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2023年1月

2023年1月28日 (土)

シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」 アバド指揮

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このところの寒波で、丹沢の山々も今朝は白く染まりました。

1年前は、窓の外はビルばっかりだったのに、いまは遠くに丹沢連峰を見渡せる場所にいます。

子供の頃は、左手に富士の頂きが見えたのですが、木々が茂ったのか、まったく見えなくなってしまった。

でも、家を出て数秒上の方に行くと富士はよく見えます。

こんな気持ちのいい景色とまったく関係ない曲を。

それというのも、1月27日は「ホロコーストを想起する国際デー」だった。

wikiによると、「憎悪、偏見、人種差別の危険性を警告することを目的とした国際デーである。1月27日が指定されている。国際ホロコースト記念日とも呼ばれる。」とあります。

ホロコーストというと、ナチスの戦時における行為がそのまま代名詞になっているし、人類史上あってはならない非道なことだったけれど、ソ連もウクライナで同じことをやっているし、いまも戦渦にある場所は世界にいくつかある。
しかし、形骸化した国連組織は、いま現在起きている事実上のホロコーストを止めることはできないし、非難決議すらできない。
国連の常任理事国が、侵略している国だし、民族弾圧をしている国の2か国であることはもう笑い話みたいなことだ。

音楽blogだからこれ以上は書かないが、世界と社会の分断を意図的に図っている組織や連中があり、その背後にはあの国、K産主義者があると思う。
自由と民主の国にK産主義はいらん。

Fd-abbado

  シェーンベルク 「ワルシャワの生き残り」

    語り:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
               ベルリン放送合唱団

                        (2001.9.9 @ベルリン)

この音源は、私の私的なもので、FMから録音したカセットテープからCDR化したものです。
正規にないもので申しわけありませんが、今日、この日に聴きなおして衝撃的だったので記事にしました。

この日のベルリンフィルとの演目は、オールシェーンベルクで、「ワルシャワ」に始まり、ピーター・ゼルキンとのピアノ協奏曲、「ペレアスとメリザンド」の3曲でして、CDRにきっちり収まる時間。
自分としては、極めて大切な音源となりました。

アバドは、「ワルシャワの生き残り」を2度録音してまして、ECユースオケとマクシミリアン・シェルの語りの79年ライブ、ウィーンフィルとゴットフリート・ホルニックの語りの89年録音盤。
若い頃にも各地で取り上げていたはずで、アバドの問題意識の一面とその意識を感じます。

1992年に歌手を引退したフィッシャー=ディースカウ。
その後は朗読家としての活動を行ったFD。
そんな一環としてのアバドとの共演だった。
アバドがFDの現役時代に、共演があったかどうかわかりませんが、ヘルマン・プライとは友人としてもよく共演していたので、個性の異なるFDとはあまり合わなかったのかもしれません。

ここで聴く、一期一会のような緊迫感あふれる迫真の演奏。
いかにもディースカウと言いたいくらいに、言葉に載せる心情の切迫感と、とんでもない緊張感。
ベルリンフィルの切れ味あふれる高度な演奏能力を目いっぱいに引き出すアバドのドラマテックな指揮ぶり。
わずか7分ほどの演奏時間に固唾をのんで聴き入るワタクシであった。

以下は、過去記事をコピペ。

1947年アメリカ亡命時のシェーンベルクの作品。
第二次大戦後、ナチスの行った蛮事が明らかになるにつれ、ユダヤ系の多かったリベラルなアメリカでは怒りと悲しみが大きく、ユダヤの出自のシェーンベルクゆえ、さらに姪がナチスに殺されたこともあり、強い憤りでもってこの作品を書くこととあいりました。
クーセヴィッキー音楽財団による委嘱作。
73歳のシェーンベルクは、その前年、心臓発作を起こし命はとりとめたものの、その生涯も病弱であと数年であったが、この音楽に聴く「怒りのエネルギー」は相当な力を持って、聴くわたしたちに迫ってくるものがある。
  12音技法による音楽でありますが、もうこの域に達すると、初期の技法による作品にみられるぎこちなさよりは、考え抜かれた洗練さを感じさせ、頭でっかちの音楽にならずに、音が完全にドラマを表出していて寒気さえ覚えます。

