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2018年1月

2018年1月28日 (日)

マーラー 交響曲第2番「復活」 アバド指揮1965年

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2018年1月2日の日の出。

相模湾を赤く染める朝焼けは、今年も、健勝に、そして明るく過ごしたいと、切に手を合わせたくなる神々しい美しさでした。

そんな1月も、もうじき終わってしまいます。
ほんと、毎日があっという間に過ぎてしまう。

今日は、時間をずっとさかのぼって、クラウディオ・アバドが世界のひのき舞台に躍り出るきっかけとなった演奏を聴きました。

Abbado2

   マーラー 交響曲第2番 「復活」

      S:ステファニア・ヴェイツォヴィッツ
      A:ルクレツィア・ウェスト

    クラウディオ・アバド指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
                     ウィーン国立歌劇場合唱団

                   (1965.8.14 ザルツブルク)


伝説的な32歳のアバドのウィーンフィルとザルツブルク音楽祭デビューの熱演。

1959年指揮者デビュー、イタリアを中心にヨーロッパで活動、1963年、ニューヨークでミトロプーロス国際指揮者コンクールで1位となり、バーンスタインの助手となる。
 バーンスタインのヤングピープルズコンサートでラヴェルを振る映像が残されていて、youtubeでも見ることができます。
その後、ベルリン放送響へ客演し、カラヤンの目にとまることとなり、1965年のザルツブルクデビューとなります。
バーンスタインにもきっとマーラーの薫陶は得たであろうアバドは、同年7月に、スカラ座でまず、「復活」を指揮して、ウィーンフィルに臨んだ。
ちなみに、67年には、ウィーン響と6番を指揮。

2番と6番は、アバドにとって勝負曲のような作品であり、マーラー指揮者としての存在を確立させた2曲だと思う。

今回視聴のCDは、放送音源からのもので、当然にモノラル。
しかし、音に芯があって、聴きやすいもので、後半に行くにしたがって音楽が熱を帯びてゆく様や、緩徐楽章の美しさや、この頃、思い切り音楽を歌わせていたアバドならではのしなやかさも十分に楽しめるものです。

アバドは、このあと3種類の録音と、1つの映像(音源と同一)を残しています。

         Ⅰ   Ⅱ   Ⅲ   Ⅳ   Ⅴ   TTL

1965 ウィーン  20:55   10:18   10:40   4:42   32:28    79'05"

1976 シカゴ       20:47   10:03   10:33   5:28   34:51    81'11"

1992 ウィーン    21:20   10:34   11:48  5:28  36:16    86'32"

2003 ルツェルン 20:45    9:23    11:22  5:04   33:51     80'02"


4つの演奏の演奏時間。
なにも、演奏タイムが、その演奏の優劣に結びつくものではありませんが、その特徴をあらわしていることも確か。

トータルタイムが一番速いのが、ザルツブルクライブで、その次がルツェルン。
ルツェルンの一連のマーラー演奏が、明るく、透明感に満ちており、アバドの行き着いた境地を表しているところが、このタイムの変遷だけみてもわかります。
1~3楽章に、あまり変化は見られず、歌の入る楽章で、タイムの違いが出ている。
ことに、92年のウィーンライブの5楽章は、タイムをみると、ずいぶん念入りに感じますが、聴いていると決してそんな風には聴こえません。
ムジークフェラインの響きが影響した可能性はあります。

そして32歳のアバドと70歳のアバド、このふたつの演奏時間がとても近いところが、本当に興味深いし、アバドらしい。
 カラヤンに後押しされ、マーラーはまだ聴衆がついてこれないから危険だ、との周囲の声を跳ね返して、2番を選択した若きアバド。
この演奏の大成功で、ウィーンフィルとのレコーディングも始まり、世界のオーケストラから引っ張りだこになった、その記念すべき第一歩。
 ベルリンでのポストを終えて、ルツェルンで得た自分のオーケストラと、いろんな重圧から解かれて踏み出した開放的なさらなる第一歩。

