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2018年12月

2018年12月31日 (月)

マーラー 交響曲第9番 バーンスタイン NYPO

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竹芝桟橋から、レインボーブリッジ方面を俯瞰した夕暮れの東京湾。

事務所からさほど遠くないので、気晴らしにここに海を見に来ることが多い。

太陽は、海に沈んでほしいものだが、関東ではなかなか難しい。

けれど、こうした夕暮れ時の夕映えは、空も、海も赤く染めてくれて美しい。

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今年の締めくくりに、マーラーの方の第9を。

マーラーのなかでも、深淵ともとれる作品が、近年は、大の人気曲となり、国内オーケストラではアマオケも含め始終、外来オケも盛ん持ってきます。
なんたって、南米出身の指揮者が西海岸のオーケストラとアジアの日本にやってきて、マーラーの第9を演ってしまう世の中となりました。

でもそんな風潮のなか、選んだのは今年、生誕100年だったバーンスタインのニューヨークフィル盤。

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     マーラー   交響曲第9番 ニ長調

   レナード・バーンスタイン指揮 ニューヨーク・フィルハーモニック

        (1965 @ニューヨーク、フィルハーモニックホール)


世界に先駆けて、マーラーの交響曲全集を60年代に完成させたバーンスタイン。
バーンスタインのひと世代前の指揮者たちは、同世代の音楽家であり、作曲家であったマーラーが師でもあったりして、その作品を世に広める活動期でもあった。

しかし、バーンスタインは、マーラーへの完全な共感とともに、自分の内にあるものとの共鳴ともいえるくらいに、自分の言葉で語る、「バーンスタインのマーラー」を作り上げたのだ。

その後続出するマーラー指揮者たちは、今度は、より客観的になったり、よりスコアを分析して緻密な解釈を施したり、また楽譜にひたすら忠実に演奏したりと、ともかく多士済々なマーラー演奏が生まれることになった。

しかし、マーラーを自分のなかに引き付けて、そこに思いの丈をたっぷり注ぎ込む、バーンスタイン・スタイルの演奏は、いまだもってバーンスタインのものしかありませぬ。

80年代のDGへの2度目の全集は、より完成度が高く、録音もよく、よりバーンスタインの踏み込みも深くなっている。
その分、始終聴くには、感情が入り込みすぎて、ちょっと辛くなってしまうこともある。
 そんなときには、60年代のCBS盤に方が、若々しく、粘度もさほどに強くないため、さらりと聴くことができる。

第9は、正規録音としては、ニューヨークフィル(65年)、ベルリンフィル(79年)、コンセルトヘボウ(85年)、そしてイスラエルフィル(85年)の4つに、ウィーンフィルとの映像(71年)があります。
しかし、日本での演奏会に立ち会い、打ちのめされたときの少し前のテルアビブのライブは、実は未取得。
聴きたいのはやまやまだけど、なんだか聴きたくない。
あのときのNHKホールでの儀式に立ち会ったかのような体験の記憶を壊したくないからかもしれません。
でもね、死ぬまでには聴こうと思ってます。

さて、いろんなところで比較されてますが、年を経るごとに隈取の濃い濃厚な演奏をするようになったバーンスタインの第9ですが、テンポも徐々に伸びてます。

65年NYPO(79分)→79年BPO(82分)→85年ACO(89分)
IPO盤もACO盤と同じぐらいとのこと。
 楽章で見ると、1~3楽章は、あまり変わらない。
異なるのが終楽章で、65年NYPO(23分)→79年BPO(26分)→85年ACO(30分)。
NYPO盤が速いのは、録音サイドからの要請ともありますが、果たしていかに・・・

ということで、バーンスタインのマーラーの第9への思い入れの熟成度は、テンポだけをとらえると、終楽章に端的に現れているのがわかる。

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拾いましたが、オリジナルジャケットと、後年出た、6番との3枚組のレコード。

ニューヨークフィル盤は、録音が平板にすぎるという悩みはあるものの、演奏は、60年代のバーンスタインらしく、情熱的で、誰にでも納得できる必然性を全体にたたえたものになっていると思う。
NYPOの楽員の腕っこきの優秀さを感じるのは、とりわけ第1楽章で、かなり美しい終盤です。
ユーモア感じる第2楽章と、憂愁と疾走感のないまぜになった3楽章はカッコイイ。
 そして、CBSソニーの音のカタログで、完全に耳タコの刷り込み状態になっていた終楽章の出だし。その開始部は、わたしは、このニューヨークフィル盤が一番好き。
その後の、うねり具合も上々だが、後年のようなタメや、濃密な歌い回しは弱めだから、曲はテキパキと先へ進みます。
録音のせいかもしれないが、金管の響きが時代がかって聴こえるのも、なんだか懐かしくもあります。
でも、やはり聴かせます、オケはレニーの指揮棒に集中しつくしていて、マーラーも指揮をした摩天楼のオーケストラは、終結部の死にゆくアダージョを絶美に描きつくしていて、感動的であります。

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去り行く船。

でも、旅立ちの船の後ろ姿。

夕暮れの中、希望があります。

それでは、ありがとう平成30年、自然の猛威はもう勘弁してね。

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2018年12月30日 (日)

