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2024年4月

2024年4月20日 (土)

マルサリス ヴァイオリン協奏曲 ニコラ・ベネデッティ

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連日、天候がうらめしくなるほどに雨ばかりだった4月の桜シーズン。

久々の好天に桜見物に出かけました。

こちらは、秦野市。

秦野は県の中央にあって、神奈川県唯一の盆地。

寒暖差があり、名水にも恵まれ、自然豊かな里で、桜の名所が市内にたくさん。

6Kmにおよぶ「桜みち」は圧巻です。

この日は、丹沢から流れる水無川流域を散策

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季節の変わり目、人生の変わり目に、日本の桜はぴったりですが、散るのも早く哀愁も感じますね。

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  ウィントン・マルサリス ヴァイオリン協奏曲

     ニコラ・ベネデッティ

 クリスティアン・マチェラル指揮 フィラデルフィア管弦楽団

           (2017.11.2 @フィラデルフィア)

ウィントン・マルサリスといえば、ジャズのトランぺッターという認識が強く、80年代にジャズのスタンダードをあつめたアルバムを購入してよく聴いていたものだ。
そのあとは、レッパードと共演したハイドンのトランぺット協奏曲があったぐらいの記憶でした。

大好きなヴァイオリニスト、ニコラ・ベネデッティがマルサリスのヴァイオリン協奏曲を録音したので、一応全部の彼女の音盤は集めているので、すぐに購入して一度聴いてのみもう何年も過ぎてしまった。
しかし、今年の1月にBBCで、ベネデッティのヴァイオリン、ロウヴァりとフィルハーモニア管のライブを聴き、とても興奮し感銘も受けたのです。
ジャケットでは年齢を経てふくよかになったマルサリスが、かつての昔、小粋なスタンダードジャスを聴いたあのマルサリスと同一人物であることも、いまさらながらに認識。
ベネデッティのために書いたということ、マルサリスにはほかにもクラシック作品があり、交響曲などもあることもいまさらに認識。

いまいちど、CDを桜の季節に聴いてみた。
この曲は、今現在はベネデッティ(以下、親しみを込めてニッキーと呼びます)の独壇場で、ライブでの録音音源もほかに2種持ってますので、いずれも繰り返し聴いてます。

ジャズの聖地ニューオーリンズ生まれのマルサリスは、ジャズトランぺッターとしての存在を極めてのち、作曲をメインに転じました。
ジャズとクラシックの融合、当然にそのスタイルは相いれないものも多いが、それぞれの共通スタイルを見出すことを前提に作曲をしているという。
その共通項のひとつが、ヴァイオリンであり、フィドルです。
フィドルは、古くはアイルランドのケルト、スコットランド、北欧とくにノルゥエーなどの民族的な音楽、さらにはアメリカのカントリーやブルーグラス系にみられます。
スコットランド出身のニッキーは、ずっと祖国の音楽を好んで演奏してきてます。
そしてこの曲が、彼女のために書かれたこともわかります。
フィドル奏法は、ヴィブラートをかけず、開放弦を多用し、音の移動は巧みに装飾音で飾る、そんなイメージであります。
このCDにカップリングされた、やはりニッキーに書かれた「ソロ・ヴァイオリンのためのフィドルダンス組曲」の方にフィドルの技法はより強く出てます。

協奏曲は、4つの楽章からできてます。
「ラプソディ」「ロンド・ブルレスケ」「ブルース」「フーテナニー」の4つで、全曲で43分の大作です。

①「ラプソディ」
悪夢となり、平和へと進み、先祖の記憶に溶けていく複雑な夢~とマルサリス自身がコメントしてます。
ニッキーのyoutube解説でも、この平和で美しい雰囲気とそのメロディをソロで弾いてます。
夢想的であり、平安と癒しの世界は、バーバーの音楽を思わせるが、フィドル時な要素を含みつつジャジーな傾きも見せるステキな音楽だ。
平安もつかのま、ポリスの警笛もなる中、喧騒も訪れる。
このあとの展開もふくめ、わたしは、マーラーを意識した世界観を感じたものだ。
あとディズニー的な理想郷をも感じさせるラストは、音楽として共感でき、単独楽章としてもいい作品だと思う。

