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2017年11月

2017年11月27日 (月)

フィリップ・ジョルダン指揮 ウィーン交響楽団演奏会 2017.11.26

Minatomirai

日曜の夜のみなとみらいは、風が強かったがゆえに、空気も澄んで見通しがよかったです。

そして、みなとみらいホールで、見通しもよく、すっきり・くっきりの快演を堪能したました。

Wiener_symphoniker

   ベートーヴェン  交響曲第5番

   マーラー      交響曲第1番

   J・シュトラウス  「トリッチ・トラッチ・ポルカ」

              ポルカ「雷鳴と電光」

     フィリップ・ジョルダン 指揮 ウィーン交響楽団

                (1976.11.26 @みなとみらいホール)


75年のジュリーニ、2006年のルイージに次ぐ、3度目のウィーン交響楽団の演奏会。

ウィーンのセカンドオーケストラみたいに思われてるけど、ウィーンフィルは、ウィーン国立歌劇場のコンサート用のオーケストラで、いまでこそメンバーはほぼ一定のようだが、かつては、連日続くオペラの影響も受けてメンバーも変わったりということもあり、ウィーンの正統シンフォニーオケはウィーン響で、オペラ主体で、伝統ある定期演奏会もやるのがウィーンフィルという感じだったのが70年代頃まででしょうか。

ワルターやカラヤン、ベームも始終指揮をしていたけれど、ウィーン響は、長く続く首席指揮者が意外といなかった。
長かったのは、カラヤンとサヴァリッシュで、その後はジュリーニ、ラインスドルフ、シュタインも一時、ロジェストヴェンスキー、プレートル、エッシェンバッハ、デ・ブルゴス、フェドセーエフ、ルイージと、目まぐるしく指揮者が変わっているし、独墺系の人が少ないのも特徴。

でも、そんなウィーン響が好きで、レコード時代のサヴァリッシュの印象がずっとあるから。

前置き長いですね。

だから、今後の指揮界をしょって立つひとりの、P・ジョルダンには、長くその任について欲しいと思うし、おそらく初来日のジョルダンをともかく聴きたかった。
 スイスのドイツ語圏、チューリヒの出身であり、根っからのオペラ指揮者だった、アルミン・ジョルダンを父に持つフィリップが、オペラの道から叩き上げて、いまやパリ・オペラ座に、やがてウィーン国立歌劇場の指揮者にもなり、さらにバイロイトでもおそらく中心的な指揮者になりつつあることは、サラブレットの血筋とともに、スイス人的なオールマイティぶりにもあるものと思われる。

パリ・オペラ管とのベートーヴェン全集は、映像ですでに残されていて、いくつか視聴したが、今回のウィーン響との演奏は、現在チクルスで取り組み中であり、オーケストラの違いもあって、よりジョルダンらしさが徹底されていた。
 日本来日、初音出しが、第5なのも劇的。
対抗配置で、ベーレンライター版。
心地よいほどの快速なテンポでぐいぐい進むが、せかされたり、味気なかったりという想いはまったくない。
繰り返しは省略され、1楽章と2楽章、2楽章と3楽章は、指揮棒を止めず、ほぼ連続して演奏された。
全体が一気に演奏されたわけだが、緻密なスコアがあのモティーフで全体がつながり、そして暗から明という流れも明確になり、曲の密度もぐっと増した感がある。
 大振りの若々しい指揮ながら、オーケストラを完全に掌握していて、巧みに抑制をかけたりして考え抜かれた演奏でもあった。
全曲、おそらく30分ぐらい。
息つく間もなく歓喜のエンディングで、いきなり、ブラボーも飛び交いました。

