アバド 「スカラ座 その黄金時代」
6月26日は、アバドの87回目の誕生日。
ブログ開設以来毎年、アバド特集をこの日に行ってます。
この生誕祭に、6年前から、まさかの追悼祭が加わってしまうとは・・・・・
アバド生誕祭 過去記事一覧
「ロメオと法悦の詩 ボストン響」2006
「ジルヴェスターのワーグナー」2007
「ペレアスとメリザンド 組曲」2008
「マーラー 1番 シカゴ響」2009
「ブラームス 交響曲全集」2010
「グレの歌」2011
「エレクトラ」2012
「ワーグナー&ヴェルディ ガラ」2013
「マーラー 復活 3種」2014
「シューベルト ザ・グレート」2015
「新ウィーン楽派の音楽」2016
「メンデルスゾーン スコットランド」2017
「スカラ座のアバド ヴェルディ合唱曲」2018
「ヤナーチェク シンフォニエッタ」2019
今年はこの映像を。
懐かしくて涙が出ました。
「スカラ座 その黄金時代」
私も体験できた1981年のスカラ座の引っ越し公演。
そのときの模様や、イタリアから来同したジャーナリストのインタビュー集です。
アバド、フレーニ、カプッチッリ、ドミンゴの日本での貴重なインタビューと、シモン・ボッカネグラとレクイエムの舞台の様子、さらには、オテロとクライバーも出てきます。
ソフトフォーカスな画像ですが、日本語字幕もあり、NHKホール、文化会館、銀座や新宿など東京のあの頃の街並みなど、もうほんとに懐かしい映像の宝庫なのであります。
あのジャケットと同じ場面が、東京文化会館の舞台に再現されました。
私には、初アバド、初フレーニ、であたりまえに初スカラ座でした。
カプッチッリ、ギャウロウにはこの5年前のNHKイタリアオペラで、同じシモンを観てます。
このステキなアリアのシーンがこの映像では見れるんです。
父と娘であることが、わかった瞬間の感動的な場面。
この時、オーケストラはフォルテの瞬間を築くのですが、このときのアバドは指揮棒を両手で持って、思い切り振り下ろし、そして広げました。
その出てきた音の輝かしさと、ある意味陶酔的ともいえる音は、幾多も聴いてきたアバドの演奏のなかでも、もっとも脳裏に残るもののひとつです。
カーテンコールに出て行くふたり。
フレーニも今年、亡くなってしまいました・・・・
「シモン・ボッカネグラ」はヴェルデイのオペラのなかでも、もっとも好きな作品だし、あらゆるオペラのなかでも、自分的に上位にくるものです。
それもこれもアバドのこのときの上演と、DGのレコードがあってのもの。
アバドのシモンは、フィレンツェでのDVDも、ウィーンライブも、非正規スカラ座ライブもたくさん持ってますが、ほかはアバド以前の、ガヴァッツェーニとサンティーニのみ。
アバド以降のほかの指揮者のものは一切所有せず、実際、聴いたこともありません。
唯一、今月、ウィーン国立歌劇場のネットストリーミングで観たのが、アバド以外の初シモンでした。
でも、カプッチッリ、ギャウロウ、フレーニ、リッチャレッリ以外の歌手のシモンは、耳が受け入れることはできませんでしたし、それ以上にアバドの指揮でないと、やはりダメという、ある意味、哀しい結果となったのでした。
文化会館で行われた2度のヴェルデイ「レクイエム」のうち、フレーニが歌った回の映像も観れます。
ここでは、アバドの大きな指揮ぶりと、4人の名歌手たちの歌いぶりが、少しだけど楽しめます。
このときの、NHKFM録音は、自分でも状態よく保存出来ていて、お宝的になってますが、ちゃんとした映像も残してほしかったものです。
ヴェルデイのレクイエムは、カラヤンとアバドが自分では無二の存在。
合唱団の素晴らしさでは、スカラ座に敵うものはありません。
ドミンゴが、この映像のインタビューで語ってますが、メゾソプラノが素晴らしい合唱団はなかなかなくて、このスカラ座は文句なく素晴らしいとしてました。
そう、男声もまったくすごいです。
オケも合唱も、スカラ座の全盛期は、アバド時代だと信じてます。
ギャウロウもレクイエムにおいては無二の存在。
ルケッティもよかった。
アバドも、ギャウロウ、カプッチッリ、テッラーニ、ルケッティ、フレーニ、みんな旅立ってしまいました。
このスカラ座来日の1981年、私は新入社員として、社会人1年目の年でした。
薄給だったので、シモンのS席のみに資金を注ぐのみでした。
今思えば、どんなことしても、クライバー含めて全部観て、聴いておくんだった。
でもね、新人1年生が、そそくさと定時上がりをできるような環境は、当時の社会や会社生活ではありえなかったな・・・
アバドらしい、いやアバドにしか語れないインタビュー。
