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2017年8月

2017年8月30日 (水)

ブリテン 戦争レクイエム ハイティンク指揮

Ninomiya_galas_1

この画像を、ここに載せるのは、もう何度になるでしょうか。

ガラスのうさぎ。

夏には、多くの千羽鶴が寄せられるようになり、平和祈願の発祥地のようにもなってます。
私の育った神奈川の小さな町。
終戦直前、近くの平塚市には、軍需工場があり、すさまじい空襲を受けたが、この町には何もない。
にもかかわらず、駅に停車していた貨物車を狙い機銃掃射。
疎開していた親子に着弾し、お父さんが亡くなった。
 いまは、建て替えられたけど、子供の頃の駅舎には、銃痕が残っていました。

ともかく、戦争忌避の思いは誰もあり、そして過去を反省する思いは、人類がみな共用すべきものと思います。
そのうえで、日々緊迫する世界情勢に対応するための施策を、施政者は批判を恐れずになして欲しい。

毎夏に聴く音楽。

そして、年とともに、この音楽への共感が増し、その都度の感銘を深めていく。

画像は、コンセルトヘボウらしいものとして拾いました。

Haitink

   ブリテン  戦争レクイエム

     S:フェイ・ロビンソン    
     T:アンソニー・ロルフ=ジョンソン
     Br:ベンジャミン・ラクソン

 ベルナルト・ハイティンク指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
                アムステルダム・コンセルトヘボウ合唱団
                 オランダ少年合唱団

            (1985.10.27@コンセルトヘボウ)

カセットテープに残した、NHKFMの放送音源。

山ほどある段ボールのなかのカセットテープとVHS。

この先の人生も考え、取捨選択をするように心がけ、がんがん処分、そしていかにして、自らのライブラリーに残すか。

音源については簡単だった。
ヤマハのCDライターが壊れてしまい、超シンプルな、USBカセットテープ再生マシーンを導入できて、さくさくPCへ取り込み中。

真っ先に取り込んだのが、「ハイティンクの戦争レクイエム」だ。

これがまた、実に素晴らしい演奏だったのだから!

ともかく美しい。
ハイティンクとコンセルトヘボウが、もっとも蜜月に結ばれていて、指揮者の個性も、オーケストラの音色も、そしてコンセルトヘボウというホールの響きも、完全に一体化している時期のものゆえの美しさ。

ふっくらした音を、入念に醸し出すハイティンクとコンセルトヘボウが、ブリテンの緻密に書かれた音楽の、優しさと、デリケートな繊細さを素晴らしく描きつくすのだ。
ディエス・イレでの強烈な咆哮は、録音のせいもあるが控えめ。
そう、この曲に、痛切さや、壮大さ、そして、強いメッセージ性を求める向きには、このハイティンクとコンセルトヘボウの柔らかな響きは、もの足りなく思えるかもしれない。

でも徹底した平和主義者で、弱者のことに目線を多く向けたブリテンの優しさを、この演奏には感じることができるかもしれない。
カセットテープから起こした音源だから、音に芯が少なく、もっといい録音状態であったら、いますこし印象はかわるのかもしれないが。

3人のイギリス人歌手たちは、それはもう素晴らしく、完璧。
ことに、ロルフ・ジョンソンの鬼気迫る歌と、ラクソンの美声は聴きものだった。

オランダ放送協会のデジタル録音でした、とのアナウンスまで入っている、このNHKFM音源。本家での正規音源化はならぬものだろうか。
東ベルリン時代にベルリン響に客演した、A・ギブソンの録音ももってます。
あと、サヴァリッシュとN響、シュライヤー、FD夫妻のものなんかも。

60年代は、作曲者本人の自演盤のみしかなく、それが絶対とされた「戦争レクイエム」。
いまいくつのCDが出てることだろうか。
作者の手を離れて、多くの演奏家たちによって、この作品が、どんどん名曲として確立してゆき、聴き手の心を世界中で揺さぶるようになった。

平和を唱えていても、相手があることだから、一方的に事を起こされる不条理もある。
でも、戦争はご免だ。
この曲、あの大きな国で演奏されちゃったりするんだろうか??

