« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »

2021年4月

2021年4月26日 (月)

クリスタ・ルートヴィヒを偲んで

Ludwig-20210424

メゾ・ソプラノのクリスタ・ルートヴィヒさんが亡くなりました。

2021年4月24日、オーストリアのウィーンの北方にある、クロスターノイベルクの自宅にて逝去。

享年93歳でした。

ベルリン生まれ、戦後から歌手活動を開始し、次々に大きな劇場へと活動の場を広げ、それは時の名指揮者たちの後押しが常にありました。

メゾ・ソプラノという主役級のあまり多くない声域で、ルートヴィッヒのように長く、広大なレパートリーと、そして膨大なレコーディングを残した歌手はほかに見当たりません!

でも、50年近く現役を続け、大きな実績をあげているのに、偉大な歌手という肩書きというより、親しみのあるおなじみの歌手、というフレーズの方が似合うのが、クリスタ・ルートヴィヒさんでした。

今回の訃報を受けて、手持ちの音源をあれこれ探そうとおもったら、もう、あることあること。
ともかく、いろんな音盤にルートヴィッヒの名前がある。
たくさん、たくさん聴いてました。
リートの方もありますが、やはりルートヴィッヒはオペラ。

しかし、わたしの初ルートヴィッヒ聴きは、カラヤンの第9です。
小学生のときに観たカラヤンの第9の映画で、いまはなくなってしまった、新宿の厚生年金会館での上映です。
すぐさま、レコードも買いましたよ。
しかし、ルートヴィッヒじゃなかった。

可愛い美人って感じで、ちょうど母と同じぐらいな年齢なものだから、親しみと憧れがあったのかもしれません。

Tristan-bohmJacket_20210426205001

初めてのルートヴィッヒは、ベームのトリスタンでのブランゲーネ。
ここでの歌唱が、ブランゲーネ役のほぼ刷り込みです。
数年後のカラヤン盤も同じく、1幕の毅然とした役作りと、2幕での官能シーンの一役を買うような甘き警告、もうルートヴィッヒ以外は実はわたくし考えられないのでした。。。

115055353Gotter-karajan

クンドリーもルートヴィッヒならではの、多面的な役柄掘り下げのうまさが出た役柄。
聖と邪、1幕と2幕で巧みな歌唱。
そして、カラヤンのリングでは、黄昏でのヴァルトラウテが完璧で、ルートヴィッヒによってカラヤンのリングの大団円が引き締まった。

Cosi-3

ヤノヴィッツとのスーパーコンビ。

そうカラヤンの第9映画もこのふたり。

ヤノヴィッツはルートヴィッヒより10歳お若いけど、硬質なヤノヴィッツ声と暖かなルートヴィッヒの声とが巧みに融合するさまは、モーツァルトの愉悦にもぴたりでした。
ベームのコジ・ファン・トゥッテの映画はお宝です。

Strauss-die-frau-ohen-schatten-karajan-1Rosenkavalier_bernstein_20210426205001

R・シュトラウスの数々のオペラもルートヴィッヒなくしてはなりたちません。

影のない女での、バラクの妻は、ドラマテックな声を要求される難役だけど、それを難なく歌うルートヴィッヒ。
しかも、実際の夫であった、ヴァルター・ベリーとの共演はまさに適役。
カラヤン盤は、実はその指揮にももっと多くを求めたいが、ベームのザルツブルク音楽祭でライブCDがルートヴィッヒでなかったことが残念です。
手持ちのカセットテープから起こしたルートヴィッヒの出演した年の音盤は最高です!

バーンスタインのもとでマルシャリンを歌ったルートヴィッヒ。
ここでもベリーとの夫婦共演。
豊かな音域で歌うと、諦念感もより出て夫ある身である、そんな存在感も出てました。
こう言っちゃなんですが、人妻感あるお隣の美しい奥さんって感じ。

Wagner-brahams-mahler-ludwig-1

ルートヴィッヒの声を愛した大指揮者のひとり、クレンペラーとの共演。
ブラームスの「アルト・ラプソディ」、ワーグナーの「ヴェーゼンドンク」、マーラーの「リュッケルト」、おおよそこれらの作品に対する模範解答の歌唱がここに刻まれてます。
録音が今となっては古いですが、そのせいもあって、ルートヴィッヒの歌唱がいくぶん古いスタイルに受け取れる方もいるかもしれません。
でも、ここに聴く極めて正しきドイツ語のディクションと、少しの揺れも伴いつつ、その言葉に乗せたのっぴきならない感情表現は、昨今のオールマイティーな耳当たりのいい歌唱とは一線を画してます。
指揮者ともども、背筋を伸ばしたくなるような、そんな1枚です。

