ワーグナー 「パルジファル」 ストリーミング大会
芝公園内、増上寺の隣にある神社。
家康を祀った芝東照宮。
梅と桜が、毎春、美しく咲きます。
八重桜、日本の神社仏閣と桜は、とてもよく似合います。
もともとが八百万の神を信じてきた、いや無意識のうちに、そんな日々を生活に溶け込ましてきた日本人。
なんにでも手を合わせてしまう、ある意味無宗教ともいえるのかもしれないが、その根底には自然信仰があるかもしれません。
毎春パルジファル。
そう聖金曜日のシーンがあるし、ワーグナーがそれこそ舞台神聖祭典劇と名付け、バイロイトを想定して作曲しただけに、以降しばらく一般劇場で上演が禁じられたある意味特別な作品。
戦後1951年に再開されたバイロイト音楽祭では、作曲家の孫、ヴィーラント・ワーグナーの演出とクナッパーツブッシュの指揮によるこのパルジファルが、定番・名物ともなり、ライブ録音もなされ、世界のワーグナー好きの指標となりました。
この演出は1973年まで続くことになりますが、その後を受けたウォルフガンク・ワーグナーの穏健な演出も同じ基調にありました。
バイロイト以外では、情報がなく不明ですが、そのバイロイトでも、「パルジファル」の基本概念を覆す演出が始まったのは、1982年のゲッツ・フリードリヒから。
この演出の映像がないのが残念ですが、時空の概念を超える空間演出とか評され、指揮のレヴァインは嫌々指揮してたとか、あとで告白したりしてます。
その後、穏健な舞台に行きつ戻りつつ、本場のバイロイトも伝統的な解釈にとらわれない上演が定着したように思います。
その伝統的な解釈とは、その根底に「キリスト教」があるということ。
原罪と救済、聖杯と聖槍といった聖具、聖堂に礼拝、受難と復活、こうしたモティーフがワーグナーの書いた物語に普遍的にあるので、それらを抽象・具象問わずに再現すること。
しかし、このキリスト教信仰の根底の裏返しには、他の宗教への蔑視や、ワーグナーの反ユダヤといった思想、ナチスの台頭なども想起させるというのも近年のフラット社会を根差した考えから、あえて「キリスト教」的なものをスルーする動きが出ているわけです。
作品が、持っている根底を、いまの風潮と、どう折り合いをつけていくか。
「パルジファル」という作品を、いまの現在上演するのは、ほんとうに難しいと思われるし、ある意味、やりがいのある凄い作品なのだ、ということにもなります。
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演奏会やオペラの上演ができなくなり、また自宅で過ごす方が世界中多くなり、オペラのネットストリーミング配信がとても多くなりました。
すっかり、その恩恵を、極東に住みながら受けているわけで、申し訳なくもありがたい思い出いでいっぱいなのです。
もう、それこそたくさん現在進行形で観ているけれど、それを各々記事にするのもどうかと思われますので、これまでしませんでした。
しかし、「パルジファル」だけは残しておこうと。
なんと9つの「パルジファル」上演が放送され、うち7つを観てしまいました!
古いものから。
2013年 メトロポリタンオペラ
カナダのジラール演出。
ガッティ指揮、カウフマン、パペ、マッティ、ダライマン、ニキティン。
舞台の真ん中に亀裂があり、右は宗教的な団体、左は女性たち。
パルジファルは、この亀裂の中を分け入り、クリングゾルから槍を奪還して、そちらの世界を崩壊させ、最後は亀裂がなくなり、同一の世界となって、みんなで光が差す空を見上げるというもの。
聖具はちゃんとあるが、キリスト教的なものはまったく感じさせず、聖杯系の方々は白いワイシャツ。
他民族国家アメリカらしい、自由社会を描くものか、この演出のころはまだましだったアメリカ社会は、ソーシャリズムとポリティカル・コレクトネスで、より多文化共生という複雑な様相を呈している。
いつかまた、そんな社会を背景としたパルジファル演出がなされるのではと思う。
ちなみに、花の乙女たちは、まるで「貞子」のようであったことを、ここに付記しておきます。
若いカウフマンがビジュアル的に最高。
2015年 ウィーン国立歌劇場
もっと前と思われるが録画されたのが2015年のクリスティーネ・ミーリッツの演出。
アダム・フィッシャー指揮、ボーダ、ミリング、フォレ、デノケ、ボアーツ。
聖杯守護の騎士たちは、フェンシングスクールの生徒たちで、その練習に勤しんでいる。
クリングゾールの城は、現代風のリビングルームで赤い装飾、ミラーボールで、クスリ漬けのクンドリーはキャバレー一の売れっ子のように晴れやかに登場。
3幕は、ただただ暗く、聖金曜日も暗く、野も花もなく、遠くに山並みがあるのみ。
ともかくやたらと血だらけアンフォルタスは、ライトセーバーみたいな槍でなんとなく癒されるのみ。
最後は、昇天したクンドリーを除いて、全員がステージから観客の方を見つめて終わり・・・と思いきや、開けられなかった聖杯の箱を持っていたジイさんが、それを落としてしまって、聖杯が粉々になっちまうオチがある。
伝統的な演出の多いウィーンでもこんな感じで、むしろ滑稽で笑える。
A・フィッシャーの指揮がまことによろしく、故ボーダの見た目はキツイけど、素晴らしい歌を聴いて、その死の大きさを思う。
デノケは、まったく不調で、絶叫も外し、気の毒で、この役には似合わない。
