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2017年5月

2017年5月21日 (日)

コルンゴルト 「死の都」 ヴァイグレ指揮

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神奈川の家から遠く富士の夕暮れ。

一日の終わりは、壮麗な夕焼けで幕引きになるのが好き。

そして、後ろ髪をひかれるようにして、昼は去り、夜がやってくるのだ。

こんな景色を大学生の時まで見て暮らした。

社会人になると東京と千葉へ。
でも自分に一番の街はここ。

去ったけど、一生去れない場所。

終わりがなければ始まらない。

そんなことをいくつか繰り返してきたけれど、この春にも大きな変化があったことは、これまでに書いた通り。

マーラーの10番をピークに別れを音楽で追い求めたものだ。

そして、ここしばらくは、コロンゴルトの音楽に足を止めようではないか。

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  コルンゴルト  「死の都」

   パウル:クラウス・フローリアン・フォークト
   マリエッタ、マリーの幻影:タチアナ・パヴロフスカヤ
   フランク、ピエロ:ミヒャエル・ナジ  ブリギッタ:ヘドヴィク・ファスベンダー
   ユリエッテ:アンナ・ライベルク    ルシエンヌ:ジェニー・カールシュテット
   ガストン:アラン・バルネス       ヴィクトリン:ユリアン・プレガルディエン
   
  セバスチャン・ヴァイグレ指揮 フランクフルト歌劇場管弦楽団
                      フランクフルト歌劇場合唱団

                         (2009.11@フランクフルト歌劇場)


またかとお思いでしょうが、コルンゴルトのオペラ「死の都」であります。

このヴァイグレ盤、このところ毎日のように流し続けていて、4年前に入手していらい、以前はさほどでもなく思っていた、フォークトのパウルが実に素晴らしいことに、いまさらながらに気が付いた。

誰もが、フォークトの美声と、そのユニークなヘルデンの常識を覆すような不思議なほどの力感に驚かれていることの思います。
しかし、よく考え抜かれた歌唱は、どんな役柄でも、フォークトなりの完璧さでもってなりきってしまうことの凄さ。
 パウルという役柄の難しさは、全幕ほとんど出ずっぱりで、没頭感をもって、ドラマティックな力感を伴った歌唱を駆使しまくらなくてはないらいし、甘美さや、ほろ苦い諦念も歌いこまなくてはならないので、パウル歌手は、これまで限定的な存在だった。

ルネ・コロ、J・キング、イェルザレム、T・ケルルなど、いずれもジークムントやトリスタンを歌うような歌手たちの持ち役だ。

そんななかにあってのフォークトの歌の存在。

パウルの心情に同化してしまったかのような、繊細極まりない知的かつ、情熱的な歌唱。
すべてが考え抜かれ、言葉をじっくりと歌いこんでいるのがわかる。
華奢ななかにも、スピントの効いた力強さと、圧倒的な声量も。
きらきらした退廃具合も申し分なし。
いままで、コロとケルルばかりだった私の理想のパウルに、遅ればせながらフォークトが加わった。

このフランクフルト・ライブは、歌手ではフォークトの独り舞台かもしれないが、マリンスキー育ちのパヴロフスカヤは、悪くないが、フレミングの声に似ていて、ちょっと隈取りが濃いかも。
ナジのフランク&ピエロはよい。
バイロイトでもウォルフラムなどで活躍のイケメンバリトンは、今後とも注目。

ライブながら、録音は実によく、オーケストラ・ピットの生々しい音が臨場感豊かに聴こえる。
ヴァイグレの整然としつつ、全体のバランスをよく見通したスタイリッシュな指揮はこれでよいと思う。
まだ音源は多くはないが、過去の正規音源のなかの指揮者では、一番いい。

添付のリブレットには、舞台写真が豊富に載せられていて、想像力を刺激してくれる。
フォークトはスキンヘッドで、詰襟を着ていて、ちょっと病的な感じだし、死神や老婆もたくさん・・・・、マリエッタは赤いドレスで、普通に美しいし。
映像で観てみたいものです。

映像といえば、新国で観たホルテン演出の舞台のDVDでは、フォークトなんだよな。
手に入れねばね。

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現実と夢想が、行き来して、リアルな現実も、夢も、どっちも明滅するように、それこそ、自分の夢に出てくるようになった。

 しかし、現実の人間たる自分は弱いけど、妙に強い。
いまの現実は、前では考えられなくなった違った忙しさに包まれるようになった。
過ぎ去った夢、だんだんと過去のものとして、置き換え、忘れようとしつつあるのが、これまた夢のなか・・・・・・・・。

