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2020年4月

2020年4月19日 (日)

ワーグナー 「パルジファル」 ストリーミング大会

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芝公園内、増上寺の隣にある神社。

家康を祀った芝東照宮。

梅と桜が、毎春、美しく咲きます。

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八重桜、日本の神社仏閣と桜は、とてもよく似合います。

もともとが八百万の神を信じてきた、いや無意識のうちに、そんな日々を生活に溶け込ましてきた日本人。
なんにでも手を合わせてしまう、ある意味無宗教ともいえるのかもしれないが、その根底には自然信仰があるかもしれません。

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毎春パルジファル。
そう聖金曜日のシーンがあるし、ワーグナーがそれこそ舞台神聖祭典劇と名付け、バイロイトを想定して作曲しただけに、以降しばらく一般劇場で上演が禁じられたある意味特別な作品。

戦後1951年に再開されたバイロイト音楽祭では、作曲家の孫、ヴィーラント・ワーグナーの演出とクナッパーツブッシュの指揮によるこのパルジファルが、定番・名物ともなり、ライブ録音もなされ、世界のワーグナー好きの指標となりました。
この演出は1973年まで続くことになりますが、その後を受けたウォルフガンク・ワーグナーの穏健な演出も同じ基調にありました。

バイロイト以外では、情報がなく不明ですが、そのバイロイトでも、「パルジファル」の基本概念を覆す演出が始まったのは、1982年のゲッツ・フリードリヒから。
この演出の映像がないのが残念ですが、時空の概念を超える空間演出とか評され、指揮のレヴァインは嫌々指揮してたとか、あとで告白したりしてます。
その後、穏健な舞台に行きつ戻りつつ、本場のバイロイトも伝統的な解釈にとらわれない上演が定着したように思います。

 その伝統的な解釈とは、その根底に「キリスト教」があるということ。
原罪と救済、聖杯と聖槍といった聖具、聖堂に礼拝、受難と復活、こうしたモティーフがワーグナーの書いた物語に普遍的にあるので、それらを抽象・具象問わずに再現すること。

しかし、このキリスト教信仰の根底の裏返しには、他の宗教への蔑視や、ワーグナーの反ユダヤといった思想、ナチスの台頭なども想起させるというのも近年のフラット社会を根差した考えから、あえて「キリスト教」的なものをスルーする動きが出ているわけです。

作品が、持っている根底を、いまの風潮と、どう折り合いをつけていくか。
「パルジファル」という作品を、いまの現在上演するのは、ほんとうに難しいと思われるし、ある意味、やりがいのある凄い作品なのだ、ということにもなります。

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演奏会やオペラの上演ができなくなり、また自宅で過ごす方が世界中多くなり、オペラのネットストリーミング配信がとても多くなりました。
すっかり、その恩恵を、極東に住みながら受けているわけで、申し訳なくもありがたい思い出いでいっぱいなのです。
もう、それこそたくさん現在進行形で観ているけれど、それを各々記事にするのもどうかと思われますので、これまでしませんでした。
しかし、「パルジファル」だけは残しておこうと。
なんと9つの「パルジファル」上演が放送され、うち7つを観てしまいました!
古いものから。

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 2013年 メトロポリタンオペラ

カナダのジラール演出。
ガッティ指揮、カウフマン、パペ、マッティ、ダライマン、ニキティン。
舞台の真ん中に亀裂があり、右は宗教的な団体、左は女性たち。
パルジファルは、この亀裂の中を分け入り、クリングゾルから槍を奪還して、そちらの世界を崩壊させ、最後は亀裂がなくなり、同一の世界となって、みんなで光が差す空を見上げるというもの。
聖具はちゃんとあるが、キリスト教的なものはまったく感じさせず、聖杯系の方々は白いワイシャツ。
 他民族国家アメリカらしい、自由社会を描くものか、この演出のころはまだましだったアメリカ社会は、ソーシャリズムとポリティカル・コレクトネスで、より多文化共生という複雑な様相を呈している。
いつかまた、そんな社会を背景としたパルジファル演出がなされるのではと思う。
ちなみに、花の乙女たちは、まるで「貞子」のようであったことを、ここに付記しておきます。
若いカウフマンがビジュアル的に最高。