ルートヴィヒを偲んで、次はこれで。

Mahler_20210426212901Mahler-larajanMahaler_das_erde_baerstein

マーラーの「大地の歌」
この作品も、ルートヴィッヒの声と、わたくしには一心同体と化しています。
初めての「大地の歌」がバーンスタイン盤。
こえを何度も、擦り切れるぐらいに聴き、対訳も諳んじるぐらいに読み込んだ。
以来、別れの寂しさと、次ぎ来る春の明るさの予見をルートヴィッヒの声にこそ感じるまでに聴きこんだ。

カラヤン盤はCD時代になってから聴いたが、FMでのライブは73年に録音して親しんだ。
曲が静かに終えると、絶妙のタイミングで見事なブラボーが一言、すてきなシーンだった。
遡るようにしてクレンペラー盤を聴いたのは、ほんの10年前のこと。

バーンスタインの強引な指揮に、ストップを繰り返しつつ、やがて合わせていくシーンが動画として残されています。
振幅の大きい、個性の強いバーンスタインのやりたい音楽にもルートヴィッヒは的確だった。
カラヤン盤では、ビューティフルなマーラーをカラヤンの好みに合わせて紡ぎだしている。
いまの世の中では、このカラヤン盤が一番高評価を受けるかも。
クレンペラー盤では、孤高の指揮者と一体化して、感情表現は抑え目に、楽譜のみを読み取った冷静でありながら深い情感と枯淡の境地をも感じさせる歌。

このように、クレンペラー、ベーム、カラヤン、バーンスタインに愛され、彼らの望む音楽に完璧に沿いながらも、その持ち味である暖かみと親しみやすさを失わなかったルートヴィッヒの知的な歌の数々。

Ewig・・・・Ewig 永遠に・・・

ずっとこだまします。

クリスタ・ルートヴィヒさんの、御霊が永遠でありますよう、安らかにお休みください。

Img_2014

| | コメント (8)

2021年4月24日 (土)

モーラン ラプソディ ファレッタ指揮

Azumayama-005

4月早々の吾妻山。

もう桜は散り始めで、今年はほんとに早かった。

Azumayama-007

富士山、ちょっとだけ。

Moeran-falleta-01

  モーラン ピアノとオーケストラのための第3ラプソディ

     Pf:ベンジャミン・フリス

   ジョアン・ファレッタ指揮 アルスター管弦楽団

       (2012.9.17 @アルスター・ホール、ベルファスト)

アーネスト・ジョン・モーラン(1894~1950)は、英国抒情派の作曲家。
以前のモーランの記事でも書いてますが、そのプロフィールを再度。
直接的な師弟関係は、アイアランド。
アイアランドは、同じく抒情派で、出身の
スコットランドゆえにケルト文化を愛し、朋友バックスとともにケルトの神秘かつ原初的な世界に大いに影響を受けたのでありました。
ロンドン生まれのアイルランド系のモーランは55歳の短命だったが、その死の要因は、第1次世界大戦で頭部に重傷を負ったことで精神を病んだことでもありました。
自身が育ったノーフォーク地方の民謡や風物の採取に熱中し、やがて自身のアイルランドの血に目覚めていったという生涯。
豊かな自然のイギリス東部のノーフォークと、孤高なケルト文化を背景にしたアイルランドやスコットランド、このあたりの光景を思い浮かべながら聴くと、モーランのその美しい音楽はますます心にしみわたるようにして聴こえます。

数はそんなに多くはないけれど、オペラ的なもの以外のジャンルにまんべんなくその作品を残したモーラン。

アイアランドに師事していたころのの若き作品に、ラプソディ(狂詩曲)第1番があり、1922年。
その2年後に、ラプソディ第2番を作曲し、こちらは1941に改作されてスケールアップ。
どちらもモーランらしいメロディアスな作品。
 そして充実期の1943年、バックスの提案を受け、ラプソディの3作目を、しかもピアノ独奏を伴う協奏曲風なスタイルの作品を書きます。
これが、ピアノとオーケストラのための第3ラプソディです。
同年8月、ロンドンで、バックスの公然の恋人だったハリエット・コーエンのピアノ、ボールト指揮するBBC響にて初演し、成功をおさめます。

