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2021年9月

2021年9月25日 (土)

マーラー 交響曲第10番

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日はたってしまいましたが、9月9日は「重陽の節句」で、旧暦でいくと10月の半ば、その頃の旬のお花は「菊」。
5つあるお節句の最後にあるための行事で、この菊が使われたとのこと。
菊は、邪気を払い、長寿の効能があるとされたところから、重陽の節句でも邪気退散と長寿の願いを込めるとされているのだそうです。

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この日の東京タワーも、6色のカラーで、重陽の節句を祝うライトアップがなされました。

おりからの曇天。

低い雲に、タワーのてっぺんのオレンジ色の光が反映して、とても幻想的なのでした。

マーラー10番、自分のなかで、より理解を深めるため、たくさん聴き、自分のためにもまとめてみました。

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ベルクの「ルル」は、1935年のベルクの死により未完なり、残された3幕は、未亡人の反対を無視するように、密かに補筆完成され1979年に初演された。
その24年前の1911年、マーラーは10番の交響曲の総譜をスケッチ状態でをあらかた残しながら、51歳で亡くなる。
マーラーはアルマに、残したスコアを焼却処分するように言い残したとされますが、アルマはそうはせずに保有した。
このアルマの判断に、われわれ後世の愛好家はどれだけ感謝すればいいんだろう。

1924年、全楽章の自筆資料が出版。

アルマは、クルシェネクに補筆完成を依頼し、1楽章と3楽章だけが完成。

アメリカ人のカーペンターが1949年に全曲を完成、その後6稿まで修正を重ねる。

イギリス人ジョー・フィーラーは、1955年に補筆完成、さらに4稿まで進め、没したあとも第3者が新稿を96年まで手を加える。

イギリスの音楽学者、デリック・クックが、マーラー100年に向けた小冊子作製と10番のお試し演奏的なものにむけた補筆をBBCから1959年に依頼を受ける。
ゴルトシュミットの助けを受け着手してみると、全曲の補筆が可能とわかり、この際全編完成させることとなった。
1,3,5楽章を全曲、2,4楽章は欠落があったので解説でつなぎ、BBCでフィルハーモニーア管の演奏で放送。
しかし、お試しで始めた経緯もあり、存命だったアルマの了解は取っておらず、アルマは再度の演奏を禁じる差し止めを行う。
クックは継続して欠落部を完成させ、1963年指揮者ハロルド・バーンズらが、ニューヨークに住むアルマのもとへ、BBCで放送されたテープと完成された版を持って訪問。
これを聴いたアルマは感激し、さらに終楽章をもう一度聴いて、素晴らしいと感嘆したという。
晴れてアルマの諸諾を得たクックは、全曲演奏可能な第2稿を完成させ、1964年ゴルトシュミット指揮ロンドン響で世界初演。
アルマは、その年の12月に亡くなります。
さらに1972年、クックは第3稿を完成させ、モリス指揮ニューフィルハーモニア管でレコーディングもされた。
クックは1976年に没するが、ゴルトシュミット、コリン・マシューズ、デヴィット・マシューズの3人が、1989年にクックの意匠を受け継ぎ修正を加え第3稿第2版を完成させ、いまのところ、この版が10番のスタンダードともなっている。

クックの初版を聴いて、大いに関心を抱いたアメリカの音楽学者レモ・マゼッティは、一時カーペンターにも協力していたが、喧嘩して自身の手で86年にマゼッティ版を完成。89年に初演、さらにその後マゼッティ第2版が出る。

2000年、ブルックナーの9番を補筆完成させた、二コラ・サマーレとジュセッペ・マッツーカの二人による版が完成。

⑦カステレッティによる室内オケ版、若いユダヤ系指揮者ヨエル・ガムゾウ版など、まだまだ新しい版が出てくる状況。

今回、全部は揃え、聴くことはできなかったけれど、作者亡くなって110年、こうしてまだ新しく耳に響く版が登場する可能性のある曲、なんて夢があるんでしょう。
それもこれも、原曲のマーラーの筆が素晴らしいからです。

