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2017年12月

2017年12月30日 (土)

ベートーヴェン ミサ・ソレムニス クレンペラー指揮

Totower_2

年も押し迫ってまいりました。

東京タワーの前にあるクリニックのイルミネーション。

星と地球、そしてラッパを吹く天使たち。

音楽が聴こえてきそうなモティーフが好きで、毎年、楽しみにしてます。

Beethoven_missa_klenmp

   ベートーヴェン ミサ・ソレムニス

  S:エリザベート・ゼーダーシュトレーム A:マルガ・ヘフゲン
  T:ヴァルデマール・クメント        Bs:マルッティ・タルヴェラ

   オットー・クレンペラー指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                     ニュー・フィルハーモニア合唱団
             合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ

                  (1965.9 @キングスウェイホール ロンドン)


今年最後の記事は、ベートーヴェンの究極の名作、ミサ・ソレムニス。
「荘厳ミサ曲」と呼ぶよりは、わたくしは、「ミサ・ソレムニス」。
ずっと、不遜にも、「ミサ・ソレ」と呼んできたから。

12月に入ると、演奏会は、第9だらけ。
ほぼすべてのプロオーケストラが、等しく第9で、たまには違う第9や、声楽曲を取り上げるオーケストラがあってもいいと思うんだけど。
 それでも、今年は、共に代役だった、鈴木優人氏と、ゲッツッル氏の第9はとても気になりましたが。
 そして、クリスマスが終わると、テレビやスーパーマーケットなどのBGMは、「喜びの歌」だらけになってしまう。
もう耳を覆いたくなる・・・。
でも、第9は好きですよ、ことに3楽章までは。

で、年末に聴くのは、第9でなく、ミサ・ソレの今年なのでした。

第9が、シラーに詩の内容に沿うように、歓喜、自由、友、世界と神などを希求するものとなっているのに対し、ミサ・ソレは、ラテン語のミサ典礼文が歌詞であり、その詞からは、ミサ・ソレの音楽の内容や本質はくみ取りにくい。
 熱心なカトリック信者でもなかったベートーヴェンが、ミサ・ソレの第1曲、キリエの冒頭に書き込んだ言葉。

「願わくば、心より出て、そして再び心に帰らんことを」

これがモットーのように、ベートーヴェンの信条として、この作品を貫いている。
心の平安と世界の平安。
この想いは、ベートーヴェンの晩年の作品に共通のもので、澄み切った、透徹した心情が、その音楽に反映されているわけだ。
第9の3楽章とか、ピアノ・ソナタの最後の3作、後期弦楽四重奏曲など。

わたくしが、この偉大な作品に、初めて感動したのは、クーベリックとバイエルンのFM放送のエアチェックテープをじっくり聴いたとき。
大学卒業の春、就職を控えたある日に、何気なく聴き始めたら、集中して一気に聴き進め、ベネディクトゥスで落涙してしまった。
以来、ミサ・ソレには、厳ついイメージでなく、優しい柔和なイメージを抱くようになった。

が、しかし、社会人になり、結婚して、子ももうけ、やがて子供らも大きくなった、そのあとに、ようやく聴いたクレンペラー盤。
無言で佇む、巨大な音による造形物を前に、そのときのわたくし、言葉も感情も失い、ただただ聴き入るだけでありました。
この辛口ともいえる、厳しい演奏のなかから、ベートーヴェンの「心より、心へ」のあの言葉が立ち上ってくるのを感じる。
 どうしても耳が美しさを求めてしまいがちなベネディクトゥスでは、確かに美しい音楽が奏でられるものの、その前段にあるサンクトゥスの幽玄な美の方と、ベネディクトゥスへの移行の場面が、この演奏では極めて素晴らしかったりする。
 でもなかでも圧巻は、クレド。複雑なフーガも、厳しい指揮棒のもとに、一糸乱れず、劇的な効果など、目もくれずにひたすらに音を重ねていく感じ。
バイロイトの合唱の神様、ピッツの指揮する合唱団のすばらしさは、録音のイマイチさを突き抜けて感動させてくれる。

シュヴァルツコップでなくて、ゼーダーシュトレームだったことも、この演奏の成り立ちとしてはよかった。北欧歌手に特有のクリアで、色気の少ない歌声がいい。
タルヴェラも北欧系だが、そのふくよかバスは、滋味深いマルケ王を思い出させてしまう。
ワーグナーつながりで恐縮ながら、ヘフゲンも、ながらくバイロイトのパルジファルのアルトの歌声の方。安定的なそのお声は、こうした宗教作品とクレンペラーの演奏にふさわしい。
少し甘めクメントも、ここでは端正で凛々しい歌声。