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 2015年 ウィーン国立歌劇場

もっと前と思われるが録画されたのが2015年のクリスティーネ・ミーリッツの演出。
アダム・フィッシャー指揮、ボーダ、ミリング、フォレ、デノケ、ボアーツ。 
聖杯守護の騎士たちは、フェンシングスクールの生徒たちで、その練習に勤しんでいる。
クリングゾールの城は、現代風のリビングルームで赤い装飾、ミラーボールで、クスリ漬けのクンドリーはキャバレー一の売れっ子のように晴れやかに登場。
3幕は、ただただ暗く、聖金曜日も暗く、野も花もなく、遠くに山並みがあるのみ。
ともかくやたらと血だらけアンフォルタスは、ライトセーバーみたいな槍でなんとなく癒されるのみ。
最後は、昇天したクンドリーを除いて、全員がステージから観客の方を見つめて終わり・・・と思いきや、開けられなかった聖杯の箱を持っていたジイさんが、それを落としてしまって、聖杯が粉々になっちまうオチがある。
 伝統的な演出の多いウィーンでもこんな感じで、むしろ滑稽で笑える。
A・フィッシャーの指揮がまことによろしく、故ボーダの見た目はキツイけど、素晴らしい歌を聴いて、その死の大きさを思う。
デノケは、まったく不調で、絶叫も外し、気の毒で、この役には似合わない。

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 2015年 ベルリン州立歌劇場

ロシア出身のチェルニアコフ演出。
バレンボイム指揮、シャガー、パペ、コッホ、カンペ、トマッソン、あとティトゥレルに懐かしいマティアス・ヘレ。
今回の一連の観劇のなかで、自分的には一番ショックだったし、よくよく考えられた演出であり、演奏の安定感も一番だと思った。

見事な読み込みで、ワーグナーの物語の根本は変えずに、今生きる我々にいろんな問題を提示してみせた感じ。
聖杯騎士軍団は暗い新興宗教を仰する軍団で完全三密状態にある方々。
指導者ティトゥレルは崇められ、道を踏み外したアンフォルタスは、バカにされ小突かれまくる。
パルジファルは家出のバックパッカーで、危ない神経質な少年で、リュックからミネラルウォーターを出したり、いろいろ細かな動きをする。 
クリングゾルの城は、身寄りなしの女子たちの寮みたいな感じで、クンドリーはそこの出身者で姉的な存在。
クリングゾルは悪者ではなく、その寮のおどおどしたバーコード頭のオヤジさんで、すごくいい人で、クンドリーのことが心配でならない感じ。
そこへ、2階の窓からこそこそ侵入するパルジファルに失笑。
で、あわれクリングゾールは、ぶっ殺さ・・・・
マザコンのパルジファルの性を開放したのは、クンドリーで、クンドリーは、きっとかつての侵入者だったアンフォルタスのことが忘れられない。そんな仕掛けもある。
当然に、聖金曜日もクソもなく、密室状態でのあの神々しい音楽は、ただの美しい音楽でしかない。
パルジファルとクンドリー、子供時代のこだわりの品々を出してきて、これは背負ってたもの、かつての縛りから解放される解釈とみた。
 パルジファルの聖なる行いに、信者たちは、あらたな指導者の登場とばかりに、アンフォルタスを捨て置き、パルジファルを撫でまわし、崇め奉る。
そして、最後は軍団の影のフィクサー、グルネマンツが・・・・・ここは観てのお楽しみか。
人間の抱える苦悩をどう開放するか、宗教はみせかけなのか、人の集団組織を維持するには悪もまたしかりか、いろいろと考えさせることが満載で、ともかく登場人物たちの目まぐるしい動きは、それぞれに心理的な動きも内包していて目が一時たりと離せない。
 このチェルニアコフとバレンボイムのコンビで、プロコフィエフの「賭博者」と「修道院での婚約」の2本も今回観ることができたが、これらもまた実に深くて、これまた超面白い演出だった。
 シャガー、パペ、カンペ、みんないい。トマッソンの気の毒なクリングゾルもこれまでにない存在だった。

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 2017年、2019年 ウィーン国立歌劇場

ウィーンのいまのパルジファル。
ラトヴィア出身のヘルマニスの演出で、この人は知らなかった。
2017:ビシュコフ指揮、ヴェントリス、K・ユン、フィンリー、シュティンメ、シュメッケンベッヒャー。
2019:ゲルギエフ指揮 オニール、パペ、T・マイヤー、ツィトコワ、ダニエル。

