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2019年11月

2019年11月24日 (日)

タルティーニ ヴァイオリン協奏曲 グッリ&アバド

Harunasan-d

群馬県の榛名湖、そして水面の向こうは榛名山。

11月の初めですが、紅葉はもう終盤。

火山でもある榛名山のカルデラ湖で、真冬には凍結し、ワカサギ釣りも楽しめます。
そして、晩秋先取りで、寒かった。

Tartini-abbado

  タルティーニ ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 D15
         ヴァイオリン協奏曲 ヘ長調 D64
         合奏協奏曲 イ短調  D115

     Vn:フランコ・グッリ

  クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・アンジェリクム管弦楽団

                (1962 ミラノ)

アバド、29歳の録音。

ミラノの名門音楽一家に生まれ、ミラノ・ヴェルディ音楽院ピアノ科を卒業したアバドは、ピアニストとしてスタート。
指揮者への道の情熱も止めがたく、シエナ、ウィーンで名教授スワロフスキーなどに学び、朋友メータとともに、ワルターやカラヤンのリハーサルなどに立ち会い(忍び込み・・)などの経験を積んだエピソードは有名だし、先ごろ、元気に来日したメータも、懐かしくもおかしげに語っています。

59年に、トリエステで指揮者デビューをしてから、イタリア各地やウィーンで活動を始め、今回の協奏曲の伴奏としてのレコーディングは、まさにデビュー3年後のもので、おそらくこれが指揮者としての初録音かもしれません。

ピアニストとしての録音はすでにいくつかあって、下段に過去記事をリンクしました。

この録音の翌年、1963年、アバドは、ニューヨークで、ミトロプーロス指揮者コンクールを征し、世界へと羽ばたいてきくことととなります。

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1926年、トリエステ生まれのヴァイオリニスト、フランコ・グッリは、録音があまり多くなく、しかもメジャーレーベルとは縁がなかったので、あまり知られていないアーティストだが、70年代からアメリカにわたり、そこで名教授として活動し、日本のヴァイオリニストでもグッリの教鞭を受けた方が多いといいます。
2001年に亡くなってますが、写真で見ると、とてもイケメンで、ヴァイオリニスト加藤洋子さんのブログを拝見すると、チャーミングでおしゃれな方だったようで、氏の人柄が偲ばれます。→Franco Gulli先生

グッリの音源は、恥ずかしながら、今回のタルティーニの協奏曲1枚のみですが、そのお名前は、1971年頃から知るところとなってました。

Gulli-1Gulli-2

会員制のレコード頒布組織、コンサートホールソサエティーの中学生ながらの会員だったので、そこで販売されたモーツァルトの協奏曲の新譜が、その素敵なジャケットとともに気にはなりつつも、当時はお小遣いが回らず、購入できなかったものでした。
しかも、共演の指揮者が、当時おそらくデビューしたての、アルミン・ジョルダンで、オケはローザンヌ室内管とジュネーヴ・アンジェリクム合奏団でした。
グッリは、にちに再録音してますが、このスイス録音は、是非復刻して欲しいものです。

さて、「悪魔のトリル」しか知らない、でもヴァイオリンに徹した作曲家のイメージのジュゼッペ・タルティーニ(1692~1770)。
消失したものも含めて、ヴァイオリン協奏曲を200曲、ソナタを200曲以上も作曲しているが、イタリアバロックのほかの巨匠、ヴィヴァルディやコレルリと比べると、かなり日陰な存在です。
CDでは、29枚に及ぶヴァイオリン協奏曲全集というとてつもないものが出てますが、わたくしのようなものには、グッリ&アバド盤が1枚あればいいや、と思ってしまいます・・・
 平尾行蔵さんのCD解説によれば、タルティーニには、その作風から3つの創作時期があるといい、その3つの時期からそれぞれ1曲づつ選曲されたのがこのCDだということです。
「対位法的な作法」「装飾された抒情旋律による作法」「和声とディナーミクを重視した作法」の3期。

「バロックを越えたロマン主義の先取り」ともされたタルティーニの音楽。
グッリの明るく、かつ柔和なヴァイオリンの音色、そして確かな技巧に裏打ちされた明確・明快さが、もう60年近く前の録音にもかかわらず、いまでも鮮度は落ちてませんし、聴いていて、とても気分爽快になります。
オーケストラもそうですが、いまや古楽器やその奏法に慣れた耳からすると、実に豊かな歌にあふれてます!
このおおらかな響き、たおやかなムードは、アナログの世界そのもので、今のデジタルでヴィヴィッドな古楽演奏からは残念ながら聴くことができません。