人によっては優等生的と思うかもしれない。
でも、アバドがこのあと、ロンドン、ウィーン、ベルリン、ルツェルンと登りつめ、指揮者として大きな存在になっても、ここで語るアバドの謙虚な姿勢はひとつも変わらなかった。
簡単に紹介します。
「演奏家や歌手たちと音楽的な交流を大事にします。見えやすいいよう、指揮台に立つだけで、上から横柄に指図するためではありませんよ。」
「内気な方? そうですね。私はあまり目立ちたくはないですね。指揮者の仕事は、作曲家の音楽をいかに伝えるかなので、指揮者が目立つ必要はないと、私は思ってます。楽譜をしっかり研究して、偉大な作曲家が残した音楽を披露するだけですよ。」
「ただ情熱に任せて音楽を続けるだけですよ。やればやるほど発見があって、満足することは決してありません。より深く学んでいけば、また新たな挑戦に行き着く、それが音楽の魅力です。」
あと、フルトヴェングラーを偉大な指揮者であり、彼のドイツ音楽は見事だと話します。
さらに、現在の指揮者では、クライバーを優れた芸術家としてあげてます。
ムーティとライバルとされてますね、と問われると、「ばかげてますよ、いろんな指揮者がいて当然、彼のように世界中で活躍する指揮者がいることは喜ばしい、同じイタリアの指揮者でも、ジュリーニ、チェッカート、あと若いところではシャイーとシノーポリも出てきてますよ」、と大人の対応。
あと、新聞ではあなたは左派と書かれてますが・・に対しては、きっぱりと「勝手なレッテル貼りですよ!」とぴしゃり。
それから、海外で住みたい町は、ロンドンと答えてます。
地元ミラノは窮屈だったのでしょうか。
ロンドンはヨーロッパの芸術の中心であり、そこでひとり静かに読書や楽譜の研究をしたいと。
休日は、演劇をみたり、山歩き、スポーツなどとのお答えで、アバドらしい生真面目ぶりです。
アバドは居をロンドン、そのあとウィーン、そしてベルリン、最後はスイスに住まうことになります。
この若き日のインタビューどおり、静かに過ごすことが、一番の願いだったにかもしれません。
フレーニのインタビューも興味深かったです。
いずれは若い人を指導したいと、この頃から語っていて、その思いはアバドにも通じるものがあります。
幼馴染のパヴァロッティとは、乳母までおんなじで、すべてが同じと懐かしそうに語ってます。
そして、自分にとって偉大な指揮者は、カラヤンとしてます。
自分がアイーダを歌うなんて思いもしなかったけど、カラヤンのおかげと。
あと親しい仲間としてのアバドの名前をあげてます。
文化会館でカーテンコールに応えるアバド。
この数十年あと、トリスタンの上演で同じ文化会館で舞台で出てきたアバドの痩せ細った姿、そして最後のルツェルンとの来日で、オーケストラが去ったあと一人出てきたにこやかなアバド、いずれもともに、自分にとって忘れえぬ残像ですの数々です。
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コメント
以前もお伝えしましたが、当方も'81年は社会人一年目で初任給の大半を「オテロ」「セビリア~」につぎ込みました。ところが9月の公演時には既に退職していて、ホントスカラ座のためだけに就職したようなものでした。もともと長くいるつもりもない会社だったのですが、お約束の初任給によるプレゼントなどまるでしなかった亡母からはその後長きにわたってイヤミを言われ続けました。またやはり音楽好きのかかりつけ医からは「スカラショックの後遺症はしつこいですな」などと度々からかわれましたが。
ところで'73年のVPOとの初来日時、終演後のアバドが聴衆の歓声に驚きの眼を見張っていたのをご記憶でしょうか。この'81年にスカラ座来日記念で出た音友別冊「イタリアオペラ」でのインタビューで、当日のことをアバドが
「黒澤明作品のサムライ達が客席で一斉に叫んだのかと思いましたよ(笑)」
と語っていたのが印象的だったのですが…。
投稿: Edipo Re | 2020年6月28日 (日) 11時27分
コメントありがとうございます。
1981年は、なんとなくクリスタルな年で、クリスタル族なんてのも出て、バブルの萌芽も今思えばあったかもです。
ご母堂様の思い出もスカラ座に結びついてらっしゃるのですね。
私は、大学までは家元から通いましたが、一念発起で都内で一人暮らし、汲々とした日々でしたので、超贅沢なシモンS席でした。
73年のウィーンフィルとの来日は、テレビにかじりついてました。
ブラームスとベートーヴェンの3番。
エロイカが終わるや否やの、超ブラボーに、アップで大映しのアバドのびっくり顔、完璧に覚えてます!
