派に属し、この交響曲も3楽章形式で、循環主題をもとにした構成となっている。

ダンディは子供時代から慣れ親しんできた、セヴェンヌの山々を思い、その麓のペリエに滞在しつつ、この作品を書いた。そこで知った牧歌がこの曲のイメージとなっており、この曲は「セヴェンヌ交響曲」とも呼ばれている。
ピレネー山脈の一角、ギザギザした高原のような高い山々が続く場所みたい。

冒頭、イングリュシュ・ホルンの懐かしい旋律が、弦楽のたおやかな背景の上に奏でられると、部屋の温度はもうマイナス3度はクールダウンする。
ともかくさわやかな第1楽章。山々の描写的な音楽であるとともに、とても感覚的な音楽でもある。
 柔らかで牧歌的な第2楽章は、木陰でのんびり昼寝をきめ込むのにうってつけの音楽。
そして、リズミカルな終楽章を聴いているとグリーグの協奏曲かと思うくらいに爽快な気分に満たされる。この楽章は、全曲の総括のようにあらゆる旋律が繰り出され完結感もばっちりだし、軽く炭酸の利いた清涼飲料水を飲んだかのような心地よさに満たされてしまう<

久しぶりに聴いたのだけれど、この印象のとおり。

イングリッシュ・ホルンの懐かしい旋律に、山々にこだまする牧童の笛の音を感じ、やがて、日が昇ってきて、湧き立つようなオーケストラにわくわくする。
この冒頭部分は、ほんとうに素晴らしい。
全編にわたって、でしゃばりすぎない流麗なピアノが清々しい。

これ1曲でダンディを語るのもなんですが、それでもいいかと思える良き作品です。

この曲を世に広めた録音が、ミュンシュのこの1枚。
録音年代から、ちょっと鄙びた感のある音が、また実にいい雰囲気を出してる。
音楽の線が、くっきり明快なのは、ミュンシュならでは。

気持ちのいい音楽で、今朝もすっきり爽快です。

Cevennes

広いものの画像ですが、フランス中南部の広大なセヴェンヌ山脈。

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2014年8月23日 (土)

ブルッフ スコットランド幻想曲 ニコラ・ベネデッティ

Azumayama_201408

もう何度も書いてます。

吾妻山の頂きにて。

ほんの15~20分くらいで、スニーカーひとつで、ひょいひょいと登れます。

途中、しんどい箇所はありますが、登れば視界がばっちり開け、富士山から、大山、相模湾まで、見渡すことができます。

わたくしの一番好きな場所であり、懐かしい場所でもあります。

この街に育ったわたくしは、幼稚園のときに遠足で登り、麓の小学校のときに、授業をはじめ、体育やなにかで、始終登ってました。
 当時は、いまのように整備もされてなくて、メインはちょっと下にある吾妻神社で、頂上は、広場がちょこっとあるだけで、木々が茂って、見晴らし云々ではなかったように記憶します。
 クラスで飼っていたウサギがいなくなって、放課後、みんなで、この山に探しに出ました。
猿にやられたとか、蛇が出たとか、いろんな証言があって、みんな必死でした。
勝手な、この行動に、知らなかった担任の若い先生は、教頭先生から大目玉。
 大昔の話ですが、よく覚えてますよ。

懐かしいな~

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   ブルッフ  スコットランド幻想曲

        Vn:ニコラ・ベネデッティ

  ロリー・マクドナルド指揮 BBCスコティッシュ交響楽団

                    (2014.1@グラスゴー)


ブルッフの音楽は、メロディアスで、どこか哀愁もただよい、こちらも懐かしさ満載。

>「スコットランド民謡を自由に用いた管弦楽とハープを伴なうヴァイオリンのための幻想曲」という長たらしい原題をもつ。
 ロバート・バーンズが収集編纂したスコットランド・トラディショナルに感化されて書いた作品は、私にはまだ見ぬ英国高地地方、スコットランド地方の風景を思いおこさせる。

夢見るように遠くを眺めるようなロマンテックな音楽。
 その音楽はまさにドイツ・ロマンティシズムであると同時に、英国独特の詩情にもあふれたみずみずしい桂曲。
 前奏曲を入れて全5楽章、ときにしんみりと、ときに明るく快活に、そして終始ノスタルジックな音楽は、誰しも懐かしい故郷やまだ見ぬ懐かしい風景へとその思いをいざなってくれることだろう。<

以前の記事からそのまま引用しましたが、いまでもこれ以上の言葉はありません。

ドイツの音楽でありながら、スコットランドのテイストがたっぷり。

協奏曲第1番でもって、快活なブルッフを聴かせてくれていた、ニコラ・ベネデッティが4年ののちの今年に録音した「スコテッシュ・ファンタジー」は、明朗快活さはそのままに、しっとりと情感の豊かさも増して、自分の郷里の歌を奏でるかのようにして演奏しております。
 スコットランド地方出身の彼女にとって、この曲は、まさに自国もの。

荘重な前奏のあと始まる第1楽章のノスタルジックな主題の心のこもった歌わせ方には、思わず涙が出そうになりました。
この旋律は、全曲に渡って、形を変えたりしてあらわれてきて、そのたびに、ほっとさせてくれる。
そのあたりのニコラさまの旋律の、いとおしみ方は、女性ならではの優しさと、若い感性のしなやかさでもって、とてもステキなのです。
 元気のいい、一度聴いたら忘れられない終楽章においても、最後の最後に、ふっと立ち止まるように出てくるこの旋律にも、心動かされます。
緩徐楽章の3楽章も魅惑の歌に包まれておりますこと、申し添えます。


単なるビジュアル系の演奏者じゃない、本格派の彼女は、毎回、考え抜かれたアルバムを作りだしてきます。
ヴィヴァルディを中心とした「イタリア」に、銀幕に焦点を絞ったコルンゴルトのコンチェルトアルバム。
 そして、今回は、スコットランドがテーマ。
解説書も彼女自身が執筆していて、いずれ国内盤を買い直そうかとも思うくらいの充実ぶり。
ニコラ自身のパーソナルな思いを、この1枚に集結させていると。
ふたつの異なる音楽、それは、ドイツの作曲家のスコッチと、スコットランド・ネイティブの音楽と。
後者は、自分が子供のときから、ずっと親しんできた音楽の世界。
こんな風に、語ってます。

そう、ブルッフをメインに、のこりはたっぷりと、スコットランドの音楽が詰め込まれてます。
バーンズのトラディショナルを中心に、わたしたち日本人が聴いても、どこか郷愁を覚える曲ばかり。

歌もあります、アコーディオンも、フィドルも奏でられ、ニコラのヴァイオリンとの競演もあります。
彼女の、FBとかツィッターをフォローしてますが、よくスコットランドに帰り、地元の人たちと演奏するのが楽しく書かれてます。

そう、このCDのタイトルは、「HOMECOMING」(帰郷)なのです。

ニコラたんの音盤に、ステキな1枚がまた加わりました。

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過去記事

「チョー・リャン・リンのスコティッシュ」

「タスミン・リトルのスコテッシュ」

「ニコラのブルッフ」

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2014年8月22日 (金)

シベリウス 交響曲第3番 ラトル指揮

Azumayama_201408_3

相模湾の遠景に、もくもくとした雲。

四季の境目が年々曖昧になってゆき気がします。

春と秋が短く、夏と冬が長くなってます。

そして、イメージは北欧なので、冬がお似合いだけど、真夏のシベリウスも、こうした景色にはいいかも。

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  シベリウス 交響曲第3番 ハ長調

   サー・サイモン・ラトル指揮 バーミンガム市交響楽団

                     (1985 @バーミンガム)