 そして、タルティーニの音楽の抒情的な美しさはどうだろう。
2つ目の協奏曲の緩徐楽章なんて、哀しいほどのグッリの美音に包まれて、陶然としてしまいます。
アバドの指揮も、弱音で歌う、まさに後年のアバドの真骨頂をここに早くも聴く思いがします。
 曲はいずれも、アバドの兄、ミケランジェロと、2曲目では特に、クラウディオの校訂が入っていることろにも注目です。
のちに、ペルゴレージに傾倒してゆく若きアバドのバロック音楽の演奏。
精緻さと歌のバランス感覚のよさは、さすがのものですし、生真面目なところもアバドらしいくて、もっとハジけてもいいかもと思ったりも。
でも、グッリの上品な明るいヴァイオリンには、ぴったりかも。

レコード時代は、70年代にトリオレコードから出たものですが、90年代にCD復刻された音盤を購入したものです。
録音年代を考えれば立派なステレオ録音で、艶のあるヴァイオリンサウンドを楽しめます。
最近、ワーナーより、アーリー・レコーディングスとして再発されましたが、そちらの音質はどうだろう、気になります。
このような、若きアバドの音源の発掘とともに、膨大なライブ音源、そしてなんといっても、ベルリンフィルとの、あの「トリスタン」をなんとか音源化して欲しいものだ。

アバド若き日の録音 過去記事

 「イタリア・バロック名作集 アバド親子」

Harunasan-a

晩秋色に染まる榛名山と逆さ榛名山。

Harunasan-c

ヨーロピアンな榛名湖の対岸。

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2019年11月19日 (火)

東京交響楽団定期演奏会 ノット指揮

Muza

東京交響楽団の定期演奏会を、本拠地のミューザ川崎で聴く。

ベルクとマーラー、わたしにとっても、指揮者ジョナサン・ノットにとっても欠かすことのできないレパートリー。

聴くという受容側の自分が、レパートリーなどと、偉そうなことを言いますが、ずっとその界隈の音楽を聴き続けてきた。
いまや、それらが世界の音楽シーンで受け入れられ、人気の音楽たちとなった。

9月頃から、このブログも、最近では珍しいコンサート通いも含めて、つとめて意識して、この分野・この時代の音楽を取り上げてきたことにお気づきでしょうか・・・・

R・シュトラウス、コルンゴルト、シェーンベルク、ツェムリンスキー、ウェーベルン、ベルク、マーラー、クリムト(シューベルト)、これらが、自分のブログによく並んだものだと、われながら思います。
こうした曲目を演奏会でも選択できる東京という音楽都市もすごいものだと思います。

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  ベルク   管弦楽のための3つの小品

  マーラー  交響曲第7番 ホ短調

   ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

       (2019.11.17 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

①ベルクの唯一といっていいオーケストラ作品。
マーラーの交響曲に感化され、同じような規模の大作品を書こうと目論んだが、師のシェーンベルクから、それはベルクの本分ではないと諭され、大規模さを受け継ぎながらも「性格的小品」を作曲することとなった。
それがこの作品で、実演で聴くのは、これが初めてでありました。
音源では、これまで、アバドとロンドン響のレコードをずっと聴いてきて、CDでもアバドとウィーンフィル、ブーレーズ、デイヴィスなどをずっと聴いてきたけれど、やはりライブで、大オーケストラを眼前にして聴くと、各奏者がどんなことをしているか、指揮者はどんなふうに振り分けているのか、などなど、きょろきょろしながらも、この複雑な作品を少しでも紐解く術となったような気がします。
「前奏曲」「輪舞Reigen」「行進曲」の3つの小品のなかに、それぞれA-B-Aという対称構造があって、それがなんとなくわかったような、これもまた、気がします。
でも「行進曲」は、つかみどころがなく、音の咆哮がどこに向かうのかわからなくなって、焦燥感を抱いたりもした。
この対称構造は、ベルクのいつも追い求めたもので、「ヴォツェック」などは、完全にそれに一致する緻密な作品だ。
その「ヴォツェック」の響きも、「ルル」もヴァイオリン協奏曲も、この作品のどこかしこに、潜んでいるような気もしながら聴いた。
 ノットのよく整理された指揮ぶりは、熱いながらも、とても緻密で、東響も、このベルクの音楽によく食らいつき、青白くも、宿命的なベルクサウンドをよく響かせていたと思う。
ミューザ川崎は、こんな作品の響きがとてもよく似合うと思う。