こんな男の心情にぴたりとくるものを描きつくした、若きコルンゴルトに、啓稔をすら感じます。

 わが憧れ、わが惑いが、この夢に蘇る。

 踊りで得て、そして失ったわが幸せ
 ラインの川沿いで踊る
 月光のなかで、青い瞳が、この身に
 切なる眼差しをそそぎ
 辛い思いを訴える
 ここにいて どこにもいかないで
 故郷を見守って、静かに花開く幸せを
 わが憧れ、わが惑いが この夢に蘇る
 遥かなる魔力が この魂に 火をともす
 踊りの魔力に誘われ
 役者へと たどりつく
 優しすぎる あの女に従い
 涙ながらの口づけを知る

 酔いと苦しみ 惑いと幸せ
 これが曲芸師の定めか
 わが憧れ わが惑いが
 この夢に蘇る
 蘇る 蘇る・・・・


      (訳:広瀬大介)

 この身にとどまるしあわせよ

 永遠にさらば 愛しいひとよ
 死から生が別たれる
 憐れみなき避けられぬさだめ
 光溢れる高みでこの身を待て
 ここで死者がよみがえることはない


      (訳:広瀬大介)


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2017年5月 7日 (日)

マーラー 交響曲第10番 ネゼ=セガン指揮

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神社の手水に泳ぐ桜の花びら。

波紋とともに、静寂のなか、流されては舞い散る、繰り返される美しさ。

C

まだ散り終わる前の八重桜。

そして手水の、とこしえのような美しさ。

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  マーラー  交響曲第10番(D・クック編 全曲版)

   ヤンク・ネゼ=セガン指揮 オーケストラ・グラン・メトロポリタン

                (2014.12 @モンオリオール)


「告別」の最終章。

わたくしの「告別」も昨日、この連休で終わりました。

10年間、続いたことが、ここで終わりました。

出合いと、別れを、人は短い時間でも繰り返すのですが、それもまた、人生であり、生きざま。

禍根を残す別れじゃなくって、とてもきれいで、ゆるやかで、爽やかだった。

マーラーの最終章。

10番の交響曲は、コンプリートされた第1楽章の「アダージョ」に加え、補筆・補完・完成されるかたちでもって、数人の手によって、完成され、いまも様々な版の刊行が進行している。
 この10番のすばらしさを教えて下さった方に」感謝。
さらに、自分のなかで、「マーラーの10番」を確立させ、進化させていった。
「別れ」は、終わりじゃない、「始まり」なのだと、気づいた。

こんな年代の自分だけれども、さよならの別れは。美しくも輝かしいものだとも報せてくれた。

 もしかしたら、この先、一生、会うことがないかも・・・・、そんな想いとともに別れを経て聴く音楽。
それが「マーラーの10番」なのか。

 こんな風に、ここしばらく、10番の完成版として、何度も聴いたのは、このモントリオール出身のセガン盤なのだ。

同郷の腕っ扱きをあつめたオーケストラを指揮したこの演奏。
このオケと、ブルックナーやマーラーを数々録音し、さらにメジャー指揮者としても、幾多の実績を築きあげているセガンに、世界が着目している。

幣ブログにおける、「次世代を担う指揮者シリーズ」としても、特筆大的にマークしておきたい指揮者であります。
ともかく、この演奏は美しい。

そして、なんのこだわりもなく、「マーラーの10番」を、誰それの補筆・補完とかいうことを意識もさせず、ともかくヴィヴィットに演奏してみせた快演なのだ。
オーケストラの明るい、ある意味、国籍不明の軽やかさも麗しい。

なにも構えることなく、「マーラーの10番」を心おきなく楽しめる、そんな「マーラーの10番」の超名演ではないかと思った、セガン盤。

B

「告別」の感情は、10番では、もしかしたら少なめで、ここでは、「別れ」の姿をした、そして寄せては引く、永遠の「愛」なのかもしれない。

その深さゆえ、「別れ」のときにしか理解されない「愛」なのかも。

マーラーの最後の3つの作品を聴いてきて、あらためて気づかされたその「愛」の美しさ。

 「終わり」です。
 

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2017年5月 6日 (土)

マーラー 交響曲第9番 サロネン指揮

I

関東に咲く最後の桜、八重桜も、GW前には散り、いまは葉桜となりました。

増上寺のお隣り、芝東照宮の八重桜は、ぽったりとしていて、それはとても見事なものでした。

H

この桜は、色が濃いから、官能的なまでに艶めかしい。

桜漬けにしても風味がよろしく、見栄えもいい。

マーラーの告別3大交響曲のなかで、世紀末を一番感じさせるのが第9。

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  マーラー  交響曲第9番 ニ長調

    エサ・ペッカ・サロネン指揮 フィルハーモニア管弦楽団

            (2009.3.22@ロイヤルアルバートホール)


