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2024年7月

2024年7月28日 (日)

フェスタサマーミューザ2024 ノット&東響 オープニングコンサート

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今年もフェスタサマーミューザの開幕を迎えました。

昨年に続き、オープニングコンサートに行ってまいりました。

連日、猛烈な暑さの続くなか聴いた「真夏のチャイコフスキー」はクールダウンにもなり、また熱気と興奮で熱くもなりました。

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 チャイコフスキー 交響曲第2番 ハ短調 op.17 「小ロシア」

          交響曲第6番 ロ短調 op.74 「悲愴」

    ジョナサン・ノット指揮 東京交響楽団

        ゲストコンサートマスター:景山 昌太朗

       (2024.7.27 @ミューザ川崎シンフォニーホール)

昨年は、3番と4番で、今年が2番・6番、ということは来年は1番と5番でチャイコフスキー全曲完結となりますか!
2026年3月がノット監督の任期なので、マンフレッドはどうなるか?
いずれにせよ、毎年の楽しみではあります。

わかり切った名曲だと、パンフも見ずに聴き挑んで早々、耳に沁みついたアバドのふたつの音盤とあきらかに違う曲だと気が付いた2番の1楽章。
そう、1楽章をほぼ書き直した聴き慣れた8年後の改訂版でなく、初稿版を採用したノット監督ならではの慧眼。
冒頭の素晴らしいホルンの導入は同じなれど、その後が全然違う。
くり返しのくどさが増し、曲調も荒々しい雰囲気に。
2番のこのたびの演奏は、全般に荒々しさとスピード感と抜群のリズム感、雄大なまでのダイナミズムに満ち溢れた、まだまだロシアの民俗楽派の流れの元にもあったチャイコフスキーの姿を聴かせてくれたものだと思う。
 チャイコフスキーは、ウクライナの南方にあるカムンカというモルドバ寄りのドニエストル川流域の地で夏の休暇を過ごし、そこでウクライナ民謡などを取り入れつつ作曲した。
南方へのあこがれと、それを体感し堪能した解放感がこの曲にはあります。
初稿版採用のこだわりは、そんな背景もあるのだと思いました。
パンフには、タイトルが「ウクライナ」とされ、かっこ書きで(小ロシア)と表記されてましたが、ウクライナ民謡が扱われていることからついた呼称なので正しいといえます。
チャイコフスキーの頃は、ウクライナでなく、ロシアからみたら「小ロシア」だったかと思います。
これ以上書くとややこしくなるし、多方面から矢が飛んできそうなので辞めます・・・

ともかく、爽快きわまりない、ノット&東響の2番でした。
蛇足ながら、曲中、補聴器ピーピーが2度聴かれました。
そのピーピーがメロディのように聴こえ、実際の演奏に同調しているかのように聴こえました。
ライブ録音もされていたなか、修正はなされるでしょうが・・・・

名曲の鏡ともいえる「悲愴」に一石を投じるかのような、これもまた爽快な演奏。
なんたって、悲愴臭なし、いい意味で流れるような流線形的な演奏。
とくに1楽章での旋律の歌わせ方は、第1主題はさりげない表現で、切ないはずの第2主題もあっけない辛口表現。
まさかのバスクラ不使用のファゴット落ちの後の展開部のクライマックスも切実さよりは、より楽譜の的確・忠実な再現に務めた感じで、音楽の持つ力を信じての演奏に徹していたように感じた。
 5拍子の2楽章でも辛口表現で、甘さなしで心地よい。
嫌でも興奮してしまう3楽章では、オケの威力全開で、ノットもここぞおばかりに煽りますし、オケも楽々と着いていく様子が、指揮者の真正面の位置で、楽員さんの演奏姿を見ていてよくわかりましたね。
拍手なしで堪えて終楽章。
ここでも徹頭徹尾、楽譜の忠実な再現ながら、気合とみなぎる指揮者の緊張感は並々ならず、オケもそれをヒシと受け止め、高まりゆく音楽の波をいやでも表出。
音楽の本来持つ力だけで、思い入れや、悲劇臭の注入・没頭感もなく、ここまで見事に演奏できるのだと体感。
低弦だけとなり、コントラバスのピチカート、チェロの低音だけで消え入るように曲は終わった。
静寂につつまれるホール。
全員で無の余韻をしばし楽しむ。
ノットが手を降ろして、しばし後に拍手がじわじわと広がり、やがてブラボーに包まれました。
これぞ、コンサートの楽しみ、喜びを堪能しました。

