« 2022年9月 | トップページ | 2022年11月 »

2022年10月

2022年10月30日 (日)

プロコフィエフ 「賭博者」 バレンボイム指揮

Sunset-02_20220530134301

壮絶なる夕焼け。

こうした燃えるような、焼けるようなダイナミックかつ濃厚な夕焼け大好きです。

自宅からの夕焼けであります。

プロコフィエフ(1891~1953)の作品シリーズ再開。

いまさらながら、プロコフィエフの生まれた場所を調べてみたら、もっか話題のウクライナ、ドネツク州のソンツォフカという村だった。
ウクライナ→ロシア→ソ連→ウクライナ(→)ドネツク
こんな風に変遷を繰り返す場所で、ムリ無理に親ロシアの共和国として独立承認させてしまったばかり。
でも西側からしたら、ウクライナです。

略年代作品記(再褐)

①ロシア時代(1891~1918) 27歳まで
  ピアノ協奏曲第1番、第2番 ヴァイオリン協奏曲第1番 古典交響曲
  歌劇「マッダレーナ」「賭博者」など

②亡命 日本(1918)数か月の滞在でピアニストとしての活躍 
  しかし日本の音楽が脳裏に刻まれた

③亡命 アメリカ(1918~1922) 31歳まで
  ピアノ協奏曲第3番 バレエ「道化師」 歌劇「3つのオレンジへの恋」

④ドイツ・パリ(1923~1933) 42歳まで
  ピアノ協奏曲第4番、第5番、交響曲第2~4番、歌劇「炎の天使」
  バレエ数作

⑤祖国復帰 ソ連(1923~1953) 62歳没
  ヴァイオリン協奏曲第2番、交響曲第5~7番、ピアノソナタ多数
  歌劇「セミョン・カトコ」「修道院での婚約」「戦争と平和」
 「真実の男の物語」 バレエ「ロメオとジュリエット」「シンデレラ」
 「石の花」「アレクサンドルネフスキー」「イワン雷帝」などなど

年代順にプロコフィエフの音楽を聴いていこうという遠大なシリーズ。

まだ①のロシア時代で、この時代のモダニスト的な先鋭ぶりが実に面白いところだ。

コロナ禍における引きこもり生活で、海外から日々流されたオペラストリーミングの数々のなかで、ばっちり目覚めてしまったのがプロコフィエフのオペラ。
そんななかで、一番ピピっときたのが「賭博者」でありました。


Gambler-barenboim

  プロコフィエフ 「賭博者」

①のロシア時代の作品で、1916年の完成。
1909年18歳のプロコフィエフは、ドストエフスキーの自伝ともいうべき「賭博者」を読んで、その内容に魅せられた。
1915年にロンドンに渡り、ディアギレフに出会ったときも、オペラ化を考えていた「賭博者」を提案したものの、断られ、ロシアっぽいバレエを書きなさいということで、「アラとロリー」や「道化師」が生まれることになる。

イギリス音楽好きとしてはなじみ深い指揮者で、当時キーロフ劇場にいたアルバート・コーツから、あらためて「賭博者」のオペラ化をすすめられ着手したのがディアギレフに断られたすぐあとで1916年にはスケッチが、翌17年には全曲が完成。
これまで天才的に評価され成功を重ねてきたプロコフィエフだが、すんなりと初演にはいかなかった。
1918年キーロフ劇場での初演は、おりからの2月革命の影響で歌手たちが、プロコフィエフの難解なスコアをろくに練習ができず難しすぎると訴え、さらには劇場も暴動などを恐れキャンセルされてしまう。
さらにはその年の5月、プロコフィエフはロシアを出ることを決断し、シベリア鉄道で日本経由でアメリカへと向かう。
「賭博者」のスコアは、キーロフ劇場に残されたままで・・・

ロシアを離れて9年、革命10周年を契機に、プロコフィエフはソ連に演奏旅行のため一時帰国するが、多忙な演奏会の合間にブレイクしていた若きショスタコーヴィチのピアノ演奏に接し感嘆している。
そして、朋友であった演出家メイエルホリドの提案で、「賭博者」の改定に乗り出した。
ヨーロッパに拠点のあったプロコフィエフが次にソ連に一時帰国をしたのが1929年で、2年前の帰国ではさほど感じなかったスターリン体制の息苦しさを体感することになる。
第1次5か年計画の挙国一致の機運が文化・芸術の分野にも波及しはじてており、反モダン・反ジャズ・反西欧・反古典を標ぼうする「RAPM」(ロシア・プロレタリア音楽同盟)という組織が音楽界を牛耳る動きを示していた。
メイエルホリドはプロコフィエフに事前に、こうした環境下にあると危機感を手紙で送っていたが、プロコフィエフは楽天的にとらえていたようだ。
プロコフィエフの2度目の帰国は、RAPMの連中にとって、やっかいな人物の登場と捉えられ、キーロフ劇場での「賭博者」の初演に横やりをいれて、中止にしてしまう。
この2稿版での初演は、ベルギーのモネ劇場でフランス語訳で同年に初演され大成功をおさめ、2年間のロングランとなったそうだ。
ソ連での上演は遅れること1963年、ロジェストヴェンスキーの指揮でのことだった。
いま上演される「賭博者」は、この第2稿によるものがほとんどで、初稿は2001年に同じくロジェストヴェンスキーによってなされていてCD化もされているが入手難の様子。