たまには、帯付きのCD画像を。

これが出た頃は、海外盤は今ほど溢れてなくて、欲しいものは国内盤で買うしかなかった。

CDが世に出た頃は、1枚4,500円もして、それがまた輸入盤の国内仕様みたいなものでした。
そう何枚も買えないから、それこそ何度も何度も同じCDを聴いたものです。

 それが、今現在の激安のCD反乱状態。

安く手に入るのはいいことだけど、音楽の中身そのものまで、お手軽になりすぎては困りもの。
残りの音楽人生、限りある時間ですから、大切に聴いていきたいと、何故かまた思うのでした。

 シベリウスの交響曲の中で、6番と並んで、おとなしい存在の3番。
1907年の作品。
あの2番から5年が経ち、欧州ロマン派的な要素から、一歩も二歩も抜けだし、民族主義的かつ、シンプルな古典的な雰囲気が強くなってます。
 このあとの、晦渋な4番にくらべると、牧歌的・田園的でもあり、ハ長の明るさも調和にあふれてまして、聴きやすい音楽です。

しかし、2楽章、繰り返される北欧的な旋律は、内省的でもあり、4番に通じるものもあります。
弾むような第1楽章は、一度聴いたら忘れられない気持ちよさ。
3楽章形式なので、3つめの終楽章は、このシンプルで可愛い交響曲が、思いきり盛り上がるクライマックスを持ってます。

バーミンガム時代に、30代にしてシベリウスを全曲録音したラトルは、さらにデビュー間もないころに、フィルハーモニアとも5番をロ置く音してます。
ベルリンでもチクルスを行ってますので、いずれ自主制作音源でも出てくるものと思います。

バーミンガムの頃のラトルは、縛られるものもなくて、そのレパートリーも含めて、思うように、やりたい放題一直線って感じだった。
その一方で、若さに似合わない、渋い大人びた音楽造りもする面もあって、面白い存在であり、コンビでありました。
 そんな感じの演奏が、この一連のシベリウスで、リズムのよさと、キレのいい弾みかたは、実に新鮮で、一方で、あっさりとしすぎの踏み込みの弱さもあったりです。
でも、3番は、こんな風な演奏がいいかも。

2018年にベルリンを卒業するラトルは、その時点で63歳。
ベルリンの後の指揮者も気になりますが、まだまだ若いラトルの、その後も気になりますね。
バイエルン、ロンドン、シカゴ・・、妄想は楽しいものです。

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2014年8月20日 (水)

メンデルスゾーン 交響曲第1番 ヘンゲルブロック指揮

Azumayama_201408_2

この夏は、富士山がよく見えました。

低気圧の影響で風が強く、雲もかかってましたが、ふだんの夏だと、気温の上昇で遠景は霞んでしまって、まったく見えないのです。

毎日、風が強いのも、今年の夏の特徴かも。

Hengelbrock

   メンデルスゾーン 交響曲第1番 ハ短調

  トーマス・ヘンゲルブロック指揮 北ドイツ放送交響楽団

                 (2011.3 @コングレスハレ、リューベック)


残暑に負けないように、さわやかな音楽を続けて聴きます。

1825年、15歳のメンデルスゾーンの作品は、そんな若書きとは思えないくらいに充実した内容の交響曲であります。

4つの楽章できっちりと古典の流れを汲みつつ、自在さもあって、そこここに、初々しいロマンの萌芽が見受けられます。

この曲の作曲時点では、ベートーヴェンの第9のさなか。
ただし、1924年初演の第9を、メンデルスゾーンが、当時の情報網からして知っているとは思えませぬ。
 シューベルトは、「未完成」ぐらいまでの時点。
ウェーバーは、あらかたのオペラを書き終わり、最後の「オベロン」にとりかかっていた頃。

こんな風に俯瞰してみるとよくわかるメンデルスゾーンの立ち位置。

完全に、初期ロマン派の存在。
でも、もう少し視点を広げてみれば、古典派の末裔、かつ、純正ロマン派の狭間の存在のメンデルスゾーンが見えてきます。

その存在すべてを馥郁たる、たっぷりとしたロマン主義で解釈すると、交響曲は、サヴァリッシュやハイティンクの演奏が理想的。
軸足を、少し戻して、1番という作品の立ち位置を考えた場合に成り立つのが、今宵の演奏、ヘンゲルブロックの指揮によるもの。

この演奏は素晴らしい。

はつらつとした活力と、伸びやかな歌心。
それらを、現代楽器によるピリオド奏法により、完璧に導きだしてます。
豊かなスピード感と、鮮やかな歌い回し、キレのいいリズム。
 疾風怒涛的な終楽章は、こんな軽やかかつ、ビンビンの演奏で聴くと、ブラボー多発注意報が発令されそうです。

われわれにとって、ハンブルクの北ドイツ放送響は、ヴァントとの厳格なブルックナーの演奏のイメージが強くて、いまの首席指揮者、ヘンゲルブロックの指揮ぶりが、どうなのか、CBSということもあって、今後も、まったくわからない、そんな状況にあります。

でも、あの北ドイツのオケを、古楽奏法もいとわない、極めて柔軟な演奏スタイルに変えてしまったすごさ。
ピリオド奏法の陥りがちな、貧血ぎみのせわしさとは無縁のふくよかさと、柔らかさがここにはありますよ。
だから伸びやかなメンデルスゾーンにも、ピリオドがOKなのでした。

古楽の演奏から、現代音楽まで。
驚くべき広大なレパートリーと、それぞれに応じた演奏スタイルの選択。
これからの指揮者のあり方の、ある意味先端を走るヘンゲルブロックなんです。

オペラにおいてもヘンゲルさんは、無敵で、バロックから、ワーグナーまでを手掛けてます。
バイロイトに、早くも呼ばれ、新演出の「タンホイザー」を指揮したのは2年前。
鮮烈だけれども、ドラマと歌を大切にした、ごくまっとうな指揮でしたが、1年で降板。
 そうです、クソみたいなへんてこ演出では、指揮できませんよね。

まだ記事にしてませんが、一昨年あたりから思っていた、バイロイトの陳腐化と、普通のドイツの劇場へのなりさがりっぷり。
レコ芸の海外評でも、我が意を得たり的なことが書かれてました。

くそ演出では、いい音楽を奏でることができませんよ、まったく。
そのあたりは、また、夏の終わりに。

ヘンゲルブロックは、ドイツの期待の星だと確信します。
ティーレマンとは、まったく異なる個性ゆえに。

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2014年8月19日 (火)

ドヴォルザーク 弦楽セレナード マリナー指揮

Azumayama_201408_1

盆休みに実家のいつもの山。

いつもほどじゃない、コスモスは、まだ、ほんの少し。

でも、背景も含め、この色の配分は素晴らしいな。

相模湾も青くて、この日は、真鶴半島まで、しっかり見渡せましたよ。

反対側では烏帽子岩もよく見えました。

Dovrak_marrner

  ドヴォルザーク  弦楽セレナード ホ長調

   サー・ネヴィル・マリナー指揮 

           アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ

                  (1981.6 @ヘンリーウッドホール)


ドヴォルザークの34歳のときの若い名作。

このステキな曲を、思えば、本ブログではこれまで一度も取り上げていなかった。

レコード時代より、チャイコフスキーの弦楽セレナードとの組み合わせでもって、1枚のレコードとされることが多くて、当然に、ドヴォルザークはB面でした。

チャイコフスキーの同作とともに、旋律にあふれた、明るくて魅力的なセレナード。

まさにメロディメーカーとして、双璧のふたりの作曲家は、わたくし、双方ともに大好きですよ。
鼻歌まじりに、ひょいひょいと、あふれ出、湧きだす自身の創作の泉から、ついばんで、すぐさま作品に結晶してしまう天性の才。
 