②「ロンド・ブルレスケ」
ブルレスケ=バーレスク
マーラーの9番の3楽章がロンド・ブルレスケ
ブルレスケはカリカチュアや、比喩、こっけいな誇張などを意味することば。
オケのピチカートと楽員たちの足踏みに乗って、ヴァイオリンが高域をキューキュー言わせながら走り抜ける、そんな怪しい雰囲気。
デンジャラス感もあり、しつこいくらいにここでも喧騒なムードを繰り返すなか、ヴァイオリンは超絶技巧のパッケージを連発。
「ジャズ、カリオペ、サーカスのピエロ、アフリカのガンボ、マルディグラのパーティー」と作者は記している。
ジャズ系のパーカョンとともに、ソロヴァイオリンっが繰り広げるカデンツァは、ジャンルの垣根を超えたクロスオーバーの世界。
そのフリーな感覚はなんの論評も不要だろう。

③「ブルース」
前章の後半から続く、ジャズなムード主体のオール・ジャンルな雰囲気で、このまさにブルースは継続する。
泣きの音楽、まさにブルーグラス。
金管はビッグバンド的な様相を呈しつつも、巧みにヴァイオリンソロによりそい、ジャズコンチェルトみたい。
ユニークかつ、どこかで聴いたことあるような音楽は、とても懐かしくそれはまた、いま狂ってしまったアメリカの良き時代へのノスタルジーだ。 

④「フーテナニー」
めちゃくちゃに盛り上がる前半。
オケ員が足を踏み鳴らし、手拍子でリズムをとり、ヴァイオリンソロは無窮動的に合いの手を入れつつ、ついにヴィルトゥオーソの極み、アメリカ版のフィドルが炸裂。
後半は徐々に全体がフェイドアウトしてゆき、フィドル奏者がファンキーな街をあとにして去っていくような、そんなムードとなり静かに終わる。
実演では、ニッキーはヴァイオリンを弾きながらステージを去ります。

ベートーヴェンやブラームス、エルガーの協奏曲と同じくらいの長さ。
そうしたクラシカルな協奏曲にもひけをとらない協奏曲だと思いますが、ヴァイオリンソロはニッキーのようにフィドルが身体に沁みついているようなルーツがないと、面白くないかもしれません。
ニッキーは欧米豪の各オーケストラで、この作品を弾いてますが、残念ながら日本には来ませんね。

録音したライブは、ガフィガンとスコットランド国立菅とのプロムスのものと、ロウヴァリとフィルハーモニーアとの2種を聴いてます。

ロウヴァリとフィルハーモニア管は来年に来日するので演目によっては飛びつきたい、そんな新鮮なコンビなんですがね・・がっかりさせてくれますわ、ベネデッティを連れてきて、この曲をやればいいのに。
今年のロンドンフィル(ティチアーティ指揮)も同じく。
日本人奏者ばかりとの共演で、すべての公演に有名協奏曲がついてる。
メインも有名曲ばかりで、せっかくの英国の名門オケなのに、若い注目指揮者なのに・・・・
ほんとに頭にきますよ、呼び屋さんの問題なんですかね。

話しはそれましたが、このCDで指揮してるマチェラルも、いま大活躍のルーマニア出身の指揮者。
ケルンWDR響とフランス国立菅のふたつのオケを率いていて、レパートリーも多彩だ。

4楽章のさわりを。
ガフィガン指揮するパリ管とのリハーサルです。



このリズムには誰しも反応してしまいます。

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はやくも来年の桜が楽しみ。

日本人は桜がほんと好き。

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2024年4月14日 (日)

