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2017年9月 9日 (土)

ディーリアス 「ブリッグの定期市」イギリス狂詩曲 私のディーリアスの原点へ

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毎度で恐縮、かつ、おなじみの吾妻山からのお盆の頃の眺望。

夏の終わりに、今年の夏を回顧すれば、前半は猛暑。
本来の、日本のふるさとの夏を謳歌したかったお盆の夏は、まったくの不発で、曇り空と小雨の日々。

海と空の境界も、曇り空で曖昧。

その後も、猛暑が数日襲いましたが、9月に入っても、関東は涼しく、おとなしい残暑となっております。

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  ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

   サー・トーマス・ビーチャム指揮 ロイヤル・フィルハーモニック

                    (1956.10.31)


わがノスタルジーを再び語ります。。。

ディーリアス好きの、原書ともよぶべき、ビーチャムのステレオ初期の1枚。

これは、ディーリアンたちの踏み絵とも呼ぶべき1枚で、もしかして、バルビローリから入った人でも、このビーチャムのディーリアスは、必ず聴いていることと思う。
ネットで見つけたこの素敵なジャケットをお借りしました。

弊ブログを始めた、ごく初期の2005年12月に、「望郷のディーリアス」として記事にしております。
もうあれから、12年も経っていることも驚きだけれども、その記事の内容にも、進歩も進化もなく、でも読めば、その想いは変わらいことに、なんだかうれしくも、確信とともに自身の音楽への歩みと嗜好にブレがないこと、なかったことが確認できて、妙に爽快な想いになったりしてます。

 少し、その昔の記事をなぞるようではありますが、わたくしのディーリアスとの出会いを、改めましてここに残して置こうと。

それは、わたくしが中学1年生のときであったでしょうか。
1971年、すでに、クラシックに目覚め、カラヤンのマジックにかかり、数少ないレコードは、カラヤンやアルゲリッチ&アバドの協奏曲などで、FMからの放送をむさぼるように聴き、いろんな音楽や演奏を吸収していった時代。

レコード欲しい、欲しい、を連発してた子供の夢を叶えようとしていた父母に、今思えば、どれだけ感謝をすればいいのでしょうか・・・・。
ホテル関係の仕事をしていた父が、あるとき、30枚ぐらいのレコードを抱えて帰ってきた。

狂気乱舞のわたくしでしたが、その1枚1枚を検分すると、海外のレコードばかりで、しかも、ジャズやポップスが主体で、クラシックは、ほんの数枚。
でも、なんでも吸収したい貪欲な中坊のワタクシは、なんでもかんでも聴きました。
 その音盤は、赤いものや、青いものもあり、テスト盤の無印みたいなものも。
きっと、ホテルの館内用のものや、もしかしたら、米軍放送局の払い下げみたいなものなども含まれていたのでしょうか。

クラシック系では、フルトヴェングラー、クリスティアン・フェラス、ミルシュティン、ストコフスキー&フランス放送管、カーメン・ドラゴン、などに混じって、白紙のジャケット&白紙のレーベルに、「ビーチャム、デリアスを振る」と書いてあった1枚が。

これが、わたくしと、ディーリアスとの出会い。

いまから、46年前のこと。

ともかくわからない。

ビーチャムってだれ?

デリアスって誰って・・・・

それでも、貴重なレコードですから、日々、何度も聴きました。
そうするうちに、当時、ベートーヴェンやドヴォルザーク、チャイコフスキーの名曲ばかりだった自分の耳に、旋律はあるものの、全体がぼやっとして、はっきりしないその音楽たちが、自らその音楽を語りだすように感じた日がいつしかやってきました。

 そう、多感な中学生ですから、学校のこと、クラスメートのこと、女の子のこと、そして、妙に厭世的になったり、人生とはなんぞや的な、ひよっこ的な想いに浸ったりしていたわけであります。
 そんなときに、なんとはなしに、「ビーチャム、デリアスを振る」のレコードをかけていました。
そして、自室から見ると、目の前は小高い山があり、富士山のてっぺんが晴れた日には、そのうえに見えたりしてました。
そこから見る、壮麗な夕暮れは、自分のなかでの原風景でもあり、そして、さまざまな想いとともに、このディーリアスの音楽がしっかりと結びつくようになり、完全に受け入れることとなったのです。