 チャイコフスキーは、春の感じだけど、ドヴォルザークのそれは、秋のイメージ。

セレナードのジャンルに大きな二つの作品を残したブラームスをまるでなぞるようなドヴォルザークの作品ですが、弦と管と、明確に二分してます。

ブラームス・チャイコフスキー・ドヴォルザーク、独・露・東欧というエリアの違いは明確ですが、ともに、メロディストだった点で共通だし、世紀末の前、19世紀の本流の最後の輝きのような3人なのですね。

 1875年の作品のこちら。
若い日々は、民族臭ぷんぷんで、しかも、構成にこだわるきっちり型で、何度聴いても、さっぱりの交響曲を書いていたけど、3番以降(1873年)、ちょっと変わった感じをいだくのです。

5つの楽章すべてが、どこかで聴いたことがある・・・的な、懐かしい印象を抱かせてくれるこの作品。
ごく自然に民族感情を語り、抒情と情熱の感情を見事に表出。
一方で、5つの楽章のバランスがとても見事で、ソナタ形式のものがないにも係わらず、30分の演奏時間の内容は、とても充実。

1楽章の出だしからして引き込まれますが、その同じフレーズが、終楽章において再現され、曲を閉めるあたり、まったく素晴らしく、一遍のオペラのようです。
 2楽章の喜々としたワルツに、緩やかでほのぼの、美音満載の4楽章が素晴らしい。

つくづく、いい曲です。

サー・ネヴィルは、ロンドンレーベルに、チャイコとともに60年代に録音してますが、こちらは、落ち着いた深みある録音を得てのデジタル時代初期の演奏。
さすがのフィリップス録音。
すっきり、さわやか、マリナー・イメージをそのままに、艶やかなサウンドと、しっとりとした落ち着きを、巧みに導きだしてます。
素晴らしい演奏に録音。
この若々しさこそ、マリナー節でしょう。

最長老の指揮者となったサー・ネヴィル。
音友見たら、来年のPMFに来日するようです。

いつまでも、われわれ聴き手を爽快な音楽で包んで欲しいです、マリナーさま

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2014年8月16日 (土)

ブリテン 戦争レクイエム ヤンソンス指揮

Takeshiba1

この夏の、暮れる前の頃の東京湾。

竹芝桟橋あたりからの眺めです。

台風の襲来も多く、このところの夏空は、雲がウロコだったり、流したようなスジだったりで、美しいけれど、ちょっと不安を感じる模様ばかり。

あの、わたくしたちの知る夏空は、どこへ行ってしまったのでしょう。

真っ青な空に、もくもくとした入道雲。

夕方には、雷雲となり、ひと雨ざっと降って、そのあとは、またスッキリと晴れて、空が染まって、日暮らしが鳴いて、夏の1日が終わってゆく。
宿題はたくさん抱えながらも、明日もまたあるさ、との思いで、夏休みを喜々として過ごした子供時代。

日本の夏って、みなさん、そんな風に過ごしてなかった?

ここ数年、ゲリラ雷雨に、台風直撃、猛暑。

地球全体が熱帯性になりつつあり、日本の季節のメリハリある情緒も、かつてのものとなりつつあります。

でも、かつてのもの、過去のものにしてはならない記憶。

それは、戦争、そして、いくつもの震災で失われた命と、それを起こしてはなならいという気持ちと、予防の準備。

ヴェルデイとともに、真夏に毎年聴く、ブリテンの戦争レクイエムに、恒久平和の思いを託したいと思います。

Britten_warrequiem_jansons

   ブリテン  戦争レクイエム

      S:エミリー・マギー

      T:マーク・パドモア

      Br:クリスティアン・ゲルハーヘル

   マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団
                   バイエルン放送合唱団
                   テルツ少年合唱団

          (2013.3.13~15 @ガスタイクホール、ミュンヘン)


 ブリテン(1913~1976)の「戦争レクイエム」は、伝統的な「死者のためのミサ曲」の典礼文に基づく部分と、ウィルフレット・オーエンの詩による独唱による部分。
 このふたつを巧みにつなぎ合わせて、ひとつの、いわば「反戦」と「平和希求」をモティーフとする、独自の「レクイエム」を作り上げた。

ふたつの世界大戦の前にあっては、戦争は国同士のいさかいや、第三国への侵略などであって、局所的な戦いであり、作曲家や音楽たちへの影響も限定的でした。

しかし、武器の威力も増した、世界規模の戦争となると、いろんな影響を音楽家たちに与えることとなりました。
 世界大戦前と、戦中・戦後においては、作曲家たちは、芸術家としても、戦争そのもに向き合わざるを得なくなりました。

そんななかにあって、ブリテンほど、戦争を心から憎み、その音楽にもその思いを熾烈なまでに反映させた作曲家はいないのではないでしょうか。
イギリスの伝統としての制度、「良心的兵役忌避者」の申告をして、そのかわりに、ボランティアとして、音楽を演奏することで戦争ですさんだ人々への慰問をし続けた。

そして、戦後、二度と戦争など引き起こしてはならない、そんな思いから、この「戦争レクイエム」が、書かれ、同時に戦没者への悼みの意味合いも、ここに込められることとなりました。

と、毎年、同じことを書いてますが、ですが、暑いこの季節に、そして終戦の日に、この音楽の持つ意義なども思いながらこの名作を聴くことに、大きな意義を感じているのです。

作曲者自身の指揮による記念碑的な演奏の呪縛から何年も抜け出すことができなかったけれど、若いラトルのチャレンジから本格化し、いまや、この作品は、不朽の名作として、世界中で取り上げられ、録音もされるようになりました。

そんななか、昨年のブリテンの生誕100年には、予想外のヤンソンス盤が登場。

体調不良もときおり報じられ、バイエルンを中心にして、仕事の量も絞りつつあるヤンソンスは、ここでも、ものすごい集中力でもって、迫真の「戦争レクイエム」を一気に聴かせる。
最近のヤンソンスは、ミュンヘンでもアムステルダムでも、合唱作品を取り上げることが多くて、そのいずれもが完成度が高くて、こんなに一生懸命な演奏ばかり繰り広げて、大丈夫かいな、と思わせるものばかり。
 
 内面への切り込みが深くなり、効果のための音というものが一切見当たらない。
かつての若き頃は、音楽を生き生きと、面白く聴かせることに長けたヤンソンスでしたが、いまは、それに加えて、内省的な充実度をさらに増して、ここでも、音楽のスケールがさらに大きくなってます。

Jansons

アメリカ人、イギリス人、ドイツ人という独唱3人は、それぞれに実績のある方たちで、贅沢な組み合わせ。
オペラ歌手としてのイメージの濃い、エミリー・マギーは抑制を効かせた思いのほか無垢の歌唱。
そして、パドモアのシリアスで、読み込みの深い歌いぶりは、もしかしたら、初演者ピアーズに迫る名唱に思います。
ゲルハーヘルは、それこそ、F=ディースカウを思わせる言葉ひとつひとつへの傾倒ぶり。
この3人の歌のレベルの高さは、実に特筆ものでした。

バイエルンのオーケストラの高性能ぶりと輝かしさは、ベルリンフィルと双璧でしょう。
そして、どちらも音の基調は明るめ。
多彩な音色のベルリンに対し、バイエルンは、南ドイツ的な暖かさを持っている。
ブリテンのような、クールな音楽に、バイエルンの機能美と、明晰な明るさは、ぴったりと思います。
最終章リベラ・メにおける緊迫感と、ミステリアスな様相から徐々に立ち込める浄化ムード。
このあたりの劇的だけど、緻密な描き方は、ふたりの男声歌唱の素晴らしさもあって、ヤンソンス率いるバイエルンの真骨頂。

