マーラー 交響曲「大地の歌」 クーベリック指揮
春は盛り、そして、もうすぐに新緑、初夏へ。
4月が過ぎて、出会いと別れの春はひと段落。
でも、ひと月の経過を経て、いろんな引継ぎも経て、いよいよ去る人もいるし、いよいよ、一本立ちをする方も。
この連休は、別れの最終ターニングポイントだ。
この期(ご)に、マーラーの告別三大交響曲を聴いておこう。
作曲順に。
まずは、「大地の歌」だ。
これらの3つの作品には、死の影が忍び込んでもいるし、リアルに告別=別れの概念も内包されるとともに、去りゆく人(女)への切ない愛情や諦念も、痛切に描かれている。
6つの楽章を、テノールとアルト(メゾ)ないしは、バリトンで歌い継ぐシンフォニックな連作歌曲。
マーラーが紡ぎだした歌の原作が、唐期の李白、銭起、孟浩然、王維らの唐詩を訳したベートゲの「中国の笛」で、それをベースにしている。
唐期(618~907年)は、日本に多くの影響を与えたことは歴史の教科書で学んだ通りだが、その「唐」が、いまの中国であるというのは大間違いで、それもまた、みなさまご存じのとおりかもしれない。
いまで、中国(中国共産党)がいう、中国は、きわめて広義なものでありすぎ、狭義に定義すれば、それこそ、70数年の歴史しかない・・・・
あ、もう、やめときましょ。
マーラーの当時、中国は清国であったわけだが、ヨーロッパから見たら、同じエキゾシズムの対象として、シナ、そして日本や東南アジアの風物は、きわめて神秘的で、遠くて魅力的な存在であったに違いない。
そんな遠くにあった東洋を、マーラーは、もしかしたら東洋的な観念として美しく、とらえすぎていたのかもしれない。
ヨーロッパの列強は、当時は、アジア・アフリカ・中近東・中南米を、植民地としてしか見ていなかったゆえに、そこにあった文化には、異次元の発見の喜びを見出していたのだろう。
表層的であるかもしれないが、逆に、ヨーロッパ文化から還元された、それらの異次元文化こそ、われわれアジア人には魅力的に映るのかもしれない。
「大地の歌」に描かれる、まるで絵に描いたような唐式の風物や心象風景のあれこれが。
第1楽章 「現世の寂寥を詠える酒宴の歌」
第2楽章 「秋の消え逝く者」
第3楽章 「青春について」
第4楽章 「美について」
第5楽章 「春の日を酔いて暮らす」
第6楽章 「告別」
各章のタイトルをこうして並べて読んでみるだけで、マーラーのその音楽を感じとることができる。
もう十年以上も前、サントリーのCMで、動画要素を加えた唐画にあわせて、「青春について」のテノール歌唱が流れた。
これはとてもよかった。たしか、歌手はアライサで、ジュリーニ盤じゃなかったろうか。
中国式の庭園と東屋、白い陶磁器、池に映る半月の真っ赤な太鼓橋・・・・
こんなビジュアルを、その詩にぴたりと符合したマーラーの音楽で想う。
そして、青春や春を謳歌しつつ、痛切な想いも抱き、酒を浴びて忘却しようとする。
努力や苦労は私にとっていかばかりであろうや?
それゆえ私は酒を飲む 酔いつぶれて飲めなくなるまで
終日酒に溺れようぞ。」
そんな自己耽溺の日々にも、別れのときがやってきて、凍えるような寒さと、猛烈なる寂寥感につまされるようになる・・・・・
「友、馬より降り立ちて、別れ盃を差し出す。
友は尋ね聞く・・・『どこへ行くのか』と、そしてまた『何故に行く』と
友は答えたが、その声愁いにさえぎられ、そしてつつまれし
『君よ、わが友よ、この世の幸せはわたしには与えられなかった
ひとりいずこに行きしに
さまよい入るは山中のみ』・・・
わたしはさがず やすらぎを、私の孤独な心のため」
こんな切なく悲しい別離。
でも辛い告別のあとには春の僥倖が待っている。。。。
いたるところ花は咲き、緑はふたたび栄えるであろう。
いたるところ永遠に、遠きはてまで輝くであろう、永遠に・・・・・・
Ewig Ewig・・・・」
彼岸の淵にありながらも、来るべく春・幸せを思う。
音楽は、涙にくれつつも、告別3大交響曲ならではの、透明感と青白い抒情を感じさせ、静かに消えゆくように終わる。
文字通りの春。
まぶしい。
マーラー 交響曲「大地の歌」
Ms:デイム・ジャネット・ベイカー
T :ヴァルデマール・クメント
ラファエル・クーベリック指揮 バイエルン放送交響楽団
(1970.2.27 @ミュンヘン ヘラクレスザール)
DGへの正規全曲録音には含まれなかったクーベリックの「大地の歌」。
このライブ録音が、数年前にバイエルン放送局からの音源として登場したときには驚いたものだ。
先月取り上げた、「パルジファル」や「マイスタージンガー」も同様だったが、バイエルン放送は、ほんとに質の高い、そしてその音源の解放ぶりも、実に良心的。
管内にあるバイロイトの貴重な音源も、まだ数々所蔵しているはずだ。
そして、ここでの録音のクオリティも実に高く、へたなデジタル録音より、ずっと音楽的で、耳に柔らかく、心地が良い。
その質の高さは、クーベリックとオーケストラにも、歌手たちにもいえていて、わたくしは、ひさしぶりに、何回も何回も聴きつくしてしまった。
テンポといい、強弱のダイナミクスといい、それから、震えるように素敵な旋律たちの歌いまわしといい、そのすべてが最高で、すべてがマーラーの「大地の歌」にぴたりと符合して感じる。
J・ベイカーの奥ゆかしい謡いぶりがまたいい。
琥珀色のメゾ。
ハイティンク盤での歌唱より、こちらのほうが落ち着きがあってよろしい。
あと、懐かしいクメントのテノール。
カラヤンの第九とベームのマイスタージンガーに加えて、この名テノールの歌声がまたライブラリーに増えた。
「大地の歌」のあとは、9番を印さざるをえなかった純交響曲にて、告別を実感しようではないか。
| 固定リンク
コメント