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2017年8月26日 (土)

ワーグナー 「ラインの黄金」 ネルソンス指揮

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盛夏の頃の、靖国のみたま祭。

光の具合が、かっこよくて、あの楽劇の神々の入場のシーンを思い浮かべることもできる。

毎日の生活、日々、脳内には音楽がそのシーンに応じて流れているんだ。

Tanglewwod
 
 ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

 ウォータン:トーマス・マイヤー         フリッカ:ステファニー・ブライズ
 ローゲ   :キム・ベグリー           ドンナー:ライアン・マッキンリー
 フロー    :デイヴィット・ブット・フィリップ  フライア:マリン・クリステンスセン
 アルベリヒ:ヨッヘン・シュメッケンベッヒャー ミーメ :デイヴィット・カンゲロッシ
 ファゾルト:モリス・ロビンソン          ファフナー:アイン・アンガ            ウォークリンデ:ジャックリーン・エコールス   ウェルグンデ:キャスリーン・マーティン
 フロースヒルデ:レネー・タトゥーム       エルダ  :パトリシア・バードン 

    アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団

                    (2017.07.27 @タングルウッド)


世界の夏の音楽祭巡り。

こんな驚愕の上演をネットで、しかも高音質にて楽しめました。

ボストン響は、ありがたくも、ネットストリーミングで、シンフォニーホールでの定期も、かなりの数をUPしてくれていて、たくさんの音源をPC録音することができてます。

音楽監督のネルソンスの、マーラー、ブルックナー、ベルリオーズ、ばらの騎士全曲、アイーダなどなど、あと、客演常連の、ハイティンク、デュトワ、ドホナーニ。

さて、「ネルソンスのラインゴールド」、オーケストラの充実ぶりが、腕っ扱きのボストン響だけに、いやでも引き立ちます!
ともかく、うまいし、音色に欧州風のコクと、響きの美しさがある。
シンフォニーオーケストラで聴くワーグナーならではの面白さは、鳴らし上手のネルソンスの指揮もあって、無類の楽しさ。
 ライトモティーフの扱い方が、リアルで、かつアメリカの聴衆にもわかりやすく、と聴かせている(と勝手に想像)ものだから、次々に舞台や、登場人物の動きが音を通じて、脳裏に浮かぶくらい。
 だからだろうか、いくぶんじっくりと指揮したものだから、演奏時間は2時間30分と長め。
職人ヤノフスキの今年のバイロイトにおけるラインの黄金は、2時間21分くらい。

ネルソンスは、ワーグナーに積極的に取り組んでいるが、バイロイトでのねずみローエングリンも、実に堂々たるワーグナーを聴かせた。
ティーレマンの重厚ヘビー級のワーグナーとも違う。
持前の音楽への集中力と、推進力は、聴き手を引っ張っていく積極性にあふれていて、一方で、じっくりと音を掘り下げるシーンもいくつも見受けられた。
 ラインの黄金の場合、ライトモティーフの扱いは、まだまだシンプルだが、それらが多層的に絡むところや、フライア=女性への憧れのモティーフでの透明感など、ネルソンスの指揮に新鮮なものを多く感じた。

ネルソンスとボストン響は、来シーズン、トリスタンの第2幕を取り上げる。
歌手は、なんとカウフマンがついにトリスタン。
ニールント、藤村美穂子、ゼッペンフェルトという豪華版だ。

主役級は定評ある歌手たちで、聴きごたえあり、なかでもマイヤーの若々しく、知能犯的なウォータンは素晴らしい。
ベグリーのローゲもベテラン。
あとの歌手たちは、よくも悪くも、アメリカンな感じで、明るくて、それはそれでよろしい。

タングルウッドの情報をネットで調べたら、ネルソンス氏、ずいぶんと肥えてしまった!
髭ヅラだし、黒服で腹出なので、怪しい雰囲気漂ってるよ。
カリスマ性が出てきたといえば、そうかもしらんが・・・。
日本公演は、チケット高いし、買っても行けない危険性あるしで、どなたか見て、聴いてきてくださいまし。

いずれにせよ、バレンボイムやティーレマンばかりでなく、新世代のワーグナー指揮者が次々にあらわれるのは、うれしい限りであります。
ペトレンコ、ジョルダン、ネルソンス、ネゼ=セガンたちのワーグナーに注目。
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まだまだ暑いけど、夏も終盤。



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2017年8月15日 (火)

ワーグナー 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 バイロイト2017

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7月25日より、今年もバイロイト音楽祭、始まっております。

グーグルで、バイエルン州のバイロイトの周辺をいろいろ俯瞰してみましたよ。

バイロイトは、地図で見ると、ニュルンベルクやバンベルクに近く(それでもそこそこ距離ありそう)、チェコとの国境も近い。

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こんな位置関係を頭に置きながらバイロイトからの演奏を聴くのもまた一興。

人口約7万人の町の北方面にあるのが、ワーグナーが辺境伯劇場に目をつけてから、自分の作品専用の劇場を築くにいたったバイロイト祝祭劇場。

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劇場の周辺の通りは、ご覧のとおり、ワーグナー作品の登場人物たちの名前で埋め尽くされてる。

