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2014年12月

2014年12月31日 (水)

R・シュトラウス 4つの最後の歌 アバド指揮

 

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東京駅開業100年を記念した丸の内駅舎のライトアップイルミネーション。

100年というと、ちょっと以外な感じです。

何故って、わたしのいま住む千葉市のお隣の駅は、今年120周年でした。
ここは、いまは自衛隊の、かつてのむかしは、陸軍の駐屯地があったからかもしれません。

そして、一番の古参は。
そう、「機笛一声、新橋を~♪」ということで、新橋駅と、そこをつないだ横浜の桜木町なんですね。
142年前です。

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皇居に近いとはいえ、昔は原野だったという丸の内側。

どんどん進化を遂げる東京駅は、人の多く集まる観光スポットにもなりました。

そして、美しい。

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 今年も、最後は、この曲で。

そして、この人との別れが来ようとは思いもしなかった、まさに青天の霹靂の報であった、その死。

最愛の指揮者「クラウディオ・アバド」とのお別れは、ほんとうにつらいものでした。

ニュースを見ても、ネットを見ても、ウソであって欲しいと、そればかり。

 ですから、シュトラウス・イヤーをそっと締めくくるのに、アバドの演奏は欠かせません。

アバドの「4つの最後の歌」の正規録音はひとつだけ。

その他、ルツェルン音楽祭でのライブ映像(NHK放送)と、シカゴでのFMライブ自家製CDRを聴くことできます。

Mattila_abbado

   R・シュトラウス 「4つの最後の歌」

        S:カリタ・マッティラ

    クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                        (1998.12 @ベルリン)

        S:ルネ・フレミング

    クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

                        (2004.8.13@ルツェルン)

        S:マーガレット・プライス

    クラウディオ・アバド指揮  シカゴ交響楽団

                        (1981.10.1@シカゴ)


シカゴ響主席客演時代の若き日のアバド。
ベルリン時代、病に倒れる前の正規録音。
そして、アバドがおおいなる高みに達したルツェルン時代。

3人の歌手たちに、わたくしの好みの評点をつけることは、割と簡単です。
クリアな美声のマッティラが一番好きで、クセの少ない、静かな佇まいのM・プライスも清潔で好き。
フレミングは、うまいっていえば上手いし、シュトラウス向きのゴージャス声ではありますが、わたくしには味わいが濃すぎ。

3人の個性溢れる歌手に、アバドは、いずれも、精緻で透明感あふれるオーケストラの響きでもって応えております。

シカゴのオケとの相性のよさには定評がありましたが、ここに聴く響きは、本拠地オーケストラ・ホールだけあって、一連のマーラーのCDに近い感じがします。
しなやかで強靭な指揮者とオケです。そして、よく歌う。
このコンビ、もっと聴きたかった。

そして、そのあとに聴くとベルリン・フィルは、明るく、輝かしく、そしてヨーロピアンな響き。
各所で活躍する、木管やホルンの鮮やかな美音は、そのままベルリンフィルという希有な集団の音色が集約されているかのよう。
 カラヤンとヤノヴィッツの、ときに人工的な美感を感じさせるシュトラウスも、世紀末的な美しさを誇ったものですが、アバドの指揮するベルリン・フィルは、もっとピュアで、厚みは薄れたものの、音の透明感においてははるかに素晴らしく、歌謡性も高い。

さらに、アバドのもとに集まった名手たちの集団、ルツェルンでは、無垢なまでの音楽表現行為は、楽譜そのもの、シュトラウスが書いた音符そのものたちが、自然に語るに任せたような感じです。
フレミングの濃厚な歌唱とは、どうみても合わないのですが、作為の一切感じさせないオーケストラは、ほんとに素晴らしくて、こちらは映像付きなものですから、アバドを信じて夢中で演奏する奏者たちと、静かなアバドの指揮ぶりに、感動は増すばかりなのです。

 文字通り、シュトラウス最後の完成作品となった「4つの最後の歌」。
もともと、名前を命名したのも、そして曲の配列を考えたのも、シュトラウスではなく、友人で出版会社を営むロートという人物だった。
もう1曲加えて、5曲になるはずのものが、シュトラウスの死によって4曲の歌曲集となりました。
 初演は、シュトラウスの死後1年を経て、フラグスタートとフルトヴェングラーによって行われました。

   1.「春」(ヘッセ)

   2.「9月」(ヘッセ)

   3.「眠りにつくとき」(ヘッセ)

   4.「夕映えに」(アイヒェンドルフ)




 「休息にあこがれる

   そして、おもむろに つかれた目を閉じる」  

                     (9月)


 「はるかな、静かな、平安よ

    かくも深く夕映えのなかに

    私たちはなんとさすらいに疲れたことだろう

  これがあるいは死なのだろうか」

               (夕映えに)


アバド追悼の、今年の特集でも、ルツェルンの演奏は取り上げ、そして、この詩を載せました。

この曲集のエッセンスのような部分です。

85歳のシュトラウスが、その死を予見しつつ、これらの詩に音楽をつけたわけです。

ですが、シュトラウスは、老いても、その死生観を描いた音楽は、明朗かつ清朗。
甘味さもたたえた、伸びやかな音楽は、死を肯定的に迎え入れんとする気分を感じます。

わたくしの、旅立ちのときも、この曲をアバドの演奏で流して欲しい。

そんな風に思ってる曲が、それこそたくさんあるもんで、三日三晩かかってしまうかもしれません。

 それでは、2014年のブログ記事は、ここまで。

みなさま、お世話になりました。

あと数時間で、また違う挨拶をさせていただきますが、節目とはいえ、日本中がなんか、まとめと総括、そして来る年には云々となっていて、毎年、どうにも、わたくしにはなじめないことにございます。

わたくは、もっと長くクリスマスを祝いたい気分です。
まだ一週間もたってないのに、影もかたちもない、クリスマスなのですから・・・・

ではでは。

Uchibori

皇居へ向かう、外堀。

休日で、ビルの明かりも少なめです。

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2014年12月30日 (火)

ブルックナー 交響曲第9番 アバド指揮

Tokyo_tower_2

東京タワーには、数日前から2014年の表記が。

そう、あと1日で、終わってしまうんです、2014。

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2014は、ショックなことが起きた。

最愛のクラウディオ・アバドの死がそうです。

なんで、神様は許してくれなかったんだろう。

音楽に全霊を尽し、謙虚に、静かに生きたクラウディオを、神様はまるで急いだかのようにして、天国に召してしまった。

そんな矛盾と齟齬に、怒り、悲しんだ2014。

 その後も、何人かの聴き親しんできた演奏家たちの訃報が相次いだ2014。

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  ブルックナー  交響曲第9番 ニ短調

   クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団

                (2013.8.21~26 @ルツェルン)


いまの時点で、アバド最後の演奏の録音です。

今年のブラームス・チクルスは、主を失ったオーケストラを、ネルソンスが救いましたが、2013年のルツェルンでは、アバドは二つのプログラムを指揮しました。

 ①ブラームス   「悲劇的序曲」

   シェーンベルク 「グレの歌」から

  ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」

 ②シューベルト  交響曲第8番「未完成」

   ブルックナー  交響曲第9番

このふたつのプログラムを、2013年の秋には、①の内容を替えて②を携えて、日本にやってくる予定でした。

それから数か月で訪れたアバドの死に、なすすべもなく、泣き崩れたワタクシでした。

①は、NHKで、昨夏、すぐさま放送されましたが、ブラームスとエロイカは、覇気が少し弱く、アバドの指揮にも疲れを感じたのでした。
 でも、シェーンベルクになると、息を吹き返したかのような、感興あふれる没頭感ある指揮ぶりだったところが、いかにもアバドらしくて、気に入りました。

 でも、それにしても、疲労の色濃い、「英雄」の指揮ぶりには、その元気の具合が確かめられるゆえに、不安と不満を覚えたものです。
 ずっと、ずっとアバドを見守り聴いてきた自分には、あの映像にあるアバドの指揮ぶりが、これまでとは明らかに違うものを感じ、録音したその音源にも、一瞬、気が抜けたような箇所を、感じ取っていたのでした。

 この様相と同じものを、かつて、99~00年、最初の癌のときの、少しばかり緊張感の抜けた緩い場面を、そのときどきのライブ放送に、そして、いくつかの録音に感じていたのでした。

そして、今宵の、アバドのブル9。

素晴らしき高みに達した、あきれかえるくらいの音楽再現という名のすさまじい行為。

執念すら感じる、アバドの音楽への打ち込みぶりを感じ、そのアバドの全霊を受けとめ、そっくりそのまま、鏡のように跳ね返すオーケストラ。

演奏という音楽の表現行為の、行き着いた最果ての結果を、ここに感じます。

「無為自然」

あるがまま、なにもせず、すべてが充足し、あるようで、なにもない。

そんな感覚を呼び覚ますのが、アバドが到達した最後のブルックナー。

 気の抜けたような生気の不足は、もしかしたら、現世からの離脱、肩の力が抜けきった、ほんとうの別次元を数々体感した、アバドならではの優しい世界=領域ではなかったか・・・。
そのように、この音盤を聴いて思います。

①で、あれ、っと思ったブラームスとエロイカも、もう一度ちゃんとした映像で確認したくて、正規盤を入手すべく、クリックいたしました。

ひとりの偉大な人間の、最後の瞬き。

こうあって欲しい。

いや、こうあらねばならない。

いろんな想いを抱きつつ聴く1時間は、ほんとに、あっさりと、最後の崇高なアダージョの最終局面を迎えることになるのでした。

ブルックナーの第9とはいえ、格別な存在じゃなくて、普通に存在する名曲として、さらりと演奏してしまった、高度な演奏だと思います。

アバドは、明日も生きようと思っていたし、オケも、このマエストロともに、次のブラームスを楽しみにいていた、そんな前向きな演奏に感じます。

でも、くどいようですが、少しの気の抜け方と、ゆるやかさがどうにも気になる1枚でした。。。。

 アバドのブル9過去記事

 「ウィーン・フィル」

 「ベルリン・フィル」

ベルリンフィルとのライブが、異様なまでのテンションで、切れば血しぶき、ほとばしるような、すさまじい最高潮の名演なんです。

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2014年12月29日 (月)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ヤノフスキ指揮

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 六本木ヒルズ空中庭園より。

事務所から歩いて25分ぐらい。

いまは、冬のイルミネーション撮影ぐらいにしか来なくなりましたが、必ず、この場所で1枚。

背の高い赤いバラのモニュメントに、あずまや越しの東京タワー、そして、おぼろな月。

冬の澄んだ空ですが、カメラの精度上、こんな感じです。

 庭園にある、このような、あずまやは、ヨーロッパのよき時代の、逢瀬・密会の場所みたいな感じに思えます。

目立ちすぎで、まるわかりなんですが、よく映画や演劇では登場しますな。

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上階から下へ降りると、毛利庭園があります。

いまから360年ほど遡った徳川将軍3~4代ぐらいの時代に、この地に屋敷を構えたのが、毛利家。
元禄期には、赤穂浪士が本懐を遂げたあと、分割されて切腹までの期間、お預けになった場所です。

いまは、テレビ朝日の所有する敷地となっております・・・・・。

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この庭園のイルミネーションも、毎年、いろんなオマージュが飾られ、趣向がこらされてますが、この冬は、ハートです。

けやき坂のイルミにも、赤い隠れハートがありました。

「幻想」と「愛」。

そんなテーマの音楽といえば、たくさんありますが、無理やりこじつけて、「トリスタン」。

 もう何度聴いてきたことでしょう。

でも全曲聴くのは10カ月ぶりです。

そして、この楽劇の成り立ちや、内容、自分との出会い、思いなど、もうさんざんっぱら書いてきましたので、もう書くことありません。

「トリスタン」の記事だけで、これまで22本。
それ以外にも、管弦楽曲としても、いくつか扱っているはず。
ワーグナー記事にすると、数えてないけど、きっと300本は書いてると思います。
ばかですよね。

「トリスタン」の舞台体験は、9回。
残りの人生、あと、何回、舞台を見る事ができるでしょうか。
ワーグナーの後期作品は、とりわけ、そんな焦燥を思うようになる年代ともなりましたね。
若いころには、思いもしなかったことです。。

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  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 トリスタン:ステファン・グールド   イゾルデ:ニナ・シュテンメ
 マルケ王:クワンチュル・ユン    ブランゲーネ:ミシェル・ブリート
 クルヴェナール:ヨハン・ロイター  メロート:サイモン・パウリー
 牧童:クレメンス・ビーバー      舵取り:アルトゥ・カタヤ
 若い水夫:ティモシー・ファロン

  マレク・ヤノフスキ指揮 ベルリン放送交響楽団
                 ベルリン放送合唱団
                 合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

                 (2012.3.27@ベルリン・フィルハーモニー)