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全方位、みんなの拍手ににこやかに答えるノットさんでした。

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終演後、音楽聴き仲間とご挨拶し、軽く喉を潤しました。
音楽で観劇・興奮したあとの一杯は最高です。
夏はこんなツマミでいいんだよ。

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バッハさん、毎年、日焼けしすぎじゃね。

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2024年7月21日 (日)

ワーグナー 「タンホイザー」

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数度目かのワーグナー全作シリーズ。
初期3作、オランダ人についで、ようやく「タンホイザー」
全作シリーズは、もういい歳になってしまった自分、きっと最後です。
2回にわけて、音源、舞台経験、映像とジャンルをわけて総括。

その前に、以前の記事から少し編集をして、作品の概要を。

オランダ人、タンホイザー、ローエングリンのロマンテックオペラ3作は、後期に花開くドラマムジークへの序奏でもあり、初期3作で試みた当時のオペラスタイル(ベルカント、国民オペラ+ブッファ、グランドオペラ)をさらに発展させ、ライトモティーフのさらなる活用や番号オペラの廃止で、ドラマと音楽がより緊密に結びつき、緊張感とロマン性が流れるように、しかもおのずとあふれる作品群となっている。

タンホイザー」は、「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦のロマン的オペラ」という長いタイトルが当初のもの。
パリからドレスデンに移ったワーグナーは、「リエンツィ」と「オランダ人」の成功でその地で宮廷指揮者の職を得て、順風満帆のなか、「タンホイザー」を仕上げた。
1945年のことで、初演は大成功。
その後、聴衆の理解をさらに深めるように改訂をして、これが「ドレスデン版」となる。
管弦楽作品として聴かれる序曲が15分間演奏され、その後ヴェヌスブルクの音楽が少し入る版である。
1861年にパリでの上演を依頼された際に、序曲の途中からヴェヌスブルクの音楽になだれ込み怪しいバレエを挿入したり、歌合戦の一部を割愛したのが「パリ版」である。
さらに、ドレスデンとパリの両版の折衷版が「ウィーン版」とも呼ばれ、これがまた「パリ版」などと称されているからややこしやぁ。
指揮者や演出家によって、いろんなミックスバージョンがあるから、さらにややこしい。
でも昨今はドレスデン版を基調に、バレエ軍団の活躍の場を広げるためにも、折衷版が主流になった感あり。

舞台でもCDでも、最後の場面は涙なくしては聴けない。
エリザベートの自己犠牲から、法王からは杖にした枯れ枝から芽が生えないように、お前の罪は消えることはない!と宣言されながらも、奇跡の発芽。
ここに流れる奇跡のような音楽は、あらゆる音楽のなかでも極めて感動的なものと思う。

ワーグナーの劇音楽作者としての天才性は、このあたりにも如実に表れている。
こうした人間にとっても普遍的な感動は、演出家にとって、極めてやりがいのあるもので、逆に昨今のなにかを付け加えなくては存在意義を失った演出家には、これまた絶好の素材となるのでした。