ワルシャワの収容所から地下水道に逃げ込んだ男の回想に基づくドラマで、ほぼ語り、しかし時には歌うような、これもまたシュプレヒシュティンメのひとつ。
英語による明確かつ客観的な語りだが、徐々にリアルを増してきて、ナチス軍人の言葉はドイツ語によって引用される。
これもまたリアル恐怖を呼び起こす効果に満ちている。


叱咤されガス室への行進を余儀なくするその時、オケの切迫感が極度に高まり、いままで無言であった人々、すなわち合唱がヘブライ語で突然歌い出す。
聖歌「イスラエルよ聞け」。
最後の数分のこの出来事は、最初聴いたときには背筋が寒くなるほどに衝撃的だった。
この劇的な効果は、効果をねらうものでなく、あくまでもリアル第一で、ユダヤの長い歴史と苦難を表したものでありましょう。
抗いがたい運命に従わざるを得ないが、古代より続く民族の苦難、それに耐え抜く強さと後世の世代に希望を問いかける叫びを感じるのであります。


フィッシャー=ディースカウとアバド、マーラーやシューマンで共演して欲しかったものです。

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寒さは続く。

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2023年1月20日 (金)

チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」 アバド指揮

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地元の海の1月のある日の日没。

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日が沈む瞬間の輝きは眩しいほどに美しかった。

1月20日は、クラウディオ・アバドの命日です。

アバドは「悲愴」の録音を4種残しました。

同じチャイコフスキーの5番とともに、ずっと指揮してきた重要レパートリーのひとつです。

 チャイコフスキー 交響曲第6番 ロ短調 op74 「悲愴」

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  ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

      (1973.10.1~ @ムジークフェライン、ウィーン)

1973年の初来日、日本から帰った数カ月後にウィーンで録音されたのが「悲愴」。

日本発売されたその日に、高校生の自分、速効買いました。

ムジークフェラインの響きを、まともに捉えた生々しい録音は、硬くなく柔らかでとてもリアルな音だった。
そこには、いまとは違うウィーンフィルのウィーンフィルの音としての音色と響きが、しっかりとここに刻印されておりました。
柔らかな音楽造りするアバドの持ち味が、ウィーンのまろやかなサウンドと相まって、実にピュアな「悲愴」となっておりました。

高校時代の日々、毎日飽くことなく聴きましたね。
冒頭のファゴットと低弦のあとの木管は、ウィーンの楽器が耳に刷り込まれているので、ほかの楽団の楽器では物足りないと思うようになった。
当時のウィーンフィルは、現在と違ってチャイコフスキーを演奏することなどあまりなく、若いアバドにすべてをゆだねてしまったようで、出てくる音はどこまでがアバドか、どこまでがウィーンフィルかわからないくらいに、幸せな共同作業になっていると思う。

4つあるアバドの悲愴のなかでは、いまでもこれが一番好きです。
アバドは10年後の83年にウィーンフィルとコンサートで取り上げてまして、NHKでも放送され、わたくしも録音しましたが、そのCDRがどこかへ行ってしまった・・・
もったいないことしました。 

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   シカゴ交響楽団

      (1986.11.10 @シカゴ)

ウィーン盤から13年後、アバドはその間、スカラ座、ロンドン響、ウィーン国立歌劇場に加えて、相性のよかったシカゴでもポジションを得て、指揮界の頂点にさしかかる途上にあり、そのシカゴとの悲愴再録音。
チャイコフスキー全集の3作目で、ここではやはり、シカゴの高性能ぶりが際立ち、克明なアンサンブルと音の明快さ、金管の輝かしさなどが目覚ましいです。
アバドの流麗な音楽造りは自然さも増して、流れるようにスムースに音楽が進行するが、そこにあふれる歌はもしかしたらウィーン盤以上かもしれない。
ことに2楽章がほんと美しい。
ただいつも書くことかもしれないが、録音が私には潤い不足に感じ、これがDGだったらと思わざるをえません。
またはオケがボストン響だったら、チャイコフスキーの場合はよかったかもしれない。

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  ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

    (1993.8.23 @ザルツブルク音楽祭)