暗いムードの以前のウィーンの舞台とうってかわって、この明るいゴールド系の色彩。

ウィーン分離派・世紀末のリアルな舞台設定。
オットー・ワーグナーの設計した、ウィーンの郊外にある聖レオポルト教会そのもので、この教会はシュタインホーフにある精神病院内の付属教会です。
ここがリアル舞台となっていて、まさに病院内での出来事ということになる演出。
時代設定もその時分で、ワグナリアン風の市民・病院職員が最後には身を隠さずに登場するし、パルジファルも時代遅れのリアル騎士になっていてノスタルジー誘う存在。
でも、いずれも病んでる(精神的に)存在ということか・・・
 聖具は、槍は尖がった棒で、聖杯はなんと脳みそ。
医師のグルネマンツは治療方法に大いに悩み、アンフォルタスは頭に包帯を巻き、患部は頭で血がにじんでる。
クリングゾルも医師で、院内の光の届かない場所で、電気治療を施していて、何人か失敗してる様子が描かれ、その脇には大きな脳に槍が突き刺さっている。
その槍を取り返すのがパルジファルで、クリングゾルは、槍を取られたあとも、元通り研究に勤しむ図が描かれる。
クンドリーは、グルネマンツの下では檻に収監され、クリングゾルの下では、ワルキューレのような姿で騎士を誘惑。
 聖金曜日はなく、心持ち、クリムト風の花が壁面にマッピングされるのみで、宗教性は皆無。
アンフォルタスは救われて即死。
巨大脳みその上に、シュタインホーフの巨大な天蓋が下りてきて、クンドリーは、静かに舞台を去り、行方知れず。
なんだかよくわからないうちに、グルネマンツが蓄音機のまえで、音楽を聴きつつ幕。
アールヌーヴォな装置は、それなりに美しいが、聖具が脳みそにとって代わり、心の病の治療の仕方による争いに読替えた感じ。
フロイトとかも意識したのかもしらん。
なによりも、ウィーンの観光大使みたいな演出に感じ、そこに今風のテイストをつっこんだのかな。
観光地巡りはいらないな。

ビシュコフの2017年版は音が悪すぎ、ユンのグルネマンツが素晴らしく、シュティンメも存在感たっぷりで、フィンリーもよし。
ゲルギエフ2019版は、音質最高ながら、急ぎすぎのテンポはいかがなものか。
でも、安心感のパペに、なんといってもツィトコワの強靭な声と、演技のうまさが抜群のクンドリーに感嘆。
今年のパルジファルは、指揮はアルテノグリューだったようだ。

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 2019年 ハンブルク州立歌劇場

配信が重く、全部見てません!見たい!

2017年制作のアヒム・フライヤー演出。
K・ナガノの指揮、シャガー、ユン、コッホ、マーンケ、バイコフ。
こんな姿をしてますが、豪華なメンバーです。
 フライヤーは、いつもこんなステージと人物デザインをしかけてきます。
わたくしは、1984年のハンブルクオペラの来日で、この人の1982年演出の「魔笛」を観てます。
それはもう、びっくりの舞台で、テーマが魔法の笛ですから、ある意味なんでもあり的な納得感もありました。
いろんな演出を手掛けているようですが、しかし、これパルジファルですよ(笑)
黒い画像がグルネマンツ、緑がパルジファル。
完結してみてませんが、物語の筋や、登場人物たちの動きは、ト書き通り。
要は、その描き手の人物や背景にフライヤーならではの誇張とシニカルな意味づけをしたのだと思います。
それと静的かつデフォルメされた動きと、顔に描かれた表情以外のものを感じさせない一方的な人物たちのイメージの植え付け、これもまた、ある意味、音楽がその演出を補完することで成り立つ舞台かと思料しました。
能とアメリカのスクリーンも意識か、
グルネマンツはお顔がちぐはぐ、パルジファルは笑い顔のジョーカー、クンドリーは汚らしい感じ、クリングゾルはマジシャン、アンフォルタスは二人羽織の磔刑のイエス・・・・
存外に面白い、ちゃんと全部見たい。
冷静なナガノの指揮に、ここでもシャガーの明るい声、ユンの滑らかなバス、で、マーンケの驚きのクンドリー。
これは意外に、いいパルジファルだと思う(笑)

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 2018年 バイエルン州立歌劇場

ベイルート出身、フランス系のアウディの演出、そしてバセリッツの舞台装置。
K・ぺトレンコの指揮、カウフマン、パペ、ゲルハーヘル、シュティンメ、コッホ(クリングゾル)

