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2016年12月

2016年12月31日 (土)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ショルティ指揮

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今年の冬の六本木ヒルズ、欅坂。

毎年同じようで、少しずつ違う。

LEDも年々進化し、電気使用量も減少しつつ、輝かしさも増している。

2016年は、あっという間だったけれど、自分にも、内外含めて世間にも、親しい人にも、ともかくいろんなことがあった年だった。
 いろんなものを失い、また失いつつあり、そして得るところ、学ぶところもまたたくさん。

人生は苦しいけれど、またこれも楽し。

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ファルスタッフは、「世の中、すべて冗談だ!」と歌って、そのヴェルディのオペラの最後を締めるけれど、同じオペラ大家、ワーグナーの「マイスタージンガー」の最後では、ザックスは、「神聖ローマ帝国は滅びても、ドイツの芸術は決して滅びない!」と歌い、民衆もそれに唱和し、ドイツの芸術とその名匠をたたえる。

同じシリアス系の作曲家が書いた喜劇でも、ヴェルディにシェイクスピア原作があるにしても、こうも違う。

ファルスタッフのように笑い飛ばしてしまう、先々、かくありたいと思うけれど、いまは歳とともに、ザックスの心境の域に達しつつある自分も感じるし。

Meistersinger_solti

   ワーグナー  楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

 ザックス:ノーマン・ベイリー         ポーグナー:クルト・モル
 フォゲルゲザンク:アダルベルト・クラウス ナハティガル:マルティン・エーゲル
 ベックメッサー:ベルント・ヴァイクル     コートナー:ゲルト・ニーンシュテット
 ツォルン:マリティン・ションベルク  アイスリンガー:ヴォルフガンク・アッペル
 モーザー:ミシェル・シェネシャル   オルテル:ヘルムート・ベルガー・トゥーナ
 シュヴァルツ:クルト・リドゥル     フォルツ:ルドルフ・ハルトマン
 ヴァルター:ルネ・コロ         ダーヴィット:アドルフ・ダラポッツァ
 エヴァ:ハンネローレ・ボーデ     マグダレーネ:ユリア・ハマリ
 夜警:ヴェルナール・クルムリックボルト

   サー・ゲオルク・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ウィーン国立歌劇場合唱団
                                            ウィーン国立歌劇場少年少女合唱団
                      ノルベルト・ヴァラッチュ:合唱指揮

                  (1975.10@ウィーン・ゾフィエンザール)

久方ぶりに全曲を聴く「マイスタージンガー」。
ワーグナーの作品のなかでも、黄昏やパルシファルと並んで長いものだから、最近ではよほどでないと聴く機会を持てない作品となってしまった。

このショルティ盤で、Ⅰ:85分、Ⅱ:61分、Ⅲ:123分。
合計4時間29分。
思えば、黄昏やパルジファルよりも長いかも・・・・

さて、ふたつあるショルティ盤の最初の方、なんといってもウィーンフィルの豊穣なる響きが魅力的だ。
シカゴ盤は、実は未聴で、ショルティ&シカゴということで、だいたい想像できるので、いまだに聴くことがなく、いまに至ってしまった。
ショルテイの剛直な指揮は、ウィーンフィルの柔らかな音色でもって、相当に中和され、同時期の録音である、シカゴとの「オランダ人」と比べるとかなりの違いがある。
ショルティは、おそらくワーグナーの主要オペラをすべて録音した最初の指揮者だと思うが、オランダ人を除いてそのすべてがウィーンフィルとなされたこと、そして、録音がデッカであったこと、それらが本当にありがたいことだ。

70年代、まだウィーンフィルがオペラのオーケストラであり、その丸っこい響きが独特の味わいを醸し出していた時期で、いまの国際的な存在となったマルチな響きとは違うような気がする。
柔らかなホルンの音色、ウィーンならではのオーボエ、木質の弦。
ことに、3幕の前奏曲や、五重唱の麗しさに陶酔境の想いで浸りきってしまった。
ショルティの切るような指揮ぶりも、ここではまったく想像できない。
ほんとうに、幸せなマイスタージンガーなのだ。

