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2024年2月11日 (日)

小澤征爾さんを偲んで ①

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ここ10年ぐらいの体調不良と毎夏に松本で見られるそのお姿から、やはり来るものが来てしまったという覚悟の末に届いたその訃報。

2月6日に安らかにお休みになられたとのこと。

小澤征爾さん、享年88歳。

ずばり、悲しいです、とんでもなく寂しいです。

わたしも、もうそこそこの年齢になっている。

小学生の頃から、クラシック音楽に親しみ、いろんな音楽家とともに歳を経ながら彼らの音楽を聴いてきた。

ずっと先輩ですが、小澤さんは、われらが日本人にとっても誇れる存在だったし、自分も小学生の頃からテレビで視聴して、小澤さんを聴きたくて、人生で初のオーケストラの定期会員になったという自分の歴史もあります。

最初の画像は、30年余りの長い歴史を築いたボストン交響楽団のホームページの冒頭です。
世界各国のオーケストラがお悔やみを述べ、世界各国の芸術家、音楽関係団体、ホール、音楽メディア、あらゆる方々が小澤さんの訃報を伝え、自分たちの小澤さんとの関係や思いを表明してます。

亡くなってしまい、ほんとうに、つくづくと思うこと、小澤さんは「世界のオザワ」だった。

小澤さんの追悼記事を起こしたいと思います。

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小澤さんを知ったのは1969年、音楽雑誌でいろんな第9の特集をやっていて、その年の日本の第9はどうなる?という記事もありました。
日本のオケの第9は、3人の指揮者に注目!、ということで、N響は岩城宏之、読響は若杉弘、日フィルは小澤征爾、という3人。
N響への信頼度はテレビの影響が大きかったのはあたりまえですが、小澤さんがあのころから長髪になり、クラシック音楽の固いイメージとは違う姿をしていたこともあり、わたしはやっぱり、岩城さんだなと子供ながらに勝手に思っていた時代でした。

N響事件の真相を知ったのはもっとあとのことだった。
おなじテレビでも、フジテレビがスポンサーだった日本フィルは、日曜の朝、日フィルの演奏会を放送していて、渡邉暁男や手塚幸紀などとならんで小澤さんの指揮姿も観ていたのでした。
その日フィルが危急存亡の危機に陥り、小澤さんの必死の活動も、いろんな書き物で拝読し、一生懸命に応援したのが中学生の自分。
「白鳥の歌なんて聴こえない」、当時好きだった庄司薫の小説にならい、最後の日フィルの演奏会を指揮した小澤さんの指揮姿の雑誌の切り抜きは、いまでも大切に保管してます。
マーラーの2番「復活」でした。

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サンフランシスコ響の指揮者になり、少し間をおいてボストン交響楽団の指揮者にもなった小澤さん。
1975年にサンフランシスコ響を率いて来日、文字通り凱旋公演となりました。

テレビで見た長髪で、定番の燕尾服でない小澤さんの、動物的ともいえる鋭敏かつしなやかな指揮ぶり。
オケは外国人、それを巧みに指揮する日本人。
ほんとに誇らしかった。
当時すでに、完璧なアバドファンだった中学生の自分ですが、小澤さんは、アバドとは違った意味でのファンになりました。
それはいわば、アイドル的な憧れの存在とでもいうべきものでした。

ダフニス全曲が好きになったのもこのとき、おまけにアンコールに、指揮台を降りてピチカート・ポルカをやってしまうお洒落な小澤さん、大好きになりました。

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 さらに同じころ、レコード発売された、「小澤の第9」を購入し夢中になった。

すぐさま、新日の第9公演を聴きに行った。

細かなキューを巧みに出しつつ、ダイナミックな指揮ながらも、繊細で細かいところも気配りされた第9に感服。


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その流れで、新日本フィルの定期会員になりました。

数多くの小澤さんの演奏や、朝比奈隆、井上道義などもたくさん聴きました。

それらの思い出は、次回以降としますが、新日以外に、ボストン交響楽団の来演でのマーラーしか、実演では聴かなかったのもまた残念なことです。
いつでも聴けるという思いと、ベルリンやウィーンとも普通にやってくる小澤さんに、やや飽きが来てしまったのが正直なところで、かつての凱旋に興奮した自分が、そのころはあまりに懐かしくも新鮮に思われた。

オペラ指揮者となり必死に劇場での体験を積んだ小澤さん、師匠の思いをともにする日本の仲間たちとボストン響に匹敵するくらいの年月を過ごし、日本人としての音楽演奏をみなで極めた小澤さん。
このあたりを、ワタクシはほとんど聴くことがなかった。
いま想えば悔やまれること極まりないですが、小澤さんの活動の前半のピーク時を身近に体験できたことで満足すべきことだと思うようにしてます。

