小澤征爾さんを偲んで ②
小澤さんの公式サイトからの訃報のご案内。
逝去が伝えられてから、世界のありとあらゆる方向から、お悔やみが報が相次ぎ、こんなところでも小澤さんは指揮台に立っていたのかと驚くばかりでした。
前回の記事にも書いたとおり、「世界のオザワ」は、われわれが思う以上に「世界のオザワ」だったし、偉大な存在だったことを思い知りました。
1回や2回では終わりそうもない、小澤さんと世界のオーケストラとの共演のレビューですが、こたびの訃報を受けてのまとめでは、ボストン響とそれ以外と、大きく2回に分けて顧みてみたいと思いました。
ボストンは最終として、まずはそれ以外のオーケストラや劇場との演奏を手持ちの音源やエアチェック音源で大急ぎで聴きなおしてみました。
①NHK交響楽団
武者修行→ブザンソン、カラヤン・コンクール、クーセヴィッキー賞を経て、カラヤンとバーンスタインの知己を得た小澤さんを、日本を代表するオーケストラが迎えたのは自然な流れ。
そこで起きた不幸な出来事は語り草の世界ともなりましたが、1963年を最後に、後年N響の指揮台に復活するまで32年を経ました。
キングレコードからかつて出たN響のライブを集めたなかにあったのが、62年のメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」。
それを先ごろNHKが放送してくれて、聴くことができましたが、切れ味抜群で、豊かなエキゾシズムを讃えたシャープな演奏でした。
95年の歴史的な再開も、ロストロポーヴィチの登場も合いまして、当時とても感激した思いがあります。
しかし、その32年間は長かったし、もったいなかった長い期間でした。
②ニューヨーク・フィルハーモニック
バーンスタインの元で副指揮者をつとめ、1961年から1971年まで、その指揮台に立った。
同団の追悼を見ると124回のコンサートがあったというから、その一端でも聴いてみたいものだ。
バーンスタインの青少年向けのヤングピープルズ・コンサートにも若き小澤さんは登場していて、わたしも中学生のころに見た記憶がある。
正規録音としては、アンドレ・ワッツとのラフマニノフの3番の協奏曲ぐらいと、アイヴズぐらいしかないのが残念。
来日公演の記録とかもないものかな・・・・
1970年の同団の来日では、日本フィルとの野球対決があり、そのときのレコ芸の写真はいまでも大切にしてます。
バーンスタインのあと、NYPOはブーレーズを指揮者に選んだわけだが、このとき小澤さんだったら、ボストンとの関係は出来なかったかもしれませんね。
③トロント交響楽団
日本でのポストを伴った活動を辞して、アメリカ大陸での活路を求めた小澤さんの前には、自由で小澤さんの音楽スタイルを受容してくれる音楽風土がありました。
シカゴでのラヴィニア音楽祭と同時期に、カナダのトロントでポストを得た小澤さんは、後年もずっと繰り返し指揮し続けたレパートリーを取り上げました。
「幻想交響曲」と「トゥーランガリラ」と武満作品です。
いずれも、録音もいまだに素晴らしく、若き小澤のメルクマールとしての名盤としてずっと残しておきたい演奏だと思います。
ちなみにトロント響は、かつては楽団存続に危機もありましたが、いまはG・ヒメノのもと、なかなかよさげな活動をしてます。
④シカゴ交響楽団
夏のラヴィニア音楽祭での成功から、ショルテイ就任前のシカゴ響との関係を深めたのは、マルティノンが音楽監督時代で、60年代半ばから後半まで。
RCAレーベルとトロント響と同時に、いくつもの録音をなし、さらには欧州ベースのEMIにも録音が開始されたことで、日本人として初の欧米メジャーレーベルとのレコード録音という快挙を成し遂げたのでした。
この頃から、小澤さんは長髪となり、燕尾服やスーツを着ないで、白い上っ張りのような衣装や、白いタートルネックを着用するようになり、お堅いクラシック業界のなかにあって、型にはまらない革新的な存在としてビジュアル面でも抜きんでた存在となっていきました。
まだビートルズが解散せずに、世界のミュージックシーンを席巻していた頃です。
こうした小澤さんのクラシック音楽界における革新性は、そのスポーティな指揮姿とともに、ビジュアル面、大胆で斬新な音楽造りといった多面的な要素が合い増して、世界に新鮮さと驚きをあたえることとなりました。
当の日本では受け入れられず、アメリカが迎えた小澤さんなのでした。
シカゴとの音源では、「シェエラザード」とヤナーチェクのシンフォニエッタが極めて秀逸。
