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2015年8月

2015年8月31日 (月)

ディーリアス 去りゆくつばめ デル・マー指揮

Azumayama_1

8月も終わり。

お盆を境に、夏の力は急速に弱まって、熱帯夜もなくなりました。

あんなに、暑い暑いと連呼していたのに、ずっと曇り空や、そこから落ちてくる、弱い雨の日々ばかりで、この月は終了。

残暑のない夏なんて・・・・。

セミたちや、夏の虫たちも可哀そう。

今日は、秋を先取りした小さな音楽を。

Delius_delmar

  ディーリアス  去りゆくつばめ

              ~Late Swallows~


     ノーマン・デル・マー指揮 ボーンマス・シンフォニエッタ

                      (1975 ボーンマス)


ディーリアス(1862~1934)ほど、季節の移り変わりの機微を、その自然の描写にのせて、静かに優しく我々に語りかけてくれる作曲家はいません。

そして、四季が明確にある日本の風景や事象、そして、われわれの心情にぴたりとくるんです。

「去りゆくつばめ」とは、また、なんて素敵で、そして、儚いタイトルなんでしょう。
邦訳がともかく美しい。

フランスのパリ近郊の小村、グレ=シュール=ロワンを永久の住みかとしていたディーリアスとイェルカ夫人。
しかし、第一次大戦の影響で、イギリスに一時的に帰らざるをえなくなった頃に書かれていた、弦楽四重奏曲の緩徐楽章が、この「去りゆくつばめ」です。

その四重奏曲は、1916~7年の作品ですが、1962年に、ディーリアスの晩年、献身的にその補佐をつとめたエリック・フェンビーによって、弦楽オーケストラ用に編曲され、単独の小品として残ることになりました。

弦楽四重奏の原曲の楽章に、ディーリアスは、Late Sawllowsと、確かに命名してます。

10分たらずの静かな音楽。
旋律的な要素は少なく、各セクションが上下するモティーフを儚げに繰り返すのみ。
夏に行って欲しくない、もう少し季節がとどまって、あの煌めきを味わっていたい・・・・、
そんな心情が見事に反映されたかのような、後ろ髪引かれる、ちょっと寂しい音楽。
 夏は去り、秋が静かに訪れる風情を感じます。

ディーリアスは、グレの邸宅を去るときに、つばめたちと別れるのが辛いと、夫人にもらしたそうであります。。

隠れたる名指揮者、ノーマン・デル・マーのディーリアス小品集は、瀟洒で、全体が静かなつぶやきや囁きに満ちた桂曲・桂演揃いです。

過去記事

 「去りゆくつばめ  バルビローリ指揮」

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2015年8月30日 (日)

バイロイト2015、勝手に総括

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海のはるか向こうのバイロイト音楽祭も、今年も終了しました。

この年まで、異母姉妹の、エヴァとカタリーナのワーグナーの曾孫姉妹の運営は終了し、来年からは、演出家も兼ねるカタリーナのひとりのバイロイトとなります。

その試金石は、今後も次々に厳しく辛い局面となって訪れるでしょうが、大リヒャルトの血族として、その伝統を守り抜いて行って欲しいと思います。

そんななかで、大きな力添えとなるのが、指揮者ティーレマンで、バイロイト始まって以来の、音楽監督的なポストにも就任しましたね。

今年は、今後、いつくもあるだろう、その二人の共作ともなる「トリスタンとイゾルデ」が、プリミエ公演となりました。

かの地もきっと、暑かったでありましょう、ことしの夏。
歌手も、観客も、相当の覚悟のいる聖地バイロイトであります。

この夏の終わりに、ネット収録した音源を聴きつつ、同じくネットから拾い集めた画像を見ながら、あれこれ妄想しつつ、自分だけの総括をここに残しておきます。

画像は、バイエルン放送局のサイトから、ありがたくも拝借しております。

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パッと見、よく見る、こんな舞台。

パラスト的な、上下左右の空間演出は、多層的に見せ場を造るのに最適でしょう。
批評では、これらが時として動いて、行き場をふさいだり、進路が見えなくなったりするんだようで。
登場人物たちの心理を描きだすのに、まことに相応しい。
けれど、よくあるやり方ゆえに、安直の感もぬぐえません。

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マルケ王のご一行に、トリスタンは、こんなことされちゃってます。

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シンプルな舞台なんだけど、全体像はどうだったのでしょうか。

いずれ登場する、映像作品でもって判断したいと思いますが、いくつか拝見した画像から推定するかぎり、なんだか霊感不足は否めないですな。

バイロイトにおける、「初トリスタン」だった、ティーレマン。
ウィーンとのCDよりも早く、全体にみなぎる活力という点でも勝っているように感じました。
筆厚が強いです。
しかし、あざとさと言おうか、入り込み方と言おうか、その思い入れが、ときに尋常でなく感じるヶ所もありました。
その代表は、第2幕の終結部で、伸ばしすぎだ。
急転直下感が薄れすぎ。
 でも、これは、実際の舞台で観て聴けば、もっと別のインパクトを与えるはずなのでして、ティーレマンのあざとさと、大胆さは、やはり生・ライブでないと体得できないのかもしれない。

 アニヤ・カンペが降りてしまい、お馴染みの、ヘルリツィウスがイゾルデを歌った。
ミレニアムリングでのブリュンヒルデは、実に素晴らしかったし、ドレスデンとの来日公演などでも、身近に接した彼女ですが、最初は、安定感あっていいと思いましたが、声の疲弊やアラが目立ちました。
絶叫のように聴こえるフォルテは、正直、辛いかも。
 その一方、新国でも、完璧なトリスタンを聴かせてくれた、グールドのトリスタンは、ここでもいやとうほど完璧でした。
軽やかさも備えた、明るさと重厚さを併せ持つヘルデンヴォイスを堪能できましたね。
あと、ブランゲーネの、クリスタ・マイヤーが、これはまた素敵すぎ。
彼女のクンドリーを、ハイティンクのパルシファルで拝見して以来、大好きな歌手のひとりとなってますっ!

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アンネッテ・ダッシュが、エヴァとして帰ってきましたが、この画像を見る限り、かなりふくよかに。
お母さんになったのではなかったかな。
その彼女のエヴァは、やはり強さも備えていて、極めて素敵なのでした。
 そして、相方のフォークトは、ローエングリンの名人として、いまや自在さも加えて、完全完璧な歌唱でしたよ。
 フォークトの歌声を、華奢で頼りないといった10年前の自分が恥ずかしい。
この方で聴くコルンゴルトは、もう、桃源郷のような美的世界です。

フランス人指揮者のアルティノグリューが、バイロイトデビュー。
この若いフランス指揮も、実によかったです。
明るく活気も備えつつ、新鮮さも。
エンディングのカッコよさは、前任のネルソンスに迫るものあり。
いい指揮者じゃないかしら!

ノイエンフェルスの、ねずみローエングリン。
音楽面でも、今年、一番、まともかもね。

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3年目の、カストルフ・リングは、ことし、ジークフリート役の入れ替えがあり、そして、なんといっても、ベルリンフィルの時期首席指揮者のペトレンコに、注目が集まりました。
ティーレマンとの直接対決も。

2年分とあわせ、ハイライト的に聴き直してみて、ペトレンコの指揮は、さらによくなった感もありつつ、一方で、ちょっと雑な感じも受けまして、ここで、もっと。。。。という場面がなくはなかったです。

丹念に、楽譜を読み解き、まるで聴いたことのないフレーズが、ぽんぽん出てくるサマは、初年度より楽しみでしたが、ことしも、いくつもありました。
 4部作の、あまり表面化しない、ちょっとしたところで、いろんな楽器が浮き上がったりしてきたりして面白い。
根っからのオペラ指揮者として、この長大な連作を研究しながらの指揮は、きっとペトレンコとしても、途上の解釈なのでしょう。
舞台で行われる出来事も、指揮には反映されますし。
そんなこんなで、カストルフの妙な演出も、その解釈には反映されてしまっていると思います。
 
 黄昏の大団円の、急ぎすぎ、かつ音を被せすぎの解釈には、この場面を神聖な思いでもって、なん百回も聴いてきた自分にとっては、許しがたい浅薄なものでした。
どうなんだろう、キリル君。

3年で降りたがった理由も、いろいろ考えつつ、自身の心情と折り合わなかった舞台だったのかなと思ったりもしてます。
ラインとワルキューレは素晴らしく、ジークフリートと黄昏は、アレレです。

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エロいラインの乙女に囲まれるジークフリートさん。

ジークフリートは、フィンケに代わり、より力強い歌唱となりましたが、少々不安定。
一方、相方のブリュンヒルデのフォスターは、しなやかさに、馬力も増して、相当いい感じ。
 しかし、カラニコフのバリバリ連射は、何度聴いてもいかん!