今回の「トリスタン」は、目下のところの最新音源であります、ヤノフスキのベルリンライブで。
2013年のワーグナー・イヤーを目指して、オランダ人以降の主要作品すべてを、ベルリンでコンサート形式で演奏し、ライブ録音を遂げたヤノフスキと手兵のベルリン放送響ですが、全10作〈リング1なら7)すべての精度が均一に高くて、なによりも、録音が素晴らしくよくて、解像度抜群。

ワーグナー作品の場合、ことに後期のものほど、録音がよろしくないといけませんが、このシリーズにおいては、オーケストラの細部にわたるまで、すべての音が実によく聴こえ、よくブレンドし、微細な部分も、まるで、虫めがねで音のひとつひとつを眺めることができるような気がします。

もちろん、古い歴史的な録音や、これまで、ずっと聴いているステレオ録音も含む音盤たちも、わたくしには大切なものばかりですが、このヤノフスキのシリーズは、一皮むけてしまったかのような、ワーグナーの音楽の「輝き」を感じるのです。

賛否はともあれ、ワーグナー演奏という歴史のなかで、いまわれわれがたどり着いた、再現という意味での、ひとつの到達点ではないかと思われます。

まだこのシリーズは半分しか聴いてはおりませんが、そんな印象を聴き進むにしたがって持ってまいりました。
それは、一部、録音のすごさも手伝ってのことではありますし、最良のものは、舞台での経験であることはいうまでもありませんが、こちらの意にそぐわない演出を見せられるよりは、音だけでワーグナーのすごさを楽しむ方がいい場合がありますしね。

 すべて賛辞で言葉を尽くすわけにもいけませんが、この「ヤノフスキのトリスタン」についての印象を。

・緻密な瑕疵のない完璧なオーケストラ演奏。

・旧東ドイツの克明だが地味なオケだった、旧ベルリン放送管をさらに磨きあげて、機能性も高め、新しいドイツ的なオーケストラに育てあげたが、まさに、その実力が隅々までわかる。

・ワーグナー演奏のツボをすべてわきまえたヤノフスキの指揮に、可不足はなく、決めて欲しいところは、すべてそうなるし、全体の流れと、個々の場面の展開に祖語がなく、緊張感を保ちつつ、集中力の高い演奏を聴かせる。

・ただ、ときに、感興に乗り過ぎて、たたみかける場面もあり、ライブ感もあって、それは実に効果的だけれど、少しいきすぎかも。
インテンポにすぎる場合もちょっとあり、「トリスタン」の場合には、もう少しのしなやかさと、歌が欲しいかもしれない。
そう、アバドが聴かせてくれたようなクリスタルな精緻さとともに。

・シュティンメのイゾルデは、トリスタン役が?だったパッパーノ盤に続いて2つめ。
バイロイトの放送でも、何度か聴いてる。
全部聴いてるけど、今回が一番。
北欧系のドラマティックソプラノの先達は、錚々たる顔ぶれがいるけど、共通のクリアボイスであるところは、同じくして、高音・強音での絶叫感はなく、暖かみのある声はとても魅力的であります。
いま、最高の、イゾルデだと思います。そして、マルシャリンも素敵に歌える彼女です。

・新国の舞台でも接することができたグールドもいい。
大男だけど、その歌い声は、硬軟巧みな柔軟なヘルデン。
一本調子が多い、昨今のトリスタンに、ユニークな解釈が、今後生まれるかもしれない。
最近の成功作の、ディーン・スミスに次ぐ正解。

・ブリートのブランゲーネと、ロイターのクルヴェナール。
ふたりとも、いま、バイロイトをはじめ、各劇場で出演頻度の高い歌手たちで、その歌唱は新鮮で、初々しさとともに、極度な役柄へののめり込みのない、清潔な歌唱は、今風だと思いました。

・クワンチュル・ユンのマルケは、美声でかつ、その滑らかな歌い口は、耳に心地よく、歌を聴くという行為での、最高の快感を呼び覚まします。
でも、それ以上でなく、マルケの単純だけど、複雑さや、許しと嫉妬の二重性が、まったく感じられない。
でも、歌の精度、音としてのありかたは、よいのでしょう。

・歌を楽器のように捉えてしまう機能的な歌手が多くなってきたと思う。
この音盤のなかにも、何人かいると聴きました。

・カラヤンは、自身の嗜好にあう歌手たちを集めて、オーケストラともども、歌手たちをも同じ一列で扱い、指揮者の強烈な個性のもとに、オペラを作成した。
「カラヤンのトリスタン」であり、歌手名が先行する「トリスタン」や、ほかの諸オペラではなかった。
 ヤノフスキのトリスタンは、「ワーグナー・チクルスを全部やったヤノフスキのトリスタンで、かつ、シュティンメとグールドのトリスタン」と呼ぶことができるかもしれません。

 いろいろ思うこともあり、勝手なこと言ったけれど、やはり、「トリスタンとイゾルデ」は、ワーグナーの偉大な作品であり、あとにも、さきにも、こんなに個性的な音楽劇はないと、毎度ながら、確信する次第です。

 なんだか、とりとめのない記事となりましたが、「ヤノフスキのワーグナー」、録音とともに、絶対的とは呼べませんが、現在のスタンダードといえるかもしれません。

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2014年12月27日 (土)

ディーリアス 「高い丘の歌」 ロジェストヴェンスキー指揮

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中目黒の青い洞窟。

このクリスマス、大変な話題になりました。

もともと、目黒川沿いの散策路のような道で、住宅やお店も密集、さらに車の往来も。

そんなところに、一挙に見物客が集まったものだから、大混雑。

週末や休日は、お休みとなる仕儀に。

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平日でも、相当な混雑。
わたくしも、その混雑に寄与した一員ですが、運動のため、散歩もかねて、ここから目黒まで歩きましたよ。

それに、しても、クールなブルーは、川面にも映えて美しい。

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   ディーリアス  「高い丘の歌」

    ゲンナジ・ロジェストヴェンスキー指揮 BBC交響楽団

                    (1980.12.10@RAH ロンドン)


気がつけば、あと数日で12月も、2014年もおしまい。

さぁ、大好きな曲たちで締めましょう。

まず、ディーリアス。

もう、3度目の記事となります「高い丘の歌」。

過去記事コピペします。

>「高い丘の歌」は、1911~12年にグレで書かれた30分あまりの音詩。
ライプチヒでグリーグに知り合い、大いに感化されたディーリアスは、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
大オーケストラと無歌詞による合唱による。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」(ディーリアス:三浦敦史先生訳)

この作者の言葉がこの曲の魅力を一番物語っている。<

三浦先生の名で訳でもって、これ以上の解説はわれながら、ないと思います。

この神秘的かつ、自然美にあふれ、世紀末的な甘味な瞬間も。
峻厳な場面もあり、そして、聴きながら誘われる、ノスタルジーの世界へと。

25~7分の切れ目なく続く、たゆたうような時間のなかに、わたくしは、海や山、そして夕暮れの光景へと思いを馳せめぐらし、郷里のことも思いつつ、安らぎを覚えるのです。

歌詞のない、アカペラによる合唱とテノールソロも、とても夢幻的であり、儚く、哀しくさえなってしまいます。

何度聴いても、いつ聴いても、わたくしには、一番好きなディーリアスの作品に思います。

おそらく、この曲の音源は4種。
新しい、サー・アンドリューのものは、まだ未聴ですが、レコードで聴きなじんできたグローヴス盤が一番好き。
そして、作者自伝のフェンビーと、今宵のロジェストヴェンスキー盤。

BBC時代のロジェストヴェンスキーは、英国音楽を相当演奏してまして、そんななかのひとつが、こちらのライブ。
録音のせいもあり、強音がキツく感じるところもありますが、とても丁寧に、いつくしむように演奏しております。
でも、グローヴスに比べると、音の輪郭がはっきりしすぎで、もう少し、もやっと、曖昧なところがあった方がいい。
それと、演奏後の拍手はカットして欲しかった。

しかし、ほんとうに、素敵な音楽です。
そして、静かに、そっとしておいて欲しい音楽のたぐいです。

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2014年12月25日 (木)

ヘルマン・プライ クリスマス

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みなさま、クリスマス、おめでとうございます。

日本は、イブに爆発しすぎて、本番の25日は、五十日(ごとうび)だし、企業の多くの給料日だから、クリスマスなんてことを、すっかり忘れて、残ったクリスマス商品やケーキを売りさばくに徹するのみにナリマス。

これもまた、特定のお祭り日を商業的に定めて、みんなで渡れば怖くない的な雰囲気を造り上げてしまう風潮の、日本的な典型なのでしょうね。

それでも全然、いいと思います。

でも、すくなくとも、キリスト教の真夜中の「イエスの誕生日」ということを、少しでも頭において、その上で楽しんで欲しいと思いますね。

クラシック音楽を聴いてると、避けて通れない、キリスト教社会が背景にあるがゆえの音楽の世界。
それらを理解するうえでも、聖書を読んだり、イエスのことを理解したりと、興味を超えた「学び」が必要になります。
わたくしも、当然に歩みましたし、幼稚園の頃から馴染んできて、当たり前になってきた思考でもあります。

そんな一方で、墓や仏壇に手を合わせ、神社にも清々しい思いをいだく、そんな日本人です。
とりわけ、肉親の死に接して、係わらざるを得ない場面も多々あるのが、この日本。

いまは、それでいいと思います。

大切なのは、自分がすべてでない、人との交わり、そしてそれでもって生きているという、謙虚な思いです。

あら、なんて、立派なことを語ってしまうんでしょう。
酒飲みながら語るセリフじゃないですよね・・・・・

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恵比寿のガーデンプレイスは、今年、訪れたイルミナイトのなかでも、最高の逸品でした。

暮れかけたときと、完全に暮れてしまった一瞬との境目も味わいました。

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  ヘルマン・プライとテルツ少年合唱団 クリスマスの歌

       バリトン:ヘルマン・プライ

         テルツ少年合唱団

   ゲルハルト・シュミット-ガーデン指揮 グランケ交響楽団

                      (1965?年 ミュンヘン)


ドイツのクリスマス。

それは、南北に広いドイツで、同じキリスト教社会でも、宗派に違いにより、様相が異なるはずですが、渾然一体で、「ドイツのクリスマス」的なイメージとして受け止められてます。

一概には言えませんが、北はプロテスタント、南はカトリック・・・。

でも、イエスの生誕を祝う祝日は、お互いが、それぞれに、いいところを意識しつつ、どちらも同じような、普遍的なお祝いを造り上げたのではないでしょうか。

音楽も、それこそ、一律にはできませんが、ドイツのクリスマス音楽は、素朴でありながら、聖夜の暖かな雰囲気をイメージさせる、ほのぼの暖色系のものが永く歌い継がれてきたものだと思います。

ヘルマン・プライと、テルツ少年合唱団という、それこそ、ドイツの真ん中をイメージさせる、ほのぼのカップルは、まさに、ドイツ・クリスマス音楽にうってつけ。

プライの柔らかくも清潔で、真っ正直な歌声は、まさに、もって生まれたパパゲーノのイメージそのままに、どこの家庭にもいる、お兄さんの雰囲気です。
頼りになるけど、ちょっとおっちょこちょいで、でも、ほんと、憎めない、いいヤツ。
そんな彼氏が歌う、ドイツのクリスマスは、暖かいカーペットのうえで、暖炉を見つめながら、親しい人と迎える親密なクリスマス。そんな画像が思い浮かぶ、そのままの絵です。

プライとの共演も、合唱単体もある、この音盤でのテルツ少年合唱団。

こちらも、まさに、モーツァルトの「魔笛」的な世界で、無垢なる清純な天使たちの歌声。
ドイツ語の美しさを感じさせるうえでも、まさに、耳に優しく、しかも、そこが、ドイツ音楽好きには、耳のご馳走なんですね。

そのうえ、そこらの市井にあるオルガンの響きや、南ドイツっぽい、ツィターの伴奏も加わってますから、これまた雰囲気抜群ですよ。

曲目は、あれこれ書きませんが、誰もが聴いたことある懐かしい曲ばかりで、毎年、この季節に、頭をよぎる、素敵な曲たちばかりの選曲です。

69歳で亡くなってしまった、ヘルマン・プライは、その姿も、そのお声も、いずれも若々しく、永遠のパパゲーノのような存在だったから、その、まさかの死には、ショックを禁じ得ませんでした。
それは、まさに、ルチア・ポップの死の驚きと同じくするものでした。

後年は、そのイメージを脱するような、カッコ悪いイメージばかりの、マイスタージンガーのベックメッサーを歌い演じて、新しいベックメッサー像を打ち建てたし、朋友のアバドと組んで、ロッシーニのフィガロ、第九に始まり、ついには、ヴォツェックにもチャレンジしようとしながら、ベルクが流れてしまったことが、その死でもって、希少な機会が完全に失われてしまった・・・・。

 でも、そんなヘルマン・プライの一番最良の顔が見えるのは、こんなささやかな、ドイツのクリスマス・ソングの1枚かもしれません。

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Frohe Weihnachten!