②前半からヘヴィーな20分。
後半も、超大編成の80分。
この合計100分を、われわれ聴衆は、まんじりともせず、集中力を途切らすことなく聴きとおしたのだ。
それだけ、音楽に没頭させる、夢中にさせてしまう、そんな感度と鮮度の極めて高い、とりわけ後半のマーラーだったのだ。
 わたくしのお隣にいらっしゃった、かなり年配のご夫妻は、きっと7番なんて初めてかもしれない、でも、ずっと真剣に聴いていたし、終わったあとも、スゴイ、いいよ、すごいよ、をご夫婦で連発されてました。
きっとホールにいらした方の、ほとんどの印象かもしれません。

ともかく、このマーラーの万華鏡のような、めくるめく変転する「7番」という交響曲を、まさに百花繚乱のごとく演奏したのが、この日の「ノット&東響」なのだ。
明るくよく響き渡るテナーホルンを吹かれた方、その艶のある音色は、この日の演奏の成功を半分約束されたようにも感じてしまいました。
そして、曲はだんだん加速するのだが、そこでノットは、テンポを落として、徐々に加速するスタイルをとったのにはちょっと驚き。
それ以外は、インテンポで、要所・各処をビシバシと決めていく、キレ味のいいマーラーとなりました。
ノットの気合に満ちた指揮ぶりを、斜め正面から見る席だったので、その「圧」の強さに、演奏してない自分までもが引き込まれて、長い1楽章からもう気圧されたようになってしまい、その楽章の終了時には、思い切り息と肩をついて、ふぅ~っとなりました。

最初の夜曲、第2楽章では、ホルンの見事さ、そして東響の各奏者の冴え、それと弦楽のユニゾンの楽しさなどを満喫。
ノットさんも、楽しそうに振ってましたね。
鐘はどこに? 録音かと思ったけど、最上階だったらしい・・・

「影」のように、す、すッーと滑りこむような第3楽章。
CDなどで聴いてると、その中間部も含めて、とらえどころがなく、もやもやしてますが、ここもやはりライブの楽しさ。
各楽器が、あんなことやってる、こんなことやってる、と観察しながら聴くのもいい。
5つの楽章の真ん中の折り返し。
前後に夜曲にはさまれ、これも思えば、シンメトリーな構造。
ベルクの作品を並べた、その対比の意図も、ここにあるのかもしれません、なんて思いながら聴いていた。

大好きな4楽章の夜曲、奇怪な夜の森の楽章のあと、最後の歓喜の前の、ひとときの「なごみの夜の音楽」。
わたくしは、若い頃、日曜の夜のアンニュイな気分を沈めるために、寝る前に、ウィスキーをくゆらしながら、この楽章だけをよく聴いたものです。
そのときの演奏は、バーンスタイン旧盤か、アバド・シカゴ盤でありました。
 そんな懐かしき若き思い出に浸りながら聴いた、ノット&東響のこの楽章には、ノスタルジーとともに、ちょっと不安の淵なども垣間見せるような、深みのある演奏となりました。
自分的には、この楽章が一番いい出来栄えかとも思いましたね。

そして、なんでこんなに歓喜の爆発になっちゃうんだろ的な、パロディも交えた、とどまることをしらない終楽章の明るさ。
6番のあとに、そして8番の前に、こんなむちゃくちゃな7番を書いたマーラーという作曲家の不思議さと、泣いたカラスがもう笑った的な、なんでもありのマーラーの心象に、切り込むような、バラエティあふれる演奏なんじゃないかと、この終楽章を聴きながら思った。
でも、そんなことはどうでもいい、というくらいに、最後のコーダでは、これでもかというくらいの盛り上がりに、もうドキドキが止まらない!
ノットの、掛け声ともとれる声も聴こえ、曲は大エンディングとなりました。

そのときの、われわれ聴衆の、大爆発たるや、こんなの久しぶりでした。
わたくしも、ブラボー一発かませましたぜ!
ノットさんのお顔も上気して、にこやかに会心の出来ばえとみて取れましたし、東響の皆さんの疲れと満足感の入り混じったお顔もそれぞれ印象的でした。
最後は、ひとり、ノットさんがコールに応えて出てきて、ここでもブラボーの嵐でした。

いやぁ~、ひとこと、「楽しかった~」

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川崎駅チカのツリー。

めくるめくマーラーサウンドを堪能したあとのツリー。

ドイツの黒い森、暗い夜、自然のあらゆる営みとささやき、人間の醜さと愛、なにもかもが詰まったようなマーラーの7番を、そのあるがままに、展開して見せてくれたのが、この日の「ノットの夜の歌」だったかもしれない。
そこに、何を聴くか、何を求めるかは、わたしたち聴き手次第。