 プロコフィエフ 「賭博者」

   アレクセイ:ミッシャ・ディディク
   ポリーナ :クリスティーネ・オポライス
   将軍   :ウラディーミ・オグノヴェンコ
   バブレンカ(お婆様):ステファニア・トツィスカ
   公爵   :シュテファン・リューガマー
   アストレー氏:ヴィクトール・ルート

   ブランシェ:シルヴィア・デ・ラ・ムエラ
   ニルスキー王子:ギアン・ルカ・パゾリーニ
   ブルメールハイム男爵:アレッサンドロ・パリアーガ
   ポタピッチ:プラメン・クンピコフ
   カジノ責任者:グレプ・ニコルスキー

  ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場管弦楽団

                ベルリン国立歌劇場合唱団

   演出:ディミトリー・チェルニアコフ

         (2008.9.5 @ベルリン国立歌劇場)

場所:架空のヨーロッパのリゾート 、ルーレッテンバーグ

時間: 1860年代

1

グランドホテルの庭で、将軍の家族の家庭教師であるアレクセイは、侯爵に借金をしている将軍の姪であるポリーナに会う。
アレクセイはポリーナを愛しており、宝石を資金にしてギャンブルをするという彼女の指示を実行し、お金を失ってしまう。
将軍は、若いブランシュに夢中で、侯爵、そしてイギリス人のアストリー氏と一緒。
彼の損失について尋ねられたとき、アレクセイは自分の貯金を失ったと言い、収入がそこそこある人はギャンブルをするべきではないと叱られるが、アレクセイは、辛辣にお金を節約するという考えを見下したように言う。
アストリー氏はめずらしく思いアレクセイをお茶に招待する。
その後、将軍はモスクワの叔母バブレンカ(ポリーナの祖母です)から電報を受け取ります。
 ポリーナは、侯爵への借金を返せないことに不満を感じている。
ポリーナはアレクセイに彼の愛を証明し、公園に座っているドイツの男爵夫人をバカにすることによって、彼が本当に彼女のために何かをするかどうかを確認するように要求。
アレクセイは男爵夫妻を小ばかにした行動をとり、男爵の怒りを買ってしまう。

2

ホテルのロビーで、将軍はアレクセイの行動を非難。
アレクセイは悔い改めず、将軍は彼を家庭教師として解雇のうえ、スキャンダルの流出を防ぐために侯爵の助けを得ようとします。
ブランシュは以前に男爵に融資を求めていましたが、それは男爵夫人を動揺させた経緯があり、男爵夫妻の社会的地位が高いため、将軍は必死となる。バブレンカから遺産の分け前を受け取るまで、将軍はブランシュにプロポーズできない。
アレクセイは、ポリーナが自分の相続分を受け取ると、侯爵が彼女を引き渡そうとするだろうと考え始めます。

侯爵は将軍に代わって現れ、アレクセイの行動を和らげようとします。
アレクセイは、侯爵が小学生のように振る舞うのをやめるように要求するポリーナからのメモを作成したので侯爵を軽蔑し、怒って去る。
侯爵は将軍とブランシュに、アレクセイを追い払うのにに成功したと告げる。

将軍はバブレンカの死ぬことを予見し喜ぶが、その直後、彼女が健康でホテルに到着、彼女の声が聞こえた。
彼女はアレクセイとポリーナに愛情を込めて挨拶しますが、すぐに将軍たちを見抜き冷たくあしらい、お前には遺産はあげないと言いのける。
彼女は病気を克服したのでスパで休んでギャンブルをする予定なのだ。

3

カジノでバブレンカ は、ルーレット で 負け続ける。
将軍は意気消沈し、ブランシュとのチャンスが減るのを恐れおののく。
侯爵がバブレンカがどれだけ失ったかを話した後、将軍は警察を召喚することを提案しますが、侯爵は彼を思いとどまらせる。
アレクセイが到着し、将軍と侯爵はバブレンカのギャンブルでの損失を食い止めるために彼の助けを求める。
次に、ブランシュの別の潜在的な求婚者であるニルスキー王子が到着し、将軍はバブレンカを失うことをさらに恐れる。
ブランシェはニルスキーと一緒に出発しまう。
アレクセイは、バブレンカが経済的損失を被った後、ポリーナの家族がどうなるのかと思い悩む。
バブレンカは資金を使い果たし、モスクワに帰りたがっている。
バブレンカはポリーナに一緒に来るように頼むが断る。
将軍はバブレンカを嘆き悲しみわめく。

4

ホテルの部屋で、アレクセイは侯爵からの手紙を持っているポリーナを見つける。
侯爵は抵当に入れた将軍の財産を売却すると言い、ポリーナのために5万を許し、侯爵は彼らの関係が終わったと見なすと書いてきた。
ポリーナは、これが彼女に対する侮辱として強く感じており、侯爵の顔に50,000の金を投げつけたいと激しく言う。
アレクセイは、ポリーナが彼に助けを求めたことを非常に喜ぶ。

The_gambler-1

カジノに駆けつけたアレクセイは、幸運に恵まれ、20回連続で勝ち、銀行を破綻させてしまう。
常連客はアレクセイの勝ちに勝つすごさについて興奮。
アレクセイは勝利のあと大金を得て自分の部屋に戻りますが、ディーラーや他のギャンブラーの声が聞こえ続けます。
彼を待っていたポリーナに、侯爵に返済するための資金を彼女に提供する。
彼女はこれを拒否し、自分の体と引き換えにお金を受け取ることを主張し、彼が本当に彼女を愛しているかどうか尋ね、ふたりは情熱的に抱き合う。
ところがポリーナは自分の行動を即時に後悔し、アレクセイがお金を渡すと、彼女はそれを彼の顔に投げ返しそれを使い果たす。
走り去るポリーナ、残されたアレクセイは、カジノでの彼の成功を狂気のように思い出したたずむ・・・・・