銃を手離さない、英雄ジークフリートなんて。

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上海発の株価暴落が世界にすぐさま多様な影響を与える、そんな現実も直結してしまう、みょうちくりんな演出ながら、でも、そんな問題提起も、社会性の表出も、たまたま当たっただけかもしれないけれど、不思議とありかもしれないと思わせるカストルフ演出。

いろんな評論や、レポートが目に入ってきた3年目だけど、映像化されても、ご勘弁願いたいカス演出だな。
 ペトレンコは、ティーレマンが君臨してしまうと、今後、その登場が厳しいかもしれないけれど、どんな俗世間にも毒されず、カペルマイスター職人として3年後を迎えて欲しい。

 今年のバイロイトは、もうひとつ「さまよえるオランダ人」。
この演出もテレビで観て、まったく好きになれず、歌手たちもうわべだけで終始した耳当たりのいい感じは、今年も同じ。
ただ、アクセル・コバーのきびきびした指揮はよかった。

 2016年のバイロイトは、「パルシファル」がネルソンスの指揮とフォークトのタイトルロールで、演出も、奇抜すぎる野郎が降りたので、きっと無難なスタート。
4年目の「リング」は、指揮がペトレンコに変わって、なんと、大御所、ヤノフスキ。
ついにバイロイト初登場となるヤノフスキの、ザッハリヒだけれど、詩情豊かな指揮が、アコーステックなあの劇場のサウンドで聴ける。
どうなるんだろ。
ウォータンが、3人の歌手に割り当てられたのは、カス演出の整合性のなさを逆手にとったゆえか。
 「トリスタン」では、P・ラングがイゾルデ!
実演で何度か接してますが、ブランゲーネからイゾルデに昇格です!
あとは、「オランダ人」の再演。
タイトルロールがルントグレンというスェーデンのバリトン。
ワルキューレのウォータンも担当しますが、たしか軽めのバリトンでアクも強かった印象がありますが、どうなるんでしょう。

 なんだかんだいって、文句もいいつつも、ネットでタダの音源を拝聴しつつ、大いに楽しむことのできるバイロイト音楽祭。
数年前には、暮れのNHKFMでしか、その音楽の全貌を確認できなかったのに、いまでは、リアルタイムにに聴いて、画像も確認できて、文句も言える世の中に。

これだけでも、感謝しなくてはなりませんね。

今年の夏も終わり、そしてまた、通常運転の月日が続くわけです。

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2015年8月28日 (金)

マーラー 交響曲第4番 アバド指揮

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東日本は、秋が急激にやってきて、連日の曇り空と、しとしと雨。

まだ学生さんたちは、夏休みなのに、なんだか気の毒、としかいいようのないその雰囲気のなさ。

お盆の頃から、季節感はなくなってしまいました。

そのお盆には、いつもの、地元のお山に早朝登って、この時期の季節早どりの、コスモスと相模湾を写真におさめてきましたが、この日も、薄曇りで、しかも、コスモスは二分咲きぐらいで、ちょいと寂しい感じ。

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  マーラー  交響曲第4番 ニ長調 

          S:ルネ・フレミング

   クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

                     (2005.5 @ベルリン)


やっぱり、マーラーはいいな。

久しぶりに聴くマーラーです。

その作品いかんを問わず、ほんとうに、久方ぶりのマーラーは、ほぼ10ヶ月ぶりくらい。

 初めてマーラーの音楽を、意識して聴いたのは何番で、誰の演奏だったろう・・・。

いまや、正確に覚えておりませんが、もしかしたら、FM放送のレコード音源放送での、バーンスタイン&NYPOの6番だったかもしれません。

または、テレビで観た、バーンスタインのトーク教育番組における、4番だったかもしれません。

70年代初頭の出来事でした。

 しかし、急速に訪れた、わたくしの70年代マーラーブームは、FMエアチェックでは、ドホナーニBPOの1番、アバドVPOの4番、ジュリーニVSOの9番、小澤BPOとフランス管の8番などでした。。。
 ともかく、やたらと未知数のマーラーの音楽は、FMを録音して、聴きまくるしかなかった。

そんななかでの、アバドの4番は、独唱がゼーダーシュトレムのもので、ともかくクールで優しい感じの演奏で、その印象は、いまも変わりません。
 その2年後ぐらいに、DGに録音した同じウィーンフィルとの演奏では、歌手は、もっとコケットリーな、フォン・シュターデとのものでしたね。

以来、正規には、アバドは、合計4つの4番の演奏を残してます。

一番古い、ウィーンフィル&シュターデとの演奏から30年を経て取り上げられた、以降の3つの演奏。

 ①ウィーンフィル      シュターデ  1977
 ②ベルリン・フィル     フレミング  2005
 ③マーラー・ユーゲント  バンゼ    2006
 ④ルツェルン祝祭管    コジェナー   2009


歌手の選択も、面白いです。

③の軽やかな、バンゼを除けば、いずれもメゾないしは、その領域の声域をカヴァーできる声の持ち主ばかり。
FMのゼーダーシュトレムも、メゾ領域まで歌う人だったから、なおさらです。

アバドが抱いた、天国的ばかりでない、この4番という曲の、ゆるやかで優しい、でも、ちょっと人を諭すような感のあるイメージ。
それを醸し出すのが、ふくよかなメゾ音域の歌手に託した4楽章でした。

しかし、今回、恥ずかしながら初開封した②のCD。
7年間も、未開封。
 なぜ、聴いてこなかったというと、ルネ・フレミング様の濃厚なお声が、シュトラウスにはいいけれど、マーラーの、まして、こちらの天国的な曲にはそぐわないのではないかと危惧し、触手が伸びなかったのでありました。

その印象は、やはり的中し、アバドとベルリンフィルの築きあげる、緻密でありながら明るい色調のパレットには、フレミングの濃い色の原色カラーは、正直、幻滅でした。

カップリングのベルクは、その濃厚ボイスが極めて魅力的で、アバドとBPOも、カラフルな色調でもって、素敵な演奏を仕立てあげているように思いました。
ベルクは、それでいいのです。

マーラーの4番は、自分的には、無垢でピュアなイメージを、あくまで求めたいので、アバドとBPOの演奏にもかかわらず、その歌声は、ちょっとやり過ぎ感を感じた次第です。

でも、いいんですよ、素敵ですよ、彼女の歌は・・・・

しかし、アバドとBPOが紡ぎ出す、3楽章の優しく、爽やかな草原の世界。
素晴らしすぎ。

アバドが愛したマーラー。
2番、4番、6番、9番あたりが、きっと一番好きで、晩年になるほどに、9番に傾倒していったのでしょうか。。。。

 アバドとムローヴァの間に育まれた息子、ミーシャ君のジャズ・ベーシストとしての、CDデビューが本日でした。

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ふたりにそっくりの、生真面目な風貌のミーシャ。

期しくも、この日、母・ムローヴァの、プロコフィエフのコンチェルトのCDの発売日と重なりました。

その母も、この符合に、喜びを隠せずに表明してますが、天国のクラウディオも、いつものあの笑顔でもって、最上級の微笑みを浮かべていることでしょう。

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2015年8月25日 (火)

ディーリアス 「むかしむかし」 グローヴズ指揮

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このお盆休み、いつものように、神奈川の実家に帰り、親戚巡りをして、その途中、懐かしい場所に寄りました。

いつもは気ぜわしくて寄れなかった場所。

江戸時代からある弁天様。

子供のころ、近くに住む従兄と、休みになると行きました。

ちょっと田舎なここ、かつてはかなり保守的な場所で、よそ者を警戒する風情があって、この美しい場所に行くと、地場の子供たち、出て行けと言わんばかりに、よく追いかけられたものでした。
子供心に、従兄に迷惑がかかっちゃならぬと思い、自粛したものでした。
 でも、ここの美しさは犯しがたく、神聖な雰囲気も漂い、ずっと心のどこかに引っかかり続けた憧れと懐かしさの相まった場所となったのです。。。。

お互いに歳を経た従兄に聴くと、町がきれいに整備しているけれど、最近は、清らかだった水の流れも、淀んできて、アオコが発生したりもしてるとか・・・・
なんとかしたいものです。

Delius

  ディーリアス  「エヴェンテュール~むかしむかし・・・」

    サー・チャールズ・グローヴズ指揮

            ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団

                (1974.12 @リヴァプール)


この懐かしい場所に訪れたのは、小学生低学年以来だから、もうほぼ50年・・・。

夏の日の、こんな懐かしの場所こそ、ディーリアスの音楽が相応しい。

そして、ちょっと怪しい系の怖い思い出も加味したらば、これ、「エヴェンテュール」であります。

曲の途中で、作曲者指定による20名の男声による、「ヘイ!」とか「ワッ!」(?)というシャウトが2度あって、初めて聴いたときには、マジでびっくりしたぞ。

地下に棲む怪物、それは、夜になると出てくるけれど、なかには、気のいい小物もいるんだ・・・、ディーリアスが語ってます。

そう、この15分あまりの作品は、ディーリアスが愛した北欧ノールウェー、そのアースビョルンセンの採集した民話に基づくオーケストラ作品なのです。
 1917年、55歳のときのもの。

伝説を思わせる神秘的な様相を思わせつつも、いつものディーリアスらしい、抒情と懐かしのムードもそこここに、感じさせます。
しかし、この曲は、そればかりに終始せずに、思いのほかに、ワイルドな進行もあって、そんな中で、あの「雄たけび」もシャウトされます。
 木琴の激しい音がつんざくクライマックスが、ディーリアスの音楽の持つ異教徒的な雰囲気に拍車をかけます・・・・。
 でも、最後は、静かに、優しく、郷愁を誘いつつ消えるようにして曲を閉じるんです。

子供の頃の思い出をなぞりつつ、懐かしい場所を再訪できた喜びとともに、ディーリアスのミステリアスな「むかしむかし・・・」を聴きました。

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2015年8月23日 (日)

モーツァルト 「後宮からの逃走」 ティチアッティ指揮

Proms2015

なんだか気ぜわしくて、しかもクソ暑かったので、チェックが8月に入ってとなってしまいましたが、ロンドンでは、今年も、Promsやってます。

今年のアニヴァーサリーにちなんで、シベリウスの全交響曲やその作品、ショスタコーヴィチ、ニールセン、スクリャービン、バルトーク、ブーレーズ、バーンスタインなどなど、多くの作品がたっぷり並べられてます。

そして、その演奏会は、毎度のとおり、BBCsoと、各地のBBCオケ、ロンドンの主要オケに加えて、今年は、ネルソンスとボストン響、MT・トーマスとSFSO、テミルカーノフとペテルブルク、ビシュコフ&ラトルとウィーンフィルなどなど、多彩な顔触れです。

外来では、ネルソンスがマーラー6番とショスタコ10、ラトルがウィーンフィルとなんと、エルガーの「ゲロンティアス」。
そして、ビシュコフは、フランツ・シュミットの交響曲やります。
あと、大物では、ハイティンクが今年も登場して、ECOとザ・グレート。
 ラスト・ナイトは、オールソップの指揮で、カウフマンもプッチーニで共演。
9月12日までです、ロンドンの夏は長いんです♪

だいたい10日ぐらいは、オンデマンドで、BBCの特設サイトで、高音質で聴くことができます。

尾高さんのウォルトンや、ニッキーのコルンゴルト、ガーディナーの第5&幻想なんかをすでに楽しみましたが、今日は、モーツァルトの「後宮からの逃走」のコンサート形式上演を聴きましたよ。

    モーツァルト    「後宮からの逃走」

 デルモンテ:エドガラス・モントヴィダス コンスタンツェ:サリー・マシューズ
 ブロンデ:マリー・エリクスモーエン   ペドリオ:ブレンデン・パトリック・グネル
 オスミン:トビアス・ケラー         太守セリム・パシャ:フランク・ソーエル

