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2021年7月

2021年7月23日 (金)

これでもかとばかりに「ローマの祭り」を聴いてしまう

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みたままつりで、毎年展示される、青森ねぶた。

今年も、青森のねぶたまつりは中止。

G

こちらは、弘前ねぶた、お隣に展示。

五所川原も有名だし、大湊など、ほかの地域に独特のねぶたがあるそうで。

東北の祭りは、日本人の心に夏の刹那的な輝かしさと郷愁とを呼び覚まします。

そして日本の各地、自分の町々にもいろんなお祭りがある。

それらがみーーんな中止。

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担ぎ手は鬱憤がたまるし、神輿も手持ち無沙汰にしか見えない。

祭りを返せーーーーーーーっての!

ちきしょー、日本じゃないけど、レスピーギの「ローマの祭り」をめちゃくちゃ聴いてやる、ってことで。

手持ちの音源を、全部じゃないけど、1週間かけて聴いてやったぜ、の巻だ、こんにゃやろー。

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いきなり金管の大咆哮で始まる「チルリェンセス」はローマ時代の暴君の元にあった異次元ワールドの表出。

キリスト教社会が確立し、巡礼で人々はローマを目指し、ローマの街並を見出した巡礼者たちが喜びに沸く「五十年祭」。

ルネサンス期、人々は自由を謳歌し、リュートをかき鳴らし、歌に芸術に酔いしれる「十月祭」。

手回しオルガン、酒に酔った人々、けたたましい騒音とともに人々は熱狂する。キリストの降誕を祝う「主顕祭」はさながらレスピーギが現実として耳にした1928年頃の祭の様子。

(以上、過去記事より)

名盤云々とするのは好きでないので、印象を書き散らすのみ。

・トスカニーニ&NBC 
  鋼のような演奏。無慈悲な祭りの熱狂を正確無比に描き出す。
  モノなのに、そんなハンデはこれっぽちもない。

・デ・サバータ&ベルリンフィル
  当然にモノで放送録音、ヒス多し。
  こちらもBPOだけあって正確無比ながら、テンポを動かし、早くて遅い。
  ラストは悠揚迫らぬ雰囲気。
  ベルリンフィルはこの曲の録音ないかも?

・オーマンディ&フィラデルフィア(RCA)
  録音のせいか、きらびやか、あ、この時代のこのオケだからか?
  間合いの取り方や、大仰さがやや時代めいて聴こえるという不遜な思いも
  でも、各処決め所はさすがで、王道を行く演奏

・バーンスタイン&ニューヨークフィル
  荒馬のようなNYPO、デフォルメされた金管、おどろおどろしくもあり。
  官能の極み興奮の坩堝もあり。
  ジェットコースターだよ、おっかさん
  たのしーよ、おとっつあん。

・マゼール&クリーヴランド
  大向こうをうならせるような原色系の演奏。
  おらおらと煽られもするが、でも以外に沈着だったりする。
  聴かせ上手で、指揮しながら、客席に向かってどうよ?
  ~って言いそうなマゼールさんの指揮、好き。
  オケがめちゃウマい、録音もいい。

・デュトワ&モントリオール(1982)
  ビューティフル!テンポもよろしく、しなやか。
  録音も演奏と同質的な美的なもの。
  うまいもんだ。しかしウネリは少なめ、どこまでも美しい。
  N響でお馴染みの指揮ぶりが思い浮かぶ。

・デュトワ&ボストン響、ロイヤルフィル(2014)
  ともに2014ライブで、タングルウッドとPromsの自己エアチェック音源。
  32年の歳月は確実に音楽の構えの大きさにあらわれてる。
  堂々としつつも、強靭な響きと華やかな煌めきもあり。
  ボストン響の充実ぶりが上回る。
  RPOはプロムスの独特のあげあげムードの後押しもあり。
  ともに、一気に3部作を連続演奏。

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・小澤征爾&ボストン響
  アナログ時代のざーさんの代表盤。
  レコードのこのジャケット好きだった。
  ヨーロピアンなBSO。
  品もありつつ、しなやかで、バランスのいい美しい演奏。
  ラストに、そんなにはっちゃけず、冷静なままに終了。
  オリーブオイル垂らした味噌汁うまいよ、ジャポネーゼ!