ネヴィル・マリナー 100年

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中井町の山上のひとつ。

見晴らし抜群で、富士と大山、丹沢山麓、箱根の山々、さらには相模湾も見渡せる絶景の地。

まえから来ようと思っていたけれど、自宅から割とすぐだった。

ここが整備された公園となっているのは、9年前にここにできたメガソーラーとともに開発されたものだからです。

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神奈川県西部エリアで最大規模のソーラー発電所。

ここでは趣旨が違ってしまうのでこれ以上は書きませんが、自然エネルギーはたしかに有用でしょう。

しかし、もうお腹いっぱい、これ以上、日本の自然を壊さないで欲しい。。。

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サー・ネヴィル・マリナー(1924~2016)、4月15日が誕生日で、この日100年となります。

現役のまま亡くなって、はや8年。

残された膨大な音源は、まだまだ聴きつくすことができず、これからの楽しみもたくさん残していただいた。

アンソロジー化も期待され、ヘンデルばかりを集めたボックスも出るようだ。

存命なら100歳、今日は特にマリナー卿の小粋な演奏ばかりを、さわやかな晴天の空を眺めながら聴いてみた。

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  ヴィヴァルディ 二重協奏曲集

   ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

         (1982.11 @ロンドン)

500曲はあるとされるヴィヴァルディの協奏作品。
そのなかから、ふたつの楽器のための作品ばかりを納めた、これもまたマリナーらしいナイスな企画。
「2つのトランペット、ヴァイオリン」「2つのホルン」「2つのマンドリン」「2つのフルート」「2つのオーボエ」「オーボエとバスーン」。
こんな多彩な曲の詰め合わせは、なんど聴いても飽きない、バロック音楽らしい明るく屈託のなさがひかります。
ヴェネチアの少女孤児院ピエタのためにその協奏曲の大半が書かれたというが、これらの2重協奏曲もホルン以外はいずれもそうだと言います。
録音時、すでに古楽奏法は流行りだしていたけれど、ピリオド奏法などなどまったく感知せずに、いつものとおり、さらりと、爽やかに演奏してのけたマリナーとアカデミーの面々なのでした。

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  ハイドン 交響曲第83番 ト短調 「めんどり」

    ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

          (1977.10 @ロンドン)

レコードで、その曲名をモティーフにしたすてきなジャケットとともシリーズ化された、ハイドンのネイムズ・シンフォニーとパリ交響曲。
全部で33曲録音されている。
生真面目にハイドンの音楽に取り組んだ、清廉でかつ新鮮な演奏は、まさにエヴァーグリーン的な存在として、いまだに特別な存在意義のあるものです。
発売当時は、某廃刊誌の月評でけちょんけちょんに書かれたけれど、CD化されて初めて聴いたワタクシの耳には、すんなりと曲は流れるが、随所に微笑みとマリナーらしい、そっけなさも味わいに感じるステキなハイドンに聴こえたものです。
あえて短調の曲をえらんだのは、名前の由来となった「めんどり」の鳴き声をマリナーの棒で確認してみたかったから。
そしてやはりマリナー、カラヤンのようなそれ風の演奏とは違い、あっさりとサラッとやってた。
いろんな技巧の詰まったハイドンの音楽の面白さを素直に感じる演奏。
70年代、アナログ最盛期のフィリップス録音も素晴らしいものでした。

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  ロッシーニ 序曲集

    ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

         (1974.5 、1976、1979 @ロンドン)

モーツァルト、スッペ、オッフェンバック、ウォルフ・フェラーリ、ワーグナー・・・さまざまに残されたマリナーのオペラ序曲集のなかにあって、最高の成功作がロッシーニ。
75年に第1作が、こちらのジャケットで発売。
その後、録音を重ね、最後には現存する序曲のすべてを録音してしまった。

アバドの既成の慣習を取り払った透明感あふれるロッシーニに聴き慣れた耳には、マリナーのロッシーニはアバドほどの先鋭感はなく、アバドほどの鮮やかなまでの俊敏性は感じられず、ロッシーニ演奏の革新から一歩下がったようなイメージを与えることとなった。
でもね、いろんな指揮者の新旧のロッシーニ演奏を聴くうちに、さらには、マリナーが序曲ばかりでなく、オペラのいくつかを録音し、それらを聴くうちに、マリナーの古典音楽への清廉な解釈の延長にあるロッシーニ解釈が過分な解釈なしの、スッキリ感あふれる、そして切れ味抜群の演奏であることを見出し、いまや快哉を叫ぶようになってまいりましたね。