ホルスト 第1合唱交響曲 ウェットン指揮

Yuurakucho_2

有楽町駅前の交通会館のイルミネーション。

安定の美しさ。

クリスマスが終わっても、ウィンターシーズンはずっとやってますので、うれしい。

そして年末、あと2日で、音楽界は第9ばかりで、スーパーに行っても喜びの歌が流れてる。

これだけあふれかえると食傷気味に。

あの合唱の4楽章ばかりでなく、その前の3つの楽章を、じっくりと聴いてほしいものである。

で、わたくしは、ホルストの「合唱交響曲」を。

Holst_sym

     ホルスト  第1合唱交響曲 op41

       ソプラノ:リン・ドーソン

    ヒラリー・デイヴォン・ウェットン指揮

         ロイヤル・フィルハーモニック管弦楽団

         ギルドフォード・コラール・ソサエティ

                (1993.3 @ヘンリーウッドホール)

「惑星」ばかりがホルストじゃないよ、と英国レーベルにかなりあるホルスト作品を収集してます。
確かに「惑星」の面白さや、作品としての精度の高さはないかもしれないが、どの曲も、ホルストならではの神秘感や東洋風の雰囲気、ゴージャスな響き、それと、英国詩情なども聴き取ることができて楽しいものです。

ホルスト(1874じゃら1934)の作品分野に多いのは、合唱作品。
自国の文学や、インド文学などに傾倒していたこともあり、それらを素材にした作品が多く生み出されたし、朋友のR・V・ウィリアムズの影響もあったりして、洒落たパートソングなどにも、多くの曲を残しています。

交響曲の分野では、若いころの「コッツウォルズ交響曲」が、純粋オーケストラ作品であるほか、あとは、合唱とソプラノソロを伴った「第1合唱交響曲」があるのみ。
「第2合唱交響曲」は、スケッチのみが残され、完成されずじまい。

1923~24年に書かれた1番の方の合唱交響曲は、作曲家と教師としての名声をすでに得ていた充実期の作品ながら、25年のリーズでの初演は、そこそこの成功となったものの、その後の再演が不評で、以降、あまり返り見られることのない作品として埋もれてしまった。
逆に、「惑星」が有名になりすぎてしまったことの反動でもあります。
ちなみに、その「惑星」は、1916年の完成。

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曲は長さにして約50分。
プレリュードを含む5つの部分となっていて、そのプレリュード以外の4つの部分が交響曲の体をなしております。

18世紀末のイギリスの詩人、ジョン・キーツの詩をそのテキストに用いてます。

「前奏曲」 Invocation to Pan

   重苦しいなかに、合唱が祈りともつぶやきとも取れない抑揚のない歌を。
  神秘的な、まるで秘儀に立ち会うかのような感じ。

「バッカナールの歌」 Song of Bacchanal

  ヴィオラソロとソプラノによる、まるでV・ウィリアムズのような
 晩秋の様相たたえた美しい出だし。
 その後は、ソロと合唱が交互に、ことに合唱はにぎにぎしくなり、
 バッカスをたたえる。

「ギリシアの壺に寄す」 Ode to Grecian Um

 キーツの代表作に付けた第2楽章=緩徐楽章的な存在。
 木管が印象的な合いの手をうちつつ、合唱が語りかけるように歌い進める。
 ギリシアの壺に書かれた絵をみて、あれこれ思いをめぐらすキーツの原詩。
 ときに、慰めに満ちた葬送風なところもあり、最後の最後の1節にソプラノが
 美しく登場。

「スケルツォ」 Fancy Chorus

  ここでのオーケストラは、まさに「惑星」の「天王星」のよう。
 早口の女声コーラスにハープがからんで面白い。
 ベルや木琴、チェレスタも登場し、楽しいスケルツォ。
 繰り返すが、惑星っぽい。

「フィナーレ」 Finale

 19分あまりの一番大きい楽章。
 ソプラノがアカペラで歌いだす。
 「魂よ」という詩で、そのあと合唱も加わって荘重な雰囲気に。
 そしてまた、ソプラノに明け渡され、弦とハープを背景に美しい。
 さらに合唱も、ソットボーチェで歌い始めると、背景は金管が重々しい。
 ここは、「土星」っぽい。
 やがて、もりあがり、トランペットがぴきーーんと鳴り響き眩しい。
 さらに、再び静まり、ハープとソロヴァイオリンを伴ったソプラノ。
 ここは実に美しい。
  パターン的に、こうして超美的なシーンを経て、そのあと、合唱が爆発。
 という具合に、喜びと感謝、実りの果実を戴く賛歌となる。
 各声部がフーガのように橋渡しをしてゆくのも楽しい。
 しかし、最後の最後は、音楽は弱まって、この章の冒頭の「魂よ」に戻って
 ソロの歌を合唱が引き継いで、静かに、静かに終わっていきます。

こんな流れの合唱交響曲。

正直、テキストは難解です。
物語性もなく、対訳もなく、英詩を眺めていてもさっぱりわかりません。
この作品によく言われるのは、キーツの詩が散りばめられているだけで、詩と音楽の流れと融合性がないとのこと。
まさにそのように思いますが、わたくしは、シンプルに、ホルストの筆致をそこそこに感じ、聴きとることで、この作品の良さを味わうことができました。
ことに、抒情的な部分は、きわめて美しく、優しい味わいがありました。

この作品の初録音が、今回のハイペリオン盤。
なじみのない指揮者ですが、合唱を主体として、うまくまとめていると思います。
その合唱はなかなか巧いが、おなじみのドーソンが、最初の方、ちょっとフラットぎみで不安定。でも静かな部分はとても素敵。

