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2023年2月11日 (土)

コルンゴルト 「ヘリアーネの奇蹟」

Cocktail-1

夕焼け、日の入りが好きな自分ですから、毎日夕方になると外を眺めてます。

夕日モードで撮影すると三日月にカクテルのような夕焼を写すことができます。

すぐに暗くなってしまう瞬間のこんな刹那的な空が好き。

5つあるコルンゴルトのオペラ、4作はすべて取り上げましたが、ついにこの作品を。

10年以上、聴き暖めてきたオペラです、長文失礼します。

        コルンゴルト 歌劇「ヘリアーネの奇蹟」

「喜ぶことを禁じた国の支配者。そこへ、喜びや愛を説く異邦人がやってくるが、捕まってしまい、死刑判決を受ける。
さらに王妃のヘリアーネとの不義を疑われ自ら死を選ぶ。

その異邦人を自らの純血の証として、甦えさせろと無理難題の暴君。
愛していたことを告白し、異邦人の亡きがらに立ちあがることを念じるが、反応せず、怒れる民衆は彼女を襲おうとする・・・・
そのとき、奇蹟が起こり、異邦人が立ちあがり、暴君を追放し、民衆に喜びや希望を与え、愛する二人は昇天する。。。。」


Korngold-heliane

   ヘリアーネ:サラ・ヤクビアク
   異邦人:ブライアン・ジャッジ
   支配者:ヨーゼフ・ヴァーグナー
   支配者の女使者:オッカ・フォン・デア・ダメラウ
   牢番:デレク・ウェルトン
   盲目の断罪官:ブルクハルト・ウルリヒ
   若い男:ギデオン・ポッペ

  マルク・アルブレヒト指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団

               ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団

    演出:クリストフ・ロイ

       (2018.3.30~4.1 @ベルリン・ドイツ・オペラ)

コルンゴルトの音楽を愛するものとしては、5つあるそのオペラをとりわけ愛し大切にしております。

しかしながら、そのなかでも一番の大作「ヘリアーネの奇蹟」は長いうえに、国内盤も買い逃したので、その作品理解に時間を要してました。
もう10年も若ければ、国内盤のない「カトリーン」のときのように辞書を引きつつ作品解明に努めたものですが、寄る年波と仕事の難儀、なによりもCDブックレットの細かい文字を読むのがもうしんどくて、なかなかにこのオペラに立ち向かうことができなかったのでした。
若い方には、視力と気力のあふれるうちに、未知作品を読み解いておくことをお勧めします。

そこで彗星のように現れた日本語字幕付きのベルリン・ドイツ・オペラの上演映像。
音楽はすっかりお馴染みになってましたので、舞台の様子を観ながら、ついに全体像が把握とあいないりました。
痺れるほどに美しく、官能的でもある2幕と3幕の間の間奏曲がとんでもなく好き。

1927年、コルンゴルト、30歳のときのオペラ

  ①「ポリクラテスの指環」(17歳) 

  ②「ヴィオランタ」(18歳)

  ③「死の都」(23歳)

  ④「ヘリアーネの奇蹟」(30歳)

  ⑤「カトリーン」(40歳)


「市の都」の大ヒットで、ウィーンとドイツの各劇場でひっぱりだこの存在となってしまった若きコルンゴルト。
息子を溺愛し、天才として売り出しバックアップしてきた音楽評論家の父ユリウス・コルンゴルトが良きにつけ悪しきにつけ、「ヘリアーネの奇蹟」を成功した前作のように華々しい決定打とならなかった点に大きなマイナス要素となった。
舌鋒するどい父の論評は、その厳しさを恐れる楽壇が、息子エーリヒ・ウォルフガンクの作品を取り上げるようになり、マーラー後の時代を担う存在として、大いに喧伝した。
そんな後ろ盾がなくともコルンゴルトの音楽は時代を超えて、いま完全に受入れられたことで、父の饒舌なバックアップがなくとも、いずれ来る存在であったことがその証でしょう。
不遇の不幸は、足を引っ張ったやりすぎの父の存在以上にナチスの台頭であり、ナチスとその勢力が嫌った革新的な新しい音楽ムーブメントと少しあとのユダヤ人出自という存在であった問題。
 当初はユダヤ排斥よりは、社会的に熱狂的なブームとなったジャズや、クラシック界における十二音や即物主義や、その先の新古典的な音楽という伝統を乗り越えた音楽への嫌悪がナチスのそのターゲットとなった。
コルンゴルトより前に、ユダヤであることの前に、そうした作風の音楽家は批判を浴びたし、作曲家たちはドイツを逃れた。
 こんな情勢下で作曲された「ヘレアーネ」。

