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2023年4月

2023年4月22日 (土)

バックス 「ファンドの園」 バルビローリ指揮

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ネモフィラと富士山。

秦野市の弘法山の中腹にある広場にて。

この日は黄砂の影響で、富士がやや霞んでしまったのが残念だけど、まるで楽園のような美しいブルー。

初夏のような日が連続して、桜も一気に咲き終わってしまいましたが、次々にいろんな花がはじけるように咲き誇り、忙しいです。

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わずかに残っていた牡丹桜とネモフィラ。

Barbirolli-halle-delius-bax-butterworth

  バックス 交響詩「ファンドの園」

   サー・ジョン・バルビローリ指揮 ハレ管弦楽団

         (1956.6.10 @マンチェスター)

久々に取り出したバルビローリの懐かしの1枚。
英国パイレーベル原盤をテイチクがレコード時代には廉価盤で発売し、CD時代初期にも数枚がCD化された希少な国内盤。
今では外盤、ダットンレーベルあたりで出ているでしょうかね。

この1枚の白眉は、ディーリアスの悲しいぐらいに美しい「田園詩曲」で、もう15年も前に記事にしてました。
ほかの収録曲は、ディーリアスでは「かっこう」「楽園への道」「イルメリン」「フェニモアとゲルダ」などの定番。
あとこれまたステキな、バターワースの「シュロプシャーの若者」が入ってます。
そして私の好きなバックスも。

三浦淳史さんのCD解説をもとに。
サガ(北欧伝説)に基づくもので、祖国を守った英雄「ベール族のアキレス」が、大洋の支配者の娘「ファンド」の誘惑に負けてしまい、これまでの英雄的な行動を忘れてしまう、というもの。
 この伝説をバックス流に、「ファンドの園」を「海」にたとえ、ファンドの魔法の島にうちあげられた船の乗組員たちが遭遇する饗宴の様子、そのあと高波がおこって、島全体が飲み込まれてしまうことになる・・・、やがて海は静まり、ファンドの園も消えてしまう。
 こんな風にイメージされた、一服のバックス独特のケルト臭あふれる清涼かつ神秘的な音楽。
1916年の作品。

この曲、ブライデン・トムソンの指揮のバックス交響詩集で、これもまた15年前に記事にしてました。
アルスター管弦楽団という北アイルランドの本場オケと、シャープでダイナミックなブライデンの指揮が、録音の良さもあって抜群な演奏だった。
B・トムソンの録音は1984年のデジタル録音で、いまから40年近く前。
それより遡ること1956年、ぎりぎりステレオごく初期の頃の録音がバルビローリとハレ管のもので、分離のいまいちさ、音の混濁、音の遠いイメージなどから、いまの最新の録音からも聴きおとりのするトムソン盤よりも、はるかに昔の音に聴こえる。
でも、それが実はいい。
古風な、もしかしたらたどってきた道を振り返るような、郷愁をさえ感じさせる、そのいにしえ感は遠い世界のレジェンドにも通じるもの。
多少のもこもこした雰囲気は、バルビローリの情熱と共感をともなった熱い指揮でもって、なおさらに愛おしく感じます。

そこそこに歳を経て暮らす、若き日々を育った場所での生活。
地域を周り巡るたびに見つけ出す新鮮さ。

愛好してきた英国音楽に通じる郷愁の音楽が、いまこそ身に染み入るようになってきました。

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ちょっと場所を変えて、眼下に見入る秦野の街。

ブルーの海のような幻想の世界。

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2023年4月14日 (金)

R・シュトラウス 「平和の日」 二期会公演

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日曜の午後の渋谷。

信号が変わるたびに、この群集が渡る光景、駅へ向かう人以外はいったいどこへ?