            

原作者ドストエフスキーもルーレットで多額の負債を負い、自作の版権を担保に借金をすることになるほどだった。
このオペラもほぼドストエフスキーの原作に忠実な内容となっているようだ。
温泉保養地で繰り広がられる色恋ギャンブル沙汰。
多くの映像作品も見たが、出演者はみんな酒とタバコは手放さず、放蕩の限りだ。
これもまたロシア人の姿か。
わかっちゃいるが、とことん行く、止まらない。
しかし、最後は「愛情と金は引き換えにはならない」のだ。
そこで救われるが、女心はわからない。

ここにつけた若きプロコフィエフの音楽は、洗練さとともに、禍々しさと激しさも満載で、リズム感とスピード感あふれる音楽には、その繰り返し的な効果もふくめ、聴く側に表現は不適切ながら中毒症状にも似た快感を与えてくれる。
とくに、4幕のカジノシーンは、その切迫した音楽が賭博に興じる主人公やギャンブル客の興奮を熱狂的に見事に描いている。
アリアなどは一切なく、全編がレシタティーボで出来てるような音楽劇であります。
冒頭に奏される旋律が、このオペラのキモとなっていて、陶酔的で、最後のクライマックスでいい感じに出てきて惹きつけられること受け合いだ。
そして、いまでも通じる内容でもあるので、設定を置き換える演出も、ここぞとばかりに取り組み甲斐いのあるオペラである。

The_gambler-4

チェルニアコフの演出は、こうした作品では抜群の切れ味を示す。
ホテルのロビーを真ん中に据え、左にはアレクセイの部屋、右は客室、真ん中は通路になっていて、その奥はガラスの回転ドアがある。
ジャケットのゲームマシンに興じるねーちゃんは、この通路でカジノシーンで登場するもの。
そのカジノ会場は、ホテルのロビーだったところが、キンキラになって、タバコの煙がもくもくする気密性の高い部屋へと変貌する。
こうした舞台装置もチェルニアコフは毎度自分で考えて制作しているので、だいたいパターン化してくるが、先のベルリン・リングではお金もかかったろうが、最高に緻密な舞台ができあがっていた。

登場人物たちは、完全にドラマの主人公のようで、その所作はオペラの舞台で演じているのでなく、映画の登場人物のようですらある。
心理描写にたけた演出家らしく、事細かにその所作にも意味あいがつけられているし、その動きが現代人であるわれわれの日々の生活の延長みたいにも感じる。
さらに歌わない登場人物も多くいて、主人公たちの背景でそれぞれが会話したりしている姿もずっとあって、これがまた全体のフレームのなかでリアル感を打ち出すことになっている。
「孤独のグルメ」で主人公の背景で、ほかの客が食べたり話したりするのが映っているけど、まさにあんな感じでリアルなんです。
カジノシーンの緊張と没頭感は人々の巧みな心理描写を背景にした動きで見事に表出。
4つの演出で舞台映像を観たが、カジノシーンはこのチェルニアコフが一番見事だった。

しかし、リングのときも書きましたが、そのオペラの全体像をしっかり把握したうえでないと、理解が追い付かないのも事実。
かなりのお勉強も必要でした。
ということで同時に、ゲルギエフのマリンスキー劇場での上演も観てますが、こちらは抽象的だけど簡潔なのでわかりやすい。
しかし、なにもなさすぎて、スカスカに感じてしまうのも寂しいものだ。

The_gambler-3

歌手たちはいずれも素晴らしく、アレクセイを得意役とするディディクの渾身の演技に歌は文句のつけようがない。
そして悲劇的な役柄を歌わせては抜群のオポライスのシリアスな歌声は、女優のようなその美貌とともに魅せられる。
オグノヴェンコの将軍さまも、ユーモラスさとともに、頑迷さをよく歌いこんだバスだった。
懐かしいトツィスカの傍若無人も面白く、相変わらずド迫力の声でユニークなものだ。

ベルリンでバレンボイムは、驚きのレパートリーを築いたが、そのひとつがプロコフィエフ。
「賭博者」とともに、「修道院での婚約」も上演しているし、R・コルサコフの「皇帝の花嫁」、ムソルグスキー「ボリスゴドゥノフ」らのロシアものを、いずれもチェルニアコフと組んでいて、いかにバレンボイムがこの演出家を気に入ってるかがわかる。
そのバレンボイムの指揮、オーケストラもウマいもので、プロコフィエフの音楽を重厚かつダイナミックに描いてみせた。
さばさばと流れてしまうゲルギエフよりは、メリハリもあっていいと思った。

Prokofiev-gambler-01

正規録音では唯一のゲルギエフ盤。
1996年の録音で、キーロフ劇場でのロシアオペラ録音を精力的に行っていた時期の記録。
まず音がよくて、プロコフィエフが若い頃から精緻な音楽を書いていたことがよくわかる。
一気呵成に聴かせてしまう勢いがあり、劇場の雰囲気も豊かだが、ロシアでの演奏であればもっとがっつりと逞しく図太くあってもよかった。
スタイリッシュにすぎるかも。
 映像でも視聴、歌手ではビジュアルも歌も素敵なカゾノフスカヤのポリーナがいい。
アレクセイのガルージンが力強くクセもある声だが、見た目がオッサンにすぎるので、ディディクに比べるとキツイ。