原作はカール・カルトネカーという文学者の「聖人」という作品で、彼はコルンゴルトの若き日のオペラ「ヴィオランタ」を観劇して、大いに感銘を受けていて、その思いが熱いうちに「聖人」を書いたという。
カルトネカーは早逝してしまうが、コルンゴルトはこの作品を読んで、すぐにオペラ化を思い立ち、友人のハンス・ミュラーに台本作成を依頼して、生まれたのがこの「ヘリアーネの奇蹟」。

人気絶頂期での新作ヘリアーネの初演は、まずハンブルグで行われ成功。
次いで本丸ウィーン国立歌劇場での初演を数日後に控え、当のウィーンでは、人気のジャズの要素と世紀末的な雰囲気をとりまぜたクシェネクの「ジョニーは演奏する」の上演も先鋭的なグループを中心に企てられており、それにナチス勢力が反対する流れで、コルンゴルト対クシェネクみたいな対立要素が生まれていた。
そんななかで、シャルクの指揮、ロッテ・レーマンの主役で初演されるものの、Wキャストの歌手と指揮者との造反などの音楽面とは違う事情から続演が失敗に終わり、ウィーンでの上演では芳しい評価は得られなかった。
ドイツ各地でのその後の上演も、音楽への評価というより、クシェネクのジョニーの高まる評価に逆切れした父の評論活動が引き続きマイナスとなり、そんなことから、作品の長大さや筋立ての複雑さ、歌手にとっての難解さなどから「ヘリアーネの奇蹟」はここでどちらかというと、失敗作との判断を受けることとなってしまった。

愛する女性との結婚にまでもあれこれ口をはさみ、嫌がらせをした保守的な親父ユリウスの功罪は大きく、この傑作オペラがナチスの退廃烙印以外でも評価が遅れた原因となっていることのいまに至るまでの要因。
でもコルンゴルトが、当時の音楽シーンの移り変わりや最新の動向に鈍感でなかったわけでなく、このヘリアーネでも随所に斬新な手法が目立ちます。
それでもいま、コルンゴルトの音楽がマーラー後の後期ロマン派的な立ち位置にとどまったのは親父殿の存在があってのものと思わざるをえないのであります。


長大かつ、筋立てが複雑な歴史絵巻。
CDでもたっぷり3枚は、聴き応えもある。
大胆な和声と不安を誘う不況和音も随所に聴かれるし、甘いばかりでない表現主義的ともいえるリアルな音楽展開は、ドラマの流れとともにかなり生々しいです。
音楽は、ピアノ、オルガン、複数の鍵盤楽器・打楽器の多用で、より近未来風な響きを醸すようになりつつ、一方でとろけるような美しい旋律があふれだしている。
民衆たる合唱も、移ろいゆく世論に左右されるように、ときに感動的な共感を示すとともに、狂えるようなシャウトも聴かせる。
オケも合唱も、「死の都」とは段違いの成熟ぶりと実験的なチャレンジ意欲にあふれていて大胆きわまりないのだ。

歌手たちの扱いは、従来のオペラの路線を踏襲している。
清廉なソプラノの主人公に、甘いテノール、悪漢風のバリトンという構図は、コルンゴルトの常套で、ここでは意地悪メゾが加わった。

聖なる存在と救済のテノールとして、ローエングリンとパルジファルを思い起こすし、エルザやエリーザベトの存在のようなワーグナー作品との類似性を思い起こすことが可能だ。
同様に邪悪な存在としてのバリトンとメゾも、ローエングリンのそれと同じくする。
そんな風に紐解けば、筋立ての難解さも解けるものかと思う。

