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2017年10月

2017年10月29日 (日)

ドヴォルザーク レクイエム ケルテス指揮

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カメラの絞り機能が不全で、かえってこんなに幻想的な写真が撮れました。

あざみの花もぼけてしまい、影に覆われ、ぼんやりとした夕焼けとちぎれた雲が寂しい。

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     ドヴォルザーク   レクイエム op.89

 S:ピラール・ローレンガー        A:エルジェーベト・コムロッシ
 T:ロバート・イロースファルヴァイ   B:トム・クラウセ

   イシュトヴァン・ケルテス指揮 ロンドン交響楽団
                      アンブロジアン・シンガーズ
                      合唱指揮:ジョン・マッカーシー

              (1968.12 @ロンドン、キングスウェイホール) 


自分の持つCDは、ダブルデッカのもので、こちらの画像とは違いますが、子供時代に見た、このジャケットが、やたらと思い出にあるので、デッカの初出時のものを拝借しました。
ロンドンレコードから出た邦盤は、大きな白枠ベースの中に、この絵画。
 1971年ごろに出た「ケルテスのドヴォルザークのレクイエム」は、レコ芸のオレンジ色のロンドンレコードの広告で、大きな紙面を割いてのものでした。

この絵画は、ブリューゲルの「十字架を担うキリスト」で、手前に磔刑に向かうイエスを嘆き、悲しむマリア一行がまず目に入る構図。
十字架を負うイエスは、連行する軍と日常の生活を送る人々の中に埋もれるようにして見える。右奥のサークルは、処刑場だ。
人々は、ブリューゲルの生きた16世紀の頃の存在になっている。
背景や、カラス、全愛の構図等、とても恐ろしく、そして悲しみに満ちた絵画に思います。

ドヴォルザークのレクイエムは、死の恐ろしさや、悲しみもあるけれど、もっとそれ以上に優しく、神への帰依と信頼にあふれた孤高の作品でありました。。。


音楽聴き始めの少年にとって、ドヴォルザークは新世界だし、ケルテスも新世界、レクイエムは、モーツァルトとヴェルデイしか、存在すら知らない。
なのに、ドヴォルザークのレクイエムって、しかも2LPでやたらと長そう・・・・

そんな思いをずっと引きずって、同じドヴォルザークの「スターバトマーテル」はやたらと聴くけれど、レクイエムは、常に遠い存在だった。
 遅ればせながら、この夏に、「ドヴォルザークのレクイエム」は、わたくしの心にピタリと符合するようにして、近しい存在としてやってきてくれました。

今年から事務所詰めが多くなったので、音楽を垂れ流し。
ドヴォルザークの全作品を、手持ち音源と、ネットで聞き流してやろうと思いつき、2か月かけてやってみましたよ。
イマイチ初期交響曲や、どれもこれもおんなじに聴こえちゃう室内楽も、あらためて体系的に、そして作曲順に聴いてみれば、それぞれが、ドヴォルザーク特有のメロディとリズムにあふれていることが日に日にわかるように。
 今回、とくによかったのが、弦楽四重奏や五重奏系、それと抒情的なピアノ曲たち。
それと味わい深いオラトリオ、ミサ、テ・デウム、聖書の歌などの声楽作品に、むにゃむにゃ系のチェコ語は難解ながら、メロデイふんだんなオペラ(さすがに音源なしもあります)。

そんななかでの「レクイエム」は手持ち音源のケルテス盤と、エアチェック音源の、ルイゾッテイ盤(ベルリンフィル)、youtubeにあった、パリの教会での演奏会を繰り返し視聴。

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1884年に、ロンドンのフィルハーモック協会の招聘で、ロンドンに赴き、「スターバト・マーテル」を演奏して、大絶賛され、ここからイギリスとの蜜月が始まるドヴォルザーク。
交響曲第7番や、8番もこうして生まれた。
 同時に、数々の名誉にも授かった充実のこの時期。
オーストリア=ハンガリー帝国皇帝から鉄王冠章、チェコ芸術アカデミー会員への推挙、プラハ音楽大学教授、カレル大学名誉博士・・・
 こんな時期に、バーミンガム合唱音楽祭からの委嘱で、1890年、10か月をかけて作曲されたのが「レクイエム」。

