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2018年3月

2018年3月31日 (土)

ワーグナー 「パルジファル」 レヴァイン指揮

Azumayama_1

わがふるさとの麗しき季節の1枚。

先週の1枚ですので、桜はまだ三分咲きぐらい。

いまごろ、ピンク色に染まっていることでしょう。

花ひらく春。

今年の復活節は、少し早めで、聖金曜日が30日、イースターは、4月1日。

ということで、年中聴いているけれど、とりわけ、春のこの時期にふさわしい「パルジファル」。

けがれなき愚者が、目覚め、放浪をした末にたどり着く荒廃した聖杯の地。
聖なる槍が戻り、聖金曜日の奇跡が起こる。
まずは罪深き女に洗礼を施し、女ははらはらと涙する。
ワーグナーの書いたなかで、もっとも美しい音楽のひとつ。

バイロイトの戦後のパルジファルの演出は、7演目あり、伝統に根差した静謐なものから、2000年代になると、わたくし的には、激化、いや劣化も見受けられる内容になってしまった。(と思う)

バイロイトの聖金曜日のシーン(一部、そうと思われるシーン)。

  ヴィーラント・ワーグナー 1951~1973

Parsifal_3a

    --------------

  ウォルフガンク・ワーグナー 1975~1981

Wolfgang_1

    ---------------

 ゲッツ・フリードリヒ  1982~1988

Friedrich

    ----------------

 ウォルフガンク・ワーグナー 1989~2001

Wolfgang_2

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 クリストフ・シュルゲンジーフ  2004~2007

Shurugen

   -------------------

 シュテファン・ヘアハイム  2008~2012

Herheim

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 ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルク 2016~

Laufenberg

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こうしてみると、緑系の色柄が多い。
春は、芽吹く季節だし、冬が終わり、春がやってくることは、信仰でも救いの証ともなる。

それを感じさせるのは、ワーグナー兄弟のものぐらいで、ほかはさっぱりで、情報過多の目まぐるしい演出の果て、疲れ切った聖金曜日の場面みたいに感じる。
そして、ワーグナー兄弟のときのパルジファルは、いずれも長く上演され、恒例行事のような、ひとつの儀式化した意味合いをも持つものだったが、不評すぎて打ち切られたシュルゲンジーフのもの以降、5年のサイクルになったようだ。
パルジファルに特別な意味合いをことさらに持たせることなく、リングも含めたほかの諸作品と同等の位置づけとなったとみてよい。

でも、自分は、古いものほど好きだな、パルジファルは。
静的・神的であって欲しい。
中東を舞台になんてしてほしくないし、政治色を入れると、すぐに色あせちゃうし。。。

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戦後バイロイトでのパルジファル上演を指揮者でみてみると、ダントツでクナッパーツブッシュ。

  クナッパーツブッシュ  13年
  レヴァイン       10年
  シュタイン        8年
  シノーポリ        6年
  ブーレーズ        5年
  ガッティ         4年
  ヨッフム         3年


あとは、2年以下、単年の指揮者も。
ティーレマンは、まだ1年度しかパルジファルを振っていないが、録音した2001年の演奏は実に素晴らしい。

クナに次いで、G・フリードリヒとウォルフガンク・ワーグナーの演出の指揮を受け持ったレヴァインの登場年度が10ということで、これはバイロイトのパルジファル史上でも画期的なこと。

手元には、1985年のバイロイト正規録音、1990年と1991年のバイロイト放送録音、1991,92年のメット・スタジオ録音があり、1週間かけて、そのすべてを聴き直してみた。

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  ワーグナー 舞台神聖祭典劇「パルジファル」

     アンフォルタス:サイモン・エステス  
     ティトゥレル:マッティ・サルミネン
 
     グルネマンツ:ハンス・ゾーティン   
           パルシファル:ペーター・ホフマン

         クンドリー:ヴァルトラウト・マイヤー 
           クリングゾル:フランツ・マツーラ

 ジェイムス・レヴァイン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
               合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
                  (85年7月バイロイト)