最近、A・デイヴィスがシャンドスに、ヒコックスの後を引き継いでホルスト作品を継続的に録音しtれおり、この作品も出ている様子。
そちらも是非聴きたいものです。

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年末ぎりぎりまで、いろんなことが起きた2018年。
平成30年、最後の投稿は、あともうひとつ。

「惑星」以外のホルスト作品 過去記事

 「雲の使者」 ヒコックス指揮
 

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2018年12月24日 (月)

チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」    プレヴィン指揮

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六本木ヒルズのけやき坂のイルミネーション。

この冬はシルバーブルーの1色で、これが強弱をつけてゆっくりと点滅。

ヴィトンのお店の鮮やかさと、その間に東京タワー。

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      チャイコフスキー バレエ音楽「くるみ割り人形」

      アンドレ・プレヴィン指揮 ロンドン交響楽団

             (1972.5 @キングスウェイホール)


クリスマスの音楽のひとつといえばこれ。
そして、みんな大好きチャイコフスキーの「くるみ割り人形」。

おそらく、多くの方が、小学校の音楽の授業で聴いたことでしょう。
わたくしも、小学5年か6年に組曲版で聴きました。
もちろん、その時はバレエ音楽から抜き出した組曲とかいう認識や知識はありません。
 大いに気に入った小学生のワタクシは、町のレコード屋さんに飛んで行って、毎度お世話になったコロンビアのダイアモンド1000シリーズのなかの1枚、「白鳥の湖&くるみ割り人形」を買い求めたのでした。
ハンス・ユイゲン・ワルター指揮のプロ・ムジカ交響楽団の演奏。
いまや聴けなくなってしまい、どんな演奏だったか覚えてもませんが、この隠れた名指揮者の演奏は、ほかの盤もいくつか聴きましたが、平凡だけど外れがなく、優しいものであったとの思いがあります。
 その後、カラヤンとウィーンフィルのレコードを手に入れて、J・ワルターの廉価盤は、まったく聴かなくなってしまったけれど、同時に、全曲版が視野に入るようになり、その一番手がプレヴィンとロンドン響によるものでした。

これまで、いくつもの「くるみ割り人形」を聴いてきましたが、ジャケットも含めて、これが一番というのが自分の結論です。
 最近出たデゥダメル&LAPOは、ジャケット含めよさそうですが、でも何となくその演奏はだいたい予想がつき、自分には合いそうもなさそう。
これから録音されそうなものとしては、ネルソンスとボストン響、セガンとフィラデルフィアあたりに期待です。
しかしまぁ、今後の人生もそんなに長くないから、自分の「くるみ割り」は、プレヴィンの旧盤ということでとどめ置きましょう。

プレヴィンは、このあと86年にも、ロイヤルフィルと再録音をしてます。
その演奏も聴いてますが、ステレオからデジタルになったように、演奏もデジタル化したみたいな気がして、14年前のロンドン響のほうが、懐かしく、暖かいもののように感じました。

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53歳で没してしまったチャイコフスキーの晩年の傑作群のひとつ。
有名どころでは、「眠れる森」とともに、5番や「スペードの女王」と、「イオランタ」「悲愴」に挟まれた時期である1891年の作曲。

舞台音楽としてバレエ上演した場合、初演当時は、ファンタジー感が再現されにくかったり、さらには、主役の持っていきかたが難しかったりで、なかなか苦心したらしいが、舞台美術や装置、テクノロジーの発達した現代では、誠に美しい舞台が再現でき、大人から子供まで、みんなが楽しめるバレエ上演が世界中でなされている。

そして一方、コンサートでも全曲版が、一夜のプログラムとして乗ることが近年多くなりました。
また、コンサート後半の演目に、第2幕だけを演奏するのもあり。
いずれも、シンフォニックな演奏でも、十分に楽しめ、聴きごたえがあるからです。

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私の好きなシーンをいくつか。

       第1幕

①おなじみの序曲とそれに続くワクワク感満載の「クリスマスツリー」の情景。

②祖父ドロッセルマイヤの踊り。こんな楽しいお爺ちゃんになりたい。

③お客さんが帰り、夜。そしていよいよの高揚感。

④冬の松林~チャイコフスキーならではの情景描写

⑤雪片の踊り~こ洒落たワルツ、女声(児童)合唱を入れたところ、天才的

       第2幕

⑥お菓子の国と魔法の城~城を見渡せる高台にいるかのような気分でわくわく

⑦クララと王子~さあさあ、主人公たちの登場ですよって感じ

⑧ディヴェルティスマン~各国のダンスが勢ぞろい、いずれの筆致も神がかり

⑨花のワルツこそ、チャイコフスキーの代名詞か。
  ステキすぎるだろ、このワルツ。

⑩パ・ド・ドゥ~ロマンティックなアダージョで夢見る少女な気分になれるよ、
         こんなオジサンでも。
         そしてタランテラときて、金平糖さんは可愛いチェレスタ
         でもって、急転直下のコーダ
         この展開好き♡

⑪終幕のワルツにアポテオーズ~ドラマチックになりすぎない可愛い終幕
         夢から覚めた夢を見た感じ

こんな感じで、オヤジでも、何度でも夢をみることができます、そんな愛らしいバレエ音楽が「くるみ割り人形」。
この作品の2年後に、53歳で亡くなってしまうチャイコフスキー。
もう少し、長命だったらば・・・・
交響曲を9曲まで、オペラをあと3つ、バレエをあといくつか・・・・