レコ芸の付録のレコードデータ集のような冊子から、ビーチャムとデリアス(=ディーりアス)をひも解き、その作曲家や曲名がわかったのは、それからほどない中3ぐらいのとき。

以来、私のディーリアス探訪が始まりました。

その完成形は、社会人になってから、EMIから発売された、「ディーリアス・アンソロジー」で、ターナーの絵画をあしらった数十枚のレコードの、ほぼすべてを入手し、そこにあった、私にとって、英国音楽の師とも呼ぶべき、三浦淳史さんの名解説とともに、ディーリアスをむさぼるように聴いたものでした。
1981年ごろのことにございます。

CD時代になってから、EMIからの諸作の復刻、シャンドス、ハイペリオン、ユニコーンなどの英国系レーベルがふんだん
ディーリアスの音楽を、まさに、幅広く聞くことができるようになりました。

 ディーリアス  「ブリッグの定期市」~イギリス狂詩曲

オーストラリア生まれのグレインジャーは、英国邦各地の民謡を採取し、すてきな音楽に編纂したが、そのなかのひとつ、リンカンシャー州で得たものが、「ブリッグの定期市」。
1905年のこと。
テノール独唱とアカペラの合唱のハミングによる美しすぎる佳作。

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   8月5日のことだった。
   すがすがしく晴れたその日
   ブリッグの定期市に僕はでかけた
   愛しい人にあうために

   朝、雲雀の声と共に
   心はずませ僕は目覚めた
   愛しい人に会えるのだ
   ずっと会いたかったあのひとに・・・・


              (宮沢淳一 訳)

 こんな風に、愛する人に会える喜びを歌いつつも、後半では、そんな想いや、人間そのものも、不滅ではないという、もの悲しい展開になる。

グレインジャーと親交を得て、その許諾のもと、これを原曲にして、書かれたのが、ディーリアスのイギリス狂詩曲。
そのスコアには、先の詩の冒頭の二節が書かれている。

朝靄を感じるような曖昧だけれど、夏の一日の始まりを思わせる清々しい冒頭部。
ここを聴いただけで、わたくしは、遠くに置いてきた自分の若き日々や、故郷の山や海、そして、懐かしい白レーベル・白ジャケットのレコードまで、一瞬にして脳裏に浮かんでくる。
 わたくしにとって、ノスタルジーのかたまりのような、イギリス狂詩曲。

そして出てくる「ブリッグの定期市」の主題。
1度しか行ったことがないイギリスの田舎道を、車で自ら走ったことがある。
どこまでも続く緑と、丸っこい丘、そして可愛い家の集まる集落に水辺。
そんな光景を見た。
それがそのまま音楽になったような気がする。

ビーチャムの凛々しいディーリアスの演奏には、この作曲家を愛しぬいた優しさと使命感のような厳しさもある。
固めのロイヤルフィルの響きと録音も、妙に自分の刷り込みにもなっている。

ディーリアスの音楽との出会いを作ってくれたあのレコード。
あのレコードを運んできたくれた父も、とうの昔に世を去ってしまった。
文字や画像、匂いや味などで、むかしを偲ぶことはできるけれど、音楽は、その時の自分はおろか、感情にまでも遡って体感させてくれるように思います。

Azuma

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コメント

爽やかでどこか懐かしさを覚える味わいがありますよね、ディーリアス
たまに聴きたくなります

投稿: 通りすがり | 2017年9月13日 (水) 12時02分

コメントありがとうございます。
そうですね、ひとりで、静かに、そっと聴く音楽、そんなディーリアスがずっと好きです。

投稿: yokochan | 2017年9月16日 (土) 10時16分

『ブリッグの定期市』、この曲バルビローリの最後のセッションになった‥と何かで読んだ覚えが、ございます。1976年頃の『レコード芸術』誌の巻末の新譜(再発含む)一覧表のコメントでしたでしょうか。来日直前の急逝まで現役でおいででしたから、引退宣言し万感の思いで振って収録して訳では全く無い筈でありますが、結果的にそうなった事に、この曲とこの指揮者の芸風に思いを馳せますと、何やら暗示的な思いもございます。

投稿: 覆面吾郎 | 2020年10月12日 (月) 15時42分

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