中世13世紀頃、神聖ローマ帝国にあったドイツ中部のテューリンゲンが舞台。
ミンネジンガー=吟遊詩人たちは、高尚な恋愛や騎士道を歌にして、城内や貴族館などで歌い演じていて、それは職業ではなく、従者や城仕えのサラリーマン、騎士、貴族などだった。
2幕のヴァルトブルク城での歌合戦では、美辞麗句、高尚なる古風な純愛、建て前ばかりにの歌を披露する騎士たち。
それを聴いて生ぬるい、俺はもっと愛を極め、酒池肉林の世界に行っていたことをカミングアウトしてしまうタンホイザー。
  ローマ神話の愛と美をつかさどる女神であるヴェーヌスは、原始キリスト教においては、キリスト教を迫害する側のローマの神々であったし、それはカトリックにおけるマリア信仰と対をなす官能の女神として邪なる存在であった。
 その世界におぼれてしまっていたタンホイザー。
キリスト教社会から足を踏み外してしまったアウトロー。
身バレしてしまったタンホイザーは即座に、異端のとんでもないヤツとされ凶弾。
しかし、そこへ身を挺して、必死に彼の命乞いをするのがエリーザベト。
この場面は、重なる年齢とともにその味わいが増ように思え、若い頃は大げさに感じたこのシーンが、人の痛みや苦しみを共感しようという高潔なヒロインの真摯な歌に心から感銘を受けるようになったと思う。
しかし、こうした献身的な女性の麗しい姿も、いまや女性差別の批判の的ともなります。
「自己犠牲」という言葉がいまやフラット社会やポリコレの対象となりかねない時代。

ほんとに、ばかやろうといいたい。
こんな風潮のもとにおもねって演出にそんな要素を入れてしまった連中、歴史の揺り戻しで、そんな思想は消されるときがくる。
だから言いますよ、ひねくりまわさずに、ト書きを中心とした演出に解釈をくわえればいいじゃんよ。

と、また怒りだしてしまうのですが、ここからは手持ちの音源を振り返ります。

ゲオルグ・ショルティ指揮 ウィーン・フィルハーモニー (1970)
  
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トリスタンとリングに続いてショルテイが録音したワーグナー。
デッカの鮮やかなゾフィエンザールでの録音芸術はここでも鮮やか。
レイ・ミンシャル、ゴードン・パリー、ジェイムズ・ロック、コリン・ムアフットなど、この当時のカルショウ後のお馴染みのデッカチーム。
シカゴでの指揮活動も本格化し、同時期にはマーラーの5番や6番も録音。
オペラ中心から、コンサート活動へとシフトしていった時期でもあります。
ゴリゴリの剛直な指揮から、柔和さも加わり、多彩な表現力を示すようになったショルティさん。
ウィーンフィルを締め上げずに、柔らかなホルンや管の持ち味も生きていて、このジャケットにあるようなヴァルトブルク城の幽玄な雰囲気すら感じさせます。
若いコロの貴重な時期の録音は、甘味すぎる声で、後年に舞台で観劇したときの頭髪も後退し、人生に疲れた味のある歌い口とは別人のようなのです。
さらに2014年に、ルネ・コロのさよならコンサートでも、ローマ語りは聴いたが、そこでの苦渋に満ちた歌いぶりに、この不世出のテノールの行きついた境地に感嘆したものです。
清廉なデルネッシュもいいし、ルートヴィヒの贅沢すぎるヴェーヌスもよい。
若いゾーテインの美声のヘルマンもいいが、ブラウンのウォルフラムはちょいと弱い。
ピッツとバラッチュの指導する合唱も強力。

②ウォルフガンク・サヴァリッシュ指揮 バイロイト (1962)