・シノーポリ&ニューヨークフィル
  自分に音楽を引き寄せたレニー&NYPOとは違った冷静さ感じる
  録音のせいもあるが、パンチは効いてるし音の圧も高い。
  五十年祭はかなり深刻で気が重たくなるが、後の解放感が心地よい。
  面白いコンビだな、ドレスデンでも聴いてみたかったぞ。

・ヤンソンス&オスロフィル
  濃い味少なめ。
  パートの絡み、音の出し入れ、強弱が実に巧みで、メリハリありうまい。
  これも語り上手な演奏だが、後年にバイエルンで再録して欲しかった
  
・ガッティ&ローマ聖チェチーリア
  これはいい。
  譜面に忠実に、細大漏らさず音にした感じ。
  着実で堂々としつつ、繊細さ甘味さもあり。
  ホルンがめちゃうまい。
  ラストの自然な盛り上げにオジサン興奮、ふがぁーー

・マリナー&アカデミー・セント・マーティン
  90年代、アカデミー増強で、大オーケストラレパートリーを録音していた
  あっさり、うす味ローマ祭り、歳取ると、こんなローカロリーが好き。
  10月祭の透明感ある美しさは格別♪

・ルイージ&スイス・ロマンド
  伝統のオケを指揮したルイージ、若い。
  冒頭からガンガン結構行くが、10月祭ではしっとりと弱音を活かした美演。
  ラストはすさまじい熱狂ぶりであります。
  ヴェルディみたいなローマ祭り。
  
・パッパーノ&ローマ聖チェチーリア
  小粋でスマート。しゃれっ気もダイナミックさも兼ね備えてる。
  オケは明るく痛快だ。
  煌めくサウンド、ローマの地下での神妙な祈り、鼻歌混じりのセレナード
  最後は爆発的な祭典へ。いぇ~い!
  最高だぜ、パッパーノ兄貴!

・ファレッタ&バッファローフィル
  おなご指揮者ファレッタさんは、レスピーギや後期ロマン派。
  加えて、英国物もお得意だ。
  オケの力量もあろうか、ちょっとした詰めは甘いところがある。
  しかし細部は美しく、よく歌ってる。
  爆発力も兼ね備え、さすが、アメリカオケを感じる。
  バッファローはアメリカ北部、エリー湖に面した都市。
  いずれアメリカオケ旅で取り上げます。 

※世評高いムーティさんは持ってません(意味深)
でも、バイエルン放送とのライブ放送を自己音源で聴いてますが、一気呵成、ラストスパートよしの演奏でした。
あと、放送音源では、ウェルザー・メストとクリーヴランドの快速特急ローマ祭りも面白い。
バッティストニーニ&東フィルの激熱ぶりぶり放送ライブも好き。
最近では、ジョン・ウィルソンとBBCスコティッシュのものが、ビジュアル感あふれる演奏で気にいりましたね。
バティス盤がどっかいっちゃって見当たらない

未入手CDでは、怖いもの見たさでスヴェトラーノフさんですかねぇ。
アバドは絶対に振らなかったレスピーギ。

無謀な企画に、正直疲れましたが、それでも何度聴いても面白い曲だ。
クソ暑い夏向きの音楽。

それにしてもレスピーギの音楽はなんでもありで、しかもよく書けてる。
オペラ収集中につき、そちらも再開しなくちゃならない。
時間が足りない・・・

H

2年前の祭り。
あのときの熱狂はもう戻らないのか・・・・

「祭」で耳が疲れたら、「松」のジャニコロ・ナイチンゲールで癒され、「泉」のほとりで涼もうじゃないか。

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2021年7月18日 (日)

バレンボイムの欧・露音楽

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靖国神社の「みたままつり」2021、お詣りしてきました。

昨年は中止、今年は出店や音楽舞台、神輿などの奉納行事は一切なく、美しい幻想的な提灯と懸雪洞のみ。

立錐の余地のなくなるこれまでと違い、静かな境内は落ち行きあるものでした。

梅雨明け前夜、ほのかな月も美しかったです。

特に、この期間のみ、宮の中庭も拝観・参拝できまして、普段は入ることのできない場所だけに貴重な体験もできました。

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仙台から奉納された七夕飾り。

今年は短くなり、しかし、よく見ると千羽鶴なんです。

中庭参観で授かった呼鈴守りには、「この国難に、一日も早い感染症の終息を祈念致します」とありました。。。

ほんとそう、みたままつりは、新入社員時代の会社が至近にあったのでそのときから行ってました。

あのときの賑やかさが戻ることを・・・・・

 さて、音楽の方は賑やかに、若きバレンボイムに誘われて、旅気分でいきましょう♬

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  R=コルサコフ スペイン狂詩曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1977.3 @オーケストラホール、シカゴ)

