バーンスタイン 100年
清々しい夏の空と、緑。
ほんと、美しい。
この郷里の景色は、ここへ行くと、ずっといつまでもいることができる。
レナード・バーンスタイン、生誕100年。
1918年8月25日、マサチューセッツ州生まれ。
1970年、大阪万博の年、海外のオーケストラやオペラが、こぞって来日。
そんななかで、ベートーヴェンの生誕200年も重なり、カラヤンはベルリンフィルでベートーヴェン・チクルス。
他のオーケストラも、ベートーヴェンが、そのプログラムに必ず載りました。
バーンスタインとニューヨークフィルの来日公演には、4番と5番の交響曲。
そのほかに、メインを「幻想交響曲」とするプログラムと、マーラーの第9のみとするプログラムが組まれました。
まだ小学生だったワタクシ。
すでに、伯父や従兄に感化され、クラシックマニアの端くれでした。
カラヤンが真っ先に好きになり、目をつぶって指揮真似をしたりの日々の中に、バーンスタインは、飛んだり跳ねたりの印象をまるで操作されるがようにして受けていて、ヨーロッパ本流からしたら違う、というイメージを受けてました。
同時に、初めて聴いたバーンスタインのレコード。
ベートーヴェンの第9であります。
従兄の家にあり、聴きました。
豪華なジャケットで、その重量と、そもそもの第9という音楽に関心しまくり。
でも、従兄の寸評は、歌が訛ってて気持ち悪い、バーンスタイン盤が欲しかったわけじゃなく、親戚のオバサンがもってきたもんだからしょうがないんだよ・・・的なコメントで、ワタクシは、即座に日本グラモフォンのカラヤン盤をお年玉で買った次第。
というわけで、わたくしの初バーンスタイン聴きは、ニューヨークフィルとのベートーヴェンの第9。
その後は、ニューヨークフィルとの旧ベートーヴェンは聴いてません。
いまいちど、子供の耳に届いた演奏を、おっさんの耳で聴いてみたいと思っておる。
その第9という意味では、1970年の来日公演を聴いた吉田秀和先生が、マーラーの第9が、あまり親しまれていなかった当時、曲の内容や、ブルックナーの第9との関連性などをふまえながら、バーンスタイン&ニューヨークフィルのことを論評していた。
ここから、マーラーという作曲家、マーラーの9番という曲への関心と、思い入れが始まったと言っていい。
で、高校生になって初めて手にしたバーンスタインのレコードが、マーラーの1番なんです。
マーラー入門編の、交響曲第1番は、当時、バーンスタインをおいて、ほかになかった。
ワルターじゃなくて、自分はバーンスタイン。
ほかに、メジャーのレコードでは、クーベリック、ハイティンク、ショルティ、バルビローリ、ホーレンシュタインぐらいしかなかった。
初めて手にした、バーンスタインのレコードに、マーラーのレコード。
日々、興奮し、何度も訪れる爆発に、青春のエクスタシーを感じたもんだ。
そこには、指揮台でジャンプして、汗だくになるバーンスタインの姿も、脳裏に浮かびつつ。
この高校生の頃から、もともとアバドを信奉していた自分が、カラヤンから脱し、バーンスタインを全面的に応援し、好むようになった次第だ。
乾いた録音も、なんだか生々しくって、この曲のスタンダートともいえる演奏だ。
1974年のニューヨークフィルの来日公演では、試験があって、でも勉強なんか無視して、日程上行けた、ブーレーズ指揮の演奏会で、同時に来日していたバーンスタインの姿を、客席で至近に拝顔することができました。
そのあと、1979年のニューヨークフィルとの来演は、聴くことができなかったが、大学の友人が聴いて、ともかく大絶賛していたのがマーラー1番。
さてさて、そのあと長じて、1985年のイスラエルフィルとのマーラーの第9を聴いたことが、わたくしのバーンスタイン体験の、最初で、最強の思い出です。
映像のトリスタンも、あらためて観なくちゃ。
生誕100年。
バーンスタインは、指揮者としての功績もさることながら、作曲家としての偉大さも、あらためて評価され、大いに演奏会のプログラムに載るようになりました。
バーンスタインが50代で、中学生の自分は、知ることとなり、いまや生誕100年。
わたくしも、歳を経ました。
みんな、だんだん、いなくなっちゃう・・・・
バーンスタインは、青春と若き日、それから壮年時代の、よき伴侶でもありました。
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