指揮者とオーケストラの集中力と、それが引き起こす熱気は尋常ではない。(以前の記事より)
第1楽章が歌いまくりつつも終始熱いまま終え、オケの隅々まで気持ちよさそうな第2楽章を経て、元気な第3楽章では最初のほうこそ手堅くきっちりと進行するものの、徐々にテンションが上がってきて、テンポもあがって最後は熱狂的になる。
そのエンディングから息つく暇もなく、アタッカで始まる最終楽章。
これが、この演奏の白眉。
歌いまくる弦に、思いの丈を入れ込んだ管、むせび泣くような金管にメリハリの効いたティンパニ。
強弱の幅もはっきりしてて、高性能のオーケストラが、すべてをかなぐり捨てて、熱く燃え上がるアバドの棒のもとにその思いを集中させている。
ここでは、めったに聞くことができないアバドの唸り声も聴こえる。
この頃のアバドはライブで燃え上がり、ベルリンフィルもアバドの魅力に取りつかれつつある時期だった。

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  シモン・ボリヴァル・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ

   (2010.3.18 @ルツェルン)

ベルリンを退任してから、ルツェルン祝祭管との活動と併行して、アバドはマーラー・ユーゲント、マーラー室内管、モーツァルト管など、若者のオーケストラをますます指導、指揮するようになっていった。
そんな一貫として、キューバやベネズエラを訪れ、独自システムにより音楽への道を歩んでいた若者を指導するようにもなりました。
シモン・ボリヴァルの若いオーケストラを積極的にヨーロッパに紹介し、自ら指揮したり、ドゥダメルを推したりもしたアバド。
唯一の音源が彼らをルツェルンに引き連れていったコンサートのものです。
プロコフィエフの「スキタイ」組曲、ベルクの「ルル」組曲、モーツァルトの「魔笛」のアリア、そして「悲愴」交響曲という盛りだくさんのコンサート。
このなかでは、個人的にはプロコフィエフが一番よいと思う。
そして「悲愴」は、アバドらしく流動的な滔々と流れるような演奏で、句読点はあえて少なめにサラリとした感触を受けます。
ルツェルンの仲間たちとの一連のマーラーのように、無為の境地にある指揮者に、オーケストラが夢中になって演奏している様子が見て取れる。
映像で観ると、若い奏者たちは譜面に夢中だけど、体を大きく揺らし演奏しつつも前に立つ指揮者のオーラに感化されゆく姿もわかります。
しかし、ここでも欲をいえば、ルツェルンのオケだったらどうだっただろうかという気持ちになります。
シモン・ボリヴァルの若者オケは彼らの良き個性だと思うが開放的にすぎて、音が広がりすぎて聴こえます。
編成も大きいので、緻密に簡潔な演奏をするようになった晩年のアバド様式にはちょっと・・という気がしました。
メンバーのなかに、ベルリンフィルやルツェルンのオケでのちに見るようになる顔や、ホルンに今やモントリオール響の指揮者となったラファエル・パヤーレの姿も見受けられます。

こうしたとおり、アバドが愛し、育てた音楽家が世界でどんどん活躍するようになってます。
これぞ、アバドが願い、目指し、築いた音楽の世界だったと日に日に思うようになりました。
アタッカで終楽章に入るアバドスタイル。
アバドの思いを考えながら、少し照明を落として演奏されている4楽章が消えるように終わり、長い沈黙のあと拍手が始まる。
アバドは感謝するように手を合わせてました・・・・

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アバドの命日の記事

2022年「マーラー 交響曲第9番」

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」
  
2014年「さようなら、アバド」

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2023年1月14日 (土)

ワーグナー「リエンツィ」スタインバーグ&ヴァイグレ指揮

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相模湾です。
あまりの沖合なので、うっすらとしか映りませんでしたが、昨秋行われた国際観艦式を見てやろうと吾妻山に登りました。
12か国が参加した観艦式。
遠目にも艦隊とわかるその姿、何船も見えるそのシルエットは相模湾とは思えませんでしたね。

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バイロイトでは上演されない、「さまよえるオランダ人」より前の3作。
「妖精」「恋愛禁制」「リエンツィ」

