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2020年3月

2020年3月28日 (土)

癒しのベートーヴェン

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日本も、世界もたいへんなことになってしまった。

家で過ごさざるをえない状況に、いまこそ、お家で、ベートーヴェン。

思えば、3.11のあとも、こんな企画をしたな・・・

そのときは、テレビがみんなAC広告機構で、ぽぽぽ、ぽ~ん、だった。

→過去記事

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  交響曲第6番 ヘ長調 op68「田園」 第2楽章「小川のほとりの場面」

 ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮 ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

困ったとき、辛いとき、寂しいときの「田園交響楽」。
そう、誰しもの心を開放し、最高の癒し効果をあげることのできる音楽。
それが「田園」。
 そして、やはりウィーンフィル。
往年の60年代のウィーンフィルの音色を楽しめるデッカ録音で。

雲雀鳴く、小川流れる日本の原風景のような田舎の風景を思い、はやく正常化することを切に祈る。

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   ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 op19 第2楽章

    スティーブン・ビショップ・コワセヴィチ

  サー・コリン・デイヴィス指揮 BBC交響楽団

ピアノ協奏曲の緩徐楽章は、みんな歌心にあふれていて素敵であります。
そのなかで、一番の穴場が2番。
こじんまりとした作品だけど、この2楽章の抒情は見逃せません。
冬の終わり、かぐわしい花の香りがただよう晩に、夜空を見上げると星が輝いていた・・・
そんなようなイメージを持っちゃいます。
若きビショップとデイヴィスの全集はレコード時代に接した思い出のベートーヴェンのひとつ。
「皇帝」らしくない「皇帝」も実にいい演奏です。

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  ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 op24「春」

   Vn:アリーナ・イブラギモヴァ

   Pf:セドリック・ティベルギアン

この柔和なヴァイオリンソナタからは、あのいかつめ顔のベートーヴェンの姿は想像できない。
緩徐楽章を抜き出すまでもなく、まさに「春」を感じさせる全4楽章を今日は、ほのぼのと聴きました。
「田園」もそうだけど、これを聴けば、いつでも麗らかな春の野辺を散策する気分になる。
今年は、桜見物はお預けだ・・・・

イブラギモヴァのビブラート少な目のすっきりサウンドが、実に耳にさわやか、かつ清々しい。

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  ピアノ三重奏曲第7番 変ロ長調 op97「大公」第3楽章

   Pf:アンドレ・プレヴィン

   Vn:ヴィクトリア・ムローヴァ

   Vc:ハインリヒ・シフ

「大公」という構えの大きすぎるタイトルだけど、この曲は全体に歌と豊かな感性にあふれたおおらかな作品だと思います。
第1楽章も大いに癒し効果があるが、変奏曲形式で書かれた緩徐楽章にあたる第3楽章がとても素晴らしい。
ピアノトリオという3つの楽器の溶け合いが、これほどに美しく、効果的なことを存分に楽しめる。

常設のトリオでない3人の名手。
プレヴィンの優しい下支えするようなピアノが柔和でよろしい1枚。

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 ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 op13「悲愴」第2楽章

   マウリツィオ・ポリーニ

さて超名曲、超名旋律といったらこれ。
編曲され、歌までつけられ親しまれている。
初期ベートーヴェンのほとばしる思いが、悲劇性の強い前後の楽章に挟めれた、この2楽章では、ロマン性とともに、憧れをここに封じ込めています。
なんて優しい、美しい音楽なのでしょう。
そして繰り返しますが、1楽章と2楽章の厳しさとの対比の見事さ。

成熟の極みにあるポリーニの明晰な演奏で。

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 3月21日の吾妻山の菜の花と桜。

今頃は満開。

そして、いまは家に閉じこもって音楽を聴くのみ。

各国の音楽ネット配信も多く、嬉しくも忙しい。

メットの「リング」も毎日1作、全部観れてしまった。

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後期のベートーヴェンの澄み切った境地は、なみなみならぬものがあり、ひとことで、癒し~なんて言っていられない。