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プレヴィンとロンドン響の名コンビは、この作品一のビューティフルな演奏だと思う。
心憎いほどのメロディの歌いまわしのよさで、テンポも順当なので、穏やかな安心感に包まれます。
冬の一夜、部屋を暖かくして、そしてちょっと暗くして、ツリーでも眺めながら聴くと、ほっこりすること間違いない演奏です。

このところ、プレヴィンの名前を聴かなくなった。
去年の秋の海外ニュースで、オレゴン響への客演が体調不良でキャンセルとの報を見たのと、同時期の作曲活動にこと、離婚したオッターとの良好な友達関係などを語ったインタビューのニュースを見て、その後1年。
89歳という年齢もあって、事実上の引退状態にあって、ちょっと心配。
いろんな思いでを残してくれた音楽家だけに、お元気で安泰であってほしいです。

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よきクリスマスを🎄

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2018年12月23日 (日)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ベーム指揮  ウィーン国立歌劇場

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東京タワーの周辺もクリスマス。

幻想的な雰囲気に撮れました。

クリスマスに対する憧憬の想いは子供もころから変わらない。

そして、その憧憬の想いは、この作品に対しても、ずっと変わらない。

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ワーグナー  楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 トリスタン:ジェス・トーマス      イゾルデ:ビルギット・ニルソン
 マルケ王:マルッティ・タルヴェラ    ブランゲーネ:ルート・ヘッセ
 クルヴェナール:オットー・ヴィーナー メロート:ライト・ブンガー
 牧童 :ペーター・クライン      舵取り:ハラルト・プレーグルホフ
 若い水夫:アントン・デルモータ

  カール・ベーム指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団
               ウィーン国立歌劇場合唱団

            演出:アウグスト・エヴァーデインク

              (1967.12.17 ウィーン国立歌劇場)

こんな希少なトリスタンを聴きました。
ニルソンのイゾルデは、たくさん聴けるけれども、J・トーマスのトリスタンなんて、どこにも残されていなくて、ただでさえ正規なオペラ全曲録音の少ないトーマスの録音だからよけいにそうです。

これは、11月に買ってしまった31枚組の「ニルソン・グレイト・ライブ・レコーディングス」のなかのひとつ。

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ニルソン財団の協力を受けて、各放送局に残るバイロイト、バイエルン、ウィーン、メット、ローマなどの上演ライブ放送をリマスターして正規音源化したものなんです。

このなかには、「トリスタン」は3種あり、サヴァリッシュのバイロイト(57年)、ベームのウィーン(当盤67年)、ベームのオーランジュ音楽祭(73年)がそれぞれ収録。
サヴァリッシュ盤は非正規のものを持ってるけど、音質が向上。
オーランジュ盤は、映像が有名だけれど、ステレオでちゃんとした音源では初。
そして、まったく初のお目見えが、ウィーン国立歌劇場盤だ。

ついでに、このボックスの収録内容は。
バルトーク「青ひげ公の城」 フリッチャイ指揮
ワーグナー「ローエングリン」 ヨッフム指揮バイロイト
ワーグナー「ワルキューレ」 カラヤン指揮 メット
ワーグナー「ジークフリート」3幕2場 スウィトナー指揮バイロイト
ワーグナー「神々の黄昏」自己犠牲 マッケラス指揮 シドニー
ベートーヴェン「フィデリオ」 バーンスタイン指揮 ローマ
プッチーニ「トゥーランドット」 ストコフスキー指揮 メット
R・シュトラウス「サロメ」 ベーム指揮 メット
R・シュトラウス「エレクトラ」 ベーム指揮ウィーン国立歌劇場、メット
R・シュトラウス「影のない女」 サヴァリッシュ指揮 バイエルン国立歌劇場

こんな感じで、不世出の大歌手ビルギット・ニルソンの主要なレパートリーを、これまで世に出ることがなかったものや、非正規盤であったものなどをしっかり網羅した大アンソロジーなのであります。
少年時代から、ニルソンのワーグナーにおける声を聴いてきた自分としては、まさに垂涎の一組となりました。

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ウィーン国立歌劇場のベームのトリスタン、67年のプリミエの初日の模様で、音源はモノラル。よく耳を澄ませば、若干のテープヒスも聞こえるが、鮮明な録音で、この作品の視聴にはまったく問題ないが、3幕の一部に欠落があるように思う。
あと2幕の長大な二重唱に、因習的なカットがあって、2幕は66分と短くなっている。
面白いのは、1幕の終わりの方、ステレオのように聴こえること。