正式名は「リエンツィ 最後の護民官」。

当ブログ2度目の初期作を交えたワーグナー全作を取り上げるシリーズ、ようやく「リエンツィ」です。
過去記事に手を入れながら再掲します。

「妖精」は、ウェーバーの影響を受けつつ、マルシュナーのような幻想世界をも意識したドイツロマン派の流れに、ベルカント的な要素も取り入れた折衷的なオペラ。

恋愛禁制」は、一転してこれがワーグナーかと思わせるようなブッファの世界で、ロッシーニ的な劇の進行もあったものの、しっかりとワーグナー的な分厚い音が出てきた。

リエンツィ」は、史劇をもとにした、これまでとまた異なるグランド・オペラの世界となり、尺も長大となり、ここでもワーグナーのスタイルを確立するにいたった。

指揮者として活動していたロシア領のリガで「リエンツィ」の構想を練り始めたワーグナーだが、かさんだ借金から逃亡するように、ロンドンを経てパリへ赴く。
マイヤーベア風のグランドオペラスタイルになっているのも、パリで書かれ、そこで上演を目論んだから、というのが最大の理由。
パリで一花咲かせ、借金も返済しという目論見で、オペラ座での初演を画策しつつ1840年に完成させ、同時に台本も作り上げていた「さまよえるオランダ人」の作曲も開始した。
この間、屈辱的なアルバイトで困窮を耐え忍び、音楽系の新聞に寄稿したり、小説を書いたりすることで、表現者としての自己満足に安住する日々だったようだ。
こうした耐乏の2年間を過ごし「オランダ人」も完成。
「闇夜、困窮のなかに茨の道を通って栄光の世界へ。神よこれを与えたまえ」と書き残してもいるワーグナー。
オペラ座から声がかからず、ひたすら耐えること2年で、「リエンツィ」と「オランダ人」のドレスデンでの初演が決定した。
かつて捨てた第2の故郷とも呼ぶべきドレスデンへと帰ったワーグナー、1842年の「リエンツィ」初演は規格外の大成功となった。
ワーグナーの伝記映画で、子供たちがリエンツィの勇ましい曲を吹き鳴らしながら行進しているシーンがあって、きっとドレスデンの市民たちも、あの序曲で出てくるテーマに熱狂したものと想像できる。

史劇の「リエンツィ」と神話や伝承に題材をとり、ライトモティーフを活用した「オランダ人」が同時期に書かれ、オランダ人以降の有名作とのタイムラグはほとんどなかった「リエンツィ」。
ワーグナーのスタイルの確立は、「リエンツィ」であったといえるだろう。
ワーグナーが自身の立ち位置を、性格のまったく異なる初期3作で順次確立したわけである。


序曲ばかりが超有名な5幕のロングなオペラは、カットなしだと3時間40分もかかる。
完全全曲盤は、ホルライザー盤とサヴァリッシュ盤のふたつで、30年ぶりの新盤、3つ目のヴァイグレ盤は合理的なカットを施した短縮版で2時間45分。
同様にP・スタインバーグのDVDも短縮版による上演です。

「平民の出であるリエンツィは貴族たちの横暴に対して平民の自由のため立ち上がり、熱狂した市民たちは国王になってもらいたいと乞われる。しかし、リエンツィは護民官と呼ばれたいという。
貴族たちはリエンツィを殺そうとし、ローマの新皇帝と教皇も貴族たちの奸計によりリエンツィを弾圧する。
扇動された無知な市民たちはリエンツィに反抗的な態度を見せるようになり、リエンツィは教会側から破門。
市民はリエンツィに投石し、彼の話など聞かなくなり、宮殿に火をつけてしまい、リエンツィはその火焔のなかに姿を消す・・・」

ざっくりとこんなストーリー。

実際に存在した「コーラ・ディ・リエンツォ(1313~1354)」は、公証人から政治家になった人物で、貴族批判をつらぬき、最後はやりすぎの施策から諸方から嫌悪され殺されてしまう劇的な人生を送った人物のようだ。
思えば、ワーグナーの好みそうな存在だったわけだ。

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  ワーグナー 歌劇「リエンツィ」

 リエンツィ:トルステン・ケルル
 イレーネ(妹):マリカ・シェーンベルク
 アドリアーノ(妹の恋人、コロンナの息子):ダニエラ・ジンドラム
 コロンナ(貴族):リヒャルト・ヴィーゴルト
 オルシーニ(貴族):シュテファン・ハイデマン
 枢機卿オルヴィエート:ロベルト・ボルク
 バロンェッリ(リエンツィの同士):マルク・ヘラー
 チェッコ(リエンツィの同士):レオナルド・ネイヴァ
 平和の使者:ジェニファー・オローリン

ピンカス・スタインバーグ指揮 トゥールーズ・キャピタル管弦楽団

               トゥールーズ・キャピトール合唱団
               ミラノ・スカラ座アッカデミア合唱団


      演出:ジョルジュ・ラヴェッリ
 
                           (2012.10  @キャピトール劇場、トゥールーズ)