連続して演奏される17分ぐらいの曲。
明確に3つの部分からなってますので、まさにピアノ協奏曲ともいえる。
快活でリズミカルな第1部は、特徴的なモティーフが何度も繰りかえされる。
やがて、静まり、ピアノが独白を始めると、そこにオーケストラがそっと支えるようにして入ってくる。
緩徐楽章的な第2部の始まり。
ここが、この作品の白眉ともいえます。
ともかく美しく、儚げで、郷愁もたっぷり。
遠くを眺めて、ずっとずっと聴いていたい。
 しかし、ピアノが再び元気を取り戻したかのように第1部を回帰される。
ここからが第3部で、懐かしそうに第2部のムードも回顧しつつ、第3部は一番スケールが豊か。
打楽器も鳴り、金管も元気だし、例の特徴的なモティーフをオケもピアノも何度も繰り返す。
2部の美しさをピアノソロのカデンツァのメインとしつつ、やがてジャズっぽい即興性も感じさせつつ、鮮やかなコーダを迎え曲は閉じる。

短めだし、いろんな要素がなにげにたくさん詰まっているラプソディ3番。
何度きいたことでしょうか。

すっきり系のイギリスのピアニスト、フリスさん。
NY生まれの女性指揮者ファレッタさんは、かつてアルスター管弦楽団の首席を務めていて、雰囲気豊かなのこの作品にピタリのオーケストラから、素敵なサウンドを引き出してます。
かつて、ブライデン・トムソンやハンドリーらのもとでローカルな味わいのオーケストラだったアルスター管。
ファレッタのそのあとがエル・システマ系のラファエル・パヤーレ(モントリオール交響楽団の次期指揮者)。
パヤーレのあとは、イタリアのイケメンで有望核のダニエーレ・ルスティオーニが首席を務めてます。
こうして、ローカルな味わいのオーケストラも、グローバルな波に流されていくのはちょっと寂しいですが、このアルスター管は生で、一度聴いてみたいものです。
 あとファレッタさんが、いま指揮者のバッファローフィルも何枚か集めましたのでまた特集しようかと思います。

 「モーラン ヴァイオリン協奏曲 モルトコヴォッチ」 

 「モーラン 弦楽四重奏曲、ヴァイオリンソナタ メルボルンSQ」 

   「モーラン  交響曲 ハンドレー指揮」

 「モーラン ロンリー・ウォーターズ」

 「モーラン 幻想四重奏曲」

Azumayama-010

| | コメント (0)

2021年4月18日 (日)

ドニゼッティ 「ドン・パスクワーレ」 ムーティ指揮

Niko-tokyo-01

3月31日、東京の上空の数か所に、ニコちゃんマークが描かれました😊

アクロバット・パイロットの室屋義秀さんが、空を見上げることで気分を良くして、明るくなりましょう、ということで実行したイベント。
これまで在住する福島や、栃木など、複数の場所で、スマイルマークを描き、文字通り笑顔を届けてきたそうです。

この日、情報を事前キャッチしたので、予定場所のひとつ、東京タワーの近く陣取りましたが、結構な上空でした。
でもたくさん集まった人々、みんな空を見上げて、ニッコニコでした!

Niko-tokyo-02

よくわからないかもしれませんが、黄緑色の桜です。

調べたら御衣黄(ギョイコウ)という品種だそうで、毎年気になってました。

ということで、関係はありませんが、当ブログには珍しいドニゼッティのオペラを。

というか、ドニゼッティ初登場です。

なんどもしつこく書いてますが、ヴェルディは早くから好んで聴いていたけれど、ヴェルディより前のベルカント系のオペラは、ちょっと苦手で、正直、食わず嫌いでした。
アバドのロッシーニが、アバドゆえの例外で、アバド以外のロッシーニ、ドニゼッティ、ベッリーニは、「ルチア」と「ノルマ」以外は、まともに聴いたことがなかった。
 そして、何度も書きますが、コロナのおかげか、なんとやら、日々続いた世各地のオペラハウスのストリーミングで、あたり構わずに視聴しまくり、なんのことはない、なんでこんな素敵な世界に気が付かなかったんだろ、といまさらながらの開眼でした。
 そんな中から、楽しかった作品、「ドン・パスクワーレ」を。

オペラだけでも、70作以上もあるドニゼッティ(1797~1848)の決して長くない人生の、充実期・後期作品から取り上げ、そのあとは女王三部作などに挑戦してまいりたいと思います。