    
アンフォルタス:ベルント・ヴァイクル 
    ティトゥレル:マッティアス・ヘレ
 
    グルネマンツ:ハンス・ゾーティン   
    パルシファル:ウィリアム・ペル

    クンドリー:ヴァルトラウト・マイヤー 
    クリングゾル:ギュンター・フォン・カイネン

 ジェイムス・レヴァイン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
               合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
                  (90年8月2日バイロイト)

     アンフォルタス:ベルント・ヴァイクル 
     ティトゥレル:マッティアス・ヘレ
 
           グルネマンツ:ハンス・ゾーティン   
             パルシファル:ウィリアム・ペル

             クンドリー:ヴァルトラウト・マイヤー 
             クリングゾル:フランツ・マツーラ

 ジェイムス・レヴァイン指揮 バイロイト祝祭管弦楽団/合唱団
               合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
                  (91年7月26日バイロイト)

     
アンフォルタス:ジェイムス・モリス  
             ティトゥレル:ヘンドリク・ロータリング

           グルネマンツ:クルト・モル      
             パルシファル:プラシド・ドミンゴ

           クンドリー:ジェシー・ノーマン    
             クリングゾル:エッケハルト・ウラシハ

 ジェイムス・レヴァイン指揮 メトロポリタンオペラ管弦楽団/合唱団
               合唱指揮:ノルベルト・バラッチュ
                  (91年4、92年6月NYC)

それぞれ、ジェイムズ・レヴァインの41歳から48歳にかけての演奏に録音。
ほぼ4作均一、高度に練られた、そして音楽の初々しさと、ゆったりと流れる川に身を任せることのできる安心感を伴った演奏。
演奏時間の長短は、演奏の良し悪しには結びつかないが、レヴァインのワーグナーはテンポがゆったり。

    トスカニーニ                          4時間48分
    グッドール                           4時間46分
    レヴァイン(85年)                 4時間38分
    レヴァイン(メット)       4時間32分
    クナッパーツブッシュ(62年) 4時間10分
    クナッパーツブッシュ(56年) 4時間19分
    ブーレーズ(70年)       3時間48分
    ブーレーズ(2005年)       3時間35分

均一といいながらも、当然にメットのオーケストラは機能的に完璧なれど、劇場空間もひとつの楽器のようになったバイロイトの雰囲気豊かなオーケストラの音色には遠くかなわない。
ひとりひとりの奏者の音色が明るく、技量的にも万全なれど、やはりドイツのオーケストラ奏者の奏でるちょっとしたフレーズにもかなわない。
 そして、ここでもバラッチュの合唱指揮はあるものの、メットの合唱団の言葉ひとつひとつはきれいすぎる発声で、さらりとしすぎている。
あと、なんたって、ドミンゴのパルジファルは、その彼のヴァルターと並んで、わたくしには異質で、テカテカと輝かし過ぎるし、ひっかかりの少ない滑らかな独語がどうも・・・・
あと、ノーマンの立派にすぎるクンドリーもおっかなすぎる。
モリスもウォータンみたいなアンフォルタスだし。。
 って、メット盤をけなしすぎるのは、やはり、バイロイトの録音が素晴らしいから。

レヴァインの明快で、よどみのない指揮は、バイロイトの劇場あってのものだと思う。
リングにおいても、シネマティックなメットの演奏よりも、ずっと大叙事詩然としていて勇壮なものだった。
 ホフマンのヒロイックかつ剛毅なパルジファルに、硬質な声で二面性を見事にうたったマイヤーに、年とともに深みを増していったゾーティンのグルネマンツなどは耳に馴染みとなりすぎて、安心の極み。
ザ・クリングゾルともいうべき歌手、マツーラもファンタスティックだし、早くに亡くなってしまったアメリカのヘルデン、ペルの91年盤は素晴らしい声だと思う。

ということで、現役指揮者で、もしかしたらもっともパルジファルを指揮している人、レヴァインのものをまとめて聴いてみた次第。

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というのも、去年暮れから音楽界に衝撃を走らせたレヴァイン・スキャンダルのことがあったから。
こんなに豊かな音楽を作り出していた人が何故?