前夜もサントリーホールで演奏しているが、そのときとも、また違う演奏だったと言っている方もおりました。
そして、東響の会員である知人の話では、2公演あると、そのいずれも違う、というノットのいつもやり方のようです。
楽員も命がけだし、ノットも常に、考え、探求し続けている。
日本のオーケストラシーンのなかでも、もっとも先端をゆく名コンビになりつつあるようだ。

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2019年11月12日 (火)

バックス 伝説 コレッティ(ヴィオラ)

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2019年11月9日の晩、翌日に、ご即位の奉祝パレードを控えた東京タワーも、記念のライトアップ。

自分と同期生の東京タワーも、ご覧のように美しく輝き、東にスカイツリーができても、まだまだ東京の顔として現役。
この日も、世界各国の方々も多くいらっしゃいました。

天皇陛下とは1歳違い、皇太子さまの時代より、ずっと親しく感じていたお方です。
昭和天皇は遠くの存在、平成天皇は父のような存在、そしてご即位された令和の時代の新天皇は、より親しみを持てる身近な存在。

陛下は、オックスフォード大学ご修学のご経歴と、そして自らヴィオラを弾かれます。

本日は、英国のヴィオラ作品を聴いて、あらためまして御奉祝の祝意を捧げたいと存じます。

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  アーノルド・バックス Legend ~伝説

    ヴィオラ:ポール・コレッティ

    ピアノ :レスリー・ハワード

        (1993.09.23 @ピーターズハム、ロンドン)

こちらのCDは、英国作曲家のヴィオラ室内楽作品を集めたもので、ブリテン、V・ウィリアムス、グレインジャー、ブリッジ、レベッカ・クラーク、そしてバックスの曲が収められてます。

これらの中では、女流のクラークさん(1886~1979)の3楽章形式のソナタという大作もあって、これがなかなかに抒情的かつモダーンな一品なのですが、それはまたいずれの機会に。

本日は、日ごろ、その作風や音色が耳になじんだ作曲家、バックスの10分あまりの幻想的な作品に絞りました。

バックスは大好きな英国作曲家で、もういくつも記事にしてますが、その素敵な、ワンパターンともいえる3楽章形式の7つの交響曲を中心に、オペラ以外に残した多彩なジャンルの作品たちを、愛してやみません。
 ロンドンっ子でありながら、ケルト文化に感化され、その音楽をたどり、収集し、自らの音楽に反映させました。
この「Legend」も、そうした雰囲気が満載の作品で、交響曲でいえば、3番とあのケルト臭満載の4番とのあいだに書かれました。
1928年、バックス45歳の作品です。

ためらいがちなヴィオラの音色に、感覚的なピアノが寄り添い、ミステリアスでありつつも、抒情と幻想の入り混じる、わたくしには、えもい合わぬ、バックス・ワールドを堪能できる佳品です。
それにしても、ヴァイオリンのように、突き抜けたサウンドもなく、チェロのように、人を包み込むような深い音空間を築きあげるでもない。
縁の下の力持ちのような、普段は、言葉少ないヴィオラの音色。
それこそ、多弁でなく、静かな物言いは、どんなに言葉や音を尽くすよりも、人の耳や心に緩やかに入ってきて、安心感をもたらします。

ヴィオラを嗜む天皇陛下の、その人となり、その御声、そのもののような気がいたします。
こんな風ないい方は不遜かもしれませんが、それこそ、国民や日本のことを、いつも祈っておられる皇室の存在が、わたくしたちに与えてくださる、安堵と安寧の安心感なのかもしれません。

ちなみに、ほかの収録曲、クラークのソナタ以外も、V・ウィリアムズ節が堪能できる「ロマンス」、グレインジャーの「サセックスの母のクリスマス・キャロル」など、べらぼうに美しく、そしてハートウォームな曲が聴けて、秋の夜にもぴったりです。

スコットランド出身、メニューイン門下のコレッティの艶のあるヴィオラは気持ちいい音色をふんだんに奏でてます。
彼も、期せずして、天皇陛下と同じ年でした。

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きれいなものは、きれい。
尊いものは、尊い。

それでいいじゃないですか。

2000年も続いた、日本国の皇統と、われわれ日本人の想いは、これからも弥栄にあれと心より思います。

パレードを体感しようと出かけましたが、思いもしなかった手荷物検査の長蛇の列は、一向に進まず長時間並んで終了でした。

上空のヘリコプターと、はるか遠くに見える、観覧できた方々の振る日の丸を眺めつつ、その雰囲気を堪能いたしました。

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2019年11月 9日 (土)

フィラデルフィア管弦楽団演奏会 セガン指揮

Suntry20191104

11月4日、晴天の振り替え休日、午後のサントリーホールのカラヤン広場には、日の丸と星条旗が並んでおりました。

あいにく、というか風もない好天で、旗はなびかず、静かなままでしたが、コンサートはパワフルなアメリカ魂に熱気の渦に包まれました!