シカゴの音楽監督になるまえに、70年代後半に、DGへヨーロッパとロシアの音楽を特集したレコードを数枚録音しました。
私はロシア盤だけレコードで購入し、他はCD時代になって聴きました。
 ということで、まず、第1弾のロシアへまいりましょう。

「はげ山」「ダッタン人の踊り」「ロシアの復活祭」「スペイン狂詩曲」の4曲。
これがまあ、明るくて楽しくて、レコードの鳴りもよくて大学生だった自分は毎日聴いたものです。

ロシアの憂愁やおどろおどろしさ、暗さなどは皆無。  
あっけらかんと、どっかーーんと、大音量で楽しむに限る。
シカゴの名人芸を、35歳の若きバレンボイムが、自ら楽しむがこどく堪能してる感じであります。
バレンボイムは、以外やロシアものが得意。
ことに、オペラを存外に好んで指揮していて、コルサコフだと「皇帝の結婚」、「エウゲニ・オネーギン」、プロコフィエフの「賭博者」に「修道院での婚約」なども取り上げてます。
いずれも、ロシアというか、ドイツ目線の演奏に感じますが、才気あふれる指揮であることには変わりなく、多彩な人だと実感。

シカゴの録音はDGのものが一番好き。
当時のデッカはメディナテンプルで、DGはオーケストラホール。
音の分離の良さや重厚さではデッカ、響きの良さとやや乾いたホールトーンも楽しめる雰囲気があるのはDG。
そんなイメージをずっと持ってます。
この時期の、アバドやジュリーニの録音もそうですね。
 バレンボイムとシカゴは、後にエラートに録音するようになりましたが、演奏も録音も、DG時代の方がはるかに好きです。

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  ブラームス ハンガリー舞曲第1、3、10番

  ドヴォルザーク スラヴ舞曲 op.46-1、8

  ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1977.11 @オーケストラホール、シカゴ)

これまたシカゴのゴージャスサウンドが楽しめるけれど、こうして聴くとやはり、ブラームスはバレンボイムの性に合ってる感じ。
東欧音楽の1枚は、あと、「モルダウ」と「レ・プレリュード」が併録されてます。
リストもバレンボイム向きなだけに、なかなかシリアスな名演になってます。
アンコールピースみたいないずれの曲だけれども、真剣勝負のシカゴはここでもすごい。
ハンガリー舞曲では、独特のうねりのような情念も感じられ、オケももしかしたら古き良き過去の大指揮者を思いつつ懐かしんでる風情があり。
一方のスラヴ舞曲は、構えが大きく、チャーミングさ不足か。しゃれっ気が欲しいくらい。
そういえば、バレンボイムはドヴォルザークを振りませんね、新世界すらない。

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  メンデルスゾーン 「真夏の夜の夢」序曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 シカゴ交響楽団

      (1979.3 @オーケストラホール、シカゴ)

ドイツ名曲集は、この「真夏の夜の夢」に加えて、「フィガロ」「オベロン」「舞踏への勧誘」「ウィンザーの陽気な女房たち」そして、シューマン全集から「マンフレッド」序曲が加えられてます。
さすがにドイツものとなると、バレンボイムとシカゴの面目躍如で、どっしりと構えつつ、堂々たる音楽の運びで充実してます。
フィガロやウィンザーには、より軽やかさを求めたくもありますが、オベロンと真夏の夜は、ロマンティックでドイツの森を感じさせ、単体で聴くオーケストラピースとしては完結感にもあふれていて実に気分がよろしくなります。

ちなみに、この録音の5年後に、シカゴ響はレヴァインとこの作品を録音してますが、そちらは軽やかで威勢のよさを感じます。
バレンボイムは、より堂々としていて、重たいです。
ワーグナーもこの時期、のちのエラートの時代でなく、シカゴで録音して欲しかったものです。

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  サン=サーンス 交響詩「死の舞踏」

 ダニエル・バレンボイム指揮 パリ管弦楽団

      (1980.10 @パリ)