こんな感じで、合唱も、独唱も、対抗配置のオーケストラも、クレンペラーの下に、厳しくも、真摯にとり組んだミサ・ソレムニスの巨大な名演なのでありました。

あまりに巨大なので、そう何度も繰り返し聴くことも憚れる。
ときには、ウィーンの魅力満載のベーム盤や、ふっくらした響きとオーケストラの機能的な響きが結びついたハイティンク盤、同じバイエルンで、歌心にあふれたクーベリック・エアチェック盤、意外やロマンティックなリヒター盤、ドミンゴにはずっこけながらも大らかなレヴァイン盤なども聴きます。
 そして、なんと、バーンスタインとカラヤンは、持ってない。
いずれもその新旧録音を聴いてみたい。

人類にとっての至芸の音楽のひとつである「ミサ・ソレムニス」。

年末に、思い切り聴きこんでみました。

Totower_1

よいお年をお迎えください。
    

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2017年12月24日 (日)

Glorious Sound of Christmas オーマンディ指揮

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恵比寿のガーデンプレイス。

毎年のクリスマスシーズンを彩る王道のツリー。

夕暮れ時の空に、とてもよく合います。

クリスマスイブに、ゴージャスなオーマンディ&フィラデルフィアのクリスマス・ミュージックを。

Gloroussoundxmas_ormandy128

    グローリアス・サウンド・オブ・クリスマス

  1.メンデルスゾーン 「天にはさかえ」 

  2.「ああ、ベツレヘムよ」

  3.「もろびとこぞりて」

  4.アダン 「オー・ホーリー・ナイト」

  5.「久しく待ちにし主よとく来たりて」

  6.「神が歓びをくださるように」

  7.シューベルト 「アヴェ・マリア」

  8.「神のみ子は今宵しも」

  9.「牧人ひつじを」

 10.「ひいらぎかざろう」

 11.「いざ歌え」

 12.「自然における神の栄光 作品484」

 13.「おお、みどり子は来たりぬ」

 14.「きよしこの夜」

     ユージン・オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団
                       テンプル大学コンサートコーラス

                (1962 @フィラデルフィア)


アメリカのクリスマス。
最近でもないけれど、映画「ホームアローン」での、ニューヨークの街やアメリカの家庭でのクリスマスの雰囲気。
遠く遠くさかのぼって、テレビで始終見ていたホームドラマにおけるクリスマス。
「ルーシー・ショー」や「奥様は魔女」など。

そんな光景を眩しい思いでみていた子供時代や若い頃。

そんな想いを音楽で体現できるもののひとつが、オーマンディ&フィラデルフィアのもの。

クラシックを聴き始めて、初めて買った音楽雑誌が「ステレオ」誌12月号。
青い帯のCBSソニーのレコード広告にあったのが、このオーマンディ盤。
CBSのオーマンディのクリスマスには、こちらの62年盤と64年盤のふたつあって、そのふたつを2枚のレコードの組み物にしたものだったのだ。
CBS2500Wシリーズの名称だったかな。
そのジャケットがともかく美しくて、そしてアメリカのツリーのオーナメントが素敵すぎて、ずっとずっと欲しかったのであります。

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この2LPシリーズには、同じオーマンディの「メサイア」や、有名交響曲などのものがあって、1000円廉価版の走りだったわけです。


CD化されたこの音盤、62年録音とはいえ、なかなかの音質を保ってます。
いわゆるフィラデルフィアサウンドは、レコード時代のキンキンした響きよりも、CD時代の抑制された響きの中にこそ感じたりもします。
 でも一方で、CBSソニーの各種録音に特有の厚み少な目、少し金属音的な響きも懐かしかったりします。
のちのRCA録音は、暖かみが勝りますが、フィラデルフィアサウンドは、CBS録音が原点だと思ってます。

さて、この1枚は、ポップスな感じよりは、クラシカルな落ち着いたクリスマス音楽集です。
同じアメリカでも、フィードラーとボストン・ポップスや、カンゼルとシンシナティとは、そこが違うところです。

個々の曲目への言及はしませんが、クリスマスを、穏やかな気持ちで、静かに迎えるクリスマスにふさわしいものばかりです。
きらびやかで、ゴージャスなアメリカのクリスマスにあって、人々の心情の根幹は、家族を思い、神様を思い、そして平和と幸せを願うものなのですね。
そんな想いになってくる、オーマンディのクリスマス音楽なのでした。

Garden_1

よきクリスマスを

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2017年12月23日 (土)

ルネ・コロ 80歳記念アルバム

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12月22日の横浜みなとみらいは、毎年恒例の全館点灯。

この日は、遅くに浜入りして、まず、野毛のバーで一杯ひっかけて、そのあと神奈フィル応援仲間と久しぶりの忘年会。
土曜の予定のやりくりが出来なくなって、またお仕事も大変になって、演奏会も遠ざかってしまったけれど、徐々に自分のペースを作りつつあります。
ちなみに、神奈川フィルの第9は、見事な演奏会となったようですよ。
そのお話しを肴に、盃を傾けるのもまた一興にございました。

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   ルネ・コロ  From Mary Lou To Meistersinnger 

①フィデリオ、魔弾の射手、リナルド、タンホイザー、マイスタージンガー
  トリスタン、パルジファル、大地の歌

②三文オペラ、伯爵令嬢マリツァ、ウィーン気質、こうもり、微笑みの国
  美しきエレーヌ、民謡「Ach , we ist's moglich dann」
  民謡「0 Taler weit, o hohen」
  ボーナストラック~「Hello , Mary Lou」