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61年から始まったヴィーラント・ワーグナーの演出2年目のライブ。(過去記事をコピペして編集)
ドレスデンとパリの折衷版ともいえるウィーン版。
バレエの振り付けにモーリス・ベジャール、ヴェーヌスに「黒いヴェーヌス」として評判をとった
グレース・バンブリーが歌ってセンセーションとなったが、いまではあたりまえのことで、隔世の感あり。
でもサヴァリッシュの指揮は、いまでも鮮度が高く活気に満ちている。
音楽がどこまでも息づいていて、それがドラマにしっかり奉仕していて気の抜けたところが一瞬たりともない。
この素晴らしい緊張あふれる指揮ぶりは、同時期に担当したオランダ人とローエングリンにも共通して言えることで、時にその意欲が空転してしまいオケが走りすぎてしまうところもある。
サヴァリッシュのこの清新な指揮ぶりは、後年若さによる踏み外しがなくなり、さらに磨かれつくし知的でスタイリッシュな音楽造りになっていく。
この頃のヴィントガッセンは歌手としてピークで、その後のベームとのトリスタンやジークフリートは絶頂期からややピークを過ぎたあたり。
ここで聴くタンホイザーの声は威勢もよく、ドラマティックな威力も抜群で、意気揚揚とヴェーヌスに三行半を叩きつけ、歌合戦でも夢中だし、ローマ物語もヤケのやんぱちになってしまうところが凄まじい迫真の歌唱となっている。
ライブゆえの傷もややあるが、最後までスタミナ十分なところも当時の大歌手の実力をまざまざと見せつけてくれるもの。
若きシリアの夢中の歌唱、友愛のヴェヒター、安定のグラインドルに加え、バンブリーのコクのある以外にも深みのある声が素敵なものだ。

③ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バイロイト(1954)

戦後51年に再開したバイロイト音楽祭、タンホイザーは54年がプリミエでヴィーラント演出、そのライブ。
録音はかなりいい方です。
この年やカイルベルトとともに、ヨッフムも指揮を担当。
カイルベルトの逞しく気力あふれる指揮は、リングやオランダ人の音盤と同じで、古めかしさは一切なし。
音の決まり方が気持ちよくって、こちらの耳にタンホイザーの音楽のあるべきものがバシバシ飛び込んでくる。
1幕でのタンホイザーと旧友たちとの邂逅の熱さ、その後の盛上りは、猛然とアッチェランドをかけかなりのスピード感でもって興奮させる。
2幕は華やかさなどは微塵もなく、後半の感動的な場面では、ともに泣くかのような思い入れを込めた演奏。
一転3幕の、澄んだ空気に悲劇を予見させる前半は、じっくりと歌い上げていて、ニュアンス豊かなF・ディースカウの名唱とともに味わいが深い。
そして、「ローマ物語」からは、ヴィナイの重戦車のような大迫力タンホイザーもあいまって、大いなる感動をもたらし、最後の巡礼の合唱では感涙にむせぶこととあいなったが、やや尻切れトンボのように豪快すぎる終わり方。
前述したヴィナイの悲劇の固まりのようなタンホイザーがよろしい。

④アンドレ・クリュイタンス指揮 バイロイト(1955)

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54年がプリミエのヴィーラント演出の翌年のライブはクリュイタンスが担当。
このヴィーラントのプロダクションは、2年間で取下げとなり、次のタンホイザーは61年のサヴァリッシュ指揮のものまで間が開くことになる。
バイエルン放送局の正規音源なだけあり、カイルベルト54年盤より音は数段よろしい。
クリュイタンスのタンホイザーは個性的である。
かなりゆったりと美しく旋律を歌いながら始まる。
しかし、バッカナールの場面では、かなり強烈な響きとなるし熱い。
全般にテンポを微妙に揺らしながら、強弱も付けながら、単調に陥らない素晴らしい表現力でもって攻めまくる。
2幕の後半のタンホイザーの罪を請うエリーザベトの歌に始まる重唱などは、古い演奏にあるようにごちゃごちゃ混濁せず、見通しがよく、盛り上がりも清潔な。

3幕、エリーザベトを送る静かななシーンでは、そのしなやかさが印象的で、最終の場面では、テンポを絶妙に落とし、ジワジワと感動を盛り上げてくれる。
実にいいタンホイザーなのだ。
 全盛期のヴィントガッセンは、同年リングでもフル活躍しているから、そら恐ろしいタフネスぶりである。
そして、その気迫に満ちた野太い声は実に説得力に満ち引き込まれる。

