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2024年1月

2024年1月27日 (土)

アバドが指揮しなかった作品たち

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出雲大社相模分祠の手水舎

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アバド没後10年。

あの日の驚愕と悲しみといったら・・・・




La chiesa riformata di Fex-Crasta

スイス南部、イタリア国境よりのグラウビュンデン州、オーバーエンガディンのシルスという街。
ここにある15世紀にひも解かれる歴史ある教会、フェクス・クラスタ。

アバドはここに眠ってます。
その教会の鐘がyoutubeにありました。

Sils

どうでしょうか、シルス湖が近くにあり、冬は雪に覆われますが、夏は牧歌的なスイスアルプスの景観。

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まさに、マーラーの音楽の世界。
真ん中の雲の下あたりが教会。

アバドの永遠の住処にまさにふさわしい。
ミラノやフェラーラのイタリアにも近く、オーストリアにも近いドイツ語圏です。

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ベルリン・フィルハーモニーにあるアバドのブロンズ像。

髪の毛の具合、端正な横顔がまさにアバドです。

そのアバド、モンテヴェルディからノーノやクルタークまで、バロック初期から現代まで、広範にわたる時代の音楽を指揮して、わたしたちに届けてくれました。

バッハはマタイやロ短調も演奏していたし、モーツァルトは4大オペラもふくめ、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ムソルグスキー、チャイコフスキー、マーラー、ウェーベルンなどは、ほぼほとんどのレパートリーを指揮して録音も残しました。

しかし、まったく指揮することのなかった作曲家や作品もたくさんあり、アバド好きとしては気になるところなのです。

①プッチーニ

いちばん、アバドがやらないといわれた作曲家。
以前に読んだアバドのインタビューで、マノンレスコーをやる寸前までなったけれど、そのとき、ペレアスとメリザンドの話しがきて、そちらに躊躇なくしたんだ、と話していましたね。
革新性を好むアバド、並べられたらそちらを選択すますと発言。
トゥーランドットも高く評価はするが、同時期に作曲されたのはシェーンベルクの「期待」ですよと言い、どちらかといえば、シェーンベルクを選びますと言ってました。
まさにアバドらしい。
和声や響きとリズムの革新性があるプッチーニは、マーラーの音楽との類似性もあると思うが、アバドはそうではなく、シェーンベルクとの対比を自分のなかで思ったということ。
プッチーニ好きとしては、アバドもカラヤンのようにプッチーニを巧みに指揮して欲しかったと思いますが、アバドがトスカや蝶々さんを指揮する姿など想像もできないし、絶対にありえないと思うのがまたアバド好きとしての見方です。
極度のセンチメンタルを好まず、冷静な客観性を好み、マーラーの描き方も自然児的であるアバドですから。

音源的には、ネトレプコとの「私のお父さん」、ライブではパヴァロッティとトスカのアリアがありました。

②レスピー

プッチーニをやらないから当然に。
ほとんどのイタリア人指揮者が取り上げるローマ三部作。
アバドはまったくやらず。
同様にジュリーニもやらなかったし、ジュリーニはプッチーニを指揮しなかった
 ほんというと世紀末臭まんさいの、レスピーギのオペラには興味を示して欲しかったところ、でも革新的ではなかった。

③スラヴ系

おおきなくくりすぎるが、ロシアのR・コルサコフなど、ようはチャイコフスキーを除くムソルグスキー以外。
あっけらかんとした、屈託のない民族系は好きじゃなかったのかも。
東欧系では、ヤナーチェクを好んだのは和声とリズムの大胆さゆえかも。
ヤナーチェクのオペラは多く手掛けてほしかった。
同じ嗜好をラトルが引き継いでるとおもいますね。
スクリャービンは好きだった。
ラフマニノフの交響曲なんて、全く想像もつかない。
ドヴォルザークは7番とか、チェロ協奏曲も聴きたかった。

④北欧系

こちらは、シベリウス、グリーグ、ニールセンなどは全滅、まったく見もしなかったジャンル
曇り空と白夜は好きじゃなかったのかも。

⑤英国系

こちらもほぼ絶無。
演奏記録として、ロンドン時代にヨー・ヨー・マとエルガーのチェロ協奏曲の塩素歴あり。
それのみが英国系の音楽・・かも

⑥ショスタコーヴィチ

晩年に映画にまつわる音楽を、ヴァイオリン協奏曲も、いずれもベルリンで取り上げたけれど、交響曲には極めて慎重で、おそらく指揮することもないと思われた。
でもマーラーを極め、さらには政治的な背景のある音楽に同調しがちだったアバドだから、8番、10番、14番、15番あたりは興味を示したかも。

⑦ワーグナー

ローエングリン、トリスタン、パルジファルの3作を残したアバド。
3作にあるのは、やはり音楽の革新性。
ハ長に徹したマイスタージンガーも生真面目なアバド向きだし、あの明晰なワーグナー解釈をこそ、「ワーグナーのマイスタージンガー」は待っている演奏だったと思う。

⑧ヴェルディ

中期から後期の作品を好んで取り上げたアバド。
歌謡性豊かな作品や煽情的な初期作はあえてスルーして、劇的な筋立てや内包するドラマ性あるオペラをこのんだアバド。
トロヴァトーレ、リゴレット、トラヴィアータ、ナブッコなどはやらず、劇場泣かせ