ボストン交響楽団では、カネラキスの指揮の折り、訃報を受けて追悼セレモニーが行われました。



小澤さんの、ご冥福をお祈りいたします。

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コメント

 Yokochan様、当方も週末ずっと暗澹たる思いでおりました。この数年のご様子を拝見していて、いつこの報せが飛び込むかは覚悟はしていたのですが。

 そもそも積極的にクラシックを聴き始めたのがまさに日フィル分裂事件のその頃で、また小澤氏の天皇直訴事件や十年前のN響事件を知り、妙な親近感を抱きもしたので。

 ところが初実演は翌’73年暮の新日フィルとの第9だったのですが、会場がまたよりによってというか新装の中野サンプラザだったのですね。

 それまで東京文化会館は馴染んでおりNHKホールも抽選に当たった同年のカラヤンとベルリン・フィルで聴いていたので、サンプラザのあまりに乾き切ったアコースティックには唖然といたしました。恐らく当日は音合わせだけで本番だったのでしょうが、第1楽章終了後にコンマスのルイ・グレーラーが小澤さんと顔を見合わせ、渋い顔で首を横に振ったのを明確に記憶しております。

 さらに三年後、クリスマス当日でしたが新日フィル定期で「大地の歌」と石井眞木氏の新作「モノプリズム」の本邦初演に出かけ、これも複雑な一夜となりました。

 「大地の歌」第1楽章冒頭、オケの前奏に続き五十嵐喜芳氏が歌い始めるとまさかの日本語の「〽黄金の盃に!」と。思わず10センチほども椅子から飛び上がったと思うのですが。

 というわけで「大地の歌」の印象は希薄という〜忘れ去りたくすらあったのですが後半の鬼太鼓座を伴った「モノプリズム」は圧倒的な出来でした。

 ことほどさように当方もまだ幼かった頃の小澤さんの実演は巡り合わせが悪かったのですが、音盤ではパリ管との「火の鳥」以来ずっと注視していました。’80年代は疎遠だったのですが’90年代以降にはまたウィーン・フィルにボストン響さらにサイトウ・キネンオケと実演に接し得たのは幸福な記憶です。それはまた改めて…。

R.I.P. Seiji Ozawa.

投稿: Edipo Re | 2024年2月12日 (月) 20時12分

yokochan様
小澤征爾さんの訃報を受けて、『シカゴ交響楽団コンプリート・レコーディング・オンRCA』(直輸入盤で6枚組)からの、『運命&未完成』、『チャイコフスキー第5番』、『春の祭典』を聴き返し、追悼の意を捧げました。ボックスの写真は髪の艶々とした、三十代の頃の御写真が載ってますけれども、『いつか遠くない日に‥。』と、ご逝去される覚悟は心の片隅にございましたが、その日が来たとなると、やるせない思いで一杯なのです。
この件は、この辺りにて失礼を、では‥。

投稿: 覆面吾郎 | 2024年2月13日 (火) 13時41分

Edipo Reさん、こんにちは。
いまや閉館となったサンプラザで、クラシックコンサートが開かれていたことに驚きです。
私の「小澤の第9」は、その2年後の文化会館でしたが、それは思えば幸せなことでしたね。
「大地の歌」のコンサート、日本語演奏なら明確に覚えているはずですが、そうでないということは行かなかったようです。
当時は、オペラは日本語上演が当たり前のようになされていましたので、いま思えばそれらの上演も、まさにぶっ飛びの内容であります。
小澤さんの二期会オペラも最初はほとんどが日本語上演でした。
 石井眞木とのコンビネーションも、武満とならんで、70年代の小澤さんならではですね。
東芝や日本グラモフォンへの録音なども復活して欲しいものです。

90年代以降、小澤さんを聴かなくなってしまったことが痛恨です。

投稿: yokochan | 2024年2月16日 (金) 09時15分

小澤征爾氏のご逝去を受け、心からお悔やみ申します。

1990年代だと憶しておりますが、東京文化会館で
ボストン交響楽団との演奏を心を打たれました。
ムターとのベートーヴェンの協奏曲、交響曲の7番の
プログラムでしたが、You-tubeのボストン交響楽団の方が追想しているようにintensity(強烈さ、集中力)の象徴のような演奏会でした。
しかも音楽のフォームが乱れない端正さなど、自然と心と体が熱くなる演奏会でした。

追悼の気持ちでボストンとのブラームス1番、ウイーンフイルとのドボルザーク9番を聞いていおります。
”芸術の青春”とも言える若々しさを感じる演奏を聞いて、心からの感謝を小澤氏に捧げます。