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2014年12月23日 (火)

La Belle Excentrique~パトリシア・プティボン~フランス歌曲集

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この冬も始まってます。

六本木けやき坂のイルミネーション。

シルバーにブルーが少し入って、とてもクールできれいです。

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そして、今年は、レッドにも切り替え。

知らずにいたものですから、急に消えて暗くなったと思ったら、すぐさま赤の世界に。

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反対側の坂の向こう。

こちらも美しいですな。

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そして反対側の赤。

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 La Belle Excentrique ~ 風変わりな美女

   フランス歌曲集

      ソプラノ:パトリシア・プティボン

      ピアノ :スーザン・マノフ

       〃  :デイヴィット・レヴィ(3,14)   ヴォーカル:オリヴィエ・ピィ

      チェロ :クリスチャン=ピエール・ラ・マルカ

      ヴァイオリン:ネマーニャ・ラドゥロヴィチ 

     アコーディオン:デヴィッド・ヴェニトゥチ

      パーカッション:フランソワ・ヴァレリー

                 (2013.9 @ベルリン テルデックススタジオ)


 1.サティ 「競馬」         2.フェレ:ジョリ・モーム

 2.サティ 「風変わりな女」より「大リトルネッロ」 ピアノ連弾のための

 3.プーランク 「祭りに出かける若者たちは」 「パリへの旅」 「昨日」

 4.ロザンタール 「夢」 「月を釣る者」

 5.サティ   「ブロンズの銅像」    6.プーランク 「ルネ少年の悲しい物語」

 7.サティ   「スポーツと気晴らし」より「ピクニック」 

          「そうしようショショット(Allons-y Chochotte)」

          「ジェ・トゥ・ヴ(Je te veux)」 「風変わりな女」より「カンカン踊り」

 8.フェレ   「愛するとき」       9.サティ 「快い絶望」

10.フォーレ  「憂鬱」          11.アーン 「フォロエ」 「クロリスに」

12.フォーレ  「ひそやかに」      13.プーランク 「バ、ベ、ビ、ボ、ビュ」

14.ロザンタール 「パリ植物園のゾウ」「フィドフィド」「動物園の年寄りサラダ」

15.プーランク 「オルクニーズの歌」 「白衣の天使様」 「ホテル」

16.フランシーヌ・コッケンポット 「原野のクロッカス」

17.フォーレ  「ゆりかご」


     ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「風変わりな美女」って・・・・、この邦題なんとかならないかな、って思って、「La Belle Excentrique」をフランス語翻訳マシンにのせてみた。

そうしたら、「素敵な変人」とか、「美しいエキセントリック」とか出てきちゃって、さらに奇妙なことになってしまいました。

もともとは、サティのピアノ連弾ないしは、オーケストラ作品の組曲のタイトルだそうで、そちらを調べたら、邦題は、「風変わりな女」となっておりました。
このCDの中に、2曲そちらからピアノ連弾曲として演奏されておりまして、そちらをイメージしたのでありましょう。

ですから、この際、わたくしの大好きなパトリシア・プティボンさまということで、「美女」ということにしておきましょう。

長い序文でしたね。

プティボン2年ぶりのソロアルバムなんです。

その間、パリ管とのプーランクは出てますが、毎年コンスタントに、ユニークで考え抜かれたプログラムで、その都度テーマを定めて凝ったCDを出してきたプティボンでしたから、結構渇望していたんですよ。

プティボンのタグをクリックして、過去記事をご参照いただきたいのですが、大ブレイクしたのに、来日はずっとないし、国内盤もずっと出てなくて、ユニバーサルは、アイドル路線が引けない本格派歌手なので、国内発売にビビってるんじゃないかと推察してるんですよ。

でも、昨年の録音ではありますが、ここに鮮度バツグンのイキイキとしたパトリーの声が相変わらず健在なのを確認できて、とても嬉しいです。

今回のテーマは、自国もの、近代フレンチ・ソング集です。
ちなみに、これまでのアルバム・テーマは、「恋人たち」「イタリア・バロック」「メランコリー」「新世界」、、こんな風になってました。

全部で29曲。

そのうち5曲は、サティのピアノ作品で、伴奏とともに、プティボンの長くの相棒、スーザン・マノフ女史が極めて雰囲気豊かに、そして明るく楽しく弾いておりますよ。
先にあげたサティの「風変わりな女」から2曲と、「ピクニック」、冒頭の短い序のような「競馬」。それぞれ、元気で楽しい曲に、「快い絶望」は、ちょっとムードが変わって、アンニュイムードたっぷりで、これはステキな曲。

 さて、プティボンです。
千変万化、多彩な歌への適応力と、その表情の豊かさは、まいど聴いてきて舌を巻いてしまう彼女の本領でありましょう。
大きく分けて、元気で快活、はっちゃけてるのが前半で、後半は、しっとりとした女らしさと、憂愁の横顔を垣間見せてくれる。

 前半・後半のターニングポイント的な曲が、有名なサティの「ジュ・デ・ヴ」です。
チェロとピアノに伴われて、ゆったりと、そして色気も含みながら、しなやかに歌われる「ジュ・デ・ヴ」に、わたくしはとろけてしまいそうになりました。
チェロとピアノの伴奏もお洒落すぎていけませんよ、まったく。
この曲、1曲で、お酒が何倍も飲めちゃうじゃないの。

個々の曲について書こうと思えば書けちゃうくらいになってますが、そこは、みなさま、実際にお聴きになって、パトリーちゃんの歌声に感じちゃってくさだい。
あれこれ、言葉は不要、彼女の個性と、はじける才能を、とくと拝聴してくださいませ。

途中何回か、歌なしで、間奏曲のように、さらりと挿入されるインターバルの一瞬のフレーズは、「風変わりな女」や「競馬」の曲をもじってまして、この音盤の大きな流れに寄与してます。

そう、これ一枚が、一夜のコンサートのように仕立てあげられているように思います。

このあたりが、プティボンのクレバーなところで、彼女ばかりか、きっと、マノフ女史も、ほかのスタッフも含めて、いいチームが出来上がっているんだと実感します。

彼女のライブコンサートは、ほんとに楽しくて、エンターテイメント満載です。
その雰囲気が、このCDからも伝わってくるところが、毎度素晴らしいです。
 これまで、3回、その来日公演を聴きましたが、そこで歌われた曲もいくつか。
コンサートでは、自ら、小道具みたいに、楽器をさらっと奏でて歌いましたが、そんな曲も、あの時の歌声そのままにおさめられてます。

ときに、効果音的な声を出して、ニンマリさせたり、ふくろうの声だしたり、おきゃんな娘声になったり、シャウトしてみたりで、ともかくいろんなお顔を見せてくれます。

でも、クリスティーと共演してた頃の、古楽の軽やかなイメージから、いまは、声も重くなり、色合いも濃厚さも出すことが出来るようになりました。
 ですから、全体のイメージでは、ちょっと味わいが深くなり、その分、声が重たくなったような気もしなくもないです。
もともと声量もたっぷりで、技巧派でもある彼女ですから、「ルル」を歌うことで、声質が少し変化したのかもしれません。

ともかく、ステキな1枚。

パトリシア・プティボン、最高ざます、最高に好き

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2014年12月20日 (土)

神奈川フィルハーモニー県民ホールシリーズ第1回定期演奏会 小泉和裕 指揮

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赤レンガ倉庫では、恒例のクリスマス・マーケット。

ドイツやオーストリア、スイス、フランスなど、各国で、街の中心の広場で行われるクリスマス・マーケット。

クリスマスの飾りや、ソーセージやパンなどの食材に、ホットワインが、可愛い出店で売られ、寒い夜が、とても暖まる光景を、かつては、羨望の思いで、雑誌などで見ておりました。

Akarenga_b

日本各地でも、大小のマーケットが出現するようになりました。

なかでも、横浜の赤レンガ倉庫のものは、一番大きくて、そして美しい。

でも、人が多すぎなところがちょっと難点。

 ベートーヴェンもホットワインの飲んだのでしょうか。

今年も、第9が巷にあふれる季節に。

神奈川フィルは、これまでの特別演奏会から、県民ホール定期に。

Kanaphill201412

  ベートーヴェン 交響曲第9番 ニ短調

   S:佐々木 典子    Ms:手嶋 眞佐子

   T:福井 敬        Br:小森 輝彦

     小泉 和裕 指揮 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
              神奈川フィル合唱団
             合唱団音楽監督:大久保 光哉

                (2014.12.19@神奈川県民ホール)


特別客演指揮者の小泉さんの第9。

となれば、楽譜は、当然にブライトコプフ版と予測でき、まさにそのとおりの演奏でした。

多くの方が聴きなれた版であり、その版による、まさに安心安全の演奏が、堂々と、そして最後には熱気もはらんで演奏されました!

神奈川フィルのファンをやってると、ほんとに久しぶりの従来の第9が帰ってきた、という感じ。
そう、5年間の聖響さんの第9は、ベーレンライター版で、対抗配置、バロック・ティンパニということで、ある一定のイメージが、「聖響&神奈フィルの第9」ということで植えつけられてしまいました。
5年のうち、3年は聴きましたが、それでも、都度印象が異なり、指揮者がまだ、その版を使っての演奏の解釈に揺らぎを持っていることも感じており、まいど、複雑な思いで、年末を過ごすこととなっておりました。

今年の小泉さんの第9は、王道をゆく、ゆるぎない信念のもとに、奏者一同が、音楽そのものに打ち込んで、熱のある演奏になりました。

版の違いは、第1楽章冒頭からはっきりとしてます。
ベーレンライターでは、弾むようにして始まる第1楽章は、疾風怒涛のような印象を受けるし、神奈フィルの演奏姿で、3度も体験しちゃったから、そうじゃない、1楽章は、妙に歯がゆかったという、実に不思議な体験をすることとなりました。
 それでも、小泉さんの指揮を見ながら、だんだんと慣れてきました。
そう、神秘的な雰囲気と、劇的な展開は、ブライトコプフならではで、小学生の頃から聴いて、耳にタコのように貼りついているカラヤンの演奏の響きを求めておりました。
 

 ちょっと脱線。
いまはどちらでもありませんが、アンチ・カラヤンになる前は、大のカラヤン・ファンだった。
第9のレコードは、DGの62年盤を、小6で購入。
中1のときに、父親にせがんで、カラヤンの第5と第9の演奏映画を、新宿厚生年金会館に観劇に行った。
目をつぶって、オーケストラを導くカラヤンの姿は、もう神かと思いましたよ。
その指揮ぶりを、子供の自分はすっかり真似しちゃって、4楽章で、独唱が入ってくるところで、つぶっていた目を、かぁっ!と見開くわけですよ。
 ちなみに、多くの一般ピープルと同じように、ヲタクの子供に付き合わされた親父は、終始、意識がなく、カラヤンが目を開いた瞬間、すなわち、ワルター・ベリーのバリトンの声で、飛び起きるという微笑ましさを発揮してくれたものです・・・・。

各楽器の橋渡しが見ていても楽しい2楽章は、繰り返しがなしで、やってもらったほうが、もっと楽しめたかもです。

そして、いつも、美しいけれど、さらさらと流れてしまって不満だった3楽章が、実に気持ちがこもっていて、平穏な祈りにあふれたような名演でした。
しかめっ面のベートーヴェンでなく、わたくしは、こんな柔和な表情のベートーヴェンの音楽が好きです。
デッドな県民ホールの音響ですが、それでも、カナフィルの弦はきれいに鳴りましたし、木管やホルンもとても美しかった。

 アタッカでなだれ込んだ4楽章。
思わず、おっ!と思いましたね。
これ好き。

あとは、ど定番の展開に、ホールのお客様も一体になって、最後の燃えるようなアッチェランドに突き進むわけでした。
わたしの大好きなバリトン、小森さんの明るくも、滑らかなドイツ語により明快なソロ。
スピントする、力強い福井さん。
輝かしい佐々木さんのソプラノに、艶のあるメゾを聴かせてくれた手嶋さん。
 ワーグナー歌手がそろったかのような豪華な独唱陣でした。
欲を言えば、みなさん立派すぎ。
佐々木さんは、声がドラマティコなので、第9にはほんとうは、もっと軽いソプラノの方がいい。
 そういえば、佐々木さんのマルシャリンは、神奈フィルがピットにはいった「ばらの騎士」で体験してますし、若杉さんの指揮による「ダナエの愛」も聴いてます。
日本人歌手として数少ないバイロイト音楽祭出演経験を持つ、すごい方なのです。(バイロイトのことは、わたくしの勘違いです、のちに訂正いたします2015.03.26)

そして、合唱。
力強い響きでしたし、大きな県民ホールに、オーケストラに負けずに、その歌声を響かせました。
でも、ちょっと苦言を申さば、今少しの明晰さが欲しいところ。
毎年思いますが、数を少し刈り込んだほうがいいと。

1~3楽章は、とても素晴らしい音楽だと思います。
ベートーヴェンは、まったく神がかかっていると思います。
しかし、お叱りを受けるかもしれませんが、4楽章で、盛大な合唱は、それまでの神妙な世界を、へたをすれば、お祭りさわぎにしてしまいます。
このあたりのバランスと、4楽章の座り心地の悪さが、歳とってからどうも強く感じるようになりました。
ですから、合唱も小編成にして、楽器のように扱って、「合唱付き」じゃなくて、「合唱なし」・・・なんてのはどうでしょう
あぁ、なんて不遜なことを言ってるのでしょう。
これはあくまで、私見ですので、ご笑い草におとどめ置きくださいまし。
合唱をやられてる皆さま、第9好きのみなさま、こんなこと書いてすいません。。。。

 でも、オーケストラをつぶさに拝見しながら、感心したのは、ベートーヴェンの音楽の造り方のすごさ。
いつも、幻想交響曲を聴いて、ベルリオーズのこの曲が、第9のほんの6年後と、感心しているわけですが、その逆もありで、第9の6年あとに、幻想が生まれた、とみれば、第9のスコアには驚きがたくさん詰まっているわけですね。
 小節内の多彩な音符の数、長いのも、短い刻みも、それぞれ多様で、奏者の必死の演奏ぶりをみてると、あの分厚いポケットスコアが頭に思い浮かびました。
そして、打楽器の効果的な使用。
ティンパニの活躍も目覚ましいのですが、太鼓、シンバル、トライアングルというトルコ調の打楽器を導入したことも、ベルリオーズのファウストにも通じるものかもしれません。

そんなこんなをあれこれ思いながら、熱いエンディングを迎え、わたくしも大いに胸が高鳴り、かつ胸のすく思いで、音楽にのめり込みました。

大きな拍手と、ブラボーに包まれたことはいうまでもありませんね。
やっぱり、第9はこうでなくちゃいけません。
気持ちよかった!