過去記事からコピペで、曲の概要を再び記しておきます。

「重々しく不安な感情を誘う1曲目「レクイエム」。
戦争のきな臭い惨禍を表現するテノール。
曲の締めは、第2曲、そして音楽の最後にあらわれる祈りのフレーズ。
 第2曲は長大な「ディエス・イレ」。
戦いのラッパが鳴り響き、激しい咆哮に包まれるが、後半の「ラクリモーサ」は、悲壮感あふれる素晴らしいヶ所で、曲の最後は、ここでも祈り。
 第3曲目「オッフェルトリウム」、男声ソロ二人と、合唱、二重フ―ガのような典礼文とアブラハムの旧約の物語をかけ合わせた見事な技法。
 第4曲「サンクトゥス」、ピアノや打楽器の連打は天上の響きを連想させ、神秘的なソプラノ独唱は東欧風、そして呪文のような○△※ムニャムニャ的な出だしを経て輝かしいサンクトゥスが始まる。
 第5曲は「アニュス・デイ」。
テノール独唱と合唱典礼文とが交互に歌う、虚しさ募る場面。
 第6曲目「リベラ・メ」。
打楽器と低弦による不気味な出だしと、その次ぎ訪れる戦場の緊迫感。
やがて、敵同士まみえるふたりの男声ソロによる邂逅と許し合い、「ともに、眠ろう・・・・」。
ここに至って、戦争の痛ましさは平和の願いにとって替わられ、「彼らを平和の中に憩わせたまえ、アーメン」と調和の中にこの大作は結ばれる。」

最後に至って、通常レクイエムとオーエン詩の、それぞれの創作ヶ所が、一体化・融合して、浄化されゆく場面では、聴く者誰しもを感動させずにはいない。
敵同士の許し合いと、安息への導き、天国はあらゆる人に開けて、清らかなソプラノと少年合唱が誘う。
このずっと続くかとも思われる繰り返しによる永遠の安息。
最後は、宗教的な結び、「Requiescant in pace.Amen」~彼らに平和のなかに憩わせ給え、アーメンで終結。

 このCDのジャケットは、焼失したコヴェントリーの教会。
この教会の再築に合わせて、作曲されたのが「戦争レクイエム」。
いろいろな演奏が、いまや聴けるようになりましたが、日本人の手によるものも小澤さん、大野さんと出ております。
広島や長崎をジャケットに使用した、そんなあらたな日本人による演奏を、世界に発信していただきたいと思っておりますが、いかがでしょうか。


過去記事

 「ブリテン&ロンドン交響楽団」

 「アルミンク&新日本フィル ライブ」

 「ジュリーニ&ニュー・フィルハーモニア」

 「ヒコックス&ロンドン響」

 「ガーディナー&北ドイツ放送響」

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2014年8月14日 (木)

ヴェルディ レクイエム アバド指揮

Kanda_church_a

都会のど真ん中に静かに佇むマリアさま。

カトリック神田教会。
1874年、明治7年創設の歴史あるこの教会は、維新後、禁教令が解かれ、すぐさま布教の足がかりとして築かれたものです。
フランシスコ・ザビエルに捧げられ、ザビエル教会ともされてます。

いまある、この堅牢な聖堂は、昭和3年のもので、国の有形文化財。

Kanda_church_c

聖堂内部は、撮影禁止ですが、ほんのちょっとだけ。

ステンドグラスを反映した光りが、とても美しく、静かな空間がそこにありました。

一度、こちらのパイプオルガンや、聖堂コンサートを聴いてみたく思ってます。

 8月の今頃は、毎年、ヴェルディのレクイエムを聴いております。

典礼的には、死者のためのミサ曲ですから、カトリック系の音楽となりますが、これほどの作品になると、カトリックもプロテスタントもないです。
ですが、教会で演奏するとなると、円柱にかたどられたロマネスク様式のカトリック教会の方が、相応しく思います。

Verdi_requiem_abbado_bpo

   ヴェルディ  レクイエム

     S:アンジェラ・ゲオルギュー  Ms:ダニエッラ・バルチェローナ

     T:ロベルト・アラーニャ     Bs:ジュリアン・コンスタンティノフ

   クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                   スウェーデン放送合唱団
                   エリック・エリクソン室内合唱団
                   オルフェオン・ドノスティアーラ合唱団

                 (2001.1.25,27 @ベルリン)


ことしの、ヴェルデイのレクイエムを弔いの念を持って、アバド盤を聴くことになるとは。

EMIに数枚残されたアバドの録音のうちのひとつですが、このライブ録音には、いつかの側面があります。

①アバド3回目の録音。
79・80年ミラノスカラ座、91年ウィーンフィル、2001年ベルリンフィルと、ほぼ10年おきに、その時の手兵で持ってレコーディングして、世に問うてきた、アバドの勝負曲であること。
その間にも、ロンドン響とも60年代から演奏してますし、なんといっても、わたくしたち日本人にとって忘れ得ないのは、81年のスカラ座との来日で、ソプラノを変えて2公演指揮してくれました。
このふたつは、わたくしの放送音源の中でもお宝のひとつとなってます。

②2013年は、生誕200年でしたが、2001年は、没後100年のヴェルディ。
ジルヴェスターでは、「ヴェルディナイト」を指揮。
そして1月に、このレクイエムで、さらにイースター祭では「ファルスタッフ」を上演。
アバドが、ヴェルディを集中的に取り上げた最後の機会となってしまいました。
 ベルリンの次のステージ、ルツェルンでのヴェルレクを夢見ていたのですが、それは叶わぬものとなってしまいました。

③病からの復帰。前年に胃癌となり、大半の演奏会をキャンセルして治療に専念し、復帰し、秋には、すっかり痩せ細って日本のわれわれの前にあらわれたアバド。
執念の「トリスタン」については、これまで何度も書いてきました。

その翌年1月のヴェルディ「レクイエム」が演奏されたのは、1月27日。
ヴェルディ100回目の命日、その日でした。

そして、今年、その演奏の14年後、期しくも、同じ1月の20日にアバドは旅立ってしまいました。

病を克服したことで、アバドの演奏は、透徹感にくわえ、壮絶なまでの音楽への集中と自己の命を削った代償としてのような燃焼度の高い、神々しい演奏を作り上げるようになった。

そして、そこに、感じたのは、アバドの若返り。

テンポもゆったりとなり、悠然たる巨匠風の大演奏となると思いきや、マーラーやブルックナーでは、快速テンポをとりつつ、覇気とオケ奏者を奮い立たせる気合にあふれた演奏を繰り広げるようになりました。
ですから、よけいに、ルツェルン時代のヴェルレクがどのようになったか、想像だけでも、泣けてきます。

 こちら、ベルリンフィル・ライブでのアバドは、もの凄い集中力と統率力でもって、ソロと合唱をも、ベルリンフィルの持つ輝かしい音色のもとに、引きつけてしまっている。
ピリピリとした緊張感は、これまでの2盤以上。
全員が、アバドの指揮棒のもとに帰依している感じ。

 ライブで、これだけ、精度が高く、迫真に富み、ダイナミックで、歌にもあふれ、美しい演奏って、絶対にあり得ないと思う。

ただ、ほんとうの贅沢だけど、注文をつけさせていただければ、EMIのキンキンとした録音が、どうにも気にいらない。
 そして、EMIになった要因かもしれない、ゲオルギューとアラーニャが、アバドの明るい禁欲的世界からすると異質で、歌にのめり込みすぎ。
それ自体は、素晴らしい歌唱なのですが・・・・。
 バスのブルガリアのコンスタンティノフも、声の揺れがどこか不安を感じさせ、どうしてもギャウロウのピシッと1本筋の通った歌声を聴きなれている身しては、ミスキャストの感は否めない。
バルチェローナは、まったくすばらしい。