⑨ブルックナー

1番を、指揮者デビュー時からずっと指揮し続けたアバド。
ウィーンフィルで6曲まで録音し、ルツェルン時代も再録音あり。
結局、2.3.6,8番の4曲は残さず。
8番はアバド向きじゃなけれど、2番と6番の抒情性はアバド向きだし、リズムもきっと牧歌的だろう。
3番はアダージョのみ記録があり、エアチェック音源あり。
8番は、ぜったいにアバド向きな交響曲じゃないから、やらなくてよかった。

⑩アメリカ音楽

これはもうムリな世界(笑)

⑪後期ロマン派以降

新ウィーン楽派の3人は、アバドのレパートリーの中枢ですが、3人の主要作品のうち取り上げてなかったのが「ルル」です。
組曲としては2度の録音もあり、アバドはベルクの音楽を「ヴォツェック」を中心に愛し続けました。
「ルル」を舞台で上演することがなかったのですが、タイミングの問題と主役を歌う歌手にアバドの思う人がいなかったのかもしれません。

新ウィーン楽派以降の作曲家たち、できればアバドに余力があれば、若い頃にやってほしかった。
ツェムリンスキーとシュレーカーあたりは聴いてみたかった。
コルンゴルトはちょっと違う。

以上、好き勝手書きましたが、もっとあるという方、コメントをお寄せくださいませ。

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2024年1月20日 (土)

ヴェルディ シモン・ボッカネグラ アバド没後10年

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わたしの育った街の海の夕暮れ。

そして40年数年を経ていま、帰ってきました。

妻子は自分の家のある隣県におりますが、年老いた親と暮らすことにしたわけです。

もうじき2年が経ちますが、この海を見て、そして小さな山に登るにつけ、帰ってきてよかったと思います。

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はるかに見渡す箱根と伊豆の山々。

子供のときからずっと見てきた景色を、歳を重ねてみるという喜び。

海を愛し、日没を愛す自分。

そんな自分が高校時代、イタリアオペラ団の公演に接し、ほかのヴェルディのオペラに勝ると劣らないくらいに好きになったのが「シモン・ボッカネグラ」

海に生き、運命に翻弄されつつも、最後は愛する人々に囲まれた、そんな男のオペラ。

このオペラをこよなく愛し好んだアバド。

ヴェルディの「シモン・ボッカネグラ」ほど、アバドが愛したオペラはなかったといえるでしょう。

アバドが旅立って10年です。

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ジョルジョ・ストレーレルの演出、エツィオ・フリジェリオの舞台美術、衣装。
シモン・ボッカネグラの名演出をともなったアバドのスカラ座時代の金字塔。
ジャケットもオペラ部門、ジャケット大賞を自分では差し上げたいくらいの名品。

スカラ座:1971年以来、1982年まで、歌手はカプッチッルリ、ギャウロウ、フレーニの3人とともにずっと上演されたプロダクション。

パリ・オペラ座1978年 お馴染みの演出と3人とでパリに客演、DVDありますね(ブルーレイ化希望!)

ウィーン国立歌劇場:1984年~1990年まで、ストレーレル演出をウィーンに持ってきて何回も上演
ブルソン、ライモンディ、リッチャレッリに歌手はかわり、のちにヌッチ、トコディ、デッシー、フルラネットなども参加

ベルリンフィル:1999年に演奏会形式、2000年にザルツブルク祝祭音楽祭でフィレンツェとの共同制作で上演
チェルノフ、コンスタンティノフ、プロキナ、グエルフィ、マッティラと歌手は顔ぶれ刷新、演出はペーター・シュタイン。

フェラーラほか、マーラー・チェンバー:2001年5月、驚きのマーラー・チェンバー起用、パルマ、ボルツァーノでも上演。
チェルノフ、コンスタンティノフ、ミシェリアコワ、スコーラ、ガロ
演出はシュタインのアシスタントだったマルデゲム。

フィレンツェ:2002年、ザルツブルクのプロダクションで、唯一のフィレンツェのピット。

このように、ベルリンフィルを勇退してルツェルンと若者との共演にシフトするまで、30年間、オペラを手掛けた間はずっとシモンを指揮し続けたことになります。
幸いなことに、いずれの「アバドのシモン」は何らかの形で聴くことができます。
つごう5種の音源・映像を保有してます。
しかしながら、痛恨なことに、日本公演のNHK放送は、放送日に観劇していたのでエアチェックが出来なかったで、わたしのライブラリにはその演奏がないのです。
でもね、いまでも脳裏にあのときの舞台とオーケストラと歌手の音は刻み込まれていて、思い起こすともできるからいいのです。

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暗い画像ですが、こちらは第1幕の後半、誘拐されたアメーリアの犯人に対し、シモンが腹心であったパオロに真犯人に呪いをかけよと命じるシーンで、恐怖に顔を歪ませ、周囲からひとり浮かび上がってしまう。
カプッチッルリのパオロに迫る迫真の歌と演技、そのあとの名パオロといっていいスキアーヴィが全身を硬直させ、その彼にスポットライトが当たり、振りおろしたアバドの指揮棒が停止、そして音楽も舞台も一瞬で止まった!!
舞台を見ていた私は、凍り付くほどのサスペンスとその完璧さに畏怖すら覚えた。