同じ時期に録音された、ヨッフム盤が、主役級を豪華メンバーで固め、ほかはベルリン・ドイツ・オペラの常設メンバーたちを配したのに比べ、こちらは、デッカならではの豪華版で、当時欧米で活躍していた理想的なキャストとなっている。

カラヤン盤から数年がたち、舞台を何度も経たルネ・コロの美声と余裕の安定感は最高の出来栄えのヴァルターだ。
シャープで紳士的なノーマン・ベイリーは普通すぎるけれど、そのブリテッシュな歌声は悪くない。
しかし、このザックスには、男の悲しい背中は感じさせてくれないかも。

あと、ステキなのは、ボーデのエヴァ。この役のスペシャリストの彼女、同時期のバイロイトでもエヴァやジークリンデで大活躍、美人さんだし。

クルト・モルのポーグナーも耳におなじみ、この深い声のポーグナーを聴いちゃうと、この人以外のポーグナーは考えにくくなるから不思議だ。同様の役が、ザラストロかな。
そして、いいんだけど、最初から最後まで自分には違和感のある、ヴァイクルのベックメッサー。
ザックスとのやりとりを聴いていると、どっちがどっちだかわからなくなる。
後年の名ザックスとしてのヴァイクルを聴いてしまっているからか・・・・。

しかし、配役をひとりひとりながめ、そしてその歌声を聴いてると、素晴らしい配役だし、当時は本当によかったなぁ、と思う。
こんなメンバーと大オーケストラをスタジオにあつめて録音できた時代。
いまではライブしかありえないオペラの贅沢な収録。
 そのデッカのゾフィエンザールでの優秀な録音は、ため息がでるほどに素晴らしい。
鮮やかな分離と、一方で溶けあう音の美しさ。
ウィーンフィルの魅力を、こうして録音でも引き立てているし、合唱が加わったときの豊かな広がりも見事。

これを聴いてる大晦日の午前。
いろいろあった2016年を送るに相応しい、そんな晴れやかな「マイスタージンガー」。
ハ調の、調和あふれる響きが、いまわたくしを包み込み、見上げる澄んだ青空も高揚感を増してくれるようです♪

みなさまよいお年を。

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2016年12月29日 (木)

バッハ クリスマス・オラトリオ シュナイト指揮

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冬のクリスマスのツリーの定番は、恵比寿のガーデンプレイス。

基本のカラーだけ、そして、装飾も基本のカラーに徹したシンプルな美しさ。

華やかだけど、華美じゃない。

毎年、手を加えてはいるでしょうけれど、毎年、ここが、わたくしのナンバーワンイルミ。

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ドイツのクリスマスマーケットでは、考えてもみたくもなかったテロ行為が起こり、キリストの生誕を祝う和やかなキリスト教者最大のイヴェントが、それすらを許さないごく一部の狂信者たちの行為により、ずたずたになった。

映像などでみた、踏み散らされ、破損したクリスマス・グッズを見ると、ほんとうにやるせない思いになった、そんな今年のクリスマスであります・・・・・

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  バッハ  クリスマス・オラトリオ

   Bs:フーベルタス・バウマン、フランク・ザーベッシュ=プア

   Cont:ミヒャエル・ホフマン

   T :ハイナー・ホップナー

   Bs:ニコラウス・ヒレブラント

 ハンス・マルティン・シュナイト 指揮 コレギウム聖エメラム

                        レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊

               (1977年6,7 @レーゲンスブルク 聖エメラム教会)


バッハの大作、でも実際は6つのカンタータの集積であり、クリスマスに全部一気に聴く必然性もいわけで、以下のような、降誕節にはじまる1月の祝日までを念頭においたもの。

   ①降誕節第1祝日 24日

   ②降誕節第2祝日 25日


   ③降誕節第3祝日 26日

   ④新年          1日

   ⑤新年最初の祝日 (2日) 

   ⑥主顕節        6日
      

>以下、一部以前の自己記事を引用<

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。

1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっているものだから、バッハの感性の豊かさに驚いてしまう。
バッハのカンタータは総じて、パロディとよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、兼、最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証し。

なんといってもこの「オラトリオ」の第1曲を飾る爆発的ともいえる歓喜の合唱。
これすらも、カンタータ214番からの引用だが、調性が違っているし、当然のことながら歌詞もまったく違う。
こんな風に分析するとするならば、この6つのカンタータの集積だけでも、カンタータの全貌を理解しつつ聴かねばならいからたいへんなこと。