合唱は、技量も音への集中度も完璧。
そう、この完璧度合いも、全体のバランスを考えるとどうかなと思ってしまう、そんな贅沢すぎる自分。

歌と知性にあふれ、病後の異常なまでの集中力を感じさせる演奏なのですが、オケ・独唱・合唱が、高性能ながら、どこか個性が違いすぎる、そんなアバド3度目のヴェルレクでした。

でも、アバド好きとしては、これもこれ。
ベルリンフィルの超絶高性能ぶりと、カラヤンになかった歌心と透明感には、ほとほと感心してしまいます。

アバドのヴェルレクなら、やはり、スカラ座。
無垢な清らかさと、すべて全員が同じ方向を希求している真の美しさ。

過去記事 ヴェルディ「レクイエム」

「アバド&ミラノ・スカラ座」

「バーンスタイン&ロンドン響」

「ジュリーニ&フィルハーモニア」

「リヒター&ミュンヘン・フィル」

「シュナイト&ザールブリュッヘン放送響」

「アバド&ウィーン・フィル」

「バルビローリ&ニューフィルハーモニア」

「カラヤン&ベルリン・フィル」

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2014年8月13日 (水)

バーンスタイン 「キャンディード」~Glitter and Be Gay

Sweets_foarst

おぉ、麗しのスィーツ天国。

自由が丘のスィーツ・フォレストは、甘いもののショッピングセンター。

一時の勢いはありませんが、まだ健在でしたよ。

あま~ぃ

Candide14

  バーンスタイン 「キャンディード」~「Glitter and Be Gay」

オペラ、「キャンディード」は、序曲ばかりが有名となりました。

たしかに、短い中に、ユーモアとドラマ、そして急転直下の音楽のスリル感。
それぞれが、演奏効果がたっぷりあがる名曲でありますね。

そのオペラ全曲を、数年前に観劇しましたが、カーセンの秀逸な演出でもって、アメリカンドリームと、ほのぼの感、そして最後は、地球規模ワールドワイドな壮大な環境保護や反戦へのテーゼを導きだす名舞台でありました。

その中におかれた、ヒロインのクネゴンデ(名前悪いね・・・)のアリア、「Glitter and Be Gay」は、わたくしの大好きな歌で、そう、序曲のエッセンスを、そのまま歌にしたかのような、バーンスタインの天才性とセンスあふれる曲なんです。

一番好きなのが、ドーン・アッショーの歌うCD。
ジャズもポップスも歌う彼女のセンス満点の歌唱がyoutubeにUPされてましたよ。

可愛さも感じるアップショーのアメリカンな歌。
若者も魅惑するだろな。

完璧かつ、心くすぐられませんか?

それに対し、女の人って、こわーーい、お父さんや、おじいさんは、きっとイチコロ。

そんな、恐ろしい、ナタリー・デセイのうますぎる歌。



わかっていても、はまってします、男のサガすら感じる、デセイさまの、有無を言わせぬすごさ。

もうおやめになって・・・

男たちは、みんな、そうしたもの。

みんな貢いでしまうので(byキャンディード)

でも、キャンデードの偉いところは、自分は、着実に農園を広げ、そんな彼に合う真面目な嫁をもらい、一方で、クネゴンデに騙されながらも、その虚構を見抜き、最後には達観してしまうところにありました。

 この、楽しいアリアは、キャンディードを騙してしまう、クネゴンデですが、本当は、そんな自分に苦しんでいるところを歌いださねくてはならない。

そうした葛藤でも、デセイさまは完璧ですよ。

そして、ドイツ語圏でも、深みさえもある、ディアナ・ダムラウが見事に歌ってますぜ。

こちらもいいですね。

こちらは、夜の女王にも通じる、ドイツ的な魔的な森の世界を歌い出してくれました。

こちらも、怖いわ・・・笑



そして、全米で大人気のクリスティン・チェノウィスさま。

1968年生まれのブロードウェイ歌手。

オペラの素養もあり、その歌への感情移入の見事さには脱帽。

オペラの側面としての「キャンディード」からすると、ミュージカルにぶれすぎだけど、オペラ=ミュージカルとしての方が作品の自由さからして、相応しく、むしろ、こんな歌唱こそ、バーンスタインが望んでいたのではないかと思ったりもします。

そして、最後は、再褐ながら、この歌唱をもっと進化させて欲しい、いや、きっとしている、彼女向けの曲でもある、パトリシア・プティボン。
天然系です。

クネゴンデみたいな可愛いど、おっかねぇ女には、おら、ぜってぇ、逢いたくねぇ~

過去記事

佐渡裕プロデュース「キャンディード」記事 ①

佐渡裕プロデュース「キャンディード」記事 ②

序曲とアリア

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2014年8月 9日 (土)

チャイコフスキー 交響曲第5番 メンゲルベルク指揮

Hamamatsucho201408_a

8月の小便小僧は、予想に反して厚着しちゃってますよ。

いえいえ、これはライフセーバーのジャケット姿なんですね。

下に着たボーダーの縞々もかわいいのです。

 

Hamamatsucho201408_b_2

今回の月イチは、チャイ5の番です。

みんなの大好きなチャイ5。

「悲愴」は、たまに聴くと、あぁいい曲だなぁ~と、しみじみ思うのだけれども、5番の方は、始終聴いて、その都度、ワクワクさせてくれ、気分も乗せてくれちゃう名曲だ。

でも、なかには、あれれ??、とか、へなへなっとなってしまう、そんな演奏もあるんですな。

そんな中から、今日は、これ。
しかも暑苦しいよ。

Mengelberg

   チャイコフスキー  交響曲第5番 ホ短調

  ウィレム・メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

                     (1928.6 @アムステルダム)


メンゲルベルク(1871~1951)は、ドイツ人を両親に、オランダで生まれた指揮者。

コンセルトヘボウを半世紀に渡って指揮し、コンセルトヘボウのオケを名門に仕立てあげた恩人であります。
このオケに、コクの深さと、重厚さと、濃密な響きをもたらしたのは、ホールの響きにもよりますが、この指揮者の長い治世によるところ。

いまのわれわれの耳で、メンゲルベルクの指揮する音楽を聴くと、思わずズッコケそうになりますが、しかし、一度はまるとヤバイのです。

テンポの異様なまでの動かし方は、許しがたく感じたりもしますが、それが、人の心を引きつけ、揺り動かしたりするようにもなります。
超スローで始まった第1楽章が、徐々にテンポアップしてゆき、ものすごい高まりへと導かれます。
 そのあとは、走ったり、止まったりの繰り返しで、ぼぉ~っとしていらんない。

第2楽章は、これぞまさにメンゲルベルク節炸裂の、大ロマンティック大会。
ホルンのあの主題も、濃厚甘口の味付けで、とろとろにされちまう。
管から、主題が弦に引き継がれると、今度は、大ポルタメント大会。
ネコが、100匹ぐらいいそうなのですよ。
正直、疲れてくるーー
むせび泣きもほどほどにしてほしー。
でも、オモシロい。

意外とまっとうな3楽章ですが、微妙なゆらしは、ここでも健在。
節回しが、丁寧すぎる一方、ぶっきらぼうだったりで、油断も隙もない。

ちょっとやる気なさそうに始まる終楽章ですが、ここで、ぼんやり聴いているととんでもないことになる。
聴いたことないフレーズや、楽器が飛び出してくる。
あげくの果てには、最後のコーダ部分。
思わず拍手してしまう、あの休止のあと。
いきなりの、モットー運命主題が飛び出してきてびっくり。
さらに、盛り上がりのピークでは、シンバル一発!
さらに、びっくり。
そして王道の大フィナーレは、小細工弄せず堂々たるもの。