シモン・ボッカネグラは1857年に作曲されるが初演は失敗、時期的にはシチリアの晩鐘と仮面舞踏会の間ぐらい。
すでに朋友となっていたボイートによって台本の改訂を行い、改訂版が出来上がったのが1881年で、アイーダとドン・カルロの間にあたる最高期の時期。
大きな違いは、主人公のシモンに加えて、同じバリトンでも暗めの音色を要求される悪役パオロの重要性を高め、バスのフィエスコとともに、渋い低音男声3人による心理ドラマの様相を濃くしたことだ。
このあたりが、このシモンという作品が当初、大衆受けがしなかった要因で、加えて華やかなアリア的なものが少ないことも大きい。

アバドが当初よりこのオペラにこだわりをみせたのは、やはり人間ドラマを内包するヴェルディならでは渋い音楽造りに着目したからだろう。
スカラ座公演のパンフレットには、アバドが自ら解説を書いており、イヤーゴのような存在のパオロと、政治的な利害関係と個人の関係が生むドラマの対照などに言及している。
 さらに音楽のすごさとして、シモン役の最大の聴かせどころ、貴族派と市民派との衝突の危機に「市民よ、貴族よ・・・」と人々を静め、「わたしは叫びたい、平和を」と繰り返し熱く歌うシーンを細かに分析し、ヴェルディの描いたもっとも素晴らしく厳粛な場面と評価している。
あと先にあげた誘拐犯パオロに迫るシモンのレシタティーヴォ、そのオーケストレーションの巧みさにも言及。

アバドのシモンへのこだわりは、もっともっとある、そんな耳で感心しながら、これまで何度も繰り返し聴いてきました。
だから「シモン・ボッカネグラ」というオペラは、わたしにはアバド以外はダメなのです。
あとついでに、カプッチッルリ、ギャウロウ、フレーニの3人とリッチャレッリ以外は同様なんです。
ほかの演奏は避けてきたし、舞台もきっと観ることはないでしょう。

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カプッチッルリとギャウロウ、このふたりがあってこそ、アバドのシモンがあり、シモンの復興もあった。
1976年のNHKイタリアオペラでもこのふたり。
アメーリアはリッチャレッリった。
高校生だった私は巨大なNHKホールで夢中になって観劇しました。
もうひとつ、カバリエ、コソット、カレーラスのアドリアーナ・ルクヴルールも。
どちらのオペラも録音して何度も聴きまくり、すみからすみまで覚えてしまい、へたすりゃ歌えるくらいになりました。
このふたり、かっこよかった。
プロローグでフィエスコが歌うモノローグで、ギャウロウの最低音が渋くも神々しく見事に決まり、すがりつくシモンを振り切るようにマントをひるがえしました。
そのマントの音がバサリと聴こえて、その音すらまざまざと覚えてます。

そうして暖めつくしたシモンへの思いが、スカラ座来日での「アバドのシモン」の名舞台につながりました。

①1972年 スカラ座

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  シモン・ボッカネグラ:ピエロ・カプッチルリ 
  フィエスコ:ニコライ・ギャウロウ

  アメリア:ミレルラ・フレーニ      
  ガブリエーレ:ジャンニ・ライモンディ
  パオロ:ジャン・フェリーチェ・スキアーヴィ    
  ピエトロ:ジョヴァンニ・フォイアーニ
  隊長:ジャンフランコ・マンガノッティ            
  腰元:ミレナ・パウリ


 クラウディオ・アバド指揮 スカラ座管弦楽団/合唱団

       (1972.1.8 @スカラ座)

前月の12月にプリミエのアバド初のシモンの貴重な記録。
放送音源が元のようで、当然にモノラルですが、音はよろしくはなくダンゴ状態だが、視聴には充分耐えうるもの。
この頃のアバドの劇場での指揮の常として、自ら興奮に飲み込まれるようにテンポも突っ走ってアゲアゲな場面があり、当然に聴衆の興奮ぶいもうかがえる。
プロローグのエンディングの盛り上げもすさまじい、
3人の歌手といつもパオロ役で貢献しているスキアーヴィもよいが、ここではライモンディの明るく、豊かなカンタービレを聴かせるガブリエーレが素敵なものだ。
この音源、放送局にちゃんとしたものがないだろうか。。。

②1977年 スカラ座DG録音

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  シモン・ボッカネグラ:ピエロ・カプッチルリ 
  フィエスコ:ニコライ・ギャウロウ

  アメリア:ミレルラ・フレーニ      
  ガブリエーレ:ホセ・カレーラス
  パオロ:ホセ・ファン・ダム    
  ピエトロ:ジョヴァンニ・フォイアーニ
  隊長:アントニーノ・サヴァスターノ           
  腰元:マリア・ファウスタ・ガラミーニ


 クラウディオ・アバド指揮 スカラ座管弦楽団/合唱団

       (1977.1  @CTCスタジオ  ミラノ )