ジョルダン&ウィーン響は、ベートーヴェン全集を収録中で、ウィーン響のサイトから拝借してここに張り付けておきます。第5も少し聴けます。
 
休憩後は、マーラーの1番。
2006年のルイージとの来日でも、この曲聴きました。

当時の配置の記憶はもうないが、今回のジョルダンのマーラーは、ベートーヴェンに引き続き対抗配置。
そして、改訂版では、3楽章のコントラバスはパートのユニゾンとされ、ルイージもそのとおりに演奏し、初改訂版だったので驚いたが、今回のジョルダン指揮では、慣れ親しんだソロパートによる演奏。
このソロがまた、艶やかで美しかった!
 そして、ルイージが避けた、終楽章のホルンパートのスタンドアップ。
ジョルダンは伝統に準じ、晴れやかにホルン全員立ち上がりました。

こんなことでわかる演奏の特徴。
アバドも一部そうだけど、装飾を排し、音楽の本質にピュアに迫るルイージの姿勢。
マーラー演奏において流れてきた伝統や、オーケストラのこれまでの伝統のなかで、過度なアーティキュレーションを抑えつつ、マーラーの持つ音楽の豊かさ、歌心において、新鮮な解釈を聴かせてくれたのがジョルダンだと思う。
伝統と、父親の姿をも意識するジョルダンと、新しい音楽の風潮が、フィリップのなかで、見事に昇華されて、彼の音楽観が生まれているんだろう。
 そんななかで、普段見過ごしがちな第2楽章が極めて面白かった。
ジョルダンの刻む、弾むリズムに、オーケストラが生き生きと反応し、新鮮なレントラーだった。そこにはウィーンの響きも。
 そして当然に、一気に、でも冷静さももって突き進んだフィナーレ。
自然な盛り上げでもって、高らかなファンファーレでもって爆発的なエンディング。
 そう、ものすごいブラボーでした。。。
ひっこんだと思うと、あっというまに出てくる精力的なジョルダン。
オケ全員を、一斉に振り向かせてホール後ろの客席にもご挨拶。

そして、アンコールは、爆発的な2曲。
みなとみらいホールは、最高に熱くなりました!

2020年、ウィーン国立歌劇場の指揮者になると、当然にウィーンフィルとの関係も深くなるので、ニュー・イヤーコンサートにも登場することでしょう。
明るい雰囲気と、優れた音楽性とその背景にある音楽への愛情と確信。

P・ジョルダンとウィーン交響楽団に注目!

コンサートのあとは、野毛で一杯。

神奈川フィルもお休み続きで心苦しい。
なんときゃ行かなくちゃ。
そして、ベイファンのお店でした。

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ジョルダン過去記事


 「ニーベルングの指環 オーケストラハイライト パリ」

 「バイロイト音楽祭 ニュルンベルクのマイスタージンガー」

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2017年11月25日 (土)

レオンカヴァッロ ピアノ曲集 ミュラー

Tokyo_t_1

もう一月まえだけど、ハロウィンの晩のダイアモンドヴェール東京タワー。

あの仮装姿とことに澁谷の喧騒はどうかと思うが、日本のハロウィンは、世界にも稀なお祭りとなったことは事実で、これはこれで平和でよいことであります。

しかし、世界は不穏です。

それはともかくとして、明るく伸びやかな音楽を。

Leoncallo_piano

    レオンカヴァッロ  ピアノ作品集

    Romanesca      

  ②
Serenade-Valse for Piano Deux Pieces de style Arabe

  ③Sous les palmiers  Bohemienne

  ⑤Tarantella       Gondola

  ⑦Pantins vivants    Barcarola veneziana

    ⑨Minuetto                 Valse mignonne

    ⑪Cortege de Pulcinella Au bord du Lac

    ⑬Papillon                   Invocation a la Muse

    ⑮Valse a la lune

             ピアノ: ダリオ・ミュラー


ルッジェーロ・レオンカヴァッロ(1857~1919)のピアノ曲を。

いうまでもなく、「パリアッチ」=「道化師」の作曲家のレンカヴァッロですが、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とともに、そしてセットで、「カヴァ・パリ」とひとくくりにされて、ヴェリスモオペラの代表作とされるが、彼らふたり、ことにレオンカヴァッロの方は、それ以外の作品がまったくといっていいほどに日陰者扱い。