プリミエ時にすでに映像確認済み。
第一印象はとても悪く、気にいらない。
それはいまも同じ。

神聖を徹底的に排除し、陳腐化する。
聖杯は、まったく登場しないし、聖なる槍も、針金のような陳腐な十字架もどき。
聖なる行いには、最後は血塗られた手で顔を覆い、タイトルロールの主役も、こんなふうに見たくないってさ。
この行いは、宗教的な場面で常に出てくる。
ちくいち、そうしたワーグナーの意図と宗教観を消してみせる。
花の乙女たちは、肉襦袢を着て出血した醜い姿・・あ~もう。
ワーグナーの音楽と劇を完全に踏み違えている!
と思う前に、こうした否定オンリー、陳腐化でひとつのオペラが成立することが可能なことに感嘆、そしてこれでいいのだろうか、との思い。

わかりませんよ、こんな素人が書き連ねてることですから、もっと大きなメッセージや考えも込められていたかもしれません。
でも好きじゃないな。
ミュンヘンでこれ?
2年前のライブでは、たいそうなブーイングが飛んでました。

ペトレンコの指揮はやたら快速。
でもメリハリがあって強いオケがピットから立ち昇る感じ。
個人的には、でも、う~む?かな
充実のカウフマンに、シュティンメはよし。
コッホもアンフォルタスより、ビジュアル的にもクリングゾルのほうがいいが、アンフォルタスのゲルハーヘルは妙に多弁でどうも・・

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あと、ザルツブルクイースターのティーレマン、デンマークのA・フィッシャーなどもありましたが、今回は時間切れ。

しかし、おかげさまで、前にもまして、普通の演出や出来事では満足できなくなってしまった自分がある。

でもね、既成を壊すことだけに、自らの意義を見出すだけになったら、そこは暗黒しか残らないと思う。
観る人が、素直にちゃんと、その意図を受け止められる演出こそあるべきものだ。

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2020年4月12日 (日)

マタイとメサイア

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寄り添うように、とか、よく政治家とか、企業CMとか、いやもしかしたら自分も、寄り添うような音楽とかブログで発言してるかもしれない。

けれど、なんか、まやかしのように感じる。
感情論の押し付けであり、ごまかしではないかと・・・

政治家や企業に、本当の心で、そんな風に国民や消費者に接しているとは思えない。
平和なときには、そんな言葉も、優しく響く。
しかし、いまの緊急時には美辞麗句は通用しない。
具体的に何をするかが問われるから。

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しかし、季節はちゃんと巡ってくる。

毎年、イーズターの頃には、散歩も兼ねて増上寺周辺の桜を巡り歩くのだが、今年は、むしろ健康のために歩かなくては、という思いで、控えめの桜見でした。
ここは、見事に美しい椿が桜を背景に咲くのです。

聖金曜日から、復活祭にかけての音楽ということで、「マタイ受難曲」と「メサイア」それぞれ抜粋して聴きました。

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  バッハ 「マタイ受難曲」

   ペテロの否認~あわれみたまえ、わが神よ

    A:ヘルタ・テッパー
    T:エルンスト・ヘフリガー

  カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
             ミュンヘン・バッハ合唱団

先ごろ、ミュンヘンにて亡くなった、テッパーの歌で。
享年95歳のテッパーさんは、理想のオクタヴィアンとして、それとブランゲーネやフリッカなども歌うオペラ歌手でしたが、なんといっても「リヒターのマタイ」のアルト歌手としての存在が、われわれには大きいと思う。

マタイの核心的な場面が、ペテロの否認と、それに次ぐアルトの悔恨のアリアかと思ってます。
この少し前に、イエスによる重要な弟子のひとり、ペテロの裏切りの予言がエヴァンゲリストにより歌われ、鶏が鳴く前に、わたしを知らないと3度言うだろうとします。
そして、ペテロが女中に、この人もイエスと一緒にいたと言われると、わたしはその人を知らないと、ほかのひとにも3度も言ってしまいます。
そこで鶏が鳴き、ペテロは激しく泣くことになります。
 このあたりの、冷静なエヴァンゲリストが、抑揚をつけながらも感情の高ぶりをみせます。

そして、ヴァイオリンソロを伴った感動的なアリアが始まります。
「Erbarme dich」 憐れみたまえ、わが神よ わたしの苦い涙をお認めください
   心も、目も、ともに御前にひざまずき、激しくないております~