トリスタン通りとか、ウォータン通りとかね!もうたまらんです。

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   ワーグナー 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

    ザックス:・ミヒャエルフォレ         
    ポーグナー:ギュンター・グロイスベック

    フォゲルゲザンク:タンセル・アクツィベク 
    ナハティガル:アルミン・コラチェク

    ベックメッサー:ヨハンニス・マルティン・クレンツィル 
    コートナー:ダニエル・シュムッツハルト
 
    ツォルン:パウル・カウフマン  
    アイスリンガー:クリストファー・カプラン

    モーザー:ステファン・ヘイバッハ   
    オルテル:ライムント・ノルテ

    シュヴァルツ:アンドレアス・ヘール    
    フォルツ:ティモ・リッホネン

    ヴァルター:クラウス・フローリアン・フォークト  
    ダーヴィット:ダニエル・ベーレ

    エヴァ:アンネ・シュヴァンネウィルムス   
     マグダレーネ:ヴィーケ・レームクル

    夜警:ゲオルク・ゼッペンフェルト

   フィリップ・ジョルダン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                     バイロイト祝祭合唱団
                                            エーベルハルトト・フリードリヒ:合唱指揮

                演出:バリー・コスキー

                  (2017.7.25 @バイロイト祝祭劇場)

2017年のバイロイトは、マイスタージンガーがプリミエ。

演出は、オーストラリア出身のバリー・コスキーで、現在、ホモキのあとを継いでベルリン・コミュッシュ・オーパーの芸術監督。
楽しそうな「魔笛」は、どんな演出をする方だろうと、コスキーの名前が発表されたときから、ダイジェストを見ていたが、ベルリンの舞台のトレイラーをいくつかをこの際いくつも確認して、ともかく普通のことはしない、情報過多の舞台に目が回る思いだった。

ともかく細かくて、舞台の人々が主人公以外にも、いろんな動きをしていて、目が離せない。ダンス的な面白い動きを、それこそ音楽に合わせて登場人物たちに取らせるところも、ユニークだ。

オーストラリア出身ではあるが、ネットで調べたら、ヨーロッパのユダヤ系の出自で、同性愛者でもあるという。

まず、バイエルン放送のネット配信を録音し、音楽だけ一度聴いた。

 パルシファルを1年だけ指揮したジョルダンの指揮、前奏曲から明るく軽めの歩調。
やや前のめりになりがちの始めのほうだったけど、だんだんと調子をあげて、豊かな音楽を紡ぎだすようになったのは、さすがジョルダン。
 しかし、なんか変。
そう、パウゼ、間がそこここにあるのである。
ティーレマンと対局にある音楽造りだが、そのティーレマンが当初多用したパウゼともまた違う。

あと、多彩な顔触れの歌手たち、聴いていて、みんなとても上手いし、完璧な歌唱。
そして、誰も、軽妙な歌い口を感じるし、重厚な歌声はどこか排除されているようにも感じた。

BR放送では、動画ストリーミング配信をしているが、日本では観る事ができない。
しかし、探しまくったら、ネット上で、なかなかの高画質で全曲を楽しむことができた。
昔では、冬まで正規音源は待たねばならなかったのに、ほんとに隔世の感ありです。

で、全幕観劇しました。

まったく予想外の舞台に驚きと笑い。

そして、音楽だけ聴いていて、ちょっと気づいた点が、舞台を観て納得。
そう、パウゼの多用は舞台の必然からだし、歌手たちの軽さは、よりいっそうデフォルメ化された動作によって理解できた。

ニュルンベルクのないマイスタージンガーは、今年生誕100年のヴィーラント・ワーグナーの斬新な演出に始まったわけだが、コスキーもニュルンベルクの伝統的な教会や丘はなし。
あったのは、なんとニュルンベルク裁判の法廷だ。
連合軍のMPまでそこには詰めている按配。

この舞台を、最初から事細かに書き始めると、まったくもってキリがないから、おもしろ部分だけチョイスして残しておきます。

画像はいずれも、BR放送局のサイトから拝借しております。
毎年、いち早く、バイロイトの様子をお伝えいただき、感謝に堪えません。

Ich borgte das Bild von der Stelle vom BR, die Station ausstrahlt.

Ich lasse dich sofort einen Staat von Bayreuth vermitteln und danke dir jedes Jahr sehr.