わたくしは、ヴェルディ以降の、プッチーニ世代のイタリアの作曲家たちを、こといふれ聴くようにしていて、レオンカヴァッロについては、もうひとつの「ラ・ボーエム」や、美しい「五月の夜」を取り上げたりもしたほか、いくつかのオペラを聴いていて、いつか記事にしたいと思ったりもしてます。

そんななか、ここ半年ほど、ながら聴きなどもしながら馴染んできたのが、ピアノ曲の数々です。

レンカヴァッロは、なかなか多才な人で、作曲家であると同時に、脚本家でもあり、自身でも優れたピアニストでもあった。
若い頃のパリでの生活では、歌唱のレッスンとともに、カフェでのピアノ弾きを楽しんでいたようで、この頃(1882~89)の体験も、そのオペラやこちらのピアノ作品などに生かされているわけであります。

このCDに収められた15曲に、ひとつひとつ印象を語るのはやめときますが、全曲、ともかく歌心にあふれ、簡易な優しいメロディーなので、1度聞いたらすぐに覚えちゃう、いや、どこかで聴いたことがあるような曲だと思えちゃうし、センチメンタルな切ない曲なんかもあって、お酒なんかを嗜みながらぼんやり聴くのもいいのだ。

 そんななかでも、特徴を、CDの解説などをふまえて述べれば、先に触れたパリ時代、その頃の19世紀末のサロンミュージック的なバラエティ豊かなおしゃれなテイスト。
そこにイタリアのオペラの伝統や、ローカルな民族音楽、コメディア・デラルテ由来のもの、などなどがふんだんに盛り込まれています。

あと、自身の作品からの転用もあって、「五月の夜」の3楽章から⑬とか、6楽章から⑭といった具合。
しかし、パリアッチからは、さすがにないのは、それ以前に大方が作曲されているからか・・・。

スイスのルガーノ出身のピアニスト、ミュラーは、明快なタッチで、とても心地よく、これらの素敵な作品たちを聴けせてくれます。


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ドミンゴの「五月の夜」の余白に、ラン・ランがピアノ作品を2曲録音してますが、そちらはずっと雄弁で、実にうまいもんだと思わせますが、わたくしは、ミュラーの小粋な感じの演奏の方が好きだな。

レオンカヴァッロも、マスカーニも多面的に聴いてみて、その作曲家の神髄を味わってみたいものです。

過去記事


 「五月の夜 ヴァグリエリ指揮」

 「ラ・ボエーム  ワルベルク指揮」

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2017年11月19日 (日)

シェーンベルク 「グレの歌」 ラトル指揮 LSO

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レインボーブリッジからの日の入りは、ビルばかりで、しかも富士山の姿もごくわずか。

日没ではなくて、日の出の眩しさ、輝かしさに最後は満たされる音楽を。

Proms2017

        シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:サイモン・オニール  トーヴェ:エヴァ-マリア・ウェストブロック
  山鳩:カレン・カーギル                      クラウス:ピーター・ホーレ
    農夫:クリストファー・パーヴェス     語りて :トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ロンドン交響楽団/合唱団
                      バーミンガム市交響合唱団
                      オルフェオ・カターラ

                       (2017.8.19 ロンドン、Proms2017)


ネットで全演目が期間限定で聴けるProms。
この夏も、充実の演目がたっぷりで、仕事をしながら録音し、あとで聴き返すということを何演目も行いました。

そんななかで、大いに感銘を受けたのが「ラトルのグレの歌」。
音楽監督となったロンドン交響楽団との共演も注目の演目。
そして、なんたって大好きな作品。

グレの歌を知り尽くしたラトルが、この大編成のオケにソロに合唱を完璧に束ね、そして、ラトルの棒のもとに、全員が一丸となっているのをこのライブ録音から感じ取ることができる。
音色は全般にラトル独特の硬質でありながら、ロンドン響の鋼のような鉄壁のアンサンブルを得て、ピアニシモの美しさから、巨大なフォルテまで、幾重にもわたる音の層を美しさを聴くことが出来る。
そう、そんなところまで詳細に聴き取ることができるくらいに、この放送音源は録音が優秀なのであります。ネットだからといって、まったくバカにできません。