もちろん、シカゴとの演奏には、このレコードが、メータやレヴァインらとともに、マーラー演奏に新しい風を呼び込んだという意味合いがあり、ウィーンライブには、アバドとウィーンとの決裂の時期的な意味合いも、それぞれ私にはあります。

さて、ザルツブルクの演奏に関し、アバドは後年語っています。
「自分を殺してやりたくなりました。本当です。終わって、後からテープを聴いて、初めて悪くなかったことに気づきました。もちろん変更すべき箇所は数多くありましたが、より自然発生的であることから、いくつかの部分は1976年の(シカゴ)の録音より優れています。不思議ではありますが、私のキャリアを通じて、その時点では不当に悪いというものの、いわゆる『スペシャル』な夜があるものです」

その自然発生的なるものが、終楽章にむかってじわじわと音から立ち上がってくる熱気に感じられます。ティンパニの強打や、猛烈なアッチェランドなど、スタジオでの冷静なアバドには出てこないような表現であります。
一方で、静かな場面での緻密な音の響かせ方などは、後年のものとそん色なく素晴らしい。

この演奏のラジオ放送を聴いていたアルフレート・ブレンデルは、見知らぬ指揮者ながら、「巨大な情熱と確信と支配力があって、それがオーケストラと聴衆に伝播させていた」と語ってます。

モノラル録音ながら、これを聴きながら、ダイナミックな大振りで、マーラーの音楽に没頭的になっているアバドの指揮姿や表情が思い浮かんできました。

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こうしてみると、ベルリンでの2番が残されなかったのが惜しい。

96年のベルリンフィルとの来日公演で、この曲を取り上げたとき、わたくしは、90年代のほぼ10年間、多忙な仕事や、子供らが生まれたことなどから、コンサートから遠ざかっていた時期にあたり、アバドの来日公演をことごとく聴き逃していました。
NHKの放送をビデオ収録してありますが、いまやそれも見れません。
いつかはDVDに復刻してやろうとは思ってますが・・・

Azumayama_sunsghine_2

ここまで日が昇ると、少し温もりも出てきます。

マーラーの2番の終楽章の圧倒的なフィナーレにふさわしい輝かしさ。

アバドを偲んで何度も聴きました。

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2018年1月20日 (土)

ロッシーニ 「セビリアの理髪師」 アバド指揮 プライ

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菜の花と富士。

毎正月に、実家に帰るとこの景色が望める幸せ。

今年は、晴れの日が続いたので、富士がくっきり、すっきり。

おまけに、今年、ちょっと不安視した駅伝も、見事に完勝。

ありがたき正月になりました。

そして、1月も後半に至ると思い起こすのが、クラウディオ・アバドの命日。

あれから4年です。

今年のアバドの命日には、ことし2018年に、没後10年のアバドの朋友、ヘルマン・プライとの共演を。

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   ロッシーニ 歌劇「セビリアの理髪師」

アルマヴィーヴァ伯爵:ルイジ・アルヴァ バルトロ:エンツォ・ダーラ
ロジーナ:テレサ・ベルガンサ      
フィガロ:ヘルマン・プライ
バジリオ:パオロ・モンタルソロ     フィオレロ:レナート・チェザーリ
ベルタ:ステファニア・マラグー     士官:ルイジ・ローニ

   クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団
                アンブロージアン・オペラコーラス
              合唱指揮:ジョン・マッカーシー
              チェンバロ:テオドール・グシュルバウアー
              ギター:バルナ・コヴァーツ

       (1971.9 @ワトフォードタウンホール、ロンドン)


初めて買ったアバドのオペラのレコード。

その前には、「チェネレントラ」が出てはいたけれど、すぐには手が出ず、より有名なセビリアの登場を待ち、飛びつきました。
それでも、ちょっと半年ほど遅れて、横浜駅西口にあったヤマハで、お正月に購入。
川崎大師の帰りでした。
3枚組のズシリと重いカートンボックスに入った豪華なオペラのレコード。
所有する喜びにあふれてました。