 このクリスマス・カンタータにおいても、超有名な、マタイのコラール(それすらも古くからのドイツ古謡の引用であるが)が出てきたりする。

クリスマス音楽のお決まりとしての「田園曲」=「パストラーレ」は、第2夜のカンタータの冒頭におかれたシンフォニアである。
この曲だけでも単独で聴かれる、まさにパストラルな心優しい癒しの音楽である。
単独の演奏では、あまりにも意外な演奏だけれども、フィードラーとボストン・ポップスが好きだったりするくらいで、独立性のある名品であります。

それと、この曲集で印象的な場面は、ソロと合唱、ないしはエコーとしての合唱のやりとりの面白さと遠近感の巧みさ。
その場面においては、私のこの曲のすりこみ演奏であるリヒター盤の、ヤノヴィッツの歌が完璧に耳にあって、他のソプラノではどうしようもなくなっている。

リヒターの刷り込み演奏は、ひとえに第1曲が収められた、アルヒーフのリヒター・サンプラーというレコードゆえでして、そこには、マタイや独語メサイア、ハイドン、トッカータとフーガ、イタリア協奏曲など、マルチ演奏家としてのリヒターが浮き彫りにされた1枚であった。
当然に、布張りのカートンに収められた、「リヒターのクリスマス・オラトリオ」のレコードは、実家のレコード棚に鎮座する一品であります。

加えて、思い出深いのは、東独時代の古色あふれ、雰囲気豊かなフレーミヒとドレスデンフィルの演奏。
70年代の名歌手たちの歌唱にも感銘をうけます。

そして、数年前に入手したのが、ハンス・マルティン・シュナイト盤。
レコード時代に気にはなっていたものの、極めて地味な存在だった。
アルヒーフに、ヨハネやモテト、モンテヴェルディなどをそこそこに録音していたシュナイトだけど、あまりクローズアップされなかったし、わたくしもあまり気にとめてなかった。
そして、急逝したカール・リヒターの後任として、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団の指揮者になったけれど、残念ながら正規録音がなされなかったことも極めて残念なこと。

当時の雑誌を読んだりすると、マタイを振ってるし、なんと、オペラ指揮者としての経歴も豊富なため、リングも指揮してるし、ベルリン国立歌劇場と来演して魔笛も上演してることがわかったりしたことも、シュナイト師に親しく接するようになってから・・・・。

そう、東京フィル主体のシュナイト・バッハの活動のあと、神奈川フィルの指揮者となって、その多くのコンサートに接するようになった。
ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、シュトラウス等々、ドイツ本流、そして南ドイツ風の柔らかさもあわせもった本格的な名演を数々聴きました。
神奈川フィル以外でも、ヨハネとロ短調の圧倒的な演奏にも立ち会うことができました。

 そんなシュナイト師と中世ドイツの風合い色濃く残る街、レーゲンスブルクの高名な聖歌隊とのこちらの音盤。
南ドイツの古雅な雰囲気をたたえた、味わい深い演奏です。

70年代半ばの当時の古楽器も一部使い、オーケストラの響きは丸く優しい。
そして聖歌隊の無垢の合唱と、聖歌隊メンバーのボーイソプラノとコントラルトのソロは、現代の耳からすると、ちょっと厳しい点はあるかもしれないが、清らかで美しい。
 随所にあるコラールにおける、祈りの想いを強く感じさせるシュナイトならではの真摯な歌。実は、それらが一番素晴らしいかも。

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レーゲンスブルクのエメラム教会での録音も、こんな画像をながめながら聴くと、とても心あたたまり、清らかな気持ちになります。
ロマネスク様式に、途中バロックの華美さも加わった、ちょっと華やかな教会。
行ってみたいものです。

ことしもあと少し。

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2016年12月24日 (土)

フィンジ 「ディエス・ナタリス」(カンタータ「クリスマス」) マリナー

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今年のクリスマス、街の雰囲気や、わたくしも含めた人々の浮かれたような便乗さわぎは、少なめに感じます。