Proms_rattle

私にとっての、この曲のリトマス紙的なヵ所、第1部の終わりの方の間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」は、ほぼ完璧で、アバドの最後のルツェルンのものには及ばないが、適度な荒れ具合も万全で、そして極めて美しく、官能的かつ、儚さに満ちている。カーギルのメゾも良い。
歌手では、クヴァストフの登場で後半がさらに引き締まったし、オニールの若干、力任せながらタフなヴァルデマールもテノール好きを唸らせるものだ。

1900~01年に大方完成、同時期には、「浄夜」と「ペレアスとメリザンド」。
結局この時期のものが、一番聴かれているわけだが、そのあたりのことを作曲者自身の講演の話から引用します。(某応援ファンサークルのFBに書いたものを転用)

シェーンベルク著「人が孤独になるとき」1937年 より~細川晋:訳

<私が『浄夜』を作曲したのは今世紀になる前のことです。だから私は、初期の作品とされる『浄夜』で、なんらかの評判を獲得することが出来たのです。
後の時代の作品がそれほど早く評価されたことはありませんが、私が、ある種の評価を(敵の真っただ中にいるときでさえも)享受できるのはそのおかげです。
この作品は、とりわけ管弦楽版で非常によく聴かれています。
ところが、私が次のような不満を耳にする回数ほど頻繁に『浄夜』をお聴きになられている方はおりますまい。「この様式で作曲をし続ければいいのに!
 私の答は、おそらく不審に思われましょう。
私はこう申し上げました、『最初から、同じ様式や同じ方法で作曲することをやめたことなどありません。
違っている点といえば、今では以前よりももっとうまくできるということだけです。今では以前よりもよく注意が払われ、よく考え抜かれてます。』
 もちろん『浄夜』しかご存じない方が、突然、なんの予備知識もなく私の現在の様式に直面すれば、すっかり当惑されることでしょう。・・・・>

 このように、作曲者自らが、自身の作風・様式の変化を語ってますが、根本は変わらないとも。
そして、十二音技法を編み出したとき、それまでの表現主義的な音楽が成功を収めていた時期を振り返ります。

<そのころ突然、大衆は私の書いたあらゆる作品の感情表現力を忘れかけていたのです。・・・中略、そして『浄夜』でさえも忘れ去られ、私は何人かの評論家から単なる建築技師と呼ばれたのです。
この用語を用いることによって、私が直感的に作曲していないこと、私の音楽は無味乾燥で感情表現を欠いていることをほのめかせたかったのです。・・・・>

 こうして、シェーンベルクが新たな様式に踏み入れる都度、聴衆や評論家は批判や拒絶を繰り返した。
しかし、シェーンベルクは、確信をもって言います。

<私にはある使命を達成しなければならないということがわかっておりました。
表現されるべきことを表現しなくてはなりませんでしたし、自分の好むと好まざるとに関わらず、音楽の発展のために自分の理念を開発する義務があると感じていたのです。
にもかかわらず、私はまた大衆の絶対多数はそうしたことを好まないということを理解しなければならなかったのです。
 しかし、私は自分のどの音楽も初めは醜いとみなされてきたことを思い起こしました。
そしてなおも・・・・私の『グレの歌』の最後の合唱で描かれているような夜明けがやってくるはずでした。私がこの世界にもたらしたいと願うような、音楽における期待に満ちた新しい一日の始まりを告げる太陽の光が訪れることもあるに違いないと私には思われたのです。」