デュトワの女性に対するセクハラ、レヴァインの同性に対するセクハラ。
アメリカ発のセクハラ訴訟パンデミック。
時効もなく、大昔のことまで掘り起こされる。
行き過ぎた問題意識の掘り起こしは、ときにいかがかと思うが、誰もが聖人君子のようにふるまわらなくてはならないのだろうか。
ことに、映画監督や音楽家、とくに指揮者のように多くの人を統率する立場の芸術家は、今後ますます萎縮せず、正々堂々と音楽に向き合っていって欲しいと思う。
ほんと、ややこしいことになったもんだ。

で、バーンスタインに次ぐアメリカ音楽界のヒーロー、レヴァインも告発を受け、メットからもその職を解雇され、一転ダークな存在へと化してしまった。
日本と同じように、アメリカのマスコミの報道も容赦なく、レヴァインが、メット解雇を不服として損害賠償を起こしているが、悪の親玉のような写真を使用されているし、告発者を取材し、卑劣な出来事を詳細に報道している。

告発の内容は、1965年から70年代初めへとさかのぼる。
告発者は、ヴァイオリン、ピアノ、ベース、チェロのそれぞれ男性の演奏者4人。
ジョージ・セルから、指揮者としての才能を認められ、その後クリーヴランド音楽院の学生だったなかから、20人ほどがそのレヴァイン(当時20~30代)のもとにアンサンブルオケとして集められた。(なかには、クリーヴランド管の首席チェリストL・H氏も)
そこでは、レヴァイン・ナイトと称する閉ざされた関係のなかで、音楽に対する献身と決意を求められた。
衣食住もともにし、暴力的な性的関係も求められたと証言している。
なかには、母親とどちらを選ぶかなど、極端な選択も強いられたと・・・・
もっとあるけど、ここでは書けない・・・・。

70年代初めと言えば、レヴァインがマーラーやヴェルデイのオペラで鮮烈なデビューを果たしたころだ。
80~90年代をピークに、その後、体調も悪くし、ミュンヘンフィルやボストン響の指揮者でもパッとせず、病気がちだったレヴァイン。
今回の件で、音楽界からは、完全に抹殺されてしまうことだろう。
メットのHPでは、レヴァインは名前だけで、その経歴など一切消されているし、同様に、デュトワもロイヤルフィルを首になり、HPから名前すら消えている・・・・

彼らの音源だけは残るわけだが、その残された音楽たちには罪はない。
でも、わたし、レヴァイン・ファンなの、デュトワ・ファンなのとは、言いにくいことになってしまった。
NHKも忖度して、彼らのCDは放送できないのだろうか?
レコード会社も、彼らのCDはもう販売しないのだろうか・・・うーーむ。
つくづく、ややこしいことになってしまったものだ。

今回のレヴァインのパルジファルのなかで、一番充実していて、気合の入っていたのが、91年の上演の第2幕だ。
酒池肉林のクリングゾル城の花の乙女たちの怪しさとクンドリーの悩ましさ、それは、新ウィーン楽派を先取りするような斬新さがあるが、その描き方が明快で、その後のパルジファルの神性への目覚めも鮮やかな演奏に感じるのだ。

今年の復活節は、誰もが持つ人間の内面に存在する罪の深さ、そしてその人間の営みの光と影、なんてことも考えたりもしました。

「マタイ」とともに、「パルジファル」、その内容と音楽の存在も大きいです。

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2018年3月21日 (水)

コルンゴルト シンフォニエッタ アルブレヒト指揮

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もう散ってしまった河津桜。

芝公園の一角から。

春分の日は、あいにくの雨と寒の戻り。

暑さ寒さも彼岸まで、となりますかな。。

Korngold_sinfonietta_1

    コルンゴルト 大オーケストラのためのシンフォニエッタ

   ゲルト・アルブレヒト指揮 ベルリン放送交響楽団

              (1983.9 @イエス・キリスト教会)

