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2019年10月 7日 (月)

シェーンベルク 「グレの歌」 ノット指揮 東京交響楽団

Musa-3

久しぶりの音楽会に、久しぶりのミューザ川崎。

もとより大好きな愛する作品、「グレの歌」に期待に胸躍らせ、ホールへ向かう。

今年、東京は、「グレ」戦争が起こり、大野&都響、カンブルラン&読響、そしてノット&東響と3つの「グレの歌」がしのぎを削ったわけだった。
いずれもチケットが入手できず、2回公演のあった東響にこうして滑りこむことができました。

Gurre-1

ホール入り口には、「グレの歌」の物語をモティーフとしたインスタレーション。
ミューザのジュニアスタッフさんたちの力作だそうです。

左手から順に、物語が進行します。
第1部~ヴァルデマール王とトーヴェ、第一部の最後~山鳩の歌、第2部~ヴァルデマール王の神への非難と第3部の狩、右端は、夜明けの浄化か愛の成就か・・・

このように、長大な難曲を、物語を通して追い、理解するのも一手ではあります。

が、しかし、シェーンベルクの音楽をオペラのように物語だけから入ると、よけいにこの作品の本質を逃してしまうかもしれない。
デンマークのヤコプセンの「サボテンの花ひらく」という未完の長編から、同名の「グレの歌」という詩の独訳に、そのまま作曲されたもの。
もともとが詩であるので、物語的な展開は無理や矛盾もあるので、ストーリーは二の次にして、シェーンベルクの壮麗な音楽を無心に聴くことが一番大切かと。

Gurre-2

  シェーンベルク  「グレの歌」

 ヴァルデマール:トルステン・ケルル   トーヴェ:ドロテア・レシュマン
 山鳩 :オッカ・フォン・デア・ダムラウ 農夫:アルベルト・ドーメン
 道化クラウス:ノルベルト・エルンスト  語り:サー・トーマス・アレン

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団
               東響コーラス
         コンサートマスター:水谷 晃
         合唱指揮     :冨平 恭平

      (2019.10.06 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

山鳩は、当初、藤村美穂子さんだったが、ダムラウに交代。
それでも、この豪華なメンバーは、世界一流。
だって、バイロイトのウォータンを歌ってきたドーメンが農夫、オペラから引退したとはいえ、数々の名舞台・名録音を残した、サー・トーマスが、後半のちょこっと役に、という贅沢さ。

ノットの自在な指揮、それに応え、完璧に着いてゆく東京交響楽団の高性能ぶり。
CDで聴くと、その大音響による音割れや、ご近所迷惑という心配事を抱えることにいなるが、ライブではそんな思いは皆無で、思い切り没頭できる喜び。

そして、さらに理解できた、シェーンベルクのこの巨大な作品の骨格と仕組み。

全体は、ワーグナーに強いリスペクトを抱くシェーンベルクが、トリスタンやほかの劇作も思わせるような巨大な枠組みを構築。
1901年と1911年に完成された作品。
そして、第1部は、ヴァルデマールとトーヴェの逢瀬。
トーヴェのいる城へとかけ寄せるヴァルデマールの切迫の想いは、さながらトリスタンの2幕だが、あのようなネットリとした濃厚さは、意外となくて、シェーンベルクの音楽は、緊迫感とロマンのみに感じる。
トリスタン的であるとともに、9つの男女が交互に詩的に歌う歌曲集ともとれ、「大地の歌」とツェムリンスキーの「抒情交響曲」の先達。
 第2部は、闘いを鼓舞するような「ヴァルキューレ」的な章。
 その勢いは第3部にも続き、王のご一行の狩り軍団は、人々を恐れおののかせる。
この荒々しい狩りは、古来、北欧やドイツ北部では、夜の恐怖の象徴でもあり、ヴァルデマールが狩りのために、兵士たちに号令をかけ、それに男声合唱が応じるさまは、まさに、「神々の黄昏」のハーゲンとギービヒ家の男たちの絵そのものだ。
登場する農民は、アルベリヒ、道化はミーメを思い起こさせる。

こんな3つの部分を、流れの良さとともに、舞台の幅の制約もあったかもしれないが、その場に応じて、曲中でも歌手たちを都度出入りをさせた。
このことで、3つの場面が鮮やかに色分けされたと思うし、途中休憩を1部の終わりで取ったのもその点に大いに寄与した結果となったと思う。
映像で観たカンブルランと読響では、休憩は、2部の終わりに、歌手たちは前後で出ずっぱり。
こうした対比も面白いものです。