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     ミサ・ソレニムス op123 ~ベネディクトゥス

 カール・ベーム指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
           ウィーン国立歌劇場合唱団

「願わくば、心より出て、そして再び心に帰らんことを」

ベートーヴェンの信条としての「心の平安と世界の平安」。
澄み切った、透徹した心情。
とくに晩年の様式に多く反映されている。

心が疲れた時、こうした音楽は、その気持ちに寄り添うようにしてくれる。
ヴァイオリンソロを伴う、祈りの世界でもある。
ともかく、美しく、もしかしたら甘味な官能の領域すれすれのところも感じる。

ベームが自身の演奏で、会心の出来だったと語ったウィーンでの録音。
歌手・オーケストラ、合唱とすべて揃った名演。

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  ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 op109

   ウィルヘルム・バックハウス

ミサ・ソレニムスとほぼ並行して書かれた晩年の3つのソナタ。
そのなかでも、一番の抒情をたたえた曲。
そんなに長くないから、晴朗感にあふれた全曲を聴かないと。
さりげなく始まる1楽章から、ロマン派音楽の領域に踏むこんだベートーヴェンの完成された筆致を感じるが、なんといっても素晴らしのが、変奏曲形式の終楽章。

「歌え、心からの感動をもって」
こう記された、曲中最大の楽章は、まさに感動なしには聴かれない。
あるとき、ふとしたことでこの楽章を聴いたとき、私は落涙してしまったことがある。
仕事が行き詰まって生活にも苦慮していたときである・・・
最後に、主題が回帰されるところなど、安堵感とともに、心が満たされた思いになるのだ。

もちろん、残りふたつのソナタも素晴らしいけれど、心に、耳に、優しく響くのは30番・作品109のソナタです。
安心のバックハウスの演奏で。
レコード時代、私のレコード棚に百科事典のような存在で鎮座していた全集です。

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  弦楽四重奏曲第15番 イ短調 op132

    ゲヴァントハウス四重奏団

少し晦渋な領域に踏むこんだ晩年の弦楽四重奏曲にあって、一番、親しみやすい作品。
病に倒れ、そこから復調した思いが5つの楽章、45分あまりの作品の真ん中、長大な3楽章にあらわれている。

「病気が治った者の神への聖なる感謝の歌」

じわじわ来る、しみじみとした音楽。
苦境から脱するという、喜びと感謝、そしてさらなる希望。
なんと素晴らしい音楽なのでしょう。
終楽章の完結感もベートーヴェンならではかもしれません。

明晰なゲヴァントハウスSQのすっきりした演奏で。

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暮れようとする富士と桜。

日常が戻るのはいつになるのか。

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2020年3月20日 (金)

ベートーヴェン 三重協奏曲 ワルベルク指揮

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河津桜と菜の花。

神奈川県松田町の松田山から。

ほぼ日本人だけの桜の季節。

9年前の震災のときも、そして嫌な禍が降りかかってきても、等しく桜の季節はやってくる。

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ベートーヴェン ピアノ,ヴァイオリン,チェロのための協奏曲 ハ長調 op56
           ~三重協奏曲~

    ピアノ   :クロード・エルファー
    ヴァイオリン:イゴール・オジム
    チェロ   :アウローラ・ナトゥーラ

  ハインツ・ワルベルク指揮 ウィーン国立交響楽団

        (1960年代 @ウィーン)
         
なんだか地味な存在のベートーヴェンのトリプル協奏曲。
ピアノ・トリオをソリストにした協奏曲は、演奏会でもあまり取り上げられません。

また昔話ですが、ベートーヴェンの生誕200年に発売された、ソ連の巨人3人(リヒテル、オイストラフ、ロストロポーヴィチ)と西側のカラヤン&ベルリンフィルのレコードで、この曲の存在を知ることとなりましたが、当時はそのレコードを買うこともなく、CD時代になってからの入手でした。
その記事はこちら→