アフターコンサートは、We Love神奈川フィメンバーと、お疲れのところ楽員さんにもご参加いただき、県民ホールのお楽しみのひとつ、中華街へ

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中華街も、ちょこっとクリスマスしてます。

Keichinrou1 Keichinrou2

こんな美味しいお料理をお腹いっぱい食べ、ビールと紹興酒をたらふく飲んで、そしてなにより、音楽や、いろんなお話で大いに笑い、楽しかった。

みなさま、ありがとうございました、今年も、たくさんお世話になりました。

そして、来年もよろしくお願いいたします。

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2014年12月18日 (木)

幻想&チャイ5 ヤンソンス

Hamamastucho1

はいはい、お約束の小便小僧サンタさん。

12月は、必ずサンタになりますね。

それでも、このコスプレをされているボランティアの皆さんは、手を抜きません。
毎年違うんです。

Hamamatsuchou201012  Hamamatsucho_201112_c

    2010年                    2011年

Hamamastucho201212  Hamamatsucho201312_a

   2012年                     2013年

ずっと毎月、撮り続けてる小便小僧クン。

そして、毎月、幻想に始まり、いまは、チャイ5も加えて聴いております。

継続は、ときに正直、厳しいときもあり、でも楽しいです。

こうして楽しませていただいているのも、小僧クンに毎月衣裳を合わせていらっしゃる方々あってのこと。

ありがとうございます。

そして、今月は、特別に、「幻想」&「チャイ5」でまいります。

それも、先ごろ来日して、安定の熱くも音楽的な演奏を繰り広げたヤンソンスとバイエルン放送響の録音で。

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  ベルリオーズ  幻想交響曲

   マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

            (2003.10ライブ@ガスタイク・ホール、ミュンヘン)


ヤンソンスの幻想は、全部で4つ。

コンセルトヘボウとのEMIスタジオ録音盤(91年48歳)、ベルリン・フィルとのヨーロッパコンサートライブ映像(2001年58歳)、バイエルンとの一般発売なしライブ盤(2003年60歳)、バイエルンとの最新ライブ(2013年70歳)。

4つめのBRクラシックから出た演奏は、まだ聴いてませんで、その存在を最近知ったばかり。
今日、あらためて聴いた2003年盤が素晴らしいものだから、もういいかな、と思って、今回はスルーしましたが、やはり聴いてみたいな。
いずれの機会に。

今回のCDは、以前にもご紹介しましたが、2007年の彼らの来日公演で入手しました。
そしてその前、2005年のこのコンビでの来日では、幻想の実演を聴いております。
 そのときのライブは、凄かった。
オケがノリにのって、ヤンソンスの指揮に、まさにのせられてイケイケどんどんの幻想。
それでも、音楽性は失われずに、磨きぬかれた洗練された音は輝いてました。

その印象とほぼ一緒、そして、少し荒削りにしたような力強さと、一気呵成の若さも感じるのが、2003年のライブ。
ミュンヘンのオケに特有の暖かさをたたえつつも、機能的かつ克明なアンサンブルは、聴いていて爽快そのもの。
 野の情景など、惚れぼれとしてしまう抒情と、半面の急展開の激しさの鮮やかな対比。
興奮すべき、終楽章のエンディングは、もっと激しくやって欲しいという聴き手の気持ちと裏腹に、じっくり鮮明・克明な描き方。
シンフォニーとしての容を巧みに描きだした「幻想」なのです。

Tchaikovsky5_jansons

 チャイコフスキー 交響曲第5番

   マリス・ヤンソンス指揮 バイエルン放送交響楽団

             (2009.10ライブ@ガスタイクホール、ミュンヘン)


84年(41歳)の、オスロフィルとの全曲録音の一環と、このバイエルン盤の2種。

レニングラード・フィルとのいくつかの来日公演で、86年に指揮していますが、ヤンソンスのチャイコフスキーで、録音に残されているものは、いずれも、ヨーロッパ仕様のチャイコフスキーだと思います。

ワタクシのエアチェックライブラリーのなかにある、唯一の、ヤンソンス&レニングラードフィルの音源は、ショスタコの5番とチャイコの4番です。
ソ連邦崩壊前の、86年の演奏ですが、これがまたスピーディで、パワフルで、凄まじい。
一度聴いたら、お腹いっぱいの高カロリー演奏ですが、それより前のオスロとの演奏は、もっとあっさり感があるところが面白いです。

親父も指揮したレニングラードだけど、ムラヴィンスキーは来日不能となったものの、当時はまだ健在だったオーケストラ。
やはり、若いヤンソンスは、勢いで行くしかなかったのか。

 その後の、オスロや、ピッツバーグでの度重なる来日を、いずれも聴くことはできませんでしたし、おそらく、チャイ5も指揮したものと思いますが、ロシア的な濃密さとは遠い、機能性に富んだ、そして、ヤンソンスならではの、輝かしく熱い演奏が繰り広げられたはずです。

円熟のヤンソンスが手にした、ふたつの、もっともヨーロッパ的なオーケストラ、コンセルトヘボウとバイエルンは、いずれも、その黄金時代を築き、築きつつありますが、ラトヴィア生まれのヤンソンスが、脱ロシア志向であることは見逃せません。

バルト三国は、一時はソ連でしたが、やはり、ヨーロッパなのだな、と強く認識。

そんなヤンソンスとバイエルンとのチャイコフスキーは、後期の3つの交響曲がライブ録音として残されてますが、それらがいずれも、堂々としつつ、新鮮かつクリアーな明確な演奏なのです。
 オーケストラの優秀さも、随所に感じつつ、ここでは、チャイコフスキーの音楽の歌い回しが、ヤンソンスの感じたまま、奔流のようにして流れでております。
ちょっとしたフレーズにも、ほかの演奏にない、わずかな違いや、個性が、よく聴くとあわらわれまして、45分間、この作品が好きな人間には、飽くことなく、かつ新鮮に感じられる演奏です。
 1楽章が、こんなに素敵に、かっこよく響くのもヤンソンスならではだし、バイエルンの澄み切ったかっこいいサウンドが実に心地よく耳に届きます。
2楽章も、カラヤンのような美意識とは遠いところで、ナチュラルな美しさを保ちつつ、かつ熱いです。
 優美なワルツに、スマート極まりない終楽章。
思わず、指揮棒が欲しくなるような、乗せられちゃうチャイ5に、後半に行くにしたがってなってまいりまして、かつてのように、突っ走ることもなく、堂々と、ごく自然なフィナーレを築きあげることとなります。

普通に、いいなぁ、という名演です。
個性的ではありませんが、高度な名演です。

コンセルトヘボウとも、バイエルンとも、チャイコフスキーの全曲は残して欲しいものです。

ちなみに、次期を更新しなかったコンセルトヘボウは、次はガッティ。
うーーむ。
また、シャイーみたいになるのかなぁ・・・・

オランダの音楽界は、どうも、わかりません。
でも、ハイティンクのあと、コンセルトヘボウは、もう違うオーケストラとなってしまったといっていいかもしれません。

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2014年12月16日 (火)

モーツァルト セレナータ・ノットゥルナ スウィトナー指揮

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池袋にいた、カワイイ雪だるまイルミ。

LEDの進化により、ほんと、今年は、イルミネーションのバリエーションが広がり、各所で、鮮やかな装飾がほどこされてますよ。
電気代も半分以下に抑えられるLEDあってのもの。

今夜は、ほのぼのモーツァルトを。

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  モーツァルト セレナード第6番 「セレナータ・ノットゥルナ」

    オトマール・スウィトナー指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

                         (1960 @ドレスデン)


ジャケット画像は借り物ですが、実家のレコード棚には、同じレコードが眠っております。

ジャケットに、いきなり、シンプルに、日本語表記と簡単な解説の載せちゃうという、リアルなフィリップス系のシリーズでした。

東独系の演奏と録音が、日本コロンビアを中心に出始めたのは71年頃で、なかでも、ドレスデンでのスウィトナーが、まさに彗星のように登場したのもその頃です。
ちょうど、N響への客演があったときで、あの木訥とした指揮ぶりなのに、オーケストラが反応して、夢中になって演奏して、爆発的な第9を聴かせてくれたのも、71年のこと。

テレビで観て、よく覚えてます。
第9や、モーツァルト、そしてワーグナーを演奏してました。

以来、すっかりおなじみになったスゥイトナーさん。

亡くなってしまって、もう4年だし、日本に来なくなって、20年ぐらいが流れましたが、何故だか、いつも日本にいて、あの指揮ぶりを垣間見せてくれてるような気がします。
 N響との共演や、ベルリン国立歌劇場でのオーケストラピットでの指揮、それぞれを実演やテレビで、何度も何度も体験し、ほんとに親しい存在でした。
 同じような存在は、サヴァリッシュとシュタインですね。
この3人のSのつく名指揮者たちは、いずれも、ドイツのオペラの本流で、しかも偉大なるワーグナー指揮者でした。

ベルリンのシュターツオーパーの指揮者になる前、スウィトナーは、併行的に、ずっと、ドレスデンの指揮者でした。
インスブルック生まれのオーストリアの指揮者が、東ドイツのカチカチで、克明な演奏様式のオーケストラと長らく蜜月だった。
これは、まさに反作用の効果で、見るからに曖昧で、素朴な指揮ぶりのスウィトナーの持ち味である、柔和さ、柔らかみが、東ドイツのオケに見事に受け入れられ、見事なプラス反応を起こした。
それは、オペラのオーケストラだったから出来たことだったかもしれません。

スウィトナーが、西側のオーケストラでは、あまり成果をあげられなかったのも不思議なことですが、あの一面、へたくそな指揮ぶりが、機能的なオケには耐えられなかったのでしょうか。
繰り返しますが、日本のオケの拝独的な姿勢と、柔軟性こそが、スウィトナーの音楽性を引き出した稀有な組み合わせかもしれません。

 1776年、貴族ないしは、お金持ちの方からの依頼で書かれた、この「セレナータ・ノットゥルナ」は、管楽器を除いた、弦とティンパニだけの、可愛らしい作品。

娯楽的な音楽で、ともかく明るく、伸びやか。

しかめっつらのベームの演奏も好きですが、スウィトナーの、微笑みあふれた演奏も大好きであります。
いまの演奏スタイルからしたら、時代めいて感じ、弛緩して聴こえるかもしれません。
 でも、ドレスデンのいくぶん古風な、当時の味わいを活かしつつ、平々凡々とした、のんきな雰囲気が、ともかくなごみます。
 ですから、これはりっぱな個性であり、いまどきも、今後も、きっと再現できない音楽の立派な表現のひとつに思いますね。

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2014年12月14日 (日)