RCAへの、ベートーヴェン第5や「春の祭典」も、のちのボストンでの大人の演奏もいいが、若書きのこちらもすこぶる鮮度が高い。
⑤日本フィルハーモニー交響楽団
日本では、フジサンケイグループの傘下にあった日フィルが小澤さんを迎え、首席指揮者として、読響の若杉さんとまるで競争するように、当時日本初演となるような大曲を次々に演奏していった。
前の記事にも書きましたが、フジテレビ関東局8チャンネルの日曜の朝、日フィルの演奏会の放送があり、そこで小澤さんの名と指揮ぶりをしることとなりました。
日フィル時代の小澤さんの音源は、万博の時期も重なり、日本人作曲家のものや、協奏曲作品が多くあり、いまそのあたりを聴いてみたいと思っています。
1972年、フジグループの放送撤退で、楽団の危機に陥り、分裂した日フィルからの新日フィルに小澤さんは注力することとなりました。
⑥サンフランシスコ交響楽団
1970年に音楽監督就任、当時アメリカでの録音に乗り出していたDGとすぐさま契約し、ガーシュインやバーンスタイン作品を録音。
ロメオとジュリエット3態などは、企画の良さもあって絶賛されました。
サンフランシスコ響はフィリップスとも録音を開始し、DGにはボストンとの録音ということで、70年代はアメリカでメジャーレーベルを股にかけての活躍が目立ちました。
明るく、カラッとしたカリフォルニアサウンドともてはやされ、それはフィリップスレーベルの音の良さも手伝って、小澤さんの竹を割ったような明快サウンドとともに日本のわれわれも、誇らしい思いにさせてくれたのでした。
英雄と新世界、のちの再録音より、このときのものが私は大好きですね。
サンフランシスコ響が、アメリカでのメジャーの存在を確立できたのは、小澤さんの治世からだし、次のデ・ワールト、ブロムシュテット、MTT、サロネンの秀逸な指揮者に恵まれていくのも小澤さん以降です。
先にも書きました、1975年の同団との凱旋公演は、小澤さんが海外のオケを引き連れて日本に帰ってきた初の公演だった。
⑦パリ管弦楽団
1970年頃からその相性の良さもあいまって、EMIでの録音の始まったコンビ。
チャイコフスキーの4番、火の鳥、ベロフとのストラヴィンスキー、ワイセンベルクとプロコフィエフとラヴェルといった具合に、カラフルな曲目を、まさにそれらしく演奏した華やかなイメージを与えたコンビ。
ミュンシュのオーケストラをボストンと同じように小澤さんが指揮をして、EMIにレコーディングをする、これもまた日本人の気持ちをめちゃくちゃ刺激する快挙でありましたね。
さらに小澤&パリ管は、フィリップスへも録音を開始ししたけれど、チャイコフスキーの録音だけで終わってしまったのが残念なところだ。
パリ管は、バレンボイムでなく、小澤さんを選択すべきだったと思うし、ボストンとパリの兼任はレパートリー上もやりやすかったのではないかと思いますね。
フランスのオーケストラとは、このあとフランス国立菅との関係を深めていくことになります。
パリ管の訃報記事がなかったが、その本拠地のフィルハーモニーの追悼X
⑧新日本フィルハーモニー交響楽団
日フィル解散後、自主運営で荒波に漕ぎ出した新日本フィルを当初かた導いたのが小澤さん。
楽壇の追悼文を拝読すると、小澤さんとの共演は624回に及んだとしており、ボストンと後年のサイトウキネンとともに、小澤さんともっとも親しく音楽を歩んだオーケストラといえます。
私も「燃える小澤の第9」のキャッチで買ったレコードを気に、第9で小澤&新日フィルのコンサートに通い始め、会員にもなって、数えきれないほど聴かせていただきました。
それらの詳細はいつかまとめて記録しておこうと思います。
小澤コネクションを活かして、世界のトップが客演してくれて、新日の演奏会で間近に聴くことのできた偉大な演奏家もたくさん。
ゼルキン、ポリーニ、ベーレンス、ノーマン、タッシほか、たくさん。
武満作品の初演や、オペラもいくつか、レコーディングしなかったシューマンなども・・・・
ほんとにありがたく、身近な存在として感じられた小澤&新日フィルなのでした。
⑨ボストン交響楽団
サンフランシスコと兼任で、1973~2002年という長期にわたる音楽監督の在任記録を作りました
ボストンとの関係は、特別ですので、追悼③にて取り上げたいと思います。
⑩ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
デビューしたてのころは、ロンドン交響楽団との共演や録音があった。