7年前に書かれたヴェルデイのレクイエムのことは、きっと頭にあったドヴォルザーク。
編成や、音楽の規模は、ほぼ同じ。
 特定の人物(マンゾーニ)の追悼の意図をもってかかれたヴェルディのそれは、死者のためのミサ曲であるレクイエムのとして、劇的かつ歌謡性にも富んだ壮大な作品。
ドヴォルザークの方は、特定の追悼の対象はなく、熱心なカトリック信者だった作曲者の内面の吐露であるとともに、シンフォニストとして、巧みな筆致を駆使した総決算的な作品なのだ。

通常のラテン語典礼文を使いながら、切り分けや、区切りを自由に行っていて、四角四面のレクイエムでもない。
ディエスイレはありますが、ヴェルディのような咆哮はなく、短めで簡潔。
むしろ、のちのフォーレ的なスタンスも後半には感じる。

曲は、大きく分けて二部。
1部は、入祭唱たるRequiem Aeternamから始まり、昇階唱、ディエスイレ、トゥーバ・ミルム、レコルダーレ、呪われしものConfutatis、そしてラクリモーサで締める。
 第2部は、奉献唱Offertorium、Hostias、サンクトゥス、Pie Jesu、アニュス・デイ。
ここでは、1部のラクリモーサのなかの、Pie Jesuが再現されるところが、この作品のキモかもしれない。
 冒頭にあらわれる旋律が、モットーとなって、全曲の重要な局面で使われていることで、大曲を引き締め、統一感を持たせることにもなっている。

1部は、峻厳できびしい雰囲気が漂い、神への痛切な祈りと死への涙にあふれているが、2部では、優しいドヴォルザークの目線を感じる、慰めと静かな祈りの世界。

合唱は、しばし、アカペラで歌い、ソロ歌手たちの扱いも、絶叫シーンはなく、静かな語り口のものが多い。
オーケストラも中間トーンで渋いが、よく聴きこむと、ソロや合唱を引き立てるとともに、単なる合いの手ばかりでなく、いろんなフレーズが、いろんな楽器の巧みな使い方で飛び出してきて、オケだけに注目して聴いてみても、大いに楽しめた。
とりわけ、2部が素晴らしいと思ってます。
Pie Jesuから、Agnus Deiの終曲ふたつは、絶品で、しんしんと深まる夜、静かに聴くに相応しく、心、休まります。
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録音時38歳だったケルテスの熱い指揮ぶりと、緻密な全体を見通す指揮ぶりとが、こうした大曲では、見事に発揮される。
有能な指揮者のもとに、オーケストラも歌い手たちも、完全一体化している。
ソロでは、ローレンガーの清らかな声が素敵だ。

この録音の5年後には、43歳で、テルアヴィブの海で亡くなってしまうケルテスだが、イスラエルフィルの客演に、ケルンから同行していたのが、バスの岡村喬生さん。
一緒に海に行ったのが、その岡村さんと、ルチア・ポップとイルゼ・グラマツキとのこと、岡村さんの著書に、その顛末が詳しく、ネットでも読めます。
読んでて、涙がでました。
そのときのイスラエルフィルでの演奏、ハイドンのネルソンミサも音源化されてます。

ケルテス、いい指揮者だった。
存命してれば、とも思いつつ、ドヴォルザークのレクイエムを聴きました。

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2017年10月25日 (水)

ブルックナー 交響曲第9番 バレンボイム指揮

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竹芝桟橋からの月島方面の眺望。

日の出の時間帯です。

東京の都心はビルだらけで、空が狭い。

けれども、海方面に行けば、こんなに素晴らしい空も眺めることができる。

東京は、日本各地の美しさにも劣らず、このように美しい街です。

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  ブルックナー  交響曲第9番 ニ短調

    ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

         (1975.5 オーケストラ・ホール シカゴ)


かつては想像もつかないくらいに、ブルックナーとマーラー、それに続いてショスタコーヴィチの交響曲全集が録音されるようになった。
いったいいくつあるんだろう、的なレベルだ。