そして、当時、加入していた会員制レコード頒布組織「コンサートホール・ソサエティ」からも、このトリプル協奏曲は発売されました。
それがこのワルベルク盤で、CD時代に再加入してから購入したもので、かれこれ20年前。
ジャケット画像は、その時の会報誌からスキャンしたもの。

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作品番号56で、そのまえ55が「英雄」、次の57が「熱情」、58が第4ピアノ協奏曲。
こんな充実期にあった中期作品。
なのに、ちょい地味。
バロックのコンチェルト・グロッソを意識した形式ながら、その形式を取り入れることに苦心の跡があり、かえってバランスを崩してしまったのかもしれません。
ピアノは平易なのに、ヴァイオリンとチェロはなかなかの技巧を要するように書かれている。
音色的にもピアノが突出してしまうことを考えたのでしょうか。
 でも、ハ長が基本の明るくて屈託のない作品で、英雄と熱情に挟まれた健康優良児みたいな憎めない可愛い存在に感じるのだ。
長いオーケストラ前奏のあと、独奏はチェロから始まって、次はヴァイオリンで、ふたつの弦での二重奏となり、やがてそこにピアノがするするっと入ってくる。
この開始の仕方がとても好き。
そしてベートーヴェンに特有の抒情的な、まるでピアノトリオのような2楽章。
休みなく入る3楽章は、おおらかすぎかな。
 後期の様式の時代にも、もう一度チャレンジしていたら、トリプル協奏曲第2番はどんな曲になっていたでしょうか?

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懐かしの指揮者、ハインツ・ワルベルクの指揮するウィーンのオーケストラは得体のしれない名前になってますが、これはウィーン・トーンキュストラ管弦楽団のことです。
レーベルの関係で名乗れなかった。
ワルベルクはこのコンビで、コンサートホールに、いろいろ録音していて、ワーグナーやブルックナーもあって、なかなかの演奏ですが、録音がモコモコしてるのが難点です。
こちらのベートーヴェンも、録音がいまひとつですが、曲を味わうには十分です。
オケの音色にも、良き時代のウィーンの響きを感じますし、懐かしさすら感じます。
カラヤンとベルリンフィルの音とは別次元にあるこのオーケストラの音。
世界中の現代の高度なオーケストラが個性を失っていくなか、そのローカルな響きはまさにノスタルジーの世界です。
N響に何度も来てたワルベルクさん、無難さとともに、器用なところもあって、そのレパートリーは広大でした。
そしてなによりもオペラ指揮者で、合わせものは抜群にうまかった。

3人のソロの名前も渋いところが揃いましたが、いずれの奏者もコンサートホールレーベルで活躍してました。
それぞれの名前を検索すると、なかなかの奏者であったこともわかります。

ピアノのエルファーは、フランス人で、カサドシュのお弟子で、現代ものを得意にした才人。
ヴァイオリンのオジムは、旧ユーゴ・スロヴェニア出身で、音源も多く出てまして、わたくしの初「四季」は、オジムさんでした。
そののびやかで明るい音色のヴァイオリンは、いまでも耳に残ってます。
あと、チェロのナトーラは、アルゼンチン生まれの女流で、カザルス門下で、作曲家のヒナステラの奥さん。
各国さまざまな出自のソリストですが、音色の基調は明るく、ワルベルクの穏健なウィーンサウンドとよく溶け合ってます。

久しぶりに、懐かしい、そして楽しい聴きものでした。

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オマケ画像。

DGがカラヤンを貸し出したEMI音源が、日本ではソ連音源のレーベル、新世界レーベルから出た歴史感じるチラシ。
人類遺産とされました!