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1907年末、ウィーン国立歌劇場を追われ、ニューヨークへ出向き、メトロポリタン歌劇場で活動するようになる。
このとき、千人交響曲も完成するが、この滞在中にマーラーは、忘れえぬ体験をする。
火事で殉職した英雄的な消防士の葬列を、ホテルの高層階の窓から見聞きすることとなった。
軍人などへの弔意は、空砲を打って示す場合があるが、ニューヨークの街中では、それはできず、大太鼓に布をかけて鳴らした。
それを見て、聴いたマーラーは涙したそうだ。
アルマの著作によると、「消音を施したドラムの短い響きの印象はマーラーの心に焼き付いて、のちの10番の交響曲に使われることとなった」とされます。
4楽章の最後と、5楽章の冒頭での大太鼓の一撃。
補筆完成版が、前述のとおりまとめてはみたものの、いまだによく把握できてないワタクシですが、太鼓を省略したり、太鼓のたたき方も版によってそれぞれ。
漫然といつも聴いてしまう自分なので、版による違いなんて、ここに詳細は説明できませんです。

消防士追悼の太鼓を聴いたのが1908年2月、春・夏はヨーロッパで「大地の歌」を作曲、秋・冬はアメリカのシーズンでオペラとニューヨークフィル。
翌1909年の夏には、トプラッハで第9交響曲をだいたい仕上げ、秋にニューヨークで完成。
こんな風に、半年交代でヨーロッパとアメリカを行き来し、忙しい指揮活動と作曲活動を併行していた。
1910年夏、同じようにトプラッハで10番の作曲を始め、9月には千人交響曲の初演の指揮を行い大成功。
その年の夏に、10番の作曲に挑んでいた頃、アルマは建築家グロピウスに出会っていた。
グロピウスはアルマに求愛し、マーラーのもとに帰っていたアルマを追ってやってくる。
二人の関係を悩み苦しんでいたマーラーは、多忙もたたり体調もすぐれず、フロイトの診断を受けたりで心労は多大であったろう。
10番の完成はそのままに、アメリカに戻り、ニューヨークフィルとの演奏に埋没するが、1911年2月敗血症により倒れ、4月にパリを経由してウィーンに帰宅。
5月18日死去。

今回、こうしてマーラーの最後の4年ぐらいを紐解いていて、悲しくなりました。
全霊を込めて作曲し、指揮をし、そして妻を愛したマーラー。
第三者の手を経たとはいえ、マーラーがこんな風に完成させたと思われる10番が、ほんとに愛おしく思えます。

最近聴いた2枚のクック第3稿第2版によるアメリカの演奏をメインに取り上げてみました。

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  マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調(クック第3稿第2版)

    オスモ・ヴァンスカ指揮 ミネソタ管弦楽団

          (2019.6 @オーケストラホール、ミネアポリス)

シベリウスの専門家みたいに思ってたヴァンスカさん、ミネソタ管とマーラーシリーズに取り組んでおられた。
不覚にも、この10番が初ヴァンスカ・マーラーでありました。
これが実によろしい。
構えることなく、自然体で、9番のあとにくる10番としてのマーラー作品を、誠実に、全身全霊でもって取り組んでいるのがわかる。
ミネソタ管の労使対立にともなう楽員解雇問題で、辞任して身を挺して抗議したヴァンスカさん、問題決着後、再びミネアポリスに戻り、楽員との結びつきを強めた。
そんな指揮者とオーケストラの信頼の証のような、隙のない緻密かつ、美しい演奏。
手の内に入ったシベリウスの演奏と同じように、シベリウスとはまったく違う音楽のマーラーの語法を完全に納め、音の隅々まで目を光らせ、すべてが効果的に機能している感じで、クック版の代表的な演奏として、いやマーラーの思った10番の姿として万全なものだと思う。
4楽章の最後にちゃんと大太鼓あり、録音も極上でズシンとよく響いてくれる。
(太鼓の音はレヴァインが一番好きだったりします)
ヴァンスカさん、来年の任期でミネソタ管を去るようで、ソウルのオケも兼任中なのでどうなりますか。

