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2021年2月

2021年2月27日 (土)

アイヴズ 交響曲全曲 ドゥダメル指揮

Daiba

お台場の対岸、芝浦から見た様子。

フジテレビの横はヒルトンホテルで、よく見るとその前にオリンピックの五輪がありました。

Yoyogi

こちらは、代々木の国立競技場前。

どうなっちゃんでしょうね、オリンピック。

来年の北京なんてもってのほかと思うし、その意義とともに、揺れるオリンピック。
もうこうなったら、永久にアテネでやることでいいんじゃないか?

Ives-dudamel

 アイヴズ 交響曲第1番

                  交響曲第2番

      交響曲第3番「キャンプ・ミーティング」

      交響曲第4番

  グスターボ・ドゥダメル指揮 ロサンジェルス・フィルハーモニック
                ロサンジェルス・マスターコラール(4番)

   (2020.2.20~29 @ウォルトディズニー・コンサートホール LA)

アイヴズ(1874~1954)の交響曲を全部聴く。
ありそうでなかったアイヴズの交響曲全集が、いきなり出ましたので即購入。
調べたら、全集としてまとまってるのが、ティルソン・トーマスで、バラで出てるのが、A・デイヴィス、リットンぐらいかな。
バーンスタインも全部録音してない。

そんななかで出てきたのがドゥダメル盤で、手兵のロスフィルとスタジオ録音で、しかもドイツグラモフォンから出るというナイスな企画。
この録音時、アメリカにコロナが上陸し蔓延中だった。

ドゥダメルの指揮は、これまでいつも懐疑的で、シモンボリバルと輝かしく登場したときは、まったく面白く聴くことができたけど、その後、音楽界の早すぎる使いまわしともいえる押し出しぶりが、どうも本人不在のように感じて、逆にドゥダメルの個性を感じさせるものがないものばかりに思えるようになった。
スカラ座と来日したときの演奏会など、ちょっとつまらなすぎて・・・
メータのように、ロサンジェルスでじっくりと腰を据えてオケとともに成長して欲しいものだ、と思っていたらこのアイヴズです。

4曲聴いた印象を先に書いちゃうと、ともかく明快で、音楽の隅々までに光があたっていて、アイヴズのさまざま錯綜する音たちが、どれもこれも気持ちよく聴こえるのだ。
パッチワークのように紡がれたいろんな風景が、ひとつにまとまっていくのを聴くアイヴズの音楽の醍醐味をまざまざと楽しみながら味わえます。
2CDという組物で、曲順に順番にすらすら聴けちゃうというメリットも大きい。
短期間で曲順に一気に録音することの強みもここにあり、集中力とともに、ドゥダメルとロスフィルがアイヴズを日にちを追って極めていくような感じを受けます。
4番の最後の讃美歌には、演奏者と同様に、コロナに負けないぞーみたいな神々しい感動を受けることとなります。
 デッカ時代のロスフィルの音、さらには、ジュリーニやプレヴィンのときのものと、響きがぜんぜん違うのは、やはり響きのいいディズニーホールトーンのもの。
サロネン時代も後半は、ディズニーだったけれど、それとも違って豊穣な響きに感じるのはドゥダメルの音作りにもよるのだろうか。

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ホリデー・コンポーザー、チャールズ・アイヴズ。(過去記事を少し引用)
休日作曲家なので、趣味っぽいとかはまったく言えず、実際は音楽家だった父親からみっちり教育を施されたほか、大学でも正規に作曲を学んでいる本物の作曲家。
軍楽隊長だった父の影響は、シリアスな音楽に突然割り込んでくる軍楽隊のマーチや賛美歌、街の喧騒音などの同時進行ぶりに現れている。
このあたり、同時期に活躍したマーラーの音楽にも通じるところがあるが、アイヴズがもっと独創的で大胆。
 そんな独創性が、アメリカでは絶対に受けないと考えたアイヴズは生計を立てるために保険会社のサラリーマンとなり、高業績を納め、さらに会社まで設立してしまったのは有名なおはなし。
 その合間に作曲をしたから日曜作曲家と呼ばれてしまうわけなのですが。

①1895~98年作曲の第1番。

20代初めの作は、これはまるでビゼーやプロコフィエフのような古典・ロマン派風で、かつヨーロピアン。
牧歌的なほのぼの緩徐楽章に、スケルツォ風楽章、最後はさまざまな要素が同時進行で絡む、にちのアイヴズ先取りの楽章で、打楽器も多用されにぎにぎしい。
以外に面白いぞ1番。