Don-pasquale-muti

  ドニゼッティ 「ドン・パスクワーレ」

   ドン・パスクワーレ:セスト・ブルスカンティーニ
   ノリーナ     :ミレッラ・フレーニ
   マラテスタ    :レオ・ヌッチ
   エルネスト    :イェスタ・ウィンベルイ
   公証人      :グゥイド・ファブリス

  リッカルド・ムーティ指揮 フィルハーモニア管弦楽団
               アンブロージアン・オペラ・コーラス

      (1982.11,12 @キングス・ウェイホール、ロンドン)

   ドン・パスクワーレ:独身で富豪の70代
   マラテスタ:ドン・パスクワーレの有人で医師
   エルネスト:ドン・パスクワーレの甥
   ノリーナ :マラテスタの妹で、エルネストと恋仲

1842年に、ほぼ1か月半で完成させてしまった早書き。
というのも、1810年にステファノ・パヴェーシという戯曲家が書いた「セル・マルカントニオ」が初演され、同時に自分で作曲もしてオペラ化。
いまいち不評だったこの作品、台本をカンマラーノという作家がリメイクして、それが気に入ったドニゼッティが30年後にすんなりオペラ化したもの。
 内容は、当時のブッファものでよくある筋立てで、とりたたて目新しいものでないが、時代設定を変えたり、少しの解釈を施したりすると、皮肉の効いた風刺的なものにもなったりで、いろんな目線を見出すこともできるオペラだと思います。

そして、ドニゼッティの音楽は旋律にあふれ、どこまでも伸びやかで、聴き手を楽しい気分にしてしまいます。

いろんなサイトでその筋立てが読めますので、ごく簡略に。

ときは現代とあり、作曲当時の19世紀前半。

ドン・パスクワーレから美しい女性を嫁に、と頼まれていたマラテスタ。
自分の妹をそれに仕立てようと企て、老人はすっかりその気になりワクワクする。
甥のエルネストは、自分は結婚したいと申し出るが許されず、老人は、それより先に自分が結婚して財産もそちらに分与するから、おまえにはやらんよと言う。

Met-don-pasqure-2
              (MET 兄と妹)

 マラテスタは、妹のノリーナがエルネストからの別れの手紙で悲しんでいるのを見て、ドン・パスクワーレとの結婚をしたてあげて、懲らしめようということになり、田舎育ちのおぼこ娘に扮することに。

パスクワーレ邸で、エルネストが悲しみに沈んでいる。

Wien-don-pasquale-2
             (Wien 結婚の儀)

一方、マラテスタに連れてこられたノリーナを一目見て気に入り、即座に結婚の準備ということになり、公証人が仕立てられ、さらにもう一人の公証人が必要とのことで、わけのわからないエルネストにそのお鉢がめぐってきて混乱。

Met-don-pasqure
            (MET 嫁豹変の巻)

マラテスタが、そこはまあまあ、となだめ、正式書類が交わされると、ノリーナ態度豹変。
舘で働く人々の給金を値上げすると決め、買物もしまくるぞ、と息巻く。
エルネストも芝居とわかり、すっかり困ったドン・パスクワーレは嘆きと怒りごちゃごちゃに


Roh
         (ROH 放蕩の限りを尽くす嫁)

ノリーナの買い物の金額は膨大で、ドン・パスクワーレは憂鬱になっていてノリーナと大げんか。
去り際にわざと落とした恋文をみつけ、呼ばれたマラケスタは浮気の現場に踏み込んで証拠をみつけるのが一番と進言。

Wien-don-pasquale-3
          (Wien 甘い夜に彼氏登場)

 夜になり、庭にやってきたエルネストは、甘いセレナードを歌い、ノリーナと二重唱。
ドン・パスクワーレが踏み込むが、エルネストは、すぐに姿をくらまし、地団駄を踏み、もうこりごり、こんな女とは離婚、エルネストに前から言ってた女性と結婚しなさい、ふたりに財産はあげると宣言。
 マラテスタは、エルネストを呼び、彼の恋人はノリーナだったことを話し、これまで仕組んだのが計略でしたとします。
善意から出た計略と認めたドン・パスクワーレ、最後は「万歳パスクワーレ」幕。