イルミネーションもそこそこに出現していて、例年通りですが、受け取る側が慣れてしまったのか、それとも、心情的に、そうとばかり言ってられないからなのか・・・・・。

イルミ好き、観察者としては、毎年、だいたい同じ場所を巡回しますが、今年は各処とも、こう言っちゃなんですが、年齢層高め。
あっ、自分もそうかもですが、若い人よりは、そうした方々の方が多く見受けられる気もします。
 イルミに限りませんが、どこへいっても、シニア層は、みなさん元気です。
そして若者は、静かだし、いても目立たない。

こんな風に見たり、思ったりしていること自体が、自らの視線がシニア層に近づきつつあるということなのでしょうね。
みなさん、元気で、屈託なく、感性も若い。

うまいこと、いろんな意味で、ベテランズと若い人たちの、いろんな循環が生まれるといい。

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シンプルで、森の一角を思わせるツリー。

こちらは、丸の内仲通りのあるビルのエントランスです。

けばけばしいイルミよりは、基本ツリーが好きであります。

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 フィンジ 「ディエス・ナタリス」~カンタータ「クリスマス」

     テノール:イアン・ボストリッジ

  サー・ネヴィル・マリナー指揮 

       アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ゼ・フィールズ

                     (1996.6 ロンドン)

ジェラルド・フィンジ(1901~1956)の「ディエス・ナタリス」。

生誕の日」または、「クリスマス」という邦題。

以下、以前の自己記事からの引用です。

しばらくブログを休止して、思いだしたように書いたりしてる不完全な状態を続けていると、筆は鈍るし、音楽すら久しぶりに聴いたりするものだから、言葉に結びつけるのは、ほんとに難儀なことになりました・・・
 自分の過去記事に、妙に感心してしまったり、ほうほう、そうだな、そうだったなぁ、とか、時間があれば、自らのブログを振り返ったりもしてます。

ですから、そんななかの一品、フィンジのこの曲のコピペ、お許しください。

「ディエス・ナタリス」は、1926年の若き日々に書き始めたものの、その完成は1939年で、13年の月日を経ることになった。
そんな長きの空間を、とこしえとも思える静けさに変えてしまう不思議さ。
この音楽に感じるのは、そんな静けさです。

弦楽オーケストラとテノールのためのカンタータ。
またはソプラノによる歌唱も可とするこの曲。
もともとはバリトンによるものですから、あらゆる声域で歌える美しい曲。

器楽によるイントラーダ(序奏)に導かれた4つの歌からなる20分あまりの至福の音楽は、いつもフィンジを聴くときと同様に、思わす涙ぐんでしまう。
イエスの誕生を寿ぐのに、何故か悲しい。

17世紀イギリスの聖職者・詩人のトマス・トラハーンの詩集「瞑想録」から選ばれた詩。

 1.イントラーダ(序奏)

 2.ラプソディ(レシタティーボ・ストロメンタート)

 3.歓喜(ダンス)

 4.奇跡(アリオーソ)

 5.挨拶(アリア)


この曲で最大に素晴らしいのは、1曲目の弦楽によるイントラーダ。
最初からいきなり泣かせてくれます。
いかにもフィンジらしい美しすぎて、ほの悲しい音楽。
何度聴いても、この部分で泣けてしまう・・・・・。
1曲目のモティーフが形を変えて、全曲を覆っている。
この曲のエッセンス楽章です。

トラハーンの詩は、かなり啓示的でかつ神秘的。
その意をひも解くことは、なかなかではない。
生まれたイエスと、イエスの前に初心な自分が、その詩に歌い込まれているようで、和訳を参照しながらの視聴でも、その詩の本質には、わたしごときでは迫りえません。

全編にわたって、大きな音はありません。
静かに、静かに、語りかけてくるような音楽であり歌であります。

楚々と歌われ、静かに終わる、とりわけ美しい最終の「挨拶」。

 ひとりの新参者
 未知なる物に出会い、見知らぬ栄光を見る
 この世に未知なる宝があらわれ、この美しき地にとどまる
 見知らぬそのすべてのものが、わたしには新しい
 けれども、そのすべてが、名もないわたしのもの
 それがなにより不思議なこと
 されども、それは実際に起きたこと