それから、今回大いに感じ入ったのは、大音響ばかりでない、室内楽的な響き。
弦の分奏も数々あって、その点でもワーグナーを踏襲するものとも思ったが、歌手に弦の各パートがソロを奏でて巧みに絡んだり、えもいわれぬアンサンブルを楚々と聴かせたりする場面が、いずれも素晴らしくて、ノットの眼のゆき届いた指揮のもと、奏者の皆さんが、気持ちを込めて、ほんとに素敵に演奏しているのを目の当たりにすることができました。

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この日のピークは、1部の終わりにある、トーヴェの死を予見し描く間奏曲と、それに続く「山鳩の歌」。
それと輝かしい最終の合唱のふたつ。
この間奏曲、とりわけ大好きなものだから、聴いていて、わたくしは、コンサートではめったにないことですが、恍惚とした心境に陥り、完全なる陶酔の世界へと誘われたのでした。
ノットの指揮は、即興的ともとれるくらいに、のめり込んで指揮をしていたように感じ、それに応じた東響の音のうねりを、わたくしは、まともに受け止め、先の陶酔境へとなったのでありました。
 続く、山鳩の歌は、ダムラウの明晰かつ、すさまじい集中力をしめした力感のある切実な歌に、これまた痺れ、涙したのでした。

そして、最後の昇りくる朝日の合唱。
そのまえ、間奏曲のピッコロ軍団の近未来の響きに、前半作曲から10年を経て、無調も極めたシェーンベルクの音楽の冴えを感じ、この無情かつ虚無的な展開は、やがて来る朝日による、ずべての開放と救いの前のカオスであり、このあたりのノットの慎重な描き方は素晴らしかった。
そのあとの、サー・トーマスの酸いも甘いも嚙み分けたかのような、味わいのある語りに溜飲を下げ、さらに、そのあとにやってくる合唱を交えた途方もない高揚感は、もうホール全体を輝かしく満たし、きっと誰しもが、ずっと長くこの曲を聴いてきて、やっと最後の閃光を見出した、との思いに至ったものと思います。
指揮者、オーケストラ、合唱、そしてわれわれ聴衆が、ここに至って完全に一体化しました。
わたくしも、わなわなと滲む涙で舞台がかすむ。

前半の夜の光彩から、最後の朝の光彩へ!
愛と死、そして、夜と朝。
シェーンベルクの音楽は、前向きかつ明るい音楽であることを認識させてくれたのも、このノット&東響の演奏のおかげであります。

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先に触れた、ダムラウと、アレン。
そして何よりも驚き、素晴らしかったのが、レシュマンのトーヴェ。
モーツァルト歌手としての認識しかなかったが、最近では役柄も広げているようで、これなら素敵なジークリンデも歌えそうだと思った。
凛々としたそのソプラノは、大編成のオーケストラをものともせず、その響きに乗るようにしてホール全体に響き渡らしていて圧巻だった。
「金の杯を干し・・・」と、間奏曲の魅惑の旋律に乗り歌うところでは、震えが来てきまいました。
 対する相方、ケルルは、第1部では、声がオーケストラにかき消されてしまい、存分にそのバリトン的な魅力ある声を響かせることができなかった。
わたくしの、初の「グレの歌」体験でも、同じようにテノールはまったくオーケストラに埋没してましたので、これはもう、曲がすごすぎだから、というしかないのでしょうか。
ライブ録音がなされていたので、今後出る音源に期待しましょう。
ケルルの名誉のためにも、まだ痩せていた頃に、「カルメン」と「死の都」を聴いてますが、ちゃんと声は届いてました。

もったいないようなドーメンの農夫。
アバドのトリスタンで、クルヴェナールを聴いて以来で、まだまだ健在。
あと、まさにミーメが似合そうなエルンストさんの性格テノールぶりも見事。

合唱も力感と精度、ともによかったです。

残念なのは、2階左側の拍手が数人早すぎたこと。
ノットさんも、あーーって感じで見てました。

でもですよ、そんなことは些細なことにすぎないように思えた、この日の「グレの歌」は、完璧かつ感動的な演奏でした。
楽員が引いても、歌手と指揮者は何度も大きな拍手でコールに応えてました。
こんなときでも、英国紳士のトーマス・アレン卿はユーモアたっぷりで、観客に小学生ぐらいの女の子を見つけて、ナイスってやってたし、スマホでノットさんを撮ったり、聴衆を撮ったりしてました。

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シェーンベルクの言葉。
「ロマンティックを持たぬ作曲家には、基本的に、人間としての本質が欠けているのである」