音楽の発展に寄与したい、新たな夜明けを切り開きたい、それを願い作曲を続けたシェーンベルクには、過去も未来も逆になく、今ある自分がつくる音楽が現在なのでした。

グレの歌の最後の壮大なエンディングのまばゆさは、シェーンベルクのずっと変わらぬ音楽への想い。
ラトルとLSOのこのライブは、それこそ壮絶な音のシャワーに、聴く私も目も耳も大きく開き、眩しさに身を震わす想いがしたものです。

このライブ、正規音源にならないものか。

そして、ラトルのベルリンフィル盤を聴き直してみる。

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シェーンベルク   「グレの歌」 

  ヴァルデマール:トマス・モーザー  トーヴェ:アンネ・ゾフィー・フォン・オッター
  山鳩: カリタ・マッティラ            クラウス:フィリップ・ラングリッジ
  農夫、語り手:トマス・クヴァストス 

    サー・サイモン・ラトル指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      ベルリン放送合唱団
                      MDRライプチヒ放送合唱団
                      エルンスト・ゼンフ合唱団

                       (2001 ベルリン)


16年の開きのある「ラトルのグレの歌」。
こちらは美しい精緻な響きが際立っているほか、やはりベルリンフィルの音色がする。
そしてべらぼうに巧い。
歌手も、こちらの方がオペラに近い雰囲気で、聴きごたえはある。
ことに悲劇的な色合いのモーザーは、トリスタン的だし、マッテラの清楚な歌声と、クールなオッターの山鳩も素敵なものだ。
 でも全体に、LSOのものを聴いちゃうと、踏込みが甘いような気がする。
それは、よく言われるように、録音がイマイチなことで、声はまだしもオーケストラが遠くで鳴っているように感じる。
これはもったいない話だ。
 ラトルとベルリンフィルのグレの歌は、2013年の、フィルハーモニーザール50周年のものがあって、ベルリンフィルの映像アーカイブにはなっているが、そちらの音源化もお願いしたいものだ。

しかし、この曲、ほんと好きなもんだ。
ブーレーズ盤とアバド盤が一番好き。
CDは7種と、音源4種をときおり、とっかえひっかえ聴いてる。

  仰げ 太陽を 天涯に美しき色ありて、東に朝訪れたり。

  夜の暗き流れを出でて 陽は微笑みつつ昇る

  彼の明るき額より 光の髪は輝けり!

未来を見据える、シェーンベルクの素晴らしい音楽であります。

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過去記事 

「ブーレーズとBBC交響楽団のCD」

「俊友会演奏会」

 「アバドとウィーンフィル」

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2017年11月11日 (土)

シベリウス 「クレルヴォ」交響曲 東京都交響楽団演奏会

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上野公園のイルミネーション。

コンサート後の、火照った心をクールに沈めてくれる。

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  東京都交響楽団第842回定期演奏会
  フィンランド独立100年記念

   シベリウス 「クレルヴォ交響曲」

          交響詩「フィンランディア」

     Ms:ニーナ・ケイテル

     Br:トゥオマス・プリシオ

  ハンヌ・リントゥ指揮 東京都交響楽団
               フィンランド・ポリテク男声合唱団
               合唱指揮:サーラ・アイッタクンプ

            (2017.11.8 東京文化会館)


シベリウス(1865~1957)の大作、クルルヴォ交響曲は、75分から80分もかかるうえ、フィンランド語による独唱と男声合唱を要することもあり、なかなか演奏機会に恵まれない。

フィンランド国、独立100年の記念行事の一環でもある、大いに意義に満ちたコンサートだったのであります。

簡単に、遠くても、親しみのある親日国フィンランドの歴史をざっくり紐解いてみる。
古代や先史時代はともかくとして、12世紀ごろにフィン人の国が形造られ、同時に隣国の強国スウェーデンとの葛藤も長く続き、やがて18世紀頃からは、ロシアの影響下におかれ、宗主国的な存在となる。
19世紀には、民族独立的な機運が芽生え、やがて1917年、ロシア革命に乗じて真の独立を果たす。