レコード時代だと何十枚もの組み物になって、何万円もしたものが、いまや数枚、数千円のCD時代の恩恵もあるが、なんといっても、これらのシンフォニーたちが、ベートーヴェンやブラームス並の人気曲になった証であろう。

そんなわけで、自分もそこそこ全集そろえてしまいます。

3回もブルックナーの全集を録音している指揮者は、これまで、バレンボイムをおいて、ほかにいない。
入手して数ヶ月、ようやく聴こうと思ってるベルリン・シュターツカペレとの全集のまえに、最初のシカゴ響とのものをあらためて全部そろえてみて聴いてみた。
ゼロ番から順番に。

何度も聴いてきたもの、今回、初聴きのものも含めて、このシカゴとの全集は、室内オーケストラから、フル・オーケストラを指揮するようになって、まだ間もなかった30代のバレンボイムが、アメリカの超ド級のオーケストラを前にして、少しも臆することなく、堂々と渡り合う姿が、ときに頼もしく、ときに青臭くも感じる、そんな演奏となっている。

ショルティのもと、黄金時代を築いていたシカゴ響は、DGとは、メディナテンプルを録音会場としたデッカより先に、本拠地のオーケストラ・ホールでの録音をバレンボイムとのブルックナーシリーズで開始した。
DG初レコーディングは、72年の「4番」ではなかったのではないかと記憶します。
その次が、75年の「9番」。
このあと、シカゴ響は、アバドやジュリーニとも、76年からマーラーを中心に、怒涛の名録音を残していくことになります。
ちなみに、ジュリーニのこれまた名盤、シカゴとのブルックナー9番は、76年12月の録音であります。

 さて、通して聴いた、バレンボイム&シカゴのブルックナー。
特に、気に入った演奏は、レコード時代から聴きなじんだ4番、それと剛毅な5番、美しい6番、最近食傷気味だったのに、とても新鮮だった7番、若気の至り的に思ったけど、大胆な8番、そして堂々たる9番でありました。

そんななかから「9番」を記事にしてみました。

演奏時間61分、前のめりになることなく、いや、むしろ老成感すら漂わせる風格。
ときおり、若い頃のバレンボイムの力こぶの入った指揮ぶりを思い起こさせるところもある。(初めてバレンボイムの指揮をテレビで見たのが73年の、N響への客演で、実際に拳を握りしめて突き出すような指揮ぶりだった)
 しかし、そんな力の入れ具合が、完璧なアンサンブルと、絶叫感のないシカゴ響が見事に吸収して、堂々たる風格へと全体の雰囲気を作り上げているように思える。
テンポのとり方、間合いも泰然としたものに感じる。

孤高な感じと、スタイリッシュなカッコよさすら感じる1楽章には痺れました。
スケルツォ楽章では、シカゴのパワー全開な一方、デモーニッシュな吃驚感も導き出し、恐ろしい30代と思わせる。
諦念と、抒情、崇高さの相まみえる難しいアダージョ楽章も、若さの片鱗すら感じさせない熟した響きだ。
しかし、全編、ともかくシカゴはうまい。
特にブラスの輝きとパワー。

このレコードが出たとき、レコ芸の批評で、大木正興さんが、「端倪すべからざる演奏」としていたことが、今もって記憶される。
この言葉自体が、その後もバレンボイムの推し量ることのできない才能をあらわすものとして、自分の中には刻まれることとなったが、演奏のムラも一方で多い、この複雑な才人に対する言葉としても、言い得ているようにも思う。

このブル9あたり以降、バレンボイムはトリスタンを手始めに、ワーグナーに傾倒していくことになりますが、そんな気配もこの演奏には感じ取れることができます。
いいときのバレンボイムは、ほんとうに凄い。
2007年のベルリンとの来演のトリスタンがそうです。

さて、シュターツカペレ・ベルリンとの全集の前に、ベルリンフィルとの全集を手当てしようかな・・・悩み中

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2017年10月15日 (日)

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 クルレンツィス指揮

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ある朝の芝増上寺と東京タワーと月。

この日の頃は、10月とは思えないくらいの陽気で、暑いくらいだった。

でも、その後、沖縄をのぞいて、日本は秋から初冬の気温に。
しかも、秋雨前線も発生しちゃった。

すっきりした、高い空の秋晴れが恋しい。

で、爽快・痛快なる話題の指揮者によるモーツァルトをば!