Prokofiev-gambler-1

1974年のボリショイ劇場でのライブでステレオ非正規盤。
非正規にしてはリブレットも充実していて変な話だけど本物っぽい。
指揮はラザレフで、録音はさえないが、オケの響きは太くとくに金管もロシアっぽく力強い。
全般にゲルギエフよりもはるかにロシアしてる演奏で、狂気の塩梅もよろしい。
70年代のソ連を代表する歌手たち、この頃はロシアオペラの来演はボリショイ劇場だったから、きっと日本にもやっきたはずのメンバー。
マスレンニコフのアレクセイが破滅的にすごい。

Gambler-01

2017年のウィーン国立歌劇場上演。
コロナ禍の世界のオペラ劇場のストリーミング大会の恩恵を受けて視聴。
これより前のベルリンでのチェルニアコフの映像もベルリンのストリーミングで見ていたけれど、このウィーンの上演でこの作品のドラマと音楽を把握できた次第。
 アレクセイはベルリンと同じディディクで、年月を経てさらに歌唱に磨きがかかり、ギャンブルへの取り憑かれ具合も増して威力を増した。
ポリーナは親しみを持てるロシアのエレーナ・カセーヴァで、わたくし彼女が好きなんですが、西側での活動を継続してるみたいで安心した。
バブリンカには、かつてのブリュンヒルデ、おなじみのリンダ・ワトソンが演じていて味わいが深いです。
指揮はシモーネ・ヤングで、これがまたいい。
シモーネ女史はウィーンでの近代オペラの指揮を一手に引き受けていて、ピットないでの生き生きとした指揮姿はウィーンフィルでも散見されるメンバーを夢中にさせるナイスなものです。
音楽もキレがよく、すみずみまで明快です。
強いて言えば、どす黒さのなく健康的すぎることでしょうか。
その演奏が寄り添ったのがカロリーネ・グルーバーの演出で、ドラマの本質は変えず、多彩な表現で個々の人物や出来事に意味付けを行う。
穏当ながら大胆な解釈もあり、ラストシーンでは驚きがあった。
カジノシーンでは、アレクセイは悪魔に変身する途上で、人間の心を人々が集団的に失っていく様が回転する回り舞台でよく表現されている。
グルーバーとヤングのコンビは、真夏の夜の夢でも傑作を生みだしてるし、わたしも二期会のルルでその演出を体感したばかり。
 DVD期待、いきなりチェルニアコフでなく、ゲルギエフでもなく、こちらから鑑賞するのがいいかもしれない。
ウィーンのプロコフィエフは甘くて酸っぱいのだ。

The_gambler_4_1

2019年にリトアニア国立歌劇場で上演された映像を期間限定で観ることができた。
これがチェルニアコフばりの上下左右を巧みにつかった空間活用演出で、時代設定も現代そのもので、いまに生きる「賭博者」そのもの。
演出家はヴァシリー・バルハトフという30代のロシア人で、その夫人はなんと、いまをときめくアスミク・グリコリアン。
その彼女がポリーナを演じていて、これまた深みのある演技と強い声で持って舞台をけん引している。
しかし、それ以上の演出家のアイデアが秀逸で、リゾートホテルをドイツの廉価なホステルに変え、そこに集うカジュアルな平服を着た人々へと設定を変えた。
ホテルのロビーはコインランドリーに格下げとなり、舞台はそこからスタートするしEUをもじったような政治的な主張もはいる。
ポリーナは子連れで、もしかしたら姪っ子かもしれないが、この女の子の所作が可愛くてときに舞台をさらってしまう。
分割された空間=部屋を見事に生かして、キッチンの様子やテレビでゲームに興じる女の子、マックのPCでネットサーフィンをするアレクセイなど、実に今風でリアル。
バブリンカはモスクワ旅行から帰ってきた風で、みんなに安いスーベニアを配っていて、そのすべてが細かすぎでよく出来ていて笑える。
驚くべきはカジノが、オンライン化されていて、世界中のいろんなユーザーと同時対戦をして勝ち抜くことになり、そのメンバーたちの悲喜こもごもが拡大されたスマホ画面に映し出されること。
アレクセイが勝った証左は、PCで確認というまさにリアル現代。

アレクセイのドミトリー・ゴロフニンもカジュアルな身のこなしがナイスな歌手でロシア臭のないスマートぶり。
ラストシーンも斬新。
モデスタフ・ピトレナスという若いリトアニアの指揮者も才気煥発な感じで実によろしい。
バルト三国は、非ロシアであり、ロシアのエッセンスももったヨーロッパの国々だ。
ロシアの演奏家を聴けなくなったいま、この三国は救いだ。
リトアニアの賭博者、めちゃおもしろかった。

 というわけで、すっかりプロコフィエフの音楽にやられちまっている状況で、夢のなかでも賭博者鳴ってますぜ、やばいよ。

1_20221030220401

もう夢、見ませんように。

秋の夕景は美しい。

| | コメント (0)

2022年10月22日 (土)