人間、誰しも、思い当たることがあるかもしれない、心に秘めたこともあるかもしれない。
そんな心理に光を当てた聖書の場面を、バッハの音楽は実に深く描いている。
テッパーの禁欲的な淡々した歌唱は、この歌の本質をついております。。。。

聴いてて、なんでこんなことになっちゃったんだろ、涙が出てきました。       

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  ヘンデル オラトリオ「メサイア」

   復活~栄光と永遠の命

  S:エディット・マティス   A:アンナ・レイノルズ
  T:ステュワート・バロウズ B:ドナルド・マッキンタイア

 カール・リヒター指揮 ロンドン・フィルハーモニック
            ジョン・オールディス合唱団

Ⅰ「預言と降誕」、Ⅱ「受難と復活」、Ⅲ「栄光と永遠の生命(救いの完成)」

アメリカや日本ではクリスマスに演奏されることが多いので、きらびやかな印象がある「メサイア」。
ましてバッハと比べると、開放的で、音は外に向かって行く印象を受けるが、でもしっとりとしたアリアもたくさん。
アリアと晴れやかな合唱の対比こそ、オペラ作曲家としてのヘンデルの真骨頂。
最近、ヘンデルのオペラをネット視聴したりすることも多く、少しハマりだしました。
そんな耳で聴くと、豊麗なヘンデルサウンドのなかに、人間の悩みや悲しみも織り込まれているのを感じます。

ハレルヤのあと、ソプラノの楚々とした信仰告白ともとれるイエスへの想いを歌ったステキなアリア。
そして不滅の偉大さをトランペットを伴って歌うバスの神々しいアリア。

リヒターの英語版メサイアが、ロンドンフィルで録音されたことはありがたいことでした。
LPOの暖かくも、くすんだ弦が素晴らしく効果をあげてます。
マティスの無垢ともいえる歌声もいい。

最後はイエス賛美の、アーメンコーラス。
キリスト者ではありませんが、人類がいまの苦難に打ち勝つこと、この音楽も輝かしくも、壮麗な光で世界を照らしてくれることを願います。

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早朝のせいもあるけど、誰もいない増上寺(4/4)
ほんと、ひといません。

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来年は、楽しく桜を愛でることができますように。

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2020年4月 5日 (日)

ディーリアス 人生のミサ デル・マー指揮

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晴れた春分の日の日の入りを、吾妻山から眺めました。

富士に沈む夕陽。

壮絶ともいえる夕暮れの様子を立ち会うのが大好きです。

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ディーリアスの大作、人生のミサを久しぶりに聴く。

集めた音源は4種もあり、今回は、デル・マーの指揮によるものをメインに、聴きまくりました。

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  ディーリアス 人生のミサ

    S :キリ・テ・カナワ
    Ms:パメラ・ボウデン
    T :ロナルド・ダウド
    Br:ジョン・シャーリー=クワァーク

 ノーマン・デル・マー指揮 BBC交響楽団
              BBC合唱団
              BBCコーラル・ソサエティ
    (1971.5.3 @ロンドン、ライブ)

イタリアのわけわからないレーベルから出てるこのCD。
放送録音と思われ、音像も少し遠く感じられますが、ちゃんとしたステレオで、鑑賞に支障はありません。
おまけに、カップリングはグローヴズ指揮するレクイエムもついてるので、ディーリアス好きにはたまらない音源なのです。

安定のシャーリー=クワァークが神々しく、いちばん耳にまっすぐ届きます。
キリ・テ・カナワがディーリアスを歌うなんて、と思いつつ聞いたけど、そのクリーミーで清潔な歌唱は、思った以上に相応しく、とてもいいです。
ボウデンの奥ゆかしいメゾに、熱っぽいダウドのテノール。
ダウドは、デイヴィスのベルリオーズ・レクイエムでソロを歌っている方です。

そして、師ビーチャムのもとで学んだ、デル・マーの定評あるディーリアス。
ベーレンライター版のベートーヴェンを校訂した、ジョナサン・デル・マーの親父さんです。
ときに、野生的な場面もあるこの作品、そうしたダイナミックな局面の描き方は、デル・マーのもっとも得意とするところだし、この作品の一番美しいシーン、第2部の牧場の真昼の美しさといったらない、陶然としてしまった・・・

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ここで、この作品のことを、下記、過去のヒコックス盤の記事からの引用です。