1975年にパリ管の首席に就任していたバレンボイム。
当然のように、フランス管弦楽作品は、パリ管。
しかし、寄せ集め感があって、既存録音のサムソンとデリラやベルリオーズなどからチョイスされてます。
「ローマの謝肉祭」「ベンヴェヌート・チェッリーニ」「ノアの洪水」「サムソンとデリラ」「魔法使いの弟子」などが収録。
シカゴから順番に聴いてくると、ここで明らかにオーケストラの毛色がまったく変わったのがわかります。
もちろん、録音の違いも大きいですが。
サラッとしてて、しなやかなサウンド。
バレンボイムの指揮ですから、重心はやや下にありますが、ヨルダノフのヴァイオリンソロも含め、木管のさりげないひと吹きも色艶があって、魅惑的です。
ドビュッシー、ラヴェルやフランク、ベルリオーズなど、パリ管時代に残してくれた数々の録音は、いまや達観の域にあるバレンボイムの若き貴重な遺産だと思いますね。

 しかし、パリ管は、フランス人指揮者が首席にならないし、毎回、よく変わります。

ミュンシュ→カラヤン→ショルティ→バレンボイム→ビシュコフ→ドホナーニ→エッシェンバッハ→P・ヤルヴィ→ハーディング→マケラ

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 ディーリアス 「春はじめてのかっこうを聞いて」
        「川の上の夏の夜」
         2つの水彩画
        「フェニモアとゲルダ」間奏曲

 ダニエル・バレンボイム指揮 イギリス室内管弦楽団

      (1974.5 @ハンブルク)

音楽旅は、大好きな英国へ。
パリから、ロンドンに着くと、音楽も演奏も、1枚ヴェールがかかったように、くすんでいる。
本格的な指揮活動は、イギリス室内管と。
いうまでもなく、モーツァルトの弾き振りからだったのですが、EMIで徐々にレパートリーを拡張。
「浄夜」と「ジークフリート牧歌」にヒンデミットを組み合わせた1枚なんて、最高だった。
ベルリンでも録音したエルガーを除くと、英国音楽の録音は、この1枚と、RVWの協奏曲のみかもしれない、ましてディーリアスはありえない。
「グリースリーヴス」「揚げひばり」、ウォルトン「ヘンリー5世」が併録。
のちに、RVWのオーボエとチューバの協奏曲も録音。

室内オケでありながら、恰幅のよさはバレンボイムならではですが、ひたすらに肩の力を抜いて慎ましい演奏に徹しているのがよかった。
時節柄、「川の上の夏の夜」に「水彩画」、「フェニモア」がことさらによろしく響き、窓から入り込む夏の風もどこか爽やかに感じるがごとくでありました。

指揮者としての日本デビューは確か、1971年で、こちらのイギリス室内管と。
モーツァルトを中心とするプログラムで、髪の毛はもじゃもじゃだった。
その時に、N響にも来演し、ズッカーマンとメンデルスゾーン、チャイコフスキーの4番を指揮してます。
テレビで見ましたが、あの時の指揮はよく覚えてます。
 http://wanderer.way-nifty.com/poet/2006/09/post_4a42.html

あのときのごりごりした指揮ぶりとは別人の神妙さ。
懐かしい郷愁の響きもここでは感じます。
バレンボイムも若かった、イギリスのオケも味わいがあった・・・・

先ごろも、ピアノストとして来日し、ベートーヴェンを聴かせてくれたバレンボイム。
78歳、まだまだ活躍しそうな感満載のずっと精力的なこの芸術家は、音楽史上まれにみる存在であります。
ベルリン・シュターツカペレとは、もう40年近くになります。
また、このオーケストラを率いて来演して、オペラも含めて指揮をして欲しいと熱望します。

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心落ち着く日がともかく恋しい。

若きバレンボイムによる音楽旅、楽しかった。

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2021年7月11日 (日)

R・シュトラウス 「火の欠乏」 シルマー&フェッロ

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雨の日の前日の空。

夕焼け好きのワタクシです。

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少し時間を経過して。

このあと、東京タワーのライトアップが引き立つ時間、好き。

本blog、二度目のシュトラウスのオペラ全作シリーズ。

第1作「グントラム」に続き、2作目の1幕オペラ「火の欠乏」。
私は、この作品がフリッケ盤で出たときから、Feuersnot、火がないことことから、「火の欠乏」と呼んできました。
ほかにも、「火の飢餓」「火の危機」とかも呼ばれますが、日本シュトラウス協会では、「火の消えた町」と称しているそうで、このオペラの内容からしたら、そちらがまさにピタリとくるものです。
ですが、ここでは、自分が長く親しんできた名前で行きます。

1901年、シュトラウス37歳の作品で、全作の「グントラム」からは9年の歳月が流れてます。
この間、多くの歌曲や、高名な交響詩、ティル、ツァラトゥストラ、ドン・キホーテ、英雄の生涯などを書き上げていて、そうオーケストレーションの達人にもなり、かつ歌に対しても名手の域に達していて、さらに指揮者としても大活躍だったシュトラウスなのです。