もういうことなしの名盤。
先にマクベスがアカデミー賞を受賞してしまったので、こちらは無冠となりましたが、総合的な出来栄えでは、こちらのシモンの方が上。
正規録音で慎重なリハーサルを重ねた結果の完璧なできばえで、もちろん、毎年のように同じメンバーで作り上げてきた作品への同じ共感度がすべてにわたって貫かれている。
ここでレコーデイングゆえに登場した新参として、カレーラスとファン・ダムがいて、彼らはスカラ座でのシモンにはまったく登場していないメンバー。
このふたりが、こんかいアバドの一連のシモンを聴いて、ちょっと立派すぎて浮いているように感じたのは贅沢な思いだろうか。
ルケッティとスキアーヴィでよかったんじゃ・・・・
  ライブにあった突っ走り感は、ここではまったくなく、ヴェルディの音楽の核心を突く表現にすみずみまで貫かれている。
合唱の素晴らしさも、ガンドルフィ率いるスカラ座コーラスならでは。
あとさらに誉めれば、DGの録音も素晴らしく、アナログの最盛期のよさが出ていて、このあとの仮面舞踏会、アイーダでの録音よりずっといいと思う。


③1981年 スカラ座 日本公演


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  シモン・ボッカネグラ:ピエロ・カプッチルリ 
  フィエスコ:ニコライ・ギャウロウ

  アメリア:ミレルラ・フレーニ      
  ガブリエーレ:ヴェリアーノ・ルケッティ
  パオロ:フェリーチェ・スキアーヴィ    
  ピエトロ:アルフレード・ジャコモッティ
  隊長:エツィオ・ディ・チェーザレ            
  腰元:ネルラ・ヴェーリ


 クラウディオ・アバド指揮 スカラ座管弦楽団/合唱団

       (1981.9.10 @東京文化会館)


ファンになって10年、やっとアバドに出会えるとワクワク感と緊張感で待ちわびた公演だった。
文化会館のピットに颯爽と登場し、目を見開いて聴衆にサッと一礼し、指揮を始めるアバドの姿。
非常灯もすべて落として、真っ暗ななかに、オケピットの明かりだけ。
装飾を施した文化会館の壁に、浮かび上がるアバドの指揮する影。
いまでも覚えているその残像。
憧れのアバドの姿を見ながら、スカラ座のオケが紡ぎだす前奏を聴いてその桁違いの音色に驚いた。
5年前のイタリアオペラ団のシモンが耳タコだったので、N響とスカラ座オケとの月とすっぽんの違いにです。
深くて、明るくて、すべての音に歌があふれている、それを最初の前奏でまざまざと見せつけられた。
シモンが愛した、アドリア海の青色をオケが表出していたのでした・・・・

この公公演は「シモン」というオペラの素晴らしさとともに、アバドのオペラ指揮者としての凄さに感じ入り、生涯忘れえぬ思い出となりました。
以下は過去記事の再掲~

「舞台も、歌手も、合唱も、そしてオーケストラも、アバドの指揮棒一本に完璧に統率されていて、アバドがその棒を振りおろし、そして止めると、すべてがピタッと決まる。背筋が寒くなるほどの、完璧な一体感。」

当時に書いていた日記~

「これは、ほんとうに素晴らしかった。鳥肌が立つほどに感動し、涙が出るばかりだった。
なんといっても、オーケストラのすばらしさ。ヴェルディそのもの、もう何もいうことはない。
あんな素晴らしいオーケストラを、僕は聴いたことがない。
そして、アバドの絶妙な指揮ぶり。舞台もさることながら、僕はアバドの指揮の方にも目を奪われることが多かった・・・・・。」

バリトンとソプラノの二重唱を愛したヴェルディの素晴らしい音楽は、父と娘とわかったときの感動シーンに凝縮されていて、そのピークをアバドは最高の情熱を降り注いで、このときの公演では、ワーグナーを聴くような陶酔感を味わいました。
そしてシモンとフィエスコの憎しみが友愛に変る邂逅のシーンも涙が出るほどに切なく感動的で、カプッチッルリとギャウロウの名唱・名演技に酔いしれた。

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娘夫妻に抱えられ、最後のときを迎えるシモン。
泣けました・・・・

こんなチラシが配布され、ピアニシモで終わる特異なオペラをしっかり味わってほしいという、アバドと主催者の思いを感じました。

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いまならアナウンスはしても、ここまではやりませんね。

これまでの音楽体験のベストワンが、私にはこのシモン・ボッカネグラです。

ちなみにベスト3は、あとは「ベルリン・ドイツ・オペラのリング」と「アバドとルツェルンのマーラー6番」であります。

④1984年 ウィーン国立歌劇場

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  シモン・ボッカネグラ:レナート・ブルソン 
  フィエスコ:ルッジェーロ・ライモンディ

  アメリア:カティア・リッチャレッリ      
  ガブリエーレ:ヴェリアーノ・ルケッティ
  パオロ:フェリーチェ・スキアーヴィ    
  ピエトロ:コンスタンチン・シフリス
  隊長:エヴァルト・アイヒベルガー            
  腰元:アンナ・ゴンダ


 クラウディオ・アバド指揮 ウィーン国立歌劇場管弦楽団/合唱団

       (1984.3.22 @ウィーン国立歌劇場)