とある時代のとある国

第1幕

「愛するものに祝福あり。悪しきなきものは死を逃れる。愛に命を捧げるものは再び蘇る」

大胆な和音で開始したオペラは、こうした合唱で幕開けする。
まさにこのオペラのモットー。
 異国からやってきた男がとらわれ、牢番に連れられてくるが、牢番は彼に同情的で縄を解いてやり、なんで愛や喜びの話をしたんだい?と問いかける。
平和な日々の日常の大切さを説く異邦人、この国に愛はないのだよ、と実態を語る牢番。
そして、この国の支配者が荒々しくやってきて、この俺の国になんていうことをしてくれたんだと怒りまくる。
異邦人は支配者に対し自分の役割を話すが、支配者は逆切れして、愛に捨てられた俺に残されたのは権力だけだと、死刑宣告をする。
死への恐怖に絶望的になった異邦人のもとへ、支配者の妻ヘレアーネが慰めのためにお酒を持って偲んでくる。

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彼女は異邦人の最後の求めに応じ、美しい髪と美しい足を与え、異邦人はそれを愛おしく抱きしめる。
最後に彼女は、異邦人に自身の裸をさらして、彼の心を慰めようとし、いたく感激した異邦人は彼女を抱きしめ、ふたりは愛情を確かめあう。
最後の一線は越えず、ヘリアーネはこの場を外し彼のために祈りに外へ出る。今度は支配者がやってくる。
彼は、愛する妻がまったく心を開かない、俺の代わりに彼女の気持ちを自分に向けさせてくれ、俺が彼女を抱くところを見守って欲しい、そうしたら命は助けてやると強要するが、異邦人は頑として応じない。
そこへ折り悪く、ヘリアーネが裸のままにここへ戻ってきてしまう。
激怒する支配者、異邦人への死刑の確定と妻を不貞で逮捕することを命じる。

第2幕

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怒りの支配者、女使者に妻への不満をぶちまけるが、女使者は、なに言ってんだいあんた、あたしを捨てといてふざけんじゃないよと毒づく。
支配者は彼女にそんなこと言わねーで助けてくれよと助けを求めたりする。
盲目の断罪官と裁判官たちが到着し、ヘレアーネも引っ立てられてくる。
不貞を責められるヘリアーネ、裸を見せたことは真実だが、気持ちだけは捧げ、神に祈りました。
彼の苦悩を感じ、それを共有することで、彼の者になったの、私を殺して欲しいと切々と歌い上げる。
断罪官たちは、判決は神に委ねるべしとする。
理解の及ばない夫は妻に、判決はいらない、これで自決するがよいと短剣を手渡す。
そこへ異邦人が連れてこられ、証言を求められるがそれを拒絶し、最後にヘリアーネと二人にして欲しいと懇願し認められる。

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あなたを救いにきた、自分がいなくなれば支配者は許すでしょうと自分を殺して欲しいと懇願する異邦人。
神に与えられた使命のために逃げて生き抜いて欲しいとするヘリアーネ、最後に口づけを求める異邦人は、ヘレアーネの短剣に飛びこむようにして自決。

騒然となるなか支配者は、なかばヘレアーネを貶めるため、人々に向かい王妃はその純血ゆえに奇蹟を起こすだろう、彼女は奴を死から蘇えらせるだろうと言う。
人々や断罪者は、神への冒涜、天への挑戦だと言う一方、彼女の無実を認め、神を讃えようと意見は二分。
最後に、ヘレアーネは決意し、私のために死んだこの人を蘇えさせると誓う。

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第3幕

人々の意見は二分し分断された。
死はなくなり墓があばかれる。神のみ使いとして死の淵から彼を呼びだす。
いや、死の鍵を握るのは神だけなのだ、けしからん・・・・
 そこへ若い男が語る。
王妃は優しいお方だ、自分の子供が病で苦しんでいるときに救ってくれた、癒しの女王なんだと説き、人々も心動かされ、慈悲深いお方、愛する者には愛をと歌う。
しかし、支配者の女使者は、魔女の仕業に違いないと一蹴する。