Philadelphia

  チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 ニ長調

  マチャヴァリアニ ジョージアの民謡より Doliri

     Vn:リサ・バティアシュヴィリ

  マーラー     交響曲第5番 嬰ハ短調

    ヤニック・ネゼ=セガン指揮 フィラデルフィア管弦楽団

           (2019.11.04 @サントリーホール)

憧れのフィラデルフィア管弦楽団。
70年代、80年代初め、オーマンディとの来日を横目で見ながら、ついぞその実演に接することが出来なかった「フィラデルフィア・サウンド」。
その後のムーティは、当時、あんまし好きじゃなかったし、サヴァリッシュのシュトラウスも聴きそびれ、結局、エッシェンバッハとの2005年の来日でフィラデルフィア管を初めて聴くこととなりました。
その時の演目が、マーラーの第9です。
ほかのプログラムでも、マーラーの第5を演奏していたはずで、憧れのゴージャス・フィラデルフィアは、自分では、マーラー・オーケストラへと転じていたのでした。
 その後の破綻を経て、セガンのもとに復調したフィラデルフィアのマーラー、ほんとうに楽しみでした。
ちなみに、今回のオーケストラ配置は、ストコフスキーの通常配置で、まさにアメリカのオーケストラ、フィラデルフィアの伝統配置。
右から左へと低音楽器から並びます。
そして、私の記録から、2005年のエッシェンバッハとの来日では、対抗配置となっておりました。
このあたりもとても興味深いですね。

あとの楽しみは、初バティアシヴィリ。
予定されていたプロコフィエフの2番から、奏者の希望でチャイコフスキーに変更されましたが、これがまた度肝を抜かれる凄演でした!
最初のひと弾きで、明らかに違う、音色の輝きと音の強さ。
フィラデルフィアを向こうに回して、オケがどんなにフォルテを出しても、その上をゆく、いや、そのオケと溶け込みつつも、しっかりと自分のヴァイオリンの音をホールに響かせる。
それに煽られるようにして、セガンとフィラデルフィアも輝かしいチャイコフスキーを聴かせる。
1楽章の全奏なんて、こんなに聴き古し、聴きなれた旋律に心躍るなんて、自分には考えようもなかったことです。
(ムターとプレヴィンの、チャイコとコルンゴルト、いまだにそのチャイコだけ聴いたことがありません(笑))
そしてフルートソロのべらぼうな美しさといったらなかった。
 しかし、フィラデルフィアの弦は分厚く、そしてうまいもんだ!
繰り返しますが、それにも負けないバティアシヴィリのヴァイオリンって!
ビターな辛口の演奏だった2楽章も素敵だったし、ますますオケとの掛け合いが面白くて、興奮させられた3楽章。
完璧な技巧に、冷静・的確ななかにも、だんだんと熱を帯びてゆくバティアシヴィリ。
ショートカットの御髪を左右に乱しつつの一気呵成のフィナーレは、聴き手を夢中にさせてしまうまったく見事なものでした。
 曲が終わると同時に、サントリーホールは、ブラボーとともに、おーーっ的などよめきに包まれました。
セガンも彼女に、王女様に接するかのように、ひざまずいて最上級の賛辞を送り、会場も笑いとさらなる興奮を呼び起こし、指揮者が団員のなかに腰を据えるなか、エキゾティックなグルジアの民謡を演奏してくれました。
 バティアシヴィリ、大好きになりました♡

マーラーの第5番。
前半もそうですが、後半もオーケストラは多くの団員がステージに乗って、腕鳴らしをしています。
それむ、むちゃくちゃ真剣で、マジで練習してる。
先日のBBC Scottishのオーケストラもそうでした。
とくにアメリカのオーケストラは、各奏者の腕前が高く、ソロがオケのなかで目立つこともしばしばで、まさに個人主義の観念が行き届いていると思いますが、その代わり、プロ意識は極めて高く、いざというときの団結力が強靭なまでの合奏力となってあらわれるんだろうとも思います。
日本のオケや、ドイツのオケなどは、指揮者によって演奏のムラが出たりすることが多いと感じますが、アメリカのオケは、どんな指揮者にも全霊でもって答え、高水準の演奏を達成しますし、まして、有能な指揮者にかかると、とんでもない能力を発揮します。
そのようにして、アメリカのオーケストラは、一定の指揮者と長く続く関係を築くのであろうと思います。