その後、70年代以降のロンドンでのオーケストラパートナーは、当時のニュー・フィルハーモニア管だった。
アーカイヴは全部調べておりませんが、それでもニュー・フィルハーモニアとは70年代までの共演でとどまった。
しかし、その関係は相思相愛だったはずで、ボストンやパリでやった演目をそのままロンドンでも指揮していました。
第9の2枚組のレコードの最終麺に、リハーサル風景が収録されていて、和気あいあいとした雰囲気のなかに、また皆さんと共演できます、ベルリオーズのファウストですと小澤さんが言うと、楽員から大喝采があがりました。
その第9は、おりしも世界的なオイルショックのおりの録音で、会場には満足な暖房がなく、みんな防寒着を着て演奏している光景もジャケットや手持ちの雑誌に残されてます。
しかし、音楽はとんでもなく熱く、オケも合唱も、ソロもみんな、小澤さんと一体化して、ライブ感あふれる演奏が見事なフィリップス録音でもって残されたのでした。
この「小澤の第9」はほんとに大好きです。
ニュー・フィルハーモニアとはモーツァルトの交響曲、P・ゼルキンとのベートヴェンもRCAに残されましたが、こちらは未聴で聴いてみたいですね。
今回の訃報は、ロンドンのオケはあまり取り上げてなかったです。
その点がちょっと意外だった。
⑪フランス国立管弦楽団
パリ管との関係から、フランス国立菅へとパリでの活動の比重を移しました。
思えばバーンスタインもそうでしたね。
フランス的な作品ばかりを録音し、カルメンを含むビゼー、オネゲル、オッフェンバックなど、それらの作品のスタンダードとなりうるものばかり。
そのレパートリーもふくめ、小澤さんの一番素敵な側面が聴かれるのがフランス国立菅との演奏だと思います。
華やかに響きがちだったパリ管よりも、小澤さんの円熟度合いも深まった、ナショナル管との方がいいですね。
実際の演奏会では、マーラーの千人とか、大規模作品をやっていて、アメリカ、ドイツ、フランスでの各地の演奏拠点での小澤さんのレパートリーの組み方、誰かアーカイブを作成してくれませんかね。
⑫ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
カラヤンに教えを請うたゆえに、当然にベルリン・フィルとも深い関係を築く。
1966年以降2016年まで、極めて多くのコンサートを指揮し、日本にも一緒に来た。
ベルリン・フィルでは声楽を伴う大規模作品をしばしば取り上げたが、そうした大作の録音がなされなかったのは本当に残念なことだ。
楽団は、小澤さんを名誉団員として迎え、大いに評価したこともまた誇らしいことです。
カラヤンの輝かしい音色とは違う、機動力に飛んだしなやかで鋭敏な演奏を小澤さんと残したベルリン・フィル。
このオーケストラもまた小澤さんとの相性がバツグンだったと思います。
チャイコフスキーの交響曲や管弦楽作品、ガーシュイン、カルミナ・ブラーナなどの華やかな作品のほか、このコンビの金字塔はプロコフィエフの交響曲全集であろう。
これだけでこぼこのない、高水準のプロコフィエフ全集がベルリン・フィルによって残されたことが幸甚なことだ。
手持ちに、マーラーの千人の交響曲の75年のエアチェック音源があるが、その熱量たるや目を見張るものがあり、ライブでの小澤さんのすごさをまざまざと感じさせます。
将来、ベルリンでのライブ音源が正規化されることを望みます。
⑬サイトウキネン・オーケストラ
いうまでもなく、小澤さんの生涯の師は斎藤秀雄さんでしょう。
バーンスタインでもカラヤンでもなく、斎藤サン。
独特の指揮の技術は、日本人ならではの細やかさと、緻密さ、細かなところまで伝達できる人知と決めごとを伴ったものでしょう。
秋山和慶さんとともに、1984年にスタートした日本人によるスーパー・オーケストラはのちのアバドのルツェルンにも匹敵するような、同じ思いを共有する者同士の有機的なオーケストラ。
ブラームスの全集は、われわれ日本人が世界に誇るべき超名盤だと思います。
数多くのメジャーレーベル録音も残しましたが、わたしにはこのブラームスを越える演奏が見当たりません。
もちろんいまだに聴いていない音盤もあるし、恥ずべきことに実演での小澤&サイトウキネンを経験してません。
でも、批判を覚悟に述べますが、海外のトップ奏者もいるとはいえ、日本人同士のどこか箱庭的な演奏に、のちになっていくのを感じましたし、小澤の円熟が、あまりに悟りの境地的な、上善如水のような無色透明な領域の高みへと達しすぎてしまった感を自分では否めず、その音楽が楽しめなくなっていったのでした。