アバドは、昨年亡くなったゼッダの改定版を前面に押し立てて、ロッシーニ演奏に革新をもたらせた指揮者のひとりでありました。
過剰な装飾や、オーケストラに慣習的に追加された楽器や誇張を取り除いたスッキリとした軽やかなロッシーニ。

ブッファ的な側面ばかりで語られたロッシーニには、セリアもグランドオペラもあったと見直された60年代半ば。
その流れで、フィルターを取り除いたロッシーニの音楽を体現させたのはアバドだと思う。

オモシロ可笑しいロッシーニのブッファに、生真面目に取り組み、端役に至るまで、すべての登場人物たちの歌に等しく目を配らせ、お笑いドラマを人間ドラマにまで昇華してしまった。
アバドが、ヴェルディのオペラに取り組む、その同じ姿勢がロッシーニの演奏にもあると思う。
だから、アバドのロッシーニは、セビリアよりは、チェネレントラ、そしてさらにランスの旅の方がより素晴らしい。
ベルリンフィルでロッシーニのオペラをやってしまったところが、これまたアバドらしいところ。

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  1981年のスカラ座の引っ越し公演での「セビリア」は、薄給を「シモン」のS席に振り当ててしまったので、テレビ観劇となりましたが、終始、このレコードより、テンポも速めにとり、ダイナミズムも緩急も自在で、より劇場的な指揮ぶりでした。
そして、ポネルの回り舞台の面白さと、ヌッチ、アライサ、V・テッラーニと新鮮な歌手たちの鮮やかさも、いまや伝説級の名舞台と言えます。

もう46年も前のころ録音。
当時、ロンドン交響楽団は、アバドの意思にもっとも俊敏に反応することのできたオーケストラであったと思う。
オペラのオーケストラではないが、ゆえに新しい響きも紡ぎだすことができたし、そこはアバドの歌心もそっくり反映させることができている。
いまでも充分に、その鮮度を保っているロッシーニ演奏です。

当時、最高のロッシーニ歌いをずらりと揃えた配役。
ただ、昨今のよりスタイリッシュで、高度な技量を備えた歌唱からすると、やや古めかしさも感じたりもするのは贅沢な想いかもしれない。
そのなかで、燦然と輝いているのはベルガンサのロジーナ。
清潔さただよう麗しくも正しき歌。
チェネレントラでの歌唱とともに、しっかりと耳に残しておきたい歌唱です。

ヘルマン・プライの当たり役フィガロ、うますぎの感もなくはないが、そして、思いのほか声の威力も気になるところだが、その人懐こい歌声は、こうしたイタリアものでも魅力的。
プライの明朗快活な歌は、モーツァルトの同役とともに、フィガロが当たり前のように同一人物であることを強く感じさせます。
そして、わたしたちは、ここに聴くプライの声で、彼の歌うパパゲーノやグリエルモ、果ては、ベックメッサーやヴォルフラムなどをも思い起こすことができる。
それほどに、ヘルマン・プライの声は、自分にとって馴染みの声なのです。
アバドは、プライとの共同作業を多く行っていて、スカラ座のフィガロの結婚では、伯爵までも歌っているし、ずっと後年、ウィーンフィルとの第9ではバリトンソロもつとめている。
そして以前にも書いたけれど、アバドのヴォツェックにもチャレンジする予定もあった。
アバドが病に倒れる前は、ワーグナーへの挑戦として、マイスタージンガーやタンホイザーの名前もあがっていたので、もしそれが実現していれば、プライのザックスなんてのもあり得たのかもしれません・・・。

ヘルマン・プライは、1998年7月22日に69歳で亡くなりました。
そして、クラウディオ・アバドは、2014年1月20日に。

アバドの命日に、偉大な歌手と指揮者を偲んで。

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過去記事

 「チェネレントラ」 アバド LSO

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2018年1月13日 (土)