現実にはありえへん物語だけど、身の程知らずの金持ち爺さんもイカンですが、そのお年寄りをたぶらかすようにして、ひどいめに合わせるのも気の毒なものだ。
いまの世なら、パパ活して、本気になった、もしかしたら婚活中の中高年男性にさんざん貢がせて、わたし結婚しますの、とポイ捨てされちゃうみたいなもの。
まぁ、どっちもどっちか、やはり冷静に、自分をわきまえることが肝要かと・・・・
でも、このオペラでのドン・パスクワーレの描かれ方は、可哀想で、最後の最後にしか、いい人になれない。

 ムーティが70年代初め、注目株の指揮者として、ザルツブルク音楽祭にデビューして、指揮したのが「ドン・パスクワーレ」。
その十数年後、フィルハーモニアとフィラデルフィア、フィレンツェを手兵にしたムーティがスタジオ録音したもの。
まだまだ活きのいい時代だった頃のムーティ、序曲からして元気溌剌、飛ばしてます。
喜劇的なオペラとはいえ、一点一画もおろそかにしない厳格さも、この当時からムーティのオペラに対する姿勢は変わらず、ユーモアや愉悦感も欲しい感じはしますが、でも歌にあふれたドニゼッティの楽しい音楽がしっかりあり、そしてオペラティックな感興が律儀な演奏のなかにもしっかり息づいているのが、さすがのムーティ。

 もともと、フレーニの声質からしたらぴったりの役柄がノリーナ。
清廉であり、コケットリーでもあり、豊穣な声を堪能しました。
あと狂言回し的な存在の兄上、ヌッチもこうした役柄はほんとにうまくて楽しい。
大ベテラン、ブルスカンティーニも単体としてはいいし、わたしには懐かしい歌声なんだけど、同じバリトン同士のヌッチとの声の対比があまりよろしくないかもしらん。
 スウェーデンのテノール、ウィンベルイは、この頃活躍を始め、ここに抜擢されたが、美声でもしかしたらパヴァロッティを意識してたのかな、とも思わせましたが、イタリア人歌手たちのなかにあって、やや異質な部分も感じたりも。
その後、カラヤンにも重宝され、やがて声は重くなり、ついには最高のローエングリンやヴァルターともなったウィンベルイ。
早逝が惜しまれます。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

映像で観劇した「ドン・パスクワーレ」は、メットとウィーンのふたつと、音だけでコヴェントガーデン。

メトロポリタン 2010 レヴァイン、ネトレプコ、デル・カルロ、クヴィエチェン、ポレンツァーニ シェンク演出

ウィーン    2015  ピド 、ナフォロルニツァ、ペルトゥージ、プラチェトカ、フローレス ブルック演出

コヴェントガーデン 2019 ピド 、ペレチャッコ、ターフェル、ヴェルバ、ホテーア ミキエレット演出

メトは、シェンクの演出だけあって、原作に忠実な伝統的な演出。
最初は、こうした無難なものを見てからじゃないといけませんね。
ネトレプコは、歌に演技に元気いっぱいだけど、もうこの頃の彼女は声が重くなってきていて、軽やかさも求めたいところ。

実に面白かったのがウィーンで、ピーター・ブルックの娘さん、イリーナ・ブルックの演出。
現代に設定を置き、ドン・パスクワーレは実業家で、彼の営むバーのような店舗が舞台。
2幕冒頭の、トランペットの泣きのソロは、舞台に上がり、嘆き飲んだくれるエルネストの脇で演奏するミュージシャンとなっていた。
こんな風に随所に工夫が施されてあって、色彩的にもあざやかで、舞台映えがよろしい。

Wien-don-pasquale-1
  (ヴァレンティナ・ナフォロルニツァ)

フローレスが圧巻だったけど、4人のバランスがとてもよく、ナフォロルニツがとても可愛くて好き!
彼女は、同じブルックの演出で、ブリテンの真夏の夜の夢にも出ていて、そこでもかわゆかった。

音だけだけど、ピドの指揮が、ウィーンのものと同じくとてもよかったのがロイヤルオペラ。
ターフェルのドン・パスクワーレが、しっかりとバスで引き締めていて、聴きごたえあり。
話題のペレチャッコもよい。
画像を数枚みただけだけど、ミキエレットなので、これもまた見てみたい演出。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ロッシーニ(1792~1868) ペーザロ出身(ボローニャの近く)
ドニゼッティ(1797~1848)ベルガモ出身(ミラノの北東)
ベッリーニ(1801~1835) カターニャ出身(シチリア島)
ヴェルディ(1813~1901  パルマ近郊出身(ミラノとボローニャのぐらい)