②1900~01年作曲の第2番。
さまざまな22曲ものアメリカの唱歌や民謡が引用されが錯綜する。
1楽章は、厚い弦でシリアスに始まり、ついでアイヴズの面目躍如たる2楽章は、元気で陽気なブラスバンド風なサウンドから、ノスタルジックで田園風かつ敬虔な賛歌とが交錯。マーラーの6番みたいなのも感じるし。
緩除楽章たる3楽章の、アメリカの方田舎を思わせる、夕暮れ時のしみじみ感は、ほのぼのと、まことにステキであります。
次ぐ4楽章は、短い橋渡しで最初の楽章の回帰で、弦ばかりでなく、フルオケ。
一転して、明るく楽しげな終楽章は、フォスターのおなじみに旋律に、懐かしい調べも交えつつウキウキと進むと思ったら、速度を落としてホルンがフンパーディンクみたいな望郷さそう、アルペンチックなソロを吹く。
また元気に走り出し快活に、でまたしみじみ調に戻り忙しいが、さきのホルンのメロディーを今度はフルートのオブリガートを伴いながら独奏チェロが奏でる。ここにはほとほと感動しますね。
で、あとは元気を吹き返し、ずんずんずんずん、お祭り騒ぎに突入し、突如の不協和音一発でオシマイ!
 楽しーーー、アメリカ・ザ・ビューティフル、なんでもありの、これぞアメリカだ。
最近は2番が一番好き。
川瀬&神奈川フィルでも新世界と組んだコンサートで聴いた。
ドゥダメルもこれは好きみたいで、なんとウィーンフィルの定期でも取り上げていて、わたしもネットで聴いたばかり。
ムジークフェラインに響くアイヴズの交響曲、観客はブラボーかましてましたよ。

③1904年作曲の第3番「キャンプ・ミーティング」
アメリカの地に入植した人々。
キリスト教を奉じながらも、聖職者や教会、集会所も場所によってはなくって、宗教への渇望が人々にはあった。
その望みを癒すために、移動集会のようなものが開催され、そこに人々は何日もかけて集まり、そこに滞在して、信じるキリスト教の集会に没頭したのだった。
それが、「キャンプミーティング」らしい。
アメリカの教会やテレビの伝道演説は、かなりアグレッシブで熱っぽいから、日常から離れた泊りがけの集会への参加は、かなり盛り上がったのではないでしょうか!
「古きよき仲間の集い」
「子供たちの日」
「コンムニオン(聖餐式)」これらのタイトルがついた3楽章形式の室内オケ向きでもあるシンフォニエッタ風の交響曲。
かなり穏健で、アイヴズが育ったニューイングランド地方の良き時代を思い起こさせる懐かしい響きに満ちている。
懐かしき1楽章、子供たちの笑顔もうかがわせるような2楽章に、敬虔な祈りの場面。
讃美歌の引用が多く、それがいろんな楽想と絡み合いながら、アイヴズならではの、一筋縄ではいかない複雑さも、実は醸し出している。

③1909~16年にかけて作曲の第4番。
4楽章形式で、第1と第4に合唱が入るがいずれも賛美歌。
寄せ集めの素材40曲以上ともいわれるが、それが最初は目まぐるしさを感じさせるが、聞き込むと徐々に旋律の出し入れが見えてくるし、いずれもアメリカ風の旋律ばかりなので、親しみやすいことに気付いてくる。
アイヴズの創作の腕が、こうして4番で確実にあがっていて、1番とは別人のようだ。
1楽章は短く、「夜を守る友よ」「はるかに仰ぎ見る」が荘重に歌われるが、どこかカオスな雰囲気で後ろ髪を引かれる美しさがある。
2楽章に至って、いよいよ複雑極まる雑多なごった煮音楽が始まる。これを紐解くのは至難の業だし、旋律を追うような聴き方の私のような人間にとって不可能に近い。
ピアノソロ、ピアノ4手連弾、調律の狂ったアップライトピアノ、オルガンといった指定のある鍵盤楽器がときに乱れ打つように弾き鳴らされ、ブラスはにぎにぎしくマーチングサウンドを垂れ流し、ジャズバンドもやってくる。
よく聴くとモーツァルトまで顔をだす。
このごった煮の状態は、副指揮者を要するが、いまの指揮者たちやオーケストラは単独でできちまうのか!
思えば、小沢さんは、70年代にこれを安々と一人でこなしていたところがスゴイ。
この2楽章を何度も何度も、そう何度も聴いたが覚えられないのが愉快すぎる(笑)
 3楽章は別人のような音楽が流れる。
フーガの手法で、讃美歌を引用し歌い紡ぎ、オルガンも加わり荘重で感動的な旋律が幾重にも重なってゆき、最後はなかなかに感動的な場面となる。
この楽章はまったくもって素晴らしく、いつまでも真摯に浸っていたい。
これぞ、これもまた、私たちが思うアメリカだ。
4楽章、冒頭は打楽器と低弦が怪しい雰囲気をかもし出す。
この楽章は、実存に対する宗教的な経験を象徴しているとされるが、最後の方で、その錯綜するオーケストラのリズムに乗せて、合唱がアカペラ風に入ってくるところは、聴いているとようやく光明が差したかのような気分が横溢し、おさまるとことに収まった感があって、安心とともに、大いなる感動を味わう。
でも、まだどこかしら不安の残る終わり方・・・・
こうしてアメリカよ、ついでに日本も難局を打破して欲しいと。