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  マーラー 交響曲第10番 嬰ヘ長調(クック第3稿第2版)

   トーマス・ダウスゴー指揮 シアトル交響楽団

      (2015.11.19~22 @ベロニア・ホール、シアトル)

デンマーク出身のダウスゴーにはまり中。
集中して集めてます、シューベルト全曲に、ブラームスにブルックナー、チャイコフスキーにドヴォルザーク、ワーグナーにシュトラウス、そして同郷のランゴーなど。
BBCスコテッシュの指揮者も務めているので、BBCでの放送も多く、かなり録音して聴いてきたし、2019年の同響との来日では5番の交響曲を聴くことができた。
いつものとおり、速いテンポをとり、ずばずばと切り込みつつ、情念的なマーラーとは一線を画した清冽かつ明快な演奏。
細部への目の通し方も配慮が行きとどいているのもダウスゴーならではで、透明感あふれるなかに、抒情的な場面を見事に引き立てる。
終楽章の最後のカタストロフィのあと、静寂ななかに淡々とあの美しいフルートで奏でられた旋律が流れ、じわじわと感銘が忍び込んでくる。
そして愛の叫びのような弦のユニゾンに思い切り落涙することとなる。
この透徹した演奏の先に、新ウィーン楽派たちの音楽を見ることも・・・・・
こちらも録音がよろしく、シアトル響のCDはすべて高音質優秀録音で、容赦ない大太鼓がドカンときます。
個人的にダウスゴー盤がいまは一番好き。

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・レヴァインはフィラデルフィア管ととんでもなく美しい10番を残してくれた。
いい時期に録音してくれたものです(78、80年クック第3稿1版)

・ラトルは録音がイマイチなベルリンフィルより、若武者ぶりがたくましいボーンマス響の方がいい。
4楽章最後の太鼓はなしだが、カッティングのせいか、5楽章頭にきてる。(クック3稿1版)
ラトルには、バイエルンで再度、ついでにマーラー全曲もやってほしい。

・ザンデルリンクは東ドイツ時代の太くてたくましい演奏だが、独自の解釈もあり、いまでも新しい風が吹いてる感じ。(クック3稿1版)

・インバルは、都響のものは未聴で聴いてみたい。92年録音は以外と無難な感じなので(クック3稿1版)

・ハーディング&ウィーンフィル、この曲の決定的な名演だし、この演奏で私も10番に目覚めた。
ウィーンのオケなところも魅力で、スタイリッシュなハーディングの指揮にもその音色がぴったり(クック3稿2版)

・セガン盤は、気ごころしれたモントリオールの仲間たちと、美にこだわったような演奏。
いろいろ聞いたけど、ちょっとカジュアルに、そしてビューテフルに過ぎるかとも思うようになった(クック3稿2版)

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セガン氏は、長く務めたロッテルダムフィルで、自分の好きなレパートリーを多く取り上げ、DGからアンソロジー的な一組を出しました。
この10番を始め、ブルックナー8番、ショスタコ4番など、重量級の演目。
モントリオールが2014年、こちらのロッテルダムが2016年だが、あまり演奏は変わらない感じ。
わかりやすい音楽を作るセガンらしく、10番の最大公約数的な演奏だけど、ロッテルダムは、映像でも視聴出来て、没頭して指揮する姿やオケの前向きな姿勢などを見ながら聴くとまた違った印象を受けます。

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セガン氏、10番がよっぽど得意なようで、ロッテルダムの翌年、今度はバイエルン放送響で取り上げました。
前半がエーベルレのヴァイオリンでベルク、後半がマーラーです。
こちらは映像で視聴してますが、やはりミュンヘンのオーケストラは素晴らしく、これまでのセガンの演奏の数倍オケが力を与えてます。
オケの優れた機能性を得て、表情豊かにヴィヴィッドな演奏を繰り広げていて、全体に明るさと、暗さと、虚無感、寂寥感、いずれのいろんな感情を披歴してくれるように感じます。
フィラデルフィアでも10番を演奏しているようなので、いずれの日にか、もっとさらに熟した録音を残して欲しいものです。