2015年 ベルリン州立歌劇場
ロシア出身のチェルニアコフ演出。
バレンボイム指揮、シャガー、パペ、コッホ、カンペ、トマッソン、あとティトゥレルに懐かしいマティアス・ヘレ。
今回の一連の観劇のなかで、自分的には一番ショックだったし、よくよく考えられた演出であり、演奏の安定感も一番だと思った。
見事な読み込みで、ワーグナーの物語の根本は変えずに、今生きる我々にいろんな問題を提示してみせた感じ。
聖杯騎士軍団は暗い新興宗教を仰する軍団で完全三密状態にある方々。
指導者ティトゥレルは崇められ、道を踏み外したアンフォルタスは、バカにされ小突かれまくる。
パルジファルは家出のバックパッカーで、危ない神経質な少年で、リュックからミネラルウォーターを出したり、いろいろ細かな動きをする。
クリングゾルの城は、身寄りなしの女子たちの寮みたいな感じで、クンドリーはそこの出身者で姉的な存在。
クリングゾルは悪者ではなく、その寮のおどおどしたバーコード頭のオヤジさんで、すごくいい人で、クンドリーのことが心配でならない感じ。
そこへ、2階の窓からこそこそ侵入するパルジファルに失笑。
で、あわれクリングゾールは、ぶっ殺さ・・・・
マザコンのパルジファルの性を開放したのは、クンドリーで、クンドリーは、きっとかつての侵入者だったアンフォルタスのことが忘れられない。そんな仕掛けもある。
当然に、聖金曜日もクソもなく、密室状態でのあの神々しい音楽は、ただの美しい音楽でしかない。
パルジファルとクンドリー、子供時代のこだわりの品々を出してきて、これは背負ってたもの、かつての縛りから解放される解釈とみた。
パルジファルの聖なる行いに、信者たちは、あらたな指導者の登場とばかりに、アンフォルタスを捨て置き、パルジファルを撫でまわし、崇め奉る。
そして、最後は軍団の影のフィクサー、グルネマンツが・・・・・ここは観てのお楽しみか。
人間の抱える苦悩をどう開放するか、宗教はみせかけなのか、人の集団組織を維持するには悪もまたしかりか、いろいろと考えさせることが満載で、ともかく登場人物たちの目まぐるしい動きは、それぞれに心理的な動きも内包していて目が一時たりと離せない。
このチェルニアコフとバレンボイムのコンビで、プロコフィエフの「賭博者」と「修道院での婚約」の2本も今回観ることができたが、これらもまた実に深くて、これまた超面白い演出だった。
シャガー、パペ、カンペ、みんないい。トマッソンの気の毒なクリングゾルもこれまでにない存在だった。
2017年、2019年 ウィーン国立歌劇場
ウィーンのいまのパルジファル。
ラトヴィア出身のヘルマニスの演出で、この人は知らなかった。
2017:ビシュコフ指揮、ヴェントリス、K・ユン、フィンリー、シュティンメ、シュメッケンベッヒャー。
2019:ゲルギエフ指揮 オニール、パペ、T・マイヤー、ツィトコワ、ダニエル。
暗いムードの以前のウィーンの舞台とうってかわって、この明るいゴールド系の色彩。
ウィーン分離派・世紀末のリアルな舞台設定。
オットー・ワーグナーの設計した、ウィーンの郊外にある聖レオポルト教会そのもので、この教会はシュタインホーフにある精神病院内の付属教会です。
ここがリアル舞台となっていて、まさに病院内での出来事ということになる演出。
時代設定もその時分で、ワグナリアン風の市民・病院職員が最後には身を隠さずに登場するし、パルジファルも時代遅れのリアル騎士になっていてノスタルジー誘う存在。
でも、いずれも病んでる(精神的に)存在ということか・・・
聖具は、槍は尖がった棒で、聖杯はなんと脳みそ。
医師のグルネマンツは治療方法に大いに悩み、アンフォルタスは頭に包帯を巻き、患部は頭で血がにじんでる。
クリングゾルも医師で、院内の光の届かない場所で、電気治療を施していて、何人か失敗してる様子が描かれ、その脇には大きな脳に槍が突き刺さっている。
その槍を取り返すのがパルジファルで、クリングゾルは、槍を取られたあとも、元通り研究に勤しむ図が描かれる。
クンドリーは、グルネマンツの下では檻に収監され、クリングゾルの下では、ワルキューレのような姿で騎士を誘惑。
聖金曜日はなく、心持ち、クリムト風の花が壁面にマッピングされるのみで、宗教性は皆無。
アンフォルタスは救われて即死。
巨大脳みその上に、シュタインホーフの巨大な天蓋が下りてきて、クンドリーは、静かに舞台を去り、行方知れず。
なんだかよくわからないうちに、グルネマンツが蓄音機のまえで、音楽を聴きつつ幕。
アールヌーヴォな装置は、それなりに美しいが、聖具が脳みそにとって代わり、心の病の治療の仕方による争いに読替えた感じ。
フロイトとかも意識したのかもしらん。
なによりも、ウィーンの観光大使みたいな演出に感じ、そこに今風のテイストをつっこんだのかな。
観光地巡りはいらないな。
ビシュコフの2017年版は音が悪すぎ、ユンのグルネマンツが素晴らしく、シュティンメも存在感たっぷりで、フィンリーもよし。
ゲルギエフ2019版は、音質最高ながら、急ぎすぎのテンポはいかがなものか。
でも、安心感のパペに、なんといってもツィトコワの強靭な声と、演技のうまさが抜群のクンドリーに感嘆。
今年のパルジファルは、指揮はアルテノグリューだったようだ。
2019年 ハンブルク州立歌劇場
配信が重く、全部見てません!見たい!