チャイコフスキー 「スペードの女王」 小澤征爾指揮

Kitte_a

東京駅、丸の内口のKITTE。

かつての郵政省、東京中央郵便局の、ちょっとレトロなビルは、日本郵便株式会社の手掛ける初の商業施設として、外観は巧みにそのままにして生まれ変わった。

昨年のことであります。

そして、昨冬から始まった、この「ホワイト・ツリー」

日に何度か、ライトアップ・プログラムが実施され、四季を感じさせる、さまざまな色どりに染まります。

Kitte_b

これは、春でしょうね。

Kitte

そして、グリーンは、初夏のイメージを受けました。

きらきらですな。

 今日は、ロシアの四季を、いろんな局面で感じさせる、チャイコフスキー。

全部で13作もあった、チャイコフスキーのオペラ。

破棄したり、未完だったものを除いても9作品。

ロシアの土臭さも感じる伝統と、ヨーロッパ的な洗練されたオペラ感。

これらが、たくみに相まったのが、チャイコフスキーのオペラ。

ブログでは、まだこれで、3作ですが、あと1作そろえれば、音源で聴ける作品を全部そろえることができそうです。

ゆっくりですが、それらも記事にしていきたいと思います。

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  チャイコフスキー 「スペードの女王」

   ヘルマン:ウラディミール・アトラントフ  
     リーザ:ミレルラ・フレーニ
  トムスキー公:セルゲイ・レイフェルクス 
    侯爵夫人:モーリン・フォレスター
  イェルスキー公:ドミトリ・ホロストフスキー  
    ポリーナ:カトリーネ・シージンスキー   
    マーシャ:ドミニク・ラベッル
  家庭教師:ジャニス・タイラー        
    チェカリンスキー:エルネスト・ガヴァッツィ
  スーリン:ジュリアン・ロデスク         
    チャップリッキー:デニス・ペテルソン
  ナルーモフ:ジョルジュ・シャミーネ その他

  小澤 征爾 指揮 ボストン交響楽団
           タングルウッド祝祭合唱団
          アメリカ少年合唱団

   (1991.10.11 @ボストン、NY)


1888年、チャイコフスキーは、弟モデストから、プーシキン原作の「スペードの女王」のオペラ化を打診される。
ただ、チャイコフスキーは、そのとき、オペラ「 チャロデイカ」の創作が終えたことで手いっぱいで、いったんは、その申し出を受けたものの、断りをいれ、弟をがっかりさせた。
相次ぐオペラの作曲よりも、シンフォニックな作品を書きたい気分だったと言ったといいます。
 それが第5交響曲となり、次いで、バレエ「眠りの森の美女」が生まれます。
弟の提案から、1年半後、チャイコフスキーは、俄然、「スペードの女王」の作曲意欲が沸き、1890年に一挙に完成させるのでした。

チャイコフスキーの生涯もあと3年。
病死ではありますが、オペラはあと1作、美しい「イオランタ」が書かれますが、再充実期にあった、チャイコフスキーの名作のひとつが、「スペードの女王」なのです。

3幕、ほぼ3時間を要する大作で、レコード時代は、4枚組で、高価でもあり、なかなか手が出ない作品のひとつでしたね。
CDでも、3CDとなりますが、各幕が1枚づつに収まり、聴きやすくなりました。

日本ではあんまり上演されません。
そもそもロシア・オペラは、本場からの来演ばかりで、新国も独・伊ばかりで、日本人には、どうもロシア語がやっかいなのでしょうか。。

「エフゲニ・オネーギン」の方が、はるかに定番となっておりますが、「スペードの女王」も、そちらと同じく、美しく、親しみやすい旋律や、アリアが、ぎっしり詰まっていて、しかも、オーケストラがとてもよく鳴るように書かれていて、さすがと思わせます。

そして、オネーギンと同じく、情緒不安定のむちゃくちゃな男と、そいつに翻弄されるお嬢様というシテュエーションとなっているところが面白いです。
 激しすぎる性格が及ぼす、身の破滅は、ロシアの社会問題をもえぐる皮相さも持っています。

「スペードの女王」における、おばかさんは、ギャンブルがもとで、人も殺し、恋人の命も、自分の命も失ってしまうという大破滅ぶりなのですが、濃淡あれど、昔から人間の陥りやすい、今では、病気とも認定される依存症のひとつがギャンブルなのです!
ワタクシは、賭け事はいっさいやりません。でも、ワタクシは、酒が・・・・・・。

 暗いロシアの大地と、上流社会と、そうでない人々の対比、華やかなな舞踏会や、こっけいな道化っぽい役柄も出てくる。このあたりは、ロシア系オペラの常套か。
そこに、メロディアスな旋律と、ゴージャスな響きが加わること、それこそがチャイコフスキーのオペラの魅力です。
 素敵なアリアの数々も、思わず口ずさみたくなるものばかり。

あらすじを

 18世紀末 ペテルスブルク

第1幕

 第1場 公園の広場


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 子供たちが遊んでいると、兵隊の真似をした少年たちが行進してきて、子供らも、彼らについて去ってゆく。
ゲルマンの友人、チェカリンスキーとスーリンは、そういえば、最近彼は元気がないね、などと語るところへ、そのゲルマンが、親友のトムスキー公とやってきて、彼は、名も知らぬ高嶺の花、身分違いの女性に恋をしてしまったと絶望的に歌う。

イェレスキー公爵が散歩しながら近づいてきて、婚約をしたそうで、おめでとうなどと皆からいわれ、彼も、まんざらでなく、その相手はそう、ちょうどあちらからやって来るご婦人ですと紹介する。
その女性は、公爵夫人と孫娘のリーザ。
驚きを隠せないゲルマンと、その熱い視線に、不安と困惑を感じるリーザであった。

彼らが去ったあと、トムスキーは、あの老公爵夫人も、若い頃は、美人で、パリでは社交界でモテモテだったと語りはじめる。
でも、彼女は、恋よりは賭け事に夢中で、ある晩、カードで大負けし一文無しに。
彼女に思いがあったある伯爵から、一夜を共にするなら、絶対に負けない3枚のカードの秘密を教えるといわれ、翌日、彼女は、大勝ちする。
その秘密を、彼女は夫と、ある美男子に教えたところ、ある晩、夢に幽霊が出てきて、カードの秘密を知ろうとする男から、きっと災いを受けるであろうと予言を受けた・・・と歌う。

みなは、ゲルマンにどうだ、チャンス到来だとぞと言ってからかう。

 第2場 リーザの部屋

リーザが、友人のポリーナと二重唱。
そして、ポリーナは、リーザに親愛の情を示すロマンスをしっとりと歌うものの、そのムードがあまりに寂しすぎて、次はもっと元気な歌を、ということで家人も出てきて、踊りながらリズミカルな歌となる。
ひとりになったリーザは、婚約した日にもかかわらず、心晴れず、涙を流しつつ、美しいアリアを歌う。
心の中に、あの情熱的な青年の姿が残っているのだ。
そして、バルコニーの下に、そのゲルマンがあらわれ、ピストルを出して、自殺をほのめかして、情熱的に迫る。
そこに、伯爵夫人が物音がしたと、ドアを叩くが、リーザは取り繕い、彼女はゲルマンの熱意に負けて、愛していますと、ついに告白してしまう。

 

第2幕

 第1場 ある高官の館


 仮面舞踏会。

Qs_2

 賑やかな夜会で、人々は、花火を見に外へ、そして、ゲルマンの友人たちは、あいつも、最近元気になったな、と噂する。
広場には、イェレスキー公とリーザふたり。
悲しそうな彼女に、「あなたを心から愛しています」と、素晴らしいアリアを歌う。
出てゆくふたりと入れ違いに、ゲルマンがリーザからの「大広間でお待ちください」との手紙を手にして入ってくる。
これで、3枚のカードの秘密がわかれば、彼女と逃避行だと興奮する。
そこへ、友人たちが戻ってきて、ゲルマンに「3枚のカード」とささやく。
幻覚と勘違いする困ったゲルマン。

Qs_3

 ここで、劇中劇が行われ、その余興が終ると、リーザは、ゲルマンに、隠し戸の鍵と、自分の部屋に通じる伯爵夫人の寝室の鍵も合わせて渡し、今夜、いらしてくださいとささやく。
リーザとカードの秘密もともに手にできると、喜びまくるゲルマン。

 第2場 伯爵夫人の寝室

 ゲルマンが鍵を開けてやってくるが、そのとき、待女たちと伯爵夫人が戻ってくる。
彼は、すかさず、物陰にかくれる。
リーザも戻ってきて、部屋にはついてこないで、と小間使いを返す。
伯爵夫人は、昔の華やかな舞踏会を懐かしんで歌い、やがて床につく。
そこへ、ゲルマンがそっと近づき、3枚のカードの秘密を教えてくださいと迫るが、あまりのことに、驚いた夫人は声もでない。
急くゲルマンは、思わずピストルを出して脅迫するが、そのとき夫人は、恐怖のあまり、発作を起こし、息を引き取ってしまう・・・・。
物音に、リーザが現れ、私でなく、カードの秘密が目的だったのね、と叫んで泣き伏す。

 

第3幕

 第1場 兵舎のなか、ゲルマンの寝室


 リーザからの手紙。そこには、「きっと殺意はなかったものと、いまは思っています、今夜、もう一度、運河のところで会ってください」というものだった。
そこへ、不気味な合唱の歌声が幻覚のように聴こえる。
伯爵夫人の葬式の幻影を思い、恐怖にとらわれるなか、窓が開き、そこには、婦人の幽霊があらわれる。。。。
 「あまえのところに来たのは、リーザを救うためだ、カードの秘密は・・・・、3・7・エース」と教えて消える。
 ゲルマンは、狂喜して、その3つのカードを繰り返し言う。

 第2場 運河

 凍てつく夜、リーザが黒い服をまとい、愛する人への複雑な思いを「ああ、心配で疲れきってしまった」と、素晴らしいアリアを歌う。
そこへ、ゲルマンがあわられ、ふたりは熱く抱き合い、ふたりで逃げましょうと歌う。
あなたとならどこへでも、では、どこへと問うリーザに、「賭博場!」と狂ったように答えるゲルマン。
しっかりして、とうながすリーザに耳もかさないゲルマンは、婆さんから、カードの秘密を知ったのだ、「3・7・エース」と叫び、リーザを振り切って、狂ったように賭博場へと向かってしまう。
絶望のリーザは、運河に身を投げてしまう。

 第3場 賭博場

 ゲルマンの友人たちが、人々に交じり、酒を飲みながらカードに興じてるところへ、イェレスキー公がやってきて、恋に破れた男は、カードには強いのだと、婚約を解消したことを話す。
景気づけに、トムスキー伯が小唄を歌う。
 そこに、当たりまくって、誰も相手をしなくなっているゲルマンがやってきて、「人生は賭け」と歌う。
では、わたしがお相手をしようと、イェレスキー公。
カードが配られ、皆はそれを取り囲み見守る。
「エース!」と叫ぶゲルマン。
「君のカードは、スペードの女王!」と言い返すイェレスキー公。
カードを見つめるゲルマンは、カードの中の、スペードの女王が、伯爵夫人の顔にかわり、にやりと笑うのを見て、驚愕する。
 何が欲しい、俺の命か!
こう叫んだゲルマンは、短剣を取り出し、自らの胸を刺す。

Qs_4

 瀕死のゲルマンは、イェレスキー公に許しを乞い、そして、リーザよ、本当に愛している、わたしの天使よ・・・と絶え絶えに言ってこと切れる。
 人々は、彼を許したまえ、そしてその魂に安らぎを・・・・と静かに歌い幕となる。

(画像は、1970年のボリショイ・オペラの引っ越し公演のもの。ロジェストヴェンスキーに、このCDと同じくアトラントフのゲルマン)

               幕

おそろしあ、げに、恐ろしき、ロシアの熱き血潮。
そして博徒と化した人間が、周りの人々を陥れ、そして自ら破滅するさま。

ロシア的なリアリズムが、ロシア的な自然~さっぱりとした気持ちのいい夏に恋が萌芽し、凍てつく冬に破綻する~との物語の符合でもって、見事に引き出される。

原作もさることながら、チャイコフスキーの劇的極まりない音楽の素晴らしさといったらありません。
抒情と激情の対比、現実離れした幻想と厳しい現実の対比。

主導動機でもって、繰り返される旋律は、いやでも舞台の緊張感を呼び起こす。

「Tri Karty」・・・・「3枚のカード」、この運命のような言葉、このオペラ中、いたるところで、キーワードのように歌われ、ささやかれる。
やたらと耳につきます。
このあたりのチャイコフスキーの音楽の作り方も素晴らしい。

この言葉にもてあそばれ、やがて命を献上するゲルマンでありました。

 オネーギンとともに、このオペラをレパートリーとする小澤さん。
ボストン時代に、こうして素晴らしい録音と歌手でもってレコーディングが残されたのは、本当に幸いなことです。
 明るめの色調のオーケストラは、機能的でありながら、切れ味も抜群。
イキイキとした息吹を吹き込む小澤さんの指揮は、音楽もメリハリが効いて、リズム感も抜群で、かつダイナミック。
そして、チャイコフスキーの抒情も巧みに引き出してます。
 欲を言えば、スマートにすぎ、シンフォニックに過ぎる点か。
そして、どす黒いロシアの憂愁が抜け落ちた感あり。
 そのあたりは、自分的には苦手なので、こうしてヨーロッパ的なロシアものを好むのですが、次は、ロストロポーヴィチやゲルギエフを聴いてみたいと思う。