スカラ座からウィーンへ。
アバドはオペラの拠点を移し、当然にシモンも同じプロダクションを持っていきました。
演奏スタイルはほぼ同じく、そしてライブゆえに燃えるようなアバドの姿もあり、プロローグのラストのアッチェランドには興奮します。
同じオペラのオーケストラでありながらウィーンのヴェルディでは、ちょっと趣きが違うようにも感じます。
色香がちょっと異なるんです。少しはみ出るような味わいというか、甘味さというか、なんとも表現しにくい雰囲気です。
この音源がちゃんとした音で残されたのも幸いなことです。

歌手はいつもの3人がまったく刷新され、印象はまるで異なります。
唯一のお馴染みは、わたしにはリッチャレッリとルケッティ、スキアーヴィの3人。
ライモンディは美声ではあるが、ギャウロウのような光沢と渋さがなく、ブルソンは滑らかな優しい美声ではあるが、厳しさが不足。
贅沢なこと言っちゃうのも、あの3人がすばらし過ぎたから・・・・

⑤2000年 ザルツブルク復活祭音楽祭

      シモン・ボッカネグラ:カルロ・グエルフィ 
  フィエスコ:ジュリアン・コンスタンティノフ
  アメリア:カリタ・マッティラ      
  ガブリエーレ:ロベルト・アラーニャ
  パオロ:ルーチョ・ガッロ    
  ピエトロ:アンドレア・コンチェッティ
  隊長:ファビオ・サルトリ            
  腰元:クレア・マッカルディン

 クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
              ヨーロッパ祝祭合唱団

       (2000.4.15 @ザルツブルク)

ウィーンからベルリンへ、アバドのオペラの指揮は、カラヤンと同じくザルツブルクのイースター音楽祭に絞られ、やはり得意のシモンを取り上げることとなりました。
多忙を極めながら病におかされつつあった時期のものです。
さすがはベルリンフィル、完璧なオーケストラサウンドを聴かせますが、その基調は明るい音色で軽めです。
アバドも自在な指揮ぶりと感じさせますが、父娘の二重唱の高揚感では、あれっ?と、一瞬思うくらいに流れてしまう。
ザルツブルクの上演の前、1999年にベルリンで演奏会形式で演奏して挑んだこの公演、ウィーンでのシモン以来アバドは10年ぶり。
そんな新鮮さと、すみずみまで知り尽くした指揮者の力を感じますが、このコンビならもっとできたはずと思わせる場所も、書いた通りあります。
グエルフィ、コンスタンティノフ、マッティラの新しい3人に刷新。
いずれもかつての3人の比ではないですが、時代の流れなのか、スマートな知的な歌唱で、聴く分にはまったく問題ない。
スキアーヴィにかわる名パオロの誕生となった、ガッロがすばらしいと思う!
フィガロ役から、こうしたアクの強い役まで歌うガッロ。
新国で、イヤーゴ、ジャック・ランスなどを観劇してます。

⑥2002年 フィレンツェ歌劇場

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  シモン・ボッカネグラ:カルロ・グエルフィ 
  フィエスコ:ジュリアン・コンスタンティノフ

  アメリア:カリタ・マッティラ      
  ガブリエーレ:ヴィンチェンツォ・ラ・スコーラ
  パオロ:ルーチョ・ガッロ    
  ピエトロ:アンドレア・コンチェッティ
  隊長:エンリーコ・コッスッタ            
  腰元:カーティア・ペッレグリーノ


 クラウディオ・アバド指揮 フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団/合唱団

       (2002.6.19 @フィレンツェ歌劇場)


映像でのアバドのシモンは、痩せてしまったがアバドの指揮姿がとても元気そうで貴重な記録となりました。
フィレンツェの聴衆からも絶大な人気と大きな喝采を浴びてまして、うれしくなります。
他流試合ではあるものの、さすがは作品を知り抜いたアバドで、アバド最後のシモンは、総決算的な出来栄えともいえます。
映像だと、どうしても舞台があり、演出があり、歌手がありで、そこに耳目が向いてしまう。
じっくり聴きたいから、一度、音源としてリニューアル化して欲しいと思いますね。
スカラ座時代にあったアバドの若さは、一同の尊厳を一気に集める高尚なる指揮ぶりとなっていて、適度に力も抜けていて、透明感すらただよいますので。。

ペーター・シュタインの演出は、いまウィーンなどでも上演されているものの原型。
スタイリッシュなもので、ストレーレルのような具象性も時代考証に応じた重厚感もなく、軽め。
古臭いことをいいますが、やはりあの舞台、またはイタリアオペラ団の古風な舞台を見てしまった自分にはなじめません。
でも群衆の動かし方や、ラストシーンの荘厳さは感動的で、最後にピット内の動きを止め、指揮棒をそっと置くアバドの姿が映されファンとしてはうれしいものです。

      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

アバドのシモンは、スカラ座にはじまり、ウィーン、ベルリンを経て、最後はイタリアに戻りました。
2002年のフィレンツェは、ザルツブルクとの共同制作でもあり、アバドとしてはいろいろと制約もあったかもしれない。
その前の2001年のフェラーラでの上演は、演出もシュタインでなく、アシスタントだったマルデゲムの演出はよりシンプルなもののようだった。
小ぶりな劇場で、親密な仲間である若いオケとやりたかったでしょうか。