1937年生まれのテノール歌手、ルネ・コロが今年11月に80歳を迎えました。
11月20日生まれですから、実は、わたくしと1日違い。

ルネ・コロとの付き合いは、それこそ、ワーグナーの視聴歴とほぼ同じくして長いです。
70年代初頭から、コロが気鋭のヘルデン・テノールとして頭角をあらわしてきた頃から。
カラヤンのマイスタージンガー、ショルテイのパルジファルに始まります。
と同時に、スウィトナーの指揮でワーグナーの全作品を歌った2枚のレコード。
当時はCBSソニーから出ました。
あと外盤では、プッチーニなど、イタリアものを歌った1枚も出たのですが、日本ではついに発売されないまま。

それ以降、ずっと聴いてきました。
親日家でもあったコロは、オペラの引っ越し公演でもよく来演してました。
私が、実際に聴くことができたのは、ベルリン・ドイツ・オペラの「リング」でのジークフリート、ウィーン国立歌劇場での「パルジファル」、バイエルン国立歌劇場の「マイスタージンガー」、ハンブルク国立歌劇場との「タンホイザー」、リサイタルで「詩人の恋」。
ウィーン国立歌劇場の「トリスタン」で、登場が予告されながら来日できず、その後のベルリン・ドイツ・オペラでのものを聴き逃したのはいまや痛恨です。

ワーグナーばかりでなく、得意のオペレッタなどの音盤もかなり揃えて、CDラックの中で、特別な場所に置いてます。

こんな風に、その声も姿も、もう何十年も脳裏に焼き付け、刻んでしまっている歌手って、自分の中では、ほかにはいないと思います。

その経歴は有名ですから、いまさらここに記す必要もないですが、オペレッタ作曲家であり、アクターだった祖父・父からはぐくまれた舞台表現と、エンターテイナーとしてのたぐいまれな才能。
ポップスからスタートし、オペレッタ歌手、それからオペラ歌手、そして、ワーグナーの初役を歌いこなすヘルデンテノールへ。
甘い美声でありながら、それを知的にセーブしつつ、巧みなスタミナ配分でもって、慎重にジャンルとレパートリーを広げていった。
50~60年代前半は、ヴィントガッセンに代表される肉太でロブストなヘルデンが主流で、私もそれを否定することなく、大いに好きなのであるが、アメリカからトーマスやキングがドイツで成功し、そして、ルネ・コロが出現した。

息の長いルネ・コロの歌手生活も、3年前の日本でのお別れ公演でもって最後の演奏会となりました。
その時のタンホイザーの力強さと、悔恨にじます味わい深い歌唱は、忘れることができません。

この2枚のCDには、DGとデッカに残されたオペラの初役と、オペレッタや民謡などが、それぞれ収められてます。
普段は全曲盤で聴いてるそれらの初役を、こうして抜き出して連続して聴いてみるのもいいものです。とくにやはりワーグナーは圧巻。
リエンツィからパルジファルまで、ワーグナーの主要な作品すべてに、その歌声が残されたことは、本当にありがたいことで、コロの存在がワーグナーにとって、かけがえのないものであったと、心から思います。

もう1枚は、うって変わって甘い声を次々に堪能することができるもの。
なかでもやはりレハールが、そのきらきらした音楽からして、コロの声にはぴったり。
民謡も、ほんのりとして、ドイツの村の楽しい様子がうかがえるみたいだ。
ボーナストラックには、ポップスがひとつ。
全然、コロとは思えない感じの軽~いノリの曲でした(笑)

 リブレットの中ほどに、ルネ・コロの言葉が大きく書かれてました。

「ローエングリンは、聖杯を見守り続けることだけを望まず、人間としてあることを望んだのです。私も、もっぱらドイツ芸術の聖杯のみを守りことだけに集中するものではないのです。」

あらゆる芸術をリスペクトするコロらしい想いと言葉であります。

そんなルネ・コロさんが、これからもお元気で、健勝でありますようお祈りします。

最後に、コロのクリスマス・アルバムを聴きました。

Kollo_christomas

ドイツの暖かい、ほのぼととしたクリスマスを歌った、わたくしの大好きな1枚。

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みなとみらい、マークイズのクリスマスツリー。

過去記事

「ルネ・コロ さよならコンサート」

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2017年12月15日 (金)

ドヴォルザーク、マルティヌー、ブラームス フルシャ指揮 東京都交響楽団

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ヤクブ・フルシャ指揮する、東京都交響楽団の定期演奏会を聴いてまいりました。

 東京都交響楽団 第844回定期演奏会

  ドヴォルザーク  序曲「オセロ」

  マルティヌー    交響曲第2番

  ブラームス     交響曲第2番 ニ長調 

    ヤクブ・フルシャ 指揮 東京都交響楽団

            (2017.12.11 @東京文化会館)