あーー、お腹いっぱい。

メンゲルチャイコは、もういいや。

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2014年8月 8日 (金)

R・シュトラウス アルプス交響曲 メータ指揮

Jyouren

静岡県の伊豆。

涼しげなこの滝。

「浄蓮の滝」とよばれ、シダが生い茂る自然の宝庫でもあります。

かの、天城越えの舞台のひとつともなっていたみたい。

Amagi

何年か前に行きました。

中学のときの、熟の遠足で。
そのあと、大学生のときに友達と。
そして、家族と。

わたしの好きな場所のうちのひとつですよ。

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  R・シュトラウス  アルプス交響曲

   ズビン・メータ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団

                    (1975.5 @ロイスホール、UCLA)


夏、音楽の涼味感を味わえる曲の代表格が、こちらでしょう。

わたくしも、毎年、夏にこうして記事にしてきてますが、同じことをまた書いちゃうと、この曲がCDも演奏会でも、いまや、こんなに、ひっぱりだこになるとは思わなかった。

ベーム&ドレスデンのDGモノ録音ぐらいしかなかった60年代に、あらわれたのは、ケンペ&ロイヤルフィルのRCA盤。
その後、始まった「アルプス」競争は、いまに至るまで、とどまることがないです。

オーケストラの演奏技量の急速な向上と、録音技術の進化と、デジタル化、CD登場など、すべてが後押ししたアルペンブーム。

その一翼を明らかに担ったのが、メータ&ロスフィルのレコードでした。

ツァラ、英雄の生涯、家庭交響曲、ドンキホーテ。
ロスフィルとのメータのシュトラウスシリーズは、ついにアルペンで、聴かなくても、鮮やかで重厚なデッカ録音の目覚ましさが、ここでも炸裂。

録音のイメージが、その演奏や、演奏者を形作ってしまうことが多々ありますが、メータ&ロスフィルのコンビは、まさにデッカの録音チームが生み出した、最良の組み合わせでした。
いま聴いても、ほんとうに音がいい。
安い装置でも、高い装置でも、等しく平等に、よく鳴ってくれる音盤。
デッカ=ロンドン=メータ=ロスフィル
だいたいにおいて出来上がった鮮やかなイメージですよ。

この演奏、ほんとうにわかりやすいし、痒いところに手の届く面白さ満載。
こういう、いい意味での平易な面白さ、楽しさを労せずして展開することができたのが、メータのあの頃の手腕なのですね。
 描写的なシュトラウスの手の込んだ表現も、まるで鼻うた混じりに、次々と展開をしてみせるし、爆発的ないくつもの場面におけるフォルテも、いろんな度合いが秘められていて、巧みに登頂でのピークが築かれ、シビレルほどの感動、いや、興奮を与えてくれちゃう。

これはこれ、いいんです。

ケンペや、プレヴィン、そして同類の演奏の先端、カラヤンらの、味わい深い、アルプス登山と人生回顧には及びませんが、何度もいいますが、ともかく面白いし、かっこいいんデス。

Alpine_sym_mehta_bpo

 そのメータは、15年後の90年に、カラヤン臭がまだ残るベルリン・フィルを指揮して、この曲の再録音をやってのけました。
基本路線は変わりませんが、すみからすみまで、音がびっしり充実のベルリンフィルを前にしては、ロスフィルはさすがに分が悪くて、比較すると、音の隙間を感じることもあります。
でもですよ、やっぱり、メータはロスフィル。
輝かしく、心から、気持ちいいサウンドに酔いしれることができるのは、旧盤のLAPOですよ。
 切れ味がなんたっていいし、聴いてて、あのメータの縦横に、まさに切るような指揮ぶりが、思い浮かびます。
そのあたり、少しの粗さも含めてロスフィル盤は、若さの代償としての半面の、音楽の勢いを感じさせ、それが若さにも、大胆さにもつながっていたんです。

78歳となったメータ。

若手三羽烏とよばれた70年代、メータが筆頭を走り、次いで、オザワ、アバドだった。

メータだけが、いまもまったく変わらずの活躍ぶりで、レパートリーも普遍で、まったくブレがありません。
長老大巨匠の域と達した現在も、メータは、鮮やかさと、音選びのたくみさ、キレのよさでもって、若手となんら変わらない鮮度を保っていると思います。

登山のときの涼しげな滝と、下山とときの、切羽詰まったせわしなさの中の滝。

メータの演奏では、そんな面白さが、見事に引き立ってます。

さぁ、滝を思い浮かべ、シュトラウスの筆致のスゴサも思いつつ、「アルプス交響曲」を聴いて、クールダウンいたしましょう

最後に、ロサンゼルスフィルは、なんだかんだで、メータが最高っ

この素晴らしいオーケストラを、いまはドゥダメル君が無欲に導いていって欲しい。

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2014年8月 5日 (火)

マーラー 交響曲第1番「巨人」 ドゥダメル指揮

Tokyotower20140805

真夏の夜の東京タワー。

何度もいいますが、墨田のスカイツリーより、こっちの方が、何十倍も好きだし、美しい。

撮影スポットもだいぶ極めてきました。

ここは、電線がキモですが、春には桜と一緒に撮れる場所なんです。

そして、ここには、オープンスペースのバーが出来てました。

ほぼ、この景色を見ながらお酒が飲めちゃうみたい。

閉店準備中だったので、入れなかったけど。

Mahler_sym1_dudamel

   マーラー 交響曲第1番「巨人」

 グスターボ・ドゥダメル指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団

               (2009.10.8@ウォルト・ディズニー・ホール、LA)


若いから、なんでもOK,ごんごん、行きなされ。

そんなイキのいいマーラーです。

何度も聴くと、鼻についてくるけれど、ライブだったら、初聴き音源だったら、きっとそう思って、聴き古したこの曲に、夢中になってしまう、そんな演奏。

1981年生まれ、33歳のベネズエラ生まれの指揮者、ドゥダメル。

ご存知のとおり、音楽新興国、中南米ベネズエラの音楽メソッドが生み出した希望の星。
その彼が、いまや若くして、クラシック音楽界、世界の希望の星へと短期間に昇りつめました。

その彼が持つポストは、母国のシモン・ボリバル・ユース・オケ、エーテボリ響にロスフィルです。
中南米に、北欧に、米西海岸ですよ。
ひっぱりだこのドゥダメル君、ロンドン、ミラノ、ウィーンフィル、ベルリンフィル・・・、もう世界制覇しちゃった感が強いです。
日本でも、すっかり認知され、手兵との熱狂的な来日のほか、スカラ座とも昨年。
ことしは、ウィーンフィルとともにやってくる。

若き日々の苦労生活が嘘のような、こんな順風満帆の音楽人生。

まさに、シンデレラストーリーですよ。

アバド、ラトル、バレンボイム、サロネンら、錚々たる先輩指揮者たちからも熱烈バックアップを受けてのことも、大いにプラスです。

思えば、われらが小澤さんも、西洋音楽の世界に切り込んだ、非欧米人としてのパイオニアでありました。
欧米中心の音楽界に切り込んだ小澤さんこそ、ドゥダメル君の大先輩でありましょう。

大巨匠がほぼ絶滅しつつあり、オーケストラ運営も厳しさが漂う。
一方で、世界的にみて、新興勢力のオーケストラが、その魅力と実力を開花させている。閉塞感漂う、従来の音楽界には、どうしてもスターが必要だし、ストーリーも必要。