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早く、堂々と桜の下でお花見ができますように・・・

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2020年3月15日 (日)

ヴェルディ ラ・トラヴィアータ スコット

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 ベタですが、椿。

こちらも冬の吾妻山ではたくさん咲いてます。
なんたって、町の木が椿なのですからして。

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  ヴェルディ ラ・トラヴィアータ

   ヴィオレッタ:レナータ・スコット
   アルフレード:ジャンニ・ライモンディ
   ジェルモン :エットーレ・バスティアニーニ
   フローラ  :ジュリアーナ・タヴァラッチーニ
   アンニーナ :アルマンダ・ボナート
   ガストン  :フランコ・リチャルディ
   ドビニー侯爵:ヴィルジリオ・カルボナーリ
   医師グランヴィル:シルヴィオ・マイオニカ
   ジュゼッペ :アンジェロ・メルクアーリ
   使者    :ジュゼッペ・モレーシ

  アントニーノ・ヴォットー指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団
                 ミラノ・スカラ座合唱団

        (1962.7.2~7 @ミラノ・スカラ座)

頑張れ!イタリア!

Buona Fortuna!

そして、イタリアの名歌手、レナータ・スコットのヴィオレッタを。

先日、惜しくも亡くなられたフレーニさんの追悼特集のときにも書きましたが、永く聴いてきた往年の歌手たちの最近の動向を、ときおり検索したりして安心したりもしてます。
フレーニの訃報を聞いて、すぐに調べたのがスコットさんだったのです。

1934年サヴォーナの生まれで、2002年に引退はしたもののまだまだご健在。
2月24日にお誕生日をむかえられました。

そう、フレーニは1歳下で、彼女は27日が誕生日で、生まれもモデーナでイタリアの北の方。
レパートリーも似通っていたけれど、ライバルでもなんでもなく、オペラ界にともに君臨した名花であることに変わりはありません。
ふたりの共演盤もあったけれど、いまは廃盤の様子。

現在は、後進の指導にあたっているようで、なんと、今月3月にサヴォーナで日本人若手を招いてのマスタークラスが開催される予定でしたが、きっと中止。
http://nolimusicafestival.blogspot.com/2019/11/masterclass-con-renata-scotto-japan.html?m=0
関係者の皆様には、ほんとうにお気の毒なことです。

イタリアをはじめ、欧米、そして我が国も、ほとんどの演奏会・オペラが休止。

音楽好きからすると、多くの演奏家のことが心配です。
そして、北イタリアにいらっしゃるご高齢のスコットさんに、もしものことがあったらと思うと不安でなりません。

あくまで、ひとりの音楽好きの人間として、世界の音楽家・音楽好きの安全を願って、トラヴィアータを聴きます。

Traviata-1

1973年NHKホールの落成にあわせて上演された、第7期イタリア歌劇団の公演は、「椿姫」「アイーダ」「トスカ」「ファウスト」の4演目でした。
何度も書くことで恐縮ですが、中学生だったこのとき、テレビで全4演目を必死になって観劇しましたし、FM放送も聴きまくりました。
3年後の76年の最後のイタリア歌劇団公演には、ついに実際の舞台に接することができました。(シモンとアドリアーナ)

このときの、ヴィオレッタがスコットで、アルフレードはデビュー2年後の若手カレーラス、ジェルモンには、ベテランのブルスカンティーニという今思えば豪華なものでした。
伝統的な舞台に、華やかな衣装、そしてきらびやかな女性が、一転して悲劇のヒロインとなる。
そんな筋立てを、見事に描きわけたヴェルディの音楽に釘付けとなった中坊でした。
 ともかく、かわいそうなヴィオレッタ。
嫉妬に狂ったアルフレードが、皆の面前で、ヴィオレッタを辱める・・・、もうハラハラしました。
そして、最後は誤解も解けるも、死を覚悟して歌うヴィオレッタに涙した純情なワタクシでした。