さて、指揮なしで開始した輝かしいトランペットに、雄弁な女性のホルンが大ブラボーを浴びたマーラー。
セガンは、その頂点を3楽章に持ってきて、大きく3部にわかれるこの作品の姿を明快にしたと思います。
1楽章と2楽章は、アタッカで繋ぎ、一気呵成に悲劇的な要素を強調しつつ描きました。
2楽章の大破局のような悲観的なムードの表出では、うなりを上げるフィラ管の弦に圧倒されたし、セガンの隆々たる指揮も極めて大きな動きでもって、オケを煽るようにしてました。
マッチョな体のセガン氏、筋肉もりもりすぎて、燕尾服では背中が破れちゃんじゃないかしら。
良く伸びる素材の衣装をいつも着てるし、あのモリモリの指揮ぶりに、オケのフォルテも無尽蔵なのだ。

一転、平和とのどかさが訪れるスケルツォ楽章。
先のホルンも朗々として素晴らしかったが、ここでは、フィラ管の弦と木管の各ソロたちの妙技に耳を奪われました。
この長大な楽章が、いささかもだれることなく、いわば万華鏡を覗くかのような楽しみとともに聴けたのも、セガンの自在さとオケの自主性とがあってのもの。

ハープを弦セクションの真ん中に置き、フィラ管の弦セクションの美音を堪能したアダージェット。
自分的には、先日のダウスゴーのスリムな抒情の方が好きだったけれど、終盤の第2ヴァイオリンから再現されるメインテーマが、ほかの弦の伴奏を伴いつつ、じわじわと全弦楽による感動的なピークに達するところが、目にも耳にも、素晴らしいご馳走でした。
 終楽章は、ともかく明るい。
アダージェットの副主題が容をかえて、なんども登場する際には、セガンとオケはノリノリで、こちらも気分がはなはだよろしい。
そして最終クライマックスでは、またもや隆々セガンが両腕を大きく広げて大ピークを創出。
で、驚きのアッチェランドで大曲は、瞬く間に終了!

ブラボーの渦で、サントリーホールを聴き手は、アメリカのビッグ5オーケストラの実力をまざまざと見せつけられ、感嘆したのでした。
これでいいのかな?との思いもよぎったし、先日のダウスゴー&BBCSSOの方が美しかったとの思いも捨てきれないが、でもこれはこれでよろしい。
「セガンとフィラデルフィアのマーラー」を聴いたのだから。

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熱気冷めやらぬホールを出ると、外はもう夜空で、そこには相変わらず星条旗が無風で静かに掲げられておりました。

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2019年11月 1日 (金)

BBC Proms Japan BBCスコテッシュ交響楽団演奏会 ダウスゴー指揮

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ロンドンのロイヤルアルバートホール(RAH)を中心に、イギリス各地で行われる、BBC放送局がバックについた夏の大音楽プロジェクト。

その催しが、この秋、日本にやってきました。

英国音楽好き、Proms好きには逃せない引っ越し公演です。

ネットの普及で、ここ10年ぐらい、毎年7月の終わりから、9月半ばまで、連日のRAHのコンサートをリアルタイムとオンデマンドで聴くことが出来る喜びを満喫しておりました。
年々、音質も向上し、楽章ごとに起きてしまう拍手にも、最近は苦笑とともに、新鮮な聴き手のストレートな感想として素直に受け止めるようになりました。

毎年、大きなテーマを定めて曲目が決められるものだから、ある作曲家の交響曲が全曲とか、主要オペラのほとんどとかが、まとめて聴けるという利点もあり、そして、私のような英国音楽好きには、毎年、例外なく取り上げられる英国作曲家の作品の数々の魅力にあります。
有名どころから、私ですら知らない作品、さらにはBBCの委嘱作といった新作も、惜しげもなく演奏され、放送されます。

その引っ越し公演ですが、印象としては、まずは無難なところに着地を目指したという感じです。
本場でのレジデントオーケストラは、BBC交響楽団ですが、今回は、スコットランドのグラスゴーからBBC局傘下の、BBCスコテッシュ交響楽団が、現在の首席指揮者、トマス・ダウスゴーに率いられて来日。
ラグビー・ワールドカップに萌えるさなかの、ナイスなタイミングでもあります。