これが100年前。
そのあとも、ドイツ側について、ソ連との戦いになり、敗戦国ともなるが、東西からは巧みに一線を隔す存在になり、大らかな民主主義国家を貫いているが、近年は反ロシア的な動きで、NATO寄りに傾く政策を実施中・・・・とのこと。
前置き長いですが、愛国作曲家シベリウスの音楽を聴くうえで、そんなフィンランドの歴史を頭に置いておくことも肝要かと。

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「クレルヴォ交響曲」は、1891年、26歳のシベリウスがベルリンに留学中に、大叙事詩「カレワラ」のなかのクレルヴォにまつわる物語を素材に書き上げた劇的交響曲。

以前の自分のブログから、その物語の概略をここに引用します。

<戦いの英雄クレルヴォは、黄色い髪に青い眼のハンサムだった。あるとき森で出会った乙女に夢中になってしまい、思わず、こと、いたしてしまう。
ところが、自分の妹であったことがわかり、みずからの命を絶とうとする。
だが母親にいさめられ、思い直し、かつての父の敵を討つべく戦いに挑む。
はれて、戦に勝ち、クレルヴォはかつて妹と会った森の中で自決して果てる・・・。>

北欧の神話は、ともかくエグかったり、ぶっとんでたりしますが、ここでは、同じ北欧神話に素材を求めた「ニーベルングの指環」の結婚の女神フリッカ様が、プンプンとお怒りになる内容となっている。

Ⅰ「イントロダクション」、Ⅱ「クレルヴォの青春」、Ⅲ「クレルヴォと妹」、Ⅳ「クレルヴォ戦いに赴く」、Ⅴ「クレルヴォの死」の5楽章。

でも、物語の表層はそうであっても、そんなイケない色恋は、唯一第3楽章で、独唱によるクレルヴォと乙女の二重唱で表されるが、それもかなりシャープな音楽で、抗う乙女が序徐々にの夢心地に自分を語る部分だけがロマンティック。
妹と知ったクレルヴォが、痛恨の叫びをあげて悲嘆にくれる様は、ほんとに痛切。
スケルツォ的な4楽章が明るい基調なのを除けば、この作品は、全編、悲壮なムードに覆われている。
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こんなシベリウス若き日の渾身の作品を、リントゥの指揮のもと、都響は圧倒的なその力量でもって、弛緩することなく、緊張感にあふれた演奏でもって聴かせてくれた。

冒頭、沈鬱な雰囲気のなか、クレルヴォの主題ともとれる旋律があらわれ、その後の展開がかなり地味なところが、まだまだ若書きともとれ、聴き手もいきなりだれてしまうところ。
しかし、終盤、その主題が決然と出現して褐が入るわけだが、このあたりの起伏のつけ方は、指揮者の腕の見せ所で、あたたまりきらないオーケストラを奮い立たせたように思う。

緩徐楽章的な2楽章は、北欧を感じさせる、いかにもシベリウス的な音楽で、都響の弦の美しさを味わえましたし、展開部でのリズミカルな木管は、これまたシベリウスならではの様相で、曇り空にしばしの明るさが兆したように聞こえます。

曲の中心で、一番長い3楽章では、いよいよ男声合唱と独唱が入る。
フィンランド・ポリテク男声合唱団、サッと立ち上がり、歌い始めると、さらにホールの空気が北欧化。フィンランド語の語感も、意味はさっぱりながら、やっぱりネイティブは違うと思わせます。
クレルヴォと乙女との出会いを歌ったあと、メゾとバリトンの二重唱も交えて展開。
 バリトンのプリシオが、実に素晴らしくて、自分の系譜を語るところでの豊かな声の響きび魅せられたし、この楽章の最後の悲痛の歌声と厳しい感情の吐露では、こちらまで緊張してしまい苦しくなってしまった。
その後のリントゥの大きな指揮ぶりによる劇的なエンディングも痺れたし、聴き手の多くは、ここでほぼ、この演奏と音楽にのめり込むようになったと思う。
 ケイテルさんのメゾは、声質的に、もう少し軽い方がよかったし、若干届きにくいかとも思ったけれど、長いソロと、まるでR・シュトラウスを思い起こさせるような、素敵な木管の背景にも聴き入ることができましたよ。
しかし、合唱のときも、ソロのときも、オーケストラは全員、それを支えつつも、いろんな動きをしていて、大変なものだと思いつつ拝見し、さらに、そのすべてを俯瞰し、統括する指揮者って、ほんと凄いものだな、いまさらながらに思ったりもしました。。