そのときの映像を発見したので貼っておきます。



                                                   (2001年 フェラーラ)

2000年の11月と12月、病から復活を遂げた日本公演のあと、ベートーヴェンの交響曲、ファルスタッフ、マーラー7番などを精力的に指揮しつづけ、ファラーラでシモン。
アバドのヴェルデイの総決算が、シモンとファルスタッフだったこともとても意味深く思います。

アバドのシモンの最初の仲間たちは、リッチャレッリを除けば、みんな旅立ってしまいました。
10年前に悲しみを持って追悼に聴いたシモン。
10年後のいまは、ひとつの作品を突き詰めるアバドの偉大さと凄さに、思いをあらためております。
そして、自分もいい時代を生きて、最高の舞台経験が出来たことに感謝をしております。

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スカラ座のシモンのラストシーン・・・・
泣けます。

アバドが愛し、突き詰めつくしたオペラが「シモン・ボッカネグラ」で、あとは「ヴォツェック」と「ボリス・ゴドゥノフ」だったと思います。

アバドの命日の記事

2023年「チャイコフスキー 悲愴」

2022年「マーラー 交響曲第9番」

2021年「シューベルト ミサ曲第6番」

2020年「ベートーヴェン フィデリオ」

2019年「アバドのプロコフィエフ」

2018年「ロッシーニ セビリアの理髪師」

2017年「ブラームス ドイツ・レクイエム」

2016年「マーラー 千人の交響曲」

2015年「モーツァルト レクイエム」
  
2014年「さようなら、アバド」

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2024年1月13日 (土)

ワーグナー ワルキューレ1幕後半 ベルリンフィルで聴く

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数日前、極寒の曇り空に1日に、夕方には雲が切れて壮絶な夕焼けとなりました。

次の日はきれいに晴れ渡る好天でした。

日本は広い、被災エリアにお日様の暖かさを届けたいものだ。

大晦日に行われたベルリンフィルのジルヴェスターコンサートでは、久方ぶりにワーグナーが特集された。
指揮はもちろん、キリル・ペトレンコで前半に「タンホイザー」序曲とバッカナール、メインが「ワルキューレ」第1幕でした。

そこで歴代指揮者たちで、ワルキューレ1幕をベルリンフィルで聴いてみた、の巻です。
アバド盤が2重唱以降なので、コンパクトに後半のみを。

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    ジークムント:ジョン・ヴィッカース

    ジークリンデ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ

 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1966.12 @イエス・キリスト教会)

ザルツブルクでの4年間の上演に先立ち録音された1年おきのリング4部作。
最初の録音がワルキューレで、リリックな歌手を起用してカラヤンのリングに対する考え方を明らかにさせ、世界を驚かせた。
全編、抒情的で緻密な演奏で、その音楽は磨きぬかれて洗練の極み。
2重唱も美しく、とくに繊細でしなやかなヤノヴィッツの歌うか所では、オーケストラは耽美的ですらある。
しかし、そんななかでもさすがはカラヤンと思わせるのが、ふたりの愛の高まりとともに、オーケストラの高揚感も最高に高まり、最後は手に汗握るような情熱のかたまりとなる。
こういうところがオペラ指揮者としてのカラヤンのすごいところ。
ベルリンフィルも鉄壁であるが、録音会場が響きすぎるのがやや難点か。
しかし、60年代録音で聴き慣れた、自分には馴染みある響きでもあり。
ヴィッカースは異質である。

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    ジークムント:ジークフリート・イェルサレム

    ジークリンデ:ヴァルトラウト・マイヤー

  クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (1993.12.31 @フィルハーモニー)

カラヤンのワルキューレから27年後。
ローエングリンのみをそのレパートリーにしていたアバドが、ジルヴェスターで抜粋とはいえ、オランダ人、タンホイザー、マイスタージンガー、そしてワルキューレを指揮した。
当時は、NHK様がジルヴェスターコンサートはテレビでライブ中継していたころで、わたしはもう画面に釘付け。
毎年、テーマを設けてひとりの作曲家や文学作品、民族などを特集していたアバド。
慎重なアバドだが、やはりライブでは燃える。
この夜のハイライトはやはりワルキューレだった。
音たちの磨きぬかれた美しさは、もしかしたらカラヤン以上で、混じり物のないクリアで明晰なワーグナーは、のちのトリスタンで突き詰めたアバドのワーグナー演奏の端緒ともいえる。
カラヤンとはまったく違った、よい意味での音の軽さは、ベルリンフィルの名技性があってのものだろう。
ここにアバドの大胆さを感じる。
ここに聴く抒情は、カラヤンのウマさのともなう美しさでなく、どこまでもしなやかでピュアで、新鮮だし、抑えに抑えたオーケストラはそれこそ室内楽のようで、歌手と対等の立場にある。
 わたしの世代では、コロやホフマンとならぶヘルデンだったイェルサレムが好きだ。
イェルサレムのジークムントは実演で2度聴けたが、ここでも知的でありつつ、熱くもあり、力感も十分だ。
同じく実演でのジークリンデを経験できたマイヤーもステキの一言につきる。
彼女のメゾがかった弱音が実に素晴らしいのだ。
ということで、アバド盤、ほめすぎですかね。
ラストの白熱感も、着実でたまらなく素晴らしいです。