10年前の上演時当時、3時間出ずっぱりの難役、リエンツィを歌わせては随一だったのがトルステン・ケルルで、ケルルの出た2010年のベルリン・ドイツ・オペラでの舞台もDVD化されてましたが、ナチスを思わせるその舞台に嫌気を覚えたのでフランスのこちらを選択。
しかし、観た途端にがっかり・・・・というか殺伐としすぎて、人間味がゼロで幕が下りたあとに、後味の悪さが残る舞台だった。
直接感はないが、やはり独裁者を思わせる演出。

この演出では、時代設定は衣装などからルネッサンス期で忠実とを思わせたがいかがだろうか。
市民、貴族、聖職者、近隣諸国指導者といった登場人物たちは、その衣装からうまく対比されているが、その人物たちのすべての顔は白塗りで、ここがキモイというか、殺伐としすぎて感じた次第だ。
白塗りの顔は、いろんなものに変化できる、という比喩なのだろうか。
市民に称賛され担がれたリエンツィが、今度は批判され貶められてしまう、そんな移り気な人間たちを描こうとしたのだろう。
仲間が豹変してしまい、白塗りのうえにさらに仮面をつけてしまう禍々しさもあった。

舞台装置はほとんどなくシンプルだが、舞台奥に重層的な檀があり、そこに聖職者たちが並んで歌う場面はなかなかに効果的だったし、教会の内部を照明でうまく表したのもよい。
でも何度も見返したくなる舞台とは思わなかったな。

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ケルルのリエンツィが、ルネ・コロを忘れさせるくらいの素晴らしい歌唱だ。
持ち味のほの暗い中低域に、よく伸びるスピンとした高域とムラのない素晴らしい声。
アップになるとビジュアル的に白塗りがキツイ姿だが、あまり演技力を要求されない演出だけによかったという皮肉な面もあり。
アドリアーノ役の迫真の歌唱もよかったし、妹イレーネのリリカルな歌も存在感ありでかつ清々しい。
合唱団のなかに、東洋人が散見され、白塗りはキョン〇ーに見えてしまいなんともいえない。

最近名前をあまり聴かなくなった、ピンカス・スタインバーグのきびきびととしあ音楽造りは、ここでは曲の冗長さを補っていて、トゥールーズの明るいサウンドもワーグナーの若書きの音楽に彩りを添えていた。
ウィレム・スタインバーグの息子、ピンカス氏も70歳後半で、かつてよくN響に来てたし、いまはブタペスト・フィルの指揮者のようだ。

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 リエンツィ:ピーター・ブロンダー
 イレーネ:クリスティアーネ・リボール
 コロンナ:ファルク・シュトルックマン
 アドリアーノ:クラウディア・マーンケ
 オルジーニ :ダニエル・シュムッツハルト
 枢機卿オルヴィエート:アルフレート・ライター
 バロンチェリ:ベアウ・ギブソン
 チェッコ:ペーター・フェリックス・バウアー

セヴァスティアン・ヴァイグレ指揮
 
  フランクフルト歌劇場管弦楽団/合唱団


     (2013.5.17~20 @アルテ・オパー、フランクフルト)

30年ぶりの音盤は、ワーグナー生誕200年の際に行われた演奏会形式による初期3作のフランクフルトにおけるライブ。
これはまず、ヴァイグレの気合のこもった熱意ある指揮ぶりを讃えたい。
文字通り、一気呵成といった感じで、舞台を伴わない、しかも一般的に聴き慣れていない音楽の冗長さを聴き手に飽きさせないように、巧みにメリハリをつけて聴かせてくれる。
テンポは快速で、これはこれで大胆な演奏とも言えそうだ。
しかし、ホルライザー盤がドレスデンの音色も手伝って聴かせてくれた味わいや、サヴァリッシュの舞台と一体となったスタイリッシュかつ熱狂感などとは遠く、やや乾いて、遠くに聴こえたのも事実。
舞台での上演だったら違っていたかも。

リエンツィ役のドイツ系イギリス人歌手ブロンダーは、この役にしては声が軽く、どちらかと言うとローゲとかヘロデを持ち役にするようなタイプなので、ヒーロー感は薄い。
マーンケのアドリアーノの強靭な声、シュトルックルマンの性格的なコロンナ、リボールの優しいけれど一本気な歌唱もよし。
合唱団もふくめ、オペラハウスのまとまりのよさが強み。