アンコールの青きドナウの、木管のオオトチリも同様によく覚えてます。
投稿: yokochan | 2020年6月29日 (月) 06時42分
はじめまして。
小中、吹奏楽をやっていてそれなりにクラシックというジャンルを聞いてきたものです。スカラ座来日時は確か中1でした。
ものすごい偏見で、指揮者は若造ではダメだ、も思っていた頃w
アバドは眼中になく、セルやワルター、たまにカラヤンなのになぜかムーティでクラシック音楽を?
と思っていました。その後も
密かにマゼールファンを名乗っていたので憎っくきアバドなーんて言っていたんですねー。
なんとも不埒者です。
時は流れ結婚子育て中、ほとんどこのジャンルにたちいることなく、子供も独り立ちした昨今。
昔のCDを引っ張り出し楽しむようになり、ユーチューブで、アバドの、ニューイヤーと1992年の来日時のブラ2を見て、聞いてひっくり返りました。
ニューイヤーの楽しそうな指揮姿、ブラ2での曲への没入感、すごーい!
そして、ずーっと聞いていても飽きないんなすよね。正直カラヤンの場合だと、満足はするけれど、お腹いっぱいになっちゃう感じ。アバドは多分一日中聞いていられる!
ということで初心者アバドファンなのです。
人生半分損してたかなーとか、おもいつつ、時々、アバド関連のブログを読ませていただきながら勉強しております。
今頃ファンなのですが、アバド愛は燃え盛っていますw
たまにはアバド関連のブログ上げてくださいね。
つい先日に見つけたラインホルトさんのインタビュー記事で(2017年の来日に際し)アバドとの最後のルツェルン、未完成終了後の休憩時間にアバドの奥さんが、彼を止めて、もう指揮できるエネルギーがないの。と、言いに来た云々のエピソード見て、大泣きしちゃってました…
まずまず、こんな初心者ファンですが、ブログ楽しみにしていますね。どうぞお導きを○┓
投稿: にょろふきん | 2020年7月12日 (日) 00時35分
にょろふきんさん、こんにちは、コメントありがとうございます。
まずは、アバドファンとして、ご訪問まことに加えて再度ありがとうございます。
燃え盛るアバド愛の方、ひさびさにお会いでき、こちらもまことにうれしゅうございます!
なにごとにも謙虚なアバドの人柄が、そのすっきりと嫌みのない音楽に反映されているわけですが、そのあたりが優等生過ぎとか、なにもしてないとかの言われ方をする所以でもありますが、ワタクシはそこが好きなんです。
そして、そこにあるアバドの音楽に対する無上の愛と奉仕の心情、さらに若い人たちを大切にした奉仕ともいえる精神、このあたりはこれまでの大巨匠にはない姿ですね。
最後のルツェルン来日は、チケットを購入してましたが、無念の来日中止。
2006年が最後のアバドとなってしまいましたが、それを契機にアバド好きのみなさまと、親交が生まれ、いまでも継続している仲間もいらっしゃいます。
そんな風にアバドはいろんなことを与えてくださいました。
「導く」なんて大それたことはできませんが、大方聴きつくしてしまった音源の数々、また聴き直したり記事に再度あげたりしたいと思ってます。
投稿: yokochan | 2020年7月13日 (月) 08時10分