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   モーツァルト 歌劇「ドン・ジョヴァンニ」

      ドン・ジョヴァンニ  :ディミトリス・ティリアコス 
      ドンナ・アンナ    :ミルト・パパタナシュ
      ドン・オッターヴィオ :ケネス・ ターヴァー   
      ドンナ・エルヴィラ  :カリーナ・コーヴァン
      レポレロ                :ヴィート・プリアンテ         
      ツェルリーナ         :クリスティーナ・ガンシュ
      マゼット                 :グィード・ロコンソロ          
      騎士長             :ミカ・カレス


  テオドール・クルレンツィス指揮 ムジカエテルナ

            (2015.11.23~12.7 ペルミ国立歌劇場)


ギリシアのアテネ生まれの45歳、サンクトペテルブルク学んだことから、ロシアを拠点に活動。
シベリアのノヴォシビルスクの劇場のポストからスタートし、そこで、手兵ムジカエテルナを創設、その手兵とともに、ペルミの歌劇場へ移動し、いまは、そのオケが劇場のレジデントオーケストラとなっている。

ここ10年ぐらいで、ロシアの地方都市でそのキャリアを急速に積み上げ、気鋭のオペラ指揮者として、脚光を浴びているのが、クレンツィス。
今夏は、ザルツブルクにも登場して、ティトを指揮している。

Currentzis

豊富な動画を通じて、この指揮者のやんちゃぶりは、かねてより見聞きしていたが、ダ・ポンテ三部作のうち、最新の「ドン・ジョヴァンニ」を半年ほど前に入手し、その豪華な装丁を眺めるだけで、どうにも聴く気がおきなった。
特段に理由はありません。

10月に入ってようやく聴きはじめたら、そう、もう面白くてしょうがない。
まとめて聴く時間がなかなかないので、毎日、少しづつ聴いて、さらに通しで2度。

古楽から現代まで、なんでもこなす指揮者にオーケストラ。
そのオールマイティなフレキシビリティと、その音楽の雄弁さを裏付けるのが、彼らの「自由さ」であろう。
数々の動画でも感じるが、ともかく彼らは、自由に音楽する楽しさを謳歌しているんだ。

この3時間あまりのドン・ジョヴァンニでも、最初から最後まで、音楽は生き生きと息づいて、弾んで、爆発して、泣いて、怒って、悲しんで、と人間の機微を余すことなく表出しまくる。
初めて目にする名前の歌手たちも、全般に軽量級ながら、きわめて雄弁で、それぞれが表情に富んだ歌唱と、情の機微を歌いだす。

ふんだんに配置された有名なアリアたちも、目からウロコが落ちるくらいの新鮮さに満ちていて、オケも歌手に一体化して、まるで歌手のようにふるまっているのが面白い。

レシタティーボも、うかうかしていられない。
チェンバロでなく、フォルテピアノの丸っこい響きだが、快活そのもので、これまた雄弁なものだから、歌手も普通に流さずに、真剣に歌う場面となってるし、その時の歌手の心情に寄り添うような感情表現もみせたりする。
さらに、ビオラ・ダガンバなどの古楽器も添えて嘆息するような雰囲気もふんだん味わえるのが新鮮。
それらが饒舌に感じさせないのは、音楽に生命が宿っているからに他ならない。

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                  (ペルミ劇場での録音風景)

プロモーションビデオを見たが、クレンツィスは、モーツァルトがいまの時代に降臨したら、どのように感じ、表現するだろうか・・・などと話している。
なるほど、当時の楽器を使い、その頃の響きを再現するのでなく、同じ楽器や奏法、歌唱でも、いまにあるわれわれ現代人のモーツァルトなわけだ!
 そして、「ドン・ジョヴァンニ」は、デンジャラスでダークかつミステリアスなドラマだとも。