  ロビン・ティチアッティ指揮 オーケストラ・オブ・エイジ・オブ・エンライトメント
                    グラインドボーン祝祭オペラ

                (2015.8.14 @ロイヤル・フェシバル・ホール)


まだ32歳。
いま注目のイタリアの血を引く、ロンドンっ子、ロビン・ティチアッティの指揮する「後宮」。
CDでの幻想しか聴いてなかったけれど、古楽から近現代まで、それぞれの演奏スタイルに合わせて、フレキシブルに対応しつつ、溌剌とした清新な音楽を爽やかにやってのけるティチアッティ君。

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そして、歌心と、オペラの呼吸をまるで生まれながらに体得しているかのようなオペラ指揮者としての素質を、ここに感じました。
若くして、グラインドボーンの音楽監督にも就任し、そのディスクも、フィガロ、ヘンゼル、オネーギン、ばらキシ、Pグライムズと、ユニークな選択ぶり。
イタリアものや、ワーグナーを意図的に避けているフシもあり、したたかさもうかがわれます。

今回の「後宮」は、グラインドボーンのプロダクションをそのままプロムスに持ち込み、簡易なステージオペラ上演としたものです。
本上演の方の演出は、マクヴィカー。
衣装や、小道具はそのままのようです。

Proms_2

 ジングシュピールとして、独語の台詞が随所に織り込まれた作品ですが、全体は2時間20分と、ちょっと長め。
その台詞部分は、聴いているだけだと、正直長く感じられます。
 でも、会場は、大いに盛り上がっているようでして、ときおり、笑いや爆笑が起きて、大盛り上がりです。
このあたりは、ライブや映像ではないと、面白みが伝わってきませんね。
 オスミンが間抜けに描かれ、おちょくられるような内容ですからね、きっと、イギリス人のユーモアのセンスが散りばめらた内容となっているのでしょう。

そんな耳だけで聴いた、このオペラ。
やはり、指揮者と古楽のオーケストラの、血沸き肉躍るような躍動的なサウンドが、極めて魅力的でした。
モーツァルト当時の、トルコ・異国情緒を醸し出す、数々の打楽器が入る賑やかな音楽にも係わらず、それらは元気いっぱいの反面、しっとりとした情緒や、感情の機微も生き生きとした表情とともに、しっとりと描き分けているように思いました。

去年、手兵のスコットランド室内管と来日してましすが、無理しても聴けばよかったです。

歌手では、モントヴィダスが、明るくて伸びのあるテノールでしたし、マシューズのコンスタンツェは、立派すぎる声で、伯爵夫人クラスかなとも思いましたが、すてきなものでした。

グラインドボーンの映像が、きっと映像になるでしょうから、また、その時も楽しみにしましょう。

こんな高品質の演奏が連日行われるプロムスが羨ましく、そして、ハーディングに次ぐ、有能な英国指揮者に、今後ともに注目であります。
 それにしても、台詞が長かったけれど、その合間に、波の音や、鳥のさえずりなんかも流されて、なかなかの雰囲気であったことも申し添えておきます。
(画像は、BBCのサイトから拝借しております)

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2015年8月21日 (金)

ストラヴィンスキー 「ペトルーシュカ」 ニューヨーク・フィル

Chiba_mono

千葉都市モノレール、千葉駅へ到着するところ。

懸垂式なので、一瞬、びっくりしますが、乗り心地は、いたってよろしいですよ。

ただ、街中に、大きな柱がいたるころに立っていて、景観的にはちょっとのところがありますが。

最近は、いろんなラッピングが行われたり、アニメとのコラボレーションや、車内ライブなんかもあったりしますから、面白いです。

千葉駅は、JR駅がただいま長期建て替え中で、ずっと工事しているイメージなのですが、7階建ての駅ビルが2018年には完成して、このモノレール駅とも通路でつながるそうな。

Petroucka

  ストラヴィンスキー バレエ音楽「ペトルーシュカ」

    レナード・バーンスタイン指揮  (1969.5 @フィルハーモニックホール)

    ピエール・ブーレーズ指揮    (1971.5 @フィルハーモニックホール)

    ズビン・メータ指揮     (1979.5 @エイヴァリー・フィッシャーホール)

            ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団


お盆も終わり、甲子園も終了し(東海大相模、万歳!)、夏の威力は、徐々に弱まっている今日この頃。

晩夏には、「ペトルーシュカ」がお似合い。

華麗でありながら、かなり寂しく、ペーソスにもあふれた、人形と人間の世界の綾なすバレエ音楽。
1910~1年の作。
ディアギレフが、その完成を心待ちにしたハルサイと、同時進行しながらも、そのディアギレフが、作曲途上のペトーシュカに惚れこみ、その想いの後押しもあって、一気に完成させたのが、ペトルーシュカ。

「恋をしたわら人形(ピノキオ)は豊かな感情をもって、自らの悲哀を最後は亡霊となって人々の前に現れる。

いじめられっ子が、最後は霊や憎しみの返礼として復元し復讐する。
いまや、チープなオカルト映画みたいだけれど、わたしのような世代には、そんな恐ろしい映画やドラマが流行ったものだ。

ペトルーシュカは、サーカスという、これまた哀感あふれるシテュエーションの中に生きた悲しみの存在。
そのシテュエーションは、外部からは華やかな世界だけれど、内部は悲喜こもごも、嫉妬や差別の横行する辛い世界。
ペトルーシュカは、人間社会への警鐘でもありましょう。

最後、ペトルーシュカは、霊となって怒りもあらわに登場。」

 以上、「」は、過去記事から引用。

ニューヨークフィルの歴代指揮者が「ペトルーシュカ」だけは、揃って、同団で録音してます。
思えば、ブーレーズには、NYPOでも、ハルサイを録音して欲しかったな。

バーンスタインは、実に活きがよくって、ハツラツとした表情が、いかにも、おなじみのレニーっぽい。
後年のイスラエルフィルとの再録は、悠揚迫らぬ雰囲気もありつつ、でも元気ある演奏だったけれど、NYPO盤は、表情が明るく新鮮な思いを聴き手に与えます。
コンサートスタイルで、かつ劇的。
これで、踊るのはたいへんかも。

ブーレーズは、ほかの2盤が1947年版なのに対し、初演版の4管編成の1911年版。
録音のせいもあるけど、響きが豊かで、壮麗極まりなし。
テンポ設定は、早めで、キビキビと進行しつつ、切れ味も抜群。
冷徹でありつつ、音は熱い。
バーンスタイン盤より、録音がキンキンして聴こえるのは、古いCDのせいか。
CBS録音の、クリーヴランドとのハルサイとともに、最新の復刻盤はどうなんだろうか。
版のこともありけど、小太鼓が繊細で、音色を感じさせるのがブーレーズならではのこだわり。

 1975年、バーンスタインとブーレーズのふたりに率いられて、ニューヨークフィルが来日しましたが、当時、高校生だったワタクシ。
翌日が、試験だったのに、文化会館で、ブーレーズの演奏会を聴きました。
試験は、見事に、赤点だったのですが、斜め横に、バーンスタインも隣席し、指揮棒を持たないブーレーズの颯爽とした指揮と、オーケストラの精度の高さに驚きました。

 このときのプログラムがまた面白くて、マイスタージンガー、イタリア、キルクナーの曲、ペトルーシュカの4曲。

Nypo_2

このときは、ふたりで、ストラヴィンスキーの三大バレエを演奏してるんです。

ブーレーズのイタリアやベト2、バーンスタインのマーラー5番にエロイカですよ!!

高校生だったわたくし、もう、興奮しまくりでしたよ。
いま思えば、さらなる赤点覚悟で、この4演目、すべて聴いておくべきでした。

メータのCBSデジタル録音は、そのジャケットもふくめ、ハルサイに次いで、評判を呼んだものでした。
いま聴き返すと、先代の2人の個性と雄弁さに比べると、ちょっと常識的。
普通に素晴らしい演奏なんだけど、この曲に必須のリズム感とか躍動感が弱めかな。
デジタル初期の硬さも、録音面からも影響してるみたいで、CBSじゃなくて、デッカの絢爛ゴージャスな録音だったら、もっとグラマラスなペトルーシュカになっていたんじゃないかしら。
メータにしては、スリムにすぎるかも。
60年代のロスフィルとの旧盤の方が活力がみなぎってます。

※ペトルーシュカの大いなる聴きどころは、第4部、すべてが集約されて、血沸き肉躍るような冒頭の再現部が、フルオケで出現するところ。
そこと、最後の、哀しい結末との対比の落差。

 今回、NYPO3種で聴いてみて、そのあたりの一気呵成の盛りあげのうまさと、クールなまでの緻密さで、ブーレーズに軍配を差し上げましょう。
バーンスタインもメータも最高に素敵ですが、わたくしには、実演の遠い思い出が、決め手となってます。

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2015年8月19日 (水)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第4番 ミケランジェリ

Shikenjyo

実家近くの裏山の竹藪。

竹は、こうして見ていてとても美しく趣きがあるのですが、その成長と、他を圧する生存能力には脱帽です。

先だって、テレビでもやってましたが、放置された田畑が竹に浸食されて、おまけに地中でつながっているものだから、傾斜地では、表面の地表が地滑りを起こす危険性もあるといいます。
稚竹のうちに、どんどん収穫して食べてしまえばいいんでしょうけど、竹の有効活用を含め、数々あるそうですが、なかなか人手と経済性が伴わないらしいです。

難しいものです。

今夜は、若竹のように、新鮮で活きのいい音楽を。

Beethoven4

   ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 Op7

        アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

                     (1971.7 @ミュンヘン)


ベートーヴェンのピアノソナタシリーズ。
作品2の1~3番に引き続き、第4番は、単独で、作品番号7。

作品2では、あとのものほど、規模と充実度を増し、ここ4番では、さらにスケールアップし、ベートーヴェンの意気込みも、大いに増していることを感じ取ることができます。
その大きさから、出版当初は、グランド・ソナタとの命名もされていたそうな。

作品2の翌年、1796~7年の作曲。
当時ベートーヴェンが住んでいた家のお向かいの貴族、ケーグレヴィッチ伯爵令嬢にピアノを教えていて、事実、彼女は、弟子としても優れたピアニストだったらしい。
 レッスンにやってくるときは、ときおり、ベットガウンにスリッパに、トンガリ帽子という奇異ないでたちで訪れたりしたらしく、そんなベートーヴェンが微笑ましく思えたりしますな。