わたしのいまいる小さな町の人口ぐらいの人数がここにあるくらいだ。

学生時代を過ごしたワタクシの昭和の渋谷は、もう見る影もない。

隅々まで知っていたのに、迷子になってしまう。

人をかき分けて、この日はオーチャードホールへ。
最愛の作曲家シュトラウスのオペラを観劇に、苦難をもろともせずに向かう。

この多くの人々は、平和と自由を享受し、危機と、もしかしたら来るかもしれない苦難という言葉は知らないようだ。

Friedenstag2023

       R・シュトラウス 「平和の日」

  司令官:小森 輝彦  マリア :渡邊 仁美
  衛兵 :大塚 博章  狙撃兵 :岸浪 愛学
      砲兵 :野村 光洋  マスケット銃兵:高崎 翔平
  ラッパ手:清水 宏樹 仕官  :杉浦 隆大
  前線の仕官:岩田 建志 ピエモンテ人:山本 耕平
  ホルシュタイン人 包囲軍司令官:狩野 賢一
  市長 :持齋 寛匡  司教  :寺西 一真
  女性の市民:中野 亜維里

 準・メルクル 指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
           二期会合唱団
       合唱指揮:大島 義彰
       舞台構成:太田 麻衣子
       (カヴァー マリア:冨平 安希子)

         (2023.4.9 @Bunkamura オーチャードホール)

日本初演、アジア圏初演、2日目に観劇してきました。

舞台にあがったオーケストラの前に、簡易な装置を据えたセミステージ上演。

わたしにとって、シュトラウスはヨハンでなくてリヒャルト、そしてリヒャルトはオペラ作曲家です。

15作あるオペラの12作目。
主要な管弦楽作品はとっくに書き終えていて、オペラ以外では、かの明朗なるオーボエ協奏曲や二重協奏曲、メタモルフォーゼンなどが残されているのみ。
オペラでは、タイトルとは裏腹な、言葉の洪水のような「無口な女」の半年あと、1936年6月の作曲が「平和の日」。
本作以降が「ダフネ」(1937)、「ダナエの愛」(1940)、「カプリッチョ」(1941)となります。

このシュトラウス作品の流れで「平和の日」を捉えてみると感じるのは、シュトラウスらしからぬ表層感といきなりの平和賛歌の唐突感。

もう15年も前の弊ブログ記事で、作品の成り立ちやドラマはご確認いただけましたら幸いです。

「平和の日 シノーポリ盤」

CD1枚サイズのオペラを本格舞台で上演するにはコスト的にも大変。
シュトラウスが想定した「ダフネ」とのダブルビルトも集客的にも難しい。
ということで、今回の二期会セミステージ上演はその点でまず大成功。

そして独語上演では歴史と伝統のある二期会の公演、スタッフも協力者もすべてにおいてシュトラウス演奏に適材適所の安心の布陣。
舞台奥に紗幕的なスクリーンを配置し、そこにドラマの進行にあわせてイメージ動画が流れる。
30年戦争当時の神聖ローマ帝国らしき地図や、戦端の模様、教会の鐘など、音楽とドラマに巧みにリンクしていてわかりやすかった。
ただ最後の地球は、正直、新味に乏しく、各国の平和の文字であふれるところもうーーむ、という感じだった。
思えば、地球で平和裏に終わる演出は、これまでいくつ見てきただろうか。
パルジファル、キャンディードなどが記憶にあり。

その紗幕の向こうに合唱が配置。
びっしり並んだオーケストラを指揮する準・メルクル氏に、歌手たちはその指揮者に背を向けて歌うわけで、オペラ上演と真反対。
舞台袖上部に指揮者を映すモニターが据えられていたし、メルクルさんは、巧みに歌手たちに見やすいように、そして的確に指揮しておりまして関心しました。

手持ちのCDはいずれも海外盤なので、今回字幕付きでじっくり堪能できたのは、ほんとにありがたかった。
これまでちょっと曖昧だった部分がすっきり解決、みたいな感じ。
市長などが司令官を訪れ、市民の疲弊の説明と講和を進めるが、頑なな司令官は午後に決定を知らせると話す。
その午後に教会の鐘が打ち鳴らされるわけだけど、宗教をひとつの理由とした戦渦で、久しく鐘は鳴ることがなく、それを司令官の意志と思った市長や市民たち、そんな平和の誤解がよく理解できた。
 頑迷な司令官はそんなの知らない、敵司令官の訪問にも頑なな態度を崩さなかった。
このあたりのいきさつが、今回とてもよく理解できた。
 あと司令官夫妻の二重唱では、熱烈な愛の二重唱だと思い込んでいたけれど、お互いの思いのすれ違う言葉の応酬だった。
それでもマリアのモノローグから、夫妻の二重唱、そのあとのオーケストラの間奏など、まさにシュトラウスの音楽の醍醐味を痺れるような感銘とともに味わうことができました。