前半がボヘミア、後半が独墺。
ブラームスとマルティヌー、そしてスークと集中的に取り組んできたフルシャの、首席客演指揮者としての最後のシリーズ。
この回とは別に、マルティヌーとブラームスのそれぞれ1番の交響曲が演奏されて、首席客演のポストの退任となります。

ここ数年、見る間に躍進したフルシャ。
バンベルク響の首席に加え、チェコフィルの首席客演への就任、フィルハーモニア菅にも客演ポストを持っている多忙な指揮者になりました。
ビエロフラーヴェク亡きチェコの音楽界をリードしてゆくことになるでしょう。

さて、渋いドヴォルザークの序曲。
3部作の序曲のひとつ、「オセロ」は、3つの中では一番地味ながら、美しい「自然のなかで」と同じ旋律も出てくるし、じっくり聴けば、いかにもドヴォルザークらしい、優しいメロディにもあふれていて、とても素敵な曲だ。
フルシャの情のこもった指揮に、都響の豊かなサウンド、それに文化会館の木質の響きが加わって、ほのぼの感と、終結部の切れ味のいいエンディングとが、ともにばっちり。
中間部にさらりと出てくる弦の懐かしい旋律に、思わず涙腺が刺激されました。

マルティヌーは、CDでは聴いてはいるが、実演でじっくり聴くのは初めて。(以前に神奈川フィルのゲネプロで4番)
ブラームスの1番と2番の関係にもたとえられるマルティヌーの1番と2番。
CDで聴いているといつも思う、錯綜するややこしさをマルティヌーの音楽に感じていたが、こうしてライブで聴いてみると、この2番の特徴である牧歌的な明るさとともに、マルティヌーが、各楽器をいくつものグループに分けたり、くっつけたりして、いろんなことが同時にそれぞれ進行していくさまが、とてもよくわかって、ほんとうにおもしろかった。
そして、マルティヌーの音楽が、決してモダンでも現代風でもなく、4つの楽章にしっかりと構成された伝統的な交響曲であること、そしてアメリカ亡命先での生涯の活動であったものの、やはりマルティヌーの音楽はチェコのものであること、そんなこともよくわかりました。
 マルティヌー協会の会長もつとめるフルシャの適格な指揮ぶりが、安定してました。
そして、マルティヌーの音楽に、きらきらした色彩も感じ取ることができたのも指揮者の腕前でしょうか。
第二楽章がことに美しく、ときに不安をも感じるほどの楽想の表現もよかったです。
にぎやかな終楽章も楽しくて、ブラボーも飛び交ったのも頷けるノリのよい演奏でした。

 後半は、おなじみのブラームス。
前半は、あまり親しみの少ない音楽だったの比べ、ブラームスの、それも伸びやかな2番ですから、冒頭から会場の雰囲気の和み方が違うように思いました。
 演奏もまさにそのとおりで、オーケストラもほんとうに気持ちよさそうに、体を揺らしながら、ブラームスをたっぷりと奏でております。
その演奏ぶりを、まったく邪魔することなく、オケを信頼して、そして解放してしまったかのような大らかな指揮のフルシャでした。
1楽章の繰り返しもしっかり行いつつ、インテンポでじっくりと仕上げられたブラームス。
忙しい12月に、そして、少し憂鬱な月曜日の締めくくりを、晴れやかな気分にしてくれた喜びに満ちた終楽章で、今度は聴き手みんなの心を明るく解き放ってくれた演奏でした。
 気持ちいい~

大きな拍手は鳴りやむことなく、そして楽員を称えるフルシャさん、次の会にはおそらく降り番なのでしょうか、コンマスの四方さんに敬意を込めて両頬にキッス。
退任の感謝のご挨拶、とても微笑ましく、そしてとても紳士的でした。

素敵な演奏会をありがとうございました。

帰りに、上野駅のパンダフルクリスマスをばパシャリとしました。

Pandatree

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2017年12月12日 (火)

シュレーカー 「狂える焔」 ギュルケ指揮

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六本木けやき坂

今年もこの坂の並木を銀と琥珀色に染める、そんな季節がやってきた。

日々がほんと早いし、体調もすぐれない。

そんな気持ちを、さらにひっ迫させるような緊迫の美にあふれた音楽を聴くのだ。

そして、ウィーン交響楽団、三連発シリーズだったのだ。

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    シュレーカー 歌劇「狂える焔」

 領主ハインリヒ:ミヒャエル・パブスト 森林管:ゴラン・シミック
 エヴァ:ルアナ・デ・フォル      ローラ婆さん:エヴァ・ランドヴァ
 ペーター:モンテ・ペデルソン   クリストバルド:ハインツ・ツェドニク
 牧師:ネーフェン・ベラマリック   貴族:セバスティアン・ホーレック
 フュンクフェン:ヘルムート・ヴィルトハーバー
 シュトラールブッシュ:ネーフェン・ベラマリック
 ラッツェカール:セバスティアン・ホーレック
 アンセルムス:ゴラン・シミック   従者:ヘルムート・ヴィルトハーバー