Lapo2

ドゥダメル君に続いて、きっと、ほかの国々、ことに、隣国の大国からも、国の威信を背負った指揮者やオケが生まれてくるものと思われます。
 そして、それにしてもどうだろう。
そうした演奏家やオケは、みんなそろって情熱的で爆発系。
中身は、あと付けか・・・・
かつて、日本の誇るN響が、海外に出ていったころ、精密な腕時計のような演奏ぶりと評価された。
 そういうことなのだろう。
小澤さんや、若杉さんは、知的なバトンテクニックに裏づけられた説得力を持っていたのだから。
日本は先んじたけれど、ちょっと独特な地位を先に勝ち得た感じ。

 ドゥダメル君は、爆演男子とずっと思っていて、正直、引きぎみだった。
 でも、よくよく彼の指揮を、観て、聴いてみれば、至極まっとうで、どこにも機をてらったり、あざとい演出を施したりというところがなくて、本格派なのですね。

ビジュアルでいけば、イケイケ系のお姿なんだけど、その指揮ぶりは、師である、アバドやラトルのように、楽員を引きつける生真面目な表情と、的確なる拍子の取り方がまずは目につきます。
大ぶりは、その年ごろを考えたらしてません。
注目は、指揮台に生えたかのような両足が、微動だにしないこと。
地に足がついてます。
それでいて、左右、オケの全体を見渡す目力の強力さ。

確かに、指揮者であることのすべてを、持ってる、そんなドゥダメル君なんです。

昨年のスカラ座とのNHKの放送では、まったく慎重すぎて、面白みを感じなかったのですが、遡って、ロスフィル指揮者就任コンサートの4年前のマーラーでは、生き生きと鮮やかなドゥダメル君の姿がここにありました。

ロスフィルという軽やかかつ、明るく明晰なサウンドを持つオケは、ドゥダメルにはぴったりだと思います。
ここ1~2年で、世界のトップオケやオペラハウスに登場するようになったのですが、ここは、じっくり、ロスフィルとエーテボリで持って、英気を養って欲しいのです。
 DGはなんで、ベルリンフィルとツァラトストラを録音させたり、ウィーンフィルとのライブも進めたりするんでしょう。
 ロスフィルがあるじゃありませんか。

聴き手は、ロスフィルとのツァラを聴きたいんですよ。

メータとの比較をしたいんですよ。

音楽業界は、急かないで、このドゥダメル&ロスフィルの成長を見守り、記録していただきたい。
かつてのメータがそうであったように、ロスからステップアップして、ニューヨークかシカゴへ飛んで、そこから、ミラノやベルリンでいいじゃないか。
 それだけ、人材不足なのかしらね。

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ロスフィル音楽監督就任コンサートのライブのこちらは、緩急が鮮やかで、音は艶やか。
そして、ドラマテックな盛り上げは、ハンパなくすごい。
聴衆の熱狂ぶりも激しい。
でもさ、語りすぎの音楽も疲れるわ。
面白さ優先に、期せずしてなってるし・・・・。
 

それからすると、最近のドゥダメル君は、おとなしくなっちゃったかな??

アバドの後継者と思ってるから、じっくりと成長して欲しいな、ドゥダメル君よ。

ロスフィルの指揮者の選択は、ほんと、いいね。
2009年以降のドゥダメルは、非欧米のメータ時代の黄金時代を築いて欲しい。
そして、いまのアメリカのオケすべてにいえることは、日本人もいるけど、楽員の多くがアジア系なこと。
いずれも、ジュリアード系の腕っこきばかり。

こんなとこにも、クラシック音楽業界のいまの縮図を見る想い。

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2014年8月 3日 (日)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 サロネン指揮

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7月最後の日の、夕暮れの東京タワー。

7時前だけど、またタワーには、明かりが灯ってません。

ほかのサイトには公開したけれど、みなさん、不気味な空と雲に注目されてらっしゃる。

暑すぎる毎日、日が沈むころになると、気温も下がり、温度差で風も巻き起こり、地上と上空の気温の開きも大きくなる・・・・
 そんなこんなのいろんな事象が、空の色や光の現象となって起こるのでしょう。

しかし、一方で、かの大震災のおりにみられた雲の奇妙さ。

いろんな要素があるとは思いますが、注意は怠りなく過ごしたいと思います。

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  ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調

    エサ・ペッカ・サロネン指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団

                  (2011.12 @ウォルト・ディズニー・ホール、LA)


タコ4、大好き。

この長大で、正直ワケのわからん3楽章の交響曲を、何度も聴いてきたけど、その都度思うことは、「さて、いまの時間は、なんだったのだろう・・・・・?」。

音楽は、まるでパッチワークそのもの。

いま泣いたカラスがもう笑った・・・。
いまや死語ですが、そんな私たちの親世代が、子供たちに対して発したセリフが、まんま、あてはまります。
 急転直下、悲喜、怒笑、叫嘆安堵・・・・あらゆる感情が、次々にあらわれては変転して、消えてゆく。

この感じは、マーラー以上で、ショスタコーヴィチのオリジナルといってもいいかもしれない、章節単位のとりとめなさの、一大集結とも呼ぶべき音楽です。

これを交響曲と呼ぶべきかは、作曲当時の1936年、プロパガンダ的な2番や3番のあと、純粋交響曲として4番を送り出したショスタコーヴィチが、オペラ、「ムツェンスクのマクベス夫人」でもって、当局の怒りに触れ、引っ込めてしまった要因のとおりに、本来の意図、すなわち、当局や体制に対する思いを密かに込めた標題性を、ここに、いかに読みとるかにもよります。

ですが、そのあたりの謎や、不合理感を突き止める証拠や根拠も少なく、いや、あるにしても、ショスタコの音楽を、譜面に書かれた通りのことを、音として万全に昇華するという演奏スタイルが、いまや主流として定着したものと思います。

ハイティンクのヨーロッパ人としての普遍的な演奏こそが、その最良の姿であると核心しますが、ショスタコをかなり演奏しているはずの、サロネン(サロさま)の、ついに出現した4番も、それをさらに拍車をかけ、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、すべての様相が盛り込まれ、かつ、冷静沈着な演奏にその表層は終始してるところが凄いのです。 
 そればかりでなく、その沈着さとともに、高いテンションのある、攻撃的な様相も、1楽章の中間部あたりから、びんびん聴かれ、興奮の坩堝と化してしまいます。

サロさまの音楽は、いっけんクールでありながら、思わぬライブ的熱狂を見せつけるところが超魅力なのであります。
同じ志向の、ブーレーズ閣下とは、音符のひとつひとつの熱さでもって、サロ様の方が、曲によっては上と感じられますし、冷静なの裏返しの情熱は、サロネンのほうが高いかな、と思わます。。。

3つの楽章が、それぞれに長大で、雄弁ながら、浅薄な感情にとらわれているような気がしてならいけれど、オーケストラを聴く楽しみや刺激が、たっぷり盛り込まれている交響曲だと思います。
 5番の雰囲気も、たくさん感じますが、タコさん交響曲をたくさん聴いてくると、5番よりも、4番の方が面白く、切実に感じられてくるのです。

いまの現在なら、これくらいは、普通に、もしかしたら鼻歌交じりに聴くことができる、そんな音楽です。

サロネンのロスフィル時代は、1992~2009年と長かっただけに、録音もたくさん。
ドビュッシーやマーラー、ブルックナーなど、明晰さが際立ち、エッジも効いた名演ばかりですよ。
近現代ものばかりのイメージがあるけれど、本拠地では、ベートーヴェンやブラームスも指揮してました。
アメリカのオケの指揮者は、当然にそういった普遍的なレパートリーも求められるわけで、それがドイツの本場あたりにいくとどうなのだろうか、という疑問もあるけれど、わたしは、ベルリン・フィルの次期指揮者には、サロネンを推したいです。
5~10年くらいの任期で、ラトルのあと、次の次の世代への橋渡しにも、世代的にちょうどいい。
数年後にやってくる、ヤンソンスのあとの、バイエルン放送響でもいい。