「芸術の作法」は学術的なものや決められた書式から生まれるものでなく、人生経験や日常の中から生まれてくる、というのがアイヴスの考えだったという。
まさに、この交響曲はその言葉どおりの音楽と受け止めていいのかもしれない。(以前のブログから引用)
シカゴを指揮したティルソン・トーマス盤には、この4番が引用した讃美歌が5曲収録されていて、それもともに聴くと分かりやすく理解の一助となります。

4曲のなかで、2番が一番聴きやすく好きだけど、4番の充実ぶりには叶わないし、何度聞いても味わいつくせない、いやよくわからない、スルメを噛むがごとき音楽に思うのだ。

ドゥダメル氏は、ロスフィルとともに、こうした路線を進めて欲しい。

Daiba-ny

お台場のニューヨーク。
アメリカのオーケストラとともに、アメリカの都市探訪をシリーズ化してますが、今回はロサンジェルスながら、またの機会にといたしたく。
映画や音楽で憧れた西海岸は、いまや、わたくしのあこがれの地域ではなくなっってしまったようだ。
移民があふれ、SF市などは、どこぞの国に乗っ取られた様相を呈している。
でも、それもまたアメリカなどだと思うようにしないと、この国の在り方がどこかわからなくなる。
 他国の選挙ながら、先の大統領選には、やきもきしたくちです。
不正がとおってしまったが、政治はまた違うかたちで継続される。
自由と民主主義の国の姿を強く、いつまでも見せて欲しいと思う。
 アイヴズを聴きながら、アイヴズの愛したアメリカは、ほんとうはどんなだったんだろうと・・・・・

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2021年2月18日 (木)

シューマン 交響曲全曲 70年代

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梅の花咲く季節、その香りは春を予感させます。

去年の今頃は、まだ正体が完全にわからなかった疫病に恐怖の募る日々だった。

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ちゃんと季節はめぐり、今年も梅の花、あと1か月もすると桜の花が咲き誇ることとなります。

さぁ、シューマンの交響曲を聴こう。

なんか春にふさわしいシューマンの交響曲。
そんなに長くないので、全部、それも懐かしの70年代の演奏で聴くの巻。

Schumann-levine

  シューマン 交響曲第1番 変ロ長調 op.38 「春」

 ジェイムズ・レヴァイン指揮 フィラデルフィア管弦楽団

       (1978.12.30 スコテッシュ聖教会 フィラデルフィア)

RCAとEMIから録音が始まり、若きMETの指揮者としてブレイクした70年代のレヴァイン。
マーラー・シリーズと並行して、シューマンとブラームスの交響曲全集を録音しましたが、当時の音楽誌では、けちょんけちょんにされちまいました。
CD時代になってから聴きましたレヴァインのシューマン、ベルリンフィルとの再録は聴いたことがありません。
1番「春」にふさわしい、明るく、ともかく明るい、屈託ない音楽にあふれてます。
しかしながら、シューマンのぎくしゃくしたオーケストレーションが、こんなに鮮やかに、かつ自然な感じで聴けるのも、根っからのオペラ指揮者レヴァインらしくて、内声部がフィラデルフィアの優秀な奏者たちでもって、実に豊かに聴こえます。
新鮮で楽しいシューマン、あとは3番がよかった。
 いまは、いろいろアレなレヴァイン、思えばこの時期のレヴァインが一番よかった。と思う。


Schumann-sawallisch

  シューマン 交響曲第2番 ハ長調 op.61

 ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

      (1972.9 ルカ教会 ドレスデン)

音楽愛好家なら一家にワンセット、もしかしたら必ずあるのがサヴァリッシュ&ドレスデンのシューマン。
EMIさん、よくぞこの録音を残して下すった。
絵にかいたように素晴らしいシューマン。
スタイリッシュなサヴァリッシュの指揮は、同時にシューマンの音楽に堅牢なたたずまいと、襟を正したくなる高貴さをもたらしている。
ドレスデンの古風さを保った音色は、今では聴けない独逸の響きも聴かせつつ、でも鮮明で曇りひとつない。
ティンパニのスコーン、という連打も実に心地よく、シューマンの2番の魅力を、録音も含めて、これほど豊かに味わえる演奏はないのではと思います。
 4つのシューマンの交響曲のなかで、最初は一番とっつきにくかった2番が、いまでは一番好きです。
シノーポリとメータのウィーンフィル、最近のアバドの演奏と並んで、好きな演奏がサヴァリッシュ盤。
あと思い出深いのがNHKで見た、バーンスタインとPMFオケとのもので、これは巨大な歩みを感じさせる恐ろしい演奏でした。