初期3作のボックスセットが格安になっているので、これらのオペラを聴き馴染むようにするには最適の一組です。

日本では、若杉弘がコンサート形式でハイライトを94年に、同じく若杉弘が藤沢市民オペラで98年に舞台初演を行っている。
その上演に立ち会えなかったのが痛恨でありました。
「妖精」は舞台観劇経験あり、あと「恋愛禁制」と「リエンツィ」を体験できれば、ワーグナー全作観劇達成となりますが、はたしてこの先なりうるでしょうか・・・・

14世紀ローマ

第1幕

 ラテラーノ教会へ向かう路上、貴族のオルシーニ一行が現れリエンツィの妹イレーネを誘拐する。
ここへ同じ貴族コロンナ家が通りかかり、それを逆に奪おうともみ合いが始まる。
コロンナの息子アドリアーノ(ドラマテック・ソプラノ役)は、愛するイレーネを助けようとするが、そこへ民衆も加わり大騒ぎとなる。
ライモンド枢機卿が鎮めようとしても無理。
そこへ、リエンツィが登場して貴族たちに世界の法律と謳われたローマの栄光はどこへ!と大熱弁をふるい民衆を熱狂させ、「リエンツィ万歳!」と叫ぶ。
成り上がりものめと、不満をぶつける貴族たちは、いずれ見ておけと城壁の外へと去ってゆく。
リエンツィは、貴族たちが今後一切横暴なことはしないと誓わない限り城内にはいれないことを提案し、枢機卿や民衆の賛同を得る。
 イレーネは自分を助けてくれたアドリアーノをリエンンツィに紹介する。
アドリアーノが「民衆の力で何をするのか」と問うと、リエンツィは「ローマの解放と自由都市の実現」と答える。
貴族の立場ではそれに従えないし、イレーネを愛してるしで、心境は複雑なアドリアーノである。
 ここで、ソプラノ二人による愛の二重唱となる。

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やがて民衆が集まり、武装したリエンツィを迎えると、人々は「リエンツィを王に!」と叫ぶが、リエンツィは自分はあくまで「護民官」として欲しいと応え、「リエンツィ万歳!護民官万歳!」と讃える。

第2幕

カピトール宮殿内。
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城外の貴族たちは治安を守る宣誓をしたうえで、城内に戻っていて、ローマは一時的に平穏になった。
使者からもその平和の知らせを受けるリエンツィである。
 貴族のコロンナとオルシーニも挨拶にくるが、そのあとオルシーニはコロンナにお前それでいいのか、と反逆をそそのかし、二人してリエンツィ暗殺を相談する。
それを影で聞きつけたアドリアーノは、リエンツィに忠告するが、衣装の下に甲冑を着けているから大丈夫と答える。
 ここで各国へも手を打った結果として、諸国の使者を接見し、平和の祝賀会が始まり、長大なバレエが挿入される。
リエンツィは諸国使者に神聖ローマ帝国への忠誠を示唆するような発言もして、諸国の連中はえ?ってなる。
やがて計画通りオルシーニが刃物でリエンツィを襲うが、甲冑によって未遂に終わる。
捕らわれた貴族たちの人民裁判がすぐさま行われ、死刑が求刑される。

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アドリアーノとイレーネが、父コロンナの助命を嘆願し、リエンツィは躊躇しつつも心動かされ、人民がそれを望むなら・・・、として、再び平和を守ると誓わせて許すことと相成った。
許された貴族たちは、逆に情けをかけられたとして馬鹿にされたと内心、怒りを覚える。
 市民の急進派でリエンツィの支持者バロンチェリとチェッコは、ほんとにいいのだろうか、甘すぎないかと不安を隠せない・・。


第3幕

古代の広場。
ローマを離れた貴族たちが武装してローマに攻めてきていることが判明。
リエンツィは、民衆を鼓舞して反乱軍を迎え撃ち戦おうと立ち上がる。
 一人残ったアドリアーノは、ついに父と恋人の板ばさみになってしまったことを嘆いて歌う。
進軍ラッパが鳴り、戦場に向かうリエンツィたちを追い、父とともに戦おうと飛び出そうとするが、イレーネに懇願され引き止められる。
 やがて戦いで夫や子供が亡くなってゆくことを女性たちは嘆く、一方でリエンツィが勝利して凱旋してくる。
コロンナとオルシーニの死骸も運ばれてきて、アドリアーノは、叫びをあげて悲しむ。
彼はついにリエンツィとの決裂を選び、恨んで復讐を誓う。
民衆もあの時処刑していれば・・・とわだかまりが高まり、仲間もリエンツィの判断はおかしかったと言いだす。
しかし、戦勝祝いのトランペットが響きわたる。