このイケメン指揮者の動向には注視したいですね。
とかいいながら、サロネンとわたくし、同い年なんです・・・、しょぼ~ん。

ショスタコーヴィチ4番 過去記事

 
 「大野和士&新日本フィル」

 「ハイティンク&ロンドンフィル」

 「ハイティンク&シカゴ響」

 

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2014年8月 2日 (土)

ドヴォルザーク 交響曲第9番「新世界より」 プレヴィン指揮

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芝浦から浜松町方面を望む。

休日ですので、オフィスビルの明かりは、ほとんどなく、マンションの明かりはちらほらあります。

江戸時代までは、ここは海。
運河がその名残であります。

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    ドヴォルザーク  交響曲第9番「新世界より」

   アンドレ・プレヴィン指揮ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

                      (1990.4.30 @ロイスホール、UCLA)


いわゆる「新世界」であります。

Fromが付いているから、「新世界より」とか、「から」とかになります。

そして、俗に言う、第9と呼ぶ方はまずはおりません。

とかなんとか書いてますが、これほどの有名曲になると、もうなにも書くことはありません。

 この曲は、自分には、年末から正月にかけてのイメージがあって、何故かというと、小学生のときの、初レコードがこの曲でありまして、それは、親からのありがたいクリスマスプレゼントだったのです。

ケルテスとウィーンフィルの「新世界」と、カラヤンの「田園」、この2枚。

毎日毎日、その2枚のレコードしかありませんから、飽くことなく聴き続けた少年のワタクシ。
各種溢れかえる、音源は、いまやネットからのものも加わり、一度流しておしまい。
レコードをあれほど、大切に聴いた自分が、遠い存在のように感じます。

そんな思いもふまえて、ブログをやることの効能は、1枚のCDをじっくりと聴くという行為、そのものにも直結するということです。

さてさて、真夏の新世界、今宵は、アンドレ・プレヴィンのロスフィル時代の演奏で。

ジュリーニという大物がヨーロッパに去ったあとのロスフィルには、プレヴィンがやってきました。
1985年から89年の4年間ですが、ロスフィルの明るいサウンドには、プレヴィンはまさにお似合いで、ジュリーニ退任のあと、士気の落ちたこのオーケストラを、プレヴィンは見事立ち直らせて、フィリップスやテラークに多くの録音を残し、日本にもやってきました。

1楽章の繰り返しはなしで、演奏タイムは約41分。
そのわりに、テンポがゆったりめに感じるのは、プレヴィンらしく、丁寧にやさしく、音楽の隅々にいたるまで目を光らせているからでして、どこにも急いたところはなく、おっとりとした温和な演奏なのです。

懐かしさや、かっこいい旋律満載の超名曲ですが、こんな風な普通の温厚新世界があってもいいと思います。
 旋律の歌わせ方も、いかにも優しいプレヴィンですよ。
聴き慣れた旋律の数々も、どこか新鮮に聴こえます。
埋もれてしまう各声部も、浮かび上がってきて、そちらも新鮮。
 そして、第2楽章ラルゴのしみじみ演奏には泣かされました。
ことに、中間部の哀切あふれる歌い回しは、そうくるかって感じでたまりません。

聴き古した名曲も、いろんな発見を与えてくれる演奏で聴くのもまたいいことであります。

最近、プレヴィンの活動が聞かれないけど、もう85歳。
いつまでも元気にいて欲しいと思いますね。

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2014年8月 1日 (金)

シューマン 交響曲第3番「ライン」 ジュリーニ指揮

Sakikata

どこぞの滝か忘れてしまいましたが、過去画像から。

秋田県のどこかです・・・。

夏に滝は、実によいですね。

マイナスイオン出まくり。

滝音も近ければ轟音でですが、そこそこから聴けば涼しげな音に聴こえます。

あぁ、暑くてせわしいところを脱して、リゾートりたい。

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  シューマン  交響曲第3番 変ホ長調 「ライン」

   カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロザンゼルス・フィルハーモニック管弦楽団

              (1980.12.1@シュライン・オーディトリアム、LA)


久しぶりにシューマンの3番を聴く。

演奏会での記事は書いてますが、もしかして、音源記事は、これが初かも。

そんな3番です。

4つのシューマンの交響曲のなかでは、1番を「春」という題名からしてすぐに聴くようになり、次いで同じく標題付きの3番を聴いて馴染んだ。
そのあと来たのは4番で、テレビでバーンスタインとウィーンフィルの演奏を見てから。
 熱狂の渦を造り出すバーンスタインの指揮もさることながら、ぎくしゃくとしたリズムや、いびつなまでの、のめり込みの情熱にほだされたものです。
 最後にやってきたのは、2番。
メータとウィーンフィルのFM放送を録音し、何度も何度も聴くけれど、地味感しか印象として残らない・・・
そして、ここでも、バーンスタインでして、札幌でPMFの若いオーケストラに必要なまでに、シューマンの極意を伝授しようとしていた姿が忘れられない。
そこから、2番が自分の中では、イチバンと思うようになり、最近では、アバドの録音も登場して、ますます、2番好きが高まってます。

実演では、なんといっても、シュナイト&神奈川フィルの黄金コンビで、4番を除く3曲が聴けたことが大きいです。
南ドイツの大らかさと、構成力のしっかりした佇まいでもって、ドイツの作曲家シューマンを実感させてくれました。

 前置き長いですが、3番「ライン」の、わが愛聴盤は、サヴァリッシュ、ハイティンク、ジュリーニであります。
ありきたりの、お馴染みのメンバーですが、そろそろ、新しい可能性にあふれたシューマンの指揮が登場してもいいだろうと思ってます。
そんなこと言いつつ、最近のシューマン演奏を、ひとつも聴いてない自分が言うセリフではありませんがね・・・・。
でも、ほかの作曲家たちの交響曲が、清新な息吹きを吹きこまれるような演奏が続出しているのに、シューマンとメンデルスゾーンは、ちょっと、その立ち位置が微妙に思えたりするもんですから。

 旧フィルハーモニア盤は、聴いたことがなのですが、ジュリーニ&ロスフィル盤は、ほんとにいい演奏だと思います。
ハイティンク&コンセルトヘボウには、コクの味わいがあり、サヴァリッシュ&ドレスデンには、オケの古雅なまでの味わいがあり、こちらのジュリーニは、古式あふれる中世武士の心意気のような味わいがあります。

全体を覆う、レガート感。
弦楽を中心に、音をたっぷりと弾いて、豊かな響きも醸し出してます。
それが実に雰囲気よろしく、シューマンのラインに相応しいのです。
テンポも、当然に、ゆったりめに聴こえます。
ドイツの音楽であるとか、イタリア人指揮者であると、オケがアメリカ・ウェストコーストのものであるとかの、そんな字面の印象はまったく感じることがなく、ここにあるのは、まさにシューマンの想い描いたサウンドではないかと思います。

明るさも充分、壮麗さも充分、深刻さもしかり、おおらかさもあって、最後には、見事なアッチェランドで、息を飲むほどの勢いと感銘を与えてくれます。

ジュリーニとロスフィルのコンビは、シカゴのそれと並んで、わたくしは、一番素晴らしい果実を残してくれたと思っております、はい。

そして、同じく果実といえば、シュナイト&神奈川フィルの名演の数々を、わたくしは、ありがたくも、美味として数々頂戴しました。

 シューマン3番のライブ記事

死ぬまでに、一度行ってみたいな、ライン地方。

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