Scumann-barenboim

  シューマン 交響曲第3番 変ホ長調 op.97「ライン」

 ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1977.2 シンフォニーホール シカゴ)

バレンボイム30代なかばでのシューマンは、DG専属になって、シカゴ響とブルックナーの録音やオーケストラ名曲などを続々と録音した70年代半ば。
レヴァインがマーラーを取り上げた一方、バレンボイムがブルックナーというところが、まさにこの二人の指揮者の持ち味の違いで、シューマンの演奏も、そうしたスタンスが反映された感じです。
重心はやや下の方にあって、ピラミッド型の音響構造ながら、自在なところも多々あり、かなり感興に富んだ指揮ぶりに感じ、恐ろしき30代という思いを抱く。
老成した感じを受けないのは、フレッシュで技量満点のシカゴ響のバリっとした音色と響きがあるからかもしれない。
しかし、バレンボイムとシカゴのシューマン、4曲ともに面白く、ある意味とらえどころもないところが、結果的にシューマンしてる感じなのだ。
レヴァインと同じく、バレンボイムはのちに、ベルリンの手兵と再録があるが、そちらは聴いたことがありません。

Schumann-mehta

  シューマン 交響曲第4番 ニ短調 op.102

 ズビン・メータ指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

    (1976.6 ソフィエンザール ウィーン)

作曲順では違うけれど、最後の4番は、ウィーンフィル。
デッカで聴く、ソフィエンザールのウィーンフィルの音色、その期待されたイメージ通りの録音に演奏。
もう40年以上前の録音だけど、分離もいいし、音が実にいい。
加えて、柔らかなウィーンフィルの管と艶やかな弦、マイルドな金管に、鮮やかなティンパニ。
ウィーンフィルの魅力がまじまじと味わえるシューマン。
この時期のこのオーケストラの良さを、素直に引き出すことができたのがズビン・メータの指揮だったと思う。
恰幅のよさと、切れ味のよさもさることながら、そうしたメータの個性とともに、オーケストラから先にあげたウィーンの特質をさりげなく引き出してしまう自然体ぶりがよい。
ともかく、気持ちのいいシューマンです。
4番らしい晦渋さは抑え目で、優しく微笑む4番って感じで、同時に疾走感もよろしいのです。

70年代男は、その時期のシューマン演奏がお好き。
80年代は、ハイティンクとバーンスタイン、エッシェンバッハです。

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梅と神社。

いつもお詣りするときは、疫病退散、日本安泰、家族健康を祈念します。

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2021年2月 7日 (日)

プッチーニ 三部作 フレーニ

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暦は春、2月4日が立春でした。

しかし気候は一進一退、極寒になり、また穏やかな陽気になり、繰り返しつつ春になります。

Azumayama-06_20210207085101

わたしの郷里では、もう菜の花はおしまい。

次は桜を待つばかりです。

Puccini-il-trittico-freni-bartoletti

 プッチーニ 三部作

   ミレッラ・フレーニ

 ブルーノ・バルトレッティ指揮 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団
                フィレンツェ五月音楽祭合唱団

       (1991.7~8 @ヴェルディ劇場、フィレンツェ)

昨年2月8日に、ミレッラ・フレーニが亡くなり1年が経ちました。

プッチーニの3部作のヒロインをフレーニがすべて歌った一組を。

ヴェリスモに典型の痴情による悲劇、静謐な宗教劇、皮肉とユーモアのきいた喜劇。
この性格の異なる3つの1幕もののオペラを三部作としたプッチーニの天才性は、その素晴らしい音楽の描き分け方にも十分にうかがえる。
 しかし、この3作がなかなか同時上演されにくいのは、よく言われるように、その登場人物の多さで、しかも劇の性格が違うゆえに、歌手に求められるものも3作ともに違う。
3作のソプラノ歌手は、リリコ・スピントとリリコの声が求められる。
円熟期のフレーニは、それをこなせる希少な存在だった。
デッカにはかつて、大ソプラノ、テバルディが3役を歌ったガルデッリ盤があり、そのあと同じフィレンツェのオーケストラを使ったこちらのバルトレッティ盤が残されたのは、フレーニ・ファンとしてもほんとうにありがたいことです。
レナータ・スコットのマゼール盤では、ラウレッタ役はより軽いコトルバスに変わっていて、3役を歌った音盤は、テバルディとフレーニだけ。
私の舞台体験は2008年のプッチーニの生誕150年に上演された日本人だけの上演のみで、数年前の二期会公演は逃してしまいました。
あらすじなどは、パッパーノ盤の過去記事に手をいれたものを再褐してます。