「大地の歌」の終楽章「告別」、Ewig・・・永遠に、と同じ音型で始まる第9交響曲。

告別の情念は、ここでも引き継がれている。

ウィーンと決別し、新大陸に活路を見出しつつ、20歳も下の妻アルマとの隙間風はとどめようもできなかった。

そんな時期の1909年。

死を意識したのは、マーラーは、それこそ若き日々から変わらないこと。

でも、作曲の腕の深まりとともに、死への想いも受容的なものへと変化していったのだろうか。
49歳にして、このような彼岸の域へと達してしまうのは、ある意味不幸なことかも。
時代は違えども、誰しも、自分に置き換えれば、50を前に、「死に絶えるように・・・」なんて、言葉を書いたり、表現として用いたくない。

 マーラーの第9は、バーンスタインのように、没頭的に音楽と同化してしまう演奏や、ジュリーニのように、諦念をにじませたような大河的アプローチ、それから、アバドのように、楽譜をひたすらに信じ、音を突き詰めた演奏、こんな演奏たちを、自分は好んで聴いている。
 でも、このサロネンの演奏は、それらとはちょっと変わっている。

クールだけど、打ち立ての鋼のように、熱い。
そんないつもサロネンの音楽に加えて、どこか冷めたようなところがあって、「マーラーの第9」ということで、ついつい構えて聴いてしまう聴き手に、肩透かしを食らわせるようなところがある。

ニュートラルな英国のオーケストラというところもあるのか、音は透けて見えるくらいに、見通しはよくて、すっきりしてる。
そのスッキリ感を抜けて、音楽が熱いものを語りだすのが、サロ様のよいところなのだが、ちょっと消化不良なところもある。
真ん中のふたつの楽章は、リズム感も抜群の指揮者に導かれて、絶品なのだが、終楽章が、終結部の精妙な美しさを除いて、ちょっと不満かな。
1楽章の後半、もう無調の領域すら間近と感じさせる場面も、これまた素晴らしい。
珍しく、スコアを見ながら聴いたら、指揮者の耳のよさが、抜群にわかるし、普段、聴こえないような音も微妙に聴こえたりして、これまた新鮮な驚きでありました。

ほんとうは、ベルリンフィルの指揮者になって欲しかったサロネン。
作曲家でもあり、指揮者としても、ブーレーズみたいな存在だけど、サロネンのレパートリーは、もっと柔軟で、古典系の音楽もうまい。
マーラーは、ほかの番号も含めて、もっと何度も演奏・録音してほしいものです。
 わたくしと、同い年のサロネン。
マーラーとともに、あとは、「トリスタン」を残してほしい。

告別を、あまり切実に感じさせない、そんなある意味秀逸なサロネンの「マーラーの第9」でした。

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こんなにたっぷりと花をつけていた桜も、いまや、悲しいほどに散ってしまいました。

いまの心境は、終楽章の「死に絶えるように」よりは、第1楽章の、空中にふわりと浮かんで消えてしまうような、そんな音楽が、とても素敵に思えるのでした。

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2017年5月 3日 (水)

マーラー 交響曲「大地の歌」 クーベリック指揮

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春は盛り、そして、もうすぐに新緑、初夏へ。

4月が過ぎて、出会いと別れの春はひと段落。

でも、ひと月の経過を経て、いろんな引継ぎも経て、いよいよ去る人もいるし、いよいよ、一本立ちをする方も。

この連休は、別れの最終ターニングポイントだ。

この期(ご)に、マーラーの告別三大交響曲を聴いておこう。

作曲順に。

 まずは、「大地の歌」だ。

これらの3つの作品には、死の影が忍び込んでもいるし、リアルに告別=別れの概念も内包されるとともに、去りゆく人(女)への切ない愛情や諦念も、痛切に描かれている。

6つの楽章を、テノールとアルト(メゾ)ないしは、バリトンで歌い継ぐシンフォニックな連作歌曲。
マーラーが紡ぎだした歌の原作が、唐期の李白、銭起、孟浩然、王維らの唐詩を訳したベートゲの「中国の笛」で、それをベースにしている。

唐期(618~907年)は、日本に多くの影響を与えたことは歴史の教科書で学んだ通りだが、その「唐」が、いまの中国であるというのは大間違いで、それもまた、みなさまご存じのとおりかもしれない。
いまで、中国(中国共産党)がいう、中国は、きわめて広義なものでありすぎ、狭義に定義すれば、それこそ、70数年の歴史しかない・・・・