コジマの日記から、ヴァンフリート荘1875年8月13日の出来事が忠実に再現。
前奏曲からもうそれは始まっていて、これじゃぁ、壮麗な前奏曲の演奏なんて、できっこないわな、と思った。

Levilistziwagner  

日記記載のとおりに、ヘルマン・レヴィ、フランツ・リストが訪ねてくる。
ザックスは、最初から3幕の最後まで、ずっと登場しっぱなしで、ワーグナーそのもの。

Bayreutherfestspielediemeistersinge

さらに、ワルターもワーグナーだし、エヴァは、まるきりコジマ。
ダーヴィットもワーグナーで、ピアノのなかから、ミニワーグナーがたくさん出てきて、レヴィやリストの膝のうえに乗っちゃったりしてる。
 親方たちは、なんとピアノのなかから続々と登場。
レヴィは、ベックメッサーに変身し、リストはポーグナーに成り変わる。
音源では、チーン、チーンという音が何だろうと、気になっていたが、それは、親方たちが点呼に応じて、手持ちのティーカップをお互いに乾杯しあってのものだった。
親方たちは、まるで中世の絵画から抜け出してきたようななりをしていて、一番片隅では、ベックメッサーがユダヤ人的な雰囲気の衣装で、ミルクを飲み、種なしパンのサンドを頬張っている。

 ワーグナーやコジマの自画像で囲んだコーナーに隠れ、裁判官の持つ小槌(ガベル)を額縁に叩きつけるベックメッサー。その後ろで、ワルターは、ピアノの上に立ち、資格を問われた歌を披露するが、親方たちは、ばかみたいに首をふったりしているし、ワルターの歌に興奮と動揺を隠せない。なかには、ワルターに惚れてしまったオネエ系の親方がいて笑える。
そんななか、ザックスとポーグナーは喜びを隠せない。

1870年11月27日、月のようにしつらえられ満月のように光る時計は、9:30。
ワーグナーとコジマが芝生で、ピクニック。
そこへレヴィが出てくるが、リュートを渡され追い出される。
ワーグナーはザックスにかわり、コジマ(エヴァ)は、リスト(ポーグナー)に家に戻される。
ザックスの感動的なモノローグのあと、エヴァがワルターのことを探りにくるが、見た目、まるでコジマ。
 ワルターとエヴァとの逢瀬と、親方たちへの怒りの場面では、フォークトはバリトンの声を響かせ驚かせ、さらにいろんな楽器を吹き鳴らしながら背景に人々があらわれ、ワーグナー批判をデフォルメしてみせる。
 パウゼや歌い崩しの加減は、この場面や、続くザックスとベックメッサーの掛け合いの無類の面白さの背景にある。
演出に合わせ、音楽を一体化させている。
 舞台は喧騒に陥り、人々が出てきて、時計は逆回りに。
芝生は片づけられ、連合軍MPがワーグナー像を持ってくる。
ワーグナー批判のベックメッサーは、ダーヴィットを中心にして痛めつけられ、リュートも壊され、ワーグナーの肖像ではがいじめにされる。

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そして、ハンスリックか?いや、ワーグナーか、のデフォルメされたかぶり物を被せられ、ユーモラスなダンスを。でかい、同じ顔の風船がふくらみ、そしてまた徐々にしぼんで行くが、ベックメッサーの頭のてっぺんと、風船のてっぺんには、ユダヤ民族の象徴たる、ダビデの星の印が見てとれる。
のちのパルシファル初演者レヴィもワーグナーが作り出したこと、ユダヤとワーグナーの切ってもきれないことを例えたのだろうか。れそともワーグナーが、ベックメッサーに例えた批判の最先鋒ハンスリックの萎む姿だったのだろうか・・・・・

前奏曲が始まる前、舞台にはテロップで、1945年1月4日、ロイヤルエアフォースとか、メッサーシュミットとか、ドイツ青年とか、暗号「奇妙な音楽」(たぶんドイツ軍の機銃掃射?)とか、単語しか抽出できない自分には、こんなものしか判明しないドイツ語の文章が流れた。。。。。ちゃんとした識者の解説を待ちたい。

幕が開くと、舞台は裁判所のようである。

3幕の深々とした前奏曲の間中、ザックスは、ずっともの想いに沈んでいて、その前にはワイングラスに赤ワインに、籠のなかには食事が。
モノローグのあと、ダーヴィットが出て、戸書きでは、聖書を思いきり閉じてびっくりするのであるが、ザックスは、テーブルのものを思い切り弾き飛ばすというちゃぶ台返しをする。

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ちなみに「聖ヨハネの日」は、6月24日。
ニュルンベルク裁判は、1945.11.20~1946.10.1