「浄夜」を書いたあと、この様式でずっと作曲をすればいいのに、と世間はシェーンベルクに対して思った。
その後のシェーンベルクの様式の変化に、「浄夜」しか知らない人は、驚愕した。
しかし、シェーンベルクの本質は変わらなかった。
ただ、シェーンベルクは、音楽の発展のために、自分の理念を開発する義務があると思って作曲をしていた。
無調や、十二音の音楽に足を踏み入れても、シェーンベルクの想いは「ロマンティックであること」だったのだと。

10年を経て完成した「グレの歌」こそ、シェーンベルクのロマンティックの源泉であると、確信した演奏会です。

Musa-2

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コメント

また失礼します。「グレの歌」やはり高校時代にブーレーズのCBS盤が最初でした。放課後に石丸2号店で購入しましたが、偶然出くわした同級生から「何それ?ソウル?」などと頓珍漢な質問を受けた記憶が。林光氏のライナーノートは印象的でした。

CD時代にはシャイー、ラトルと聴きましたが、実演は'01年にレヴァインがメトと上野で演ったのに接したのみで、まあ文化会館のステージがぎっしり満杯なのには驚きました。隣席のアメリカ人男性は1st.Vn.奏者のご亭主と言ってましたが、後半ほぼ爆睡だった記憶も。

演奏も実にそつなく進み、声楽陣も優秀だったと思うのですが、今記憶に残っているのは語りのエルンスト・ヘフリガーばかり。あの役は終曲直前の出ですし、また往年の名歌手が務めることが多いゆえおいしいとこ取りなのでしょうか。

またレヴァインはそれ以前にオペラもコンサートも接しているのですが、何故か歳月とともに忘却の彼方に去ってしまってる感が。録音はさほどでもないのですが。

ノットに関してはBPOとのリゲティ・プロジェクトくらいしか…あ、カウフマンが全楽章歌った「大地の歌」(DG)も聴きました。諸事情で15年以上コンサートから遠ざかっているもので、ちょっとした今浦島です。

例の#me tooファッショ、デュトワやガッティは手を差しのべる向きが出て来ましたが、レヴァインは体調のこともあり名誉挽回は厳しいかと。そしてまたドミンゴまでが同じ憂き目に。まあグリゴーロみたいな愚か者は付ける薬が無いとしか。いささか脱線してスミマセン…。

投稿: Edipo Re | 2019年10月11日 (金) 07時33分

ご無沙汰です。実はこのコンサート行ってました。かつてのあの騒ぎ以来のミューザ川崎(((o(*゚▽゚*)o)))
ケルルさんも、第3部の最後トーヴェの愛を歌い上げるところはオケに負けずでしたし。基本賑やかなオケに負けてしまうみたいですし。
今年のグレの歌祭りでは1番よかった、らしいですから。マイオーディオのバランスチェックも兼ねてでしたが、バランスは正しかったのも証明できましたし。
冒頭からずっと夢心地でしたよ。あぁ、またあの現実感のない楽園の時間を過ごしたいです (*´꒳`*)

投稿: kKasshini | 2019年10月12日 (土) 01時38分

Edipo Reさん、こんにちは。
わたくしも、グレは、ブーレーズから入りましたが、同時に小澤のFMライブで耳になじませました。
 その前に、フェレンチークとデンマークのライブがレコードで出て話題になりました。
その音盤の復刻を望みたいものです。

レヴァインとメトの来日では、よくオケをピットからあげて、大規模作品を取り上げてましたね。
歌手も豪華だし、チケットも高かったので、いずれもスルーしましたが、ヘフリガーだったのですね。
本来なら、レヴァインも巨匠として、どのように熟成した音楽を作るようになっているか、いないか、ともに確認できる状況ではなくなってしまい、残念といえば残念ですが、いまや過去の人になってしまいましたね。
 ご指摘のように、me tooのなかでも、レヴァインは一番難しい局面に立たされていて、過去のフレッシュな演奏記録も、それこそ過去のものにされてしまいつつあるように感じます。
 デュトワとガッティは徐々に・・ですね。
あと歌手たちもなんだかなぁ~との思いで、少しばからい、me・・・も辟易です。。

投稿: yokochan | 2019年10月15日 (火) 08時47分

kKasshini さん、同じホールでご一緒でしたか。
1週間が経ちましたが、わたくしも、いまだにあの時の陶酔境から抜け出せません。
いくつもの音源をつまみ聞きしてますが、やはり、あのときのホールの実音に勝るものはありません。
千人交響曲とともに、ホールライブでこそ真価がわかる音楽の類かもしれません。
ケルル氏、とてもよかったと思いますね。
あの声が結構好きですし。
1年で3つもやらずに、分散して欲しかったですね!

投稿: yokochan | 2019年10月16日 (水) 08時19分

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