ワーグナーの虜が書き上げたような、素材ともに、もろにワーグナーの影響下にあった「グントラム」。
ここ「火の欠乏」では、ワーグナーを腐した町、ミュンヘンを揶揄する内容において、ワーグナーの素材などがパロディーとして使用されているが、ワーグナーの神話的な世界や、分厚いオーケストラ、半音階的な和音などは、ほぼありません。
響きは明るく明晰で、これはずっと後年まで続くシュトラウス独自に明朗な音楽に共通です。
美しく、思わず身体が動いてしまうようなステキなワルツもあるし、一度聴いたら忘れられないフレーズなどたくさん。
さらには、主役のバリトンの長大なモノローグは、後続のオペラで、ソプラノやバスが担うことになる、味わい深く、教訓や人生観をも感じさせるものがあります。

しかし、完成されたスコアの最後には、「全能者に敬意を表し、その誕生日に完成。1901年5月22日、ベルリンにて」とあります。
そう、5月22日は、ワーグナーの誕生日です。
あくまでワーグナーへのリスペクトは変わらなかったシュトラウスです。

「火の欠乏」から4年後には、「サロメ」が生まれますが、明るいメルヘンのあと、バラの騎士でなく、サロメやエレクトラに行ったのは、これもまたシュトラウスの音楽の変遷を思う中で面白いことです。
ひとつには、ホフマンスタールとの出会いも大きいことかと。
あとは、批判を恐れない、大胆な芸術家としてのシュトラウスの在り方。

「火の欠乏」は、ベルリンで作曲されたとき、当局から検閲を受けてます。
「サロメ」はもちろん検閲騒ぎになったわけですが、穏健な音楽の「火の欠乏」だったのですが、ヴォルツーゲンが書いた台本には、バイエルン地方の方言がそのままに用いられていて、なかには当時、猥雑な内容ともされたものだったからです。
シュトラウスは、ミュンヘンへの揶揄をこうした部分でも表しているのです。
 検閲後、ベルリンで初演されたが、7回ほど上演されたのち、ドイツ国の皇后が、つまらないと指摘したこともあり、上演は幕引きとなってしまった。

サロメ以降ばかりが、上演されるのに、「火の欠乏」は、音楽だけをとれば見逃せないシュトラウスらしい作品だと思います。
 クンラートの大演説にリングのライトモティーフが出てきたりして、とても神妙となります。
そのあと、火が町に戻ってくる場面の音楽のすばらしさといったらありません。
目頭が熱くなりました・・・・

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舞台はミュンヘン。今日はお祭り、「火祭の日」である。
子供達が楽しそうに歌いながら、町を練り歩く(呪文のような謎のセリフ)。
市長の娘ディムートは「結婚しない女」で、遊び仲間の女3人と子供達にお菓子をくばったりしている。
街の変わり者クンラートは、ボサボサの髪、むさ苦しいなりで自宅で本に没頭していて、今日が祭りの日ということを知ってかしらないか。
「燃え盛る火を二人して飛び越えると愛が成就するよ」と子供たちから、祭の伝説を聞かされ、すっかりその気になって夢中になってしまう。
調子に乗って「ディムート」に愛を告白して、ついでにキスまでしてしまう。
これには、町中大受けで、たくさんの人からディムートは囃され、笑いのネタにされてしまい、恥ずかしさのあまり、家に飛び込んでしまう。

ディムートは口惜しくてくやしくて、お返しをしようと思っていると、バルコニーの下にクンラートが現れる。
作戦ながら彼をすっかりその気にさせて、思わず熱烈な2重唱が歌われる。
クンラートは、感極まって上にあがりたがり、まんまと籠にのる。

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バルコニーに向けてするすると持ち上がって行くが、ディームートによって途中で止められてしまう。
ディムートは、街中の人を呼び集め、籠の中の宙吊りのクンラートは、さらしものにされ、物笑いの種となってしまった。

騙されたと知った彼は、頭にきて街の火や明かりを消してしまう呪文を唱える。

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ミュンヘンは、真っ暗闇になってしまった。

人々は、クンラートに助けを請い、またディームートのバカげた行為を非難し、彼女に謝るように、そして彼のもとに行くようにと嘆願する。
 ここでクンラートは、ついに世紀の大演説をぶつ。
「火祭のほんとうの意味を理解していないから、こうして暗闇が訪れるのだ。
かつてミュンヘンは偉大なマイスター(ワーグナー)を冷遇した、そしてシュトラウスもだ。」
このあたりで、ヴァルハラの動機まで出てくるし、シュトラウスの作品の旋律もチラチラする。
こんな意味のことを比喩をまじえながら、ちくちくと町を揶揄して人々を諭すように歌う。
 明かり(火)も愛も、唯一女性からもたらされるのだ、と歌い最後は二人仲良く抱き合う。