こんな演奏が、あたりまえに行われ、音楽レーベルも普通に企画して販売していたいまや幸せな時代。
マリナーは、カラヤンとともに、そんな時代を音楽家として生き抜いたんだと思います。

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  エルガー 弦楽のためのセレナード

   ネヴィル・マリナー指揮 アカデミー室内管弦楽団

         (1967.11 @ロンドン)

最後は指揮者というより、アカデミーのリーダーとして、ヴァイオリンを弾きながらリードしていたかもしれない頃のマリナーの至芸。
まさにエルガーのノビルメンテな、気品と愛情あふれる柔和な世界を、きどらずに普通に再現。
慈しみあふれるバルビローリ、きりりとした背筋のびるボールト、大家たちの素晴らしい演奏ともまた違った日常感覚あふれる、まさにさわやかさ満載のエルガー。
ちょっと距離を置きつつ、でもとても親密な優しい演奏、そんなマリナーの演奏。
序奏とアレグロも素敵すぎます。
こんなエルガーを、さらりと聴かせる演奏家、いまではもうあまりいませんね・・・・

音楽への思い入れが強すぎる演奏が多すぎると感じた時に聴くマリナーの指揮。
そしてアバドもそうしたところがありました。
楽譜どおりにちゃんと安心して聴ける、そんなマリナー卿が好きでした。

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マリナー卿、ありがとう。
日本にも何度も来演いただき、かなり聴くことができました。

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日本の富士🗻

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2024年4月 6日 (土)

フンパーディンク 「王様の子ども」 

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ひな祭りの頃の大井町の里山。

つるし飾りと富士。

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里山にある古民家には、さまざまな雛飾り。

古来より、親たちは子供の誕生と成長を喜び、幸福を願い、さまざまに祈ってきたんです。

受け継がれるひな人形や、五月飾り、新しい家族が築かれるとそこには、親から受け継いだものに加えて新しいものも追加されます。
日本独自のこの風習と業界、ぜったいに受け継いでいってほしい。

愛すべきフンパーディンク(1854~1921)のオペラのひとつ。
「ヘンゼルとグレーテル」のみが大衆受けすることもあり超絶有名なフンパーディンクの唯一作品のようになってる。
しかし、ヘンゼルとグレーテルは楽劇と冠され、ワーグナーの影響をがちがちに受けた緻密なライトモティーフ技法によるムジークドラマなんです。
ほかのオペラ、といってもこの「王様の子ども」しか聴ける状況ではありませぬが、ここでも主導動機を元にした作曲技法と、簡明な旋律とに加え、マーラーと同世代ともいえる世紀末的な甘味な音楽の運びもうかがわれ、さらにシェーンベルクやベルクにも通じる、語って歌う手法の先駆けもある。

ヨーロッパでは近年、この作品の評価につながる重要な上演もいくつかあり、今回は映像DVDも楽しみましたので、音源と映像とで理解を深めることができました。

  フンパーディンク 歌劇「王様の子ども」

ヘンゼルとグレーテルは1891年の作曲で、そのあと、同じワーグナー信奉者であり友人でもあったユダヤ人、評論家・指揮者のハインリヒ・ポルゲスの委嘱で1894年に、この音楽劇を作曲することとなった。
台本は、ボルゲスの娘のエルザ・ポルゲス。
彼女は、父親の血を受け継いで熱心なワグネリアンとなり、ワグネリアンたちのサロンを主催するなど、なかなかの影響を与えた人物です。
結婚で、エルザ・バーンスタイン(ベルンシュタイン)の名前となる。
疾患で視力がほとんどなくなり、その才覚は劇作へと向かい、いくつかの文学作品や戯曲を創作。
そんななかで、父の勧めで音楽化されたのが「王様の子ども」です。