Silvester-2023

    ジークムント:ヨナス・カウフマン

    ジークリンデ:ヴィダ・ミクネヴィシウテ

  キリル・ペトレンコ指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

       (2023.12.31 @フィルハーモニー)

アバドのジルヴェスターから30年。
私も歳をとったが、ベルリンフィルの超絶うまさは健在だ。
ラトルもワルキューレはザルツブルクで上演しているが、残念ながら聴いたことがないのでここでは省略。

ペトレンコ就任から4年を経て、そのレパートリーも音楽もだんだんわかってきた。
しかし、ベルリンフィルの指揮者になったからといって、ベートーヴェンやブラームスの全集を作ったり、メジャーレーベルを股にかけて活躍したりといったことはいっさいせずに、わが道をゆくといった求道的な姿を見せるペトレンコ。
豊富なオペラ指揮者としての経験がありながら、劇場レパートリーをこなすといった日常のルーティンワークでなく、思い定めた作品を徹底的に極めていくタイプ。
であるがゆえに、その演奏は徹底していて完璧さを求める緊張感にあふれている。
そして相方がベルリンフィルというだけあって、その完璧さが鉄壁にすぎて、ときに緊張疲れしてしまうのではないかとわたしは危ぶむ。
両社の緊張関係が途切れたときどうなる・・・わたしにはわからない。
だから完璧にうまくいっているこのコンビを今こそ聴くべきなのだろう。

以上つらつらと思ったままの演奏がこのワルキューレ。
ペトレンコにまいどのことで、そのテンポは速めで、そのうえに情報はぎっしり詰まっている。
カラヤンにあった甘味な抒情、アバドにあった優しさと微笑みの歌、それらはまったくなく、ワーグナーの厳しい造形音楽と感じる。
これをライブで、または劇場で舞台を伴って聴いたなら、CDやDVDよりも完璧に感じ、同時に音の熱量も高いので、体を焦がすような興奮も味わえるだろう。
カラヤン、アバド、ラトル、それぞれのベルリンフィルと、また違う次元のオーケストラサウンドをペトレンコは導き出すものと思う。

お叱りを覚悟でいいます、なんでもかんでもカウフマン、少し食傷気味です。
バリトンがかった悲劇臭あふれるジークムントは、たしかに役柄的に最適だが、カウフマンの声はもう重すぎると思った。
突き抜けるようなテノールの声がないので、曇り空なんです。
同時期のウィーンでのトゥーランドットも最近聴いたけれど、こちらはプッチーニだけに、不満はもっと大きかった。
 一方、売り出し中のリトアニア出身のミクネヴィシウテの若々しい、張りのある声がすばらしい。
ベルリン国立歌劇場ですでにジークリンデを歌っていて、この夏はバイロイトで、何度も共演してるシモーネ・ヤングの指揮でもジークリンデを歌う予定。

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我が家の庭にある紅梅も咲きはじめ、甘い香りが漂ってます。

ジークリンデの「君こそが春」、ジークムントの「冬の嵐は去り」を聴いて、まさに甘い思いに浸る。

ベルリンフィルというオーケストラは、まさにスーパーな存在であり、楽員たちが選ぶその指揮者たちとも歴代にわたり、見事な結実を示してきました。

ラトルも含めて、ベルリンフィルをこうしてさまざまに聴ける幸せをかみしめたいものです。
これはウィーンフィルでは絶対に感じない思いです。

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2024年1月 9日 (火)

ブルックナー ミサ曲第3番 バレンボイム指揮

Motosu

新年を寿ぐ言葉も申しあげることなく、年が明けて1週間が経過しました。

それでも個人的には海外の配信を中心に音楽はたくさん聴いております。

第9はあえて聴かないと決めたへそ曲がりは、ラフマニノフとプロコフィエフ、フンパーディング三昧で年を越し、年初はショックと暴飲暴食三昧で日々茫然としつつも、ティーレマンのニューイヤーをネット配信で聴き、悪くないと感心。
ジルヴェスターでは、ペトレンコのワルキューレ1幕で、ベルリンフィルというオーケストラの超高性能ぶりに唖然としつつ、こんな緊張感の高い演奏ばかりしていて大丈夫かな、血管とか切れないかな、とかあらぬ心配をしたりもした。

あとスカラ座のオープニングのドン・カルロではネトレプコとガランチャに酔い、ピッツバーグのアーカイブ放送からマゼールのブルックナー8番も堪能。
あとネットオペラ放送では、プロヴァンスでのマリオッテイ指揮のオテロ、ベルリンでのユロフスキ指揮のR・コルサコフのクリスマス・イヴも聴いた。
コルサコフのオペラは、いずれも幻想味があってとても美しい~