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長じて、初老の身となったいま、ヴィオレッタへの同情と憐憫の気持ちは変わらねど、父ジェルモンの身勝手な行動に、腹が立つようになりました。
ついでに世間知らずのぼんぼんの息子ジェルモンにも。
以前も書いたかもしれませんが、このあたりの一工夫が、台本にもあれば、もう少し、人間心理に切り込んだヴェルディならではの音楽が別の姿で生まれたかもしれません。
もちろん、ふんだんすぎる豊富なメロディは耳にも心にもご馳走ではありますが。

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久しぶりに取り出したDGのスカラ座シリーズから。
前奏曲からして、あきらかにオーケストラの音色がヴェルディそのもので、以降もオペラを知り尽くしたオーケストラが、舞台の歌と一緒になって奏でる渾然一体の輝かしい演奏には、それこそ耳が洗われる思いがする。
ヴォットーの温厚だけれど、すべてが順当な指揮も、ここでは安心して聴ける。

若々しいスコットのヴィオレッタ。
同役でデビューした彼女は、まだ28歳の頃の声で、瑞々しさがいっぱい。
聴き手によっては、その張り切りすぎた高音がキツイという意見もありますが、私は、スコットのそんな一生懸命な歌が好きなのです。
レッジェーロからコロラトゥーラの声だったこの時分かと思います。
その最初の全盛期は、このころからあと、数年となりますが、声の変革を多大な努力のもと行い、きっとその過渡期が、日本でのヴィオレッタの舞台だったしょうか。
そして、ドラマティコ、リリコ・スピントの領域へその声も移行し、70年代後半以降、多くの録音を残したことはご存じのとおりです。
このあたり、フレーニの歩みともほぼかぶります。
 20代のスコットのヴィオレッタは、まずその声の美しさが際立ってまして、80年のムーティとの再録音に聴く落ち着きとはまた違う若々しさが魅力です。
そして、例えは稚拙ですが、スコットの声には庶民的な親しみがあるんです。
カラスやテバルディのような、圧倒的な威力と強靭な声と個性などとは大きく異なるその声。
わたしには、フレーニと同じく、ずっと聴いてきた耳に安心感のある声なのです。

そして、DGのこちらのシリーズ最大の聴きもののひとつは、バスティアニーニ。
ジェルモン向きの声ではないかな、とも思いますが、その朗々とした明快な声には痺れざるをえません。
その歌声から風光明媚なプロヴァンスの海と陸が脳裏に浮かんでくるのを感じます。
申し少し、存命だったら、と思わざるをえない。
あと録音の少ないライモンディの素直な声も、まさにアルフレードに相応しく、純正イタリアをここにも聴くことができる思いです。

録音もいまもって新鮮です。
聴き古したオペラだけれど、たまに聴くとほんと感動します。

スコットさん、いつまでもお元気で、心より祈ってます。

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少し前ですが、家の庭には、沈丁花が今年は早くも開いて、かぐわしい香りが。

奥には、ピンクの河津桜。

いい香りに包まれると、不安な気持ちも和らぎます。

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2020年3月 8日 (日)

チャイコフスキー ピアノソナタ(大ソナタ) L・ハワード

Matsuda-a

少し前ですが、大井町の河津桜。

小高い松田山では、毎年2月後半、河津桜と菜の花が満開になって、桜まつりが開催されます。

天気にも恵まれ、多くの人出でした。

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  チャイコフスキー ピアノソナタ ト長調 op37
                                 ~大ソナタ~

      ピアノ:レスリー・ハワード

  (1993.10 @オールセインツ教会、ピーターズハム、ロンドン)

管弦楽作品、室内楽・器楽、オペラ、声楽と、広範なジャンルに作品を残したチャイコフスキーですが、聴かれる作品は案外と限られていると思います。
そんななかでも、ちょっとマイナーなイメージのあるピアノ作品たち。
1番の協奏曲ばかりがもてはやされるけれど、2番もステキな曲だし、未完の3番もいい。
そして、ピアノソナタは2曲あって、なかでも今日の「大ソナタ」は、構えの大きな力作であります。