オペラとして作曲したかったフンパーディンクに対し、娘エルザ・ベルンシュタインはオペラ化は否定し、演奏会で上演できるメロドラマ形式のものを希望。
フンパーディンクはやむなくそうしたが、作曲者がすでに到達していた当時には前衛的な手法などは、オラトリオみたいなコンサート形式の枠には収まらず、オペラとしての在り方にこだわり、エルザを説得しました。
結果、原作者のエルザも同意して1907年にいまに聴かれるオペラとして再編されることとなったわけです。

1910年にメトロポリタンオペラで初演され、ドイツでは翌11年に初演。
アメリカで初演されたことろが面白いところですが、エルザ・ベルンシュタインは、ナチス台頭時、ユダヤ人であり、ともに視力障害のあった妹をドイツに残して置くことを是とせず渡米しなかった。
結果、姉妹共に収容所送りとなったが、「王様の子ども」の原作者であることがわかり、文化人などが送り込まれた寛容で緩い収容所施設に配置換えとなり生きながらえた。

フンパーディンクのオペラの原作であったことが救った命。
ベルンシュタインの妹は、収容所で病死してしまう。

こんな風に、メルヘンでありながら、あんがいと死の影のまとわりつくオペラが「王様の子ども」なんです。

  王様の子:テノール
  がちょう番の娘:ソプラノ
  魔女:メゾソプラノ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):バリトン
  木こり:バス
  ほうき作り:テノール
  ほうき作りの娘:若いソプラノ
  上級顧問官:バリトン
  宿屋の主人:バリトン
  宿屋の娘:メゾソプラノ
   ほか  

ほかにも町の人が多数で、音楽だけ聴いてると誰が誰やら混乱します。
映像で気軽に楽しめるようになり、こうした作品にも光があたるようになり、ほんとありがたい。

小さな国の郊外、そこには12羽のガチョウがいて、若い女性がそのお世話をしている。

第1幕

 若い女性は、魔女にこの地に束縛されていて、その魔女は人間たちの住む社会を憎んでいて、魔法で若い女性=がちょう番をしばりつけて、外の社会に出れないようにしている。
魔女は彼女に、ずっと痛むことのないパン、でもそれを半分食べると死んでしまうパンを作らせている。
魔女は蛇や虫の採集に出かけ、がちょう番はひとりきりになる。
そこへ、王の息子が父の元を飛び出し、冒険を求めて狩人の風体でやってくる。
ふたりはすぐに恋に落ちるが、彼女の頭にあった花の冠が風で飛ばされてしまう。
王子は、王冠を代わりにあげてしまい、一緒にここを出ようと言うが、彼女は魔女の封印が解けずにここを出ることすらできない。
業を煮やした王子は、王冠をそのままに、立ち去る。
まもなく、魔女が戻り、誰かが来たことを悟り、また別の魔法で呪縛する。

そこへ、吟遊詩人、木こり、ほうき職人がやってきて、賢明な彼女に、町を今後導く王を見つけ出して欲しいと頼む。
魔女は、明日の昼に最初に町の門をくぐった者が次の王になる、道化のような恰好をしているが、王冠に相応しい人物だと断定。
満足した木こりとほうき職人は町へと帰るが、吟遊詩人は窓の中に若い女性を見つけ、彼女は魔女に囚われていることと、今日若い狩人が来たことを話す。
それは王の息子とわかった吟遊詩人は、彼女と息子が結婚して町を統治すべきだと言う。
しかし、魔女は身分が違いすぎるとして、がちょう番の彼女の両親のことを語る。
絞首刑執行人の娘だった彼女の母親だが、若い領主に見初められ、ひとりの娘を生んだ。
それが違う男のように言う魔女だったが、すべてを悟った吟遊詩人は、母親と領主をよく知っていた、彼女が正当な家系の生まれであることを証言する。
これに勇気を得たがちょう番の彼女は、両親に感謝とここからの脱出の祈りをささげる。
すると魔法は解け、彼女は涙とともにそこを飛び出していく。