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いよいよ神の試練を受けるヘリアーネ。
夫である支配者は、やめるんだ、蘇りができないとお前には死が待ってると説得する。
ついに「神の名のもとに、蘇りなさい」ヘレアーネは異邦人に命ずる。
しかし、彼女は、「できない、私は愛した、ふたりで破滅の道を選んだの、私は聖女なんかじゃない」と告白。
人々のなかでは、だまれ娼婦め、殺せ、嘘つきめ、と動揺と怒りが蔓延しはじめる。
さらにヘリアーネは、夫に向かい、いつも血の匂いがした、闇のなかではもう生きられない、そこからの救いを彼に求めた、幸せはみんなのものよ!と指摘し、ついに支配者も勝手にしろと匙をなげる。
人々はもう大半が離反し、「火刑台へ」と叫ぶ。
そのとき、横たわっていた異邦人がゆっくりと起き上がる!
人々の驚愕。
合唱は、「愛に命を捧げる者は再び蘇る」と歌い神々しい雰囲気につつまれる。
蘇った異邦人はヘレアーネに第7の門に天使が立っているが、その前に試練が待ち受けていると諭す。

30

とち狂った支配者はヘレアーネをナイフで刺してしまい、人々も選ばれた女性を殺すとはけしからんと怒り、そして異邦人は出て行け人殺しめと、この場から追い出してしまう。
最後の試練を受けたヘレアーネを抱き起す異邦人、息を吹き返す彼女とともに甘味で長大な二重唱を歌う。
天に向かって昇りゆくふたり、神秘的な雰囲気のなか、「どんなに貧しくとも、失ってはいけないものがある、それは希望」と高らかなオルガンも鳴り響いてオペラは幕を閉じる。

         幕

やや荒唐無稽の感もある筋立てではあるが、神の力と愛の力を描いた清らかな秘蹟ドラマともいえる。
死の都から7年を経て、ひたすら美しく万華鏡的・耽美的音楽にあふれていた前作からすると、よりその趣きを進化させ、前述のとおり、革新的な技法も鮮やかに決まっている。
異邦人が蘇るときのときの、オーケストラの盛り上がりの眩くばかりの効果は、まるでJ・ウィリアムズの音楽と見まがうくらいで、未知との遭遇クラスの驚きの音楽だ。

謎の全裸だけど、これは生まれたままのピュアで清廉な姿ということで、自分を救ってくれるかもしれない人への信頼と愛情の表現とみたい。
見ようによっては色物とされかねない要素なので、ここにはスピリチュアルななにかだと認めたい。

初演時の舞台の様子などを写真で見ると古色蒼然とした王宮のメロドラマ風な感じに見える。
ところが、クリストフ・ロイの舞台はまるきり現代社会のもので、衣装も全員がスーツ姿。
装置も全3幕、大きな会議室のようなホール内で外からの明かりもなく、閉ざされた空間。
このなかでのみ行われる人間ドラマは、まるでサスペンス映画を観ているような人物の心理的な描き方である。
ゆえにこそ、コルンゴルトの素晴らしい音楽に集中でき、逆にその音楽がすべてドラマを語っていることがわかるという具合だ。
壁には時計があるが、その時刻は2時5分で最初から最後まで止まったまま。
まさに愛のないこの世界は、時間軸もないという証か。
最後のふたりの昇天はリアルに描かれず、部屋のドアが開き、外から眩しい光が差し、そこへ向かって二人は歩みを進め出て行く。
人々はすべてその場に倒れているが、ただひとり、ヘリアーネを称賛し信じた若い男のみが生き残りひとり見守る。
こんな風にわかりやすい演出でもありました。

ヘレアーネや「死の都」のマリエッタを持ち役とするヤクビアクは、文字通り一糸まとわぬ体当たり的な演技を見せる。
美しいには違いないが、なにもそこまで的な思いはあるも、その一途な歌唱は素晴らしいものがある一方で、やや言葉が不明瞭でムーディに傾くきらいもあるが、この作品の初DVDには彼女なくしてはならないものになったと思う。
音だけでも最近は何度も聴いていて、聴き慣れると悪くないなと思い始めました。

ふたりの男声もとてもよろしく、ほかのCDの同役に引けを取らない素晴らしさで、とくにヴァーグナーの苦悩に富んだ支配者役は実によろしい。
あとダメラウの憎々しい役柄もよくって、声の張り、言葉の乗せ具合もこうした役柄にはぴったり。