フィデリオや第9みたいだと思いつつ、合唱幻想曲をも想起してしまう、そんな歓喜の爆発エンディングは、衣装をコンサートスタイルに変えた登場人物たちが舞台前面に並び立ち、割と前列だったワタクシは、思い切り皆さんの力のこもった力唱のシャワーを浴びることになり、興奮にも包まれたのでした。

1975年の若杉弘さんの指揮する「オテロ」が、わたくしの初オペラで、初二期会でした。
以来、二期会のオペラは多く観劇してきましたが、日本初演の上演も多数経験できました。
なかでも、「ジークフリート」「神々の黄昏(日本人初演)」は自分的に誇るべき体験でしたし、シュトラウスも多くの日本初演を二期会で体験できました。
そして今回の「平和の日」も忘れえぬモニュメントとなりそうです。

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ウォータンやシェーン博士など、いくつもの上演で聴いてきた小森さん。
やはり素晴らしい。
ドイツ語がまず美しいのと、歌としての自然さがまったく違和感なくなめらか。
独白的な場面も、めちゃくちゃ説得力があって、渋い演技とともに堅物の司令官の姿を見事に描ききってました。

あと驚きは渡邊さんのマリアで、あの長大なモノローグを情熱的に見事に歌ってのけて、女声好きのシュトラウスの残した聴かせどころを大いなる共感とともに表現してました。
この場面では、後期のシュトラウスの透明感と諦念のような作風も感じるので、思わず涙ぐんでしまった。
今後の二期会のシュトラウス上演に渡邊さんと、今回カヴァーに入っていた富安さんは欠かせない存在となりそうです。
あのモノローグをいま聴きながら書いてますが、いろんな要素が詰まってますね。

大塚さんの衛兵、深いバスは、かなり前にグルネマンツを聴いたことを思い出しました。
ほかの諸役も、二期会のオペラでお馴染みの方ばかりですが、よくよくおひとりひとり見て聴いていると、なんと難しい歌唱なのかと痛感。
シュトラウスの楽譜は、きっと歌手も楽器もおんなじ扱いで、高難度で、よくぞこんなの暗譜して歌えるなと感心してしまうことしきり。
これら諸役で、案外の決め手役は、イタリア歌手としてのピエモンテ人で、ドイツ人のなかにあるイタリア人的な輝きと明るさが特異な役柄。
しかも今回は、演出で司令官の意図を察して行動する役柄だけど、つねにその行動に不安と疑問を持っている。
ルルでのアルヴァ役が記憶にある山本さん、いい声響かせてました。

先に触れたオペラ指揮者としてのメルクルさんの手練れぶり。
「ダナエの愛」を聴き逃したのは痛恨ですが、新国のリング以来のメルクルさんでした。
なによりも大編成のオーケストラを過不足なく響かせつつ、歌手の声もホールに明瞭に届けなくてはならない。
その意味で、オーケストラをコントロールしながらも、斬新なシュトラウスサウンドを堪能させてくれた。
もっと大胆に、豪放にやることもできたかもしれないが、東フィルから繊細かつスマートな音響を引き出してました。
久々の東フィルも実にうまい!

二期会の積極的なネットでの広報や、専門家や出演者による解説など、事前のお勉強にとても役立ちました。
加えて最後にお願い、というか提案。
このような珍しいオペラはリブレットの理解が必須で、国内盤もないなか、海外盤に頼らざるをえない。
広瀬大介さんの素晴らしい翻訳は、当日販売するとか、有料配信するとかできないものか。
有名オペラ以外は、こうした手段も取って欲しいと思います。

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1月末に営業終了した東急百貨店。
連結するBunkamuraも、このオペラ上演翌日より、一体再開発のため長期休館となりました。
オーチャードホールは、日曜のみ開館するようですが、1989年のオープニングを思い出します。
シノーポリ率いるバイロイト音楽祭の引っ越し公演でこけら落とし。
結婚したばかりで余裕のなかった当時のワタクシ、泣く泣くこの上演は見送りましたことも懐かしい思い出です。

変貌に次ぐ変貌をとげる渋谷の街。
「私の昭和の渋谷」は遠い過去のものになってしまった。
地下に潜ると迷子になってしまうし、地上も景色が変わってしまわからない。
途切れることのない人の流れに戸惑うワタクシ、まさに「さまよえるオジサン」でした。