   ペーター・ギュルケ 指揮 ウィーン交響楽団
                  ウィーン学友協会合唱団
              合唱指揮:ヘルムート・フロシャウアー

           (1989.3.15 @ムジークフェライン、ウィーン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)のオペラ作品を久しぶりに取り上げる。
キリスト教徒のユダヤ人を両親に、父が優秀で宮廷写真家の称号を得ていて、生まれたときはモナコにいた。
ツェムリンスキーの師フックスに学び、ウィーンとドイツワイマールて活躍し、9つのオペラ、オーケストラ曲、声楽作品などを残すも、いまやちょっとマイナーな存在になってしまった。
ナチスが退廃音楽としてレッテル貼りをして、目をつけられる1920年代後半までは、その作品がさかんに上演された人気作曲家であった。

ツェムリンスキーとともに、徐々にリヴァイバルしてきてはいるものの、かといってツェムリンスキーの「抒情交響曲」や「人魚姫」のような人気作はない。
そんな日陰者のシュレーカーが好きで、これまで、9作あるオペラのうち、5作品を取り上げてきました。

「狂える焔」は、9作中の6作目。

そもそも、「狂える焔」って誰がタイトルにしたのだろう。
「Irrelohe」で検索すると、「Irrenlohe」とあり、それはドイツ、バイエルン州、シュヴァンドルフ地区の駅と出てくる。
ニュルンベルクに通じる路線の駅名であり、小さな地区のようである。

このオペラをシュレーカーは、1919年に書き始め、いつもの常としてリブレットも自らが構想・作成しつつのものであったが、最後に行き詰まり止まってしまう。
そう、それこそタイトルがバシッと決まらない。
そんなとき、寝台特急で移動中のときのこと、駅名をコールするアナウンスに飛び起きた。
そう、それが「Irrenlohe」だった。
シュレーカーは、それこそ、これだ!と思い、このオペラを一気に完成させた。
1924年のこと。
同年、ケルンにて、クレンペラーの指揮により初演され、一定の成功を収めたものの、これまで成功続きだったシュレーカーのオペラにしては、人気の持続性に陰りが出始めた。
ナチスは党として発足していたが、勢力はまだまだ。
 シュレーカーの音楽への飽きも、そしていっそう複雑化して行くシュレーカーの音楽への戸惑いも。同時期のR・シュトラウスは、「影のない女」や「町人貴族」「インテルメッツォ」などで、ワーグナーの敷いた道を確実に進化させ、より古典帰りを見せていただけに、その違いが歴然としている。
メロディも豊富で、ストーリーも簡潔なシュトラウスに対し、メロディよりは、大胆な和声とマイナーな調性を主体にしたほの暗いシュレーカーの音楽。

それと半ばワンパターン的な物語の筋立て。
以前にもブログで書いたけれど、「人間の欲望の尽きるところのない性(サガ)と、それへの肯定感」、こんなイメージがシュレーカーの書くドラマと音楽の背景にあるような思いがある。
そして、登場人物たちも、ヒロインは、イタイ女性ばかりで、ちょっと病的かつお嬢様的。
それに対する男声陣は、エキセントリックボーイで煽情的。

こんなパターンがわかっちゃいるけど、やめられない、知っちゃったからこそやめられない、そんなシュレーカーなんです。

外盤の解説書を紐解いて、もう少し書きます。

この物語の時代背景と場所は、「18世紀のイルローエ城とその村」。
そしてこの城にまつわる伝説と、その城を燃やしてしまわないといけない一派。
ヒロインは、城主と愛に陥るが、老母と暮らす、その彼女の幼馴染は嫉妬に狂い、城主を襲うが、逆に殺されてしまう。老母は、それはおまえの弟だよ~と、言う間もなく城は放火され燃え盛るなか、愛する二人は未来へ歩みを踏み出す。。。。。


こんな内容のオペラなんだけれど、まるで、「トロヴァトーレ」。
老母はアズチェーナにあたり、ライバルは兄弟で、そして炎。
解説によれば、ヴェルディの描いた伝統的な運命ドラマに、映画チックなホラー要素を交えたのがシュレーカーのドラマ。
平和な村と、ミステリアスな城は、ドイツの国民オペラ時代のマルシュナーの「吸血鬼」や、城はないものの村人との関係で、「ドン・ジョヴァンニ」を想起させると。
 さらに、炎は、シュトラウスが「火の欠乏」で、ワーグナーが「ワルキューレ」で、さらに、「黄昏」で、ヴァルハラ城の炎上で扱っていて、火は、浄化作用があって、このシュレーカー
のオペラでも城が燃えて、その一方で、二人の男女の愛が成就する、的な内容になっている。
ちなみに、ワーグナーは長調の調性で炎の場面は展開するのに対し、シュレーカーは短調。音楽に多分に狂気性をはらんでいるのもシュレーカーだ。

