バッハ ヨハネ受難曲 ヨッフム指揮
増上寺の鐘撞堂と桜。
2週前の桜ですが、今年は、長く楽しめました。
バッハ ヨハネ受難曲 BWV245
福音史家:エルンスト・ヘフリガー イエス:ヴァルター・ベリー
ソプラノ:アグネス・ギーベル アルト:マルガ・ヘフゲン
テノール:アレグサンダー・ヤング ペテロ、ピラト:フランツ・クラス
オイゲン・ヨッフム指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
オランダ放送合唱団
(1967.6 @コンセルトヘボウ)
今年の受難節はちょっと遅めで、聖金曜日が4月19日、復活祭が4月21日。
信者ではありませんが、キリスト教は、身近な宗教で、幼稚園の頃からプロテスタント系の教会の着いた園に学び、大学もミッション系だったので、キリスト教系の学問も必須授業だったりした。
そして、それ以上に、クラシック音楽を親しむうえで、音楽と宗教の関係は密接であり、教会を訪問したり、宗教美術をながめたりするときには、必ず、頭の中に音楽が流れる。
そして、ショックだったのは、大切なイースターを迎える矢先に、パリのノートルダム大聖堂が火災にみまわれてしまったこと。
パリの人、いやフランス人の心の支柱でもあった聖堂が炎につつまれるのを、祈りながら、涙とともにみつめる市民の姿を見て、こちらも泣きそうになった。
同じように、日本人からしたら、法隆寺や薬師寺、東大寺、京の神社仏閣など、いや、それどころか身近にある神社のお社がそんな被害にあぅたらどうだろうか。
あらゆる神に祈りを捧げてきた日本人。
わたくしも、そのなかのひとりで、神さまにも、仏さまにも、イエスや神さまにも、同じように祈る、神さまに対して見境のない典型的な日本人であります。
それぞれの宗教の真の信者の方には申し訳ありませんが、日本人にとっての神さまとは、相対的に「心のよりどころ」であり、古来より自然の中にあるすべてのものに、その恵みの感謝の念を抱いて生きてきたがゆえの存在ではないかと思います。
そして、何千年と続く皇統の御代がずっとお側にあることも、日本人の心には常に安寧をもたらすご存在として大きいのだと思う。
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さて、ヨハネ受難曲ですが、福音史家と各ソロが主体の「マタイ」に比して、「ヨハネ」は合唱の比重が高く、その意味では劇的な要素が高く感じます。
それゆえに、聖書のイエスの捕縛から磔刑の一番劇的な福音劇を、叙事的に緊張感を持って鋭く描いたのは「静」のマタイであり、それをダイナミックに劇的に描いたのが「動」のヨハネであると思います。
個々には触れませんが、イエスの「こと果たされし」と最後の言葉を受けて歌うアルトのアリアには泣かされます。
ヴィオラ・ダ・ガンバのソロを伴った切々たるその歌、その哀しみは時空が止まってしまったかのような深みを感じます。
古楽器を伴った奏法に耳が慣れてしまった昨今、かつての従来奏法による、しかも大編成による演奏に接すると、実家に帰ってきたような安心感と、慣れしたんだおふくろの味、みたいな思いにつつまれます。
コンセルトヘボウの暖かな音色とホールトーン、懐かしい歌手たちの正統的な歌唱も、そんな思いに拍車をかけます。
ヨッフムの温和で、全体を包み込むような優しいタッチの音楽づくりは、健全きわまりないバッハ演奏にふさわしく、ドイツ・ヨーロッパのどこにでもある教会できっと演奏されたらかくも、と思わせます。
マタイと並んで、こんなヨッフムのバッハも、やはり自分には大切だし、日常使いとして、これからも聴いていきたい演奏のひとつだと思いました。
春は、一挙にやってきて、花々を開かせます。
過去記事
「ヘレヴェッヘ盤」
「シュナイト指揮 コーロ・ヌーヴォ演奏会」
「リヒター盤」
「シュナイト指揮 シュナイト・バッハ管弦楽団」
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