 それはともかくとして、オーケストラが完全にウィーンフィルのそれであること。
60年代のよきウィーンフィルの音色であり、しかもベームの指揮であることがうれしい。
ひなびた感じの管の響きは、郷愁と憧れを抱かせるのに十分だし、ベームに大いに煽られて切羽つまった音を出すのもウィーンならではの雰囲気である。
 で、そのベームの指揮。
この当時、62年から始まったヴィーラント演出のバイロイトでの上演が70年までずっと続いていて、ニルソンとヴィントガッセンの二人を主役に据えた、文字通り鉄板的な上演だった。7年間のなかで、65年と、67年はバイロイトでの上演はなかったが、DGの名盤66年盤の翌年のウィーンの記録という意味でも貴重なものだ。
 DG盤と同じく、早めのテンポで、凝縮した響きを求めて過度な感情表現はないものの、歌手と舞台とピットが、ベームの指揮の元に一体化していることを強く感じる。
オペラの中心が指揮者であること。
昨今の演出過剰の舞台での小粒になったオペラ指揮者たちにはない、強力な存在感を、このような録音からも聴き取れるのが、昔の音源の楽しさでもあります。
1幕のマルケ王のもとへの到着、2幕の二重唱、3幕のトリスタンの夢想など、いずれもライブならではの高揚感を味わえ、劇場に居合わせた聴衆はさぞかし興奮したであろうと思います。
録音のせいかもしれませんが、ティンパニの強打もそこかしこで、素晴らしくって、DG盤とはまた違ったピットないの音の魅力を感じる。

そして、最初から最後まで、安定していて、冷たくも凛とした神々しさをたたえるニルソンのイゾルデは、自分にとっては、相変わらず無二の存在を裏付けるものでありました。
イゾルデのあらゆるシーンと歌声は、自分にはすべてニルソンなのです。

 で、この音源の大きな目玉が、J・トーマスのトリスタンにあったわけであります。
2幕に省略があったとはいえ、トーマスのトリスタンを、自分としては初に聴けたのだ。
ワーグナーかシュトラウスか、第九ぐらいしか音源がなかったところに、このトリスタンはまったくの朗報。
知的で気品のあるトーマスの歌声だが、凛々しいトリスタンが媚薬にのって愛の男に転じるさま、そして2幕の美しい二重唱での艶っぽさ。
そして、3幕では、驚きのやぶれっかぶれっぷり!
こんなトーマス聴いたことなかった。
古い時代の肉太のヘルデンとは一線を画すスマートな歌唱でありながら、こうした爆発を聴かせるトーマス。まったくもって素晴らしいトリスタンとなりました。
カラヤンのトリスタンが、ヴィッカースになったのは、これを聴いちゃうと、ほんとに残念だけど、カラヤンはトーマスをジークフリートとして使ったけれど、カラヤンのトリスタンのイメージにはならなかったのだろうか。

バイロイトと同じ、タルヴェラのマルケ王のマイルドな美声は、ここでも聴けます。
あつ、ちょっと古風なヴィーナーと、名わき役のR・ヘッセの歌声も懐かしい喜びでした。

この演奏に名を連ねている歌手も指揮者も演出家も、R・ヘッセを除いては、みんな物故してしまった。
いまの新しい録音による、新しい歌手たちの演奏もいいけれど、わたくしは、こうした過去の演奏の方が落ち着くし、好きだな。
 もちろん、昨今の歌手たちは、べらぼうに巧くなったし、演技もうまいし、ビジュアルもいいんだけれども・・・。

このニルソン大全、喜びを感じつつ、ちょっとづつ聴き進めてますので、また記事にすることもあろうかと思います。
とくに、「影のない女」は素晴らしいし、ちゃんとしたステレオ。
あと、ベームと振り分けたスウィトナーのジークフリートの一部が、これもステレオで聴けます!

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今年もあと1週間。

天皇陛下として最後のお誕生日のお言葉を拝見しました。

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2018年12月20日 (木)

東京都交響楽団演奏会 R・シュトラウス ビゼー R=コルサコフ

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師走のクリスマス前の文化会館。

クリスマス感は、ちょっと少なめだけど、モニュメントがエントランスにいくつかありましたので、ちょっと手を加えてみました。

クリスマス期に、スペインにまつわる音楽特集。
それも、スペイン人以外の作曲者で。
なかなかナイスなプログラミングです。
そして、自分的には、R・シュトラウスの作品を数日の間に連続して聴けることが大きな喜びでした。
しかも、シュトラウス自身が、対の作品と称した「英雄の生涯」を聴いて、少し遡った作曲年代の「ドン・キホーテ」であります。

  東京都交響楽団第870回 定期演奏会

 R・シュトラウス     交響詩「ドン・キホーテ」

        Vc:ターニャ・テツラフ

        Vla:鈴木 学

 ビゼー          歌劇「カルメン」組曲より
                  A・ギルバート・セレクション

 R=コルサコフ     スペイン奇想曲

       アラン・ギルバート指揮 東京都交響楽団

         コンサートマスター:四方 恭子

               (2018.12.19 @東京文化会館)

演奏会の曲のメインということでは、シュトラウスが最後なのだろうけど、盛り上がりという点で、この演奏曲順は納得せざるをえない。
 そして、後半の名曲集の演奏があまりに鮮やかだったので、シュトラウスの滋味あふれる作品の印象が、コンサート終了後にちょっと弱まってしまった感はあります。

赤のドレスで登場のターニャ・テツラフさん、スリムで小柄な方で、遠めには、前駐日大使のキャロライン・ケネディを思い起こさせるような風貌です。
でも、写真でお顔を見ると、確かにお兄さんのヴァイオリニスト、クリスティアン・テツラフに似ている。
 その彼女のチェロの音色は美しい。名器ガァダニーニとのことですが、技巧に走らずバリバリ引くタイプでない、しっとりした雰囲気です。
兄たちとのアンサンブルや、カンマーフィルでの首席などの活動で、身についた、ほかの奏者をよく聴き、その溶け合いや対比にすぐさまに対応してゆくしなやかさを感じます。
実際、指揮者を挟んで向こう側で弾いていたヴィオラの鈴木さんの方をよく見て、聴いていました。
 狂気に走る、そんな唯我独尊的な主人公を雄弁に語る演奏は多々あれど、この日のターニャさんのチェロは、柔和な語り口の優しい雰囲気の主人公のように感じました。
だから、最終章の死の床にあった回想が、しみじみとして、そして万乗の物語を締めくくるに相応しいシーンとなりました。