ちなみに、連邦制のイギリスには、イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドという4つの自治国があって、オーケストラでいうと、それぞれにBBC局のからんだ団体があります。
イングランドには本拠本元のロンドンのBBC響とマンチェスターのBBCフィル。
ウェールズには、尾高さんでおなじみとなった、カーディフのBBCウェールズ響。
スコットランドには、グラスゴーのこのたびのBBCスコテッシュ響。
北アイルランドには、BBCの直接のオーケストラはない(はず)で、アルスター管。

こうしたBBC系と自治国オーケストラのほかにも、イギリスには、ロンドンのBBCを含む5大オケに、BBCコンサート響、ボーンマス響、ハレ管、バーミンガム市響、ロイヤル・リヴァプールフィル、ロイヤル・スコテッシュ響、そのほかもオペラの座付きオケもありますので、イギリスのオーケストラはほんとにたくさん!

前置きが長すぎますが、そんななから、今回のProms Japanの座付きで来日した、BBCスコテッシュ響を聴き逃すわけにはいかなかったのです。

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  メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟」

  チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調

      P:ユリアンナ・アブデーエワ

  マーラー     交響曲第5番 嬰ハ短調

  エルガー     行進曲「威風堂々」第1番

   トーマス・ダウスゴー指揮 BBCスコテッシュ交響楽団

          (2019.10.30 @文化村オーチャードホール)

来演第1弾のプログラムは、ご覧のとおりの豪華盛沢山。
ご当地もの、旬の奏者による超有名曲、指揮者も得意とする人気曲、そしてお約束の定番。
午後7時にスタートし、終演は9時30分。

本ブログは2部に分けて書きます。

①まず、良かったこと、褒めたいこと。

・デンマークの指揮者、ダウスゴーはこれまで毎年promsや一部のCDで聴いてきたけれど、余剰な感情に走らない、ストレートな解釈が、かえって音楽の本質に迫ることで、マーラーやシベリウス、ブラームス、ツェムリンスキーなど、とても気に入ってました。
昨年のpromsでもこのコンビで演奏した5番が、この日の演奏会でも、わたしには、とても新鮮かつ気持ちのいい演奏となりました。
人によってはそっけなく聞けるかもしれない快速基調のマーラーだが、指揮姿を見ていると、かなり細かく、丹念に振り分けているし、奏者への目配りやキューも的確。
バーンスタインやマゼール、パーヴォなどと対局にあると思われるスッキリ系だけど、マーラーのスコアや、音楽自体が透けて見えるようなクリアーかつ客観的な演奏なのだ。
おまけに、速いか所ではたたみ込むようにしてメリハリをつけながらも、3楽章は、ホルン氏の艶やかな見事なソロが光り輝き、ワルツの楽しさと、ピアノ部分の静けさの描き方がとても素晴らしく、オーケストラの精度の高さも、ここで発揮されたように思う。
さらに、その良き流れでアダージェットは、連綿たる抒情ではなく、透明感の勝る抒情で聴かせる今宵イチの名演であったと思う。
5番のコンサートは、これまで何度聴いたかわからないが、アダージェットで目頭が熱くなり思わず落涙したのは初めてではないかと記憶します。
ほかの楽章も、いずれも自分には鮮度高い、素敵な聴きものであったことをここに記しておきます。
対抗配置もことさらに効果的だった。
そして、ホルン首席氏、大きなブラボーをひときわ浴びてました!

・マーラーのあとに、アンコールなんて、あんまりありえないことだけど。
ダウスゴー氏が進み出て、本場では、これ!、みなさんご一緒に、ってようなことをお話しして、「威風堂々」。
思わず、手拍子も起き、そして、あのメロディーでは、観客席を向いて指揮。
一部、歌っている方もいらっしゃったけど、大半はハミング、わたしは、GodとGloryとHopeぐらいしか記憶にないから、むにゃむにゃ言いながら歌いましたよ。
オーケストラも、ホールの聴き手も、ここではノリノリで、深刻なマーラーのあと、こんなに開放的になるなんていいのかな?なんて思いは言いっこなしでした。
コンマス(ミストレス)の態度は??でしたが、スコットランドの方がどれほどいらっしゃるかわからないが、メンバーの開放的な明るさも、とても印象的でした。

・アブデーエワ、髪をまとめあげて、黒のパンツスーツに赤いパンプス。
遠目にも美人、そしてその演奏も美人な演奏。
技巧の鮮やかさをひけらかすような、みてくれだけの演奏でなく、指揮者の早めのテンポにのりながらも、チャイコフスキーの抒情を弾きだす美しいピアノでした。
ここでも2楽章が、オーケストラとのやりとりも含めて、とても素敵なものでした。
彼女のアンコールを期待したけれど、あっさりコンミスが、真っ先に席を立ち、後味いまひとつ。