生まれきたイエスと、自分をうたった心情でありましょうか。
訥々と歌う英語の歌唱が、とても身に、心に沁みます。

いつものフィンジらしい、そしてフィンジならではの内なる情熱の吐露と、悲しみを抑えたかのような抒情にあふれた名品に思います。

わたしには、詩と音楽の意味合いをもっと探究すべき自身にとっての課題の音楽ではありますが、クラリネット協奏曲やエクローグと同列にある、素晴らしいフィンジの作品。

と、5年前の自分が書いておりますが、その詩と音楽との意味合い、まったく探究じまいであります。
が、フィンジのナイーブな音楽は、ここでもともかく魅力的で、少しの憂愁と哀感が、優しさでそっと包まれているのを感じます。

マリナーの飾らない、楚々たる指揮ぶりが、フィンジの音楽を語らずして語る。
ポストリッジの神経質なまでの繊細な歌は、フィンジのナイーブな音楽を、その詩の神聖ぶりを、そしてちょっとの多感ぶりを表出している。
すてきな演奏!

国内外に、ロクなことがありませんが、静かで穏やかなクリスマスになることを祈ります。

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2016年12月23日 (金)

プッチーニ 「トスカ」 テ・デウム

Shinagawa_1

品川の新スポット、品川シーズンテラス。

規模はそんなに大きくないですが、東京タワーを遠くにまっすぐ望む位置に、イルミネーショイン。

ベルを鳴らすと、色が変化します。

Shinagawa_6

色違い。

駅から少し遠いので、人も少なめ。
Tosca_1    

 今日、12月22日は、プッチーニの誕生日。

いまから、158年前です。

プッチーニ大好き。

イタリアオペラでは、ヴェルディも好きだけど、数が多すぎるし、作品にムラがありすぎる。
しかし、偉大なヴェルディ。
 そして、プッチーニは、作品数がそんなに多くないから、そのすべてを把握できたし、そのすべてが好き。

蝶々さんのアリアから、当然のようにして入門し、テレビのディズニーかなにかの放送で、映画版の蝶々さんをみたのが初プッチーニのオペラかも。
しかし、本格的に親しんだのは、1973年のNHKイタリアオペラの公演の放送。

NHKホールのこけら落としの一環で、名歌手たちが大挙して来日して、豪華な舞台を繰りひろげた。
ベルゴンツィ、コソットの「アイーダ」、スコット、クラウス、ギャウロウの「ファウスト」、スコット、カレーラス、ブルスカンティーニの「トラヴィアータ」、そして、カヴァイバンスカ、ラボーの「トスカ」の4演目だ。

そのすべてをテレビとFMで堪能し、その前よりワーグナーに毒されていたワタクシに、イタリアのオペラの素晴らしさを植え付けてくれた。

この「トスカ」と、その年に発売されたカラヤンの「ボエーム」によって、プッチーニ熱に浮かされることとなったわけだ。

さて、名アリアと、緊迫のドラマの宝庫、そして、主要登場人物のすべてが死んでしまうという悲劇に、甘味なるプッチーニの音楽。
すべての音符が、脳裏に沁み込んでいるけれど、とりわけ好きなのが、スカルピアの「テ・デウム」だ。

1幕の最後、悪漢スカルピアは、かねてより思いを寄せていた、歌姫トスカを、計略をもって嫉妬のかたまりへと陥れる。
 まんまと術中にはまったトスカを、紳士然と送りだしたスカルピアは、自身の想いを赤裸々に歌う。
 この教会の大聖堂で演じ、歌われるこの場面は、壮大・壮麗極まりない。

この神聖な場で、邪悪で邪まな思いをぶつけつつ、周りの民衆は、主は偉大なり、神を讃えんと、テ・デウムを高らかに歌う。
やがて、スカルピアも、その祈りに唱和して、十字を切る。

この二面的な思いと、歌を見事に結びつけたプッチーニの天才的な筆の冴え!

「ヤツには死を、そして彼女は俺の腕のなかに。トスカは、俺に神を忘れさせるぞ!」

悪いやっちゃぁ~

とかいいながら、男も女もみんな一緒かも・・・、二面性を仮面をかぶって演じてる。

そんな、悪いヤツ、もしかしたら、嘘つきだけど、正直なナイスガイ、スカルピアは誰の歌が一番好き?