FDのウォルフラムが素晴らしく声に華があり、一語一語に心がこもり、同情を歌で表現できている。
 クリュイタンスは次のヴィーラントのタンホイザーでも65年に指揮をしているが、そのときの音源は発売されていない。
クリュイタンスのバイロイトでの指揮は、このタンホイザーと、ローエングリン、マイスタージンガー、パルジファルで、いずれも聴くことができる。

⑤オットー・ゲルデス指揮 ベルリン・ドイツ・オペラ (1969)

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過去記事より~このレコードが出た時、新世界でぞっこんだったので「おっ、ケルテスじゃん」と思ったら「ケ」じゃなくて「ゲ」だった。

「ゲ」の方のゲルデスは、DGのプロデューサーとして、おもにカラヤンの録音に多く携わっていた人で、「リング」など多くのレコードにその名前がクレジットされている。
もともとは指揮者でもあったので、同時期に、ベルリンフィルを指揮して「新世界」やバンベルク響とヴォルフ、ベルリン・ドイツ・オペラとオテロ抜粋などを録音している。
余計なことはしていないし、音楽の良さも正直に伝わってくるからよしとしよう。
ただし面白みは少なめ、聴いていて、そこでこう、あーもっとこうして、という思いが捨てきれないのも事実。
最初から疲れたヴィントガッセンのタンホイザー。
ギンギンに威力漲る二役のニルソンに押されいて、「頼むから許して下され」的な、哀れさそう1幕。

このお疲れモードのヴィントガッセンのタンホイザー、3幕のローマ語りでは、多大な効果を発揮する。
さんざん辛酸を舐め、人生に疲れ切った男の苦しげな独白はあまりに堂に入りすぎていて同情すら誘う。

すっかり大人となったFDのいい人だけど、ウマすぎるウォルフラム、気品あふれるアダムのヘルマンをはじめ、端役にもウベンタール、ヒルテ、ソーティン、レンツなどの実力派をそろえた豪華なもので、歌の魅力ではタンホイザー諸盤に引けを取らない。

⑥オトマール・スウィトナー指揮 ベルリン国立歌劇場 (1982)

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当時は完全東側だったベルリンのシュターツカペレを長らく率いたお馴染みのスウィトナーは、N響への客演に合わせ、オペラの引っ越し公演にオケとの来演に、もう何度日本にきてくれたでしょうか。
85年には、日本でもタンホイザーを上演してくれて、NHKの放送も入って、そのときのエアチェック音源も大切にしてます。
こちらは本拠地でのライブ放送の音源で、音質も問題なくきれいなステレオ録音です。
自在さと、以外なまでの燃焼度の高さをみせるスウィトナーは、やはり劇場の人なのだと思わせます。
いつも言いますが1幕の最後が短縮版なので、期待が萎えてしまう恨みはありますが、全編にわたり、オペラを知り尽くした指揮者が全体を統率していて、すべてに一体感を感じる。
スウィトナーは快速テンポで、あの飄々とした指揮ぶりで、よどもなく音楽を進めますが、ぎっしりと音が凝縮していて密度は濃く、ここぞというときの迫力はなみなみでなはない。
 この音盤のありがたみは、あとなんたって、スパス・ヴェンコフで、その声の太さと力強さ、ノーブルな輝きとほの暗さ。
タンホイザーとトリスタンのためにあるような声です。
歌手のまとまりの良さも劇場でのライブである強み。
この時の映像がyotubeにもありますので、そちらも確認済みです。

⑦ベルナルト・ハイティンク指揮 バイエルン放送交響楽団 (1985)

