« ビゼー 「カルメン」 マゼール指揮 | トップページ | ロッシーニ 「ランスへの旅」 アバド指揮 »

2021年6月20日 (日)

シューマン リーダークライスop.39 FD&コノリー

Chisyakuin-02

京都の雨。

新緑の紅葉、雨の雫、ほんとうに美しかった。

秋もいいけど、この時期の日本の古都は静寂もあってすばらしいです。

Chisyakuin-01

真言宗智山派、総本山の智積院。

おりからこの時期、誰もいない。

長谷川等伯一門による国宝の障壁画も、ゆっくりと鑑賞することができました。

梅雨の昼下がり、雨音のなか、シューマンの歌曲を。

Schumann-fd-1

 シューマン リーダークライス op.39

    Br:ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ

    Pf:クリストフ・エッシェンバッハ

       (1976.4 @ベルリン)

Schumann-connolly-1

    Ms:サラ・コノリー

    Pf:ユージン・アスティ

       (2007.12 @ダンウィッチ、サフォーク州)

シューマンの歌曲集という名の「リーダークライス」。

ハイネの詩による作品24、アイヒェンドルフの詩による作品39のふたつの連作歌曲集があります。

ともに、1840年、「歌の年」に作曲された。

この驚くべき年に、シューマンは歌曲集をふたつのリーダークライス以外に、「ミルテの花」「詩人の恋」「女の愛と生涯」の5つを作曲。
他にも大半の歌曲を残したから、その集中力たるや!

よく言われるように、歌曲集は2つしか残さなかったシューベルトは、水車小屋や冬の旅のように、ドラマ性のあるわかりやすさで、歌手にも聴き手にも大いなる人気がある。
しかし5つも歌曲集を残しながら、シューマンの方は「詩人の恋」を除いて、物語性が薄く、個々の歌曲が独立して存在してする感。
それぞれも複雑な心理を宿していて、そこに分け入って聴きこむのは、なかなかに難しいものと感じます。
かくいうワタクシも、「詩人の恋」は数多く聴いてるし、コンサートも体験し、脳内で歌えちゃったりもします。

今回、作品39のリーダークライスを聴きこんで思ったのは、この歌曲集には「筋」がしっかり一本あり、さまよう自我とでもいえる孤独な深層が描かれているということ。
そもそもアイヒェンドルフの詩がそうだし、そこにつけたシューマンの音楽が哀しくも明るく、慎ましくも大胆であるという、複雑な様相を呈している。

F=ディースカウ、コノリー、あとオアフ・ベア、などの手持ち音源を何度も繰り返し数日聴いた。
わかったつもりでも、いや、やはり解明できないシューマンの音楽とその心情。

 1.「異国で」  2.「間奏曲」      3.「森の語らい」  4.「しずけさ」

 5.「月夜」   6.「美しい異国」    7.「古城から」   8.「異国で」

 9.「悲しみ」  10.「たそがれどき」11.「森のなかで」12.「春の夜」

いきなり、異国の地に紛れ込んでしまう第1曲。
ここからすでに、孤独と向き合わなければならないことに気づかされる。
この冒頭の歌曲は、当初「楽しい旅人」という別の歌曲がここにあったが、のちに今の「異国で」に変えられたという。
さあ、旅が始まりますよー、ではなく、いきなり異国に自分を置くことで、よりシリアスな内容になっていて、聴き手もただならない雰囲気に、即入り込むこととなります。
この1曲目の雰囲気が、もうこの歌曲集の全体を物語っているかのよう。

父も母も世を去って久しく、故郷では自分を知らない人が多い。
その先、僕という自分は、ずっと異郷にあってさまように、ときに恋人を思い、ときにローレライと語り、静けさのなかに海のかなたに思いをはせ、月夜には翼を広げて故郷に帰るという思いを綴る。
 そう、ともかくこの異郷から抜け出そうともがく自分なのである。
シューマンの散文的かつ、どこか後ろ髪ひかれる、ため息まじりの音楽は、その歌もピアノも各曲短いながらも極めてロマンティックである。
そしてガラス細工のように、細心の注意でもって扱わないと壊れてしまいそうで、デリケートな音楽。

古城にたたずみ、老騎士と眼下をゆく婚礼の舟を眺める。
詩の内容が映像となって脳裏に浮かんでくるような、そんなF=ディースカウの巧みな歌も手伝って、シューマンの紡いだ詩のなかの自分は異国であてどなくもがいている。
ナイチンゲールの歌声、深い森、小川のせせらぎなど、自分をとりまく自然の描写も美しい。
夜の闇も友のように感じる暗い歌、だがしかし、ことは急展開に起こる。