ワルターが起きてきて、ザックスと曲作りでは、まっとうな運びだけれど、やはり大きな休止がからむし、ふたりは顔近すぎだし、表情がとても豊かで、ワルターの曲がどんどん進化してゆく様子が映像ではよくわかる仕組みだ。
ザックスは、ものすごい勢いで詞を書きとめるんだ。
 次は、ベックメッサーのお忍び。舞台の奥には、米英仏ソの連合国の旗。
怪我を負ったベックメッサーは音楽に合わせ踊るが、証言台で、ミニユダヤ人たちに取り囲まれ、まるでダメじゃないかと、非難される様子。
 あとはザックスとの滑稽なやりとり。このふたりは、名優だ。

エヴァ登場し、ザックスへの感謝も件の証言台で。
トリスタンからメルケへと、音楽も、心情の演出描写もなかなか。
麗しい五重唱も、5人の配置がよろしく、フレンドリーな雰囲気もいい。

場面転換の場では紗幕が降りて、またメッセージ。
今度は、ザックスの劇中の台詞で、ベックメッサーが失敗した歌の責任を訴えられ、自らの証言者を紹介するところ。

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さぁ、祭りの場面だが、裁判所で行われ、空は見えない。MP立ってる。
群衆が思いきりストップモーションをかける。時計は思い切り逆流。ジャンプ激しい。
もうむちゃくちゃ。
ダーヴィットのワーグナーが、コジマの肖像の前で踊り、ミニワーグナーが出てきて、コジマに敬意を表する・・・子供たちか。(ジークフリートとふたりの孫かな)
音源のときは、意味不明だったぶつ切れの拍手は、親方たちの入城ごとに起きるものだった。だが可愛そうなことに、ベックメッサーのときは拍手なし。。。

まるきりワーグナーのザックス登場で、逆流時計は11:40で止まり、ザックス=ワーグナーは称賛を受けまくる。
 ガラスに映る無機質な蛍光灯、黒電話、マイク・・・みんな裁判所の再現

小槌の一打で、一同飛びはね、ベックメッサーは、連合国風の女性の奏でるハープにのって、証言台で荒唐無稽に歌う。
親方たちは、ヘッドホンで不怪訝そうに怪しみながら聴く。
やがて、ぐちゃぐちゃになってしまい、みんななにもかも、ザックスのせいとしたあげく、つまみだされてドアをビシャっと閉められちゃった。

証言台で責められるザックスにかわり、証言台の下から上がってきたのは、これまた完璧なワーグナと化したワルター。喜ぶ親方たちと、ことにオネエ親方。
ワルターの歌唱は、親方、群衆を異様なまでに魅惑しつくし、大いなる称賛を得る。
 連合国の旗は折れるようにして消え、ザックスの差配はこれでよかったですか?となる。

ワルターが親方を否定したあとは、全員があっという間に舞台から消え、時計も暗くなり、ザックスひとりが証言台に立ちつくす。
「親方たちをさげすんではならぬ・・・」感動のザックスの最後の証言は、最初はやたらと説明的に、どうしようもなかったんです的な必死の訴えかけに見えるし、ともかくフォレの歌と共に、やたらと説明的。

Diemeistersingervonnuernbergbayre_3  

そして、舞台奥から、オーケストラと合唱がせり出てくる。
よくみると、エヴァ=コジマも片隅に座っている。
ザックス=ワーグナーは、観客に思いきり背を向け、渾身の指揮で、オケと合唱を導き
、最後は大きく手を広げて幕となる。

                   

メモを取りながら見ていたけれど、途中から力が入って、すいません長文となってしまった。
不愉快に思われましたら、読まないでくださいまし。

しかし、どうでしょう、コスキーの「ワーグナーだらけのマイスタージンガー」。
反ユダヤのワーグナーが、その音楽で人々を魅了し、戦時にはプロパガンダにも利用され、ワーグナー一族もその波をうまく乗りこなした。

ユダヤ系たるコスキーの見た、「ワーグナーの夢と、自己弁護」って感じかな。

識者の見解を読んでみたいものです。

このコスキー演出に、歌手も指揮者も完全によりそい、音だけでは誤解を生みかねない、CDになりにくい上演となった。

指揮者ジョルダンに、一部ブーが飛んだのもそんなことだろう。
コスキーにも盛大なブーが飛んでいたが、歌手で唯一ブーされた、シュヴァンネウィリムズはちょっと気の毒だった。
彼女の声はエヴァ向きじゃないし、コジマの見た目もトウがたっていて、あんまり若々しい歌を聴かせることができなかったのでは、と。