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クック版を選択しなかった指揮者たちによる演奏。
もうね、こんだけあると、まとめて聴いてもなにがなんだかわからない。
10番漬けの日々から解放されたいので端折ります。

・賑やかでお笑いも含むとされるカーペンター版は未聴。

フィーラー版、オルソン指揮のポーランド放送オケがちゃんと入手できる唯一の存在。
打楽器がいろんなところに(1楽章さえ)顔を出し、戸惑いは隠せないが、存外にマーラーっぽくて、大地の歌と第9の流れに存在する音楽と感じさせる。

・マゼッティ版の第1版は、スラトキンの指揮。
打楽器による補強が多々あり、薄いとされるクック版を分厚さで補った感じだけど、賑々しさも伴うことに。
スラトキン自身の解説による各版の違いの演奏付き解説など、これはとてもありがたい。
セントルイス響が一番うまかった時期の録音(94年)

・マゼッティ版第2版のロペス・コボス&シンシナティ響は2000年の録音。
打楽器の多用を抑制し、こちらはかなり落ち着いた感じになった。
最期のカタストロフィで思い切りシンバル叩き、最後の盛り上がりでもドロドロと太鼓が鳴る、そんな1版より、効果を損ねるものは抑制され、すっきりした感じだ。これは好きかも。
初のリング通し体験をさせてくれたロペス・コボスも、いまは故人となった。
シンシナティ時代のブルックナーやマーラーを聴き返したいと思ってる。
わたしのワーグナー体験の恩人のひとりだ。
そんなことを思い、ラストシーンを聴いてたら泣けてきた、コルンゴルトみたいな感じ。

・サマーレ&マッツーカ版によるジークハルトとアーネムフィルの演奏。
なんたって録音が優秀、でも版はクック版をベースにして、重層化した感じにとどまるかな。
マーラー風と最初は思ってたけど、でも、今回、数回聴いてこれもありだなと思うようになった。
このあたり、演奏の練度によって将来変わってくると思うが、しかし、世の中はクック3-2が主流になっていくんだろうな・・・・

・と思っていたら、出てきたガムゾウ君。
イスラエル出身の若手指揮者で、今年まだ32歳。
23歳のときに、10番のガムゾウ版を作り上げ、2010年に初演。
CDは持ってないけど、2019年8月のブレーメン・フィルとの演奏をドイツ放送のネット放送で録音しました。
こりゃ驚きました。
トランペットソロが、まるでジャジーな吹き方をしてびっくり。
ニューヨークでマーラーはジャズを聴いたのか。。。と思わせるほど。
でも、全体にお遊びは少なめで、かなり真摯なマーラーが出来上がっていて、きっと少年時代からマーラーを聴き、心酔し、一体化してしまったであろうほどの堂に入った補筆稿であると思うし、のめりこんだような熱く夢中の演奏なのだ。
youtubeにガムゾウ氏がカッセルのオケを指揮した10番があがってます。
カメラワークが最悪で、譜面を持たない(読めない?)カメラマンだと思われ、かなりイライラ感が募りますが、若いガムゾウ君の指揮姿が面白い。
汗だくで、ショルダーベルトをしないものだから、白シャツがズボンから丸々出ちゃってる。
見ていて、マーラーもさもあらんと思い、ガムゾウ君の思いが伝わります。
有能な指揮者でもあったマーラーは、指揮者としての作曲家だったので、ガムゾウの見た10番も、今後進化しそうで楽しみです。
 最近のウィーン交響楽団との共演もあり、コロナ禍のこちらはネット配信用のもので、「魔弾の射手」とコルンゴルトの交響曲(緩徐楽章のみ)が視聴できます。
ポロシャツなので、さすがに大丈夫ですが彼の音楽の志向がわかるというものです。