こんなこと書いてケシカランと思うむきもございましょう。
円熟の極みは、オケが感化されてしまい、なにごとも予定調和に安住してしまうという弱点もあるとも思う。
昨今でいえば、ブロムシュテットがそのような高みに至っているし、引退前のハイティンクもそうだった。
しかし、そんな小澤&サイトウキネンの超絶名演は、あとは武満作品とプーランクにあったと思ってます。
透明感と軽やかさ、それが小澤さんの晩年スタイルだったかと。
水戸室内管も仲間同士の思いが結実した楽団で、小澤さんは1990年結成時かた指揮をしてました。
澄んだ晩年スタイルをより徹底させるには、日本人による室内オケがいちばんだったでしょう。
若い奏者たちを好んで指揮し、指導したのも小澤さんならではです。
⑭ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ウィーンフィルとも1966年に初共演。
ザルツブルク音楽祭でいきなりコジ・ファン・トゥッテを指揮したが、そのときの評価はまちまちだったとのこと。
ウィーンフィルとの本格活動は、1980年代後半からでフィリップス録音でのドヴォルザーク・シリーズやR・シュトラウスなどは、このコンビならではのまろやかかつ、リズム感にあふれた演奏だと思う。
でも世評高いシェエラザードは、かつてのシカゴやボストンの方が面白みがあるし、ウィーンフィルとしてもプレヴィンの二番煎じみたいな感じだ。
ウィーンフィルとはベルリンでのような大胆なプログラムの選択が出来ず、さらには体調も関係もあり、小澤さんならではの大向こうをはった演奏ができなかった、そんなイメージがあるコンビです。
そんななかで、エアチェック音源での、シェーンベルク「ペレアス」がドライブも効いてて、さらに濃厚さと透明感がいい具合な名演だ。
ウィーンとは、もっと若い時期での蜜月を望みたかった。
ニューイヤーコンサートでは、小澤さんならではのライブ感と盛り上げのウマさが際立ったものでしたが、体調のこともあり、その後の登場がなかったのが残念ですね。
⑮ウィーン国立歌劇場
ウィーンとの良好な関係は、オペラ座の音楽監督というポストに帰結し、それはアバドのあとの数年の空白を埋めるものでした。
アバドと小澤、それからメータは、みんなアドバイスし合う仲間で、ウィーン時代のアバドにインタビューをした岸恵子さんがMCをした番組に、オネーギンで客演していた小澤さんや、その小澤さんがアバドに電話をしてきた様子などが放送されました。
スカラ座に小澤さんが登場したのもアバドの時代。
そんな横のつながりが、国際的であり、音楽でつながる信頼感のようなものに感じ、とてもうれしく思いました。
シュターツオーパーのアーカイヴを調べると、88年のオネーギンから09年の同作品まで、18作品を指揮してます。
ふたつのチャイコフスキー作品、ファルスタッフ、オランダ人、トスカ、ヴォツェックなど、得意のレパートリーに加え、クルシェネクの「ジョニーは演奏する」を上演するという画期的なこともなしました。
しかし、小澤さん、もっと早くにオペラに入り込んで欲しかった。
アメリカのオーケストラの音楽監督は音楽以外のこともあり、忙しいと聞く。
どこかのハウスで、レパートリーの拡張をしておくべきだった・・・というのは贅沢な思いですかね。
ウィーンの劇場の音源はORFに記録がたくさん残っているはずです、このあたりも楽しみです。
⑯そのほか
スカラ座には、コンサートとオペラで何度か登場。
トスカ、オベロン、オネーギン、スペードの女王がその演目。
パリ・オペラ座とはウィーン前はかなり登場。
なんといっても、メシアンの「聖フランチェスコ」の83年の初演が歴史的な快挙。
この長大なオペラを初演に導き、完全に手の内におさめたわかりやすい指揮は、小澤さんならではで、ほかの指揮者ではあの時ありえなかったことだろう。
小澤さんの代表作といっても差し支えないと思う。
パリでの相性のよさは、オペラでも同じ、ファウストの劫罰、フィデリオ、トゥーランドット、トスカ、ファルスタッフ、タンホイザーなどを指揮している。
フランスのミュージック専門サイト、国をあげて小澤さんを追悼してました。
メトロポリタンオペラには、オネーギンとスペードの女王の2演目で。
92年と2008年です。
こうしてみると、小澤さんのもっとも得意としたオペラは、チャイコフスキーのふたつの作品ということになりますね。