第2幕

町の宿屋と近くの広場。
人々は、どんな王様がやってくるのか歓迎しようと興奮状態に。
王の息子は、馬小屋で夜を過ごし、宿屋の娘に気に入られ食べ物や飲み物を出され、さらに迫られてしまう。
がちょう番の彼女が忘れられない王の息子は、さらなる放浪と、確かな跡取りとなる決意を固め、ここで職を得て修行しようとする。
ほうき職人の娘は、王の息子に、ほうきを売ろうとするが、彼はいち文無し、でも少女は彼と楽しく遊びます。
そこへ、町の議員たちが集結し、ほうき職人は、魔女の話しをさらに大きく盛ってみんなに話す。
そんな大げさな王の入場に疑念をはさみ、王にはかっこだけ、人形のような姿を求めるのか?と疑問を呈します。
町の人々は、そんな言葉に怒りを覚え、さらには宿屋の娘は食事代を踏み倒した男よ、と非難し、人々は泥棒野郎と非難し広場は大混乱となる。
 そのとき、約束の正午となり、門が開くと、黄金の冠をかぶったがちょう番の娘が、吟遊詩人と彼女のがちょうたちと登場。
王の息子は大いに喜び、彼女にひざまずき、彼女こそが女王と呼ぶ。
そして吟遊詩人は、彼らこそがこの町の運命の統率者なのだと宣言。
これに、人々は嘲笑し、こん棒や石で攻撃し、若いふたりを追い出してしまう・・・・
誰もいなくなった広場には、ほうき職人の娘と老いた上級審議官。
涙を流す彼女になぜかと問うと、彼らが王様と王女様だったと語る。。。。

第3幕

やがて冬が来て、雪も積もりました。
この間、魔女は嘘の予言をした罪で火あぶりの刑となり、吟遊詩人も投獄されさんざん暴力を受け満足に歩けなくなってしまった。
荒んだかつて魔女の住んだ場所で、がちょうの世話をする吟遊詩人は、悲しみにふさいでいる。
 そこへ、木こりとほうき職人が、多くの子どもたちをつれてやってくる。
町がばらばらになってしまい、荒廃し、子供たちは大人を信用しなくなり反乱が起きているので、町に帰ってきて欲しいと語る。
そんな悪い大人を突き飛ばして、子供たちは、大人たちが間違っていて、王と王女を探し出すのにどうか自分たちを指揮して欲しいと懇願。
吟遊詩人は、子供たちを伴って雪山へ向かう。
 木こりとほうき職人は、魔女のいた小屋に入り、暖を取る。
そこへ放浪に疲れ切った王の息子とがちょう番の娘が抱え合いながらやってくる。
山の上の洞窟にいたが、食べ物がつきて、ここへ避難してきたのだ。
衰弱した彼女を思い、王の息子は健気に振る舞い、泣きたくなるほど悲しく美しい二重唱となる。
小屋のドアをたたき、そこにいた木こりとほうき屋に食料を求め、王冠まで差出し、得たのは小屋にあったパン。
ふたりでパンを分け合い、お互いに手を伸ばし合い、愛を確かめあいながら死んでしまう・・・・
 そこへ、手遅れながら、吟遊詩人と子供たちが戻ってきて、木こりたちが、王冠を持っていることを見つけ、詩人は激怒し、王冠を奪い返し、彼らを追い出します。
子どもたちが、ふたりの亡がらを見つけ、一同は深い悲しみに包まれます。
吟遊新人の歌とともにこの悲しみに満ちたオペラは幕となります。


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  王様の子:トマス・モーザー
  がちょう番の娘:ダグマール・シュレンベルガー
  魔女:マリリン・シュミューゲ
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ディートリヒ・ヘンシェル
  木こり:アンドレアス・コーン
  ほうき作り:ハインリヒ・ウェーバー
 
 ファビオ・ルイージ指揮 バイエルン放送管弦楽団

             バイエルン放送合唱団
             ミュンヘン少年合唱団

        (1996.3 @ミュンヘン)