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この思い出深い1枚も大切です。
金聖響さんが、神奈川フィルの常任指揮者だったとき、マーラーチクルスを敢行し、これは全部聴きましたが、オーケストラにとっても団結と成長の礎となったのでした。
財団法人の見直しにより、多くの債務を抱え存続の危機に見舞われた時期にあたりました。
基金を設立し、オーケストラも、われわれ聴き手も毎月、祈るように存続を願いつつ聖響&神奈川フィルのマーラーを聴いたものでした。
併行していろんなことがあったけれど、音楽面における聖響さんとマーラー、そして神奈川フィルのマーラーへの相性は抜群で、そのラストひとつ前を飾る10番クック版の演奏会に、わたくしは、嗚咽するほどに感動の涙を流しました。
2013年2月です。
2014年には楽団存続が決定し安堵しましたが、不安ななかに、希望を見出すようにして聴いた10番のライブが、日本人演奏として初めてCD化され、あの日の感動の縁を手元に残すことができてほんとうに嬉しいのです。
演奏も集中力を切らさない、緊張と力に溢れたもので、あわせて愛にも満ちてます。

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マーラー10番、次はどんな演奏、いやどんな版が出てくるのか?
時代や、いまをめぐる世界の在り方で、マーラーの音楽の感じ方も変化すると思う。
ブルックナーやブラームスでは、そうしたことは起こりえないとも思う。
ワーグナーは演出が付随するので比較が違う。
だが純音楽であるシンフォニストとしてのマーラーは、その音楽に人間の感情や情緒あって、そのうえで交響曲がある。
だからきっと、これからも、われわれの共感をともにするマーラー演奏はあらわれ、進化していくものと思う。

もっとずっと生きて、元気でマーラーを聴いていきたいと思った。

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2021年9月 2日 (木)

ベルク 「ルル」 二期会公演

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二期会公演、ベルク作曲の歌劇「ルル」を観劇。

昨年、東京文化会館で上演の予定が1年延期して、今度は別株が登場するなか、果敢なる上演。

きめ細かな対策を取り、舞台も絶妙なディスタンスを保った演出で、見事な上演で、その成功を大いに讃えたいと思います。

Sihinjyuku

文化会館から場所を移して、新宿文化センターで、この昭和感あふれるレンガの建物には、なんと2006年以来15年ぶりとなります。

そのときは、演奏会形式のR・シュトラウスの「ダナエの愛」で、若杉弘さんの指揮による日本初演でした。

約1,600席(ピット使用時)の比較的コンパクトなホールで、客席の傾斜は緩めなので、前の方が大きかったりするとステージに被ってしまい、一部見ずらいこともある。
残念なことに、斜め前にいた座高の高い方が、幕間で空いていたわたくしの前に移動してきてしまい、2幕ではちょっと往生しました・・・・

そんなことはともかく、演出には、ちょっとひとコトありますが、まずもって素晴らしい上演でありました。

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「ルル」は、未完のオペラ。
ヴェーデキントの「地霊」と「パンドラの箱」を原作にベルクが3幕7場台本を書き作曲を進めたが、完成されたのは2幕までで、3幕はショートスコアのみで、オーケストレーション中途となり、ベルクの死により未完となった。
 別途、3つの幕からチョイスした5つの楽章からなる「ルル」交響曲があり、3幕で使用される予定だった変奏曲(ルルの逃亡)とアダージョ(ルルとゲシュヴィッツ伯爵夫人の死)のふたつを、完成された2幕のあとに続けることで初演され、それが2幕版ということになります。

ベルクの未亡人ヘレーネは、第3者による補筆を禁じていたが、実はその補筆計画は密かに進行していて、フリードリヒ・ツェルハによる3幕完成版が1979年に、シェロー&ブーレーズのコンビにより3幕版として上演されました。