  プッチーニ 「外套」

   ミケーレ:ホアン・ポンス  
   ジョルジェッタ:ミレッラ・フレーニ
   ルイージ:ジュゼッペ・ジャコミーニ  
   ティンカ:ピエロ・デ・パルマ
   タルパ :フランコ・デ・グランディス
   フルーゴラ:グロリア・スカルキ
   小唄売り:リカルド・カッシネッリ
   二人の恋人:バルバラ・フリットリ
         ロマーノ・エミリ

<パリのセーヌのほとり。海運を細々と営むミケーレ親方と妻ジョルジェッタ、働き手のルイージと仲間たち。

 仕事を終え煙草をふかすミケーレ、ジョルジェッタのつれないそぶりに心は浮かない。
ジョルジェッタは、仕事を終えたルイージや仲間たちに酒を振舞い、楽しい雰囲気。
仲間の妻は、田舎で旦那とつましい余生を送りたいと歌い、ジョルジェッタは、自分やルイージはパリの郊外の生まれで、こんな水辺での浮き草のような生活は早く終わりにしたいと歌う。そして、愛を交わしあい、密会を約束しあう二人。ルイージは熱い思いを歌う。
 寝ずに火照りを覚ますジョルジェッタにミケーレは、ふたりの間の亡くなった子供のことを話し、ふたたび「自分の外套に包まれればよい」と、やり直しを迫るが、またしてもそっけない妻。もう老いぼれた俺じゃだめなのか?と説得を試みるも・・・・
 一人になり、「売女奴め!」と怒り震わせ、男をひっとらえてやると、豹変するミケーレ。
煙草に火を着けるが、それを同じ合図と勘違いしたルイージが船にやってくる。
「ははぁん、お前か」「違う、あっしじゃありやせん」「いやテメエだ!」と押し問答の末、絞殺してしまう。物音に出てきたジョルジェッタ、夫の怪しい雰囲気に怖くなって、以前のように「喜びも悲しみも包んでしまうといった、外套に私を包んでよ」とおねだり。
「そうさ、時には罪もな!俺のとこへ来やがれ・・・」と外套から転がりでたルイージの死体にジョルジェッタの顔を無理やり押し付ける。
凄まじい悲鳴とともに幕。>

まだ駆け出しだった、フリットリの名前が3作いずれもあるのがうれしい。
ジャコミーニも新鮮な歌声。
なによりもフレーニの不安と安泰とに揺れ動く心情表現が細やかでいい。
ポンスの美声もいいが、このオペラ、妻が25歳、夫が50歳、間男が20歳の設定なので、ポンスさん若すぎに感じます。
 それにしてもよく書けてる音楽。
霧に煙るセーヌ川のパリな雰囲気、場末感や強殺の残忍さなど、不協和音や印象派風な手法を用いて見事に表出したプッチーニ。

  プッチーニ 「修道女アンジェリカ」

   修道女アンジェリカ:ミレッラ・フレーニ
   侯爵夫人 :エレナ・スリオティス
   修道院長 :グロリア・スカルキ
   修女長  :エヴァ・ポドレス
   修錬長  :ニコレッタ・クリエル
   ジェノヴィエファ:バルバラ・フリットリ
   オスミーナ:ヴァレリア・エスポジト
   ドルチーナ:アルガ・ロマンコ
   看護系修女:デボラ・ベロネシ ほか

<時は17世紀、トスカーナ地方のとある修道院。

 修道女アンジェリカは、フィレンツェの公爵家の娘ながら許されぬ子を宿し産んだため修道院に入れられ懺悔の日々を送っている。
修道女たちの祈りの合唱。修道女ジェノヴィエッファが中庭の泉に太陽の光が差し金色に輝くのを見つけ、マリア様の奇蹟が訪れるのよ、と沸く。
しかし、1年前にある修道女が亡くなったことも思い出す・・・・。
アンジェリカは生あるうちに花開き、死には何もないと語り、願いはないと語るが、皆はその言葉を信じず彼女の身の上話をささやく。
そこへ、修道女のひとりが蜂にさされ怪我をしたと騒ぎになるが、薬草に詳しいアンジェリカが秘伝の治療法を託す。
そこへ、アンジェリカの伯母の公爵夫人が立派な馬車でやってくる。修道院長から呼ばれ、接見するが、意地悪な伯母から、アンジェリカの妹が結婚することになりその遺産分与の同意を得にきたと伝えられる。家名を汚した姉の償いを妹がするのだとなじる。
7年前に生んだ坊やの消息を必死に尋ねるアンジェリカに、公爵夫人は2年前に伝染病で死んだと冷たく答える。その場に一人泣き伏せるアンジェリカ。
「いつ坊やに会えるの?天であえるの?」と、あまりにも美しいアリア「母もなく」を楚々と歌う。
彼女は、死を決意し、毒草を準備する。
毒薬を服し、聖母に自決の罪の許しを必死に乞うアンジェリカ。
そこへ天使たちの歌声とともに、眩い光が差し、聖母マリアが坊やを伴なってあらわれ、死にあえぐアンジェリカの方にそっと差し出す。にじり寄りつつ、彼女は救われ息を静かに引き取る・・・・・。>

