ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ネルソンス指揮
日本の夏、日本の祭り!
先日のみたままつりにて展示してあった「ねぶた」の山車。
いつかは全部見てみたいな、東北の三大まつり。
しかし、東北や北海道も含めた列島全体の今年の夏の猛暑といったらどうだろう。
8月の初めだというのに、もう暑さに疲れてしまった。
30度を切ると、やたらと過ごしやすく感じるのもどうしたもんだろう。
さて、この酷暑に、ハイカロリーな音楽を聴く。
ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 op.43
アンドリス・ネルソンス指揮 ボストン交響楽団
(2018.4 @ボストン)
今年の春に録音されたばっかりの、ネルソンス&ボストンのショスタコーヴィチ・チクルスの最新盤は第4番。
昨年録音の第11番との、濃ぃ~カップリング。
4番が大好きなわたくし。
ショスタコーヴィチの交響曲の好きな番号ランキングでも1位 → お願いランキング
好きで、もう20年ぐらい聴きこんできたけれど・・・だがしかし、いつも思う、さて、いま聴いた音楽はいったいなんだったんだろう、と。
以前にも、この曲を闇鍋みたいな交響曲と書いたけれど、指揮者には、そのなにもかもが詰まった音楽を、構成感豊かに全体を俯瞰しつつ、個々のユニークな場面の表出を、それぞれパッチワークのようにつなぎ合わせるという至難の能力を要求される。
当然に、オーケストラにも、個々の力量も含め、高密度のアンサンブルの妙も必要となる。
これまで聴いてきたなかでの、ベストは、ハイティンク(CSO)、サロネン、ラトルの3つ。
そして、ついに、現時点では自分的にトップが出現したと思ったのが、ネルソンス盤だ。
全編に渡って貫かれる緊張感と、高エネルギー、そして豊かな歌と、抜群の表現力。
ハイスピードで始まる冒頭だけれど、終楽章の不条理感漂う、意味ありげなつぶやきのような終結まで、一気に聴きとおすことができるし、最初の一音から、最後のチェレスタまで、一本、ピーンと張り詰めた線を感じ取ることができるのも、オペラ指揮者としてのネルソンスの実力でもあると思う。
2014年に、コンセルトヘボウを指揮した演奏を映像でも確認できるが、その時よりもテンポがより速くなり、より劇性を増している。
より高性能なボストン響を得て、より集中力も高めて、一気呵成に描いた。
でも繰り返しますが、一瞬たりとも気の抜けたようなヵ所はなく、緻密でありながら、それでいて爆発力に富んでいるんだ。
3楽章においての大フィナーレが、こんなに輝かしくも、虚しく響き渡る演奏をこれまでに聴いたことがなかった。
しかし、ボストン響は、ほんとに巧い。
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さて、過去記事からのコピペで4番のことを再褐。
>このまるで、闇鍋のような交響曲(そもそもどこが交響曲なんだろうか?)に、ショスタコーヴィチは何かを隠したのであろうか?
1936年、時はスターリン治下のもとにあった。
「ムツェンスクのマクベス夫人」がその悲劇性が受け、内外に大いに評判をとっていたが、スターリンが劇場で観たのちに、プラウダ紙はこのオペラを痛切に批判し、大キャンペーンを張った。
スターリンの大粛清の前哨戦ともいえる、芸術批判の始まりだった。
同時に期待の高まる交響曲への批判もなされるようになった。
第4交響曲の2楽章までを仕上げていたショスタコーヴィチは、反論せず、沈黙を守り、この交響曲の完成へとこぎつける。
完成後、訪ソ中だったクレンペラーに、この全曲をピアノで聴かせたというエピソードもあって、ショスタコーヴィチはこの曲にある程度の自信を持っていたはず。
そして、初演は、メトでワーグナー指揮者として活躍したドイツ亡命のスティードリー指揮のレニングラードフィルで行われるべく準備中だったが、劇場支配人から初演を自ら引っ込めるように示唆され、さもないと行政処分になると言われた。
こうして、初演は幻に終わり、実に25年後の61年、コンドラシンとモスクワフィルによって演奏されたのが本格初演だった。
「いろんな意味で、私のあとの交響曲よりも良い」とコメントしたと言われる。
「言葉は私とともに墓にあり、音楽のみが私の中でしっかりとある。ほかは歩み寄ることさえ怖がっている・・・・」<
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いまや、人気曲となった4番。
内外の演奏会でもよく取り上げられるようになりました。
ネルソンスは、9月にロンドンのPlomsでボストンとやります。
好敵手のセガンは、ロッテルダムとのボックスで発売されましたが、まだ未聴。
あと、ネットで聴いたボレイコとニューヨークフィルのライブも、なかなか暴れてましてよかった。
それと、来春のウルバンスキと東響のチケット買っちゃった。
加えて、最近、これもネット視聴したコヴェントガーデンのパッパーノ指揮の「マクベス夫人」、ウェストブロックの緊迫の歌唱がとても素晴らしかった(新国と同じR・ジョーンズの演出でDVD化期待」。
>このまるで、闇鍋のような交響曲(そもそもどこが交響曲なんだろうか?)に、ショスタコーヴィチは何かを隠したのであろうか?