12年前に「ルル」を初観劇しましたが、そのときは3幕版(びわ湖ホール)
今回の二期会公演は2幕版での上演でした。

日本での「ルル」上演史 
 ① 1970年 ベルリン・ドイツ・オペラ来日公演 ホルライザー指揮
 ② 1999年 コンサート形式          若杉 弘 指揮
 ③ 2003年 日生劇場/二期会           沼尻 竜典 指揮
 ④ 2005年 新国立劇場            アントン・レック指揮
 ⑤ 2009年 びわ湖ホール            沼尻 竜典 指揮
 ⑥ 2021年 二期会              マキシム・パスカル指揮

         ベルク 歌劇「ルル」

  ルル:冨平 安希子    ゲシュヴィッツ伯爵令嬢:川合 ひとみ
  衣装係、ギムナジウムの学生:杉山 由紀
  医事顧問:加賀 清孝   画家:大川 信之
  シェーン博士:小森 輝彦 アルヴァ:山本 耕平
  シゴルヒ:狩野 賢一   猛獣使い、力業師:小林 啓倫
  公爵、従僕:高柳 圭   劇場支配人:倉本 晋児
  ソロダンサー:中村 蓉

    演出:カロリーネ・グルーバー

  マキシム・パスカル指揮 東京フィルハーモニー交響楽団

       (2021.8.29 @新宿文化センター)

二期会のサイトで、演出家グルーバーが、2幕版を採用した理由を語っておりました。
・ベルクが残した真正な部分だけで上演することに意義がある。
・ヴェーデキントの独語が古く、ドイツ人でも難解。
 特に3幕は歌手の負担が大きいため
・共同制作は、多くの歌手を手当てできるアンサンブル劇場でないと難しい
ドイツでは、いろんな意味で、音楽にも真正さを追求する動きがあり、世界的にみても2幕版で上演される機会が増えているとのこと。

3幕で、ベルクが完成できなかった場面で、2幕版で省略されるシーン。
1場:パリでの逃亡生活、賭博、株暴落とさらなる逃亡(登場人物多数)
2場:ロンドンでの娼婦生活、その日の最初の客(医事顧問が演じる)
  ルル、ゲシュヴィッツ令嬢、シゴルヒ、アルヴァらのうらぶれた生活
  客の黒人(画家が演じる)によるアルヴァ殺害

2幕版では、以上が略され、続いて3人目、切り裂きジャック(シェーン博士が演じる)の登場とルルの殺害、帰り際にさらにゲシュヴィッツ伯爵令嬢も殺して去り、彼女は虫の息で、ルルへの愛を歌い幕となる。
  
上記の3幕の省略部分は特に、株暴落シーンなど、雑多すぎるし、人物もたくさん出るので私はいつも困惑する場面なのです。
しかし、今回の2幕版は、音楽としては通例通り変奏曲とアダージョが演奏されたわけだが、舞台ではなにも起こらなかった、と言っていい。

舞台上に女性のマネキンを多く配置し、ルルと同じ姿のダンサーを常に登場させ、ルル本人と対比させている。
マネキンは極度に女性の身体を強調した作りで、さまざまな鬘や衣装をまとい、演出家グルーバーさんの意図は、登場男性やゲシュヴィッツ伯爵令嬢からみたルルを意図しているという。
確かに、ルルを男性たちが呼ぶ名前は、ミニョンだったり、エーファ、ネリーだったりして、要は男性が自分の思いをルルに勝手に押し付けているというわけである。
そして、ダンサーはルルの内面の現れをパフォーマンスしている。
舞台の進行に合わせて、ダンサー・ルルは壁沿いを苦痛に満ちて動いたり、遠くから傍観していたりと、愛やもしかしたら感情の薄いルルの心情を表そうと様々に表現していた。

そして、最後のシーンである。
2幕の終わりで、アルヴァと二重唱を歌ったあと、アルヴァの思い、エーファであり母マリアである、聖母マリアの姿になったルル。
アルヴァはデスクに倒れた(寝た)ままにして、ルルはマリアの姿をかなぐりすてて、スリップ姿となり、虚空を見つめるように舞台を左右にさまよう。
そこに、ルルの内面のダンサーが様々に踊りつつ、ルル本体に近づき、ついには絡み合い、一体化したように表現したと見てとれた。
ここで幕となった・・・・・。