ワーグナー 「ニーベルングの指環」 ティーレマン指揮

Ring-linden

ワーグナーの本場、ドイツはやはりすごかった。

昨年はベルリン・ドイツ・オペラでヘアハイム演出でリング4部作が上演完成し、今年はバイロイトで延期になっていたリングの通し上演がなされ、賛否両論を巻き起こす騒ぎとなりました。
またシュトットガルトでも順番に上演中で、さらにこの10月にはベルリン国立歌劇場でも1週間のうちにリングを通し上演する新演出公演がなされました。
指揮は当然に、この劇場に君臨してきたバレンボイムで、監督になって30年目、11月の80歳の記念上演となるはずでした。
今年の2月頃から体調がすぐれず、キャンセルを繰り返してきたバレンボイムですが、夏に復調を見せたにもかかわらず、医師から深刻な神経疾患ゆえリングの指揮にストップがかかりました。
バレンボイムはこれを機に、今後のこの劇場での指揮もふくめ、指揮活動も見直す発言をしてわれわれを驚かせました。

その代役といってはあまりあるほどの大物ティーレマンが選ばれ、ティーレマンとしては故郷ベルリンの老舗での指揮ということになり、3回のチクルスのうち2回を指揮することとなりました。
のこり1回は、この劇場の副指揮者でバレンボイムの弟子筋でもあるグッガイス。
彼は、ヴァイグレの後任としてフランクフルトオペラの音楽監督となる有望株です。

全4作がネット配信されましたので、すべてを喜々として聴いてみました。

演出はバレンボイムのお気に入りのチェルニアコフで、保守的なイメージの先行するティーレマンもチェルニアコフの才能は高く評価していると表明してました。
その手掛ける演出は、さながら心理劇のような複雑な考察を持ち込んだもので、舞台も人物も完全に設定替えをしてしまう、そんな天才肌のチェルニアコフ。

公開画像とほんの少しのyoutube映像からは、いつものこの演出家らしい閉ざされた空間と、小割りにした左右・上下に連続する部屋、天井の低さを犠牲にしても複層的に階上も利用する巧みさなどを確認できる。
これらの空間が回り舞台のように場面展開とともにクルクルと動いて、登場人物たちが移動したりする。
こうした舞台設定のなかで、人物たちはまるで映画俳優に求められるような、大胆かつ細やかな演技をしつつ歌うわけで、歌手への負担はとても大きいと思う。
 そしてなにより、大胆な読み替えもあることから、本来のドラマと音楽とを知悉していないと途方にくれることになるは、毎度のチェルニアコフ演出の術。

短いトレーラーを見ただけでもワクワクしてしまう面白さ。
これは確実に映像化されるだろう。
観たくてしょうがない。

ドイツの評論を読んでみた。
またちょっと長めのトレーラーも見たので半ば推測の域ですが。
舞台はウォータンが所長をつとめる研究機関で、その名も「ESCHE」と書いてある。
調べたら「トネリコ」の意味だった。
いくつもの部屋は緻密に区割りされていて、実験室、待合室、講堂、体育館、ガラス張りの家、廊下、エレベーター室、檻などなど。

Gott-2

上記はおそらくその平面図で、下のフロアは3人の老いたノルンとブリュンヒルデ、黄色い服はジークリンデが着ていたレガシーだろう。
ともかくすべてが細かいから映像向き。

1960年代から現代までを、研究室を舞台に4つの楽劇で睡眠療法やらストレス療法、心理療法とやらをやっていて、神々たちは支配者と上級の研究者であり、人間や巨人たちは実験体で、地下作業場ではそれに対立するニーベルング族が労働を強いられている。
ジークムントは自閉症ぎみの逃亡者で、ジークリンデもホームレスで同じ症状で突発的行動をとり、フンディングは警官。
ガラス張りの部屋の外や階上からは所長ウォータンが常に動向を監視。
ラインの乙女も、ワルキューレたちもみんな研究所のスタッフ。
ブリュンヒルデを囲う炎はなし。
ジークフリートはアディダスのジョギングスーツを着たやんちゃ坊主だが、これもまた実験体。
おもちゃやレゴを与えられて育ったが、それらを破壊し、火をつける、その行為が剣を鍛える場面とは。。。
ミーメは神経質な老人で、ファフナーは拘束着をつけた野蛮人で係員にジークフリートのところへ連れてこられぶっコロされる。
森の小鳥も白衣のスタッフさんで、ジークフリートを所内をくるくると案内してブリュンヒルデの元へいざなう。
あとわからないのがギービヒ家の立ち位置で、ウォータンは所長を引退しており、あらたなビジネスとして取り組んでいるのがギービヒ家なのだろうか?上級市民風に見える。
ジークフリートはグンターに化けることなく、そのままでブリュンヒルデの前にあらわれるので、これはブリュンヒルデは精神的にもキツイだろう。
ジークフリートは体育館でバスケットボールに興じるなかで、登り旗の先っぽで刺されてしまう。
イジメを受けて死んだジークフリートの周りで後悔する人々。
ここからラストがどういう展開か、ほんとに見てみたいし知りたい。
ひとり生き残るのがブリュンヒルデで、彼女は自己犠牲に殉ずることはない模様。
※ラストシーンはワーグナーが草稿の段階で書いていた結末の台詞を背景にブリュンヒルデが旅立つ様子を描いたようだ。
「わたしは世界の終わりを見た」というものだろう。
実験の失敗、あたらしい人間の創造の失敗・・・・・