4人の生没年とその出身地を見てみましたが、ベッリーニだけ南イタリアの出身なんですね。
これから遅まきながら聴き進めていきたい作曲家たち。
しかし、時間がないねぇ~

Niko-tokyo-03

青空に浮かぶにっこりさん。

かなりあっという間にその笑顔を崩れて、なくなってしまう儚さもありましたよ。

またどこかの空に描かれることでしょう。

Niko-tokyo-04

緑の桜も、いまではとうに葉桜になってまして、今年の桜はめでる間もなく、あっという間に咲いて、散ってしまった感じ。


| | コメント (2)

2021年4月 8日 (木)

アンサンブル ラディアント 第21回定期演奏会

Radian-01_20210407073901

地元での演奏会、神奈川県二宮町を拠点とする弦楽アンサンブル、ラディアントの演奏会に行ってきました。

家から徒歩数分で味わえる、素晴らしい音楽、何もないけど、そこが魅力の郷里で、それを噛みしめるように楽しめた2時間でした。

Radian-02_20210407073901

吾妻山の中腹から見た町の様子。

左端にあるのが、町の生涯学習センター「ラディアン」です。

隣接して「花の丘公園」や、ちょっとした小山もあって、家族でも楽しめるエリアです。

法務局もできましたが、ここ一帯は、かつて、神奈川県の園芸試験場でして、広大な農園と2階建てぐらいの試験場建物がありました。

家がこの試験場に、それこそ隣接していて、そもそも出入りはフリーだったので、小・中学校時代の自分にとって、恰好の遊び場でした。
真っ直ぐの舗装された通路は、自転車の練習にもうってつけで、補助輪を外したのもここだし、猛スピードで友達とレースをしたのもここ。
さらに、建物の横には、当時、町内では珍しかった、コカ・コーラの自販機があって、瓶のコカ・コーラを毎日夢中になって飲んだもんです。
あとね、果実の研究もメインでもあったようで、眼前に広がる桃の畑は見事で、春先には、ピンク色の花が鮮やかに咲き乱れるのでした。

こうして昔のことなら、いくらでもすらすら思い出せます(笑)

若い方が、たくさん移住してきて町も新しい風が吹いてますが、こんな昔のことも知って欲しいな、と思う自分です。

  ------------------------

  第21回 アンサンブル ラディアント定期演奏会

       ~弦楽アンサンブルの極み~

  ラター    弦楽のための組曲

  ポッパー   3台のチェロと弦楽のためのレクイエム op.66

      チェロ:安田 謙一郎、藤村 俊介、白井 彩

  シューベルト 弦楽五重奏曲 ハ長調 D956 ~弦楽合奏版~

      アンサンブル ラディアント

      ゲストコンサートマスター:白井 篤
      賛助出演:松本 裕香  百武 由紀
           藤村 俊介  安田 謙一郎

      (2021.4.3 @ラディアンホール 二宮町)

1)英国音楽好きの自分にとって、その美しいレクイエムしか聴いたことのなかったジョン・ラターの弦楽作品を、ここ二宮で聴けるとは思わなかった。
英国民謡をベースに、①「流浪」②「私の青い縁どりのボンネット」③「オー・ウェリー・ウェリー」④「アイロンをかけまくる」。
4曲に、おしゃれなタイトル。アイロンかけまくる、って(笑)
そして、いずれも可愛くって、親しみやすくって、愛らしい曲でした。
現代の作曲家でありながら、保守的な作風で、英国の抒情派の流れをしっかり汲んだラターの音楽でした。
活きのいい1曲目で、ラディアントのアンサンブルもすぐに乗りを得て、聴き手もみんな音楽に入りこむことができた感じです。
ステキだったのが白井さんのソロも含む2曲目で、英国音楽ならではの背景描写も心和むものでした。
同じくメロディアスなソロに始まる3曲目も郷愁さそうもので、涙が出そうになりましたね、いつまでも浸っていたい音楽です。
オスティナート風のくり返しのパターンが楽しいアイロンかけるぞ、の4曲目は、みなさん楽しそうに演奏してました。

今回の3演目のなかで、このラターの作品、いちばん二宮町に相応しい音楽に思います。
慎ましい英国音楽がちょうどいい町。

2)ポッパーのレクイエムも初めて聴く曲。
チェロ3挺がソリストとして、前面に並ぶと壮観ですが、奏でられた音楽は荘重かつ悲しみにあふれた音楽でした。
でもメロディが豊かで、嘆き節というよりは、亡き人を優しく包み込むような、そんな癒しの音楽にもとれました。
いい曲ですね、ご紹介ありがとうございます。
重鎮、安田さんの味わい深い音色、藤村さんのチームを締めるような安定感、白井さんの艶のある音、それぞれに聴きものでした。

