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2015年1月20日 (火)

モーツァルト レクイエム アバド指揮

Bergkirche_1

本日、1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

1年前の訃報に接したときのショックは、いまでも覚えてますし、その悲しみは、いつまでも癒えることはないと思います。

永年のクラシック音楽ファンで、いくつもの愛好対象があって、それぞれに、その思いがあるけれど、クラウディオ・アバドだけは別格です。

アバドのファンになって、今年で、数えで44年となります。

これから先も、ずっとアバドが好きだと思いますし、その人がいまや亡くとも、自分の中に完全に生きていて、その音楽は常に、自分のなかで、育まれております。

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アバドが、いま、静かに眠る教会は、先の画像の、ヨーロッパに多くある、山の教会とも呼ばれる、小さな可愛い聖堂です。

そして、その教会がある、スイスの村は、このような場所で、冬には雪が深く積もる場所。

あぁ、なんて、美しいのでしょう。

スイス南東部、サンモリッツを中心都市とする、エンガディン地方にある村で、イン川の上流部です。
 山の斜面に、点在する、アルプス地方の村々は、日本人にはあこがれのような、ヨーロッパ的な光景のひとつです。

お教えいただいたイタリアの新聞記事から、あれこれ調べて、その村や教会は、わたくし的には特定できました。
 ですが、クラウディオの家族も、わたくしたちファンも、クラウディオを静かに眠らせておきたいと思っていることと思いますので、ここでは、ご案内はいたしません。
 おおまかにいえば、エンガティン地方は、スイスでも、アルプスを超えるとミラノ。

ベルリンやウィーンよりも、ずっとルツェルンとミラノに近い場所です。

   モーツァルト レクイエム ニ短調 K626

Mozart_requiem_abbado_bpo

   S:カリタ・マッティラ    Ms:サラ・ミンガルト
   T:ミヒャエル・シャーデ  Br:ブリン・ターフェル

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                  スェーデン放送合唱団

                    (1999.7.16 @ザルツブルク大聖堂)


Mozart_requiem_abbado_lucerne

   S:アンナ・プロハスカ      Ms:サラ・ミンガルト
   T:マキシミリアン・シュミット  Bs:ルネ・パペ

  クラウディオ・アバド指揮 ルツェルン祝祭管弦楽団
                   バイエルン放送合唱団
                   スェーデン放送合唱団

                    (2012.8.8,10 @ルツェルン)


アバドが残した、ふたつの「モツレク」。

アバドのモツレクへの取組は、比較的遅くて、99年のベルリンフィルとの演奏が、もしかしたら初だったのではないでしょうか。

 この99年の演奏は、カラヤンの没後10年、その命日に、その生地ザルツブルクの大聖堂で行われたライブです。
 偉大な前任者であり、ときには、カラヤンから学んだアバドですが、その音楽性と、その生き様は、まったく異なるものでした。
1990年に、ベルリンのポストに就任し、あまりに大きかったカラヤンの影響から、アバドは、オケ内外で、あれこれ言われることもありましたが、寡黙で真摯な人間性と、その音楽への愛が、やがて、オケと世界中の聴き手を、アバドその人ありと、納得させてしまうのでした。

就任から9年目、カラヤンの追悼の演奏会の指揮台に立ったアバドですが、その半年後には、病に倒れてしまうとは、誰が予測したでしょうか。
この前後から、その音楽に少し隙間風が吹くような、気の抜けたような感じも受ける感もありました。
 ですが、ここでのモツレクの演奏は、気力も充分。
全曲にわたって、意欲がみなぎってます。
ターフェルをソロに迎えたこともあり、そして、追悼コンサートというメモリアル感もあって、このレクイエム演奏は、後年のルツェルン盤と比べて、とても劇的に聴こえます。
 さらに、残響の極めてゆたかな教会での演奏ということもあって、そこになおさらに、壮麗感が加わります。

 とてもユニークな独自解釈版で、聴いていて、あれ、おや、っという驚きが各所にあります。
 それらを、今回は、指摘する紙面の余裕はありませんし、かくいう自分自身が、まだ完全に把握しておりませんゆえ。

豊かな響きでありながら、音はしっかり刻んでいて、ヴィブラートも少なめな演奏。
ベルリンフィル相手に、先代の追悼コンサートに、99年時点での古楽オケでないオケから、こんな新鮮な響きを引き出してしまったアバドです。

 さて、その13年後には、ルツェルンで取り上げました。

これはたしか、マーラーシリーズの最後として、千人交響曲がアナウンスされましたが、結局は、モツレクとなり、ちょっとがっかりさせた演目でした。
 ですが、しかし、2012年の夏、NHKがすぐに放映し、それを見て、これはすごいと実感したわたくしです。

今度は、バイヤー版を中心にした解釈。
 正規のDVDも入手し、つぶさに視聴しておりますが、ここにある自在な表情と、繊細なまでの音の粒の美しさは、粒子が細かすぎて、ぱっと聴いたのみでは、わからないくらい。
すなわち、なにもしていないし、なにも演奏に力を入れたり、感情を込めたりもしていない。
でも、無の表情が、とても清潔で、清廉なのです。
 静かに流れるがごとく清流に、意思も、気持ちもありません。
そこには、音符から発せられる音のみ。

ラクリモーサも痛切ではなくて、キリエも切実でなく、ディエスイレには怒りもありません。

この静かで美しい、モーツァルトのレクイエムに、涙を覚える自分。

Mozreq_1

アバドのたどり着いた境地を、ルツェルンのいくつもの演奏に感じますが、このモツレクにもそれを感じます。

最後の2013年の、シェーンベルク、英雄の2楽章、ブルックナーの1楽章に、同じような清涼な世界を思います。

Bergkirche_3

アバドの眠る教会の聖堂のフレスコ画。

ほんとに小さくて可愛い教会ですから、一軒家の吹き抜けみたいな感じでしょうか。

アバドは、ここに佇んでは、この聖徒たちの絵をじっと見つめていたそうです。

Lapide_1

質素で、慎ましい、アバドの墓石。

クラウディオの人、そのものをここに感じます。

静かに、お休みください、マエストロ・アバド。

いつか、本当に親しいひとたちと、そっと訪れ、愛していただいた日本のお花を手向けたいと思います。

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コメント

クラウディオの一周忌にすばらしい記事を書いてくださり、本当にありがとうございます。今、キーボードを打ちながら泣いています。いつの日か、きっと、きっと行きましょうね。ミラノから日帰りもできるようですよ。この美しい自然の懐に抱かれて、クラウディオと静かに対話をしたいですね。クラウディオは一人一人の心に永遠に生き続けるので、没年は(生誕年も)刻まないのだそうです。ダニエレさんの「クラウディオは旅に出ています・・・」という言葉をそっと胸にしまっておきましょう。

投稿: | 2015年1月21日 (水) 13時05分

こんにちは。
そういえば、生没年が刻まれておりませんね。
なるほど、「クラウディオは旅に出てます・・・・」
そう、われわれも、そのように思って、ずっとそばにいたいですね。
そして、いつの日か、こちらに、クラウディオに会いにまいりましょう!

投稿: yokochan | 2015年1月24日 (土) 09時23分

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