・冒頭の、メンデルスゾーンは、オケも聴き手も、まだ腕も耳も温まってないから、手さぐり的な状態。
それよりも、間接照明のステージライトアップがのっけから気になった・・・。

②良くなかったこと、指摘しておきたいこと。

・ステージライトアップは、本場のアルバートホールでも、よくやっていることだけど、曲によってはナシもあるはず。
メンデルスゾーンは海を思わせるマリンブルー、チャイコフスキーは赤、マーラーは薄いブルー、エルガーは忘れた。
こんな感じで、ステージの両サイドと、正面に掲げられたPromsのロゴマークがライトアップされたわけだが、わたしは好きじゃない。
ことに、マーラーはやめてほしかった。
音楽祭だけど、普通のコンサートステージでよかったんじゃないかな。
それよりも、オーチャードホールという選択肢が・・・・、大阪がうらやましい

・曲目からして、長い演奏会になることから、最後の時間が運用側やオーケストラのサイドからも厳しく決められていたのであろう。
オーケストラは休憩時間内に席についていたし、先にも書いたが、コンサートミストレスが、拍手を打ち切るようにして、挨拶もそこそこにステージを去ってしまうから、強制終了となるイメージ。
エルガーの終演後、余韻にひたりたかった団員は、われわれに深々と挨拶したり、お互いに成功を祝ってハグしたりしてたのに・・・・
たくさん聴けたのはうれしいことだけど、もっと余裕のあるプログラムの設定や、会場サイドの特別例外処置なども検討すべきでは?

・会場運営側といえば、極度の写真撮影の禁止。
ロビーにある、ホール内を映すモニターすら、撮影禁止の札。
終演後、団員も引き上げたステージを映そうとした方に気が付いた係員が、飛んでいって、止めてくださいと制止している光景もみた。
ロビーにあった大きな看板はOK。
promsのロゴやデザインの使用に関する運用上の約定があるのかしらんが、ここまで厳密にやる必要はあるのか?
それともオーチャードホールっていつもそうなのか?
ほかのコンサートでも、毎度思うけど、演奏者を映すことはダメだけど、ホールや奏者のいないステージの様子などは、聴いた方の思い出や、それをSNS等で紹介したり、また宣伝効果にもつながるので、過度でなければ多少のことはいいのではないかと思いますが。
なにごとにも厳密すぎる日本人ではあります・・・
自分はパンフで隠して映しちゃったけどさ・・・

・プログラムを買うのに行列しなくてはならない苦痛と、その内容のイマイチっぷり、グッズも高いしイマイチ。
ちなみに、威風堂々は最終日にプログラムに載っているが、イギリスで歌われる歌詞は、そのプログラムに記載あり。
しかし、アンコールでこれをやるのなら、歌詞をあらかじめ配るか、字幕を出すなどすればいい。
 そして、そのプログラム誌、メイン演奏者は、今回の音楽祭を通じ、オーケストラと指揮者であるはずなのに、その彼らの紹介が数行で、わずかちょっとしか出ない日本人演奏家たちと同じような扱いと配列になっている。
さらに、オーケストラのメンバーの一覧すらなく、CDや音源の宣伝もなし。
大きなページを占めているのは、特別協賛の会社の宣伝、しかもGOALSときた、すきじゃない。

・主催者の実行委員会のメンバーを明かしておこうじゃないか。
ぴあ、テレビ朝日、博報堂DIY、読売新聞、BS朝日がメンバーで、協賛がKDDI、特別協賛が大和証券・・・・
クラシック系の音楽事務所の名前はなし。

妙な商業主義を表に出すのでなく、アーティストと聴き手第一のプロモーションを心がけて欲しいものだ。
日本の聴き手は、もっとレヴェルが高いよ。

文句ばっかりになったけれど、ともあれ、「Proms」の名を冠したコンサートの企画自体はありがたく、これが今後も発展形で継続してくれるといいと思うのでありました。

Shibuya

ハロウィン前夜、渋谷の街に降りて行ったら駅前はこんな感じ。
正面のセンター街へ繰り出す人、そこからこちらへ向かってくる人。
音楽祭を楽しんだけど、こんな祭りはいやだな・・・でも楽しそうじゃないか、若者は。
学生時代を過ごした街、渋谷はいずこへ・・・

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