そうなんです、切り裂きジャックは登場しないし、当然に殺害シーンもないし、さらにはゲシュヴィッツ伯爵令嬢も出てこないし、彼女も巻き添え死をくらうことなく、令嬢のルルへの愛の声は、その姿なく流されるのみ。
まだかまだかと待ってた、当然にあるべきシーンがなく、拍子抜けだったと正直言いたい。
だって、衝撃的なフォルティシモでも舞台ではなにも起こらず・・・・・です。

事前に見ていたグルーバーの考えからすると、こういうのはありだろうな、というのが後付け的な感想ではあります。
ファム・ファタールとしての「ルル」の見方は間違っている(それこそが古い)と語っておられます。
当時の家父長制の問題が生んだ女性の悲劇であり、消費される女性に対する反証、そのあたりは、オスティナートにおけるシネマ(上田大樹氏による映像作品)で、ルルの逮捕劇・脱獄などの暗示が、おびただしい数のマネキンの部位が降り注ぐなか表現された秀逸なものであった。
さらにグルーバーによると、ベルクがヴェーデキントの劇をおそらく見たとき、当時の識者が、「女性を好きなように利用できる制度のひどさ」を例えて評論したものに接したかもしれない。
100年前の当時で、そのようなことを、しかも男性がいうと言うことは、大きなことであったが、いまはそれが良い方向になったのか?
今現在、真の意味での男女の平等が達成されているのか?
そうした問題提示も意図していると語る演出者。

極度のフェミニズムには、少し距離を取りたい自分ですが、この演出意図を事前に確認して観劇に及びましたが、さしたる過激さはなく、ただ、ルルの殺害シーンを消してしまったことで、効果としては、どこかぼやけてしまったという思いが強い。
内面のルルと実存のルルの最後の一体化は、わからんではないが、例えば映像作品などで、いくつの演出で見ることができる、「死による浄化」的なものを描いてもよかったのでは。
いや、こんな風に思うことが、ルルを単なるファム・ファタールとしてしか捉えていない、古臭い自分だということになるのか・・・・

あと、ゲシュヴィッツ伯爵令嬢の献身的な愛も、最後に姿を少しでも現すことで、その自己犠牲ともとれる存在で、ルルの内面一体化に華を添えることができたのではないかな、素人考えですがね。
コレラに罹患しながらもルルを救ったゲシュヴィッツ伯爵令嬢は、聖母マリアのブルーの衣装をまとっていたのも意味あることなのだろうか。

舞台全体の印象はシンプルで無駄を省いたスタイリッシュなもの。
ドア付きの稼働する箱、兼スクリーン機能をもった装置がいくつも並び、人物たちは、そのなかで自分の好みのマネキン(すなわち好みの自分のルル)と一緒に、ルルとシェーン博士との緊張のやりとりをのぞき込んだりする。
その箱が動いて、「LULU」の文字を映し出したり、それが「LUST」という言葉に変じたりしていた。
「LUST」、すなわち「欲望」である。

プロローグの猛獣使いのシーンや、場面展開のシーンでは、紗幕がたくみに使われ、観劇するわれわれの想像力を刺激したものだ。

長文となりましたが、1回ではとうてい理解が及ばないし、何度も観てみたい舞台と演出であることは確かだ。

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こうした演出で歌い演じた歌手のみなさんは、ともかくいずれも完璧で素晴らしかった。
12年前のびわ湖ルルで、ルルのカヴァーキャストだった冨平さん、舞台映えするお姿に負けず劣らずの素晴らしい高音を駆使して、同情さそう可愛い女性となってました。
3年前の素敵だったエンヒェン役以来の冨平さん、ただ素晴らしい高音域に対し、中音域の声にもうひとつ力が加わると万全かと思いました。
偉そうなこと書いてますが、コロラトゥーラとドラマティコ双方の難役でもある、このルル役、これだけ歌い演じることができるのは、並大抵のことではありません!