              幕

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  R・シュトラウス 歌劇「火の欠乏」 op.50

   ディームート:シモーネ・シュナイダー
   クンラート :マルクス・アイヒェ
   シュヴァイカー・フォン・グンデルフィンケン
   (城の廷士):ロウヴェン・フトハー
   オルトロフ・ゼントリンガー
   (城主)  :ラース・ヴォルト
   エルスベート:モニカ・マスクス
   ウィゲリス :サンドラ・ヤンケ
   マルグレート:オレナ・トカール
   ヨェルク・ペーシェル:ヴィルヘルム・シュヴィンクハマー
   ヘーメルライン:ミヒャエル・クプハー
   コーフェル :アンドレアス・ブルクハルト
   クンツ・ギルゲンストック:ルートヴィヒ・ミッテルハマー
   オルトリープ・トゥルベック:ソン・スン・ミン

  ウルフ・シルマー指揮 ミュンヘン放送管弦楽団
             バイエルン放送合唱団
             ゲルトナープラッツ州立劇場少年少女合唱団

     (2014.1.24,26 @プリンツレゲンテン劇場、ミュンヘン)

ハインツ・フリッケ盤以来29年ぶりの「火の欠乏」の録音。
同じ、ミュンヘンでの録音で、オーケストラも同じなところがおもしろい。
そう、まさにミュンヘンゆかりの作品ゆえで、ワーグナーとシュトラウス自身に厳しかったミュンヘンでの録音しかないのもおもしろい。
しかも、このシルマー盤の録音は、ルートヴィヒ2世が、当初ワーグナーのために建設した劇場で行われてます!
このときの演奏会形式の模様がyoutubeで全曲視聴が可能です。
(https://www.youtube.com/watch?v=bplGSjUWQL0)

音質と画質は目をつぶるとして、この作品を手中にしたかのようなシルマーの練達の指揮ぶりと、大編制のミュンヘンの放送オケの実力のほどを感じさせます。
バイエルン放送響の影にかくれ、二軍みたいた存在に思われることが多いが、作品への順応性と、明るい音色と機能性の豊かさ。
管がものすごくうまいです。
CPO盤のこちらのCDは、音質も含め、下記のとおり歌手もよく理想的なもの。

歌手では、バイロイトの常連、名ウォルフラムのアイヒェの独り舞台。
素直なクセのない美声はのびのびとして、耳に心地いいし、言葉も明瞭で、かつてのプライの声を軽くしたような感じか。
聴かせどころ、「Feuersnot」と呼びかけるところ、ずばり、決まってますし、長大なモノローグも弛緩なく実に豊かです!
フリッケ盤のヴァイクルの声の印象が強すぎだが、このアイヒェの美声になれちゃうと、ヴァイクルの声は強すぎで、ザックスみたいに感じてしまうから困ったものだ。
 シュナイダーさんの、ディームートは、ちょっと高慢で空気読めない女性をよく歌いこんでいて、強い声も絶叫にならず、余裕があるのがいいです。
ほかたくさんの登場人物たち、本場での上演だけに、合唱・少年少女も含めて、みんなドイツ語がはっきりくっきりでよいです。

というにも下のDVDは、イタリア人たちの発声が明るすぎだったからなんです。

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  R・シュトラウス 歌劇「火の欠乏」 op.50

   ディームート:ニコラ・ベラー・カルボネ
   クンラート :ディートリヒ・ヘンシェル
   シュヴァイカー・フォン・グンデルフィンケン
   (城の廷士):アレックス・ヴァヴィロフ
   オルトロフ・ゼントリンガー
   (城主)  :ルーベン・アモレッティ
   エルスベート:クリスティーネ・クノッレン
   ウィゲリス :アキーラ・フラカッソ
   マルグレート:アンナ・マリア・サッラ
   ヨェルク・ペーシェル:ミハイル・リソフ
   ヘーメルライン:ニコロ・チェリアーニ
   コーフェル :パオロ・バッタギルタ
   クンツ・ギルゲンストック:パオロ・オレチーナ
   オルトリープ・トゥルベック:クリスティアーノ・オリヴィエーリ