あ、もう、やめときましょ。

 マーラーの当時、中国は清国であったわけだが、ヨーロッパから見たら、同じエキゾシズムの対象として、シナ、そして日本や東南アジアの風物は、きわめて神秘的で、遠くて魅力的な存在であったに違いない。
 そんな遠くにあった東洋を、マーラーは、もしかしたら東洋的な観念として美しく、とらえすぎていたのかもしれない。

ヨーロッパの列強は、当時は、アジア・アフリカ・中近東・中南米を、植民地としてしか見ていなかったゆえに、そこにあった文化には、異次元の発見の喜びを見出していたのだろう。
表層的であるかもしれないが、逆に、ヨーロッパ文化から還元された、それらの異次元文化こそ、われわれアジア人には魅力的に映るのかもしれない。
「大地の歌」に描かれる、まるで絵に描いたような唐式の風物や心象風景のあれこれが。

 第1楽章 「現世の寂寥を詠える酒宴の歌」
 
 第2楽章 「秋の消え逝く者」

 第3楽章 「青春について」

 第4楽章 「美について」

 第5楽章 「春の日を酔いて暮らす」

 第6楽章 「告別」


各章のタイトルをこうして並べて読んでみるだけで、マーラーのその音楽を感じとることができる。

もう十年以上も前、サントリーのCMで、動画要素を加えた唐画にあわせて、「青春について」のテノール歌唱が流れた。
これはとてもよかった。たしか、歌手はアライサで、ジュリーニ盤じゃなかったろうか。
中国式の庭園と東屋、白い陶磁器、池に映る半月の真っ赤な太鼓橋・・・・

こんなビジュアルを、その詩にぴたりと符合したマーラーの音楽で想う。

そして、青春や春を謳歌しつつ、痛切な想いも抱き、酒を浴びて忘却しようとする。

「人生がただ一場の夢ならば 

  努力や苦労は私にとっていかばかりであろうや?

  それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで

  終日酒に溺れようぞ。」

そんな自己耽溺の日々にも、別れのときがやってきて、凍えるような寒さと、猛烈なる寂寥感につまされるようになる・・・・・

「友、馬より降り立ちて、別れ盃を差し出す。

 友は尋ね聞く・・・『どこへ行くのか』と、そしてまた『何故に行く』と

 友は答えたが、その声愁いにさえぎられ、そしてつつまれし
 
 『君よ、わが友よ、この世の幸せはわたしには与えられなかった

  ひとりいずこに行きしに 

  さまよい入るは山中のみ』・・・

  わたしはさがず やすらぎを、私の孤独な心のため」


こんな切なく悲しい別離。

でも辛い告別のあとには春の僥倖が待っている。。。。

「愛する大地にふたたび春がくれなば、

 いたるところ花は咲き、緑はふたたび栄えるであろう。

 いたるところ永遠に、遠きはてまで輝くであろう、永遠に・・・・・・


  Ewig Ewig・・・・」

彼岸の淵にありながらも、来るべく春・幸せを思う。

音楽は、涙にくれつつも、告別3大交響曲ならではの、透明感と青白い抒情を感じさせ、静かに消えゆくように終わる。

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文字通りの春。

まぶしい。

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  マーラー 交響曲「大地の歌」

       Ms:デイム・ジャネット・ベイカー

       T :ヴァルデマール・クメント

   ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団

           (1970.2.27 @ミュンヘン ヘラクレスザール)


DGへの正規全曲録音には含まれなかったクーベリックの「大地の歌」。

このライブ録音が、数年前にバイエルン放送局からの音源として登場したときには驚いたものだ。
先月取り上げた、「パルジファル」や「マイスタージンガー」も同様だったが、バイエルン放送は、ほんとに質の高い、そしてその音源の解放ぶりも、実に良心的。
管内にあるバイロイトの貴重な音源も、まだ数々所蔵しているはずだ。
 そして、ここでの録音のクオリティも実に高く、へたなデジタル録音より、ずっと音楽的で、耳に柔らかく、心地が良い。

その質の高さは、クーベリックとオーケストラにも、歌手たちにもいえていて、わたくしは、ひさしぶりに、何回も何回も聴きつくしてしまった。

テンポといい、強弱のダイナミクスといい、それから、震えるように素敵な旋律たちの歌いまわしといい、そのすべてが最高で、すべてがマーラーの「大地の歌」にぴたりと符合して感じる。

J・ベイカーの奥ゆかしい謡いぶりがまたいい。
琥珀色のメゾ。
ハイティンク盤での歌唱より、こちらのほうが落ち着きがあってよろしい。
 あと、懐かしいクメントのテノール。
カラヤンの第九とベームのマイスタージンガーに加えて、この名テノールの歌声がまたライブラリーに増えた。

「大地の歌」のあとは、9番を印さざるをえなかった純交響曲にて、告別を実感しようではないか。


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