そして、このオペラのタイトルに戻ると。
「Irre」は、クレイジーとか狂った、「Irren」にすると誤ったとか間違ったと訳される。
「Lohe」は、焼ける、「Lohen」とすると炎。
なるほど、「狂った炎」となります。
ゆえに、シュレーカーは、「狂った焔」という駅名に飛び上がったわけなのであります。

第1幕

老いた母、ローラは、かつて私も若かった、と昔を歌うが、その息子ペーターは、人々があれこれ言うあそこに立つ城の秘密を教えてくれと頼む。
ローラはあの城は愛によって築かれたもの、かつて城主が水の精に恋をして、息子をもうけたが、彼女も亡くなり、父も亡くなり、息子は暗い狂気の炎を宿し、その血は代々に引き継がれている・・・
そして、ペーターは、自分の父はいったい誰なのか、村のものが自分を見る目がそう語っていると母に迫るが、彼女は、父はもう亡くなった、そしてすべては明日、明日に起こるだろうと、と言い残し奥に下がる。
 そこへ旅の人、すなわちクリストバルトがやってきて、一夜の宿と酒を求める。
ペーターを見て、一瞬驚き、幽霊でもみたのかと独り言ちるが、ペターに求められるままに、30年前に、城で起きた出来事を語る。
婚礼の日、村中の鐘という鐘がなり、みんながダンスに興じた。そこに巻き毛の可愛い女性がいて、私は彼女を愛してしまった。しかし、そこに城主が異様な眼差しでもってあらわれ、彼女を遅い、連れ去ってしまったのだ・・・。
 ペーターは、その彼女の名を訪ねると、クリストバルトは、「ローラ」と答え、ペーターは絶叫する。
 残されたペーターのもとへ、幼馴染のエヴァが駆け込んでくる。守って欲しい、あの城のハインリヒが私をつけてくる、昨日も、今日もと。。、これを聞いたペーターは、押し倒され衣服もはがされ・・と狂気のように妄想するので、エヴァは、彼が正気なのか疑う。
エヴァは、そうではないの、あのハインリヒの瞳が忘れられない、寝ても覚めても彼の顔が忘れられないの、と語るので、ペーターは、あいつを愛してるのかと悟り、出ていけと叫ぶ、そして、もう終わった、死以外に残されていないと絶望する。


第2幕

 街角にて、牧師と貴族が出会って挨拶、しかし、貴族は、昨晩、自分の工場が火災にあったことを語り、そして毎年7月13日には火事が起こる、これは不思議ではないかと。
貴族が去ったあと、森林官がやってきて牧師と挨拶、森林官の娘エヴァはこのところ見ないねと話しかけると、彼女はわたしを恐れているようだ、ちょっと話を聞いてもらいたいと、今度は二人で歩み去る。

 今度はラッツェカール、フュンクフェン、シュトラールブッシュの音楽家3人が、それぞれに楽器を持ってあらわれる。
昨晩は大成功、そして今度はあの城さ、われらが兄弟クリストバルトは最高の使い手さ!と気炎をあげる。
 それを隠れて盗み見てしまったエヴァは驚愕し、ハインリヒのことを心配して、急いで知らせようと城へ走る。

次にあらわれたのは、ローラとクリストバルト。彼女はクリストバルトに、そんな昔のことは忘れて欲しい、私は平和に暮らしたいと語るものの、彼は、この日を迎えるのは、30年越しの夢だった、残酷なこの世、すべてのものはみんな罪人なのだ、平和は火のうちにこそやってくるのだ!と執念を燃やす。

ハインリヒは、城へ向かってくるエヴァの姿を認め、熱く歌う。もうこれ以上、自分の人生を背負いたくない、彼女を知って以来、腐った家族の憎しみや城へのバカげた話、そんなものも、城ももうたくさんだ!
 そこへエヴァがやってくる。ハインリヒは執事アンセルムスに自分の想いを綴った手紙を持たせたが、その手紙と行き違いに、違う目的でもってやってきたエヴァ。
しかし、ふたりはお互いに惹かれ合い、熱い二重唱を歌う。
ハインリヒは呪われたアウトローで貧しいこんな自分でも本当に愛してくれるのか?と問うが、エヴァは強く、そんなものは終わらせましょうと強く答え、やがて、ハインリヒは結婚しようと求婚し、ふたりの愛は高まるのでありました。

戸口に佇むクリストバルト、ハインリヒに、婚礼でもあるのですか、迷ってしまったので門の中にはいってもいいかと聞くと、老人よ、どうぞと快く認めるが、エヴァは、嫌な予感と警告、しかし、もう彼の姿はない・・・・
 そこへ、エヴァへの手紙を渡しそこねた執事が帰ってくて、当の本人が、ここにいるのでびっくりする。ハインリヒは将来のあなたの主人といって紹介、そして母や姉たちも呼んで、村にも知らしめ、盛大にと指示を出す。
 外では、この様子を眺めながらクリストバルトが、イレローエ城を燃やしてやると独り言ちする。