このDVDの最高の立役者は、M・アルブレヒトの共感に富んだ指揮ぶりだろう。
ときおり映るピットの中の指揮姿を見るだけでわかる、この作品へののめり込みぶりで、ピットから熱い歌と煌めきのコルンゴルトサウンドが舞い上がるような感じで、数年前、都響に来演したとき聴いたコルンゴルトの交響曲の熱演を思い起こすことができた。
アルブレヒトはシュトラウス、マーラー、ツェムリンスキーなどを得意としていて、先ごろオランダオペラで上演されたフンパーディンクの「王様の子供」なんかもとてもよかった。
これからの指揮者は、マーラー以降の音楽をいかにうまく聴かせるかということもキーになるだろう。

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   ヘリアーネ:アンナ・トモワ-シントウ
   異邦人:ジョン・デイヴィッド・デ・ハーン
   支配者:ハルトムート・ウェルカー
   支配者の女使者:ラインヒルト・ルンケル
   牢番:ルネ・パペ
   盲目の断罪官:ニコライ・ゲッダ
   若い男:マルティン・ペッツルト

  ジョン・モウチェリ指揮 ベルリン放送交響楽団

              ベルリン放送合唱団

       (1992.2.20~29 @イエス・キリスト教会) 

デッカの「退廃音楽シリーズ」は90年代初めの画期的な録音の一環だった。
そんななかのひとつが、この時代を不運のうちに生きた作曲家たちのオペラで、なかでもコルンゴルトのヘリアーネは、「死の都」がラインスドルフ盤で注目を浴びたあと、「ヴィオランタ」がCBSで録音され、次にきたのがこの録音。
コルンゴルトの作品受容史のなかで、今後もきっと歴史的な存在を占める録音になるでしょう。

外盤CDで購入以来、何度も何度も聴きまして音楽のすべてが耳にはいりました。

聴いてきて思うのは、モウチェリの指揮がシネマチックにすぎるけど、よくオケを歌わせ、シュトラウスばりのオケの分厚さの中に光る歌謡性をうまく表出しているし、いまのベルリン・ドイツオーケストラの機能性豊かな高性能ぶりが見事。
なんたって、録音が素晴らしい。

トモワ=シントウは歌手陣のなかではピカイチの存在。
声の磨きぬかれた美しさ、たくみな表現力、人工的な歌になりかねないこの役柄を、豊かな人間味ある歌で救っている。
ずっと聴いてきたけれど、やや声を揺らしすぎかな、とも思うようになりました。
ウェルカーの支配者役はまさに適役で文句なし。
カンサス出身のアメリカのテノール、デ・ハーン氏はリリックにすぎ、やや頼りなさも。
ピキーンと一筋あって欲しい声でもあります。
モウチェリ盤の不満はここにあります。

でも、パイオニアのようなこの果敢な録音。
これからもありがたく聴きたいと思います。

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   ヘリアーネ:アンネマリー・クレーマー
   異邦人:イアン・ストレイ
        支配者:アリス・アルギリス

   支配者の女使者:カテリーナ・ヘーベルコーヴァ
   牢番:フランク・ヴァン・ホーヴェ
   盲目の断罪官:ヌットハポーン・タンマティ
   若い男:ジェルジ・ハンツァール

 ファブリス・ボロン指揮 フライブルク・フィルハーモニー管弦楽団
             フライブルク歌劇場合唱団 
                                 フライブルク・バッハ合唱団のメンバー


      (2017.7.20~26 @ロルフ・ベーム・ザール、フライブルク) 

デッカの録音から24年、頼りになるナクソスから登場した録音は、舞台に合わせてスタジオでのレコーディング。
ドイツの地方オペラハウスの実力を感じさせる演奏となりました。

3人のメイン歌手がとてもいい。
きりりとしたヘリアーネ役のオランダの歌手クレーマーさん、とてもいいと思いました。
映像になっているトリノでの「ヴィオランタ」でも歌っていて、真っ直ぐな声はコルンゴルトにぴったり。
異国の異邦人役のストーレイも思いのほかよくて、没頭感はないものの、気品ある声は聖なる人の高潔な一面を歌いだしている一方、生硬さもある声は、この役柄の頑迷さも歌いこんでいて妙に納得。
アルギリスの支配者さんも嫌なヤツと認識させてくれる存在だ。