「町人貴族」「人魚姫」 大野和士指揮 東京都交響楽団

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サントリーホールのエントランスには、Happy New Yearが。

その写真を撮って、都響のパンフを貼り合わせてみました。

    東京都交響楽団 第846回 定期演奏会

  R・シュトラウス   組曲「町人貴族」

  ツェムリンスキー  交響詩「人魚姫」

     大野 和士指揮 東京都交響楽団

              (2018.1.10 サントリーホール)


両曲とも、コンサートで聴くのはお初の新年演奏会初め。

大好きな二人の作曲家、ことに、ツェムリンスキーを聴き逃す手はない。

ピアノを中心に、打楽器各種を交えた室内編成のオーケストラ。
それぞれのソロがふんだんにあるものだから、都響の名手たちを聴く楽しみもある。

モリエールの町人貴族につけたリュリの音楽の編曲も、シュトラウスの手にかかると、煌びやかで、ちょっと甘味なテイストに。
シュトラウスのオリジナル作曲部分は、もっと手がこんでいて、古典風な姿をまといつつも、ナクソスのアリアドネを思わせる、地中海風な明快さと透明感のあるサウンドが実に心地よいのだ。
実演で聴くと、集中して聴くものだから、そんな想いを容易に抱くことができました。
 週のなか日、連休疲れもあります、そんな聴衆の中には、この心地よい音楽と滑らかな演奏に、すやすやとお休みになられる方もそこそこ見受けられました。

ドン・キホーテやばらの騎士よりの引用がチラホラ出てくる、終曲が音楽としてもこれまた面白くて、あと、ラインの黄金が出てくるところも、今回はちゃんと確認できたのもうれしかった!
洒脱なエンディングもナイスでした。

という感じで、前半は、肩慣らし的に。

後半は、お目当ての「人魚姫」。
「抒情交響曲」は、レコード時代、マゼール盤で開眼し、「人魚姫」は、かれこれ25年ほど前に、シャイーのライブ演奏を録音し、それを飽くことなく聴きまくり、その後に出たスタジオ録音のCDで、この曲が愛おしい存在となりました。

悲しい、そして同情をそそる、アンデルセンの童話につけられたツェムリンスキーの音楽は、ともかく美しい。
ライトモティーフも用いて、全3楽章が有機的につながり、アンデルセンの物語に沿って、その筋を思いながら聴くもよし、大オーケストラの音の洪水や、煌めくような音のシャワーや甘味なるサウンドに思い切り浸るもよしだ。

ピアニシモから強大なフォルテまで、演奏会で聴くことができたので、普段、まわりに気兼ねしてしまうCD聴きとは大違いに、音楽そのものにのめり込むことができた。

大野さんは、シュトラウスでは譜面を見ながら、ツェムリンスキーでは、譜面台も置かず、暗譜で指揮をした。
大野さんの指揮は、新国のトリスタンでも感じたことだが、指揮棒や指先から、音符が音になって振り撒かれるように、音楽そのもに一体化してしまうもので、このツェムリンスキーでも、その指揮姿を拝見しているだけで曲のイメージが沸き上がってくる。
オーケストラもこうした的確で安定的な指揮だと、きっと演奏しやすいであろう。

都響ならではの分厚い響きと、繊細な音色を堪能できたが、今回の演奏は浮ついたところがなく、キリリと引き締まったもので、大人の世紀末サウンドと感じました。
コンサートマスターの矢部さんの奏でる、麗しの愛の動機と、そこに合いの手を入れる木管の煌めき・・・、なんて美しいのだろう、と恍惚としてしまうことしきりでした。

人魚姫が死をえらび、海の泡となって立ち上ってゆく最終場面は、さながらレクイエムのようで、哀しさに身もつまされるような想いになりました。
心を込めた演奏ゆえ、ほんとうに沁みわたりました。