続く戦いへの旅立ちは、これまでの緊張を、ちょっと紐解く明るさがあり、聴き手のわれわれも、牧歌風のなじみやすい旋律にちょっと一息といったところ。
長身のリントゥさんも、指揮台で弾むようにしてました。

終楽章では、ワタクシは痺れっぱなし。
死地を求めるクレルヴォの様子を歌う合唱に、オーケストラは静かに、そして徐々に力を増してゆく、クレルヴォの主題にまつわる旋律を奏でる。
この展開に、私はゾクゾクしてきて、感動に震えました。
 そしてオーケストラのユニゾンで、あの旋律が勇壮にして、忽然と奏されたとき、わたくしはもう、わなわなと震えるほどに。
あとの厳しい、壮絶なエンディングは、もう手に汗握りっぱなしで、合唱に、オーケストラに、そして渾身の指揮棒にと目が離せませんでした!

すべての音が鳴りやんだあと、拍手もおこらず、しばしの静寂。
しかし、そのあと盛大なブラボーと熱い拍手が巻き起こったのは言うまでもありません。

この曲ひとつでも十分なのに、せっかくの本場の男声合唱だから、そして、フィンランド独立を祝うにふさわしい曲、「フィンランディア」が高らかに演奏されました。
都響もタフです!
中間部のフィンランド賛歌を静かに、でも心の底から歌う合唱団のお顔は、どこか彼方を思いながら夢見るように見えて、とても素敵なものでした。

オケが去ったあと、合唱団が順番に舞台を後にしますが、われわれ聴衆は、立ち上がって、最後の一人まで拍手でお送りしました。
彼らも、われわれの思いが伝ったのでしょうか、手を振ってくれましたし、ホールを出るときに、再び出会った彼らも、本当にうれしそうにしてました。

素晴らしい演奏会でしたnote

Bunka

 過去記事

 「デイヴィス&ロンドン響のクレルヴォ」


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2017年11月 3日 (金)

ブラウンフェルス オルガン協奏曲 H・アルブレヒト指揮

Tochou

ある夜の、東京都庁。

十三夜間近の月夜でした。

ちょっときれい、だけどゴージャスにすぎる都庁。
優秀な職員によって、緻密な都政は維持されているけど、お偉いさんは迷走中・・・・
Braunfels

ブラウンフェルス  オルガンと少年合唱とオーケストラのための協奏曲

         オルガン:イヴェタ・アプカルナ

                       テルツ少年合唱団

   ハンスイェルク・アルブレヒト指揮 ミュンヘン交響楽団

            (2012.1 ヘラクレスザール、ミュンヘン)


ヴァルター・ブラウンヘルス(1882~1954)は、ドイツの作曲家だが、ユダヤ系ゆえに、ナチス政権より、その音楽が退廃音楽であるとの烙印をおされてしまい、音楽史の裏側に追いやられてしまった。

かつて、そのオペラ「鳥たち」を取り上げたおりの記事から、以下、引用します。
「有名な法律家・翻訳家を父と、リストやクララ・シューマンとも親しかったシュポーアを祖父に持つ母。ブラウンフェルスは、当然のように音楽の教育を受け順調に育っていったが、ミュンヘンの大学で法律と経済学へと方向転換してしまう。
しかし、そこでモットル指揮の「トリスタン」の上演に接し、またもや音楽へと逆戻り。
こんどは、ウィーンでピアノを学び17歳でピアニストデビューを飾る。
同時に作曲をモットルとトゥイレに学んで、作曲家としてドイツ各地で頭目をあらわしてゆくが、1933年に、自身はカトリックの信者であるという抗議にも関わらず、ヒトラーから半ユダヤということで、公職をはく奪され、その音楽も演奏禁止とされてしまう。