その彼女に、このソナタは、捧げられ、この曲は、当時、「愛する女」と名付けられたとされますが、そのあたりの因果関係は今は不明であります。

曲は4つの楽章からなり、変ホ長調という調性から、大らかさと伸びやかさが支配し、後年の深刻さやヒロイックな様相は、まったくうかがえませんね。

1楽章は、アレグロ・モルト・エ・コン・ブリオですから、まいどお馴染み、ベートーヴェンの第1楽章って感じの表記です。
スケールの大きさは、最初から、しっかり発揮されていて、活力に富んでいながら、しなやかさも見せる魅力的な楽章です。

2楽章は、少しばかり瞑想的なラルゴ。
ベートーヴェンの緩徐楽章の抒情を充分に感じとれますね。

3楽章は、普通にアレグロで、3部形式ながら、スケルツォでもなし、メヌエットでもなし、とかつてより評されてますが、親しみあふれるフレーズが続出。

そして、終楽章は、ロンド形式。トリルの目立つ楽章で、終わりを飾るスケール感はないものの、緩急が豊かで、長調と短調のやりとりの面白さを感じます。
次の5番へのステッアップへの布石も。

地味ながら、青年ベートーヴェンの姿を味わうに相応しい桂曲だと思いました。

今回は、ミケランジェリの懐かしの名演で。
このレコードが出たときは、ミケランジェリのDGデビューのひとつではなかったでしょうか。

贅沢にも、これ1曲で、1枚のレコード。
演奏時間にして、31分。
ほかの演奏では、23~5分ぐらいなのに、この演奏時間。
そう、全体にゆったりめで、丹念に弾いている結果です。
しかし、造型は堅固で、一部の隙もなく、完璧な仕上がりながら、冷たさは一切なく、明晰さからくる明るいカラーが全体を支配してます。
 イタリアの音楽家らしい「明晰な美」への追及が際立った演奏ではないかと。
この演奏、CD時代になって、シューベルトのソナタや、ブラームスのバラードなんかもカップリングされて、さらにお安くなって、かねてとは隔世感を味わわせてくれたりもしてます。

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2015年8月17日 (月)

フィンジ 「エクローグ」 ドノホー

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神奈川県二宮町、駅前にある「ガラスのうさぎ」像。

東京両国のガラス工場を営む家に生まれた少女ですが、1945年の東京大空襲で被災し、母と妹を亡くし、生き残った父と、焼け跡から半分溶けてしまった、ガラスのうさぎを見つける。
その父と、ふたり、二宮の疎開先へ向かいましたが、8月5日、駅で、米軍の機銃掃射を受けて、父は亡くなってしまい、少女はひとり、海辺にて途方にくれる・・・・。

そんな実話が小説になって、その後、戦地から帰った兄たちのことなども描かれ、映画やテレビドラマにもなりました。

毎年、夏のこの時期、千羽鶴が飾られ、平和を祈る思いで、ここは一杯になります。

駅には、銃弾のあとも残ります。
その時は、5人の方が亡くなりました。

わたしの育ったこの街は、お隣の大きな街、平塚や小田原のような大空襲はありませんでしたが、このように、機銃掃射の気まぐれな飛来もあって、防空壕が、いたるところにありました。
子供時代、恐怖の思いで、そんな暗闇の穴を見たものでした。

そして、母の話では、平塚の空襲のときには、東の空が赤く染まり、大きな音がし続けたそうです・・・・・。
 ちなみに、亡父は、東京でしたので、ことに焼夷弾の攻撃をよく覚えていて、鼻口耳を両手の指で、いかにふさいで逃げるかなどを、よく語ってくれたものです。
親類にも、戦地へ赴いた方など、複数いましたが、それぞれの体験談も、風化していきます。。。

戦争の悲しみと残酷さは、ほんとうにもうごめんです。

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  フィンジ  「エクローグ」

       ピアノ:ペーター・ドノホー

   ハワード・グリフィス指揮 ノーザン・シンフォニエッタ

                      (2001.1 @ニューキャッスル)


ジェラルド・フィンジ(1901~1856)。
薄幸の作曲家と呼ばれるフィンジ、自身、白血病に倒れるのですが、早くに父、そして兄たちも亡くし、その代わりに慕った師ファーラーも、第1次大戦に出兵し、戦死してしまい、大きな心の傷を受ける。

そんな哀しみが、フィンジの音楽には、いつもどこかに見え隠れしていて、聴く人に、遠い記憶への憧憬や、心の中にある悲しみを呼び覚ます。

自分に厳しかったフィンジは、多くの作品を破棄してしまい、いま残された作品は、40数曲。
いずれも、そのようなナイーブかつ、抒情的な作品ばかり。

そんななかでも、「エクローグ」は、クラリネット協奏曲と並んで、ひとり、静かに聴く音楽として、心の琴線にそっとふれる、あまりにも美しい作品。

もう、何度も、記事にしてますし、いくつもの演奏を聴いてます。

1929年、ピアノと弦楽のためのピアノ協奏曲として書き進められたが、未完に終わり、その第2楽章が、「エクローグ」として残されました。

ともかく、清潔で、穢れなく、そして悲しいまでに美しい音楽。
追憶と、心のなかにいまも生きる大切な人たちへの想いを、優しく包んでくれる。

これもまた、何度か書きますが、クラリネット協奏曲とともに、わたくしの、いずれ来る、野辺への手向けに、そっと流して欲しい・・・・・。

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この夏の、この日の二宮海岸は、ひと気なく、波も静かでした。

過去記事

「フィンジ作品集 ボールト指揮」

  「エクローグ ベビントン」

「エクローギ ケイティン&ハンドリー」

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2015年8月15日 (土)

ブリテン 戦争レクイエム ネルソンス指揮

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終戦の日が巡ってくる真夏の日本。

70年が経過し、今年ほど、この年月を振り返ることが、さまざまなかたちでなされ、そして、安保法制への賛否、近隣国との関係、原爆を落とした側の非正統性などが、はっきりと議論されるようになったことはありません。

感情や、主義主張に流されることなく、公正な目線でもってそれぞれの意見を眺めなくてはいけませんが、なかなかに難しいものです。

いろんな対立軸はあるにしても、でも、戦争だけは絶対に許されざること。
この思いは共通だと信じている。

今年も、この曲を聴いて、恒久平和を胸に刻み、祈りたいと思います。

Proms2014britten

  ブリテン   戦争レクイエム

       S:スーザン・グリットン    

       T:トービー・スペンス

       Br:ハンノ・ミュラー=ブラッハマン

    アンドリス・ネルソンス指揮 バーミンガム市交響楽団
                      BBCプロムス・ユース合唱団

              (2014.8.21 @ロイヤル・アルバート・ホール)


ふたつの世界大戦は、多くの作曲家たちに、あらゆる影響を及ぼしましたが、ブリテンほどに、戦争を憎み、反戦の思いを強烈にその作品に反映させた人はいません。
 戦争レクイエムと、シンフォニア・ダ・レクイエム、英雄のバラード、これら3作がブリテンの反戦3部作といえるかも。

 イギリスの伝統としての制度、「良心的兵役忌避者」の申告をして、その条件として、音楽ボランティアに従事することを宣誓し、予芸以上の指揮とピアノで、戦時下の人々を慰め鼓舞する仕事に従事する一方、その傍らでも、熱心な創作活動を継続したブリテン。
その行動の根に常にあった「平和主義」でありました。
 いまの若者が、戦争行きたくない、と主張するのもわかるが、寝ぼけたような平和主義ではなくて、ブリテンは、骨の髄からの筋がね入りの反戦・平和主義者でした。

伝統的な「死者のためのミサ曲」の典礼文に基づく部分と、ウィルフレット・オーエンの詩による独唱による部分を巧みにつなぎわせ、「反戦」と「平和希求」をモティーフとする、独自の「レクイエム」。

1962年の初演以来、作曲者自身の指揮によるレコードが、この作品のスタンダードで、それ以外には、録音すらなかった時代が長かった。
いまでこそ、世界各国の指揮者とオーケストラによる音盤がたくさんありますが、そんな中で、作曲者以外の演奏として、大胆に登場して、驚きを持って迎えられたのが、サイモン・ラトルのEMI盤でした。

ラトル盤は、いつかベルリンか、ロンドン響で、再録音がなされるものと期待し、そのときまで取っておこうと思いまして、今年は、そのラトルが育てあげた、バーミンガムのオーケストラの今の指揮者、アンドリス・ネルソンスのライブを聴きます。
そのネルソンスも、今シーズン限りなのですが、こちらの演奏は、昨年2014年のプロムスにおけるもので、BBCのネット放送を録音したものです。

2012年には、このコンビは、戦争レクイエムが初演されたコヴェントリーの聖ミカエル教会で、初演50年の記念演奏会を開き、その模様はDVDにもなってますが、そちらは未視聴です。
その2年後の、こちらのライブは、演奏を重ね、自信も深めた結果が、よく反映されているようで、かつ気合も充分にこもった、充実の演奏となっています。

まず、その尋常でない集中力と緊張感。
それは、しばしば、言葉のひとつひとつを噛みしめるような、じっくりとしたテンポの取り方にもあらわれております。
演奏時間は、1時間30分と長め。

 重々しい足取りがやるせなくなる「レクイエム」。
さらに、のたうつような苦しみと怒りにあふれた「ディエス・イレ」は、こんなに重く、遅いのは初めてだ。
 その半面、「サンクトゥス」の壮麗さと、輝かしさの対比が活きてくる。
曲は、終結に向かうほどに感動の度合いを高めてくるのは、この素晴らしい音楽ゆえですが、このネルソンスの演奏は、ライブゆえに、巨大な会場も息をひそめて、音楽に感じ入っている様子がよくわかります。
いつもは、ざわついたりするプロムスの聴衆が、咳もろくにせずに、静まり返っている。
 最後の、感動の和解のあと、静かな祈りのうちに、このレクイエムは終わりますが、音が消えたあとも、ずっとずっと静寂のまま。
約2分の沈黙がありました・・・・・・・。