ホールを出ると、冷たい冬が待ってましたが、わたくしは、あのヴァイオリンの旋律を何度も思い浮かべながら暖かな心持ちで街を歩きました。

 当ブログの「ツェムリンスキー」記事


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ツェムリンスキー 「人魚姫」 と同じ香りのする音楽

 シェーンベルク 「ペレアスとメリザンド」
            「清められた夜」

 コルンゴルト  「シンフォニエッタ」

 アルヴェーン  交響曲第4番「海辺の岩礁から」

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2018年1月 1日 (月)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ティーレマン

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2018年が始まりました。

本年もよろしくお願いいたします。

ゆっくりのペースで、今年も「さまよえるクラヲタ人」を書き連ねてまいりたいと存じます。

新年、のっけから、超大曲を。

これまでにないことをしてやろうと思いまして。
まだ全部聴いてなかったこのBOX。

で、なにも、正月早々にこれを聴いたわけでなく、年末の夜間に、日々、少しづづ聴き進め、大晦日に大団円を迎えた聴き方をしたものです。

かつての昔の、レコード時代の豪華な装丁と重量感がウソのような紙製のBOXに、少し陳腐なジャケット画像。リブレットは文字だけで、舞台写真のひとつもありゃしない。

でも、この音盤に収録された演奏は、はなはだ、重厚で壮麗なものでございます。

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   ワーグナー 舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」

      クリスティアン・ティーレマン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
                        バイロイト祝祭合唱団
            合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ
            演出 :タンクレート・ドロスト

                 (2008年 バイロイト音楽祭)



Rheingold_2008

ワーグナー 楽劇「ラインの黄金」

 ウォータン:アルベルト・ドーメン   ドンナー:ラルフ・ルーカス
 フロー :クレメンス・ビーバー    ローゲ:アルノルト・ベズィエン
 フリッカ:ミッケーレ・ブリート     フライア:エデット・ハラー
 エルダ :クリスタ・マイヤー      ファゾルト:クワンチュル・ユン
 ファフナー:ハンス・ペーター・ケーニヒ アルベリヒ:アンドリュー・ショア
 ミーメ :ゲルハルト・シーゲル    ウォークリンデ:フィオヌーラ・マッカーシー
 ウェルグンデ:ウルリケ・ヘルツェ フロースヒルデ:シモーネ・シュレーダー

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ワーグナー   楽劇「ワルキューレ

 ジークムント:エンドリヒ・ヴォトリヒ   
 ジークリンデ:エヴァ・マリア・ウェストブロック
 フンディンク:クワンチュル・ユン     ウォータン:アルベルト・ドーメン
 フリッカ:ミッケーレ・ブリート       ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
 ゲルヒルデ:ソーニャ・ミューレック    オルトリンデ:アンナ・ゲーバー
 ワルトラウテ:マッティーナ・ディーケ 
  シュヴェルトライテ:シモーネ・シュレーダー

 ヘルムヴィーゲ:エデット・ハラー
  ジークルーネ:ヴィルケ・テ・ブルメルシュトーレ

 グリムゲルデ:アンネッテ・キューテンバウム  ロスワイセ:マヌエラ・ブレス

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ワーグナー  「ジークフリート」

   ジークフリート:ステファン・グールド    ミーメ:ゲルハルト・シーゲル
   さすらい人:アルベルト・ドーメン      アルベリヒ:アンドリュー・ショワァ
   ファフナー:ハンス・ペーター・ケーニヒ  エルダ:クリスタ・マイヤー
   ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン      森の小鳥:ロビン・ヨハンソン

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ワーグナー  「神々の黄昏」

 ジークフリート:ステファン・グールド  ブリュンヒルデ:リンダ・ワトソン
 グンター:ラルフ・ルーカス         ハーゲン:ハンス・ペーター・ケーニヒ
 アルベリヒ:アンドリュー・ショアー    グルトルーネ:エデット・ハラー       
 ワルトラウテ:クリスタ・マイヤー     第1のノルン:シモーネ・シュレーダー      
 第2のノルン:マルティナ・ディケ     第3のノルン:エデット・ハラー   
 ウォークリンデ:フィオヌーラ・マッカーシ ウエルグンデ:ウルリケ・ヘルツェ       
 フロースヒルデ:シモーネ・シュレーダー