まだ思い出がありますが、また後日に伝えさせて頂きたいと思います。

投稿: beaver | 2024年2月16日 (金) 21時03分

 私小さい頃です。毎週日曜日の山本直純さんのオーケストラがやってきた、を楽しみにしてまして、小澤さん
が、年何回か、突然現れて一緒に番組進行してしまうのが、面白くてあの人?またこないかなぁ、なんで思って見ていました。
後々、こんなすごい人だったんだ、と知ったのはここだけの話www 
うろ覚えですが、赤とんぼを、観客も一緒に歌う、小澤さんが歌唱指導をして、小澤さんと直純さんが一本のマイクで二人で歌うのですが、直純さんはオーケストラを指揮しながら、二人で抱き合うような感じでハモっていたよね?っていうのがあったような、と思っていたのですが、先日ユーチューブで見つけました。
そのままですね。
なんか懐かしく再見させていただきました。

小学校卒業のとき、ブラスバンドの講師の先生に、好きな音楽を作りなさい、出来ればクラシック音楽がいいけれど、音楽の力は偉大だからジャンルは問わないよ、心の支えになってくれるから、と言われ意識的に聞くようになっていったのですが、当初、直純さんの番組で馴染のあった小澤さんから入ったのです。
だから最初のブラームスも最初のベートーヴェンも全曲通しで聴いたのは、小澤さんだったのです。

そう言えば、アバドのことを調べていた時、アバドが亡くなった時の日経新聞のインタビューで小澤さんが、おっしゃっていたエピソードがありました。カラヤン先生にオペラやれって言われて、そんな勉強なんてしてきてないんだよ〜、って意気消沈していたら、クラウディオが、セイジ飯食いに行こうって、誘ってくれて、まずは歌手の息に合わせて振れば馴染んでくるよ。大丈夫さ。って励ましてくれたんです、っておっしゃっていました。
今頃、皆で音楽談義でもしていますかね……。

投稿: にょろふきん | 2024年2月17日 (土) 19時00分

悲しい。小澤征爾指揮のレコードを聴きながら一人でお通夜をします。演奏が情熱的で美しく今となっては悲しい。お酒が沁みます。

投稿: モナコ命 | 2024年2月18日 (日) 17時32分

beaverさん、こんにちは。
「芸術の青春」、まさに小澤さんの音楽を体現するような言葉で見事に尽きます。
わたしの小澤さんの音楽の体験も、自身が若き日々だったことが大半ですので、まさに自分にもいえて、小澤さんのしなやかかつ、スポーティな指揮ぶりが残像と音とで脳裏に沁みついております。
ボストンとの30年がピークであったと思います。

投稿: yokochan | 2024年2月20日 (火) 09時24分

覆面吾郎さん、こんにちは。
小澤さんの訃報は、まさにおっしゃるとおり、「やるせない思い」の一言です。
もう日は経ちますが、いまだにその思いと悲しみに包まれてます。
松本での痛々しいお姿を映像でみて、昨年はこれはいつか・・・との思いでした。
でも、若き日の小澤さんは、われわれ日本人の誇らしい気持ちとともに、多くの音楽好きの心に残り続けると思います。
シカゴとの演奏の数々、いまでも鮮度高く、以外にも録音がすばらしいです。

投稿: yokochan | 2024年2月20日 (火) 09時29分

にょろふきんさん、こんにちは。
小澤さんがなくなって、過去の映像がいろいろyotubeで出てきてますね。
私も、オーケストラがやってきたをネットで改めてみて、高校時代を思い起こしました。
名指揮者は、話しもウマいし、盛り上げ上手ですね。
山本直純さんも、早くに亡くなってしまいましたが、指揮者としての実力も見直され、活躍し始めた矢先だったかと思います。
 にょろふきんさんのように、小澤さんの指揮で、本格クラシックの大曲を馴染んでいったリスナーは多いかと思います。
いい音楽番組でした。
 わたしもベルリオーズの大曲などは、小澤さんがあって初めて聴いたものが多いです。

そして、アバドとのエピソード、拝読して涙ぐんでしまいました。
このふたりとメータは仲が良かったですね。
10年前のブログですが、岸恵子さんが、アバドにインタビューをする場面を紹介しましたが、このインタビュー中に小澤さんがアバドに電話してくるシーンがありました。
http://wanderer.way-nifty.com/poet/2014/02/post-55a1.html
どちらも若く、輝いていたウィーン時代でした。

投稿: yokochan | 2024年2月20日 (火) 09時40分

モナコ命さん、こんにちは。
悲しい、ほんと寂しく時の流れを痛感します。
小澤さんの悲愴と幻想、マーラーを聴き、一献傾けました・・・・

投稿: yokochan | 2024年2月20日 (火) 09時50分

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