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ハイテインク初のワーグナーは「タンホイザー」
ずっと連れ添ったコンセルトヘボウでなく、音楽監督の任にあったコヴェントガーデンでなく、ミュンヘンのオーケストラだった。
以前より常連だったが、この頃を境に、バイエルン放送響とはさらなる蜜月となり、定期的にコンサートに招かれ、レコーディングでも起用されるようになったオーケストラ。
魔笛とリング、ダフネと、あまりに素晴らしいレコーディングもなされた名コンビ。
そのイメージがある方ならば、聴かずともわかる理想のミュンヘンのワーグナーサウンドが、ここにある。
この中世のドイツの物語をベースにいた手堅いオペラ、ハイティンクとバイエルン放送は理想的なオーケストラサウンドでもって完璧に再現してる。
オーケストラとして完全無比の演奏であるけれど、そこに歌がありドラマがあるとなるとちょっと浅い。
ハイティンクの人の好さとか温厚さが、この頃ではまだ音楽に厳しさや、オペラに必須のドラマ性を再現しきれていない。
数年後のリングの充実とはまた違った「ハイティンクのワーグナー」は、ともかく美しく完璧です。
 大好きなルチア・ポップの清々しいエリーザベトに、ドイツの深い森を感じさせるマイヤーのヴェーヌスも素晴らしい。
しかし、ケーニヒのタンホイザーがオッサンにすぎる、これが一番の難点なハイティンク盤なのでした。

⑧ ダニエル・バレンボイム指揮 ベルリン国立歌劇場 (2001年)

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80年代以降、ワーグナーの手練れとなったバレンボイムは、その頃からトリスタンとパルジファル、リングといった後半の作品ばかりを指揮していて、前半のロマンティークオペラはあまり指揮してなかったはずだ。
ベルリン国立歌劇場を引き継いだ1992年から2023年までの長期にわたる活動のなかで、ワーグナーの全作品を取り上げたマエストロ。
私たちになじみのあったスウィトナーのタンホイザーから18年。
東から西へ、タンホイザーも自由の名のもとに、その音楽も刷新された感が、スウィトナーとバレンボイム、ふたつの演奏を聴いて感じることができる。
政治的な時代背景の変化と国の在り方の変化、東と西、その違いを音源で聴き分けるのは至難の技ですが、陰りの失せた、曇り空のないワアーグナーの音はここに感じます。
しかしですよ、一方でスウィトナーが巧ますして聴かせていたドイツの森や篤い宗教心のようなものはなく、完璧な音楽表現のなかに失われてしまった部分かと思う。
 ザイフェルトの覚醒的なタンホイザーがすばらしく、あのころに売り出し中だったイーグレンは脂肪分過多で歌がぼやけ気味。
でも他の歌手はめっぽうすばらしく、マイヤーさんに、ハンプソンの贅沢ウォルフラムなど。
録音がすばらしく、歌手とともに、めっぽう素晴らしい。

手持ちの音源は以上で、バイロイトでの記録はエアチェック済だから購入してない。
カラヤンの演奏記録、シノーポリのDG録音は見入手であります。
なんでドミンゴだよ・・という不満で聴く気になれないのであります。

さて次は、映像部門、エアチェック音源部門にまいります。

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2024年7月16日 (火)

ラヴェル ラ・ヴァルス アバド、小澤、メータ

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平塚の七夕まつり、今年は7月5日から7日までの開催で、極めて多くの人出となりました。

オオタニさんも登場。

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なんだかんでで、市内の園児たちの作品を集めた公園スペースが例年通りステキだった。

スポンサーのない、オーソドックスな純な飾りがいいんです。

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こちらはゴージャスな飾りで、まさにゴールドしてます。

ドルの価値失墜のあとは、やっぱり「金」でしょうかねぇ。

去年のこの時期にラヴェル、今年もラヴェルで、よりゴージャスに。

いまやご存命はひとりとなってしまいましたが、私がクラシック聴き始めのころの指揮者界は、若手3羽烏という言い方で注目されていた3人がいました。
メータが先頭を走り、小澤征爾が欧米を股にかけ、アバドがオペラを押さえ着実に地歩を固める・・・そんな状況の70年代初めでした。