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2006年から2010年までの5年間の「リング」は、ティーレマンとドルスト演出による上演。

少し、戦後のバイロイトのリングを振り返ってみよう。

 1951~1958   ヴィーラント・ワーグナー クナッパーツブッシュ
                              カラヤン
                              カイルベルト
                              クラウス

 1960~1964   ヴォルフガンク・ワーグナー ケンペ
                             クロブチャール

 1965~1969   ヴィーラント・ワーグナー   ベーム
                             スウィトナー
                             マゼール

 1970~1975   ヴォルフガンク・ワーグナー  シュタイン

 1976~1980   パトリス・シェロー        ブーレーズ

 1983~1986   ピーター・ホール         ショルティ
                              シュナイダー

 1988~1992   ハリー・クプファー        バレンボイム

 1994~1998   アルフレート・キルヒナー    レヴァイン

 2000~2004   ユルゲン・フリム         シノーポリ
                              A・フィッシャー

 2006~2010   タンクレート・ドロスト      ティーレマン

 2013~2017   フランク・カストロフ       ペトレンコ
                               ヤノフスキ

66年間にわたる、バイロイトのリングの系譜をこうして一望してみると感慨深い。

演出上のメルクマール的な存在は、51年の新バイロイト様式のスタートだったヴィーラントのものと、さらにそれを色彩的にも進化させた65年のもの。
 そして、76年のシェロー演出。血族以外の演出家が、バイロイトに革新をもたらし、実験劇場たる存在をならしめた。
 あとは、さらに社会性を付加し、演出に人類の問題さえも語らせた88年のクプファー。
それ以降は、完全に観たわけではないが、バイロイトのリングは、世界のなかの劇場のひとつみたいな存在のそれに、なってしまったような気がする。

音楽面でいえば、クナッパーツブッシュとカラヤンで始まって、そのどのサイクルも、その指揮者の力量と成長を垣間見ることのできる素晴らしいものといえると思う。
しいてあげると、雄大な叙事詩をえがいたクナッパーツブッシュ。
凝縮した熱いドラマを聴かせるベーム、鋭い目線でライトモティーフをクリアに聴かせたブーレーズ、巨大な造りで、ぐいぐい引っ張る一方で、とても繊細な場面も作り出すティーレマン。
あとは、ペトレンコで、5年を全うしていたら、さらに完成度が上がったであろうと思わせるが、とても新鮮な切り口を見せてくれた。
シノーポリも同じく、ミレニアムの年の1年で急逝してしまったものだから、その後の熟成を知ることができなかった。でも、あとを継いだフィッシャーが何気に素晴らしい。
同じく、投げ出したショルティのあとのシュナイダーもよかった。
さらにシュタインの安定感とベームを思わせる熱さも懐かしい。

音楽の方は、音源がかなり復刻していて、バイエルン放送局の質の高い録音に感謝しなくてはなるまい。

  ---------------------------
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このサイクルの演出は、演劇・映画系の出身のドロスト。
FM放送時の解説も聞いてるはずだが覚えてない。
海外紙の評論を遡って見てみたが、あまりない。
わずかにみつけたものを読んでみたら、「SF」とか、「スターウォーズ」とかの言葉が見受けられた。
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そんな認識のもと、舞台画像をあれこれ検索してみたら、なるほどのもので、ただし神々は ホワイト軍団で、正しき正統派。
アルベリヒたち、ニーベルング族は、異星人で、ダークサイド。
巨人さんも、同じく、正統派への対抗勢力。
ジークムントとジークリンデ、フンディングたち、ギービヒ家は、人間界。
ラインの娘、ノルンたちは、異界。
で、何故か、ジークフリートは、毛深い荒人。
なんだかよくわからんが、属腫を見た目でも際立たせようとしたのだろうか。
神と異界と人間界。
いずれにしよ、あまりファンタジーを感じない、そしてワーグナーの音楽と結びつくとも思えない感じだけど・・・・