ずいぶんと前に買っていたCDだけれども、後段のDVDで馴染んでから聴いて、それはまた素晴らしい演奏だと思い、何度も聴いている。
90年代後半から、ドイツを中心に活躍し始めたルイージは、こうしたドイツものと並んで、ベルカント系のオペラをグルベローヴァとともにたくさん録音していた。
緻密な音楽造りと、劇場感覚あふれる雰囲気作りは、才覚以上に天性のものだと感じます。
リリックテノールからドラマチックテノールに変身したモーザーの、トリスタンのような歌唱は聴きごたえがあり、相方のシュレンベルガーも同様にワーグナーにもふさわしい声。
ヘンシェルの味のある吟遊詩人も実によろしい。

EMIには、ハインツ・ワルベルクの指揮による録音もあり、ネットで視聴することができた。
ダラポッツァのタイトルロールがやや甘すぎだが、ドナートとプライ、シュヴァルツにリッダーブッシュと私のような世代には夢のような布陣だった。
今度、探して手にいれなくては・・・・・

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このオペラ、3時間あまりと長いけれど、音楽は簡明でわかりやすく、馴染みやすい。
そしてともかく美しく、大きな音やフォルても少なめで、夜遅くに聴いても安心だぜ。

結構な悲しいオペラなので、メルヘンを期待すると裏切られるが、ドイツのメルヘンには人間の持つ暗い側面もよく表出されているので、この物語りにいろんな比喩やメッセージを読み解くのもまた深みがあるというもの。

大衆は阿りやすく、一定の方向に流されがちで、真実の声は埋没してしまう。
子どもの目におおかたの狂いはなく、濁りのない眼差しは本当のことを見抜く。

全体を通じて出てくるモティーフが詰まった幕開きに相応しい快活な1幕前奏曲。
祝祭的な、まるでマイスタージンガーの歌合戦の始まりのような第2幕の前奏。
時の流れと、魔女や吟遊詩人たちに起こった悲劇を語り、それがやがて若いふたりの悲しい結末を予見させる。あまりにも切ない3幕の前奏。
これら3つのオーケストラ部分を聴くだけでも、フンパーディンクの音楽の素晴らしさがわかるというもの。
時おり入る、バイオリンソロがこれがまた美しくも儚い悲しさがある。
オランダオペラの舞台では、ステージにヴァイオリン奏者が実際に出てきて、愛の象徴としたこのソロ場面がわかりやすく引立っていたのだ。

ヘンゼルとグレーテルでのおっかないけど、ユーモアあふれる魔女は、ここでは悪い役というよりは、かつて誤解され迫害を受けたジプシーのような存在と感じられ、彼女も阻害された不幸な存在として描かれている。
この役に、DVDではドリス・ゾッフェル、ワルベルク盤ではハンナ・シュヴァルツが歌っている。

わたしがとても好きな場所は、王子のがちょう姫との出会いの二重唱の可愛さ。
1幕最後でのがちょう姫の両親への感謝の歌、ファター、ムッターと歌う場面が涙が出るほどに愛らしい・・・
そして3幕前奏の物悲しい美しさに加えて、死を前にした若い二人の泣けるほど美しい二重唱。
トリスタンの世界を超越した、世紀末感あふれるロマンティシズムの極致で、それがフンパーディンクの筆致で無垢な世界へと昇華している。
くり返しいいます、とんでもなく美しく哀しい・・・

ただ、このふたりの悲しみの死がピアニシモで閉じるが、そのあとがまだオペラの続きとしてあったことが、自分にはちょっと残念だった。
そこで幕を閉じずに、吟遊詩人と木こりたちのクダリがあったことで、泣いてた自分がやや虚しくなる。
最後の吟遊詩人のバリトンの歌や、子供たちの合唱には心惹かれますが・・・・
このあたり、音源としてではなく、劇場や映像で見るとそのように感じる方もいるのではと。

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  王様の子:ダニエル・ベーレ
  がちょう番の娘:オルガ・クルチンスカ
  魔女:ドリス・ゾッフェル
  吟遊詩人(ヴァイオリン弾き):ヨゼフ・ヴァグナー
  木こり:サム・カール
  ほうき作り:ミヒャエル・プフルム

  ヴァイオリン奏者(愛):カミュ・ジュベール

 
 マルク・アルブレヒト指揮 オランダ・フィルハーモニー管弦楽団

              オランダ国立歌劇場合唱団
              アムステルダム少年少女合唱団

     演出:クリストフ・ロイ


           (2022.10 @アムステルダム)