Nelsons

ヤンソンスゆずりの、演奏者と聴衆をのせてしまい、音楽を巧みに聴かせ、感動の高みを築きあげることの才能を、ネルソンスは持っています。
オペラも上手く指揮する彼は、全体を俯瞰する構成能力の才も豊かです。
 ボストン響との新たな関係を、早くも2022年まで延長したネルソンス。
まだ36歳です。

例年どおり、過去記事からコピペで、曲の概要を再び記しておきます。

「重々しく不安な感情を誘う1曲目「レクイエム」。
戦争のきな臭い惨禍を表現するテノール。
曲の締めは、第2曲、そして音楽の最後にあらわれる祈りのフレーズ。
 第2曲は長大な「ディエス・イレ」。
戦いのラッパが鳴り響き、激しい咆哮に包まれるが、後半の「ラクリモーサ」は、悲壮感あふれる素晴らしいヶ所で、曲の最後は、ここでも祈り。
 第3曲目「オッフェルトリウム」、男声ソロ二人と、合唱、二重フ―ガのような典礼文とアブラハムの旧約の物語をかけ合わせた見事な技法。
 第4曲「サンクトゥス」、ピアノや打楽器の連打は天上の響きを連想させ、神秘的なソプラノ独唱は東欧風、そして呪文のような○△※ムニャムニャ的な出だしを経て輝かしいサンクトゥスが始まる。
 第5曲は「アニュス・デイ」。
テノール独唱と合唱典礼文とが交互に歌う、虚しさ募る場面。
 第6曲目「リベラ・メ」。
打楽器と低弦による不気味な出だしと、その次ぎ訪れる戦場の緊迫感。
やがて、敵同士まみえるふたりの男声ソロによる邂逅と許し合い、「ともに、眠ろう・・・・」。
ここに至って、戦争の痛ましさは平和の願いにとって替わられ、「彼らを平和の中に憩わせたまえ、アーメン」と調和の中にこの大作は結ばれる。」

最後に至って、通常レクイエムとオーエン詩の、それぞれの創作ヶ所が、一体化・融合して、浄化されゆく場面では、聴く者誰しもを感動させずにはいない。
敵同士の許し合いと、安息への導き、天国はあらゆる人に開けて、清らかなソプラノと少年合唱が誘う。
このずっと続くかとも思われる繰り返しによる永遠の安息。
最後は、宗教的な結び、「Requiescant in pace.Amen」~彼らに平和のなかに憩わせ給え、アーメンで終結。

過去記事

 「ブリテン&ロンドン交響楽団」

 「アルミンク&新日本フィル ライブ」

 「ジュリーニ&ニュー・フィルハーモニア」

 「ヒコックス&ロンドン響」

 「ガーディナー&北ドイツ放送響」

 「ヤンソンス&バイエルン放送響」

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2015年8月13日 (木)

ヴェルディ レクイエム バーンスタイン指揮

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前回の記事(ジル・レクイエム)のときに書いた、わたしの育った町にある幼稚園のカトリック教会。

とてもシンプルで、整然とした美しさ。

宗派は異なっても、教会とは、このように静かに、自分に向き合うところでもあるから、ありすぎない方がいい。

レクイエムは、カトリック典礼のミサで、その作曲者の奉じる宗派によっては、「レクイエム」とは無縁の人もいました。
だから、おのずとカトリックの多い、南の方の国にレクイエムは多いように思います。
 それでも、レクイエムの持つ、追悼と癒しの観念から、ブラームスやディーリアス、ブリテンのように、典礼文から離れた作品を残したり、声楽なしで、楽器だけのレクイエムを残した方もたくさんいます。

今日は、ブリテンとともに、毎年、この時期に聴く、ヴェルディのレクイエムを。

この作品こそ、ラテン系の正統レクイエムの最高傑作です。

Verdi_bernstein

    ヴェルディ  レクイエム

         S:マルティナ・アーロヨ   Ms:ジョセフィーヌ・ヴィージー

   
         T:プラシド・ドミンゴ      Bs:ルッジェーロ・ライモンディ

    レナード・バーンスタイン指揮 ロンドン交響楽団
                        ロンドン交響合唱団
                        ジョン・オールディス合唱指揮

               (1970.2.25 @セント・ポール教会、ロンドン)


毎夏聴く、ヴェルディのレクイエムですが、バーンスタインのヴェルレクは、記事として、今回が2度目。
最初は音源、今回は映像記録です。

1969年にニューヨーク・フィルの音楽監督を退任し、その活動の軸足を、ヨーロッパに向けだしたのが、1970年。
 もちろん、バーンスタインに一目惚れし、相思相愛となった街、ウィーンは、60年代半ばより定期的に客演する関係でしたが、ベートーヴェン生誕200年の記念の年、1970年あたりからは、さらに蜜月の度合いを深めていきました。

 同じく、バーンスタインを愛したオーケストラであり、愛した街がロンドン。
ロンドン交響楽団とは、桂冠指揮者の関係を得て、多くの録音や、音楽祭への出演があり、このオーケストラの豊かなフレキシヴィリティに、バーンスタインが大いなる共感と親近感を抱いてました。

1970年2月にバーンスタインは、そのロンドンに腰を据えて、ヴェルディのレクイエムに取り組みました。
 解説書の記録によれば、2月19~21日に、ロイヤル・アルバート・ホール(RAH)でリハーサル、22日にコンサート本番、23、24日に、レコーディング。
25日には、場所をセント・ポール教会に移して映像収録。
26日に、RAHに戻って録音の手直し。
という具合に、1週間に渡って密なる取り組みがなされたようです。

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すでに取り上げた、音盤を聴いての印象と演奏の内容は、基本は、同じに思います。

演奏時間90分は、他盤にくらべて長め。
 後年、ぐっとテンポが粘りぎみになる時代のものにくらべると、遅さと速さが同居していていながら、じっくりとやる場所は、思い入れも深く、早いヶ所は、より速く、その対比が実に鮮やか。
 そして、全編にあふれる覇気は、なみなみならず、こんなに、気合いと、強い思いを感じさせる演奏はありません。
 それらが映像で、バーンスタインの熱い指揮ぶりを見ながら聴くとなおさら。

 全曲、暗譜で指揮をするバーンスタイン。このとき、52歳。
まだお腹も出てないし、髪の毛も白さはほどほどで、銀髪の映画俳優のようなカッコよさ。
怒涛のように、のたうち、そして軽やかに踊るように舞い、祈るように、心を込めたその鮮やかな指揮ぶり。
この時代のレニーの本質の姿を本当に久しぶりにつぶさに見て、感激してしまいました。

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 前にも書きましたが、この映像は、NHKが、71年か2年の、8月のこの時期に放送しまして、当時、中学生だった自分は、「ヤング・ピープルズ・コンサート」で、バーンスタインの指揮は、つぶさに観て知っていたのですが、ここで、彼の指揮する「ディエス・イレ=怒りの日」の音楽の凄まじさに、目も耳も、すっかり奪われたのを覚えてます。

 以来、この作品を愛し、永く聴いてきましたが、劇的な激しさとともに、そこにある歌心と優しい抒情、その方にこそ、感銘を見出すようになって久しいです。

 そんな目線や聴き方で、一見、派手なバーンスタインのヴェルレクを聴くと、真摯な独唱者や合唱たちの姿も相まって、熱くて切ないほどの祈りの気持ちが響いてきます。

 ことに、「ラクリモーサ」は、バーンスタイン独特の世界が展開され、痛切なる思いに浸ることとなりました。
 二人の女声の歌声にしびれる「レコルダーレ」、若々しいドミンゴの歌う「インジェミスコ」、滑らかな美しいライモンディの「コンフタティス」・・・、いずれも、イタリアオペラ的でない、バーンスタインの流儀のカンタービレは、歌と感情に即した、音楽の万国人たる、ユニークな感じ方ではないかと・・・。

 そして、太鼓が教会の残響を豊かに伴って鳴り渡る「ディエス・イレ」は、CDのコンサート会場のものとは違って、勇軍かつ、劇的な雰囲気を作りだしてます。

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 若かった歌手たちのなかでは、わたくしは、J・ヴィージーのまっすぐの歌声が、その気品あふれるお姿を拝見しながら聴くことによって、一番よかったです。
カラヤンの選んだフリッカである彼女、まだ85歳で健在のようです。

 アーロヨさんも、まだ78歳でお元気の様子で、声のピークは、この頃ではなかったでしょうか。ヴェルディ歌手としての本領を感じますが、もう少し突き抜けるような軽さが欲しいかしらね。

 で、まだまだ元気のドミンゴとライモンディの同年コンビは、73,4歳。
おふたりともに、その美声は、後年よりもより引き立ってますし、そのお姿も若い。

 話は、少しそれますが、かつての昔は、オーケストラの中には、女性奏者を入団させず、男性だけのオーケストラが多くありました。
 今では、とうてい考えられないことですが、歴史的にもいろんなワケがあって、そうした妙な伝統として、近年まで守りぬかれていたことですが・・・・
 その代表格は、ウィーン・フィルとベルリン・フィル。
ベルリンでは、ザビーネ・マイヤーを入団させようとしたカラヤンとオーケストラの間で、大きな軋轢が生まれたことは、高名な話です。
 さらに、ニューヨークフィル、ロンドン響、レニングラードフィル、読響なども思い浮かびます。
 今回、映像により、ロンドン響の演奏姿を拝見したわけですが、たしかに、男性奏者だけ。
83年に、アバドとの来日公演を全部聴きましたが、記憶は不確かですが、そのときは、女性奏者はちらほら。
しかし、その公演にもいたお馴染みの、有名奏者たちが、この70年の演奏にも、見受けることができて、とても懐かしかったです。

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バーンスタインが健在なら、いまや96歳。
今年は、没後15年を迎えます。

年月の経るの早いものです。

この映像の冒頭に、バーンスタイン自身のナレーションが入ります。

1940年の4万人の死者を出したロンドン大空襲において、被災しなかった、セント・ポール教会で、多くの爆撃を受けた人々に哀悼をささげる。
 (あらゆる)戦禍と迫害は、忌まわしい非人道的行為であり、過去の犠牲者のみならず、現代と未来の我々のためにも、この演奏を捧げる。
過去の死者のためのみらなず、いま、生きる者の苦悩のためにも・・・