黄金なし、剣なし、槍なし、炎なし、ライン川なしのないないずくしの室内リング。
ここまで解釈を施してしまうのがチェルニアコフだし、昨今の演出。
面白いし刺激を受けることにおいては最高の楽しみだろう。
しかし、室内的な空間でワーグナーの壮大なドラマが矮小化されてしまうのも事実だろう。

ベルリンにおいては、昨年のヘアハイム演出よりは上位だとの見方のようですが、さていかに。

画像と動画はすべてベルリン国立歌劇場のサイトからお借りして引用しております。

Alle Bilder und Videos stammen von der Website der Berliner Staatsoper


  ワーグナー 楽劇 四部作「ニーベルングの指環」

   クリスティアン・ティーレマン指揮

    ベルリン国立歌劇場管弦楽団

Rg

 

  「ラインの黄金」

ウォータン:ミヒャエル・フォレ  ドンナー:ラウリ・ファサール
フロー :シャボンガ・マキンゴ  ローゲ:ロランド・ヴィラソン
フリッカ:クラウディア・マーンケ フライア:アンネット・フリテッシュ
エルダ :アンナ・キスユジット    ファゾルト:ミカ・カレス
ファフナー:ペーター・ローゼ   
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル
ミーメ :ステファン・リューガメーア   
ウォークリンデ:エヴェリン・ノヴァーク 
ウェルグンデ:ナタリア・スクリッカ 
フロースヒルデ:アンナ・ラプコプスカヤ

                      (2022.10/2)


Wa_20221020092001


 
 

   「ワルキューレ」

ジークムント:ロバート・ワトソン 
ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィチウテ 
フンディンク:ミカ・カレス    
ウォータン:ミヒャエル・フォレ

フリッカ:クラウディア・マーンケ 
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ
その他ワルキューレのみなさん

                    (2022.10.3)

Sie

  

 「ジークフリート」

ジークフリート:アンドレアス・シャガー 
ミーメ:ステファン:リューガメーア
さすらい人:ミヒャエル・フォレ 
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル
ファフナー:ピーター・ローゼ  エルダ:アンナ・キスユジット
ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ      
森の小鳥:ヴィクトリア・ランデム

                             (2022.10.6)

Gott

  

  「神々の黄昏」

ジークフリート:アンドレアス・シャガー  ブリュンヒルデ:アニヤ・カンペ
グンター:ラウリ・ファサール       ハーゲン:ミカ・カレス
アルベリヒ:ヨハンネス・マルティン・クレーンツェル 
グルトルーネ:マンディ・フレドリヒ       
ワルトラウテ:ヴィオレッタ・ウルマーナ     
第1のノルン:ノア・ベイナルト      
第2のノルン:クリスティーナ・スタネク 
第3のノルン:アンナ・サミュエル   
ウォークリンデ:エヴェリン・ノヴァーク 
ウエルグンデ:ナタリア・スクリッカ  
フロースヒルデ:アンナ・ラプコプスカヤ
エルダ:アンナ・キスユジット     ウォータン:ミヒャエル・フォレ

                      (2022.10.9)


神々の黄昏でカーテンコールに出てきたチェルニアコフに対し、盛大なブーイングがなされていたけれど、音楽面ではティーレマンのそれこそ壮大な指揮が実に素晴らしいと思った。
聴きながら、腰を低く構え、両腕を開きつつ指揮棒の丸い持ち手を揺らしながらも、堂々としたティーレマンの指揮ぶりが脳裏に浮かんでしようがなかった。
ともかくテンポがじっくりで、揺るがせにしない巨大な音楽が終始鳴り響く。
いろんなモティーフがじっくりと歌われるし、弦楽のいろんな刻みもこんなに克明に弾かれると驚きの効果を生むし、こんな風になってたのかと聴いていて驚くか所もたくさんあった。
それでいて、緻密で細やかな配慮にもことかかず、音楽はときに繊細ですらあった。
若い頃には唐突なパウゼがいかにも不自然だったが、いまや舞台の進行や人物たちの心理にも寄り添うように、ときおり起こすタメはとても音楽的だった。
ワルキューレ2幕のウォータンの、終末を望む強い言葉「Das Ende」を繰り返すが、そこにあったパウゼは、これまで聴いたワルキューレのなかで、一番、最大に長かったし、緊張の瞬間でもあった。

演奏時間が演奏の良しあしではないが、ティーレマンのリング演奏時間の違いは過去演と比較するととても大きい。
ウィーンでのリングを持っていないので、バイロイトでの演奏家から、2008年の正規盤でなく、2006年の手持ちライブで比較。

           2006年      2022年

ラインの黄金    2時間30分     2時間47分 

ワルキューレ    3時間42分     3時間53分

ジークフリート   4時間1分       4時間5分

神々の黄昏     4時間25分     4時間42分

年齢を重ねてテンポが伸びるのはよくあるが、ティーレマンの演奏はより中身が濃くなっていると同時に、音楽の繊細さも増していると思う。
ラインの黄金と黄昏における長大さは、今回のドイツの評でも指摘されていた。
オーケストラもこらえ切れない場面も散見されたが、ティーレマンの指揮にベルリンのオケも聴衆も間違いなく魅了されたことだろう。
バレンボイムのあともありだ!