第4幕

 ラテラーノ協会前。
バロンチェリとチェッコが悪い噂を聞いたかということで、語り合っている。
リエンツィが、ドイツの王子の神聖ローマ皇帝選出についての協議をしたことなどが大使から法王に伝えられ、不興を買っていること。
そもそも、妹と貴族の息子の関係を利用して貴族側に取りいろうとしているようだ、と不満が続出する。
 そこへアドリアーノが現れ、リエンツィの裏切りの証拠ならいくらでも出せると意気込む。
朝となり、リエンツィとイレーネは教会へ向かうが、すっかり冷めてしまった空々しい民衆の態度。

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そこへ枢機卿が、貴族側の工作もあり貴族に傾いたローマ法王から、リエンツィ破門の知らせを持ってきてそれを宣言する。
「破門」の言葉にショックを受けるリエンツィ。
アドリアーノは一緒に逃げようとイレーネを促すが、彼女はその手を振りきり、兄のもとにとどまることと決意。

第5幕

 カピトール宮殿内。
リエンツィは「全能の神よ、私をお見下ろしください・・・」という祈りに満ちた名アリアを歌う。
そこへイレーネが現れ、自分を見捨てなかったのは天と妹だけだというが、妹は、これがローマの女の勉めとしながらも、恋人と別れる辛さはわからないだろうとと悲しむ。
兄はアドリアーノの元へ行けというが、妹は一緒に死を選ぶ覚悟を選ぶ。
いま一度、民衆を説得しようと出てゆく。
そこへアドリアーノがやってきて、イレーネに逃げようと誘うが彼女は受け入れない。
おりから民衆が松明をもって宮殿に向かってくるので、イレーネは慌てて兄のあとを追う。
 宮殿に向って民衆が石を投げつけたりして騒いでいるなか、リエンツィがバルコニーに現れ、「誰がこの自由をもたらせたのか?・・・」と演説を説くが、人々はもう耳を貸そうとしない。
バロンチェリは「耳を貸すな、ヤツは裏切り者だ」と叫ぶ。
リエンツィは最後の言葉として、「これがローマか?永くローマの7つの丘は顕在だった。永遠の都市は不滅だ!お前たちは見ることだろう、リエンツィがきっと帰ってくることを!」と叫ぶ。

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だが民衆は、ついに宮殿に火を放ってしまう。
イレーネもあらわれ、それを救おうとアドリアーノも宮殿に飛び込む・・・。
しかし、その宮殿の塔が崩れ落ち、リエンツィ、イレーネ、アドリアーノの3人は焼け落ちた宮殿とともに下敷きとなってしまう。


いやはや、長い長い。あらすじも端折ると訳がわからなくなる筋なので長文となりました。

短縮された箇所は、2幕の諸国使者の個々の挨拶、長大なバレエ、4幕と5幕の一部。
そこがなくとも過不足なく感じた次第。

群衆心理の恐ろしさと、先導者が扇動者となってしまうことの矛盾。
権力を握ると言動にも注意しなくちゃならんという歴史の教訓なども描かれていて、その後のワーグナーの生きざまや、ワーグナーの音楽を政治利用した輩なども知ってる私たちには、なるほどなるほどとなります。

オランダ人とほぼ同じ時期に書かれているので、合唱の扱いなどはオランダ人を思わせるところもあり、聖職者たちが破門を告げるか所などは、幽霊船の合唱にも通じるところがあり。
さらにこの先のタンホイザーを思わせるところは、3幕のアドリアーノのアリアなどはエリザベートの2幕の懇願の場面、教会のテ・デウムなど。
オケは雄弁で、歌手に与えられた歌も難しい。
なによりも巨大な編成と、多くの優秀な歌手が必要。
ルネッサンス・ローマの史実に対し、読み替え的な時代設定を無視した演出を持ち込むと、いまのご時世、逆に問題となりかねないので、かつてのミュンヘンにおけるポネル演出のような舞台がいいと思う。