もう、そもそもが涙なしには聴けない音楽。
「外套」の残忍性は影を潜めて、ここでは宗教秘蹟にふさわしく、抒情的で繊細かつ神秘的な音楽と、蝶々さんを思わせる哀しみと悲劇性もある音楽です。
修道院の無垢な雰囲気を醸し出す鳥のさえずりや、パルジファルを思わせるような浄化感もこのオペラの特徴です。
ともかく「母もなく」のアンジェリカのアリアはとてつもなく美しく、そして悲しみにあふれていて、これを歌うフレーニの声と感情の込め方はもう絶品であります。
3作のなかでは、一番フレーニに合った役柄だから余計に素晴らしい。
 そしてデッカらしい、味わい深い隠し味が、エレナ・スリオティスが意地悪な侯爵夫人役で登場していること。
喉の障害で一線から退いていたスリオティス、その声はお世辞にもいいとは言えない状態ですが、実に真実味があって迫真そのもの。
   
   プッチーニ 「ジャンニ・スキッキ」

    ジャンニ・スキッキ:レオ・ヌッチ
    ラウレッタ  :ミレッラ・フレーニ
    ツィータ   :エヴァ・ポドレス
    リヌッチオ  :ロベルト・アライサ
    ゲラルド   :リカルド・カッシネッリ
    ネルラ    :バルバラ・フリットリ
    ケラルディーノ:バルバラ・グエッリーニ
    ベット    :ジョルジョ・ジョルジェッティ
    シモーネ   :エンリコ・フィッソーレ
    マルコ    :オラツィオ・モーリ
    チエスカ   :ニコレッタ・クリエル  ほか
    
<1229年のフィレンツェ。ブオーゾ・ドナーティの家にて。

朝のドナーティ家、当主ブオーゾはすでに亡く、一族が取り囲んで神妙に泣いたふりをしている。膨大な遺産を期待する面々が、巷の噂の寄付ということを聞きつけて集結している。
きっと遺言状があるだろうということで探しだしてみると、噂どおりの全額教会寄付。
坊主だけが潤うと、一同は大騒ぎに。
そこで、リヌッチオは、許婚の父ジャンニ・スキッキに知恵を借りようと提案するが、策士だとして賛同を得られない。
リヌッチオは、いまのフィレンツェには、スキッキのような大胆で斬新な人物として街とともに称賛するアリアを高らかに歌う。
そこへスキッキと娘のラウレッタ登場。貪欲な一同に呆れ、こんな奴らに協力したくないと、ソッポを向いてしまうスキッキ。
しかし、愛娘が「私のお父さん」のアリアを歌い、その父の心をメロメロにしてしまう。

「私は、この人が好きなの・・・・、愛の指輪を買いに行きたいの・・・、もし愛することがだめなのならば、ポンテヴェッキオに行きます。そこで身を投げます。恋が私の心を燃やし苦しめるの、どうぞ神様死なせて下さい、お父さま、どうぞお哀れみを・・・」こんな掟破りの歌を娘に歌われ、お父さんはさっと心変わり。

「さあ、遺言状を貸してごらん」と、スキッキ。
この一族以外に誰も当主の死は知らない。では、自分がブオーゾになるまでと、そこへ、医師が回診にやってくるが、声音を使って見事にやり過ごすスキッキ。
自分がなり代わって遺言状を書き換えるまでよ!と巧みなアリアを歌う。
一同は感嘆し、それぞれの相続の思惑をスキッキに語りまくる。スキッキは、もしこの語りがバレたら法的には一同は手首をちょん切られると警告。ははっ!
 やがて公証人がやってくる。
すべての遺言のたぐいは今破棄し、これより語ることが唯一の遺言と、偽ブオーゾのスキッキは声音で語りだす。
遺産のそれぞれを一族の思いのままに語り、一同から小さくブラボーを得る。
そして、一族の関心のハイライト、「フィレンツェの勇壮な自宅と製材所、ロバなどの資産価値の高そうなアイテムは、なんと親友の「ジャンニ・スキッキ」に、とのたまう。
 苦虫をかみ締める一族たち。
公証人には、頭のなかで今考えたことを言ってるだけですよと言い、公証人は大いに賛同納得して去る。
 さあ大騒ぎの一族、とんでもない泥棒、ごろつき、うそつきと悪態の限り、スキッキは私の地所から出てゆけと命令!
一族は「あぁーーー!」、スキッキは「出てゆけーーー」の応酬。
 こんな騒ぎをよそに、恋の成就に熱くなる二人の恋人がフィレンツェの街を称える。
スキッキは語りでこんな洒落た口上を述べ幕となる。