第3幕

村の広場のローラの家、ペーターが帰ってくるが苦しそうにしている。
母は、ペーターに、お前は今日はどこへも行ってはいけないよ、あまえの足りない頭が何をしでかすか、アキシデントはいとも簡単におこるのだからと。
ペーターが家の前座っていると、エヴァが帰ってくる。
エヴァは、静かに聞いて欲しいと語りだす、自分たちは幼馴染だけれど、いまは、恐れにもにたものに取りつかれたようなの、それが愛と。しかし、一方のペーターも、昔からの思いでエヴァへの愛を語るものの、彼女は、そんな喜びのない感覚でなない、今までとは違うの、と諭すが、ペーターは、だんだんと狂気じみてきて、恨み節を歌う。
そして、お前に婚礼のダンスなど絶対にさせないと息まき、エヴァは、わたしを脅すのか、あなたの許しなんかいらない、とついに決裂してしまう。
 ペーターは、ローラに、母さん、俺を逃げ出さないように縛ってくれーーといって家に入る。

婚礼のファンファーレや人々の合唱などがにぎやかに錯綜するなか、村の人物たちは、いろんな符合、30年前のこと、エヴァのことなどを語り、不安と期待で慌ただしくしている。
踊りの中では、ハインリヒがローラを称える。
 そんななかローラは、オペラ冒頭の歌、かつての若い頃の想いをつづるが、ペーターは、脱兎のごとく家を飛び出していってしまい、またたく間に踊りのなかに紛れてしまう。
 そして、ハインリヒとエヴァのまえに飛び出したペーターは、エヴァと踊ろうと手を差し伸べた彼に向って、おまえは踊ることができない、俺が許さねぇとすごむ。
ハインリヒは、わけもわからず、この男は何をいってるのだと戸惑うが、ペーターは、遠くのローラを指さし、俺のかぁさんだ、かつてお前の父親が、結婚式の母を奪ったのだ、お前の父親はきっと地獄にいるだろうよ。
ハインリヒは、戸惑い、エヴァは、彼は嘘をついているよと対抗するが、ペーターはさらに毒づき、おい、おまえ、兄よ、すべてのものを共有だ、彼女は今夜、明日はお前、そして目には目を、歯には歯をと復讐に燃える。
丸腰のハインリヒを助けるものいない、ペーターはこの女は俺のものだとわめくが、ハインリヒは、神のお力をと、全力を振り絞って体当たりして首を絞めて、ペーターを殺してしまう。ローラは、ペーターの名を叫び、これはあなたの兄弟なのよと泣き崩れるが、そのとき、鐘が鳴り響き、城に火の手があがる。

クリストバルトは、イレローエが燃えていると炎を背景に小躍りするが、そのさまは、他所からきた魔物のようであった。
叫び、助けを求める人々。狂乱の音楽。

しかし、それも静まり、音楽も平和的なムードに満たされてゆく。
ハインリヒとエヴァのふたり。
ふたりは改めて愛が大きくなり、赤く染まった空も明けていくのを感じ歌う。
黄金の門が開くのを見たわ、灰や血が燃え盛る炎から明るい光に浄化されたの。
愛の輝き、夜と恐怖から解放された「幸福な炎」。
わたしたちの一日が始まった、いま日の光は自分たちのなかにある!

輝かしい音楽で幕!

                

 

こんな内容のドラマです(対訳がないので、だと思います)

炎による悪しきことの浄化。

そう、前褐のとおり、ワーグナーの「神々の黄昏」にも通じる概念であり、火の修行を経て愛の高みで結ばれる、モーツァルトの「魔笛」にも似たり。

ドイツやイタリアのオペラの歴史を集大成して、自身がすぐれたオペラ指揮者であり、オペラ作曲家であったシュレーカーのオペラ作品。

こんな風に、わたくしは連日聴き、ようやく記事にできるようになりました。

思えば、これまで聴いたシュレーカーのオペラと同じような音楽のパターンはちゃんとあります。
先に書いたように、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。
対する適役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)
 こんな主人公たちがそのパターン。
で、音楽面でのパターンは、扇情的でありつつ、すべてが断片的で、連続する旋律は少なめ。少しづつのフレーズが積み重なって、美的なモザイクのような音楽になってて、クライマックスなどでは、それが同時進行してややこしい流れとなる。
 で、そのオペラには、祭りや祭典のシーンが必ずあって、飲めや歌えや的なにぎやかなバックグランドが築かれる。

今回は、ほんと長いですね。
あと一息、演奏について。

このCDは、1989年、ウィーンでの演奏会形式ライブ録音で、埋もれていたこの作品をちゃんと演奏した蘇演であります。

ベーレンライター版が定着するまえ、独自の校訂を行ったペーター・ギュルケ。
スウィトナーのベートーヴェンがその版だったろうか?N響でも第九を指揮していたはず。
そんなギュルケの危なげのない指揮は、こうした未知の作品の演奏にはぴったり。
で、なんたってウィーン響が機能的かつ美しいし、その響きがいまほどにインターナショナルじゃなくて、ゴシックなシュレーカーの音楽にふさわしく、ほどよく錆びれている。