日本人ウォータンとして、最高のバスバリトンと思っている小森さんのシェーン博士も迫真の演技と、ドイツ語の明確できっちりした発声による完璧な歌唱に感銘を受けた。
願わくは、ジャック役でも見てみたかったが。
 このグルーバー2幕版では、おいしい役柄だったアルヴァ役の山本さん、ルル賛美での伸びのある歌かなテノール声は、プッチーニあたりを聴いてみたいと思わせるものでした。
 この演出では、やや影が薄い存在になってしまったゲシュヴィッツ伯爵令嬢の川合さん、3幕版でないとその存在の重さが出ませんが、もっと聴きたい声と、ちょっとセクシーなお衣装も素敵でした。
味のある狩野さんのシゴルヒ、粗暴ななかに力強い小林さんの力業師、リリカルな大川さんの画家、あと存在感があったのは可哀想な学生さん役の杉山さんで少年っぽさ、中性っぽさがよく出ていて可愛かったです。
ちょい役になってしまった医事顧問にベテラン加賀さん、ほかのみなさんも充実。
 演出家の強い意図をしっかり汲んで、しかも困難な環境のなか、練習を積んで見事な成果を結実されたと思います。
もうひとつのキャストと併せて、記録としても映像作品で残して欲しいと思います。

最期に最大級の賛辞を指揮者とオーケストラに。
休憩中、ピットの中をのぞきに行こうとしたら係員に静止されてしまったが(なんでやねん)、第1ヴァイオリンは8挺で、チェロやコントラバスの3~4ぐらいだった。
浅めのピットに、左側が弦、右側が木管・金管、さらに舞台袖に打楽器類ということで、ぎっしりだけど、ホールのキャパや歌手たちへの負担減も合わせた軽めの編成ではなかったかと。
これからの時代、ワーグナーもシュトラウスもこれでいいんじゃね、と思いましたし、聴いて納得でもありました。
 パスカル氏の指揮が、そのあたりを前提としても、実に緻密で抑制力も併せ持ちつつ、劇性も豊かな音楽を作り出していたと思う。
大柄なイケメンさんで、指揮棒を持たず、動きは少なく、オケも歌手たちも指揮者の指先に気持ちを集中させなければならない。
ベルクの微に入り細に入り、なんでも取り入れられた雑多ななかにも精妙さの光る音楽が、最大もらさず再現された。
私がベルクの音楽にいつも求める甘味な、アブナイくらいに宿命を感じさせる音色も東フィルから引き出してます。
ルルとシェーン博士との会話の部分、ラストのアダージョ、もうたまらなくって、わたしは舞台を見つつも、オケの紡ぐサウンドに陶酔境に誘われる思いだった。。。。泣けるぜ。

Lulu-dvd

私の手元にある「ルル」のDVD、あとメットの上演も。
音源は、ベーム、ブーレーズ、アントン・レックの3つのみ。

この作品は、歌手の技量と演技力の向上とともに、やはり映像で観てみたいもの。

いずれも3幕版ですが、youtubeで観たヴィーラント・ワーグナー演出のライトナーの指揮、シリアのルルによるいにしえ感漂うモノクロ映像がリアルで、もしかしたら初演時はこんな感じだったのか?と思わせるものでした。

2017年、ハンブルクでの上演。
回廊の魔術師、マルターラーの演出、ケント・ナガノの指揮では、斬新な演出が施されたという。
2幕版で、プロローグの場面の自在に動かしたり、最後には、ヴァイオリン協奏曲が全曲演奏されるという大胆さ。
音楽面、ベルクの気持ち的にも、それはありかもの上演。
バーバラ・ブラニガンの身体能力あってのもの。
観てみたい!

かように、まだまだ版や演出の楽しみもある「ルル」。
未完ゆえに、われわれをこの先も悩ませそうであります。

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