技巧を駆使し、自在な歌い回しを見せたフォレのザックスは、それこそ音源だけでは、歌い崩し的に聴こえてしまうかも。
しかし映像で見て、その細やかな表情をともなった演技に付随した歌と見ると、それは称賛に値するし、昨今の映像化を想定した演出優位の舞台では、こういった巧みな歌唱が主流となっているのだろう。
 そういう意味で、完璧で火の打ちようのなかったフォークトのワルター。
あと、びっくりするほど歌も演技も面白かったクレンツィルのベックメッサーが最高!
カーテンコールでは、ザックスに次ぐ2番手でした。

あ~、面白かった。
賛否両論のコスキー・マイスタージンガー、年を追って定着することでしょう。
あと、ジョルダンの指揮も、もっとよくなると。

今年のバイロイトは、あと、「リング」「トリスタン」「パルシファル」でした。
いずれもこれからゆっくり楽しみます。

そして、来年、2018年は、「ローエングリン」が新演出。
ロサンゼルスオペラのユーヴァル・シャローンの演出、ティーレマンの指揮に、なんと、アラーニャのタイトルロールに、ハルテロスのエルザ、マイアーのオルトルート。
「マイスタージンガー」「トリスタン」「オランダ人(再演)」、そしてなんと、「ワルキューレ」のみの上演で、指揮は、ドミンゴ!

まだまだ、世界は、バイロイト、そしてワーグナーに呪縛されっぱなしだ。
あっ、なんたって、自分も!

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2017年8月 6日 (日)

R・シュトラウス 「ばらの騎士」 二期会公演2017

Img_0938

観たいなぁ~、と思っていたら、大の音楽仲間から、行きませんか?とのお誘いをいただき、お譲りいただいた「バラキシ」。

ワーグナーとシュトラウスが国内で上演されるときは、何があっても観劇してた自分ですが、仕事の不芳や、チケットを不意にしてしまうことの恐怖から、ここしばらく、舞台から遠ざかっていました。

行っちゃう。そう、これを第一に行動すればいいんだ。
巧みに、仕事も先回りして、手を打って・・・・、あっ、かつてはそうしてたんだな。。。

いやはや、ともかく、久しぶりのオペラ観劇、ほんとにありがとうございました。
感謝感激でありました。
Rosenkavalier

R・シュトラウス  楽劇「ばらの騎士」

   元帥夫人:林 正子       オックス男爵:妻屋 秀和
   オクタヴィアン:小林 由佳   ゾフィー:幸田 浩子
   ファニナル:加賀 清孝     マリアンネ:栄 千賀 
   ヴァルツァッキ:大野 光彦 
  アンニーナ:石井 藍
   警部:斉木 健詞         執事:吉田 連
   公証人:畠山 茂         料理屋の主人:竹内 公一
   テノール歌手:菅野 敦     孤児:大網 かおり
   孤児:松本 真代         孤児:和田 朝妃
   帽子屋:藤井 玲南        動物売り:芹沢 佳通
   ほか
   モハメッド:ランディ・ジャクソン レオポルド:光山 恭平

 セヴァスティアン・ヴァイグレ指揮 読売日本交響楽団
                        二期会合唱団

   演出:リチャード・ジョーンズ

                     (2017.7.26 @東京文化会館)


オペラ観劇歴、通算7度目となる、この日の「ばらの騎士」。

何度も観てしまうのは、なによりも、その音楽がとてつもなく素晴らしいことで、劇作家ホフマンスタールとともに成しえたこのオペラは、ワーグナーの意匠を継いだ、シュトラウス独自の音楽と劇との高度な融合たる「楽劇」という名にふさわしいものと思う。
 ちなみに、シュトラウスは、この作品を最後に、楽劇の呼称を取りやめてしまう。

さてさて、今宵の舞台は。

ロンドン出身のR・ジョーンズの演出は、グラインドボーンですでに上演されたものをそのまま導入したもので、ご自身や、スタッフも来日して、本家の舞台そのままに再現したもの。

 ジョーンズの舞台は、かつて新国立劇場で、ショスタコーヴィチの「ムツェンスクのマクベス夫人」を体験済で、舞台の中に、さらに額縁的な空間を築き、その中で行われる劇に、より客観性と既視感を持たせるという、観る者にとって、とても心理的な作用をあたえるもののように思われたものだ。

 今回の「ばらの騎士」も同様に、文化会館の舞台のなかに、もうひとつ額縁が据えられ、われわれ観客をそれを、どこかの物語のように、客観的に観るとともに、まばゆさとポップな色彩につつまれた舞台空間に幻惑されるという、さらなる第三者的な立場を体感することとなった。
これぞ、われわれの「夢の世界」の構築ではないだろうか。