雨音を聴きながら、大好きなコルンゴルトのシンフォニエッタを。

2年前の晩秋に、サッシャ・ゲッツェル指揮する神奈川フィルハーモニーの演奏会で聴いた記憶が脳裏から離れない。
みなとみらいホールの美しい空間が、コルンゴルトの煌めく音たちで埋まってゆき、それらが、わたくしにきらきらと降り注いでくる、そんな至福の時間、でももうそれは一期一会で会うことはできない。

あれ以来、久方ぶりに聴くシンフォニエッタ。

この甘くて、切なくて、そして愛すべき曲がほんと好き。

前に書いた記事から、そのまま引用して曲のご紹介。

<幼少期から音楽の才能の片鱗をあらわしたエーリヒ・コルンゴルトは、父に巧みにプロデュースされ、ウィーンの寵児としてもてはやされるようなる。

少年、エーリヒの最初の作品は、8歳のときに書いた歌曲で、その後、カンタータやワルツを書いたあと、ピアノのためのバレー音楽「雪だるま」を11歳で作曲し、これがセンセーションを引き起こすこととなります。

1911年、マーラーの没したの年に14歳にして、初の管弦楽作品「劇的序曲」を作曲。
この曲は、ニキシュとゲヴァントハウス管によって初演され、ここでも驚きを持って聴衆に迎えられます。
この曲は14分あまりの大作で、のちの「交響曲」の片鱗をうかがうこともできます。

そしてその次に、コルンゴルトが取り組んだのが、4つの楽章を持つ43分の大曲
「シンフォニエッタ」と銘打ちつつ、大きな規模を持つ作品を完成させたのが1913年、16歳で、同年、ワインガルトナーとウィーンフィルによって初演され、大成功を導きだします。

シュトラウスや、マーラーやツェムリンスキー、その時代の先輩たちからアドバイスや影響を受けつつもすでに、成熟し完成型にあったその音楽スタイルは、のちのハリウッドでの明快で、煌びやかなサウンドも予見できるところもおもしろい。

本格交響曲のようには構成感や深刻さがなく、「Motiv des frohlichen Herzens」=「Theme of the Happy Heart」とされたテーマ、すなわち、「陽気な心のモティーフ」が全編にわたって用いられ、曲のムードや統一感を作り上げております。
このモティーフ、曲の冒頭から鳴ります。

Korngold_sinfonietta_2(CDリブレットより)


このいかにもコルンゴルト的なシャープのたくさん付いたテーマは、キラキラ感と羽毛のような優しい繊細さが半端ありません♯

第1楽章は、爽やかなムードがあふれるソナタ形式ですが、思わず、心と体が動かしたくなるようなステキなワルツもあらわれ、奮いつきたくなってしまいます。

スケルツォ楽章の第2は、打楽器が大活躍する活気あふれるダイナミックな場面、ここは、後年のオペラ「カトリーン」の劇場の場面を思い起こします。
それと中間部は「夢見るように」と題された場面で、静けさと抒情の煌めきを聴くこととなります。

聴くと、いつも陶酔郷へと導いてくれる、ロマンティックなラブシーンのような音楽が第3楽章。
これがいったい、16歳の青年の作品と思えましょうか。
ここでは、コルンゴルトの特徴でもある、キラキラ系の楽器、ハープ、チェレスタ、鉄琴が、夢の世界へ誘う手助けをしてくれるし、近未来系サウンドとして、当時の聴衆には感嘆の気持ちを抱かせたことでしょう。
ずっとずっと聴いていたい、浸っていたい、そんな第3楽章が大好きです。

そのあと、一転して、ちょっとドタバタ調の、不安な面持ちと、陽気さと入り乱れ、シュトラウスを感嘆せしめるほどの見事なフィナーレを築きあげるのが4楽章。
エンディングは高らかに、「陽気な心のモティーフ」が鳴り渡り、爽快な終結を迎えます。>