作品番号37は、ちょうどヴァイオリン協奏曲と同じ時期のもので、4番の交響曲のあとで1878年。
もうひとつは、作品80がついているけれども、出版がずっと後になったためということで、1865年。
あと、このCDに収められているのは、奏者のハワードによって補筆完成させた単一楽章の作品もあって、ここでは1番のソナタとされてます(1863年)。
メック夫人の援助もあり、充実した作曲活動の時期だったが、どうもこのソナタの筆は鈍りがち。
ヴァイオリン協奏曲と交差するように、その作曲も交えて、ようやく完成させ、ニコライ・ルビンシュタインによって初演。
そして大成功をおさめたとされます。

大ソナタは、30分ぐらいの手ごろな長さだけれども、一聴してわかるのは、その難しさ。
スコアを一瞥すると、素人のワタクシでも驚くほどの音符の多さ。
これを書いちゃうのもすごいし、私には才はないから、これを演奏して、ちゃんと音楽にしてしまうピアニストというのもすごい。
 「グランド」というタイトルのとおりに、チャイコフスキーが意識したのは、シューマンのこと。

4つの楽章からなり、第1楽章が一番長いのだけれど、その出だしから、シューマン風で、ロマン派のピアノ作品を聴いてる気がしてくる。
でも勇壮な、その1楽章にも、ちょこちょこ、ピアノ協奏曲で聴きなじんだチャイコフスキー風のフレーズが顔をのぞかせたりして、嬉しくなります。
 沈鬱ムードの出だしの2楽章は、一瞬、ベートーヴェンのソナタの緩徐楽章っぽくて悩み多きチャイコフスキーの横顔が、ベートーヴェンやシューマンと被るが、中間部は明るくなって、そして盛り上がりも見せ、明るさと沈鬱が交互に明滅したりして、なかなかの聴きものの楽章だった。
 次いで、ごく短いスケルツォは、忙しい雰囲気で、中間部のトリオも上から下まで、音が繁茂に行き来して楽しくもまた幻想的だったり。
第4交響曲のスケルツォ楽章にも似たり。
そして、そのまま忙しさを継続させ終楽章になだれ込むが、ここはそれこそ音符だらけで、そんな合間にメロディアスな民謡風なフレーズも顔を出したりで、最後は華々しく曲を終えるが、この楽章も第4交響曲と同じ香りを感じた次第。

リスト弾きとして高名なレスリー・ハワードの冴えたピアノは、2楽章の抒情も、高度な技巧の場面でも、ばっちりでした。
このCDには、チャイコフスキーのソナタ作品が全部収録されていてありがたい1枚です。
ちなみに、もうひとつのソナタの3楽章の一部は、そのまま交響曲第1番の「冬の日の幻想」の3楽章に引用されてまして、これもまた楽しい聴きものでありました。


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大陸からやってきた災厄のおかげで、社会機能が一部不全となりつつあり、音楽界にも暗い影を落としてます。

相次ぐ公演の中止や、外来の演奏家の来日中止。

そんななか、無聴衆で演奏し、ネット配信して、ファンの渇望を癒してくれる果敢な試みもたくさん。

この週末は、びわ湖ホール、プロデュースオペラ「神々の黄昏」をネット観劇しました。
4年目の今年は、リングの完結で、楽しみにされていた方も多かったと思います。
4部作を通して、同じ演出と演奏者で観るというのは、人生でそう何度も味わえるものではありません。
本当に残念なことでしたが、でも関係者のみなさんの熱い思いをひしひしと感じる熱い演奏に歌唱で、感動的な舞台でした!