対する従者のヴィオラの鈴木さんは、かなり克明な刻みで、ふくよかだけれども、音圧も豊かで、ご主人さまよりも、主張が明確、かつ強めの音。
でも、ヴィオラの肉声的な語りかけるような中声部的な魅力がたっぷり。

コンマス四方さんは、この日、ソロも多く、まさにベテランの味わい深さに、楽員の、指揮者のリスペクトを一身に受けてました。

そして、アラン・ギルバートさん。
登場人物たちの活躍の背景、シュトラウスの巧みな筆致によるオーケストラを、どちらかといえば控えがちに導いてました。
文化会館の木質だけれども、響きの少な目のパレットを意識したのでしょうか、ソロを引き立てるために、オーケストラを押さえがち。
曲の内容の違いもあるが、ノット&東響のノリに乗った、そして歌心にあふれたシュトラウスの前には分が悪かったし、オペラの経験もどんどん積んでほしいと思わせる、アランの指揮でした。
でも、ソロが出てこない場面のくだりは、都響の巧さもあって、聴きごたえ充分でした。

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後半は、オーケストラ名曲大会。

アラン・ギルバートの面目躍如たるシーンが展開されました。

明るいアメリカ人、オケを乗せまくり、キューの出し入れも正確無比に決まりまくり、奏者もずばずば決めまくり、聴き手もいつしかのりのりに!

通俗名曲たるカルメンは、巧みな選曲で、前奏曲に始まり、途中、有名アリアや間奏曲をはさみながら、ジプシーの踊りで猛烈なアッチェランドをかけて熱狂的に終了。
盛り上がりました。
私的には、アリアの数々を、オケのソロ楽器によって代用されるのは、原曲のイメージが強すぎるものだから、聴いててちょっとつらい部分もありますが、それにしても都響のソロの皆様の巧さは、芸達者の域に達してました。
闘牛士の歌なんか、思い切り歌いたくなりましたよ!

最後の、スペイン奇想曲。
アランさんは、聴衆を制しつつ、指揮台に昇るやいなや、あの開放的な打楽器満載のメロディーを一挙に鳴らしました。いい!
大好きなこの曲、16分ぐらいの長さが、実はとても長く感じる大きな音楽として聴くことができたのです。
R=コルサコフならではの、オーケストレーションの鮮やかさを、卓越した棒さばきでもって、エキゾチックなムードも満載に描きつくした演奏です。
都響のソロたちの安定感を、ここでも微に入り細を尽くしたバトンのキューでもって完璧に引き出すさまは、後ろから見ていて痛快。
 めちゃくちゃ盛り上がった後半に、アラン・ギルバートの面白さと実力を感じました。

都響の首席客演指揮者としてスタートしたばかりの、アラン・ギルバート。
NYPO時代の演奏の数々は、同団のHPから、わたくしもかなり聴きましたが、マーラーやショスタコーヴィチなどは二重丸。
でも、古典系やロマン派は、まだまだの感あり、そのあたりを今後いかに自分のものとしていくか、都響でも今後、ハイドンやモーツァルトを取り上げていくようなので、見守っていきたいと思ったりもした次第です。

終演後、オーケストラの中に入って聴衆の拍手にこたえる様子、わたしたち聴き手に手を振る様子など、フランクで、気のおけない雰囲気をもったアランさん、都響にも、日本の音楽シーンにも、とてもいい存在になりそうです。

楽しいコンサートでした♪

Ueno_soba

今年も、チケットありながらいけなかったコンサートがいくつか。

何があるかわからない旅のような日々は、きっと来年も続くでしょう。

コンサートは、今年打ち止め。

あといくつか年内記事をUPします。

文化会館近くのお蕎麦屋さんで軽く一杯。
お皿が、めでた可愛かったのでパシャリ。

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2018年12月16日 (日)

東京交響楽団演奏会 ヴァレーズ R・シュトラウス

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サントリーホール内のすてきなツリー。

コンサート前のわくわく感が高まります。

そして、この日のコンサートは、激熱、高燃焼の密度の高い最高のものとなりました。

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 東京交響楽団第666回定期演奏会

ヴァレーズ    「密度21.5」(フルート・ソロ)

             「アメリカ」

  R・シュトラウス  交響詩「英雄の生涯」

            
Fl:甲藤 さち

            Vn:水谷 晃

 ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

          (2018.12.15 @サントリーホール)

これまたユニークで、好奇心をそそられる感度高いプログラム。
前半と後半で、ストーリーをつなげるのは、その意図を読み取るのは、私のような凡人には至難の業ですが、最初のヴァレーズ2作品を、休みなく続けて演奏した、ノットの考えにはまったくもって屈服せざるをえません。
 わたくしにとってのヴァレーズは、70年代、ズビン・メータがロス・フィルとレコーディングした「アルカナ」の1枚。
鳴り渡るサイレンや打楽器の殴打、聴いてたら、母親が何て聴いてんの?と驚かれました。
時は経て、そのときのハチャムチャ音楽のイメージのまま、ヴァレーズをろくに聴かずにまいりましたが、当時とうって変わって、多彩で多様な音楽を聴くことができるようになった現在、そのヴァレーズの音楽は、喧噪ばかりでない、緻密でかつ感覚的なものであることを、この度の、ノット&東響の凄演を聴いて思った次第。