2017年制作のアヒム・フライヤー演出。
K・ナガノの指揮、シャガー、ユン、コッホ、マーンケ、バイコフ。
こんな姿をしてますが、豪華なメンバーです。
フライヤーは、いつもこんなステージと人物デザインをしかけてきます。
わたくしは、1984年のハンブルクオペラの来日で、この人の1982年演出の「魔笛」を観てます。
それはもう、びっくりの舞台で、テーマが魔法の笛ですから、ある意味なんでもあり的な納得感もありました。
いろんな演出を手掛けているようですが、しかし、これパルジファルですよ(笑)
黒い画像がグルネマンツ、緑がパルジファル。
完結してみてませんが、物語の筋や、登場人物たちの動きは、ト書き通り。
要は、その描き手の人物や背景にフライヤーならではの誇張とシニカルな意味づけをしたのだと思います。
それと静的かつデフォルメされた動きと、顔に描かれた表情以外のものを感じさせない一方的な人物たちのイメージの植え付け、これもまた、ある意味、音楽がその演出を補完することで成り立つ舞台かと思料しました。
能とアメリカのスクリーンも意識か、
グルネマンツはお顔がちぐはぐ、パルジファルは笑い顔のジョーカー、クンドリーは汚らしい感じ、クリングゾルはマジシャン、アンフォルタスは二人羽織の磔刑のイエス・・・・
存外に面白い、ちゃんと全部見たい。
冷静なナガノの指揮に、ここでもシャガーの明るい声、ユンの滑らかなバス、で、マーンケの驚きのクンドリー。
これは意外に、いいパルジファルだと思う(笑)
2018年 バイエルン州立歌劇場
ベイルート出身、フランス系のアウディの演出、そしてバセリッツの舞台装置。
K・ぺトレンコの指揮、カウフマン、パペ、ゲルハーヘル、シュティンメ、コッホ(クリングゾル)
プリミエ時にすでに映像確認済み。
第一印象はとても悪く、気にいらない。
それはいまも同じ。
神聖を徹底的に排除し、陳腐化する。
聖杯は、まったく登場しないし、聖なる槍も、針金のような陳腐な十字架もどき。
聖なる行いには、最後は血塗られた手で顔を覆い、タイトルロールの主役も、こんなふうに見たくないってさ。
この行いは、宗教的な場面で常に出てくる。
ちくいち、そうしたワーグナーの意図と宗教観を消してみせる。
花の乙女たちは、肉襦袢を着て出血した醜い姿・・あ~もう。
ワーグナーの音楽と劇を完全に踏み違えている!
と思う前に、こうした否定オンリー、陳腐化でひとつのオペラが成立することが可能なことに感嘆、そしてこれでいいのだろうか、との思い。
わかりませんよ、こんな素人が書き連ねてることですから、もっと大きなメッセージや考えも込められていたかもしれません。
でも好きじゃないな。
ミュンヘンでこれ?
2年前のライブでは、たいそうなブーイングが飛んでました。
ペトレンコの指揮はやたら快速。
でもメリハリがあって強いオケがピットから立ち昇る感じ。
個人的には、でも、う~む?かな
充実のカウフマンに、シュティンメはよし。
コッホもアンフォルタスより、ビジュアル的にもクリングゾルのほうがいいが、アンフォルタスのゲルハーヘルは妙に多弁でどうも・・
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あと、ザルツブルクイースターのティーレマン、デンマークのA・フィッシャーなどもありましたが、今回は時間切れ。
しかし、おかげさまで、前にもまして、普通の演出や出来事では満足できなくなってしまった自分がある。
でもね、既成を壊すことだけに、自らの意義を見出すだけになったら、そこは暗黒しか残らないと思う。
観る人が、素直にちゃんと、その意図を受け止められる演出こそあるべきものだ。
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