フライブルクのオペラのオーケストラは初聴きだ。
ドイツの地方オケはオペラのオーケストラも兼務することが多いが、なかなかに巧い。
しかし、緻密さや、音の切れ味、重層的な音色では、明らかにベルリンのふたつのオケには敵わない。
でも、ボロンさんの指揮ともども、オペラティックな舞台の雰囲気はとてもゆたかでありました。

Cocktail-3

この数週間、ヘリアーネの悲劇を何度も、何度も聴きました。
寝ながら夢のなかででも鳴り響き、聴いてました。

ベルリン・ドイツ・オペラでは3月に、ヤクビアクとアルブレヒト、ヒロインと指揮者を変えずに再び上演されるようです。

お金と時間さえあれば飛んで行って観劇したいです。

でも許されぬいま、夕映えの美しさを眺めつつ、これら3つの音源や映像を楽しむことにします。

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コメント

’87年頃、「アリア」なるオムニバス映画があり、恐らくはその少し前のゼッフィレッリ「トラヴィアータ−椿姫」「オテロ」やF・ロージー「カルメン」などの影響で制作されたものでしょうが、ゴダールやR・アルトマンに「戦争レクイエム」を撮ったデレク・ジャーマンら著名監督が好みのオペラアリアに思いのままの映像を付けるという正直アイデア倒れの一本でした。土台一作がオペラアリア一曲の尺ですからいかにも中途半端にしかならず。

その中で「死せる都」(この訳が好きです)のマリエッタのアリアに付けたB・ベレスフォード作は、取り立てて印象的ではなかったものの独りよがりに陥らずまともな作だったかと。曲の背景にほぼ忠実な内容で。まあ他が思わず逃げ出したくなりそうな珍品揃いだったせいもありまして。

とはいえその一曲でブログ主様のようにコルンゴルトにどっぷりハマるとはならず、ラインスドルフ盤は入手しましたものの周囲を彷徨くばかりで。遅れ馳せながら他の作品もと思いますがさて。毎度の繰言にて申し訳ございませぬ…。

投稿: Edipo Re | 2023年2月16日 (木) 20時08分

Edipo Reさん、こんにちは。
「アリア」なる映画、あったことは記憶してます。
そのような内容だったのですね。
そこに「死の都」いや、「死せる都」のアリアがあったとのこと、たぶんにこの作品のゴシック的な背景などを類推するに、ご指摘の内容が思い推察されます。

コルンゴルトの音楽は、自分にとってディーリアスと同じく、どこか体験した郷愁さそうノスタルジーと思っております。

コメントありがとうございました。
次なるコルンゴルトの記事もお楽しみにいただけましたら幸いです。

投稿: yokochan | 2023年2月23日 (木) 22時10分

コルンゴルトのオペラ記事完結、おめでとうございます。
映像はBDで2回みて、CDからピンポイントで聴いて。
謎の全裸。ト書き通りした結果(サロメもシュレーカーもト書き通りすると出てくるあの時代のトレンド)ルネサンス絵画見るような映し方はいいものの、唐突で未だに?
調性音楽の霊感と新ヴィーン楽派の不協和音の融合に挑戦した、コルンゴルト自身、1番のお気に入りだった節もあり、じっくりと聴こうと思っています。この支配者、あの時代だと、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニらであり、そう考えたら。もっと噛み締めて聴けそう。

投稿: Kasshini | 2023年2月27日 (月) 00時41分

Kasshinsann、こんにちは。
100年前の音楽とは思えない新鮮さが、へたな現代音楽よりコルンゴルトの音楽にはあると思います。
ツェムリンスキー、シュレーカーらの音楽、ナチスが封じた音楽が、いま正当に評価され、さかんに演奏されるようになって隔世の感があります。
文中にも書きましたが、Jウィリアムズの音楽は、コルンゴルトとうり二つのものが多いです。
ご指摘の時代背景、ロシア、ドイツ、イタリアでどんな音楽が書かれ、聴かれていたか、わたしも実に興味があります。
 このオペラ、アメリカでの最近の上演もネットで確認できます。
まだ全部見てませんが、宇宙から来た異邦人になってるみたいで、あと全裸シーンも微妙な感じになってます。
ともあれ、上演しにくいオペラですね。

投稿: yokochan | 2023年3月 8日 (水) 08時59分

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