友人の初演者フルーティストが作らせたプラチナ製のフルートの比重密度が、「21.5」ということでのソロ作品。
オーケストラも指揮者も全員揃ってから、ステージは暗くなり、首席フルートの甲藤さんにスポットがあたり静かに演奏された4分間。
コンサートの冒頭から、ホール中の聴き手の集中力が一気に高まります。
プログラムにも書いてあったので事前の承知事項でしたが、ドビュッシーの「シランクス」へのオマージュとしての作品。しっかりその音程も聴き取れましたし、なによりも甲藤さんの明晰なフルートの音色が素晴らしく、こんな大きなホールをフルート一本で音で満たすことができることへの憧れと驚きがありました。
そして、ヴァレーズのイメージを覆す、精緻な音楽であったことも、自分には新鮮な驚きでした。

次いでステージが明るくなるさま、今度はアルトフルートが、作品のモットーともいえる旋律を静かに奏でます。
こうして静かなソロ作品と、超巨大豊満な大オーケストラ作品とがつながりました!
このばかばかしいほどに喧噪ともとれる25分間、わたくしも、そしてほとんどの聴衆も、呪縛にあったかのように、パワーあふれる圧倒的なサウンドの連続に前作からの集中力を絶やすことなく聴き入りました!
 サイレンが常に鳴り渡るがゆえに、アメリカの都会をイメージもしますが、これも解説によれば、中南米も含めた広域南北アメリカを描いているとの由で、わたくしは、メキシコのレブルタスとか、アイヴズ、当然にストラヴィンスキーなどとともに、ベルクさえも聴いていて思い起こしてました。
ともかく、強烈な音圧で、何度も何度も襲ってくる。
ときおり顔をだす、モットーが息抜きみたいに感じる。
そしてエンディングの超烈しさと、超カッコよさは、しびれるほどの快感。
ノットの冴えわたる指揮ぶりも、P席からの観劇なだけにまるわかり。
あと15種におよぶ打楽器の数々とその演奏ぶりを上から覗く楽しみも、これまた極まれりでした。

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ここで休憩で、ほんとにほっとしました。

ホール、カラヤン広場もクリスマス。

さて、後半は、ヘルデンレーベン♪

深々と奏でられた英雄のテーマに、わたくしも含めて多くの方が、大きな安心感を抱いたことでしょう。
それほどに、前半の曲に逝ってしまったものですから。
おおらかに、大きな表情付けをもって英雄の登場が歌いこまれたあと、突然として敵出現で不穏な雰囲気になるが、ここでもって、ノット&東響の演奏にアクセルが入った感があった。
そのあとは、多少の傷もなんのその、さながらに、シュトラウスのオペラを聴くがごとく、舞台が次々に思い浮かぶような展開となりました。
しなやかなヴァイオリンソロをつとめたコンマスの水谷さん、なかなかの美音で、ノットも思い切り歌わせてましたし、同様に甘いオーボエ、艶やかなホルン、滔々と流れるシュトラウスならではの愛の場面に聞き惚れました。
 そして、戦場のかっこいいけれど壮絶な展開と、そのあとの高らかな勝利宣言、まったくもって背筋が痺れるような快感と高揚感に包まれた!
こんな感動していいんだろうか。
 そして続いた功績回顧。
これまで何気に聴いていたシュトラウスの過去作品からの旋律の数々、それぞれみんな丁寧に、埋没することなく浮き出て聴こえたのも、劇場たたき上げの指揮者ノットならではうまさ。
今回、「グンドラム」の旋律を明確に発見できたのも自分的には喜びです。
夕映え濃くなる、しみじみエンディングも素晴らしく、最後のエネルギーを一気に貯めて放出したかようなノットの渾身の一振りの最終和音も、やがて静かにきれいに消えていったわけだが、その後のホールの静寂も素晴らしいの一言。

 あ~、ほんとによかった。
最近、シュトラウスの交響詩を真剣に聴いてなかったけれど、その作品がほんとによく書けてるし、いい曲だと、心より思った次第です。
そして、なによりもシュトラウスはオペラの人なんだと、この演奏を聴いてつくづく実感。

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アークヒルズの美しいツリー。

このあと遠来の音楽仲間と新橋で一杯。

Shimbashi

馬刺し、そしてほどよい油をさらりと流してくれる芋焼酎で。

あと2週間で今年も終わりじゃん。

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2018年12月 9日 (日)

ディーリアス 「高い丘の歌」 A・デイヴィス指揮

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少し前、毎年11月は、伯父の命日の月で、一緒に眠る従姉の墓参と伯母へのお見舞いに群馬まで出かけます。

そして足を延ばして、四万温泉へ。

四万湖のあたりは、紅葉が終盤で、赤や黄色の絨毯をサクサクと踏み歩き散策しました。

母と姉とで、むかしのことをたくさんお話ししました。

嫌なこと、厳しいことはたくさんあれど、昔語りは幸せなことしか思い出しません。

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  ディーリアス  「高い丘の歌」

    S:オリヴィア・ロビンソン

    T:クリストファー・ボーウェン

  サー・アンドルー・デイヴィス指揮 BBC交響楽団
                       BBC交響合唱団

          (2010.10.15 オール・セインツ教会)