Tosca_calas

カラスのステレオ録音の方のゴッピ
サバータ盤は、モノだし、壮大感がちょっとなので、こちら。
実に、巧みで、トスカの心の隙に入り込む、嫌らしいスカルピアなんだ。
声だけで、千両役者。

あと、好きなのは、ミルンズのスカルピア。
プライス、ドミンゴと共演のメータ盤。
若々しく、スマートな憎々しさ。
西部劇の悪役か、ダーディ・ハリーに出てくるような70年代風のギャングみたいな・・・
そんな声量と美声のたっぷりなミルンズが好き。

そして、いがいにも、F=ディースカウの知的かつ、知能犯的な悪の結社の親玉スカルピア。
理詰めで、トスカとカヴァラドッシを追い詰める。
が、しかし、ブリュンヒルデのようなニルソンのトスカに殺されちゃう。
うまいよFD。

映像系で見ると、目の動きが歌以上にスカルピアしてるライモンディ
威力のある声は圧倒的。
ちょっとクセのあるバスの声だけど、よく練られていて、歌が実に巧み。
これもまた、悪いやっちゃ、とつくづく思う。

それから、最近では映像で見たハンプソン・スカルピア。
マフィアの親玉みたいな、表面、エリートな紳士だけど、実は真黒なダーティ野郎。
そんなスカルピアもすてきだった。

あと、希少なバスティアニーニの超かっちょええ強面スカルピアもある。
海賊盤だけど、テバルディとディ・ステファーノという強力トリオ。
実は、いい人なんじゃないか、悩みさえ抱えて感じるバスティアニーニのスカルピアは面白い。

あとあと、まだまだ、たくさんすきです、スカルピアの存在。

クリスマスにらしからぬ話題となりましたが、主を讃えん、「テ・デウム」ということで、併せて、プッチーニ讃

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2016年12月17日 (土)

グリーグ ペール・ギュント組曲 レッパード指揮

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ここ数年、お馴染みの東京中央郵便局、いまや、KITTEの冬の風物詩、大きな四季のツリーが今年も出現。

針葉樹は、いかにも北国を思わせる。

日本では、長野県以北。

音楽の授業で知り合う曲、「ペール・ギュント」。
全曲盤よりは、自分的には、組曲。
しかも、こちらは、室内オーケストラで綿密かつ、爽やかに演奏してる音盤。

わが大学生時代に発売されたレコード。

Grieg

グリーグ 組曲「ペール・ギュント」

  レイモンド・レッパード指揮 イギリス室内管弦楽団

                    (1975.11@ロンドン)

 

今持つCDは、2CD組のダブルシリーズで、味もそっけもないジャケットだけど、この初出レコードは、いかにもノルウェーの自然とグリーグの音楽を思わせるフィヨルドの写真で、ともかく好きだった。

ミドルサイズの室内オケで聴く「ペール・ギュント」は、ともかく新鮮で、清潔感と清涼感にあふれてる。
学究肌のレッパードは、バロックや古典派の指揮者とのイメージがあったが、70年代半ばに、グリーグの作品を集中して取上げていて、そのいずれもが、素晴らしい演奏だった。

イギリスには、指揮者もオーケストラも、元来より北欧の作曲家の演奏の伝統が確立されていて、レッパードもそんなひとりだ。
北欧情緒をにじませた演奏というよりは、抒情を大切に、しっかりと旋律線を浮かびあがらせ、大オーケストラでは埋没しがちな楽器が聴こえてきたり、暴力的なフォルテも威圧感なく、ともかく緻密で、かつ優しいタッチのグリーグ。

こんなしなやかで、美しいペール・ギュントを聴いちゃうと、この戯作のもつ荒唐無稽でダイナミックな物語の背景がウソのように感じられる。
そこがすなわち、このレッパードの演奏の特徴で、グリーグの音楽の抒情と純音楽性があふれ出てくるのでありました。

「朝」は、それこそ爽やかさの境地であり、日曜の明るい朝のムード。
「オーゼの死」のレクイエムのような静寂さと、続く「アニトラの踊り」の羽毛のような軽やかさ。
あと、なんといっても、じっくりと、しみいるような「ソルヴェーグの歌」は坦々としたなかに、巧みに緩急もつけて歌いあげた名品だと思う。