映像では、ロジェストヴェンスキーの指揮によるパリ上演を見ましたが、演出が風変わり。
精神系の病院が舞台で、ゲルマンは完全に病める人でした。
それはある意味、ギャンブル=依存症という構図が言い得てるようで。

 さて、歌手では、タチャーナも見事に歌うフレーニのリーザが最高です。
優しさと一途さを歌うことでは、ヴェルディやプッチーニの諸役を歌うフレーニに同じ。
人肌を感じる、その暖かい歌声に、冬の寒さもぬくもります。

 対するアトラントフの劇的ぶりは、この演奏の中で、一番ねばっこい歌唱で、ひとり、おそロシアしていて際立ちます。
 ホロフトフスキー、レイフェルクスといった豪華な顔ぶれも素晴らしいです。
それと味のある超ベテラン、フォレスターさん。
死に際の断末魔のだみ声や、幽霊声がちょっと怖い。

 幕切れのセンチメンタルなシーンで流れる、前奏曲や、劇の随所にあらわれる愛の旋律は、泣けるほどにステキなのでありました。

おしまい。

 

Kitte_c

今日も、寒い。

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2014年12月13日 (土)

サン=サンース 交響曲第1番と2番 マルティノン指揮

Ebisu_p

まるでヨーロッパを思わせるような街並みと、きらびやかなゴールド。

恵比寿のガーデンプレイス。

一番奥の高いところから俯瞰してみました。

パリのシャンゼリゼ通りみたいに、通りの奥に美しいモニュメントがあって、均整の取れた雰囲気がいいです。

そんな、おフランスの香りを、ちょこっと楽しめる若書きのフレッシュ交響曲を。

Saintsaens

  サン=サーンス 交響曲第1番 変ロ長調 op2

                          交響曲第2番 イ短調 op55


         ジャン・マルティノン指揮 フランス国立放送管弦楽団

                       (1972.6,11@パリ、サル・ワグラム)


カミーユ・サン=サーンス(1835~1921)の作品は、多岐にわたるジャンルに、多くの作品がありますが、特定の作品ばかりに人気が集中し、それ以外の作品には日の目があたることが少ないです。

オルガン交響曲、動物の謝肉祭、死の舞踏、ヴァイオリン協奏曲第3番、ピアノ協奏曲第2番、チェロ協奏曲第1番、サムソンとデリラ・・・・ぐらいが頭に浮かびますが、室内楽作品、器楽作品、歌曲、声楽、オペラは多数あるのにまったく知りません。
 そして、交響曲と協奏曲の他の番号は?

ということで、今回は、3番「オルガン付き」の陰にかくれた、ふたつの番号付き交響曲を。
ほかに、習作的な未完作ふたつと、完成された作品番号なしのふたつの交響曲がありますので、完全なものとしては、サン=サーンスの交響曲は5つあることになります。

 交響曲 イ長調       15歳

 交響曲第1番 op2  18歳

 交響曲「ローマ」       21歳

 交響曲第2番 op55 23歳

 交響曲第3番 op78 51歳


こうしてみると、年齢的に円熟期に書かれた3番が、作品としても、もっとも充実していることがわかりますね。

でも、サン=サーンスの音楽の魅力は、若い頃のものにも、如実にあらわれておりまして、屈託なく、明るく伸びやかな、若い人にしか書けない、そんなフレッシュさにあるんです。

ともに4楽章形式で、しっかりとした交響曲の姿を身にまとってます。

1853年に書かれた第1番、ティンパニ2基、ハープ、管も3管、サキソフォーン、シンバルを要します。
大きな編成の本格交響曲は、当時のフランス音楽界にあっては、ベルリオーズ以来かもすれず、作者の名を伏せられて、そのリハーサルから聴いた、当のベルリオーズやグノーといった先達たちを感嘆させたといいます。

堂々たる1楽章は、どこかシューマンの「ライン」を思わせる、と解説にも書いてありますが、まさにそう、それにメンデルスゾーンとベルリオーズのエッセンスを足したような感じ。
 以外に古風な、行進曲的なスケルツォを経て、この曲のもっとも魅力的な緩徐楽章たる3楽章が素晴らしいです。
クラリネットの優雅なソロに始まり、この楽章で終始活躍するハープが、美しいアルペッジョを奏でるなか、オーケストラはメロディアスに、ほんとうに美しい世界を展開します。
18歳の青年の作とは思えない、この優美な感興極まる音楽ですが、一面、心になにも残さず、流れてしまうという恨みもあります。
それでも、ともかく美しい。
最後は、すべての楽器がにぎにぎしく鳴り渡る気合のはいったもの。
若い眩しさが、一方で、若気の至りみたいに未成熟な空虚を感じさせもしますが、緩急おりまぜ、全曲を見通し、完結感を与えつつ、力強いエンディングを迎えます。

 
交響曲第2番は、1858年で、1番から5年を経て、その音楽は、若々しさを保ちつつも、よりシンプルに、その編成もずっと小さくなり、打楽器はティンパニだけ、金管もトランペットだけと、効果を狙うようなことは少なくなり、より内面的な要素が出てくるようになったと感じます。
全体に、すっきりムードがただよい、古典回帰のような雰囲気もあります。
シューマンっぽくあり、メンデルスゾーンの1番や、ビゼーの交響曲をも思い起こさせます。
 短調のムードが覆う1楽章は、どこか捉えどころがないままに、走るようにして進んで、終わり。
抒情派サン=サーンスの、ここでも面目躍如たる2楽章のアダージョ。
シンプルなロンド形式で、静かで優しい曲調は、1番と同じ調でありながら、あちらの連綿たる美しさには、かなり及ばず、物足りなさを覚えます。
 3楽章はスケルツォ。
これまたメンデルスゾーンチックなスケルツォ楽章。のんびりとした牧歌調の中間部を持ちながらも、冒頭のスケルツォに回帰せず、そこでジャンと終わってしまう面白さを持ちます。
 ついで、前楽章の雰囲気を引き継ぎつつ、タランテラの軽やかかつ、リズミカルな展開の終楽章は、なかなかに楽しい。
これも、ビゼーとメンデルスゾーンを思わせますよ。
なんとなく、イマイチ感を持ちつつ聴いてくると、この最後の楽章で、気分が高揚していい感じになりますよ。
 伝統的な交響曲を生真面目に書きたかったサン=サーンスさんでしょうか。

1番も、2番も、このように、それぞれに個性があって楽しい聴きものです。

みなさまも是非。

完成された5つの交響曲をすべて録音しているのは、マルティノンだけでしょうか。
番号付きでは、プレートル、レヴィぐらいかな。

60~70年代の、典型的なフランスのオーケストラの音色をここに感じます。
華奢でありながら、瀟洒な響きは、サン=サーンスの若い音楽にぴったり。
マルティノンは、ほんと、いい仕事をEMI&エラートに、たくさん残してくれましたね。

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2014年12月10日 (水)

R・シュトラウス ニ重小協奏曲 プレヴィン指揮

Ebisu_o

まるで、ヨーロッパの王宮かなにかを思わせる雰囲気ざましょう?

恵比寿ガーデンプレイスの奥にあるレストラン。

ジョエル・ロブションにございます。

いくつかのレストランの形態が入ってますが、そのうちガストロノミーは、ミュシュランガイドの三つ星を取っておりますそうな。

まったく無縁の世界ですが、こうして、うっとりさせてくれる写真でも眺めながら、緑茶ハイをすするのもオツなもんです。

ちなみに、カジュアルな方のレストランのメニューはこんな感じ。

Robuchon

モダン・フレンチだそうです。

食べたくもあり、いや、歳取ってくると、和食で、最後はお茶漬けかなにかでさらっとしたいねぇ・・・・

Strauss_previn

 R・シュトラウス  クラリネットとファゴットのためのニ重小協奏曲

     Cl:ペーター・シュミードル Fg:ミヒャエル・ウェルバ

   アンドレ・プレヴィン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                       (1996.11 @ウィーン)


R・シュトラウス(1864~1949)の生誕150年は、思ったほどに盛り上がらずに、静かに終わりそうです。

かといって、演奏されなかった訳じゃなくて、むしろ、コンサートやオペラのプログラムとして、シュトラウスの音楽は、世界的に完全に定着してしまっていて、日常に聴ける作曲家のひとりとなっているわけですね。

オーケストラの技能の向上や、録音技術の目覚ましい進化なども、マーラーなどとともに、人気作曲家へと押し上げる要因のひとつです。

そんなシュトラウスでも、まだオペラはその一部しか親しまれておりませんし、室内作品も、まだまだ素敵な作品がたくさん。
そして、今日は、最晩年のユニークな協奏作品を。

20分程度の、可愛いくもステキな作品で、これは、まさにオペラの世界です。

弦楽とハープは、文字通り伴奏する存在にとどまり、クラリネットとファゴットという、きらびやかさとは無縁の中音の楽器ふたつが、まるで、言葉の多い多弁なシュトラウスのオペラの登場人物のようにして、語りまくり、歌いまくるのです。

3つの楽章を成してはいますが、連続して演奏され、最初の楽章では、クラリネットが主役で、朗々と清々しいソロをたくさん聴かせます。
2楽章は逆に、ファゴットが楚々と緩やかなソロでなごませてくれます。
 そして、3楽章にいたって、ふたつの楽器の明るくも、語り口の滑らかかつ多弁な競演となります♪

1947年、イタリアのルガーノの、スイス・イタリア語放送局からの委嘱を受けて、12月クリスマス明けに完成させました。

 こうした曲は、オーケストラの首席たちをソロにしてこそ、ファミリーな感じで、その妙意が味わえるものです。
そうした意味で、ウィーンフィルであります。
ウィーンの管楽器の、まろやかな丸みを帯びた響きが、シュトラウスの清朗な世界にぴったりときます。
先日、60~70年代のウィーンフィルの木管の代名詞のような存在だった、アルフレート・プリンツ氏が亡くなってしまいましたが、そのあとがシュミードル。
ウェルバのファゴットとともに、代々、永々と続く、ウィーンフィルの伝統をその血脈とともに語り継ぐ名手たちです。
 その伝統も、時代の変遷とともに、楽器の変化も伴いながら変わりゆくのも、それは宿命で致し方がないことですね。
わたくしが名前を思いだせるのも、その音色が脳裏に浮かぶのも、彼らの世代までかもです。

ホルン、オーボエ、そして、このニ重協奏曲を録音しているのは、あとは、ドレスデン。
ベルリンには、この曲がありませんでしたね。

シュトラウス晩年の澄み切った心境を感じさせる桂曲にございます。

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2014年12月 9日 (火)

チャイコフスキー 3大バレエ組曲 カラヤン指揮

Tokyo_tower4

東京タワーの足元には、毎年、この時期、大きなツリーとテーマを持ったイルミネーションが出現します。

そのテーマは、「くるみ割り人形」

Tokyo_tower7

映画化された「くるみ割り人形」です。

その映画は、3Dで、声優には、旬の有名どころがたくさん出てるみたいですよ。

http://kurumiwari-movie.com/

Tchaikovsky_karajan

  チャイコフスキー 3大バレエ・ハイライツ

      「白鳥の湖」

      「くるみ割り人形」
 

      「眠りの森の美女」

  ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

           ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

                (1961,65 @ウィーン、ゾフィエンザール)


さすがに映画のくるみ割りには、縁がなさそうな自分ですが、こちらは、かつての昔より、聴き親しんでまいりましたね。

「くるみ割り人形」は、全曲もコンパクトだし、全編に渡ってファンタジーの世界だから、軽く聴けちゃうけど、ほかのふたつの全曲を聴くのは、ちょっと構えてしまいます。
なんたって、「眠りの森」の方は、全曲盤すら持っておりませんで。

バレエ観劇もしたことないし、映像でも「くるみ割り」以外は、全部見たことないし。

だから、組曲版は、重宝しますし、CD時代になって、3つ一緒に聴けるのも嬉しい。

中学の音楽の授業で、必ず聴かされる「くるみ割り」ですが、当然にクラ好きのワタクシですから、レコードも持ってました。

それは、当時、まったく画期的だった、驚きの1000円のレコード、日本コロンビアのダイアモンド1000シリーズの中の1枚でした。

1000

ヨーロッパ各地の写真をあしらったジャケットは、70年当時、クラシック音楽の本場へのあこがれも相まって、気分を高揚させるものでしたね。
 レコードですので、「眠りの森」は、入ってませんが、その演奏は、このシリーズで名をあげた(?)、もう一人のワルター、ハンス・ユイゲン・ワルター指揮する、謎のオケ、ハンブルク放送と、プロ・ムジカ管。
プレーヤーを導入して、もう一度、聴いてみたいぞ。