Rienzi_1

初期3作を終え、次は「さまよえるオランダ人」。
オランダ人はありままるほどに上演され、録音も映像も残されてきた。
リエンツィはそれを思うとあまりに気の毒な存在だ。

序曲ばかりが有名になりすぎたオペラも珍しいものだ。

Wagner-jansons-opo

今日、1月14日はマリス・ヤンソンスの誕生日で、存命であれば80歳になるところでした。
オスロフィルとの若き頃のワーグナー録音は、以前blogであまりよろしくないですね、と偉そうな記事を起こしてますが、「リエンツィ」序曲は勢いよろしく、また艶やかでもありいい感じです。
長い「リエンツィ」の記事をヤンソンスの指揮で締めたいと思います。

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陽光まぶしい相模湾の向こうに真鶴半島と伊豆半島。

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2023年1月 3日 (火)

シュトラウス・コンサート スウィトナー指揮

2023

2023年、令和5年がスタートしました。

ことしも、ゆっくりペースで音楽を聴き、更新してまいります。

よろしくお願いいたします。

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  シュトラウス・コンサート

 オトマール・スウィトナー指揮 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

     (1979.12 @ルカ教会、ドレスデン)

ウィーンのオーケストラの専売特許じゃないとつくづくと思わせてくれる1枚。

かつて聴かれた馥郁たる柔和な響きと音色、ドレスデンのサウンドがここに。
ウィーンフィルもインターナショナル化してしまったが、ドレスデンも同じくそうだろう。
東西統一前のドレスデンの録音が東西のレーベルで盛んになされたことが今思えばありがたいことでした。

スウィトナー(1922~2010)のドレスデン時代は60~64年と短かったが、その共演と録音活動は長く続きました。
ベルリンは64~90年と長期にわたり総監督の地位にあったが、いずれもが東ドイツ時代。
チロル地方インスブルック生まれのスウィトナーがずっと東側で活躍し、西側での活動は日本でのものが一番知られ、アメリカやオーストリアでの活動はあまり記録に恵まれていないのも寂しい。
東西統一とともに、よくなかった体調もさらに悪化して指揮活動からも退いてしまったスウィトナー。
病気にならなかったら、ウィーンのオケとの共演もあったかもしれない、特にウィーン響などとの相性は良さそうだと思っていたので残念なことです。

イタリア人の血も引くオーストリア人であったスウィトナーの音楽は、わたしは明るく軽やかなものとの印象を持ってます。
モーツァルトが絶品なのはいうまでもないですが、ワーグナーも明快かつ歌謡性にとんだしなやかな演奏だったし、ブラームスやドヴォルザークも明るい基調だったと思ってます。
そんなスウィトナーだから、シュトラウスファミリーの音楽ものびのびとした硬さのない気持ちのいい演奏なんです。
こびを売るような効果のための歌いまわしはまったくなく、ストレートな解釈ですが、身に沁みついたウィーンのワルツやポルカの作法を、あの茫洋とした指揮ぶりで、ドレスデンのオケから難なく引き出していて極めて素敵なのです。

青きドナウ、アンネン・ポルカ、観光列車、オーストリアのむらつばめ
ハンガリー万歳、雷鳴と電光、芸術家の生活、百発百中
わが人生は愛と喜び、ラデツキー行進曲

ヨハン1,2世とヨゼフのシュトラウスファミリーの名曲をおさめた1枚だが、「オーストリアのむらつばめ」と「わが人生は愛と喜び」の弟ヨゼフ・シュトラウスのワルツの演奏が特に好き。
遅れて作曲家になったヨゼフの音楽は美しい旋律線をもつ抒情的なシーンが多いが、この2作品に息づく呼吸の良さというか、あふれる音の自然さがとても大らかで、まるで温泉にゆったりと浸かっているくらいに気持ちがよく、ほのぼのとした気分になります。
ポルカや行進曲も存外に弾みがよろしく軽やかです。
手元には、N響を指揮したエアチェックライブがありますが、ここでのスウィトナーも生真面目なオケから微笑みあふれるシュトラウスサウンドを引き出していて見事だと思いましたね。

スウィトナー、サヴァリッシュ、シュタインとN響の往年のドイツ系指揮者たち、今年はたくさん聴いていこうと思ってます。

Hiratsuka

お天気に恵まれたお正月。

箱根駅伝は残念だったけれど、いいお正月でした。

よき1年となりますように。

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