「皆さん、ブオーゾの資産がうまく処理できましたかどうか。こんなやり口で、私は地獄行きの憂き目に会うでしょうが、偉大なるダンテのお許しを得て今宵お楽しみいただけましたらお許しください。どうぞ、情々酌量のうえ」>

そう、ほんと落としどころがドラマの筋も音楽もオシャレなんです。
ルネサンス期の新しい風や人物をうまく喜劇という枠で生かしている。
プッチーニの唯一の喜劇は、よく言われるように、晩年でヴェルディが「ファルスタッフ」を生んだように、そこから刺激を受けたとされる。
1時間のドラマのなかに、人間の腹黒さとそれを巧みに利用する狡猾さ、それと若い純粋な恋人たち、それらの人物たちを抱擁する街フィレンツェ、これらを描いてます。
悲劇・秘蹟と続いて、音楽はまるで一転、軽やかで明るい、イタリアの空を感じさせます。
 このおもしろオペラのなかに、きらりと光る暖かな涙と微笑みさそうラウレッタのアリア「わたしのお父さん」。
愛くるしくフレーニによって歌われると、思わず涙ぐんでしまいます。
30代の頃の彼女のプッチーニのアリア集も好んで聴きますが、あの頃の清純そのものの歌とはまた違って、表現の幅が広がり、その豊かな声に包まれるような思いがします。
 出始めのころのアラーニャも輝いてますね、テノールを聴く喜びが味わえます。
そして、レオ・ヌッチの巧みなジャンニ・スキッキには、ときに笑えるし、皮肉も脅しもたっぷりで、その技量のたくましさは、ヌッチのような歌手がいることを日本が知ったスカラ座の来日公演のフィガロ、あのときのイメージそのものでした。
 さてここにもデッカの隠し味が。
解説書に書いてありましたが、亡くなったブオーゾの甥の息子役に、スリオティスの娘(当時少女)が登場してます。
さらに、ベテラン指揮者バルトレッティのアシスタント指揮者として、これまたスリオティスの旦那さん、マルチェロ・グエッリーニがこの録音に参加してます。
 録音プロデューサーのひとりは、クリストファー・レイバーンの名前があり、カルショウなどとともに、デッカのオペラ録音の歴史と流れを感じることができます。

まさにフィレンツェのオーケストラを起用したデッカ。
プッチーニを得意にしたフィレンツェ生まれのバルトレッティの起用も正解だったと思います。
当時、フィレンツェのポストにあったバルトレッティですが、指揮者が中心のオペラ録音でなく歌手主体に組まれた録音でよく起用されて、その職人技と現代的な感覚が、とくにヴェリスモ系で強みを見せていたと思う。
ヴェルディでも、オーケストレーションが独特な「仮面舞踏会」なんかもよかったです。
この3部作の、それぞれの特徴を巧みに描きわけて表出しているし、さりげない歌手の引き立て方も、オペラティックな雰囲気豊かなオーケストラとともに味わい深いものがありました。

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わたしの郷里の自慢は、海と菜の花、そしてその温暖な風土です。

ミレッラ・フレーニが亡くなって1年。

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2021年2月 4日 (木)

ドビュッシー 前奏曲集 ベロフ

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静謐な庭園と絶妙の日本の間。

人がいなくなるのを待ちましたが、こうしてじっと眺めてしまうのもわかります。

時が止まった感を抱きます。

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昨年晩秋に訪れた京都、圓徳院。

秀吉の菩提寺である高台寺のなかにある院で、北政所ねねが後半生を過ごした場所です。

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  ドビュッシー 前奏曲集第1巻・第2巻

    Pf:ミシェル・ベロフ

     (1970.6~7 @サル・ワグラム@パリ)

ショパンの音楽を愛し、敬愛したドビュッシーもまた、ショパンにならって24の前奏曲を作曲しました。
絶対音楽ではなく、標題音楽でもない、まさに印象主義的な音楽、ドビュッシーの神髄のような作品です。
全24曲それぞれに題名は与えられているが、曲頭にあるのでなく、曲の終わりに、さりげなく書かれているそれらの標題。
まさに聴いてみて、弾いてみて、そのように感じて欲しい、味わって欲しいという思いからだとか。
標題から入ると、その印象にまず左右されてしまうものですから。 
 だから、わたしは、いつもドビュッシーの音楽は感じる、受ける、そんな気持ちで聴きます。
同じようにディーリアスの音楽も聴きます。

24曲を12曲づつ2巻に分けて、第1巻は1909~1910年の短期間に、第2巻は1910~1913年にゆっくりと作曲。
前者の方がとっつきやすく、抒情性が濃く、後者の方は円熟の度合いが増し、技巧的に厳しい考え抜かれた様式の作品集となってます。