昼食を取ろうにもラーメン屋や行列店ばかり。
外人さんだらけ。
大人の残された空間のようなお寿司屋さんをみつけ、すべりこんで一息つきました。

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人ごみに流されたあとの一杯は極上でございました。

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お手頃ランチ握りも極上。

静かな店内をひとたび外へ出るとまたあの雑踏。

東京一極集中は、日本にとってほんとによろしくないな。

でもオペラは楽しい。

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2023年4月 7日 (金)

シュレーカー 「はるかな響き」夜曲 エッシェンバッハ指揮

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桜満開の小田原城のライトアップ🌸

城内外、お堀の周りも桜満開。

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月も輝き、ロマンテックな夜でした。

Schreker-eschenbach


  シュレーカー 「はるかな響き」夜曲

         「ゆるやかなワルツ」

          室内交響曲

          2つの抒情歌

           S:チェン・レイス

         5つの歌

           Br:マティアス・ゲルネ

         「小組曲」

         「ロマンテックな組曲」

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮

     ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 2022.5,6 @コンツェルトハウス、ベルリン)

忽然とあらわれたシュレーカーの音楽の新譜。
しかも指揮が、ばっちりお似合いのエッシェンバッハ。
その濃密な音楽造りと、没頭的な指揮ぶりから、マーラー以降の音楽、さらにはナチスの陥れにあった退廃系とレッテルされた音楽たちには、きっと間違いなく相性を発揮すると思っていたエッシェンバッハ。
いまのベルリンの手兵と、しかもDGへの万全なるスタジオ録音。
シュレーカーファンとしては、そく購入とポチリました。
おりからの急速で訪れた春と咲き誇る桜や花々に圧倒されつつ、連日このシュレーカーの音盤を聴いた。

フランツ・シュレーカー(1878~1934)

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・

ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
どこか遠くで鳴ってる音楽。

過去記事を引用しながら、各曲にコメント。

①「はるかな響き」の夜曲は、オペラ2作目で、いよいよ世紀末風ムードの作風に突入していく契機の作品。
3幕の2場への長大な間奏曲。
はるかな響きが聴こえる芸術家とその幼馴染の女性、それぞれの過ちと勘違い、転落の人生。
毎度痛い経歴を持つ登場人物たちの物語が多いのもシュレーカーの特徴。

夜にひとり悲しむヒロインの場面で、これまた超濃厚かつ、月と闇と夜露を感じさせるロマンティックな音楽であります。
鳥のさえずる中庭の死を待つ芸術家の部屋への場面転換の音楽で、ヒロインと最後の邂逅の場面。
トリスタンの物語にも通じるシーンであります。
エッシェンバッハらしい、濃密な演奏は、かつてのシナイスキーとBBCフィルのシャンドス盤があっさりすぎて聴こえる。
オペラ「はるかな響き」過去記事


②「ゆるやかなワルツ」
ウィーン風の瀟洒な感じの小粋なワルツ。
小管弦楽のために、と付されていて、パントマイム(バレエ)「王女の誕生日」との関連性もある桂作です。
クリムト主催の芸術祭でモダン・バレエの祖グレーテ・ヴィーゼンタールから委嘱を受けて作曲された「王女の誕生日」。
原曲も美しい組曲ですが、この繊細なワルツも美しく、演奏もステキなものでした。
(「王女の誕生日」過去記事)

③「
室内交響曲」
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の濃密かつ明滅するような煌めきの音楽。
文字通り室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケに加わっている。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっている。
オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、これまでのオペラの旋律が何度か顔を出す。
エッシェンバッハの作り出す煌めきのサウンドは、とりとめなさと、醒めた雰囲気と、輝かしさとが綯い交ぜとなったこの音楽の魅力を引き立てているし、オーケストラも緻密だ。