深刻さがこれっぽちもない、明朗かつ清々しい音楽。
聴いたあとに、幸せな気持ちになれます。
雨空の向こうに、屈託なく、そして楽しかった青春時代さえ、甘酸っぱく思い起こして透けて見えるようです。
若いコルンゴルトも、このあと、歴史と世界の時の流れに流されつつも、どこか取り残されていってしまう、そんな運命へと足を踏み入れ、その甘い音楽にも、ビターなほろ苦さを漂わすようにとなるのです。

この曲の音源は4種あって、リットンとダラス響はまだ未聴。
世界初録音のゲルト・アルブレヒト盤を新品で手にいれました。
1983年の録音、父の作品の録音にプロデューサーとして数々立ち会っていた、ジョージ・コルンゴルト(ゲオルゲ?)の名前もCDのリブレットには見て取れます。
息子ジョージは、70~80年代のコルンゴルト録音のほとんどをプロデュースした人で、この方がいなかったら、いまのようなコルンゴルト・リバイバルはなかったかもしれない。
しかし、惜しくも87年に、58歳の若さで亡くなってしまった。
息子や孫たちもいる様子なので、少し気になるところです。
(でも、ひとり見つけた息子は、顔そっくり、でも薬剤関係の会社の社長さんみたい・・)

サラリとした演奏を一般的な有名曲ではすることの多かったアルブレヒトさんですが、知られていない作品を掘り起こしての、数々の録音は、とても丁寧に、そしてその作品に即した説得力ある演奏を残してくれた。
そんななかのひとつが、このコルンゴルト。
イエス・キリスト教会の美しい響きも相まって、眩くも、輪郭のはっきりとした明確な演奏となってます。
ベルリン放送響(現ベルリン・ドイツ響)は、当時、リッカルド・シャイーが指揮者を務めていた頃で、その機能的性と明るい音色が、ここにも聴かれるように思います。

過去記事

 「アルベルト指揮 北西ドイツフィル」

 「バーメルト指揮 BBCフィル」

 「ゲッツェル指揮 神奈川フィル」

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2018年3月18日 (日)

ツェムリンスキー 「昔あるとき・・」 グラーフ指揮

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ちょっと前ですが、満開の梅。

葵の御紋のある神社。

芝東照宮、徳川家康を祀った神社です。

江戸時代、鎖国をして外部をシャットアウトしたけれど、四方が海だったからできたことかもしれない。
いまは、耳をふさごうと、目を閉じようと、おかまいなしに、世界の今とつながってしまう世の中となった。
まさに、おとぎ話のような昔のはなし・・・

1

     ツェムリンスキー 歌劇「昔あるとき」 Es War Einmal

   王女:エヴァ・ヨハンソン      王子:クルト・ヴェスティ
    カスパール:ペル・アルネ・ワールグレン  王:オーゲ・ハウグラント
  警官:オーレ・ヘッデガート    指揮官:クリスチャン・クリスチャンセン
  使者 :クリスチャン・クリスチャンセン 第一の待女:スッセ・リリソーエ

   ハンス・グラーフ指揮 デンマーク国立放送交響楽団
                 デンマーク国立放送合唱団

                     (1987.6 デンマーク放送)


ツェムリンスキー(1871~1942)には、8つのオペラ作品があって、そのうち6作品は入手しており、ときおり聴いてはいるものの、日本語解説がなく、一部は独語のみの解説書だったりして、概要はわかっても詳細な筋建てが不明だったりして、どうにも釈然としない。
オペラの楽しみは、リブレットを理解してのうえで聴きこむ(観る)に限ると思っているので。