  ガブリエーレ・フェッロ指揮 マッシモ劇場管弦楽団
                マッシモ劇場合唱団

                マッシモ劇場児童合唱団

        演出:エンマ・ダンテ           

     (2014 @マッシモ劇場、パレルモ)

まさかの劇場上演のDVDが出ました。
しかも、シルマー盤と同じ2014年の上演記録です。
この年は、シュトラウスの生誕150年。
よくぞ、映像作品として出してくれました。
劇の内容からして、イタリア人の好みそうなものだし。

日本語対訳が付いてないものの、おおまかな筋立てを理解していれば、ほぼ楽しめます。
時代設定は現代にしてるものだから、やたらとたくさん出てくる登場人物たちが、誰が誰やらわからない。

主役の男女と、女性の父(城主・市長)、女性の女友達3人、父の秘書的(城の廷士)なテノール、このあたりだけ押さえておけば大丈夫かと。
しかしながら、この女性の演出家、最初から最後までダンサーを多用して、舞台はどこもかしこもダンサーだらけで、脱いだり着たり、男もブラジャーしてるし、なにがなんだかわからんし、目障りなことおびただしい。
ただでさえ、ちょい役の歌手がいっぱいいるのに・・・

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 でも、ラスト、クンラートが魔法を解除し、火が町に戻ってきたとき、ダンサーたちがオレンジの布をたくさんヒラヒラさせて、舞台がオレンジに染まったとき、素晴らしい音楽とともに、ほんと美しいと思いましたね。
ディームートが皆にせがまれて、クンラートの元に行き、最後に2人の邂逅の証に「すばらしい真夏の夜よ、永遠にアイしてるーー」って歯が浮くように歌うんですが、この演出では、窓から出てきたとき、ひとりはブラジャー姿、もうひとりは上半身裸の胸毛姿。。。。
なんだかなぁ、そこまで見せる必要あるかい??
最終場面のファタジー感、がぶっとんだ・・・

D・ヘンシェルのFDばりの知的な歌は、その気難しい風貌とともに、この役になりきってサマになってました。
でも、アイヒェのすばらしさには敵わない。
カルボネさんのディームートは、もう少し色っぽいと舞台映えしたと思うけど悪くない。
ほかの人は、多すぎでなんだかさっぱりわからないけど、3人娘は楽しかった。
 指揮のフェッロは、ずいぶんとお歳を召したものだと思った。
ロッシーニ指揮者として80年代に活躍、あと以外にも、ツェムリンスキーも指揮したりもしてたから、シュトラウスもお得意なんだろう。
パレルモの明るいけれど、ドイツの響きとは全然違うオケピットの音色が、思いのほか新鮮です。
この劇場で、インキネンはリングを振ってますね。

お部屋で、こうしてオペラが視聴できちゃう幸せ。
昔なら考えられないことです。
劇場に行きたいけれど、なかなか難しいし。

ワーグナーとシュトラウス、プロコフィエフも交互に全作を取り上げ中、ついでにヘンデルとロッシーニも。
歳と残された年月を考えたら、こんな企画はもう最後かもね。

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2021年7月 3日 (土)

モーツァルト 交響曲第40番 アバド指揮

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ピークは過ぎましたが、日本の梅雨は、紫陽花。

小田原城の下には、紫陽花がたくさん咲いてました。

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幼稚園の遠足は、小田原城でした。

城内には、動物園があり、そう、日本最高齢のゾウとして平成21年に亡くなった「ウメ子」がまだまだ若かったころ。

なにもかも、セピア色の思い出です。

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  モーツァルト 交響曲第40番 ト短調 K.550

 クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

        (2009.6 @マンツォーニ劇場、ボローニャ)

アバド2度目の40番。
2004年にアバドによって創設された、オーケストラ・モーツァルト。
アバドは、この若いオーケストラと精力的にモーツァルトを中心に録音をしました。
交響曲とヴァイオリン協奏曲、管楽の協奏曲、ピアノ協奏曲と。
交響曲は、あと36番が録音されれば後期のものが完成したのですが、29番と33番が録音されたのはうれしい。

1990年代には、ベルリンフィルと、23,25,28,29,31.35.36番です。
1980年代は、ロンドン響で、40,41番、あとゼルキンとのピアノ協奏曲。
1970年代は、ウィーンフィルとあのグルダとのピアノ協奏曲。
この70年代に、ウィーンフィルと交響曲を録音して欲しかったものですが、デッカでケルテスが録音してましたし、DGはベームの晩年の記録を残すのに全力をあげてましたね。