3人の「ラ・ヴァルス」を聴いてしまおうという七夕企画。

2023年の七夕&高雅で感傷的なワルツ

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 ズビン・メータ指揮 ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

        (1970年 @UCLA ロイスホール LA)

メータが重量系のカラフルレパートリーでヒットを連発していた頃。
ここでも、デッカのあの当時のゴージャスサウンドが楽しめ、ワタクシのような世代には懐かしくも、郷愁にも似た感情を引き起こします。
現在では、ホールでそのトーンを活かしたライブ感あふれる自然な録音が常となりましたが、この時期のデッカ、ことにアメリカでの録音は、まさにレコードサウンドです。
メータの明快な音楽造りも分離のよい録音にはぴったりで、重いけれど明るい、切れはいいけれど、緻密な計算された優美さはある。
ということで、この時期ならではのメータの巧いラヴェル。
なんだかんでで、ロスフィル時代のメータがいちばん好きだな。

Ravel-ozawa

   小澤 征爾 指揮 ボストン交響楽団

     (1973.3 @ボストン・シンフォニーホール)

日本人の希望の星だった70年代からの小澤征爾。
こちらもボストンの指揮者になって早々、ベルリオーズ・シリーズでDGで大活躍。
次にきたのは、ラヴェルの作品で、この1枚を契機にラヴェルの生誕100年でオーケストラ曲全集を録音。
1枚目のボレロ、スペイン狂詩曲、ラ・ヴァルスは高校時代に発売された。
ともかく、小澤さんならではの、スマートでありつつしなやか、適度なスピード感と熱気。
カッコいいのひと言に尽きる演奏だといまでも思ってる。
しかし、発売時のレコ芸評は、某U氏から、うるさい、外面的などの酷評を受ける。
そんなことないよ、と若いワタクシは思ったものだし、新日フィルでのラヴェル100年で、高雅で感傷的なワルツと連続をて演奏されたコンサートを聴いたとき、まったく何言ってんだい、これこそ舞踏・ワルツの最高の姿じゃんかよ!と思ったものでした。
同じころの、ロンドン響とのザルツブルクライブもエアチェック音源で持ってますが、こちらは熱狂というプラス要素があり、最高です。

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        クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団

        (1981.@ロンドン)

なんだかんだ、全曲録音をしてしまったアバドのラヴェル。
その第1弾は、展覧会の絵とのカップリングの「ラ・ヴァルス」
メータのニューヨークフィルとの「ラ・ヴァルス」の再録音も同じく「展覧会の絵」とのカップリング。
ラヴェルの方向できらびやかに演奏してみせたメータの展覧会、それとは逆に、ムソルグスキー臭のするほの暗い展覧会をみせたのがアバド。
アバドのラ・ヴァルスは、緻密さと地中海の明晰さ、一方でほの暗い混沌さもたくみに表現している。
1983年のアバドLSOの来日公演で、この曲を聴いている。
しかし、当時の日記を読み返すと、自分の関心と感動の多くは後半に演奏されたマーラーの5番に割かれていて、ラヴェルに関しては、こて調べとか、10数分楽しく聴いた、オケがめちゃウマいとか、そんな風にしか書かれておらず、なにやってんだ当時のオマエ、といまになって思った次第。
スピードと細かなところまで歌うアバドの指揮に、ロンドン響はピタリとついていて、最後はレコーディングなのにかなりの熱量と、エッチェランドで、エキサイティングなエンディングをかもし出す演奏であります。

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2年前の七夕の頃に暗殺された安倍さん、そしてあってはならないことに、アメリカでトランプ前大統領が銃撃を受けた。

世界は狂ってしまった。
しかし、その多くの要因はアメリカにあると思う。
自由と民主主義をはきかえ、失ったアメリカにはもう夢はないのか。
そうではないアメリカの復活が今年の後半に見れるだろうか。
日本もそれと同じ命運をたどっている、救いはあるのか・・・・

Tanabata

平和を!
平安と平和ファーストであって欲しい。

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2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


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このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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