4人の独唱、2部合唱を伴なう100分あまりの大作。
こうした合唱作品や、儚い物語に素材を求めたオペラなどに、ディーリアスの思想がぎっしり詰まっているのだ。
 ディーリアスは、世紀末に生きた人だが、英国に生まれたから典型的な英国作曲家と思いがちだが、両親は英国帰化の純粋ドイツ人で、実業家の父のため、フレデリックもアメリカ、そして音楽を志すために、ドイツ、フランスさらには、その風物を愛するがゆえにノルウェーなどとも関係が深く、コスモポリタンな作曲家だった。

その音楽の根幹には、「自然」と「人間」のみが扱われ、宗教とは一切無縁
そう、無神論者だったのである。
この作品も、「ミサ」と題されながらも、その素材は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」なのであるから。

 アールヌーヴォ全盛のパリで有名な画家や作家たちと、放蕩生活をしている頃に「ツァラトゥストラ」に出会い、ディーリアスはその「超人」と「永却回帰」の思想に心酔してしまった。
同じくして、R・シュトラウスがかの有名な交響詩を発表し大成功を収め、ディーリアスもそれを聴き、自分ならもっとこう書きたい・・・、と思った。
1909年、ビーチャムの指揮により初演され、その初録音もビーチャムによる。
 
ドイツ語の抜粋版のテキストに付けた音楽の構成は、2部全11曲。

合唱の咆哮こそいくつかあるものの、ツァラトゥストラを歌うバリトン独唱を中心とした独唱と合唱の親密な対話のような静やかな音楽が大半を占める。
日頃親しんだディーリアスの世界がしっかりと息づいていて、大作にひるむ間もなく、すっかり心は解放され、打ち解けてしまう。

第1部

 ①「祈りの意志への呼びかけ」 the power of the human will
 ②「笑いの歌」 スケルツォ 万人に対して笑いと踊りに身をゆだねよ!
 ③「人生の歌」 人生がツァラトストラの前で踊る Now for a dance
 ④「謎」      ツァラトゥストラの悩みと不安
 ⑤「夜の歌」   不気味な夜の雰囲気 満たされない愛

第2部

 ①「山上にて」 静寂の山上でひとり思索にふける 谷間に響くホルン
           ついに人間の真昼時は近い、エネルギーに満ちた合唱
 ②「竪琴の歌」 壮年期の歐歌!
           人生に喜びの意味を悟る
 ③「舞踏歌」  黄昏時、森の中をさまよう 牧場で乙女たちが踊り、一緒になる
           踊り疲れて夜となる
 ④「牧場の真昼に」 人生の真昼時に達したツァラトゥストラ
           孤独を愛し、幸せに酔っている
           木陰で、羊飼いの笛にまどろむ
 ⑤「歓喜の歌」 人生の黄昏時
           過ぎし日を振りかえり人間の無関心さを嘆く
           <喜びは、なお心の悲しみよりも深い>
 ⑥「喜びへの感謝の歌」
           真夜中の鐘の意味するもの、喜びの歌、
           永遠なる喜びを高らかに歌う!
            
       O pain! O break heart!
                     Joy craves Eternity,
                     Joy craves for all things endless day!
                    Eternal, everlasting, endless dat! endless day!
                      
           (本概略は一部、レコ芸の三浦先生の記事を参照しました)

 冒頭のシャウトする合唱には驚くが、先に書いたとおり、すぐに美しいディーリアスの世界が展開する。
妖精のような女声合唱のLaLaLaの楽しくも愛らしい踊りの歌。

「夜の歌」における夜の時の止まってしまったかのような音楽はディーリアスならでは。
「山上にて」の茫洋とした雰囲気にこだまする、ホルンはとても素晴らしく絵画的でもある。
さらに、「牧場の昼に」の羊飼いの笛の音は、オーボエとコールアングレで奏され、涙がでるほどに切なく悲しい。
この場面を聴いて心動かされない人がいるだろうか
まどろむツァラトゥストラの心中は、悩みと孤独・・・・。
「歓喜の歌」の合唱とそのオーケストラ伴奏、ここでは第1部の旋律が回顧され、極めて感動的で私は、徐々にエンディングに向けて感極まってしまう。
そして、最後の「喜びへの感謝の歌」では4人の独唱者が高らかに喜びを歌い上げ、合唱は壮大かつ高みに登りつめた歌を歌うクライマックスを築く。
そして、音楽は静かになっていって胸に染み込むように終わる。