ちなみ、未入手のあと2作は、第1作の「ザレマ」と、4作目の「馬子にも衣装」。
ただし、「ザレマ」は録音されたこともない。

ゆっくりとですが、ツェムリンスキーのオペラを順次取り上げたい。

今回は、2作目の「昔あるとき」。

1897年に作曲を始め、1899年に完成。
1900年に、ウィーンの宮廷歌劇場の芸術監督だったマーラーの指揮によって初演。
10数回上演されヒットしたものの、その後は1912年にマンハイムとプラハで上演され、以降半世紀以上も忘れられてしまったオペラ。
 それが、1987年、デンマーク放送によって蘇演され、その時に録音された音盤がこちらで、唯一の音源と思われます。
調べたところ、あと、1991年にキールで、1999年にロンドンで(A・デイヴィスとBBC)演奏されている。

87年の蘇演が、なぜデンマーク?

そう、このオペラの原作が、デンマークの詩人ホルガー・ドラックマンの「Der Var Engang(むかしむかし)」というお伽噺なのですから。
ドラックマンは、ヤクブセンと同年代で、当時は、ドイツやオーストリアでもとても人気がったそうで、この作品をマキシミリアン・シンガーという人が、独語訳されたものを脚本を書きし、ツェムリンスキーがオペラ化したもの。
 
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マーラーは、ツェムリンスキーの1作目オペラ「ザレマ」もミュンヘンで初演していて、作曲家としてのツェムリンスキーを大いに評価していた。
この2作目も、ウィーンで初演するにあたり、シナリオやツェムリンスキーの楽譜にも、かなり注文をつけたり、変更のアドバイスをしたりした。
この録音は、そうした経緯も入念に踏まえてなされたと記されてます。
 で、マーラーとツェムリンスキーのコンビは、次なるオペラ「夢見るゲールゲ」も、同じようにウィーンの劇場で上演しようと目論んだが、マーラーがウィーンでの職を投げ出したことで、見送りになり、その後1980年まで演奏されることはなかった。
 ちなみに、アルマ・シントラーと交際していたツェムリンスキーは、彼女の音楽の師でもあったが、そのアルマが、マーラーと結婚をしたのが1902年。
ツェムリンスキーはどう思っていたのでしょう。
そして、マーラーは、アルマが作曲家であることを快く思っておらず、遠回しにその筆を絶たせたりもした。(かつて観た映画でもこのシーンはありましたよ)
 ツェムリンスキーの仲間や、弟子筋は、シェーンベルク、シュレーカーやコルンゴルトなど、たくさんいて、すごく人がいいんじゃないかなとも思ったりもしてる。
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プロローグと3つの幕からなるが、全体で2時間弱のコンパクトなオペラ。

プロローグ

 むかしあるとき、イリヤという国に、美しいけれど気位の高くて、冷たい王女がいました。
その美貌を求めて、世界から求婚してくる人々はひっきりなし。
気のいい王とともに、男たちに謁見するものの、誰もかれも否定し、縛り首に。
そしてある日、北の国の王子とその友カスパールがやってくる。
王子は、自分の国の美しさ、四季や自然のすばらしさを歌い、求婚するが、王女はまったく関心を示さず、あなたと結婚するなら乞食と結婚した方がまし、と立ち上がり、処刑されたくなければ、ここに膝をついて慈悲を乞いなさいと言い放つ。
王子は、慈悲を乞うためにでなく、自分は愛のためなら膝を屈すると王子、怒った王女は出てゆく。

第1幕

 夜、宮殿の前庭。王子とカスパールはジプシーに扮して待機。
王女と待女たちが、輪回しで楽しそうに遊んでいるところへ、王子らがバラードを歌い気を引く。王子はゴブレットの中に金箔の玉を入れ、さらに蝶の羽を撒く。
王女はそれが欲しくなり、待女のひとりをつかわし、王女の髪に飾った薔薇の花との交換を申し出る。
しかし、王子は、ダメだ、王女の口づけをと望む。
 交渉決裂、王女は帰ろうとするが、その間に、カスパールを王のところに行かせる。
今度は、王子は魔法のヤカンを取り出す。沸騰すると考えたり、言われたりしていることがわかるんだと語る。
これまた王女の気を引き、彼女は民衆にどう思われているかを教えて、という。
ヤカンは、機智や美貌があり、王女は人気がある、でも本当は愛を知り、亭主を持つことでさらにその隠された魅力が引き出されるのだと回答。
王女はヤカン欲しさに、王子に口づけをする。
 そこに来た王様は、王女が知らない男性にキスをするのをみて、そのジプシーと出て行って、結婚しろと追放命令を下す。
王女や待女が嘆願しても無駄、王子は、彼女を引っ張っていく・・・(もちろん王子とは知らず)