従来の考えや因習にとらわれない、こうした発想に基づく音楽創造は、欧州や米国、日本の音楽都市からは生まれにくいし、育ちにくい。
シベリアの地や、ウラルの地で、自由に活動するクレンツィスを地元の人々は熱烈に歓迎しているようだ。
思えば、かつてのゲルギエフもマリンスキーと、ラトルがバーミンガムと、ヤンソンスがオスロと、ロトが手兵のレ・シエクルと、成し遂げたような、ローカルな非メジャーが、音楽を面白くしてくれるのだ。
思えば、ペトレンコもシベリア方面の出自だ。

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工業と芸術の街、ペルミの位置図。

こうしてみると、モスクワやサンクトペテルブルクは、より欧州寄り。
ペルミのある広域でのウラル地域は、中東や西アジアにも近い。
それにしても、ロシアは広大で、右側にさらにさらに広がって、日本のお隣まで。

ペルミの劇場のHPや、そちらの映像を見ていたら、楽員や合唱団の顔ぶれが多彩であることに気が付く。

ペルミの劇場のHP ⇒ http://permopera.ru/en/

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グーグルマップ先生から使わせていただく劇場の冬景色。
大河が流れ、水運の交通の要衝でもある工業都市ペルミを、マップで俯瞰して見るのも楽しく、とても美しい街と実感できましたよ。

今頃、クルレンツィスの指揮で、トラヴィアータと、21日には、コンサートで、プロコフィエフの古典交響曲と、ショスタコーヴィチの9番。
遠く離れた日本で、ロシアの地で起きている音楽発信を見守るのもいいものだ。

そして、ドン・ジョヴァンニの後半をもう一度聴き、地獄落ちの場面のスリリングな演奏と歌唱に息をのむ。
その後の一同集合の大団円が、付け足しのように思えるのも、この演奏の凄さなのかもしれない。
こんな鮮烈なドン・ジョヴァンニのあと、伝統的なベームのプラハ盤をちょこっと聴いてみたけれど、これはこれでキリリとしていて、モーツァルトの音楽のすばらしさを楽しめるものと感じた。
昔からすると、これほどまでに、音楽表現の多様性を、こうしてふんだんに受け入れることができる現代が、隔世感とともに、ほんとに恵まれていると痛感する。
  

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2017年10月 9日 (月)

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲 ブレンデルの古い盤

Shibaura

日の出直前の竹芝桟橋から。

日の出スポットは、もうちょっと左側だけど、倉庫やマンションが立ち並び、見えません。

あの豊洲も見えましたよ。

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     ベートーヴェン  ピアノ協奏曲全曲

     Pf:アルフレート・ブレンデル

    ヴィルフレット・ベッチャー指揮
        シュトゥットガルト・フィルハーモニー(1番)

    ハインツ・ワルベルク指揮
        ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団(2番)
        ウィーン交響楽団(3、4番)

    ズビン・メータ指揮 ウィーン交響楽団(5番)

             (1961、66、67年 ウィーン)


私の、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の初聴きは、この1枚。
1970年のベートーヴェン生誕200年の年に出た、ダイアモンド1000のベートーヴェン・シリーズ。
当時はまだ、そんなに有名じゃなかったブレンデルの協奏曲が4枚の廉価盤で登場した。
小学生のこづかいからの千円は、とても痛かったので、ラジオで聴いて、印象的だった1番のみを購入し、すでにスター指揮者だったメータが、なんと廉価盤になっていた5番は、どうしても買えなかった(というか、皇帝をまともに聴いたことがなかった)

ともかく1番の初々しさと、豊富なメロディが好きだった。
ブレンデルの若やいだピアノも、いまもって色あせてなくて、もう48年も前の記憶のまま。
 ずっと後年、この全集を揃えたのは、社会人になってから、VOXからCD化されたもので。

目玉だったメータ指揮する5番に、ちょっとがっかり。
いまも変わらないブレンデルの豊かなピアノに、メータ指揮するオーケストラは、せかせかとハイスピードと、音圧の強さでもってがんがん進める。
まさに若気の至り、かと思いきや、2楽章はとても神妙で美しく、そして3楽章は、威勢よく終了、と。