MCもつとめられたゲストコンマスの白井さんが、コロナ対策で通気をよくするために、舞台左右の反射板を外して、かわりに幕を設置した。
しかし、これでは音がデッドになりすぎるので、ステージマネージャーの松島さんが7キロもある鉄板を何枚も用意して奏者の足元に敷いたとご案内されました。
これによりかなりの音質改善がなされたはずだとのことです。
確かに、ステージ自体、そのものが弦楽器の胴みたいに響いて鳴ったのかな、とか思いました。

3)「次は長いです」白井さんが(この日、ステージには白井さんが5人)、これだけは言っておいて欲しいと言われたので、ということでお話しされ、場内は笑いに包まれました。
確かに、シューベルト、ことに晩年の様式による作品は長いです。
でも、われわれ聴き手は頑張って聴きました、名作を堪能しました。
 ビオラでなくて、チェロを2挺としたシューベルトの五重奏曲は、重厚さがそれだけでもあるが、ここではオリジナルの5人の奏者をソロのように仕立て、弦楽合奏をそこに配し、さらに低弦にコントラバスも追加したもので、白井さんが言われてましたが、コンチェルト・グロッソのような構えの作品となりました。
これが実に面白かった。
ときおり、通常の5人によるオリジナル演奏が入り、また、それを伴奏するかのように弦楽合奏が入り、さらには5つの楽器と合奏がユニゾンで、という感じで飽きることなく目も耳も楽しめました。
シューベルトの音楽には歌があふれていると同時に、死というイメージが影のようにつきまとっていることをいつも聴きながら思うのですが、ここでもそれは感じました。
大きな編成である意味シンフォニックに演奏されたので、よけいにドラマテックになりました。
そしてあのどこまでも美しい第2楽章は、まさに天国的ともいえるうつくしさと儚さを感じた。
こんな素晴らしいシューベルトを、実家の近くで聴けるなんて、アンサンブル・ラディアンとソリストの皆さまたちに感謝、感謝です。

アンコールは、楚々たるシューベルトのセレナーデが演奏されました。

来年も楽しみにしております🎵

ラディアン花の写真館

Radian-03

満開の桜、逆光ですが奥がラディアン。

Radian-05

かぐわしい香りがしてたライラック。

Radian-04

もう咲き終えてしまったけど桃の花。

Radian-06

初秋の収穫が楽しみな梨の花。

Radian-07

翌朝は、ラディアン朝市にも行ってきましたよ。

| | コメント (0)

2021年4月 4日 (日)

バッハ カンタータ リヒター&鈴木雅明

Zoujyouji-c

桜前線北上中。

わたしの住む関東はもうおしまい。

例年なら、イースターのころ合いに満開を迎える日本の桜です。

Zoujyouji-d

今年の復活祭は、4月4日。

復活節にまつわるバッハのカンタータをふたつ、往年の演奏と今現在のものとで。

Bach-4-richter

 バッハ カンタータ第4番 BWV4

    「キリストは死の縄目につながれたり」

   Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

 カール・リヒター指揮 ミュンヘン・バッハ管弦楽団
            ミュンヘン・バッハ合唱団

      (1968.7 @ヘラクレス・ザール、ミュンヘン)

復活節日曜日(第1祝日)用
200曲あるバッハの教会カンタータは、聖書と密接に結びつく礼拝に伴うカンターであり、その語句は、聖書はおろか、キリスト教に馴染みのない多くの日本人には、身近な存在とはいえないだろう。
 しかし、バッハの音楽は、そのハンディのようなものを補ってあまりあるもので、汲めどもつきぬ味わいと楽しみがあると思う。
かくいうワタクシは、ほんのさわりだけしか聴いてはいませんので、偉そうなことはいえません。

ライプチヒのトーマス教会カントルの時代に書かれたのが、バッハの教会カンタータの全盛期ですが、そのずっと前、ミュールハウゼン時代からカンタータの創作を始め、「キリストは死の縄目につながれたり」はこの時期のもので、バッハ22歳の頃のもので若い時分の作品です。