第2幕

 海を渡って北の国へ。フィヨルドの森の中の粗末な小屋に到着。
ここで暮らすようになった二人。1幕とは、明らかに身なりも、行いも変わってしまった王女。
いまや、王女でなく、単にキャサリーンという名の女性。
でも、名誉やプライドはまだ残っていて、妻としての行いを思い起こさせようとする王子が、それらをやらせようとすることに対し、軽蔑の思いをもって拒絶する。
 王子は、しかし、それを強いることなく、古い北欧の歌を優しく歌う。
王子は、食料を得るために、森の中へ行くが、一人きりになってしまうことに、不安な王女は、行かないでくれと頼むが、王子はそれを振り切り出てゆく。
王女は、ひとり想いにふけり、哀しみ、遠く離れた地にいまこうして連れてこられたことを嘆くものの、当のジプシーの亭主を憎むことができない。
 そこへ、銃声がして、王子が飛び込んでくる。
かくまってくれということで、別室へ逃げ込む。
そこへ警官が追ってきて、男はどこだと王女を責めるが、亭主は重い病気で寝込んでいると答える。
こんどはそこに、カスパールがやってきて、怪しい男が、森のあっちへ逃げて行ったぞと告げ、警官と出てゆく。
 さぁ、一安心の王子。王女のためにも食料をと、また出ていこうとするが、今度は王女は行かないで欲しい、一緒にいて欲しい、わたしの中のなにかが変わったの、愛しているの、と語る。。。

第3幕

 街の市場で、まるでカーニバルのような雰囲気で、人々は飲んで歌って、踊っている。
王女は、夫婦で焼いた花瓶や壺を売るためにそれらを持って市場にやってきた。
そこへカスパールが登場、どうだい、君の亭主も、もしかしたらそこらへんで飲んで遊んでるかもしれないよ、と茶化すが、彼女は、主人は病気で家で寝ているの、とかばう。
そこへ王子(の姿)や兵士たちがやってきて、王女へさらなる試験をしかける。
王子は、彼女をちゃかして、キスをしてくれたら金貨をあげるよ、とまで言う。
拒む彼女、おまけに、喧騒のなか、売り物の花瓶たちが割れてしまい台無しに。
 ここで使者が大声で伝達。
王子はまもなく異国の王女と結婚式を挙げるが、その姫が急病になり、婚礼衣装を合わせることができない。誰か、同じ体格の女性で衣装合わせをしてくれるものはいないか?
そこで、王子が本物として登場。
小さくなってる王女をみつけ、あなたに衣装合わせをしてほしいと言い出すが、彼女は売り物が壊れ、お金がまったくない自分としてそれを拒絶、それでもどうしてもと王子とカスパールから懇願され着ることになり、美しい花嫁姿になり登場。
 王子は、彼女に、自分と王位をともに継いで欲しいと語る。
王女は、どんな豪華な位よりも、自分は愛のなかに最高の価値を見出したの、王冠よりも、金持ちの生活よりも乞食の妻でありたいのと熱く、優しく語る。
王子は大いに感動して、キャサリーンと声をかける。。。。
 その声に、ジプシーの夫の声と同じ響きを聴き、王女は涙を流して、あなた、あなたなのと、泣きだしてしまう。
カスパールは、さぁ人々よ、めでたいニュースを聴くがよいと宣言。
王子は人々に、長い旅は終わり、ここにいま自分の運命をみつけた。
みなさんは、妖精のゲームをここに見たのだ。
壺焼きの妻が、イリヤの国の王女だったのだ、そしていま私と結婚する!
 人々は喝采し、王子を称える。