1936年、時はスターリン治下のもとにあった。
「ムツェンスクのマクベス夫人」がその悲劇性が受け、内外に大いに評判をとっていたが、スターリンが劇場で観たのちに、プラウダ紙はこのオペラを痛切に批判し、大キャンペーンを張った。
スターリンの大粛清の前哨戦ともいえる、芸術批判の始まりだった。
同時に期待の高まる交響曲への批判もなされるようになった。
第4交響曲の2楽章までを仕上げていたショスタコーヴィチは、反論せず、沈黙を守り、この交響曲の完成へとこぎつける。
完成後、訪ソ中だったクレンペラーに、この全曲をピアノで聴かせたというエピソードもあって、ショスタコーヴィチはこの曲にある程度の自信を持っていたはず。
そして、初演は、メトでワーグナー指揮者として活躍したドイツ亡命のスティードリー指揮のレニングラードフィルで行われるべく準備中だったが、劇場支配人から初演を自ら引っ込めるように示唆され、さもないと行政処分になると言われた。
こうして、初演は幻に終わり、実に25年後の61年、コンドラシンとモスクワフィルによって演奏されたのが本格初演だった。
「いろんな意味で、私のあとの交響曲よりも良い」とコメントしたと言われる。
「言葉は私とともに墓にあり、音楽のみが私の中でしっかりとある。ほかは歩み寄ることさえ怖がっている・・・・」<
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いまや、人気曲となった4番。
内外の演奏会でもよく取り上げられるようになりました。
ネルソンスは、9月にロンドンのPlomsでボストンとやります。
好敵手のセガンは、ロッテルダムとのボックスで発売されましたが、まだ未聴。
あと、ネットで聴いたボレイコとニューヨークフィルのライブも、なかなか暴れてましてよかった。
それと、来春のウルバンスキと東響のチケット買っちゃった。
加えて、最近、これもネット視聴したコヴェントガーデンのパッパーノ指揮の「マクベス夫人」、ウェストブロックの緊迫の歌唱がとても素晴らしかった(新国と同じR・ジョーンズの演出でDVD化期待」。
5番ばかりだったショスタコーヴィチだけど、2・3番をのぞいて、みんな均一に親しまれるようになってきた。
ネルソンスの次のショスタコは、6・7番。
ショスタコやマーラー、ワーグナーばっかり聴いてるけど、そんなときに、ハイドンやモーツァルトを聴くと、ほんとに新鮮なもんだよ、自分。
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ネルソンスの次のショスタコは、6・7番。
ショスタコやマーラー、ワーグナーばっかり聴いてるけど、そんなときに、ハイドンやモーツァルトを聴くと、ほんとに新鮮なもんだよ、自分。
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コメント
>そして、初演は、メトでワーグナー指揮者として活躍したドイツ亡命のスティードリー指揮のレニングラードフィルで行われるべく準備中だったが、劇場支配人から初演を自ら引っ込めるように示唆され、さもないと行政処分になると言われた。
のエピソードですが、どの様な文献を読まれのでしょうか? 私の知っているエピソードは、スティードリーが曲を理解出来ずリハーサル中何度も、演奏を止めショスタコーヴィチに何度も「此れで好いのですか?」と遣り取りがあった。初演は取り下げられたが、初演の機会を模索して、総譜をガウクに預けたが戦争のドサクサで紛失してしまい。後に弟子の作曲家がパート譜から総譜を起して、ショスタコーヴィチが承認した。政府から圧力を恐れて初演を取り下げたと言うのでありません。
投稿: さすらう人魚 | 2018年8月15日 (水) 12時31分
さすらう人魚さん、こんにちは。
コメントをどうもありがとうございました。
過去記事をコピペしたものですが、当時の自分が何を参照にしたのか、いろいろあたってみましたが不明でした。
英文のCD解説書をかってに誤訳したのかもしれません。
いずれにせよ、この機会にネットと図書館で、確認してみましたが、 さすらう人魚さんのおっしゃる通りの内容のようです。
スティードリーのワーグナーを聴いたことがありますが、以外と今でも受入れられる感覚のものでしたが、それでもこのショスタコーヴィチの音楽には当時、着いていけなかったのですね・・・
ご指摘どうもありがとうございます、感謝です。
投稿: yokochan | 2018年8月18日 (土) 10時17分
yokochanさん、コメントの返事有り難う御座います。
4番を巡ってのエピソード、もう一つ書きます。
6月に亡くなられた、ロジェストヴェンスキーさんから直接伺った話です。
コンドラシンの初演後、マエストロも演奏すべき準備をしていたそうですが、それこそ文化担当から待ったを掛けられたと言うのです。
理由は、その当時のシェフだった放送局のオケが演奏する事になれば、ソビエト全土に放送を通じて曲そのものが知られてしまう事になるから...
マエストロは、国内での演奏を断念したそうですが、強迫電話等の嫌がらせを受けたと仰っていました。そしてその話の横で、夫人のポストニコワさんが、ハンカチで涙を拭っておられたのを今でも思い出します。マエストロは、飄々と語って下さいましたが、相当恐い想いをなさったのだと感じ取りました。それだけ、此の曲はタブーであり、演奏する側にとっては、命懸けだったと言う事でしょうね。
投稿: さすらう人魚 | 2018年8月20日 (月) 23時25分
さすらう人魚さま、ふたたびのコメント、どうもありがとうございます。
そして、初耳の、いや、驚きのエピソード、ありがとうございます。
それよりも、さすらう人魚さまがロジェストヴェンスキーさんとの知己があること、リアルな歴史的なお話しでもあり、さらに、この4番の存在に、いろんな奥行を与える事実でもあります。
おかげさまで、ますます、この4番、多面的に好きになりました。
すごい時代であり、いまや異様な体制であったといえますね。
今回も、希少なおはなし、ありがとうございました。
投稿: yokochan | 2018年8月25日 (土) 22時22分