そんななかでも、仕事もちょいちょいしているし、親と孫のお世話もしてるので、ともかく忙しい。

こんな年末年始を過ごしましたよ。

あ、ちなみに写真は12月に巡った富士五湖のなかから、本栖湖。
この日は終日、雲ひとつない晴天で5つの湖すべてで富士山を望めました。

2024年のアニバーサリー作曲家の目玉のひとつは、ブルックナー(1824~1896)でしょう。

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  ブルックナー ミサ曲第3番 へ短調 (ノヴァーク版) 

   S:ヘザー・ハーパー Ms:アンナ・レイノルズ
   T:ロバート・ティア Bs:マリウス・リンツラー

  ダニエル・バレンボイム指揮 ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
                ニュー・フィルハーモニア合唱団
       合唱指揮:ウィルヘルム・ピッツ

                                    (1971 @ロンドン)

交響曲作家としてのブルックナーには、本来は宗教音楽作曲家としての側面もあり、そちらが音楽のスタートラインだったと思う。
父親と同じく、オルガニストとして活動したブルックナー。
交響曲第1番を完成させたのは42歳になってからで、その前に習作的な交響曲はあるものの、自信をもって番号を付したのは1番から。
0番は1番のあと。

40歳以前の作品は、その自信のなさから破棄されてしまったというので、ほんともったいない。
そしてミサ曲は、番号付きの3つの作品以外に初期に4作あり、全部で7つのミサ曲とレクイエムがひとつある。
あとは秀逸なモテットやテ・デウム。

ミサ曲の1番は40歳、2番は交響曲第1番とともに42歳(1866)。
そしてミサ曲第3番は、第1交響曲の初演にこぎつけた1868年、44歳のときの作曲。
こんな時系列を頭にいれてブルックナーの初期、といっても立派なオジサン年齢ですが。。。初期と呼ぶ作品群を聞くと興味深いですね。

キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、ベネディクトゥス、アニュス・デイの通常のミサの形式からなり1時間の大作。

宗教作品らしく音階の大胆な展開は少なく、全般に穏やかかつ平穏な雰囲気。
そしてなによりも美しい。
ブルックナーの緩徐楽章を愛する人ならば、このミサ曲のそこかしこに、ブルックナーの交響曲の2楽章にある自然を愛で賛美するような清らかな音楽が好きになるに違いない。
またソロヴァイオリンを伴って、テノールが熱く歌うシーンなどは、テ・デウムと同じくだし、やはり篤い宗教心や祈りの気持ちが陶酔感を伴うように熱を帯びているのも篤信あふれるブルックナーの音楽ならでは。

しかし、何度も何度も聴いても美しいという印象は受けるものの、聴き終わって、全体のディティールや旋律などが明確に自分のなかに出来上がらないし、残らない。
そんなところが、このミサ曲の魅力なのか・・・

2008年、いまから16年も前に、神奈川フィルの音楽監督だったマルティン・シュナイトの指揮で、このミサ曲だけの演奏会を聴いた。
バレンボイムの58分の演奏時間に対し、そのときのタイムは70分あまりもかかった。
しかし、初めて本格的に聴いたそのシュナイトのブルックナーのミサは、神奈川フィルの美音も手伝い、祈りと感謝に満ちた、まるで教会で音楽に立ち会うかのような荘厳な演奏だった。

そのときのブログから

>アルプスの山々を見渡す野辺に咲く花々を思い起すかのような音楽に、私は陶然としてしまった。
2番への引用もなされたこの章の、神奈川フィルの弦と、フルートの素晴らしさといったらなかった。

そして誠実極まりない合唱も掛け値なしに見事。
 それに続く、アニュスデイも天上の音楽のように響きわたり、ホールが教会であるかのような安らぎに満ちた空間になってしまった。
合唱が歌い終え、最後に弦とオーボエが残り静かに曲を閉じた時、シュナイトさんは両手を胸の前に併せて、祈るようなポーズをとって静止した<

南ドイツでバッハを極めたシュナイトさんと、駆け出し指揮者だったバレンボイムとを比べるのも酷だが、ここでのバレンボイムの指揮は神妙で、優しい手触りでもって丁寧に仕上げた。
克明で言葉も明瞭な合唱は、かのピットの指揮。
ぎりぎり存命だったクレンペラーの君臨したニュー・フィルハーモニアのしなやかな弦も美しいし、管もブリリアント。
この時期のフィルハーモニア管はよかった。
60~70年代の声楽作品のイギリス録音では、ハーパー、レイノルズ、ティアーは常に定番で、あとはシャーリー・クヮークでしょうか。
ここでのリンツラーの独語の明快さと美声、もちろんほかの定番3人も素晴らしい。

このミサ曲3番、このバレンボイム盤以外は持ってません。
エアチェックとしては、ヤノフスキ、ヤンソンスなどのライブも聴きましたが、バレンボイム盤が一番美しい。
ヨッフムも聴かなくちゃいけませんね。
今年はほかに新録音なども出るのでしょうか。

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湖畔道路に降りて、ちょっとアングルを変えて。

こんな風にひとりカヌーを楽しむ方も。

気持ちいいだろ~な

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さらに近づいて、水辺の様子を。

コバルトブルーの美しさ。

幾多の災害を経ても復活する日本の自然のピュアな美しさ、ぜったいに守らなくてはいけません。

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