「眠りの森」は、その後、コンサート・ホール・レーベルのマゼールの抜粋盤の一部を入手しました。

Maazel

画像は拾いものですが、これもまた、復刻希望ですな。

でも、くるみ割りとか、白鳥の湖とか、クラヲタになりつつあった、中高生になると、偉そうに小ばかにしてしまう傾向があって、見向きもしなくなりましたね・・・・。

そんな自分が、買ったのが、ロンドン・レーベルがついにカラヤンのデッカ録音を、1300年の廉価盤として限定発売したとき。

これを聴いて、目が覚めるような思いを味わいましたね。

なんたって、安い装置でしたが、それがよく鳴るいい音、いい録音。
そして、思わずのめり込んでしまうような、巧みなカラヤンの歌い口のウマさ、その魔の手にまんまとひっかかってしまったのでした。
あと、なんたって、したたるような、まさにウィーン・フィルの音色。

CDでいま聴いても、同じ感想です。

60年代、ウィーンフィルが、ウィーンフィルであった頃。
ゾフィエンザールでの、カルショウ、G・パリーのコンビが生み出した名録音のひとつ。
同時期に、ショルティのリングが録音されてるわけですよ。
丸みをおびた、暖色系の音色は、ちょっと鄙びた木管や、鋭くない金管とともに耳に優しい。
独特のポルタメントの一味がある、ふるいつきたくなるような弦。
 それらを、カラヤンは、抑えることがなく、ソフトムードでもって活かしているように感じます。
 のちのベルリンでの再録音では、その巧みさが、少し鼻につくようになりますが・・・・

ヴァイオリンソロは、ヨゼフ・シヴォー。チェロは、ブラベックです。

古き良き時代と断言しておきましょう。

 歳を経てもかわらぬウィーンのイメージであります。

3大バレエ組曲ならば、このカラヤン盤と、プレヴィン盤がお気に入りです。

そして出来れば、プレヴィンはウィーンでも録音して欲しかった。

Tokyo_tower3_2

いつまでも、夢見るオジサンです。

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2014年12月 6日 (土)

バントック 「サッフォ」 ハンドレー指揮

Yokohama_smart

10月の終わりから、11月の始めにかけて行われた、横浜のスマート・イルミネーション。

環境に配慮した、優しいイルミで、創作的な作品も数多く、隣国からもいくつか展示がありました。

こちらは、実はゴミ袋なんですよ。

いまのクリスマスイルミネーションは、煌びやかですが、彩りはあっても、優しいほの暗さがよいですね。

Bantock_sappho

  バントック    「サッフォ」

    ~メゾソプラノとオーケストラのための前奏曲と9つの断章~

          Ms:スーザン・ビックレー

   ヴァーノン・ハンドレー指揮ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団

                          (1997.2 @ロンドン)


サー・グランヴィル・バントック(1868~1946)は、ロンドン生まれの作曲家。

あまり知られてませんが、極めて多彩な方で、その作品数は多いですが、ほぼ演奏されません。
大規模な編成を要するオーケストラ作品や劇作が多いことも、その要因のひとつかもしれません。

以下は、以前の記事を少し編集して、そのまま記載します。

 外科と産婦人科の父のもとに生まれたグランヴィルは、恵まれた環境において、幅広い教養を身に付け、音楽もその教養のひとつでした。

 当初は、化学工業を学ぶものの、20歳にして、南ケンジントン音楽館で、数々の譜面を読んで、作曲を学び、音楽に目覚め、やがてトリニティ・カレッジで本格的に勉強をするようになり、さらに30歳にして、ロイヤル・アカデミーに入学して、さらに指揮者としての活動も行い、同時代を含む自国の作曲家たちの作品に親しんでゆく。
これは、やがて、バーミンガム市響の設立への関与にもつながります。

 あきれるほどの教養人で、ヨーロッパ各国語はおろか、ペルシア語やアラビア語・ラテン語までも体得し、日本をはじめとするアジア文化にも興味大だったバントック。
 その豊富な探究心から、極めて多岐にわたる題材でもってたくさんのオーケストラ作品や声楽作品を書いた。だから表題音楽がたくさん。
日本や中国、アラビアにまつわる作品もあります。

 でもその神髄は、ほかの英国作曲たちが同じく魅せられたケルトの世界。
神秘的であり、ロンドンっ子からしたら心の故郷の世界でもあった。

4歳違いのR・シュトラウスとも相通じるものがあるし、ときに巨大性も発揮するところは、親友ブライアンをも思わせるところがあり、さらに、しなやかさでは、フランスの印象派風の響きにも通じるものがあります。

 その音楽は、シュトラウスと同じく、時代を考えれば、どちらかといえば保守的。

甘味さと自然賛美の大らかさが同居する、世紀末風の音楽でもあり、地味さと派手さも共存してる。

わたくしには、極めて魅力的な存在で、濃厚すぎない官能性がたまらなくよろしくて、そこに自然を感じさせるのもよろしいのです。

以前は、その名もまさに、「ケルト交響曲」を取り上げております。
そちらは、まさに、絶海を思わせる素敵な作品でした。
オケ付きの歌曲と、オペラオラトリオのような長編「オマル・ハイヤーム」も、ただいま挑戦中。

いずれも、亡きヴァーノン・ハンドレーが、ハイペリオンとシャンドスのふたつのレーベルに、これらを含むバントック・シリーズを録音してまして、ほんとうにありがたい指揮者でした。

そのハンドリーの遺作の中から、「サッフォ」を。

Sappho

サッフォ(サッポー)は、古代ギリシアの女流詩人で、紀元前7~6世紀の頃の方です。
途方もない昔ですが、恋愛詩人として、夫と死別してのち、独身をつらぬき、多くの若い女性に様々な芸術を指導したとされます。
 余談ながら、そうしたこともあり、また、官能的な詩作もあることから、彼女は同性愛とも後に噂され、サッフォさんが、レスボス島の出身であることから、レズビアンという言葉も生まれたといいます。

 ちなみに、本CDのジャケットの絵は、その名も「レズビア」。
イギリスの世紀末画家、ラインハルト・ウェッグリンの作品です。
バントックより、20歳上で、同時期に活躍してますので、この絵の雰囲気が、彼の音楽にぴったりと寄り添って感じるんです。
 ハイペリオンのバントック・シリーズは、ウェッグリンの絵が多く使われてます。

 この古代の詩を選択するところが、教養人としてのバントックの見識だと思いますが、英国語への訳詩は、ヘンリー・ウァルトンという人のもの。
それを、バントックの妻である、ヘレン・バントックが校正したもの、9作が選ばれてます。

ヘレンは、もとの名は、ヘレナ・フォン・シュヴァイツァーで、ドイツ系。
Helenaのaを取って、Helenとなりました。
彼女も、才人で、詩人であり、画家でもありました。
夫の作品にも詩を提供しております。

Bantock

 オーケストラによる10分の長い前奏曲のあと、その前奏曲にあらわれる旋律が、さまざまに登場する、9つの歌。

詩のタイトルと、その中身は、正直言って、対訳がないと、さっぱりで、難敵です。

 1.「Hymn To Aphrodite 」

 2.「I Loved Thee Once, Atthis, Long Ago」

 3.「Evening Song 」

 4.「Stand Face To Face, Friend」

 5.「The Moon Has Set」

 6.「Peerof Gods He Seems」

 7.「In A Dream, I Spake」

 8.「Bridal Song」

  9.「Muse Of The Golden Hrone」

これらのタイトルから、なんとなく、その詩の内容と、それに付したバントックの音楽を想像してみてください。

ときに劇的に、そして甘味かつ、官能的で、香り立つような芳しさと、優美さ、夢見心地の切なさ、優しさ・・・・・。

この音楽を聴いていると、こんな言葉が次々に浮かんできます。
すべてのエッセンスは、オーケストラによる前奏曲に集約されております。
1906年の作曲で、初演は、作曲者の指揮で、1911年。

この音盤を手にしてから、4年。
もう、何度聴いたことでしょうか。
すっかり、バントックのこの音楽が心と身体にしみついてしまいました。
なにかの拍子に、ふっと、浮かんでくる旋律たちのひとつともなりました。

透明感と、すっきり蒸留水タイプの英国歌手ならではの声質の、リバプール生まれのスーザン・ビックレーが、極めて素晴らしいです。
それを支える、美麗このうえない、ロイヤル・フィルとハンドレーの指揮でした。

余白には、この作品と音楽的にも関連づけられた、「Sappho Poem」が収録されてます。
こちらは、本作の雰囲気をそのままに、チェロの独奏付きのオーケストラ作品でして、ジュリアン・ロイド・ウェッバーが素敵に弾いておりました。

 過去記事


「ケルト交響曲 ハンドレー指揮」

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2014年12月 5日 (金)

モーツァルト レクイエム リヒター指揮

Gaien_10

神宮外苑の銀杏並木。

銀杏祭りがおこなわれていて、一番奥では、各地の産物やグルメの屋台で賑わっております。

でもそんな喧騒を避けて、早朝、ひと気の少ない時間に訪れるのが一番。

もう少し、青山寄りに行けば、表参道。
そちらは、けやき並木で、夜はゴージャスなイルミネーション。

東京は、美しくてお洒落ですが、東京ばかりか・・・・

そして、朝早く行ったのに、早くも、かの国の方々が大勢いらっしゃって・・・

 さて、12月5日は、モーツァルトの命日です。

1791年、いまから223年前、午前0時55分のこと。

Mozart_requiem_richter

   モーツァルト  レクイエム ニ短調 K626

    S:マリア・シュターダー     A:ヘルタ・テッパー

    T:ヨーン・ファン・ケステレン  Bs:カール・クリスティアン・コーン

   カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
                 ミュンヘン・バッハ合唱団

                     (1960 ミュンヘン)


モーツァルトの絶筆は、ラクリモーサまでが作曲され、しかも完全に仕上がったのは、第1曲の入祭誦のみ。

残りは、ご存知のとおり、弟子のジェースマイアーが、死の床にあった師から受けた指示のもとに、完成させた作品です。
ジェースマイアーが、何番弟子か、それはわかりませんし、ほかの人も手掛けて、できなかった補筆完成を、仕上げてくれたという点で、ジェースマイアーは、音楽史にその名を残すこととなりましたね。
もちろん、彼ひとりでなく、共作による補筆ではありますが。
 そして、確かに、ラクリモーサより後の部分は、パッチワーク的でもあり、霊感に不足する場面も多々ありますが、それでも、人々は、このジェースマイアー版を長く聴いてきました。

 ですから、バイアー版を手始めに、いくつかの版もありますが、わたくしは、あまり拘泥せずに、素直にジェースマイアー版を、なにも考えることなく聴くことにしてます。
もちろん、マリナーもアバドも、みんな大好きな演奏です。
そこにある、モーツァルトの偉大な音楽を素直に楽しめればいいのです。

 さて、この曲には、いろんな伝説めいた話が尾ひれのようにして、残ってます。
「灰色の服を着て異様な風采をした男が訪れ、レクイエムの作曲を依頼し、モーツァルトは、死の使者と思いこみ、自分死を葬るためのレクイエムと思い作曲した・・・・」

依頼の訪問者はありましたが、この話は、いまや虚構とされておりますね。

依頼を受けたころ、また、作曲を始めた頃、モーツァルトは、「魔笛」K620を完成し、「皇帝ティトゥスの仁慈」K621、クラリネット協奏曲K622、そして、フリーメイソンのための小カンタータK623と、晩年の名作にいそしんでいたわけです。
 前回のブログ記事で取り上げた、「フリーメイソンのための音楽」に書きましたが、フリーメイソンに入会してからのモーツァルトの人生観は、大きく変わったと思います。

子供のような天真爛漫・純粋無垢な傷つきやすい心から、それを持ちつつも、友愛や知で結ばれた仲間との交流で培われた、大人の心。

 死の床にある父レオポルドに向かってかかれた有名な手紙は、モーツァルト自身の死の4年前です。
「死は、よく考えてみれば、私たちの存在の真の目的地ですから、私はこの2,3年というもの、この人類の最善にして真実なる友と非常に親しくなりましたので、死の姿は、もはやまったく恐ろしくなくなり、むしろ優しく、安らかなものと思えます。
 死が、真の幸福に至るドアを開ける鍵であると知る機会(この意味はおわかりですね)を、神様が与えて下さいましたことに感謝しています。
もしかしたら、私はもう明日は生きていないかもしれない・・・まだこの年ですが・・・と考えずに床につくことはありません。」(石井宏訳)

この死生観は、キリスト教的なものではなく、やはり、モーツァルトが出会ったフリーメイソンの教義にあるとされます。

カトリックの典礼音楽としてのレクイエムではありますが、モーツァルトは、作曲の機会と報酬を得て、死を覚悟しつつも、その死を、積極的に迎えようという気持ちがあったのかもしれません。
そう思いつつ、ひとつの聴き方として、後半部分が、どんな姿で完成されたか、思いめぐらすこと多く、まったくもって興味はつきません。
 金に困っていたモーツァルトが、自身の信条を殺して、レクイエムを書いたのかも。
そんな気分で書いても、こんな極限的に素晴らしい音楽が残せた。
そして、もしかしたら、ほんとうに、モーツァルトは、その死を、本当に恐れていたのか。
永遠に尽きることのない、謎をあれこれ想像するのも、これもまた、音楽を聴く楽しみであります。