それにしても、この一番古い、いまから半世紀も前の録音に聴くブレンデルのピアノの妙技はいかがなものだろう。
誠実に、一音一音を弾き進めながら、そこに柔和さと、デリケートさ、そして、歯切れのよさも十分。
音が、丸っこく感じるのは、録音のせいもあるが、やわらかい。

オーケストラでは、ワルベルクの指揮するものが、際立った特徴はないが、やはり安定感と、安心感がある。
ウィーン響とあるが、かつてのレコード時代は、ウィーン・プロムジカ管弦楽団とか表記されていたもんだ。

たまに聴くと、懐かしい響きに包まれていて、ホッとする、一番古いブレンデルのベートーヴェンでした。


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  ベートーヴェン  ピアノ協奏曲全曲

      Pf:アルフレート・ブレンデル

  ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団

                (1975、76、77 ロンドン)


前回は30代半ば、そして10年後、押しも押されぬ中堅ピアニストとなったブレンデル、2度目のベートーヴェンは、専属となったフィリップスレーベルから、ハイティンクとの共演で。
数あるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集で、全体として一番好きなのはこれ。
ソリストと指揮者、それぞれの思いや音楽が完全に一致していて、スタイルが統一されていて、とても凛々しい。

若やいだ1番と2番から、中期の深淵さと、壮麗さのスタイルへと移ってゆく、3、4、5番と聴き進めてゆくと、この演奏の必然性がとてもよくわかる。
それぞれの番号ごとに、とてもいい演奏なのだけれど、全体としてとらえると、こうしたベートーヴェンの音楽の神髄を導き出してやまない感じがする。

とりわけ、素敵なのが、いずれの曲も、その緩徐楽章。

ギャラントだけど、美しい旋律に満ち溢れた1番と2番のそれ。
よりロマンティックに傾いた3番は、オーケストラもほんと美しい。
で、バックハウスが「神への祈り」と呼んだ4番のそれは、神妙なる調和の世界で、深みも。
華麗な楽章に挟まれた「皇帝」の2楽章もまた、神妙なる静的な世界。

ブレンデルの柔らかいピアノの音色で聴く、これらは、ほんとに素晴らしくって、秋の夜長にぴったりです。
2番なんて、もう、泣きたくなるようなピアノに、音楽であります。

もちろん、アレグロやフォルテの楽章もとても魅力的だし、いい音楽に、万全の演奏ですよ。
でも、年を経ると、こんなベートーヴェンの聴き方も、いいなぁと心から思います。

しかし、ブレンデルのピアノって、音が豊かです。
中庸の美でありながら、じっくりと聴くと、音が弾み、輝き、優しく語りかけてくる。
でもそれ以上に主張してこないから、安心して聴いていられる。

それとまったく同じことがハイティンクとロンドンフィルの、いぶし銀でありつつ、ちょっとくすんだ渋さのオーケストラと、ふくよかで、恰幅もほどよいハイティンクの作り出すサウンドがとても素晴らしい。
 ハイティンクとロンドン・フィルは、この時期にロンドンで、これら協奏曲も含めた交響曲チクルスをやっていて、そちらもコンセルトヘボウとはまた、一味違った名演になっていることはもう、みなさま、ご存じのとおりです。
 そして、「皇帝」におけるスケールの大きさは、若きメータのものと比べると、まるで大人と子供くらいに感じます。

そして、アナログ最盛期のフィリップスの深みのある名録音も、わたくしには最良のものでありました。

秋の夜、暮れ行く空を眺めながら、二日間にわたり、ブレンデルのベートーヴェンを堪能しました。

ちなみに、ブレンデルのあとふたつ(レヴァインとラトル)は、聴いたことがありません。
あと、ハイティンクの指揮では、アラウ、アシュケナージ(映像)、ペライア、シフがありますが、いずれも未聴・・・・。
ともかく、この歳になっても、あれこれ気になるもの、欲しいものが尽きませぬ・・・・
聴く時間は有限なのに。。。。

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