舞台は想像の域を脱しないが、音楽面は、非のうちどころのない完璧さ。
全4部作を通して聴くと、ティーレマンのワーグナーの音楽に対するぶれのない取組みかたがよくわかる。
ライトモティーフは、そのモティーフの意味や存在が本来持ってる意味合いのまま、ちゃんとしっかり鳴る。いろんなところに絡み合って出てくるそれらのモティーフも、ちゃんと意味を持ちながら聴こえ、なおざりに鳴らされているようには聴こえない。
 凡庸な演奏だと、ただ単に主要なモティーフだけを、それこそ気持ちよくなぞっただけで、通り過ぎてしまうけれど、ティーレマンは、そうした表面的なワーグナーの音楽の快楽から遠いところにいる。
 ティーレマンが登場したころは、その音楽への取り組み方が執拗であったりして、無暗にパウゼを入れて見たり、タメが大時代めいていたりで、効果取りに聴こえてしまうことが多かったが、バイロイトで指揮をするようになり、そのスケールの大きな音楽造りは、より自然になってきて、先に述べたように、ワーグナーのドラマを音で、しっかりと語るようになったと思う。
 そういう意味で、舞台上でどんな演出が行われていても、音楽はワーグナーの本質をしっかりと表出しているから安心なのだ。
 4つの楽劇が、それぞれの特質のあるがままに、聴かれることのうれしさ。
とりわけ、ワーグナーの作曲技法がより高度に達した「神々の黄昏」は、長大な物語を、全4部作の終結として、ひとつひとつ紐解いてゆく面白さと充実感にあふれてる。
 さらに、このティーレマン・リングは、普段、退屈しがちな地味な対話の場面も、息を抜かせることなく聴かせてくれる。
「ワルキューレ」のヴォータン夫妻の会話、(わたしは大好きな場面の)ヴォータンの独白。
「ジークフリート」のミーメとヴォータン、エルダとヴォータン、「神々の黄昏」の3人のノルン。そんな場面たち。

5年間のティーレマン・リング、一部欠落もあるが、エアチェックしたもので、毎年聴いたけれど、スタート時のものより、こちらの2008年がよりよくて、さらに最終の2010年は歌手の按配も含めて、もっと充実していた。

ほの暗い声を活かし、悩めるヴォータンとなったドーメン。
いまでも現役ばりばり、同じみの明快かつ力強いグールドのジークフリート。
シーゲルの芸達者なミーメと、ベヅィイエンの狡猾そうなローゲ、美声のケーニヒのハーゲン。
あと感慨深く聴いたのが、ヴォトリヒのジークムント。以前より、喉の奥の詰まったような声で窮屈な思いを抱くことが多かったが、今回、良い録音のせいか、その暗めの声質が、とても悲劇臭を醸し出していて何とも味わい深く聴いたものだ。
そのヴォトリヒも2017年、急逝してしまった。新国で何度か聴いたのも思い出のひとつ。

好調な男声陣にくらべ、女声陣はやや弱いか。
リンダ・ワトソンは力演だけれど、馬力に頼り過ぎた感じ。
ウェストブロックは、ビジュアルはいいが、ちょっと大味。
でも、クリスタ・マイヤーのヴァルトラウテがとてもよかった。

以上、ともかく、ティーレマンの指揮につきる、2008年リング・ライブでした。
もう10年前。
ことし、リングはお休みで、次は4人の女性演出家による共作になるとか。

元旦に、黄昏の3幕後半を聴き直し。

今年も、元気で、ワーグナーを中心に、大好きな音楽が聴けますように。

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