年代によって、アバドのモーツァルトの演奏スタイルも大きく変わっていきました。
2000年以降、マーラー・チェンバーやモーツァルト管とバロックや古典を演奏するときは、ヴィブラートを極力排した古楽奏法を用いるようになりました。

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  モーツァルト 交響曲第40番 ト短調 K.550

 クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

      (1980.1.31 @聖ジョーンズ・スミス・スクエア)

26年の開きのある、ふたつのモーツァルトを聴いて、これが同じ指揮者によるものか?と思えるくらいに別物の演奏に聴こえます。

テンポは新盤の方が古楽奏法とあって早いが、2楽章と終楽章のくり返しを入念に行っているので、演奏時間は新盤の方がずっと長い。

 LSO(28'51"       Ⅰ.8'38"    Ⅱ.8'37"     Ⅲ.4'39"    Ⅳ.6'55")

   MO (35'05"       Ⅰ.7'48"    Ⅱ.13'34"   Ⅲ.3'57"    Ⅳ.9'46")

デジタル時代に入ったのに、ロンドン響との録音はアナログです。
その柔らかな音が、デジタル初期の堅い音でなかったのが本当にありがたい。
久しぶりに聴いて、即買い求めたレコードの印象でうけたキリリち引き締まった演奏であるとの思いはかわりません。
また数年前のblog記事とも、印象は同じ。
 <極めて、楽譜重視。それを真っ直ぐ見つめて、余計な観念や思いを一切はさまずに素直に音にしたような演奏
甘い歌いまわしや、悲しさの強調、熱さなどとはまったく無縁。
こんなに素直な演奏をすっきりしなやかにやられたら、聴く我々の心も緩やかな気持ちにならざるを得ない。
深刻な短調のモーツァルトを、胸かき乱して聴く方からすれば、この冷静な演奏には歯がゆい思いをするであろう。>

素直で自然体の演奏が、みずから語りだす音楽のすばらしさ。
凛々しくもみずみずしい、この頃から始まったマーラー演奏も、みんなそんな指揮ぶりだった。

しかし、モーツァルト管との演奏のあとに、ロンドン響を聴くと、そちらの方が細かなニュアンスが豊かで、繊細さもより感じたりもしたのだ。
客観的な演奏だと思い込んでいたロンドン響の録音。

モーツァルト管との演奏は、ほどよいピリオド奏法をとりながら、先鋭さは一切なく、しかもト短調という悲壮感や哀感はさらにまったくなし。
さりげなく、すぅーっと始まり、風が通り抜けるくらいにさらりと終えてしまう。
40番という曲に求めるイメージと大違いで、人によってはこちらの方が物足りなさを感じてしまうかもしれない。
全体に軽く、羽毛のように、ひらりと飛翔する感じなんです。
若いメンバーの感性に委ねてしまい、逆にメンバーたちは、アバドの無為ともいえる指揮に導かれて、おのずと若々しくも透明感あふれる音楽が出来上がることとなった。
ロンドンとの第2楽章も美しいが、モーツァルト管との長い第2楽章は、歌にもあふれ、楚々とした趣きがまったく素晴らしく、さざめくような弦の上に、管が愛らしく載っかって曲を紡いでゆくさまが、ほんとステキ。
ここ数日、寝る前に、この楽章を静かに聴いてから休むようにしてました。
アバドの作り出す音楽、2013年8月のルツェルンが最後となりましたが、そのあと、アバドが何を指揮し、どんな演奏を聴かせてくれただろうか?

さて、このふたつの40番、どちらが好きかというと、わたしはやはりロンドン盤でしょうか。
壮年期のアバドが、ロンドン、ウィーン、ミラノ、シカゴと世界をまたにかけて活躍していたころ、おごることなくたかぶることなく、こんな素直なモーツァルトを演奏していた。
あとなんたって、このレコードを愛おしく聴いていた自分も懐かしいから。
モーツァルト管の演奏は愛着という点でロンドン響に勝らなかった・・・・

これからもアバドのいろんな演奏は繰り返し聴いていきます。

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今年のアバド生誕週間は、ロッシーニとモーツァルトでした。

ことに、あんまり聴いてなかった、「ランスへの旅」はほんとうに面白かったし、自分にとっての新たな「アバドのロッシーニ」の発見でした。
願わくは、いろんな放送音源をいずこかで正規に音源化して欲しいものです。

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