オペラを10作、管弦楽・室内楽・器楽・声楽と広範にその作品を残したブラウンフェルス。
「鳥たち」は、1920年にミュンヘンで初演された3番目のオペラで、その時の指揮は、ここでも(前週のコルンゴルトと同様に)ブルーノ・ワルターであった。
そのワルターも、そしてアインシュタインまでもが、この作品の素晴らしさ・美しさを讃えているのでありました(解説書より)」

このように、同時代の演奏家や評者は、ブラウンフェルスの音楽を高く評価しており、モノラル時代には、いくつかの録音も残されていたが、しばらく、その名前すら聞かれなかったものが、デジタル時代になって登場したのは、デッカの退廃音楽シリーズの恩恵でもあろう。

いまは、OEHMSレーベルが、ブラウンフェルスの作品を順次録音してくれていて、今日は、そのなかのひとつ、「オルガン協奏曲」を。

ブラウンフェルスは、熱心なカトリック信者であり、それはその音楽にもあらわれており、オペラの素材(受胎告知、聖女ヨハンナ等)や、宗教的声楽作品(ミサ曲、テ・デウム、オラトリオ)などであるが、このオルガン協奏曲にもそうした局面が大きくにじみ出ている。

オルガンに、オーケストラは、木管楽器がなしで、弦楽器、トランペットとトロンボーン、ティンパニとバスドラという編成、そして少年合唱団。
ユニークな編成だが、オルガンを中心に、華やかさを排除したサウンドになっているところが、この作品にシリアスさと、真摯さを表出しているように思う。

1楽章は、合唱は出ず、オルガンが縦横無尽に活躍し、全編がカデンツァみたいになっている。厳しい表情が続出するが、そのエンディングは、とてもカッコいい!

ブラウンフェルスならではの、抒情とミステリアスな雰囲気にあふれた第2楽章は、とても美しい。
オルガンの上に、光明のように響くトランペット、静かな中に、徐々に音楽が熱くなっていって天使のように出現する少年合唱。最後は長いオルガンのカデンツァ。

さて、3楽章はフーガ形式で、少しばかり錯綜した雰囲気で進むものの、徐々に、そして光がさしてくるように整理されてきて、いよいよのクライマックスが準備されてきて、ついに、合唱と全楽器で、コラール「シオンは物見らの歌うのを聞けり」(バッハのカンタータBWV140<目覚めよと我らに呼ばわる物見らの声>が、高らかに歌われ、感動の極致を味わうこととなります。

 各楽章は、それぞれ、「幻想曲」「コラールと間奏曲」「フーガ」と題され、そう、バッハのオルガン曲をリスペクトする内容ともなっていると思うわけであります。

1927年の作曲、初演は1928年で、ギュンター・ラミンに捧げられ、そのラミンのオルガンで、ライプチヒのトーマス教会にて、フルトヴェングラー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団で初演され、オペラ「鳥たち」以来の大成功を収めたといわれます。
 フルトヴェングラーとブラウンフェルスも、大の仲良しだったそうな。

このCDは、いまのミュンヘン・バッハ管弦楽団を率いるハンスイェルク・アルブレヒトの指揮によるもので、オルガンは、ラトヴィア出身のアプカルナ嬢です。
キリっとした、とてもいい演奏に思います。

ほかに、今度はアルブレヒトのオルガンソロで、トッカータとアダージョ、フーガ。
オーケストラ曲、交響的変奏曲が収録されてまして、それらはまた別の機会に。

ブラウンフェルスの作品、「テ・デウム」と「受胎告知」もまた、いずれの機会に取り上げます。

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 「ブラウンフェルス 鳥たち」

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