かつてレコーディングも多く、大活躍だったイギリス室内管は、最近、あまり名前を聴かなくなった気がするが、いまは、ツァハリスがその指揮台にしばしば立っている様子。
バレンボイム、レッパード、テイトあたりの時代が全盛期なのかな?
そう、レッパードとのブランデンブルク協奏曲が復活しないかしら。
ガルシア、マンロウ、ブラックなど、当時、ロンドンで活躍した錚々たるメンバーがソリストなんです。

とりとめのない記事になりましたが、この音盤、録音もなかなかに素晴らしい。

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2016年12月 5日 (月)

モーツァルト セレナード第9番「ポストホルン」 ベーム指揮

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丸の内、仲通り、恒例のイルミネーション始まってます。

年々LEDも進化し、明るさを増し、一方で消費電力もますます低減されているとのことが、丸の内のイルミネーションのHPに書かれてます。

社会人になった頃は、このあたりはビルだけの殺伐としたオフィス街だったし、70年代に過激派が起こした大企業を狙ったテロ事件も記憶にあって、あのときはビルのガラス窓も散乱し、死傷者がかなり出た。

ブランド店や飲食店が立ち並ぶ整然としたこの一角を見ると、過去のことが嘘のようだ。

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暖かなウォーム・トーンの装飾。

いまは、これでいい。

これがいい。

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  モーツァルト セレナード第9番「ポストホルン」

   カール・ベーム指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

             (1970.5 @ベルリン、イエスキリスト教会)


12月5日は、モーツァルトの命日です。

いまから225年前の今日です。

そんな命日に、喜遊曲なんていうのもなんですが、ともかく最近、音楽に飢えてきたもので、かつての耳タコ的にお馴染みの、このベームの演奏を聴いてみたくて、取上げました。

このベーム盤は、もう10年も前に、このブログでも取上げてました。

大好きなこの曲、マリナーや、レヴァイン、アバドなども聴いてきましたが、あと、有名どころではセルとか、いまや廃盤のデ・ワールトとか、聴いてみたいものもたくさん。
 でも、やっぱり、このベーム盤が、自分には一番で、刷り込み盤なのです。

日本発売は、たしか、1971年の11月か12月。
あの頃は、レコード業界も、クリスマス系の音盤や、第9のアルバムばっかりを繰り出してきて、レコ芸の広告欄も、ヨーロピアンな雰囲気が満載となりました。

そんななかで、群を抜いていたのが、日本グラモフォンとロンドンレコード(キング)。
前者は、DGであり、いまのユニヴァーサルレーベルですよ。

ベームのポストホルンのジャケットは、前褐のとおり、ブルーとグリーンな夜の庭園のもので、ともかく、中学生の子供だった自分の想像力と夢想を大いに刺激するものでした。

そして、そのレコードを手にしたのは、ほどない時期で、茅ヶ崎のダイクマのレコード売り場でした。
カップリングの「セレナータ・ノットゥルナ」と併せて、何度も何度も聴きました。

この曲のイメージが、このベームとベルリンフィルの響きで出来上がってしまいました。

このシンフォニックともいえるセレナードは、喜遊的な側面とともに、どこかほの暗い部分も持ち合わせているけれど、モーツァルトを愛し抜いたベームの厳しくも優しい眼差しは、そのどちらのシーンも、はなはだ音楽的に誇張なく、自然体で表出しつくしてます。

そのある意味厳しさと優しさに、色を添えているのが、ベルリン・フィル。

豊かな広がりを感じさせる能動的なサウンドは、ともかく明るい。
ことに、この曲は、木管たちが大切。

当時のベルリンフィルの名手たちの、ギャラントとも呼べる華やかさと、同時に、お互いに聴きあいつつ繰りひろげる自在な音声空間がもたらす解放感。
聴き手のワタクシは、もう呆けてしまうしかない。
ゴールウェイ、ブラウ、コッホ、トゥーネマンたちでしょうか!

加えて、イエス・キリスト教会の豊かな残響をともなった美しい録音もステキにすぎる。

ウィーンフィルとではどうだったでしょうか・・・。

わたくしには考えにくいほどに、このベルリンフィルの音盤が、愛すべき存在なのです。

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