80~90年代の歌手たちも、自分には懐かしく、いまの映像主体に重心を移した歌唱とは違い、各々、深みがあるように思った。
 なかでも性格テノールのツェドニクが素晴らしい。
放火犯のクレドたる2幕の信条告白はなかなかのもので、とんでもなく疚しい。
あとヒロインのデ・フォルの清純さのなかに、熱を帯びた情熱を感じさせる感情豊かな歌唱。それと懐かしいランドヴァーの母親の声。クンドリーのイメージもその声から浮かびましたよ。
あと特筆は、没頭的だけど、なめらかなバリトンの声を聴かせるペデルソン。
で、ハインリヒ様のヘルデンは、ちょいと一本調子。
しかし、皮肉にも、運命のもとにあったハインリヒの常に切迫した役柄には合っているという符合。

ここ数年、音楽だけは何度も聴いて耳になじませ、その後、徐々にリブレットを解析。
国内情報の少ない気に入った作曲家、気に入ったオペラを楽しむには、ともかく何度も何度も聴くこと。そうして後に、そのオペラが大好きになり、むこうからいろんなものを発信してくれるように感じるようになります。
こんな風にして、3~6か月、じっくり楽しむのです。
以前は、こうして、好きなオペラの拡充に努めてました。
まだまだたくさん、手持ちの未開拓作品あります。
体調管理に気をつけて、ゆっくりと聴いていきたいと思ってます。

この度は、長尺の記事を起こしまして申し訳なく思います。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920年

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 
  1924年

 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年


 

 

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2017年12月 4日 (月)

モーツァルト フルート協奏曲 ランパル&グシュルバウアー

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11月終わりの神宮外苑。

早朝に出向いても、かなりの人出。

しかし、美しい、構図が完璧、それも調和的な美しさを持ってる。

で、写真は、光の加減が命ですな。

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        モーツァルト フルート協奏曲第1番 ト長調 K.313
                                             
                                                 第2番  ニ長調 K.314


        Fl:ジャン=ピエール・ランパル

    テオドール・グシュルバウアー指揮 ウィーン交響楽団

                     (1966.5 @ウィーン楽友協会)


お天気のよい休日には、モーツァルトの音楽、それもとりわけ長調の協奏曲が相応しく、明るく、ほのぼのとした気持ちにさせてくれる。
なかでも屈託のない二つのフルート協奏曲は、悩むことなく、いろいろあった一週間を収めるにちょうどいい。

1777年のマンハイム楽旅での作品。
名手に出会うことで、その楽器の神髄を引き出す作品を、いとも易々と作り上げることができたモーツァルトの天才性。
しかも、オーボエ協奏曲からの転用であるのにかかわらず、そんなことをまったくもって感じさせないところがすごくて、1番よりも魅力的だったりする。
 よく言われるように、転用という、ある意味手抜きと思われてしまい、依頼者からの報酬を減らされたとか。しかし、調性も違うし、じっくりと聴き比べをしたことはないが、譜面上の相違点もあるようである。
バッハもそうだけれど、自作に手を加え、どんどん違う作品に仕立ててしまうのがすごい。

平易で馴染みやすいメロディーに富んでいるのが2番で、構成的に全体のバランスが取れているのが1番、って感じでしょうかね。
 そして、フルート奏者、いや、思えば、すべての管楽器奏者にとって、モーツァルトの存在は、本当に大きい。
ベートーヴェンやブラームス、チャイコフスキーもドヴォルザークも管楽器の協奏曲は残さなかったから。

存在の大きさという点からすると、フルート界におけるランパルの存在も大きいです。
抜群のテクニックと艶のある美音と流麗さ。
高校時代、フルートを少しかじった自分も、ランパルは憧れの存在だった。
親日家だったこともあって、来日も多く、それも日本の隅々まで訪れてくれたし、羽織袴を纏った写真も記憶に残るところです。
そのランパルも、亡くなってすでに17年。
でもその輝かしい音色は、こうしてたくさんの録音によって残され聴くことができる。

ランパル44歳のときのエラート録音。
若々しい音色も感じる一方、ちょっと丸みをおびて感じるのは、もう古くなってしまった録音のせいかもしれない。
 同様にオーケストラの録音も、いまとなっては、いにしえ感を持つが、でも、そこにあるのは、かつてのウィーンの音色。
ウィーン響も、ウィーン独特の楽器を使っていたし、同郷の指揮者グシュルバウアーとともに、柔らかなモーツァルトの雰囲気豊かな響きを紡ぎだしている。

この音盤は、CDでなく、レコードで聴いた方がよいかもしれない。
中高生時代聴いていた演奏や響きはいまも耳に残っていて、このCDを聴いて、そのように思った次第。

それにしてもフランスは、名フルート奏者を続出しますね。
ランパル、ラルデ、デボスト、ガロワ、パユなどなど。
あとは、スイスにドイツ。アメリカはあんまりいないような気が・・・
と、最後は雑談でした。

フルートとハープの協奏曲もランパルとラスキーニで聴いておこう。

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