                 

CDの独英のみの解説書をたよりに、ざっとこんな感じの筋立てかと。
ちょっと時代めいてるけど面白いでしょ。

そう、「トゥーランドット」とシェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」なんですよ、雰囲気が。

1922年に、この劇作に忠実に作られたデンマーク映画が、ネット上で見ることができました。復刻されたもので、しゃれたピアノソロをバックに、一部の欠落は画像で補うものではありますが、このドラマの大筋は、そちらでもつかむことができました。
この映画が原作に忠実だという前提で、ツェムリンスキーのこのオペラとその台本が端折ったところを補うと。
 
①プロローグで王子が首をはねられなかったのは、逃げ出したお気に入りのオウムが戻ってきて気分がよかったからという理由もひとつ。
②追い出されて悩んだ王子のもとに、爺さんの妖精さんがあらわれ、人の耳を魅了するガラガラ(くるくる回すヤツ)と未来が見える魔法のヤカンを、将来の幸せのためにと渡す。
③王女と待女を魅了したのは、そのガラガラとヤカン。
王子は、最初はキスでガラガラを渡し、次のヤカンで、王女の部屋の鍵を。
④夜中に王子は、王女の部屋で待女付きで一晩を過ごす。
カスパールは、王に対し、デンマーク王子と結婚させなければ、軍が攻めてくると脅したりする。そして、王女の部屋にいざなって、そこにいる王子を発見、そして追放。
⑤異国の地、それはデンマークで、王女はその生活に馴れ、王子と共に神に祈ったりする。そして窯業の職人としての夫をサポート。市場に二人で売りに行くが、トラブルで、王女だけが市場へ。
しかし、野営の兵士に見つかり、商品はこなごなに砕かれ、逃げ惑う。
悲しみのうちに帰宅し、事情を説明したところ、妻は悪くない、くそっとばかりに武器を手に仕返しに行き、殺傷。それを見た警官が家に訪ねてきて、夫を病として匿う王女。
⑥結婚式には、王女の父も、よろよろとやってくる。

あとはだいたい同じ。
手の込んだ仕掛けが、実は本筋の愛情育成になったわけで、なにも王子がそこまで、それから、幾重にもわたるお試しが、くどくも感じるが、そこはまあ、おとぎ話の世界ということで。
オペラに加え、古き映画も見ることで、作品理解が深まるものと思います。



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この古風なフェアリー・テイルにツェムリンスキーがつけた音楽は、マーラーがその背後にあるように、まだシュトラウスの「サロメ」が登場する5年前の音楽シーンを物語っている。
耳に馴染みよい、ワーグナー初期、フンパーデインク系統のオペラの流れがここにあります。
しかし、牧歌的な雰囲気のなかに、キラリとひかるツェムリンスキーの煌めいた筆致は、随所に聴かれます。
美的なオーケストラによる間奏曲、王子や王女のモノローグにおける無常感じる世紀末感など、実に素敵なものがあります。
前半と後半で、がらりと変わる王女の境遇と心情。
その描き分けも、見事なものがあります。

このあとのツェムリンスキーの音楽の進化・変貌も、これを基に聴くと大いに楽しめるものでした。

唯一の音源のこちら、デンマークのオーケストラが北欧風のクールなサウンドと、オーストリアの指揮者グラーフが引き出すツェムリンスキーサウンドを背景に、デンマーク由来の歌手たちが素晴らしい歌唱を聴かせます。
なかでも、ヨハンソンの王女の二面変貌の歌い分けは見事でありました。
2幕における、絶妙の心情変化とその吐露は泣かせますし、終幕のモノローグも!

舞台や映像で観てみたいオペラです。

Shiba_1

梅の写真をいまさら載せましたが、季節は早くも桜です。

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