愛するディーリアス(1862~1934)の作品のなかで、もっとも好きな音楽がこの「高い丘の歌」。

「高い丘の歌」は、1911~12年にパリ近郊のグレ・シュル・ロワンで書かれた30分あまりの音詩。
ディーリアスの音楽って、まさに、「音による詩」と呼ぶに相応しい。
そして、その受け止め方は、聴く人の人生や暮らし、考え方、まわりの自然や見てきた風景、それらによってさまざま。

そう、特定の感情や事象に直接に紐つかないから、いつも新鮮だし、距離感もそこそこあって、自分の感情に飛び込みすぎない優しさがある。

わたくしは、そんな風にして、ディーリアスの音楽をずっと聴いてきました。

グリーグと知り合い、そして、ノルウェーの自然や風物を愛し、その海や厳しい大自然を思わせる音楽をいくつも書いたが、この曲もその一環。
でも、ノルウェーの大自然に接したことがない自分には、写真や映像で見るその自然を想像しつつも、自分の育ったお家から見えた風景や、街の自然を重ね合わせて聴くことできるのだ。
それが、自分にとっての「ディーリアスの世界」なのです。

「わたしは高い丘陵地帯にいるときの喜びと陶酔感を現そうとし、高地と広漠たる空間を前にしたときの孤独感とメランコリーを描こうとしたのだ。
ヴォーカルパートは自然における人間を象徴したのである」

                                                                 (ディーリアス:三浦敦史先生訳)

作者のこの曲に対する言葉。
この作品の魅力を一番物語っている。

丘陵、山や山岳とも違う、丘。
丘的なものも、日本の地味豊かな山々とも違って、殺伐として膨らみがただあるだけのものを想像したりもする。
唯一の英国訪問の際、ロンドンから車で発し、北上してバーミンガム方面へ、さらに南下してドーバー方面へと走りまくったことがありますが、郊外へ出て田園地帯を通過すると、丘のようなぽっこりした緑の小山が、そこここに見られたのでした。
そんな風景も、自分のなかでは英国音楽、とりわけ、ディーリアスやV・ウィリアムズを聴くときに思い浮かんだりするものなのです。

同じように、山を歩んだ音楽として、シュトラウスのアルプス交響曲がありますが、あちらは、もうリアルそのもので、音楽が登山という体験を、まんま表現しつくしている。
 ディーリアスのこちらは、写実的な要素がまったくないから、自分のなかのイメージで、思いのままに聴くことが出来る。
なんでも音や音楽にしてやろうという強引さは、これっぽっちもないので、ともかく優しく、寄り添ってくれるんだ。

何度も書くようで恐縮ですが、自分の育った家の前には、小さな山があって、その山の向こうには、富士山の頭だけがちょこんと見えてました。
夕暮れ時には、西側のその山の空が赤く染まって、ときに壮絶な夕焼けが見られることもありました。
そして、夕焼けのオレンジはやがて濃くなり、藍色にそまって暗くなっていくのです。
そんな風景を見ながら、私はディーリアスの音楽を聴いてました。
いまは離れて暮らしているけれど、ディーリアスの音楽は、また、そうした景色を呼び起こすことで、自分にとっての故郷へのノスタルジーをかり立ててくれるのです。
 この作品の最後、日が暮れ沈んでしまうくらいに、音楽がどんどんフェイドアウトしてしまう終わり方。
後ろ髪ひかれ、そして哀しく、自然の摂理の寂しさすらを感じさせます。

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1887年のノルウェー訪問以来、生涯で17回も同国を訪れていたディーリアス。
視力を失い、体が麻痺してしまった晩年でも、車いすでかの地の丘や日没の感じられる場所へ連れていってもらっていました。

作曲の8年後、1920年、アルバート・コーツの指揮で初演。
ドイツでドイツ人指揮者によって初演が企画されるも、大戦で流れた結果のロンドン初演。
ディーリアスは、そのあと、P・グレインジャーに、これは自分の最高の作品のひとつ
と語ったという。

コンサートでは、あまり取り上げらることがないのは、30分あまりのこの曲が、一夜の演目のなかのどこで演奏できるか、その答えがないからだと思ったりもする。
そして、多くの聴衆と一緒に聴くより、ひとり静かに聴くべき音楽だからであろう。

ビーチャム盤はまだ未聴ながら、4つめの「高い丘の歌」。
シャンドスへ、ヒコックスのあとを継いでディーリアスもシリーズ化している、サー・アンドルーの演奏。
デリケートなまでの繊細さで、この曲に対して、実に素晴らしい演奏を録音してくれたことに感謝です。
この美しい演奏をしっかりととらえた雰囲気豊かな素晴らしい録音にも感謝です。

Song_of_summer

今年は、この本の刊行もうれしい出来事でした。
まだ読んでる途上ですが、断片的に接することができていたフェンビーの著述が、こうして翻訳されて体系化されたことに、こちらも感謝です。
聴きなれたディーリアスの音楽に、さらに奥行きが深まりました。

過去記事

「フェンビー&ロイヤルフィル」

「グローヴス&ロイヤル・リヴァプールフィル」

「ロジェストヴェンスキー&BBC響」



Shima_b

1か月前の晩秋。

街はいま、クリスマス。

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