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2014年11月25日 (火)

武満 徹 ノヴェンバー・ステップス 岩城宏之指揮

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近所の銀杏も、すっかり黄色く色づきました。

これが散って、地面もまた、黄色く染まって美しいのですが、それは即、冬ということで、それはそれで、寂しく、厳しいもの。

でも、街は、ことに夜が眩しく賑やか。

それは、都会ばかりですが・・・・

政治や経済、国際問題なんぞ、あれやこれや、頭をよぎり、かつ、自分の仕事や生活に忙しいニッポンのみなさん。

わが邦には、こんなに美しい四季と、それぞれに色ずく自然があります。

心、穏やかに、静かに楽しむ気持ちを大事にしたいものです。

Takemistu1984

わたくしが行った、このコンサートも、CDになっております。

  武満 徹   「地平線のドーリア」

          「ノヴェンバー・ステップス」

          「鳥は星形の庭に降りる」

          「ドリームタイム」

          「オリオンとプレアデス」(犂と昴)

    岩城 宏之 指揮 NHK交響楽団

 

        琵琶:鶴田 錦史

        尺八:横山 勝也

        チェロ:堤 剛

              (1984.6.13 @東京文化会館)


このコンサートは、サントリー音楽財団が、1981年より、毎年定期的に行ってきた「作曲家の個展」の4年目、1984年のライブであります。

松平頼則、黛敏郎、山田耕筰と続いて、4年目が、武満徹でした。

この年は、まだ、サントリー・ホールが開館していなかったため、オーケストラ演奏の大半は、文化会館とNHKホール、人見記念講堂などで行われていた時分。
そんな昔じゃないけど、でも、思えば遠い昔に感じます。

作品説明と、詳細な年譜、内外の執筆陣による読み物や対談など、充実したパンフレットは、いまでも貴重なものに思います。

「年齢とともに感受性は鈍る。批判力ばかりが増して、創作の歩調は緩慢になる。
義理や社交のために、無為な時間を過ごす。他人を受け入れない半面、そのぶん、自分を許すようになる。歳とって、碌なことはない、が、そうなって感じられ、捉え得ることもある。それを説明するのは、だが億劫だ。
三十年音楽を続けてきたのであるから、これからは、より新しい仕事をしなければならない。正直に、余分を言わず、骨格のしっかりした仕事がしたい。
 今回、「個展」という機会があたえられたことは、私にとっては、極めて意味のある転機であり、あるいはこれを天機と呼ぶのだろうか?
 この<作曲家の個展>のために択んだ曲は、それぞれ、節目、節目に生まれたものである。
紆余曲折を経て、道は自ら判然とする。」


このパンフレットの巻頭に添えられた、武満徹自身の言葉であります。
このとき、作曲者は、54歳になる年。

氏の思いは、ほぼ全面的に、わたくしの今に被ります。
もちろん、平々凡々たるワタクシには、転機はあっても、天機なんぞ、見出す場もすべもありませぬが。。。

そんな節目を感じながら作曲者が挑んだこの<個展>に、当時のわたくしは、まだ20代の若輩。
ただただ、武満サウンドの精緻なる響きに、緊張感をもって浸るしかできなかったと思います。

Takemistu

 発出のものは、2枚組で、コンサートすべての曲目が収録されているものですが、わたしの再発編集ものは、「地平線」と「ノヴェンバー」と、「鳥は星形」の3曲のみ。

若い耳で聴いた武満と、いま、そこそこの年齢を重ねた耳で聴いた武満とでは、同じ演奏でも、まったく受け止めかたが違います。
なによりも、CDですから、何度も繰り返し聴けるし、気になったところは、後戻りできる。
66年から、77年にかけての作品3つで、この頃の作品には、調性感もあるし、なにより、音に色彩を感じます。
それが聴きやすさにつながっていて、近現代音楽を、当時よりも多く、それも多面的に聴くようになっている今の自分には、甘味なる音の響きと受け止めることもできました。

「ノヴェンバー・ステップス」は、邦楽器と西洋楽器の競演であり、その対比と融合を静かに味わうのですが、両者の緊張感と間の空気感こそ、邦と洋との相違でありましょう。
序と、11の並列された段(ステップ)からなり、そして、まさに11月にニュー・ヨークで初演。
 すでに半世紀近く前の音楽ですが、常に、新鮮な感覚でもって聴くことができます。

もうひとつ、武満徹の言葉を引用します。

「わたしの音楽は、たんに娯みや慰めのものではない。わたしの音楽は、いま生きている時代の、知や感情と結びついてはいるが、だからといって同時代性に靠れかかっているわけではない。私の音楽はつねに、個人的感情から生まれるものであり、「日本主義」というようなものとは関わりをもつものではない。
 私の音楽は、「自然」から多くを学んでいる。
自然が、謙虚に、しかし無類の精確さでさししめすこの宇宙の仕組みにたいして、私の音楽は、その不可知の秩序への限りない讃歌なのだ。
私は、音楽を通して、「世界」の匿名の部分(パーツ)になりたい。」


この言葉を読むと、武満作品が、その後も語り続けたものが、よくわかるような気がします。
ですから、邦楽器は、単に和楽器であっただけで、とりたてて、和と洋の対比という聴き方も一理あれど、違うような気もいたしますね。

 この84年の個展ののち、96年に、66歳で亡くなるまで、武満徹は、まだまだ多くの作品を、さらに深い切り口でもって残しました。

わたくしも、「天機」を求め、つかめるように頑張らなくてはいけませんね。
11月は、自分も、このブログも、ひとつまた歳を重ねました。

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コメント

「作曲家の個展」。
おもしろそうですね。松平、黛さんなんかはしっているけど、最近の作曲家はさっぱり。たまーに西村朗さんとか細川さんとかをテレビでみるくらいで、全容は依然として不明なまま・・・。
Youtubeでいいのがでていれば聞くんだけど。
武満さんは、サロネンとかメルクルとか、けっこういろんな演奏家が録音しているようです。
たとえばイタリアの作曲家、マリピエロとかピゼッティ、ダラピッコラにシェルシなんかは、トスカニーニもやらないしムーティもアバドさんもほとんどやらない。その点、プロムスなんかのあるイギリスは世界初演、中継放送、レコードいっぱい。うらやましいかぎりです。

投稿: もちだ | 2014年11月28日 (金) 20時18分

もちださん、こんにちは。
「作曲家の個展」、まだ継続中ですね。
わたくしも、恥ずかしながら、現代の作曲家に関しては、完璧といっていいほど知りません・・。
 唯一、武満さんだけは、かなりきいていると思います。
それというのも、世界的に演奏され、CDも多々あり、演奏会でも、冒頭に持ってこられる機会も多いからですね。
 
 アバドは、現代音楽への取り組みには積極的でした。
でもさすがに、ルツェルン時代はあまりやりませんでしたが、ウィーンモデルンでの数枚が、いまやお宝のようです。
 そして、ご指摘のとおり、英国は、オケもメディアも実に積極的ですね。
プロムスの各コンサートには、初演ものがたくさん。
オケも、メディアもたくさん委嘱しているし。
 我が邦も、各オケが、レジデント作曲家を持ちつつあり、面白い流れも出てくるかもしれませんね。

投稿: yokochan | 2014年11月29日 (土) 05時07分

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