抒情と劇性のたくみな両立、そしてサスペンスにも似たスリリングな音楽造りがばっちり噛み合ったのがチャイコフスキーのオペラだったのでしょう。
コヴェントガーデン・ロイヤル・オペラ
ここでもオネーギン。
しかし、1974年の1度だけで、このときはショルティにとってかわってレコーディングが行われた。
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以上、ざっと思い当たる小澤さんの指揮した先を調べました。
それにしても、アメリカ・ヨーロッパ、当然に日本で、ロシア以外の世界で活躍。
そして2010年以降の体調不良で、アクティブな小澤さんの活動の足を引っ張ることとなり、それ以降は晩年といえる余生を過ごすことになってしまったことが残念極まりない。
最後は、ボストンでの音楽を聴きつつ振り返りたいと思います。
献花台を見てたら泣けてきました・・・・
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コメント
小澤征爾さんの来歴の全てを初めて知りました。私の経験や知識は足元にも及びません。よこちゃん様、さすがです。それにしても詳しいですね。私のチェロの先生(先生はエライ方なのです)がサイトウキネンのメンバーだったので小澤先生に強い親しみを感じています。私の街では2度演奏会を行ってくれました。私は2回とも一階の一列目の真ん中(前の席の人物の頭が気にならないメリットが大きい)の席で全身で演奏を浴びました。20代の私にはその後の生き方に大きな影響を与えました。ご承知のように今まで疑問に感じたり不明だったことを小澤先生の演奏は全てシンプルにクリアにしてくれるのです。挨拶も前置きも無しですぐにそこに連れて行ってくれる。なかなか経験できない所へ易々と普段着で連れて行ってくれる。そう感じました。心が震える。このことは言葉に変換できないので誰かに伝えることがなかなか難しい。小澤征爾さん、亡くなったんですね。悲しい。寂しい。心が痛みます。今はレコードやCD、DVDであの時の経験を思い出して私の残された人生を見つめ直します。
投稿: モナコ命 | 2024年3月 5日 (火) 14時33分
ウィーンフィルデビューが早かったので、録音がたくさんあると思いきや、ホントに少ないのにびっくりしました。
若い頃からもっともっと録音残してて欲しかったです。
話は変わりますが、newsweekの佐渡さんの手記で、小澤さんに強く強く留学を進められたことが書かれていましたが、昨日?たまたま2020年の段階での大友直人さんの手記で、小澤さんの推薦でタングルウッドに行ったけれども、バーンスタインに、今何してるの?と聞かれてN響の研究指揮者やってますというと、あー、あのひどいオーケストラかぁ、俺知ってるよ。と言われてひどく傷ついて……世界に出なくとも日本でやって行こうと決めて、試験も受けずにいたら、小澤先生に折角のチャンスをものにしないでどうするんだ、って怒られて……でも頑として受けませんって突っぱねた、とおっしゃっていました。おうちに伺って心情を話そうとしたけれども、小澤先生はホームシックになったんだ、と思われてて、家に寅さんの映画あるから見て行けよと言われて、言いそびれて、今に至るってお話を見つけて……。どちらがいい、とか、断定するのはここではしませんが、佐渡さんと大友さんは対局にあるんですね。
私的にはブラスバンド出身の佐渡さんは昔から好きですし、大友さんも好きなんです……
だとしても、N響事件は憤慨の極みでしたけど……。
んーー、でも、大友さんにも世界に出ていって欲しかったと、思ってその手記を読んだ私です。
投稿: によろふきん | 2024年3月 5日 (火) 17時56分
yokochan様
小澤さんは実演にしろ録音活動にしても、カラヤンやバーンスタインの両師匠さまでさえ、これほど多くのオーケストラと付き合っていないだろうと思うほどの数の楽団の指揮台にお立ちになり、レコーディングでは多くのレーベルと、付き合って居られましたね。
私めも、若い頃ほどこれと思ったアーティストの音盤をでき得る限り耳にしようという意欲は、減退気味の嫌いがございますが、少なくとも手持ちの音源は虚心坦懐に聴き返し、再評価して差し上げたく思っております。
投稿: 覆面吾郎 | 2024年3月 9日 (土) 11時58分
モナコ命さん、こんにちは、ご返信遅くなってしまいました。
「全てシンプルにクリアにしてくれる」、まさにそうです、そうなんです、実に的確な表現です!