 本来の舞台設定は、マリア・テレジア傘下のモーツァルト時代で、ここでは、ワルツなんてなかったから、このオペラでは、ホフマンスタールとシュトラウスの巧みな創作。
しかし、ジョーンズが置いた舞台は、シュトラウスたちが、まさに作曲したその時代。
1910年ごろ、ときは、世紀末で、シュトラウスは大半の交響詩を作曲し、オペラは、サロメとエレクトラで、当時の前衛的な存在だったけれど、「ばらの騎士」で、見事な古典帰りをみせた。。。、そんな時代背景は、マーラーがその最後の時を刻んでいたし、シェーンベルクは十二音音楽をすでに完成させていた。
 そんなモダンと、追憶の乱れる世紀末に、ジョーンズは着目したのではないかと思った。

観劇してて、賛否はともかく、普通と違う、おやっとした場面を列挙(備忘録です)。
長々とすいません。

高揚感とむせ返るような前奏は、幕を閉じたまま演奏され、オクタヴィアンの第一声の直前に幕が開く。
そこには、肉襦袢らしきものをまとったマルシャリンが、シャワーを浴び、入浴中。
オクタヴィアンは、まだまだ元気で、あがった婦人に抱き着きまとわりつき、ふたりはイチャイチャ。
 オックス男爵の突然の来訪には、モハメット君が、ちょろちょろしながら、婦人の使用したスポンジをクンクンしてるし、付け毛なんかも、懐にいれようとしながらも、執事に静止されちゃう。憧れ強すぎのモハメット。
 オックス男爵は、お付きのレオポルドを息子のようにしていた。
その男爵、客席から見てたら、寺門ジモンそっくり。
あと、アンニーナは、メイクのせいもあるけど、渡辺直美だった。
 元帥夫人が、鏡に映る自分の姿に哀しみを感じ、皆を遠ざける場面では、ひとり、フロイトが立会い、彼女のモノローグを聞く。
オクタヴィアンが再び現れるとともに、フロイト氏はいなくなるが、アンニュイに浸る元帥婦人は、ソファのうえで、哀しみと現実とを歌いながら丸くなる・・・可愛いのだ。

幕が開くと、そこはファーニナル家なんだけど、一面に壁がしつらえてあり、ドアがひとつの閉鎖的な部屋空間の場面。オクタヴィアン到着のワクワク感は弱めで、眼鏡っ子のゾフィーが、スタイリスト風の連中にお仕着せ人形のように、ハレの日のドレスに着替えさせられている。
マリアンネは、ドアを開け閉めしながら、期待あふれる外の様子を伝える。
さて、いよいよ騎士登場の段になって、壁が上がり、黄金色の壁に、FANINALと光文字で書かれた奥壁と玄関風の階段と大広間が目の前に広がり、閉塞感は吹き飛び、ここで颯爽と登場するオクタヴィアンに、会場のみんなが釘付けとなり、シュトラウスの美音に酔いしれるわけだ。
 ばらの献呈の場面では、見つめあう二人が、前後に揺れ、彼らの心の揺れも表現される素敵なシーンだったが、聴衆からは、ユーモアと見たのか、笑いが起こったのは、どんなもんだろうか・・・・
 さて続いて、婿殿の登場では、従者レオポルドがかなりのわがもの顔風に目立つ。
婿は、ゾフィーを商品のように扱い、テーブルの上に載せて、司法書士やら法律家連中も、そこに加わる。
イライラを募らせるオクタヴィアン。
ふたりの束の間の逢瀬は、また前壁で仕切られ、私の大好きな美しい二重唱が行われる。先の広い空間よりは、今度はとても好ましい密室が出来上がった。
ふたりのイタリア人に見つかり、通報され、また大騒ぎとなり、オックスの棒寂無人ぶりはピークとなり、オクタヴィアンが、剣も持たずに、決闘を申し入れたあげく、使用したものは・・・、なんと、銀の薔薇で、オックスのお尻をプスリと!
そのあとは、あまりイジリようのないオーソドックスな展開。
おしりの痛いオックスは、極上の酒とオクタヴィアンに寝返ったアンニーナがもたらした偽の手紙に、すっかりご機嫌になり、例のワルツを。
田舎から引き連れてきた部下たちは、1幕で、物売りから巻き上げた、ちょっとエッチな写真集をビロビロと広げ、オックスはさらにご満悦。