各曲の題名は邦題でしか知ることはできませんが、いずれもうまく訳したものだと思いますし、いかにもドビュッシーな感じです。

第1巻

①デルフィの舞姫       ②帆        ③野を渡る風   
④音と香りは夕暮れの大気に漂う⑤アナカプリの丘  ⑥雪の上の足跡 
⑦西風の見たもの       ⑧亜麻色の髪の乙女 ⑨とだえたセレナード 
⑩沈める寺          ⑪パックの踊り   ⑫ミンストレル

第2巻

①霧             ②枯葉       ③ヴィーノの門       
④妖精たちはおでやかな踊り子 ⑤ヒースの茂る荒野 ⑥奇人ラヴィーヌ将軍 
⑦月の光がふりそそぐテラス  ⑧水の精      ⑨ピックウィック卿讃頌 
⑩カノープ          ⑪交代する3度    ⑫花火

それぞれを聴いた後、このタイトルを確認するようにして聴きます。
24曲のタイトルを全部覚えて、聴いた瞬間に、これは〇〇とかわかるリスナーがいたらもう大尊敬であります。
私は、第1巻の最初のほうと、亜麻色と沈める寺ぐらいかな、第2巻なんてさっぱり結びつきませぬ。
だからもう、タイトルなんてかなぐりすてて、ドビュッシーの紡ぐ音楽に身を任せるのも、この作品集の聴き方のひとつかもしれません。

そう考えてきたら、ドビュッシーの音楽はみんな模糊としたものに感じられてきた。
これまで多く聴いてきたドビュッシーがなんか遠くへ行ってしまった。
唯一近くに感じられ、その音楽の輪郭線も身近に感じられるのは「ペレアスとメリザンド」で、オペラで物語があり、言葉があることがリアルだからなのか・・・
なにを書いてるんだかわからなくなってきた、いやこの感覚がドビュッシーなのかも。
明確なものは少なく、印象でもって人の感覚に訴えてくる音楽。
空に浮かぶ雲や、夕暮れの凪の海、遠くの野山などをぼんやりと眺めて聴くのがオツというものだ。

変なことばかり書いてますが、全24曲、全部が特徴があり、その受け止めも人それぞれだろうが、「沈める寺」に着眼し、オーケストラ版を作ったストコフスキーはすごいと思います。
キラキラしすぎかもしれないが、静かに始まり、だんだんと重層的に厚みを増して行く響きが、まるでオルガンのようでもあり、寺院の荘重な鐘のようでもあるこの作品の在り方を、オーケストラで完全に再現してみせます。
わたしには、シュレーカーの音楽を思わせました。。
全24曲が、思えば、そんな豊かな響きと、想像力を刺激するイマジネーションを持っているんだと思います。

今日は、懐かしいミシェル・ベロフの若い日々の演奏で聴きました。
10代初期に、メシアンを驚かせた早熟のベロフは、ドビュッシーと、そのメシアンの専門家みたいにしてEMIに多くのレコーディングを残しました。
20歳のときの録音とは思えない落ち着きとともに、青春の輝きのような、1曲1曲に感じながらの新鮮な響きを聴かせてくれます。
曖昧さのない明晰なピアノは、これが出た70年代の当時、驚きをもって迎えられました。
懐かしいです。
同じころに登場した若いピアニストで、ジャン=ルドルフ・カーロスがいて、彼はユダヤ系でインド生まれ、フランスに育って、同じくドビュッシーとメシアンを得意にしました。
カーロスの前奏曲集もデッカから発売されて、ベロフかカーロスかで話題になったのもよく覚えてます。
ちなみに、幣ブログでは、カーロスのディーリアスのピアノ協奏曲を取り上げてます。
そのカーロスは、早くにピアニストを辞めてしまい、86年に聖職者になったようです。
ドビュッシーとメシアンを好み、極めて宗教の道へ・・・なんかわかるような。

ベロフの方は、同じ80年代にヨットレースで右手首を負傷し、両手でピアノが弾けなくなってしまう。
87年にアバドの指揮でラヴェルの左手協奏曲を録音して驚かせましたが、その後苦行のリハビリを経て完全復活したのが1995年。
ロンドン交響楽団のブーレーズ・フェスティバルでの、バルトークの2番の協奏曲で予定されていたポリーニが病欠。
代わりに登場したのがベロフだったとのこと!
なんかすごいです、しかも難曲で打鍵の激しいのバルトーク!
以来、復活したベロフはドビュッシーの再録音も行いましたし、日本にも何度もやってきてますね。
円熟のベロフのドビュッシーは実は未聴で、聴いてみたい気はしますが、わたしには20歳のベロフのドビュッシーのままでいいかと思ったりしてます。
ミケランジェリとかポリーニも聴いてますが、これが一番好き。

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ドビュッシーな雰囲気を感じ取れる(かな?)

ともかく美しかった。

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ことし、初夏の頃にはまた訪れます。

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