若い作曲家にたがわず、実に重々しく充実した内容のカンタータ。
悲劇臭極まりない冒頭シンフォニアに始まり、ルターのコラールを全編に採用し、それを変奏したものを続けるという構成。
前半は「死」という言葉が文字通りに横溢し、後半は生命と死、過越しの子羊に十字架、さらに明るき光明、信仰の生命、ハレルヤと続く。
暗から明、信仰への清き思いという礼拝につながるバッハのカンタータの姿が、若い作品のここにもしっかりある重厚な音楽です。

リヒターの厳しい眼差しを伴った指揮は、ここカンタータでも、マタイやミサ曲の演奏と同じく。
峻厳なバッハには、かねてより襟を正さざるをえませんし、そうした聴き方をずっとしてきた自分。
高校時代からリヒターのバッハを聴いてきて、いつも同じ思いです。
フィッシャー=ディースカウの独唱も、リヒターとバッハをともにするときは、歌いすぎず、巧さもほどほどに、堅実な歌に徹します。
バッハの演奏スタイルは、古楽・古典のそれと合わせて大きく変化して、それぞれが共存している現在、リヒターのバッハにはドイツ音楽としてのバッハを感じさせる気がする。
それもかねての良きドイツ。

Zoujyouji-e

 コロナ緊急事態中は、手水は水を張らずに無味乾燥な存在でしたが、こうして桜を反映させる今、美しいです。

Bach-suzuki-44

 バッハ カンタータ第146番 BWV146

  「我らは多くの苦難を経て神の国に入るべし」

   S:レイチェル・ニコルズ
   CT:ロビン・ブレイズ
   T:ゲルト・テュルク
   B:ピーター・コーイ

 鈴木 雅明 指揮 バッハ・コレギウム・ジャパン
       
    (2008.9.18~22 @神戸松蔭女子学院大学チャペル)

復活節:復活後第3日曜日

ライプチヒ時代、1726~28年の作品で、41~43歳の充実期。
バッハお得意の自作からの引用を冒頭の大きなシンフォニアからいきなり大胆に行ってます。
チェンバロ協奏曲ニ短調 BWV1052からのもので、チェンバロはオルガンにまんま代用されていて、鮮やかなオルガン協奏曲みたい。
次ぐ第2節の合唱も、同じ協奏曲の2楽章からのものです。
ちょっとドラマチックでもあるこのシンフォニアに、礼拝に訪れた信仰の深い聴き手は、ワクワク感と幸福感に冒頭から満たされ引き込まれたことでしょう。
ここでも、暗から明、苦しみから信仰の喜びという流れがこのカンタータでも構成の基本です。
4人のソロがそれぞれに活躍する規模の大きなカンタータでもあります。
第3曲でのオルガンソロでのアルトはふるえる心と、苦しみから抜け出そうとする高揚する面持ちが歌われる。
つぎのソプラノによるレシタティーボは、福音を語りますが、ヨハネ伝16章20節「よくよくあなた方に言っておく。あなた方は泣き悲しむが、この世は喜ぶであろう」
次ぐ同じソプラノのアリアが美しく素晴らしいと思う。
フルートとオーボエダモーレを伴った落ち着いた雰囲気を伴いつつ、悲しみとともに、種を蒔き、やがて訪れる刈り取りの収穫へと楚々と思いをはせるアリアであります。ここでのニコルズの無垢の歌唱がよい。
やがて、テノールとバスによる喜びにあふれた二重唱は、これまた礼拝堂に集う信仰者の気持ちを高め、明るい思いに満たしたことでしょう。
リズム感あふれるオケに乗って、屈託のない歌は気持ちのいいものです。

今ではすっかりスタンダードになった日本の演奏家によるバッハが、世界でもバッハ演奏の最高のもののひとつとして受け入れられる時代が来ようとは、リヒターのバッハを金科玉条のように思っていた若い時分の私には想像もつきませんでした。
永年の経験と深い探求に裏打ちされたこの精緻なバッハは、繊細で清潔であり、しなやかです。
リヒターのバッハのあとに、鈴木バッハを聴くと、リヒターに聴かれる強烈なバッハへの帰依ともいえるような強靭さのようなものは感じられず、そのかわり、優しく柔和、でも細やかな思いが行き届いているバッハに感じられる。
こんなこと言うと変ですが、農耕民族である日本人のバッハみたいに思いますがいかに。

半世紀の隔たりがあるバッハ演奏。

でもどちらもバッハ。

Zoujyouji-f

| | コメント (4)

« 2021年3月 | トップページ | 2021年5月 »