 モーツァルトの早世は、人類にとって、極めて無念なことでしたが、また、それはそれで、ひとつの完成された天才の人生でしたね。

 そして、今日は、55歳の若さで、急逝してしまった、カール・リヒター(1926~1981)の指揮する音盤で。
いまでは心のなかにいる、クラウディオ・アバドの演奏で、とも思いましたが、アバドはまた、1月に。

リヒターの死は、当時、社会人になる日を目前に控えていた2月のことで、ほんとうに驚きました。
マタイを中心として、バッハ演奏=リヒターと思っていた当時でしたから。

その死後、すぐに買ったレコードが、このレクイエムでした。

この演奏を覆う、峻厳なまでの厳しさは、ときに、突き放されるほど。
でも、60年当時のリヒターのバッハ演奏に通じるスタイルで、無駄な装飾を排し、楽譜に書かれたもの、作曲者の音譜そのものをそれぞれ突き詰めて、極めて高い緊張感を生み出し、そこに音楽の真実を生み出す。。。。
 そんなモツレクなのです。

先にふれた、モーツァルトの、もしかしたら、その死生観には、ちょっとそぐわないような気がいたしますが、これはこれで、その切り込みの深さは相当なもので、圧倒的であります。
独唱陣の声も、懐かしく、そして清潔。

リヒターの4年後輩、お馴染みのハンス=マルティン・シュナイトさんが、主を失ったミュンヘン・バッハ管弦楽団の指揮者となり、その存続の危機を救ったのも、神奈川フィルを愛するわたくしには、どこか因縁を感じます。

 日本を、そして横浜を愛したシュナイトさんのモツレクは、もっとふくよかで、人肌のぬくもりと、祈りにあふれた演奏で、リヒターとはまた全然異なる世界を造り上げているところが面白いです。

 モーツァルトのレクイエム 過去記事

「ピエール・コロンボ指揮 コンサート・ホール盤」

「サー・ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー」

「ハンス=マルティン・シュナイト指揮 シュナイト・バッハ管」

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2014年12月 3日 (水)

モーツァルト フリーメイソンのための音楽 ケルテス指揮

Gaien_b

曇り空ですが、黄色く染まった銀杏並木は、晩秋であり、冬の訪れの風物詩。

神宮外苑の様子です。

この前まで、「暑い」を連発していたのに、寒くなると、そのときの思いは、完全に押しやられてしまい、遠い昔のこことようになってしまいました。

そう、まして、涼味あふれるソーメンをすすっていたことなんて、寒々しくて思いだせないよ。
今年は、フリーソーメンが流行りましたな。

そうめんは、あったかくしても美味しく食べれるから、それもまたオツなもんで。

Mozart_masonic

 モーツァルト フリーメイソンのための音楽

   「おお聖なる絆よ」

   カンタータ「宇宙の霊なる君」

   歌曲「結社員の道」

    カンタータ「フリーメイソンの喜び」

   フリーメイソンのための葬送音楽

   合唱付歌曲「今日こそ浸ろう、親愛なる兄弟よ」

      〃   「新しい指導者である君たちよ」

   ドイツ語による小カンタータ「無限なる宇宙の創造者を崇敬する君よ」

   フリーメイソンのための小カンタータ「高らかに僕らの喜びよ」

   合唱曲「固く手を握りしめて」

     T:ウェルナー・クレン   Br:トム・クラウセ

           Pf:ゲオルク・フィッシャー

     イシュトヴァン・ケルテス指揮 ロンドン交響楽団
                        エディンバラ音楽祭合唱団
                        アーサー・オールダム合唱指揮

                      (1968.5 @ロンドン)


モーツァルトの残した、これらの曲の羅列を見て、なんのこっちゃ?と思われる方が多いと思います。

いつもの明朗快活、明るいモーツァルトの音楽にない、厳粛さと怪しい言葉の配置。

これらの作品は、一部不明のものを含めますが、1785年(28歳)から、亡くなる1791年までに書かれたものです。

そう、1784年に、モーツァルトは、「フリーメイソン」に入会しているのです。

このディスクは、モーツァルトがフリーメイソンのために書いた音楽を全曲収録しているのです。

 フリーメイソンとは、フリーソーメンじゃありませんよ!

18世紀の中ごろに生まれたフリーメイメン。
もともと、中世・ルネサンス期のヨーロッパにおける石工たち、すなわち職人たちは、築城や街造りを担う重要かつ尊敬された存在だった。
その彼らは、現場から現場を数年単位で旅をしながら活動する、王侯・貴族に束縛されないフリーな技術者軍団だった。
 そして、現場にロッジ(小屋)を造り、そこで男たちだけの共同生活を営んだ。
そこにうまれた諸々のルールが、やがて憲章となり戒律となってゆく。
 さらに、そこにはやがて、上流社会の知識人も加わるようになり、いわば、精神修行の場となっていく。
これが、フリーメイメンの誕生です。

建築家の象徴である太陽を崇めることもあり、キリスト教社会からは、邪のようなイメージ戦略でもって、秘密結社的な存在と植えつけられたが、フリーメイソン側は、「友愛と寛容」をもって是とする立場で、対立路線はまったくとらなかったため、極めて紳士的な存在なのでありました。

この会に、モーツァルトは、すぐさま共鳴し、熱心に活動し、すぐさまマイスターに昇格。
父レオポルドや、パパ・ハイドンも勧誘して会員にしております。

本CDにある、石井宏さんの見事な解説をお借りして、要約してみました。

さらに、氏の解説によれば、大人社会の矛盾に満ちたあり方に、不安と不満を感じた子供のような心をもったモーツァルトが、人類みな兄弟、知彗と徳をモットーとするフリーメイメンにすぐさま系統してのめり込んだのは当然の帰結であったとしております。

純粋無垢なモーツァルトの思いが、まさに伝わってきますね。

フリーメイソンにまつわる音楽の最大のものは、いうまでもなく「魔笛」であります。

ここにおさめられた10曲のなかで、一番有名なものは「葬送音楽」です。

指揮者ベームが亡くなったとき、ウィーンフィルの演奏会で、急遽取り上げられたりしました。
短い中に盛り込まれた、悲しみと、深い哀悼の思い。
のちのレクイエムにも通じる世界で、極めて深く、心に響いてきます。

その他の曲を聴いて、そこに鳴っている音楽は、いつものモーツァルトのまま。
歌詞が、「絆、兄弟、友愛、宇宙、太陽、知彗、感謝、徳・・・」などを連呼しているのを除けば、まったく違和感なく、モーツァルトしてます。

好いた、腫れたの恋愛モードがまったくないだけで、ここにあるモーツァルトの音楽は、清廉で、美しく、歌心にも欠けておらず、かつ潔癖であります。
 ことに、13分を要する大作、小カンタータ「高らかに僕らの喜びを」は、亡くなる少し前の最晩年の作品で、澄み切った心境を感じさせる傑作だと思いました。
テノールの長いソロがあって、それはまさに、「魔笛」のタミーノを思わせますし、途中から、バリトンも加わり、そちらも「魔笛」の弁者のようです。
フルートのソロが追従するのも、まさに!

モーツァルトのスペシャリストでもあったケルテスが、この貴重な録音を残してくれたのは感謝しなくてはなりません。
プロデューサーとしての、エリック・スミスの研究もあってのことと思います。
エリック・スミスは、指揮者、ハンス・シュミット=イッセルシュテットの息子です。

余談ふたつ

・日本にも、メイスン財団という組織で、各地にロッジが存在してます。
本部は、東京タワーの近くにビルがあります。
数年前、メイスンのグランドロッジの代表が日本人になった、そして国内で投資をするから・・・という、ウソみたいな話を持ち込んできた人がいまして、よくあるブローカー話だと一笑に付しましたが、こんな話が出てくるという点で、やはり謎っぽい存在に思われちゃうんだな。
メイスン財団の所管は、内閣府で、いまは、一般財団法人となっております。

・「フリーソーメン」を、PCが記憶してて、Tabキーを押しながら、この記事を書き終えたら、出来てみれば、「フリーメイソン」が、全部「フリーソーメン」になっちゃってた・・・・。
ひとりで、爆笑。

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2014年12月 2日 (火)

グィネス・ジョーンズ オペラ・リサイタル

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12月になりました。

街は、集中しすぎの感はありますが、都会を中心に明るく着飾っております。

そして、昭和はますます遠ざかる思いをいだかせる著名人たちの訃報。
一方で、選挙も始まり、かまびすしく、流行語大賞も、レコードアカデミー賞もはやくも決まり、なんだかんだで、慌ただしいのであります。

そんななかで、暗くなると、そわそわしてきて、街を徘徊するオジサンひとり。

そうです、ワタクシ、イルミネーション大好きおじさんです。
そんなルミ男がワクワクしながら訪れたのは、恵比寿のガーデンプレイス。

ここは素晴らしい。

いまのところ、今年のイルミ大賞候補ですわ。

バカラのシャンデリアをいくつか組み合わせた、超ゴージャスなもの。
そして、ここへのアプローチは、イルミ並木に、ツリーが。

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 グィネス・ジョーンズ オペラティック・リサイタル

   ベートーヴェン 「フィデリオ」

      〃      コンサート・アリア「ああ、不実な人よ」

    ケルビーニ   「メディア」

   ワーグナー   「さまよえるオランダ人」

    ヴェルディ    「イル・トロヴァトーレ」

      〃     「運命の力」

      ソプラノ:デイム・グィネス・ジョーンズ

    アルジョ・クアドリ 指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団

                       (1966.11@ウィーン)


ウェールズ生まれの名歌手、グィネス・ジョーンズ、30歳のときの録音。

一般に、ギネス・ジョーンズと呼んでますが、Gwyneth Jonesなので、グゥィネスとか読んだ方が正しい。
ビールのギネスは、Guinnessで、こちらも微妙。
ジョーンズさん本人も、若い頃は、ギネスと呼ばれるので、その都度、「グゥイネス」と、正していたそうな。

70~80年代を代表するワーグナー歌手で、そのレパートリーは、ワーグナーにとどまらず広大で、R・シュトラウス、ヴェルディ、プッチーニまで。
そう、ビルギット・ニルソンに近い存在です。

でも、デイム・グィネスのその声は、人によっては賛否両論。
高音が強いので、耳にきつく響きます。
そのあたりが時として、声の威力に頼って、大味な印象にも結び付くからでしょうね。

しかし、わたくしは、昔から好きですよ彼女の声。

なんどか書いてますが、そのキンキンの高音と裏腹に、彼女の低音のグローリアスなまでの美しさは、極めて魅力的なんです。
だから、声のレンジが広い役柄が、もっとも素敵。
ブリュンヒルデ、ゼンタ、クンドリー、マルシャリン、バラクの妻、エジプトのヘレナ、トゥーランドットなどです。

わたくしは、彼女のイゾルデ、バラクの妻で、その舞台に接してますが、圧倒的なその声は、豊かな声量もさることながら、細やかでかつ体当たり的な迫真の演技とともに、いまでも忘れえぬ経験として、この身に刻まれております。
さすがは演劇の国、彼女の演技がまた素晴らしいのでした。
いくつも残された、DVDでそのあたりは確認できると思います。

そんな充実期の体験なのですが、この音盤は、まだ彼女が売りだしの頃で、コヴェントガーデンを中心に活躍し、ウィーンやベルリンでも歌いはじめたころ。
またバイロイトへの登場も、この年で、いきなりジークリンデでデビューしてます。
 ちなみに、翌67年には、NHKのイタリア・オペラ団の一員として来日して、「ドン・カルロ」でもって、日本デビューしてます。

 輝き始めのこちらの、彼女の声は、その魅惑の中低音域は、この頃からその片鱗がうかがえます。
静かな場面での、その歌声は、やはり、とても素敵なものでした。
しかし、強い箇所では、その強音が絶叫のように感じられ、まだそのあまりある声とパワーをコントロールできていないように感じます。
でも、30歳のビンビンの声は、それはそれで魅力で、ピチピチしてますよ。
ことに、ヴェルディがことのほか素晴らしかったです。
それと歌いなれた、フィデリオの迫真性と優しさ。
ゼンタのいっちゃってる感も素敵。

 それとこの音盤の魅力は、ウィーンのオケと、それを指揮する懐かしい名前、クアドリさん。
日本によくオペラを振りに来てましたね。
東京フィルにも再三登場。
雰囲気豊かなオーケストラは、やはり、オケピットの響きがしますし、この頃のデッカの強力録音陣は、豪華な音がします。
そう、エリック・スミスとゴードン・パリーの名前がクレジットされてますよ。
ショルティのリングの頃ですからね。

Meist8

         (バイロイトでのエヴァ:1968)

デイム・グィネス・ジョーンズの声に、若い力をいただいたような思いです。
78歳を迎える彼女、いつまでも元気でいて欲しいです!

最後に、ゴージャス恵比寿を1枚。

Ebisu_2

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