スタイリッシュでシンプルなロイの演出とその仲間たちの舞台は、過剰な読み替えの少なく、わかりやすく、でもその訴えかけるドラマ性は強い。

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簡潔な中に、見事なまでの、この作品の確信に切り込む演出解釈は、無駄なことをせずとも誰しもがわかり、納得できるものだ。
ホワイトを基調に、ふたりの主人公も純白な衣装で、まさに無垢なふたりを象徴。
四季の移ろいも、このオペラの肝であるが、それをダンサーたちに表出させ、彼らダンサーたちは、ふたりの主人公の心象をときに憐れむようにして寄り添い、客観視しながら舞台に存在する。
町外れにある魔女の館は、ほんとに小さな小屋で、この小屋に住まう魔女、また最後は小屋で暖をとる悪人たちの根城としてわかりやすい存在。
また大きな木が常にあり、町の中心として機能したり、若いふたりが木の下で息絶えるのを見守る役目であったりする。

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このような簡明な装置の元で、世間知らずの若いふたりと、彼らを理解する子供たち、すべてを知り同情と理性にあふれた吟遊詩人。
対する凡庸たる市民と、その代表である木こりやほうき職人。
これらの対比が鮮やかな演出で、魔女さんは、どこか客観的な存在に描かれ、そんなに悪としての存在でもなく、気の毒な存在として描かれている。
魔女と吟遊詩人が、追放されいたぶられるシーンがリアルに描かれているのも、舞台以上に映像作品を意識したものと実感。

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この役を得意とするベーレの王子役が見栄えも含めて、そのリリックで甘い声と物悲しさ、役柄を手中にした歌と演技とで素晴らしい。
クルチンスカのがちょう姫も、好きです。
素朴さ、純情さがありつつ、積極性も歌いこむこの役に申し分ないです。
そして、ベテランのゾッフェルの魔女も貫禄充分。
ヴァグナーの孤高の吟遊詩人も見事なもので、暖かなバリトンは、ワーグナーの諸役も得意にしている。

オランダオペラを率いていたアルブレヒトの積極かつ熱意にあふれた指揮も素晴らしい。
後期ロマン派の作品、とくにオペラを積極的に取り上げたアルブレヒトの意匠は、後任のヴィオッテイに引き継がれてます。
最近の、コルンゴルト、シュレーカーなどのオペラに加え、このアルブレヒトのフンパーディンクは特筆すべき出来栄えかと思います。
この作曲家のワーグナーの亜流的な存在感を越えて、その先の新ウィーン楽派や表現楽派の領域までも達するようなフンパーディンクの側面を垣間見せてくれる、そんな切れ込みも深い解釈をみせた演奏です。

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雪降るなかの、ふたりの悲しすぎる死。
そのあと憎しみ覚える木こりたちも登場するが、吟遊詩人の愛に満ちた告別と悔恨の歌。
まるでワーグナーの楽劇の最後を閉じるようなバリトンの歌は素晴らしい。
「王のこどもたち」と何度も歌う子供たちの歌。
舞台は暗くなっていきました・・・・

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このオペラには、今回取り上げたもの以外にも、いくつかの録音や映像があり確認しました。

・ワルベルク盤 前述のとおり、なんといってもH・プライがすばらしく、ドナートのがちょう姫がかわいい
・ヴァイグレ盤 ここでもベーレが王子役、フランクフルトオペラでのヴァイグレの活躍とその豊富なレパートリーには驚きだ
・メッツマッハー盤 ベルリン・ドイツ響、フォークトやバンゼ、聴いてみたいキャスト
・A.ジョルダン盤  モンペリエ・オペラ カウフマンが主役
・メッツマッハー映像版 若いカウフマンが、いまほど重くなくよろしい。
 チューリヒでの上演で、学校の実験室や学園祭に置き換えた舞台が深刻さゼロでやりすぎだった。

日本でも、このオペラは日本人の共感をえるものと思います。
いつしか上演されますことを望みます。

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