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日当たりのいい斜面には、ミカンも満載。

コ〇〇早く消えろ、といいたい。

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2020年3月 1日 (日)

ウォーロック 「たいしゃくしぎ」

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真冬の夕方どきの湘南海岸。

遠くの箱根の山が薄く染まり、砂浜の足跡も寂しく、厳しい雰囲気。

繰り返す波の音に、こんなときは、海鳥が鳴いたりすると、寂しさもひとしおになって、もっと雰囲気が出る。

3月の始まりなのに、絶望的な音楽を。。。

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      ウォーロック 「たいしゃくしぎ」

    T:ジェームス・グリフェット

  コールアングレ:マリー・モードック
  フルート:マリー・ライアン
  ハフナー弦楽四重奏団

           (1993)

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    T:ジョン・マーク・エインズリー

   ナッシュ・アンサンブル
       
         (1997.4 @ロンドン) 


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    T:イアン・パートリッジ

  ロンドン・ミュージック・グループ

        (1973.6 @アビーロードスタジオ)

ピーター・ウォーロック(1894~1930)は、ロンドン生まれの作曲家。
寡作化であったのは、36歳という短い生涯であること以上に、学校では音楽を学びながら、さらに専門の音楽大学、ことに英国でいうところの王立音楽院などに進むこともなく、独学で音楽を学ぶという、ほんとうの音楽マニア的な作曲家であったので、本格的な大作を書くことができなかったことにもあると言われてます。
 そして、悩める作曲家でもあり、36歳という若さの死は、いくつかの説もあるようですが、自ら命を絶ったことであります。

音楽マニアと書いたのは、そのメインは、大好きな作曲家だったのが、30年ほど先輩にあたるフレデリック・ディーリアスの大ファンだったこと。
実際に会ったりもして、その思いも伝えたりしてますが、ディーリアス研究の著作もあって、大いに評価されてまして、それはいつか手にしたいと考えてもいます。
そしてなによりも、ディーリアスの音楽が、自身の作曲の手本にもなっていて、その作品からディーリアスの姿を感じ取ることもできるものもあります。
あと、クィルターや、オランダの作曲家でロンドンに住んだファン・ディーレンからも影響を受けているとされます。

ピーター・ウォーロックという名前は、いわゆるペン・ネームで、本名はフィリップ・ヘセルタインというものです。
山尾敦史さんの名著「英国音楽入門」で読みました。
ヘセルタインは、とても優しくて内省的なタイプと自分を評していて、芸術家というのは破天荒な存在で、苦悩に満ちていて放蕩を繰り返し、酒浸りになっているようなものだ、という思い込みがあったといいます。
そのために、作曲家としてのヘセルタインは、ペンネームのウォーロックに変身し、髭もたくわえ、友人の作曲家のモーランと連れ立って酒場通いをして、女友達に囲まれるような日々を過ごした時期もあったとありました。
 そんななかで、いくつかのシンプルながら、珠玉の作品を残すことになるのですが、うつ病の症状も出始め、さらには創作力も弱まって、著作や作曲もうまく進まないようになってしまった・・・・
ウォーロックという名前の言葉の意味には、魔法使い、占い師、さらには世捨て人というような意味合いもあるそうです。

なんか気の毒なウォーロックさんとヘセルタインさんなのでありました。

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ウォーロックの多くない作品のなかでの、代表作は、弦楽のためめの「カプリオール組曲」。
それと歌曲集「たいしゃくしぎ」と歌曲の数々。

20年以上前に読んだ前褐の山尾さんの本で、ディーリアス好きのわたくしは、ウォーロックに大いに興味を持ち、「たいしゃくしぎ」という鳥がジャケットになったCDをすぐに購入しました。
ASV原盤で、いまは廃盤のようですが、こちらは、ほかに「カプリオール」とか弦楽四重奏付きのすてきな歌曲が収録されていて、いまでも大切に聴いてます。
しかし、残念なことにこのCDには、詩の原文がついてませんでした。
 いまでは、ネットですぐに探すことができますが、20年前はそんな時代じゃなかった。
その後に購入したのが、エインズリーとナッシュ・アンサンブルのハイペリオン盤と、イアン・パートリッジのEMI盤の2枚でした。
「たいしゃくしぎ」の原詩を知りたい、ウォーロックの歌曲をもっと聴きたいという思いからです。
そこで苦闘しながら知ることとなった、「たいしゃくしぎ」の歌詞の内容・・・