2度の世界大戦、朝鮮、ベトナム、ナイジェリアなどの戦争の名をあげ、さらに、指導者の暗殺などにも言及しています。

ヒューマニスト、バーンスタインならではの思いの発露でありましょう。

 あくまで、私見ですが、この当時は、敗戦国日本への大空襲や原爆にふれることは、きっとタブーだったはずだし、その実態も隠されていたものと思われます。
東京大空襲だけで、11万7千人、二度の原爆で20万人超、全国に空襲は広がり、50~100万とも・・・・。
 情報公開がしっかりしているアメリカから、最近になって、驚きの報がいくつも出てきます。

バーンスタインは、のちに、広島に訪れ、心からの追悼の念を持って、みずからの「カデッシュ交響曲」を指揮しました。

 レニーが、いま健在だったら、テロや憎しみ、隣国同士の恨み、それらを見て、どのような行動を起こすでしょうか・・・・。

過去記事 ヴェルディ「レクイエム」

「アバド&ミラノ・スカラ座」

「バーンスタイン&ロンドン響」

「ジュリーニ&フィルハーモニア」

「リヒター&ミュンヘン・フィル」

「シュナイト&ザールブリュッヘン放送響」

「アバド&ウィーン・フィル」

「バルビローリ&ニューフィルハーモニア」

「カラヤン&ベルリン・フィル」

「アバド&ベルリン・フィル」

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2015年8月11日 (火)

ジャン・ジル レクイエム コーエン指揮

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わたくしの育った町にある幼稚園のカトリック教会。

海の松原が、風で鳴る音が聞こえる家に住んでました。

そして幼稚園は、さらに海に近いところに2か所って、わたくしが通ったのは、ここではなく、西にほんのちょっと行ったところにある、プロテスタント系の幼稚園。

こちらの、カトリック系のほうが、敷地も広く、日曜学校でも、クリスマス会でも、ちょっと派手で、子供心に羨望をいだいたりしたものでした。
 50年も経って初めて、こちらの教会の中に、足を踏み入れてみましたが、思いのほか、簡潔で、とても清潔でした。
その様子は、また次の投稿で。

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   ジャン・ジル   レクイエム

     S:アンヌ・アゼマ     CT:ジャン・ニルエ
     T:ウィリアム・ハイト   Br:パトリック・メイソン

 ジョエル・コーエン指揮 ボストン・カメラータ
                 エクサン・プロヴァンス音楽祭合唱団
                  アンサンブル・ヴォーカル・サジッタリウス
                  プロヴァンス・タンブール・アンサンブル

  (1989.7、1992.8 @サン・ソブール大聖堂 エクサン・プロヴァンス)


ジャン・ジルは、17世紀の南フランスの作曲家。

1669年生まれ、1795年没と、その生涯は、わずかに36年。
生来、虚弱な体質であったそうで、残された作品も、モテットが15曲、詩篇7曲に、この大作レクイエムのみ。
以下、かつてのレコード解説を一部、参考にしてます。

 いうまでもなく、ルイ14世の治下、パリ・ヴェルサイユに政治・文化が一極集中するなか、多くの音楽家は、都に集まり、華やかなヴェルサイユ楽派を形成しました。
 同時代の作曲家に、リュリ、ラモー、ドゥラランド、カンプラなどがいます。
そんななか、ジルは、南フランスから出ることなく、教会の音楽長として、プロヴァンスや、ラングドック地方の教会のために音楽を残し、演奏し、そして、最後は、トゥールーズの教会での職でもって亡くなります。

体が弱かったことや、生家が貧しかったことなども要因したのでしょうか。
この早世の、作曲家ジルの名前は、しかし、このレクイエム1曲でもって、音楽史に大きな足跡を残したものといえます。

同じ、プロヴァンス出身のカンプラは9歳上で、兄弟子にあたり、ジルのことを、とても可愛がり、このレクイエムもとても大切にあつかいました。
 カンプラのレクイエムも、とても美しい作品ですが、そちらの作曲は、1695年頃と言われてまして、こちらのジルが1694年。
 カンプラは、ジルのレクイエムが世に広まるよう大いに努め、カンプラの死後、フランス王族の葬儀や、ラモーの葬儀などにも演奏され、人々に愛されたといいます。
 さらに、南フランスでは、ジルとカンプラの、ふたつのレクイエムをミックスして演奏するようになり、それは、フランス革命が起きるまでの習慣となったそうです。

 ジルとカンプラのレクイエムは、わたくしは、もう30年も前でしょうか、ルネサンス・古楽の音楽にハマっていた頃に、レコードで、同時に購入しました。
それは、ともに、ルイ・フレモーの指揮で、いまでは、とうてい考えられないような、ロマンティックな、ヴィブラートギンギンの演奏でした。
 でも、それらは、この二つの美しいレクイエムが、南フランスの音楽のカテゴリーにあることをとてもよく理解させてくれるものでもありました。
さらにいえば、「ディエス・イレ」を持たない、鎮魂と救いの眼差しを大切にした、癒しのレクイエムという点で、ずっと後年の、フランスのレクイエムフォーレデュルフレにそのスタイルは引き継がれているのであります。

 その後に、古楽分野としての、ちゃんとした(?)演奏をCDで購入し、耳の膜が、1枚も1枚もそぎ落とされたような、新鮮かつピュアな思いで、さらに、これらのレクイエムの優しさが、一段と身にしみるようになりました。

 このジルのレクイエムは、南国ムードたっぷり。

曲の冒頭に、プロヴァンスの太鼓が葬送の開始のようにして、連打されます。
それは、痛切というよりは、どこか明るく、海から響く風音のようです。
このCDでは、曲の冒頭と最後に、それぞれ、フェイド・イン、ファイド・アウトで、プロヴァンスの現地の太鼓軍団が実際に演奏しているものが収録されてます。(なかほどにもあり)

そして、かつてのレコードではなかったことですが、ミサの典礼にのっとり、「ジルのレクイエム」の合間合間に、グレゴリオ聖歌の死者のためのミサが、挿入されてます。
これが、実に教会で体感しているような雰囲気あるものです。
 しかし、結果として、CD1枚の演奏時間がかなり長くなって、冗長さを覚えるのも事実です。
ですから、わたくしは、ときに、ジルの部分だけを抜き出して聴きます。
 曲は、全般に、明るい色調で、屈託なく、爽やかです。
レクイエムなのに、爽やかという表現もなんですが、南の風が吹き抜けるような、ゆるやかな優しさなのです。
そして、カンプラとも通じる、典雅で、繊細な抒情的な曲調。
巧みに、統一された音形は、全体のなかで、豊かな構成を伴い、品よくまとめられていて、起承転結的な聴後感もあって、レクイエムなのに、幸せな気持ちになります。
 まさに、癒しなのでしょうね、これが。

ひさびさに、取りだしたコーエンの演奏ですが、もう20年も前の演奏。
その先も、進化した古楽演奏。
変な言い方ですが、もっと、新しい解釈でも、こんど聴いてみたいものです。

過去記事

 「カンプラ レクイエム  ガーディナー指揮」

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2015年8月 8日 (土)

19世紀アメリカ・ピアノ作品集 越山沙璃

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暮れどきの東京タワー。

この暑い時期の夕暮れは、淡くて、くっきりとした冬の夕焼けとも違って、とても美しいのです。

Sari_koshiyama

ゴットシャルク、マクダウェル、スーザ 19世紀アメリカ・ピアノ作品集

         ピアノ:越山 沙璃


  ゴットシャルク  「バンジョー」
             「プエルト・リコの思い出」

  スーザ       「ワシントン・ポスト」
             「海を越えた握手」

  マクダウェル    『2つの幻想的小品』
                「物語」、「魔女の踊り」

  ゴットシャルク  「アンダルシアの思い出」
             「バナナの木」

  マクダウェル    『忘れられたおとぎ話』
                 「王子の戸外での歌」、「仕立屋と熊」
                 「薔薇の園の美女」、「妖精の国」

  スーザ       「忠誠」
             「星条旗よ永遠なれ」

  マクダウェル    『森のスケッチ』
                 「野ばらに寄す」、「鬼火」、「昔ひそかに会った所で」
                 「秋に」、「インディアンの小屋から」、「睡蓮に寄す」
                 「リーマスおじさんの話から」、「荒れ果てた農園」
                 「草原の小川のほとり」、「日暮れの語らい」

  ゴットシャルク   「ユニオン~国民歌による演奏会用パラフレーズ」

                    (2015.6.15 @岸和田 むくの木ホール)


いつもお世話になってますEINSÄTZ RECORDSさんの、APPLAUDIRレーベル新録音第2弾、アメリカのピアノ音楽を聴きました。

第1弾は、金田仁美さんによるビゼーのピアノ作品集でした。
そして、今回は、19世紀のアメリカのピアノ音楽という、極めてユニークな1枚です。
これには、唸りましたね。
しかも、ピアノを弾いてるのが、関西を中心に活躍するピアニスト、そして、モデルでもある越山沙璃(こしやまさり)さん。

彼女の経歴を、CDからお借りして簡単にご紹介しますと、幼少期をロサンゼルスで過ごしたあと、15歳で、さらに渡米し、カリフォルニア州立大学音楽部にて学び、帰国後は、神戸山手女学院大学音楽部にて、さらなる研鑽を積み、演奏活動とモデル活動の両輪でがんばってます。
CDのジャケットも音楽とマッチングしたお洒落な1枚だし、リブレットには、モデルとしての彼女のお写真も、多数掲載されてますよ。

 さて、一般に、アメリカのクラシック音楽というと、ガーシュインに始まるジャズとの融合や、コーポランドのような土着音楽を取り入れたものなど、ヨーロッパにない、いわゆる「アメリカ音楽」を思い描きますね。
それ以降の、ユニークなアイヴズや、ロマンティシズムに傾いたバーバーやハンソン、そしてシリアス系のシューマンやピストン、バーンスタイン・・・・という系譜が思い浮かびます。
あとは、ミニマルとか、アフリカっぽいものなどが、後続するわけですが。

 しかし、これら20世紀以降に確立した、「アメリカ音楽」としてのカラーリングですが、その前、ヨーロッパそのものの音楽しかなかった18世紀とに、挟まれた19世紀に、脱ヨーロッパの「アメリカ音楽」の創世記に活躍した作曲家も多数いました。
 その時代の代表的な3人が、このCDに収録されている、ゴットシャルク(1829~1869)、スーザ(1854~1932)、マクダウェル(1860~1908)です。