前奏曲では、幕を開けずに、しばらくオケピットの演奏に集中。
オックスをおちょくる居酒屋は、ド派手な色使いに、幾何学模様の壁紙の三角空間的な部屋。いたずらのリハーサルでは、壁にあるスイッチを押すと、ソファーがでっかいベットにするすると変身する仕掛けに失笑(笑)。
 オックスとレオポルドの登場、それからオーストリアの民族衣装風のオクタヴィアン。
レオポルド君は、仕掛人側が放った女性の色仕掛けにひっかかり退場し、以降、オックスにとっては役に立たない。
ステテコに鬘も取って禿げ頭となったオックスと、酒をグビグビ飲んじゃうオクタヴィアンの楽しい掛け合い。泣き上戸となったオクタヴィアンは、果物ナイフで、はたまた、天井から降りてきたロープで自殺を図ろうとして、オックスのオロオロぶりも半端ない。
 その後、ぞろぞろ出てくる、お化けや、オックスの妻と称するアンニーナや子供たち、オクタヴィアンもそろって、男爵を責めるところでは、全員がキョンシー風の動きになっておもろい。
 そんなこんなで、警察がやってきて、裁判風になり、そして、取り調べはまるで刑事ドラマのよう。
 最後に、ドタバタ劇の締めくくりに登場するマルシャリンは、ゴールド系のモードファッション。彼女に諭し、諭されたオックスが大騒ぎでもって退出したあとは、このオペラのもっとも美しいシーン。
 揺れ動くマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの3人に、ドアの隙間から憧れをもってもって覗うモハメットに注目。
クライマックスの3重唱、真ん中に金色のマルシャリン、右手に水色のオクタヴィアン、左手にパープルのゾフィー、背景はブルーの部屋。
マルシャリンが引き立つ、鮮やかすぎる色彩で、聴く3人の美唱に酔いしれる。
 幕引きのシュトラウスとホフマンスタールの機智あふれる場面では、モハメット君が、ちょろちょろと侵入し、探し出したのは、ソファーに忘れられたマルシャリンのショール。
思い切りそこに顔をうずめて、嬉しそうに退出して、楽しくエンディング。

                   
舞台に、映像に、ばらの騎士はいくつも観たけれど、どの演出もそれぞれに楽しかった。
オットー・シェンクの時代背景にも、ト書きにも忠実な伝統的な演出を、おそらく基軸にして、出来上がってきた様々な演出。

そんななかで、今回のR・ジョーンズ演出は、原色的な色彩と、額縁的な空間とで、かなりユニークな存在に思えた。
そんな中で行われる、微細なまでに凝った演技。
私には、それがやや過剰に思われた。次々に目移りしてしまい、音楽に身をゆだねることが出来ない。
まぁ、これが昨今のオペラ演出の風潮なのだから、あれこれ言わず、全体を楽しめばいいんだけど。

オクタヴィアンに傾きがちな視点を、マルシャリンに引き戻し、しかもモハメット君が懸想する大人の女性を描きつくした。
レオポルドが目立ったのも新しい。
そして、ゾフィーは操り人形のようだったけれど、徐々に自分の意志で動く機微がよく見えるように。あげればキリがない・・・

 さて、そんな舞台で、演技も、そして歌唱も完璧だった日本人歌手たち。
安定感と余裕すら感じる妻屋さんのオックス。
3人の女声の美しすぎる調和も、大いなる聴きもの。
アリアドネの作曲家以来、ファンになった、凛とした小林さんのオクタヴィアン。
幸田さんの美声は相変わらずだけど、声に力が少し増して、より多くホールに響かせることが出来るようになった感あり。
 あと、なんといっても素敵だった、大人の女性としての元帥婦人を歌った林さん。
1幕のモノローグで、手鏡を見てから変化する彼女の想い。
フロイト博士の臨席のもと歌われるその場面における林さんの歌と演技には、ほんとホロリときました・・・・。
誰しも、男も女も、そんな想いや歌に、自分を重ね合わせることができる、この作品の一番素晴らしい場面であることも実感できた。

 二期会のおなじみの歌手のみなさんも、出色、とくに二人のイタリア人たちはよかった。

 オペラの手練れ、ヴァイグレの指揮は、もう少しシュトラウスの音楽の色香が欲しいところではあったが、力強い読響から、まとまりのよい、柔らかな響きを引き出すことに成功していたのでは。
初日だったから、後になるほどよくなっていったことでしょう。

久しぶりのオペラ。
盛大なカーテンコールまで、楽しく観劇することができました。

舞台の模様はこちら、Classic news

SPISにてご覧ください。

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