このティーレマンの指揮に、微に入り細に入りぴたりと符合するように繊細で細やか、そして滑らかな語り口で、きっと演技にも巧みに合わせていたであろうウォータンがフォレ。
この滑らかかつ饒舌なフォレと丁々発止と絡むのが、マイスタージンガーでもいつも共演しているクレーンツェル。
このアルベリヒの巧みさも文句なしで、神々の黄昏ではすっかり老いてしまっているのも歌でよくわかるほどの演技派。

思えば、イゾルデ、クンドリーとシャガーとともに共演し、そこでもバレンボイム&チェルニアコフだったのが、アニヤ・カンペのブリュンヒルデへの挑戦。
背伸びした役柄でもあるが、彼女らしく繊細・細やかな歌い口で、静かなシーンではとても感動的で、父娘の会話などフォレの名唱とともになかなかに感動的だった。
しかし、ジークフリートと黄昏のラストではかなり厳しい局面となってしまった。
 一方の相方のシャガーはジークフリートにもすっかりなじんで、天真爛漫そのもの。
トリスタンの映像でも、今回のジークフリートの映像の一部でも、チェルニアコフの指示だろうけど、ずいぶんとファンキーな動作をしていて笑える。

ハーゲンをはじめ、リングの悪方3役を巧みに歌ったカレスは、声が明るめなバス。
ローゲに果敢に挑戦した新境地打開のヴィラソンさん、声に灰汁が濃すぎて、見た目のげじげじさんも不評だったようだが、私は応援したい。
小柄なリトアニア出身のジークリンデ、ミクネヴィチウテさん、すてきな歌唱だった。
好きなメゾ、マーンケさんのフリッカも安定感あるうまさ。
ジークムントのアメリカ人テノールは、そのお声がアメリカンすぎる歌いまわしで不評、でもわたしは今後よくなると思った。
ミーメのリューガメーアはまさに職人気質の性格テノールで実によろしい。

歌手はやはりリンデン・オーパーなだけにコネクションの豊富さもあり、ドイツ・オペラに比べると充実の極み。

ともかく、歌手のみなさん、たいへんです、お疲れ様です、といいたい。

リンデンオーパー、日本にバレンボイムとなんどもやってきてくれた。
その前、スゥイトナーの時代にも、数限りなく来日してくれた。
ふたりの監督のオペラやオケ公演を幸いにして何度か接することができたが、もしかしたらこの先、ティーレマンとの来演となるのだろうか。
ドレスデンの指揮者が、かつてはコンヴィチュニーやスゥイトナーのようにベルリンでも長く活躍する、そんな先達のなおれのように、ティーレマンも受け継ぐのだろうか。

バイロイト以外のドイツのワーグナーの演奏史はこうして受け継がれていくことに、安堵している。

| | コメント (0)

2022年10月12日 (水)

ヴォーン・ウィリアムズ ロンドン交響曲&南極交響曲

Cosmos-1

9月最初の頃の吾妻山。

ここはコスモスが早く咲きますが、今年はやたらと早くて7月の終わりごろから咲き始めて、お盆明けにはもう萎みはじめてしまいました。

やたらと暑かった今年の夏、いろんなことがありましたが、季節の巡りがどんどん早くなっているような気がしてなりません。

今年はヴォーン・ウィリアムズの生誕150年、そして10月12日が誕生日です。

9曲ある交響曲、いずれも個性的な作品ですが、その様相からいくつかのカテゴリーに分けることができます。

田園情緒あふれる抒情的な3番(田園)と5番はすでに記事にしましたが、今回は描写的なスクリーンさえ思い浮かぶような作品をふたつ。

Rvw-sym2-hickox_20221012084101

  ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第2番「ロンドン」

    リチャード・ヒコックス指揮 ロンドン交響楽団

       (2000.12.19 @オール・セインツ教会)

ロンドンという巨大な都市の一日を描いた交響曲。
過去記事を手を入れながら。
この街の風物や、住む人を通して描いてみせた4つの楽章のがっちりした立派な構成のちゃんとした交響曲。

英国作曲家たちを語る上で、二つの世界大戦の影響は避けては通れない。
長命だったRVWゆえに、二つの戦争が影を落とした作品も多く、そのひとつが「ロンドン交響曲」で、第一次大戦開始直前に書かれていて、このあと従軍してフランスで活動もしている。

活気ある都会を描きつつも、終楽章では失業者であふれるロンドンの様子が陰鬱にも表現されていて重苦しい気分にさせる。

第1楽章「テムズ河畔のロンドンの街の夜明け~市場や街の朝の雑踏」
第2楽章「大都会の郊外の静やかな夕暮れ」
第3楽章「夜想曲~夜の繁華街」
第4楽章「不安な大都会~失業者の行進」

活気あふれる都会が目覚め、生き生きとしてくる場面を巧みに描いた1楽章。
第2楽章の抒情的な音楽は、RVWならではで、3番や5番と同じ雰囲気もあり、これを聴きながら、先に崩御されたエリザベス女王を偲ぶこともできる。
夜の雑多な雰囲気を感じさせる3楽章もロンドンの街の姿だろう。
暗い雰囲気の4楽章、途中、雑踏のにぎやかさもぶり返すが、最後はまた不安に覆われ、ウェストミンスター寺院の鐘が鳴りつつ静かに終わる・・・・。