ゴットシャルクは、ニューオーリンズ生まれ、ヨーロッパに渡り、名ピアニストとして名を馳せたあと、帰国後は、中南米から北米にかけて楽旅して、その風物に則した、ピアノ作品を主とした作品を残しました。
カリブの風を思わせる爽やかさや、快活さ、そして、ちょっとアンニュイな、ヨーロピアンな雰囲気、たとえばショパンの顔もちらほらするような、そんなユニークな作品たちでした。
南国風の交響曲や、オーケストラ作品もあるので、いずれ聴いてみたいです。
 この越山さんのCDでは、冒頭と中間と最後がゴットシャルクで締められてます。
その1曲目、「バンジョー」からして、いきなり耳と身体が惹き付けられちゃいました。
技巧的な作品だけれど、バンジョーという陽気な楽器をいかにも思わせる楽しさを感じ、ノリノリですよ。
越山さんの、技量も舌を巻きます。よくぞこんなに指が廻るもんだと♪
だんだんと、クレッシェンドして熱くなってゆく「プエルトリコの思い出」も楽しくも、物悲しいし、南国のショパン風の「アンダルシア」もいい感じです。
こんな多様なゴットシャルクの作風を、越山さんは鮮明に弾きだしてました。
 ちなみに、ゴットシャルクさんは、齢40にて早世してます。

スーザは、いうまでもなく、「マーチ王」として、行進曲ばっかりのイメージが強烈です。
もちろん、「星条旗・・・」は、アメリカの第二国家のような存在になってますが、それらを、作曲者自身の編曲でピアノ作品として、ここに聴くのも、面白いものでした。
元気一杯すぎる、吹奏楽やオケバージョンと違って、弾むリズムが、心地よいスタッカートで引き立ち、気分よろしく、越山さんのはぎれのいい演奏が、実にオツなものなんです。
 スーザは、ワシントン生まれ、ヨーロッパ人の血を持ちながら、アメリカに完全特化した人ですが、行進曲以外にも、オペラレッタも多数あるものの、その音源はまったくありません。。

マクダウェルは、かつて、2曲あるピアノ協奏曲をこちらでとりあげました(→)
 

ニューヨーク生まれで、アイルランドとスコットランドにルーツを持ち、フランスとドイツに学び、このCDの3人のなかでは、一番、ヨーロピアンな雰囲気を持つ人です。
ラフやリストに接し、ヨーロッパ本流の流儀を身に付けたマクダウェルは、帰国後、母国の民謡の採取や研究に勤しみました。
 その結実が、このCDにたくさん収録されている小品たちです。
個々にコメントをすることはできませんが、それらのタイトルを読んだだけで、その作品の持つ、詩的で、ロマンティックな雰囲気を読みとっていただけると思います。
 陽気なスーザのあとに、こちらのマクダウェルを聴くと、そのしっとりとした温和で柔らかな世界に心が和みます。
一転、越山さんのピアノも、女性的で、優しいタッチも美しいです。
親しみにあふれた「忘れられたおとぎ話」、草原や、野辺、河原など、ナチュラルな風景をも心に浮かんでくるような「森のスケッチ」。
 いずれも、ステキで愛らしい作品ばかりで、ピアノを聴く喜びも感じさせてくれる越山さんの演奏です。
 これらの曲を聴いていて、グリーグの抒情組曲や、小品集を思い起こしましたし、イギリスの作曲家、アイアランドのピアノ作品にも相通じる優しい世界を感じました。

このマクダウェルさんも、早世で、馬車にはねられてしまったことが要因で、48歳で亡くなってしまいます。
前にも書きましたが、この方が、もう少し活躍できたら、ハリウッドが迎えたコルンゴルトらの亡命作曲家たちが造り上げた、保守的な後期ロマン派の系統ともつながった可能性があったかもしれません・・・・。

 CD最後におさめられたのが、ラストを飾るゴットシャルクの大曲ですが、アメリカ国歌も扱われ、愛国の志しと、静かな情熱、そして華麗さとが相混ざった桂曲でありました。
1枚のCDで、一夜のコンサートを楽しんだような気分になる、そんな一貫した流れも感じさせるプログラムの妙と、越山さんのアメリカ音楽にかける思いを感じさせる演奏にございます。

まだまだ若い、越山沙璃さん、これらの曲をますます極めて、これからもアメリカ音楽の楽しさをどんどん発信して欲しいと思いましたし、シューマンやショパン、グリーグも聴いてみたいものです。

今年、6月の出来たてホヤホヤの演奏を楽しませていただきました。
雰囲気あふれる録音と、CDの装丁も素敵なものでした。
大阪発のEINSÄTZ RECORDSさんのAPPLAUDIRレーベル、今後の展開が楽しみです。

是非、聴いてみてください

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2015年8月 6日 (木)

チャイコフスキー 交響曲第5番 ドゥダメル指揮

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暑い暑い8月の夏の小便小僧。

今月は、完全夏装備の秀作でした。

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褐色の肌もさらしてますね。

この姿を拝見して、うだる暑さも、ちょっと和らぎましたよ。

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  チャイコフスキー  交響曲第5番 ホ短調

    グスターヴォ・ドゥダメル指揮 ベネズエラ・シモン・ボリバル交響楽団

                      (2008.1 @カラカス)


今月の月イチは、チャイ5。

熱~い演奏で。

もうみなさまご存知の、中南米は、ベネズエラが誇るオーケストラと、そのオーケストラとともに育った指揮者による演奏。
その指揮者、ドゥダメル君は、あれよあれよという間に、齢34歳にして、ベルリンフィルの首席指揮者候補にもなってしまった、ありあまる才能の持ち主。

欧米の専売特許だった、西洋音楽たるクラシック音楽の演奏の裾野が、全世界に、しかも均一なほど、高度な演奏技量を伴い広まった。
21世紀になってから、ますます痛感した感覚です。

その最たるものが、ベネズエラのこの指揮者とオーケストラ。

1821年に、スペインから独立したベネズエラは、その後も幾多の変遷を経て、いまに至るまで、政情も不安定な国なのですが、その経済を支えてきたのが、OPECにも加盟し、産油国として原油輸出国であったこと。
 しかし、豊かな富は、ごく一部に限定され、貧困層を多く抱える構造的な問題を常に抱える国でもありました。
 しかし、その貧困層の児童たちに、楽器を持たせて、「エル・システマ」という音楽教育プログラムを実践し、多くの音楽家とユース・オーケストラを国家基金のもと、生まれることとなりました。
この1975年から始まったシステムが生み出したコンビが、ドゥダメル&シモン・ボリバルですな。

「シモン・ボリバル」は、19世紀、ベネズエラを始め、ボリビアやペルーなどの中南米5カ国の独立を導いた英雄の名前、そのものです。

その彼らが、初来日したのが、2008年12月で、わたくしは、NHKのテレビ放送を観劇しましたが、舞台にはち切れんばかりの、超大編成にもかかわらず、その完璧なまでのアンサンブルの精度の高さは、アクロバティックでありながらスポーツ的な快感をも与える、そんな演奏ぶり。
さらにスペイン語が言語であるラテン系の典型、喜怒哀楽をまともに感じさせる音色と演奏姿は、後半に進むにつれ、見ていて、クラシックのコンサートが、お祭りのようなワッショイ大会に変貌してしまう、そんな熱いものでした。
 その時の曲目は、「ダフ・クロ」と「チャイ5」なのでした。
そして、熱狂的なアンコールは、youtubeなどでも、見ることができると思いますので、体験してみてください。

この来日公演より11ヶ月前の本拠地でのライブが、今日の音盤。

来日公演を保存してありましたので、聴き比べましたが、全体の流れは、ほぼ同じ。
でも、情熱の塊的な、もの凄さは、来日公演の方に強く感じます。
それでも、DG盤でも、終楽章のド迫力と、血沸き肉躍る熱き演奏には興奮できます。
そして、第2楽章のこれでもかというばかりの思い入れの込め方。
テンポを結構、揺らしますが、あざとさは感じさせず、ナチュラルなのは、ドゥダメルの才能でありましょう。
 音楽の楽しさを、聴く側以上に、演奏する側が享受しているという、あまりに好ましい典型であります。

ドゥダメルは、この後、エーテボリ響や、ロサンゼルフィルの音楽監督となり、ベネズエラを出て、世界的な指揮者として引っ張りだことなりましたが、ことに、ロスフィルとの相性は抜群のようで、ウィーンやベルリンよりも、のびのびとして感じます。

一方、シモン・ボリバルは、多忙となったドゥダメル君が、今後も、このオケを率いることができるかが鍵だし、ポスト・ドゥダメルが問題となるでしょう。

しかし、それ以上に気がかりなのが、ベネズエラという国自体の存在。

原油価格の暴落で、まともに影響を受け、国内は慢性的なインフレ。
音楽は、心を救い、満たすことはできるが、物理的な豊かさは、どうなるのだろう。
1999年に誕生した、チャベス大統領政権が、まさに独裁政権として、反米路線を敷いて国を率いてきたが、そのチャベスも2013年に死亡し、いまは暫定的な政権のもとにあります。
 さらに、反米という絆で結ばれたカリブのキューバが、アメリカと国交回復して急接近。
まさに、梯子を外されてしまったベネズエラに、さらに、急接近する中国。
もともと反米だから、IMFからの借款をできない故、その中国からは、4.5兆もの借款を受けていて、ベネズエラのデフォルト説もあります。
その中国自体も、どうなるかわからない状況。
世界経済と政治の火種は、ベネズエラにもあるんですね。

そんな状況下の若者たちのオーケストラは、どうなるんでしょう。
ドゥダメルも、その立場上、やむないことでしょうが、独裁政権との強い関係もときに批判を受けたりしているようで、なんだか、とっても寂しい思いです・・・・。

そんなこんなを、チャイコフスキーを聴きながら、思ったりもした、暑い夜でした。。。。

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2015年8月 2日 (日)

ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 クレンペラー指揮

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どんよりと、雲が立ち込めた相模湾。

海は、晴れの日と、荒天の日では、その顔つきが全然違う。

北欧や北ヨーロッパの海、ことに冬の海は、きっともっと厳しく、こんなもんじゃないんだろうな。

日本海も北海道の海もしかり。

以前に、真冬で吹雪吹き荒れる根室の納沙布岬へ行ったことあるけど、道内の案内人がいたから行けたけど、途中、車がはまってしまい、地元の人から死にたいのかと怒られましたよ。。。

そして、海を呪って、死にたくても死ねない男の物語を。

Holander

  ワーグナー   さまよえるオランダ人

   オランダ人:テオ・アダム         ダーラント :マッティ・タルヴェラ
   エリック:ジェイムズ・キング        ゼンタ:アニヤ・シリヤ
   マリー:アンネリース・ブルマイスター  舵取り:ケネス・マクドナルド

    オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                    BBCコーラス

                        (1968.3.19 @RFH ロンドン)


夏になると、ワーグナー熱が疼きます。

9,000キロ以上離れたドイツの聖地、バイロイト音楽祭が真夏のいま、真っ盛りだからなのです。
ネットが、いまのように興隆していなかった時代は、9月にならないと、現地の様子すら報じられなかったけれど、いまや、リアルタイムで、舞台の様子に加え、その音源すら耳にすることができる。

何度も書きますが、かつては、冬休みに、NHK様がFMで白昼から、その年のバイロイト音楽祭を全部、放送してまして、日曜の「オペラ・アワー」で開幕。
その後は、平日の昼の放送で、「パルシファル」だけは、翌年のイースターの時期の日曜の放送が、お決まりでしたね。

その後、年末の放送は、夜間に移動し、21時スタートとなりまして、「パルシファル」も含めた、年末夜の一挙放送になりました。
ですから、かねては、冬の方がワーグナー熱に取りつかれることが多かったです。

音質と安定性を考えれば、FM放送ということになるのでしょうが、リアルに聴けるネット放送もストリームも含め、高音質化していて、いまのワタクシには、夏のバイロイトがすぐさま聴ける「イマ」に方が、ワーグナーの熱中時期ということになりますね。

今年のバイロイトでも上演されている「さまよえるオランダ人」。

映像ですでに確認済みですが、あの演出は、どうにも好きじゃない。
北の海の厳しさや、港町の市井の人々の生活と、そこに起こった、伝説の具現化というロマンが、まったく活かされていなくて、陳腐な手漕ぎボートと、サラリーマン的な集団生活と姑息な街の人々、そして、ただひとり浮かび上がるゼンタの普通の人としての問題意識。
オランダ人なんて、存在そのものが希薄だったし、韓国人歌手のきれいごとだけの麗し歌唱も、深みがまったくなし。。。

あぁ、また叱られそうなこと書いちゃった。

今年の演奏は、まだ聴いてませんが、ティーレマンが指揮しても、浅薄な内容はとどめようがなかった。

で、今夜は、最近聴いた「オランダ人」のなかでも、強烈な印象と、「これだ!」と膝を打つことになった凄演を。

オットー・クレンペラーのEMIへのアビーロード・スタジオ録音(2月19日~3月14日)の直後に、ロイヤル・フェスティバル・ホールにて演奏されたライブ録音。
 何度も綿密な演奏を経て録音完成されたあとの、実演は、さぞや、きっと、演奏家たちの手の内におさめた、そして、客席を前にした興奮と充実の完成度の高さを刻んだものでしょう。
 聴いていて、その場に居合わせた観客のみなさんが、羨ましくてなりませんでした。
3幕版による演奏ながら、幕を重ねるごとに、その熱気が高まっていくのがわかります。
そして、何よりも、英国のオーケストラである、ニュー・フィルハーモニア管が、まるで、ドイツの楽団であるかのように、オペラのオーケストラであるかのように、咆哮し、迫力にあふれ、歌手や合唱たちとともに、感情移入し、歌いまくっていること。それが一番の驚きです。

筆厚の強さ、高さを、オペラティックな感情表現の機微を、クレンペラーの指揮に感じ、それがイギリスのオーケストラを、ドイツのオーケストラ以上の存在に変貌させてしまってます。
 ありきたりな表現ですが、ワーグナー音楽に必須の、ある種の「うねり」をここに、完全に感じます。
ベームや、カラヤンの明晰さとは、大きく異なりますが、楽譜を白日のもとにさらけ出したかのような、リアルさがここにはあって、そこから生まれるドラマのリアリティは、オケと優れた歌手たちを巻き込んで、ど迫力のオペラ再現となっているのでした。

スタジオ録音では、エリックが、ショルティのリングで、もしかしたらジークフリートを歌ったかもしれない、コツーブ。
舵手が、ウンガーでした。
 こちらのライブでは、エリックは、なんと、ジェイムズ・キングで、舵手は英人のマクドナルドに変わってます。
ヘルデンが、エリックを歌うと、こうなる。
ヒロイックで、愛する人を必死に踏みとどまらせようとする夢中さが、強引さとなって逆手に出てくる。
そんな、エリックの役柄を、完璧に感じさせます。
ヴィントガッセンも、コロも、ホフマンも、エリックを歌うと、そんな風だった。
まるで、ジークムントのような、キングのエリックに痺れました!

アダムのオランダ人は、アクのある声はともかくとして、ドイツ語の美しさと、感情表現の豊かさでもって、昨今のバイロイトのオランダ人が、素人のように感じさせる本質的な歌唱です。
最新のオランダ人の録音のひとつ、ミンコフスキ盤を聴いてますが、オケはともかく、歌唱が、軽過ぎて、かねての歴史的な歌声を聴いてしまうと、虚しくなります。
昨今の歌手たちは、声だけで勝負でなく、ビジュアルや、詳細までも見られてしまう映像の世界に生きているものだから、声以外での演技にも注力せねばならず、ほんとに大変だなと思うのですが、声の表現力の軽重は、ますます、かねてと開きが生まれております。

アニア・シリアの迫真の歌唱もも素晴らしくって、61年のサヴァリッシュ盤の初々しさと違って、憑かれたようなエネルギーすら感じる、すさまじいものでした。

わたくしの持つ音源は、モノラルですが、BBC音源を復刻させたテスタメント盤は、ステレオ録音らしいですよ。
そちらも、聴いてみたいですが、この盤も、音は鮮明で、迫力満点。

演奏も録音も、すべてが克明な、クレンペラーのオランダ人でした。

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2015年8月 1日 (土)

ストラヴィンスキー 「火の鳥」 ハイティンク指揮

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真夏の、芝増上寺。

盆踊り祭りが行われてまして、散歩がてら、東京タワーと夕焼けの見物に行きましたら遭遇しました。

境内には、所せましと、出店が。
石焼きピザの店は、本物の窯があって焼いてるし、浜松町にある日本酒センターも出店して、効き酒セットなるものもやらかしてるし、お隣のプリンスホテルも、美味しそうなケータリングしているぐらいだから、ともかくグルメなのでした。

しかし、暑い、しかも湿度高い!

Firebird

 

 ストラヴィンスキー バレエ音楽「火の鳥」

   ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

                  (1973.11 @ロンドン)


暑いから、先週のハルサイに続いて、ストラヴィンスキーのバレエ音楽を聴く。

なぜ、暑いからか・・・

わかりませんが、ストラヴィンスキーの、とくに三大バレエは、夏向きの音楽に感じます。
とくに、ハルサイとペトルーシカはね。
「火の鳥」は、夏と冬かな。。
あくまで、わたくしのイメージにすぎませんがね。

そして、今宵は、先だっての「メータのハルサイ」に続きまして、70年代ものを。

最新の演奏の音盤は、ほとんど聴かなくなってしまった、哀しみのノスタルジーおやじです。
かつて、慣れ・聴き親しんだ演奏ばかりを聴き、そして、購入してます。

新しい演奏は、ネットで、世界中のそれこそ、イマの演奏を確認できます。

そして、一番大きいのは、アバドを見守り続けてきた自分にとって、アバドが召されてしまったあと、現存指揮者では、ハイティンクとマリナー、プレヴィンぐらいしか、ファイヴァリットの対象がいなくなってしまったこと・・・・・

新しい録音が、ライブでしか成し得ず、しかも新録が編成の大きなものでは激減してしまった。
かねての、レコードヲタクは、CDの復刻ものと、生の演奏会にしか、楽しみの活路を見いだせなくなってしまっているんです。
あぁ、悲しい~

そんななかでの、大いなる喜びのひとつが、「ハイティンクの火の鳥」。

ようやく入手しました、ロンドンフィルとの旧盤。

ハイティンクの「ストラヴィンスキー三大バレエ」は、70年代のロンドンフィルとのものと、ほぼ90年頃の、ベルリンフィルとのもの、ふたつが録音として残されてます。
レパートリーが広く、どんな曲でも器用にこなすことができるハイティンクにとって、ストラヴィンスキーは、若い時から、お手の物で、コンセルトヘボウでも、30代の若き「火の鳥」の組曲版が残されてます。

40代にあったハイティンクと、当時の手兵のひとつロンドンフィルの、こちらの演奏は、かねてより聴いてきた、思わぬほどの若々しさと俊敏さにあふれた「ハルサイ」と同じくして、ダイナミックで、表現力の幅が大きく、細かなところにも、目線が行き届き、仕上がりの美しい、完璧な演奏になってます。
LPOのノーブルなサウンドは、コンセルトヘボウと同質な厚みと暖かさを持っていて、ハイティンクとの幸せなコンビの絶頂期と思わせます。
 フィリップスの相変わらずの、録音の素晴らしさも手伝って、まるで、コンセルトヘボウです。
これこそが、ハイティンクの指揮者としての個性になっていったのでしょうね。
豊かな弦の馥郁たる音色と、オケ全体の分厚さと高貴な味わい。
マイルドな木管と金管。
全体の色調は、渋色暖色系。

切れ味は、昨今の技量高き演奏からすると物足りないかもしれませんが、先に書いたとおり、味わいある「火の鳥」として、存在感ある1枚かと思います。
それでもって、カスチェイの踊りにおける、疾走感とリズムの取り方の鮮やかさは、なかなかのものだし、場面場面の移り変わりも絶妙。
終曲の晴れやかさも、素晴らしくって、心の底から、感動できたし、爽快なエンディングの典型を、なにげに描きあげているところが、さすがにハイティンクと実感しましたよ。
 ベルリン盤は、未聴です。いつかまた。

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