最後の12曲目、わずか1分あまりの歌のなかで、春は訪れ、月も星も森も、そしてナイチンゲールも祝福してくれる。
あのひとは、あなたのもの、と。
鮮やかなる異郷からの帰還に、シューマンの歌のマジックを体験した思い。
だがしかし、どこか心残りな気分もある。
これがシューマンの世界なのだ。

微に入り細にいり、言葉に乗せるF=ディースカウの絶妙な歌唱は、シューマンの音楽にぴたりと来る。
シューベルトを歌うとき、巧すぎて疲れてしまうことがあるが、シューマンのときには言外の思いまでも語るようなサービス精神が、リアル感を伴って切実な音楽となってしまう。
そんな歌に、完璧に同化してるし、さらに雄弁でかつ繊細なのがエッシェンバッハのピアノ。
歌の前奏と後奏が、こんなに聴かせるピアノってない。

サラ・コノリーの歌に切り替えると、耳が驚く。
一体、おんなじ曲集なのだろうか?
F=ディースカウの場合、自分は「私」や「俺」なんだけど、サラ・コノリーの場合はは、自分は「僕」なのだ。
フレッシュであり、中性的、しかもニュートラルな謡い口は、過度の感情注入は少なめで、さらりと聴きやすい。
コノリーさんは、昨年のオペラストリーミング大会で、ヘンデルのオペラでとても感心し、気にいったイギリスのメゾ。
そのあと聴いた、マーラーの「大地の歌」もとてもよかった。
男前なタカラジェンヌみたいなイメージのコノリーさんだけど、その声はとても優しく、スッキリ深いです。
ディースカウのあと聞いちゃうと、ドイツ語がやはり英語圏の人らしく軽く感じ、ピアノのコクもエッシェンバッハの比ではありません。
でも、コノリーさんのシューマン好きです。
併録の「女の愛と生涯」も素敵なものでした。

Chisyakuin-06

しっとりと雨に濡れた苔むした庭園。

時間が止まったような空間でした。

|

« ビゼー 「カルメン」 マゼール指揮 | トップページ | ロッシーニ 「ランスへの旅」 アバド指揮 »

コメント

またお邪魔いたします。サラ・コノリーは未聴なのですが、'90年代半ばからナタリー・シュトゥッツマンでシューマンの歌曲を一通り聴きました。エラートとBMGにまたがりましたが、一応リファレンス的に馴染みました。「詩人の恋」はやはりヴンダーリヒが真っ先に思い出されます。今年は「美しい五月」が周囲には見当たらなかったような。

ところでご存知でしょうが、'82年まで発行されていた「ステレオ芸術」(ラジオ技術社)で一時期「夢のレコード」なるカヴァーストーリーがあり、ある月「F=ディースカウ女心を歌う」と題してA面に「女の愛と生涯」、B面に日本の演歌(!)という企画がありました。さすがに実現せず夢のまた夢でしたが(笑)。また前回お伝えしたマゼール指揮「トスカ」、F=Dの訃報に接した日に注文したのでした。記憶違いしておりました。

一時期、読者から企画を募っていて、気まぐれに応募して採用され表紙を飾ったことが。何とも気恥ずかしい代物でしたが(無論実現せず)。思えばみな遠い昔の出来事で…。

投稿: Edipo Re | 2021年6月21日 (月) 05時42分

Edipo Re さん、こんにちは。
シュトゥッツマンのシューマン、聴いてみたいです。
彼女の声ならシューマンに似合ってますね、最近は指揮者になっちゃったみたいですが。
ヴンダーリヒとあと、プライもいいですね。

ステレオ芸術(ステ芸)はときおり買ってました。
夢のレコード、ありましたね。
FDの演歌なんて、FDさんなら頼んだら歌ってくれそうで、考えただけで楽しいですね!
 実家にあるステ芸の表紙は、たしかフレーニのメリー・ウィドウだったか、なにかでして記憶が薄いですが。
遠い昔、そうです、ほんといい時代でした。

投稿: yokochan | 2021年6月23日 (水) 08時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« ビゼー 「カルメン」 マゼール指揮 | トップページ | ロッシーニ 「ランスへの旅」 アバド指揮 »