都会は賑やかで華やかだけど、その陰には不安もいっぱい。
時間だけが流れるように通り過ぎてゆくのも、いまの都会は同じく。

ヒコックスは、7番「南極」と9番を残して急逝してしまったが、シャンドスに残した残りの交響曲は、いずれも精度の高い、RVWへの共感あふれる名演ばかりで、おまけに録音も極上。
このロンドン交響曲の録音では、RVWが作曲ののちに手をいれて軽減化してしまった現行の通常版でなく、作曲当時の原典版による録音であることが画期的。
 その相違は、繰り返し的に現れる展開をもっと簡略化し、全体の演奏時間も10分ほどスリム化した現行版に対し、各楽章にいろんな局面で繰り返しやモティーフの追加を行っているのがオリジナル版。
聴き慣れたこともあるが、通常版のほうがスムーズだし、曲のイメージはストレートに伝わってくる。
でも、大きな違いは2楽章の悲しみの発露がより大きいことと、終楽章がくどいことを通り越して、ロンドンという街の大きさを巧ますじて表していること。
全体で、10分以上長い原典版。
その分、深刻さも増してます。

Rvw-7-haitink-3

   ヴォーン・ウィリアムズ 交響曲第7番「南極」

      S:シーラ・アームストロング

  ベルナルト・ハイティンク指揮 ロンドン・フィルハーモニック

       (1984.11 @アビーロードスタジオ)

R・シュトラウスばりの標題性豊かで、写実的な交響曲。
「アルプス交響曲」の南極バージョン。
オルガンがギンギンに鳴って大氷河の絶壁や孤高の絶景を思わせるし、ウィンドマシンも極めて寒々しい効果をあげている。
さらに、ひょこひょこ歩きのペンギンまで巧みに模写される。
ヴォーン・ウィリアムズは多彩で、教会音楽やミサも残しつつ、シンフォニストでもあったし、オペラ作曲家でもあった。
エルガーとの違いはオペラ。
具象的な劇作品の有無においてまったく違うが、英国を愛することではまったく同じ。

多彩なRVWの9つの交響曲のなかでも、いちばん交響詩的かつ映画音楽風。
「南極のスコット」という映画につけた音楽をベースに自身で5楽章編成の交響曲に編み直した交響曲

作曲者はこの作品に「Sinfonia Antartica」というイタリア語の表記を与えた。
1951年、80歳という年齢での作品!
映画は1912年に南極点を目指したイギリス、スコット隊の遭難の悲劇を描いたものだった。
このスコット隊に先んじること1ヶ月前には、ノルウェーのアムンゼン隊が南極点に到達していて、アムンゼン隊は極点のみをひたすら目指したのに対し、スコット隊は学術的な研究や観察を経ながらの進行ゆえに時間の差と悲劇の遭難が生じたと言われる。

大編成のオーケストラによる「南極」の描写音楽という要素に加えて、大自然に挑む人間の努力やその空しさ、最後には悲劇を迎えることになり、その死を悼むかのような悲歌に終わる。
描写音楽に人間への警告も加えたような、こんな一大ページェント作品なのだ。

 シュトラウスのような楽天的な派手さはなく、常にミステリアスで、神秘の未知との出会いと危険のもたらす悲劇性に満ちた交響曲になっている。
氷原を表わすような寒々しく冷気に満ちたソプラノ独唱や女声合唱、おまけに滑稽なペンギンや鯨などの驚きの出会いが表現される。
怪我をした隊員が足手まといになることを恐れ自らブリザードの中に消えてゆくシーンまで、こんな悲しい場面もオーボエの哀歌を伴って歌われている。
 最終楽章では、大ブリザードに襲われ隊は壊滅をむかえてしまう。
嵐のあと、またソプラノや合唱が寒々しく響き、荒涼たる寂しい雰囲気に包まれる。
ウィンドマシンが空しく鳴るなか曲は消えるように終わってゆく・・・・

アルプス交響曲と南極交響曲をともに録音したのはハイティンクが随一だろう。
アルプス交響曲にいたっては、手持ちの音源で、コンセルトヘボウ2種、ベルリンフィル、ウィーンフィル、シカゴ、ロンドンなどとの演奏を手持ち。
それらの演奏がカラヤンのように、巧みに聴けせるのでなく、かっちりとした交響曲として壮大に起立するかのような存在として聴かせたのがハイティンク。
南極交響曲でも、探検隊彼らへのレクイエムのように慈しみを持ちつつも冷静な演奏に徹していて、長く聴くに相応しい普遍的な演奏となりました。

希望が無限なように思われる苦難を耐え忍ぶこと。
ひるまず、悔いることなく、全能と思われる力に挑むこと。
このような行為が、善となり、偉大で愉しく、美しく自由にさせる

これこそが人生であり、歓喜、絶対的主権および勝利なのである」(シェリー詩)
こちらが1楽章への引用句。

「私は今回の旅を後悔していない。我々は危険を冒した。
また、危険を冒したことを自覚している。
事態は我々の意図に反することになってしまった。
それゆえ、我々は泣き言を言ういわれはないのだ。」
  
遭難後、発見されたスコット隊長の日記。
終楽章に引用された一節。

いまの地球人にはこんな書き込みはできないだろう。
自然を制覇し、思いのままにできると思ってしまっている。
日本の山々を切り崩して行われる再生可能エネルギーなんてマヤカシものにしかすぎない。

RVWの描き、感じた自然への脅威を、人間は忘れてはならないし、自らが造った都会の暴走も意識しなくてはならないだろう。

Cosmos-2_20221001094801

冠雪まえのブルーな富士。

| | コメント (0)

« 2022年9月 | トップページ | 2022年11月 »