④⑤「ふたつの抒情歌」「5つの歌曲」
初聴き、もしかしたら初録音のオーケストラ伴奏の歌曲で、これはこのアルバムの白眉かもしれない。
まだ聴きこみ不足だが、くめども尽きない世紀末感に満ちた濃密な歌曲集。
この時代、数多くの作曲家がホイットマンの詩に感化され歌を付けたが、「ふたつの抒情歌」はホイットマンの「草の葉」につけた歌曲で、1912年の作曲。
「5つの歌曲」は1909~22年の作で、アラビアンナイトに基づく原詩への歌曲。
ともに初なので、まだ詩と音楽、つかみ切れてませんが、ともかく美しくて深くて、味わいが深い。
これが歌手の力も強くて、チェン・レイスのヴィブラートのない美しいストレートボイスがえも言われぬ耳の快感をもよおす。
レイスさんは、イスラエル出身で、いま大活躍の歌手だけど、ずいぶんと前、「ばらの騎士」のゾフィーを聴いてます。
はい、美人です。
 M・ゲルネの深いバスによる5つの歌曲も、濃厚で味わい深く神々しいまでの声で、作品が輝いてる。
夜ふけて、ウィスキーをくゆらせて音量を抑えて聴くに相応しい静かでロマンテックな歌曲だった。

詩の内容とあわせて、もう少し掘り下げたい歌曲集でした。

⑥「小組曲」
1928年のシュレーカー後半生の終盤の作品。
オペラでは、もう人気も低下し、未完も含めると最後から3作目「歌う悪魔」は今にいたるまで上演記録はほんの数回で、音源もなし。
ラジオ放送局から、国営ラジオ放送用の新しい音楽を作曲するよう依頼された。
室内オーケストラのためのシュレーカーの小組曲は、放送マイクの限界を念頭に置いて作曲され、電波上でおいて初演された作品で。
これまではあまり例のないの音楽演奏と初演の試み。
しかしこの後、シュレカーのキャリアが下り坂になるとは本人も思うこともあたわず。
失敗したオペラ、出版社との契約のキャンセルや国家社会主義者からの政治的圧力、そしてベルリン音楽大学の作曲教師の辞任やほかの役職の辞任により、このあと数年で彼の人生は終了。
 こんな苦境の時期の作品は、表現主義的で、とっきも悪く、室内オケへの作品ながら、数多くの打楽器、ハープ、チェレスタなどの登用で多彩な響きにあふれてます。
そんな雰囲気にあふれた「小組曲」、シュレーカーがこの先、どんな作風に進んでいくかの指標になるような作品。
でも、後続の少しの作品だけでは、シュレーカーの「この先」は予見することができない。
いまでは死が早かったシュレーカー、その後を期待したかった。

⑦「ロマンテックな組曲
4編からなる1902年の作品。
オペラで言うと初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる初期作品。
歌劇「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだったが、この組曲は、どちらかというと、のちの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なロマンティシズムを感じさせる桂品。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」ともいえる存在。
ウェーベルンの「夏風・・」風な「牧歌」に濃厚でシリアスな雰囲気のシャープな味付けでどうぞ。
スケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快さもありつつほの暗い。
インテルメッツォは、以外にも北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

こうした作品には軽いタッチで小回りよく聴かせることのできる器用なエッシェンバッハ。
2枚組のこの大作CDのラストを飾り、爽やかさををもたらせてくれました。

ベルリン・コンツェルトハウス管は1952年創設の旧東ベルリンにあった、あのザンデルリンクのベルリン交響楽団です。
4年前からエッシェンバッハが首席で、次の首席はヨアナ・マルヴィッツが決定している。
ちなみに今のベルリン交響楽団は、旧西ベルリンにあったオケがその名前のまま存続している団体。
両オケとも、5~6月に来日するようで、ともに見栄えのしないプログラムでございます。

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 独墺のこの時代の作曲家の生没年

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

 以下、ヴェレス、ハース、クラーサ、アオスラー、ウルマン等々

私が音楽を聴き始めた頃には、こんな作曲家たちの作品が聴けるようになるなんて思いもしなかったし、その存在すら知るすべもなかった。

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音楽を聴く方法、ツールの変遷とともに、世界のあらゆる情報が瞬時に確認できるようになりメディア自体が変化せざるを得なくなった。

高校時代をこの城下町に通って過ごし、駅前にあった大きな本屋さんで毎月レコード芸術を購入して、食い入るように読んでいた。
どんなレコードがいつ発売されるか、それがどんな演奏なのか、海外の演奏会、新録音のニュース、ともにレコード芸術が頼りだった。

そのレコード芸術が今年7月で休刊となるそうだ。
時代の流れを痛感するとともに、感謝してもしきれない思いを感じます。

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