バッハ マタイ受難曲 マウエルスベルガー指揮
芝増上寺の子育地蔵、子供の無事成長、身体健全、水子供養のために、1300体のお地蔵が安置されてます。
桜吹雪を起こす風が、お地蔵さんの風車もからからと回し、彼岸の域の様相を呈します。
拝む神様は、世界でさまざまなれど、その祈る心は同じ。
3月の最終日、東京生活のピリオドを打ちに参上し、もう終わりかけた増上寺の桜を見てまいりました。
バッハ マタイ受難曲 BWV244
福音史家:ペーター・シュライアー
イエス:テオ・アダム
ペテロ:ジークフリート・フォーゲル
ユダ:ヨハネス・キューンツェル
ピラト:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター
アルト:アンネリース・ブルマイスター
ソプラノ:アデーレ・シュトルテ
テノール:ハンス・ヨアヒム=ロッチェ
バス:ギュンター・ライプ
ルドルフ・マウエルスベルガー指揮
ライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
ライプチヒ聖トマス教会合唱隊
ドレスデン十字架教会合唱隊
(1970 @ルカ教会 ドレスデン)
2022年のイースターは、4月17日。
キリストが磔刑にあった、聖金曜日は15日ということになります。
人類にとっての至芸品ともいえる、バッハのマタイ受難曲。
今年ほど、この音楽が人類への警鐘とも聴こえる年はないのではないか。
キリスト者からみた、人類の救い主たるイエスの受難の物語。
新約聖書のドラマテックなクライマックス、イエスの呪縛と、磔刑にいたる緊迫の物語。
自身を鏡で映しだされてしまうかのような、心の内とその存在の弱さをバッハは厳しくも音楽で優しく描きつくした。
そこに共感することで、宗教を超え、人間としての存在の深淵をのぞきこめる普遍的な価値をここに見出す。
中学生のときに聴いたリヒターの、最後の合唱「Wir setzen uns mit Tranen nieder」。
そこから始まった、わたくしの、マタイ歴はワーグナーとディーリアス同様に長い。
同時に聖書を物語的に読むにつれ深まる疑問とそこにある不変の感銘。
1974年、H・リリングが初来日し、そのときのマタイをテレビやFMで視聴したことが初の全曲体験で、アダルペルト・クラウスの福音史家も思い出深く、テノールのこの役柄がバッハのこの音楽にとっていかに大切なものであるかも、このときに痛感したものだ。
リリンクのあの時の演奏は、マタイを知るきっかけとなった一方、多くの方がそうであるように、リヒターの峻厳な演奏が、マタイのひとつの指標になっていて、それをベースに他の演奏を聴くということが自分でも起きていたと思う。
1972年にレコード発売されたマウエルスベルガー盤は、レコ芸で見てからずっと気になる存在だったけど、もちろんその頃は4枚組のそんな大曲など遠い存在すぎて、聴くすべもなかった。
その後、ずっと忘れていたマウエルスベルガー盤が無性に聴きたくなったのは、ここ数年のことで、昨年、ようやく入手して静かに楽しむこと数日、そしてほんとうに飽きのこない、でもこれと言って大きな主張もないこの演奏がとても好きになりました。
兄弟でバッハの守護者のような存在だった、ルドルフとエールハルトのマウエルスベルガー氏。
全体の指揮をとった兄ルドルフはドレスデンで、弟エールハルトはライプチヒでそれぞれ活躍し、この録音でも双方の教会合唱隊の指導を行ってます。
ルドルフ・マウエルスベルガーは、この録音時81歳で、翌年に亡くなってますので、ピンポイントでほんとうにいい時に録音されたものです。
ここに名を連ねる、当時の東ドイツ側の歌手たちも、いまや物故してしまった。
ドイツ的なるものを宿していた時期のバッハは、いまのインターナショナル化してしまった旧東ドイツ系のオーケストラでは聴かれない、いい意味での古雅な響きを持っているし、ドレスデンのルカ教会での録音も、まさにこの時期ならではの響きがする。
おそらくバッハにその人生の大半を帰依し、ともにあったマウエルスベルガー兄弟。
リヒターのような強い主張はここではまったくなく、淡々とバッハの音楽が流れゆくのみで、群衆の「バラバ」「十字架に」という言葉も劇的になることなく、必然としてのように歌われるし、ペテロの慟哭のあとのアリアも物静かに進行する。
マウエルスベルガーのマタイは、バッハの音楽そのものしか感じることができず、指揮者の存在や関与を感じさせないという点で稀有の存在なのではないかと思う。
名のある歌手たちも、指揮者の元に極めて禁欲的につとめていて、名エヴァンゲリストとなっていくいくつもあるシュライアーの録音のなかで、これが一番素晴らしいと思う。
過剰な歌いこみのない、ペテロの否認の場面は極めて感動的。
テオ・アダムとブルマイスター、バイロイトでウォータンとフリッカのコンビだったふたりも、抑制された歌いぶりで、いぶし銀的な味わいがあり、ほかの歌手たちも同様。
オーケストラ、独唱、合唱、少年合唱、録音チームのひとりひとりまで、バッハを歌い、演奏するという長き伝統に裏打ちされたひとつの理念でもって統一感があって、何度もいうが、渋いけれど、なにも起きないけれど、普通に素晴らしい演奏だと思うのであります。
リヒター、レオンハルトとともに座右においておきたい。
花曇りだけど、増上寺と東京タワーに桜は映えます。
東京タワーの横には、ロシア大使館の前に建設中のビルがだんだんと出来上がってきて、正直言って、景観をそこねている。
日本一の高層ビルになるようで、そのようなもの、もういらないとホント思います。
いろんなところでビルの工事中であった東京を去り、何もない場所に帰ってきてほぼ1か月。
毎日、窓の外が額縁みたいです。
次に聴きたいマタイは、アバドとベルリンフィル。
イタリアのレーベルから限定で出ていたが、あまりに高額で手も足もでない。
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コメント
毎年4月はマタイ受難曲を必ず聴きます。yokochan様のblogもほぼ毎年この時期ににとりあげていますね。私は仏教徒ですので(そうだ、比叡山や高野山の声明、買わねば!)、宗教的な目的で聴いてはいないのですが。ただ、この人類の至宝の音楽の心に深く沁みわたる力にはいつも己の小ささを感じさせられ、都度、反省させられる次第です。
マウエスベルガーは一番最初に買ったLPでした。買った当時は廉価盤でしたでしょうか?今は手許にありませんが、ヨーロッパの人たちの日常的な信仰心が感じられるものと記憶しております。
けれど、今購入するとしたらクイケンやヘルヴェへ、ヤーコプスかな?
投稿: Ianis | 2022年4月17日 (日) 19時31分
Ianisさん、まいどです。
マタイは人類の至芸ともいえる音楽ですね。
同じく、ロ短調ミサもそのように思います。
恥ずかしながら、いまさらマウエルスベルガーのマタイでしたが、思った以上に、普段着のバッハを感じ、大昔、欧州に行ったおり、車中から見える教会や、辻々に立つ十字架のイエスなどの光景が浮かびました。
ヘレヴェッヘの目線の優しい美しいバッハも愛聴してます。
クイケン、ヤーコプス、あとルッツを聴きたいです。
投稿: yokochan | 2022年4月20日 (水) 08時38分