その音楽もそうですが、イェーツの詩によるその内容も、暗くて、救いがなくて、惨憺たる心情にあふれたものだったのでした。

4編からなる22分ほどのこの曲は、コールアングレとフルート、弦楽四重奏を伴ったテノールによる歌曲集です。
「たいしゃくしぎ」=ダイシャクシギは、渡り鳥で、日本で越冬することもあるそうですが、あんまり見かけることはありません。
河口などの水辺にすごし、その長いくちばしで、地中の虫などを餌にして、これまた長い足でよちよち歩いたり、佇んだりしてるそうで。
またちょっとミステリアスな雰囲気もあるので、神秘的な存在として、この世の無常を問いかける鳥ともされているといいます。
日本の俳句などにも似合いそうな渋い存在ともとれますね。。

コールアングレ(イングリッシュホルン)という楽器がソロで活躍する曲といえば、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」を思い起こしますし、ワーグナー好きなら「トリスタンとイゾルデ」の第3幕、病床のトリスタンを心配する牧童の笛を思い出します。
 そう、いずれも悲しみや、孤独、厳しい自然などを表出するのにうってつけの楽器。
これに、澄んだ無垢なるフルートの音色と、短調が基調の厳しい弦楽四重奏が絡むという、最高の虚無っぷり。
こんな音と楽器の配色を見出したウォーロックは逆にすごいと思います。
そして、こうした無常ともいえる内省的な音楽は、私淑したディーリアスの音楽領域にも重なるものと思います。
 しかし、ウォーロックの音楽は、こんな風に暗くて救いのものばかりではありません。

16世紀、17世紀イングランドのテューダー朝、ステュワート朝の音楽の研究も行っていたウォーロックですから、「カプリオール組曲」のような瀟洒でシンプルな音楽も書きましたし、歌曲のなかには、心躍るような楽しい歌も多くあります。
そんな二面性のあるウォーロックさん。

アイルランド人で、神秘主義にも傾倒したイェーツの詩と不可分に結びついた「たいしゃくしぎ」
1922年、ウォーロック28歳のときの作品。
藤井宏行さんの訳詞が、ネットで見れますので、参照にさせていただきました、ありがとうございます。(→The Curlew

 ①O Curlew , Cry no more                     
   おおたいしゃくしぎよ、もう鳴くな
 ②Pale Brows , still hands and dim hair 
   蒼ざめた顔 柔らかな手と柔らかな髪
 ③I cried when the moon was murmuring to the birds       
   わたしは叫んだ 月が小鳥たちにつぶやいていたときに
 ④(Interlide)       (間奏)
 ⑤I wander by the edge         
        わたしは、この岸辺をさまよう

各詩の最初を読むだけで、哀愁と忘れがたい悲しみを追い求める姿が浮き彫りになります。
曲の冒頭で、コールアングレの演奏が始まるとすぐ、ひんやりとした状況に包まれてしまう。
そして次いであらわれる、たいしゃくしぎに、鳴かないでくれと呼びかける歌、イギリスのリリックなテノール歌手の歌声あってこそ、この音楽を歌い込むことが可能とも思います。
歌うばかりか、独白のように、詩を読んだりもします。
ともかく救いナシ。
あまりに切々とした歌で、同情を誘ってしまうような音楽でありつつ、あちら側に行っちゃった感じも受けるので、ついていっちゃいけない、と曲が終わったときに心に誓うのも忘れてはなりません。

初聴きのグリフェットのマイルドな歌声、エインズリーの哀感ともなったリリカルな声、パートリッジのちょっとか細さすら感じさせる泣きの歌。
全部、好きです。
あと、パドモアも録音したみたいですから、そちらはフィンジがカップリングされてまして、是非にもと思っています。

Hiratsuka-2

いま現出した不安の日々に、こうした音楽も聴いて、逆に光明の光りを感じ取ることも必要かと思います。

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