シェーンベルクの「グレの歌」にも似ているし、スクリャービンをも思わせる世紀末後期ロマン派音楽でもある。
 以前、畑中さんの批評で読んだことがあるが、「人生のミサ」の人生は、「生ける命」のような意味で、人の生の完結論的な意味ではない、と読んだことがある。

英語の「LIFE」も同じ人生を思わせるが、原作の「Eine Messe des  Leben」のLebenの方がイメージが近いような気がする。

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②ビーチャム盤


   S:ロジーナ・ライスベック
   A:モニカ・シンクレア
   T:チャールズ・クレイグ
   Br:ブルース・ボイス

 サー・トーマス・ビーチャム指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団
                ロンドン・フィルハーモニック合唱団
   
    (1952~53 @アビーロードスタジオ)

モノラルだけど、ちゃんとしたスタジオ録音なので、音はくっきり鮮明、そして生々しい。
演奏も、さすが初演者だけあって、熱のこもったもので、情熱の掛け方が半端ない。
そして、陶酔的な美しさは、さすがディーリアスの守護神ともいえるビーチャム。
ホルンは、このとき、ブレインだったのでしょうか。。
モノラルゆえに、そのどこか鄙びた響きは、わたしには郷愁すら感じる・・・・

Groves

③グローヴズ盤


   S:ヘザー・ハーパー
   A:ヘレン・ワッツ
   T:ロバート・ティアー
   Br:ベンジャミン・ラクソン

 サー・チャールズ・グローヴズ指揮ロンドン・フィルハーモニック管弦楽団
                ロンドン・フィルハーモニック合唱団
   
    (1972 @ロンドン)

ビーチャム盤に次ぐふたつめの正規録音で、これが国内発売されたとき、すでに私はディーリアス好きだったけど、2枚組の大作には手が手ず、三浦先生の特集記事だけど、興味深々で読むにとどまっていた。
さらに全部集めたはずの、EMI「音の詩人ディーリアス1800シリーズ」でも出たはずなのに、なぜかこのグローヴズの「人生のミサ」は購入していなかったのが今思えば不思議なこと。
そして、実際に耳にしたのは、CD時代になってから。
グローヴズらしい滋味あふれる、優しさと自信にあふれた素晴らしいディーリアス演奏です。
当時、ハイティンクのもとで黄金時代を築くことになるロンドン・フィルのくすんだ響きも、渋くも神々しい。
お馴染みの歌手の名前が揃っているのも懐かしい。
明るめのラクソンの声が美しく、すてきなものだ。
 ただ、録音が強音で、割れてしまうのが惜しい。
ちゃんとマスタリングして、再発して欲しいな。

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④ヒコックス盤


   S:ジョーン・ロジャース
   A:ジーン・リグビー
   T:ナイジェル・ロブソン
   Br:ピーター・コールマン・ライト

 サー・リチャード・ヒコックス指揮ボーンマス交響楽団
                 ボーンマス交響合唱団
   
    (1996@ボーンマス)

ヒコックスも早くに亡くなってしまったが、シャンドスに、ディーリアスを次々に録音していたなかでの逝去は、本当に残念だった。
そこで、この作品が録音されたのは僥倖もの。
やはりデジタルでの鮮明な録音で、こういう合唱作品で音割れの心配なく聴けることが嬉しい。
こうして、いくつも並べて聴いてみると、歌手が小粒に感じるものの、悪くない。
ことにオーストラリア出身のコールマン・ライトのこれも明るめのバリトンがいい。
濃淡ゆたかな合唱の扱いがさすがにヒコックスはうまい。
静かな場面での弱音の美しさは、録音の良さも手伝って、ほかの盤では味わえないし、ボーンマス響のニュートラルサウンドと、それを引き出すヒコックスの指揮の巧さも感じます。
かつて、新日フィルに客演したヒコックスを聴いたけれど、オケと合唱をコントロールする巧さは、長年の合唱指揮者としての経験の積み重ねだと思ったことがある。
そのときの演目は、ブリテンの「春の交響曲」だった。
1999年の文化会館でのコンサート。

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沈んだ夕陽。

こうして夜の闇が訪れますが、いま、世界は闇のなかにいるかのよう。

人類の叡智もかなわない猛威に、不安は増すばかり。

いつかやってくる明るい夜明けを期待して、いまは静かに過ごすばかり。

そしてひたすら、連日、音楽を聴き、オペラを観るばかり。

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