西洋人の音楽で、東洋人がなにがわかるもんか?という活動初期に小澤さんが言われてた言葉に対する答えを、小澤さんは見事に回答していたと思います。
カラヤンとバーンスタインのまさに、いいとこどりをしたということで、これまた日本人的でもあります。
今後は、晩年の枯淡の域に達した小澤さんを聴いていきたいと思います。。。。
投稿: yokochan | 2024年3月14日 (木) 09時17分
によろふきんさん、こんにちは。
ご返信遅くなってしまいました。
大友さんのエピソード、はじめて知りましたが、興味深いですね。
佐渡さんが、新日フィルを継ぎ、大友さんは、日フィルや東響、京都、群馬などのオケを指揮してきました。
なるほどですね。
小澤さんがあまり指揮することのなかった英国系の音楽のスペシャリストにもなった大友さん、アメリカよりは英国でもあったのでしょう。
最近は、大友さんをあまり聴いてませんが、以前はエルガーを指揮すると必ず聴きに行きました。
大友さんと親しい方とも知己を得て、一緒に楽屋裏にも訪問したこともあり、懐かしい思い出です。
いまを活躍する日本人指揮者、国内外で活躍して欲しいとさらに思います。
投稿: yokochan | 2024年3月14日 (木) 09時25分
覆面吾郎さん、こんにちは。
返信が遅くなってしまいました。
小澤さんほどに、欧米のあらゆるオケの指揮台に、あの時代で立った指揮者はいないと思います。
ロリン・マゼール級であります。
おっしゃるように、2000年ぐらいまでの音源はほぼ聴いてきましたが、その後はほぼ未聴。
その意味で、今後の楽しみが残されているとも思いますが、自分にも残りの時間が・・・と考えると寂しいものもあります。
投稿: yokochan | 2024年3月14日 (木) 09時29分
yokochan様
ご多忙の御身で在らせられておいででございましょうし、御返信のタイミングは全く気にかけておりませんので、何卒お気遣いなさりませんように‥。
小澤さん、石井宏さんや故・宇野功芳さんには結構叩かれてましたけど、まぁそれだけ無視し得ないご存在だったと言う事の証なのでは、ないでしょうか(笑)。演奏家の聴き手にとっての良否は、おのおの時間と経費の持ち合わせの範囲で、聴いていくしか、ないのでしょう。
投稿: 覆面吾郎 | 2024年3月15日 (金) 10時50分
丁寧な追悼録を読ませていただき、心から感謝いたします。
当方、仕事で3月上旬からオ-ストらリアに出張で行き、その後、久しぶりの海外に体調を壊しておりました。
帰国して小澤征爾の軌跡を振り返るとき、2008年の神奈川だったと記憶しているのですが、
ウイーン国立歌劇場とのフィデリオを鑑賞できたことは、人生の喜びです。
バーンスタインとのCDに負けないくらい、充実した響きと、立派な歌唱につきそう小澤の指揮に感銘を受け増した。
力強さも旋律の流麗な流れも、私にとっては至上の体験でした。
あまりにもすごすぎて、その後のサイトウキネンオーケストラとの力作が少し予定調和に思えたのは、大変僭越ながら事実でした。
今からでも聞き直そうt思いますが、小澤さんの傑作の中でも本当の勝負曲を見つけたいと思います。
なおボストン交響楽団とのマーラー3番の来日公演は必死にTVで観ていたのはいい思い出です。
病み上がりで、僭越な感想、ご寛容くだされば幸いです。
投稿: beaver | 2024年3月23日 (土) 19時36分
beaverさん、こんにちは、コメント返信遅くなり申し訳ありません。
小澤さんは大曲をまとめ上げるのがうまかったので、オペラも同様に優れた才覚を発揮しましたね。
日本公演ではフィデリオを指揮したのですね。
音源が残されなかったのが残念ですが、思えばヒューマンなこの作品、小澤さんにぴったりでした。
上演に立ち会うことができたこと、うらやましく思います。
サイトウキネンの印象は、わたしも同じですが、いまこそ聴き返してみたいです。
季節の変わり目、温度の変化が激しいです、体調管理にお気をつけください。
音楽を心地よく聴くのによい季節となりました。
投稿: yokochan | 2024年4月 1日 (月) 09時16分