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2024年8月

2024年8月19日 (月)

ブリテン 戦争レクイエム

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今年もめぐってきた終戦の日。

79年目。

人間は、この年月、なにも反省もせずに口では平和を唱えながら、対立と憎しみの構図は増すばかり。

世界の各地は、都市化が進み、どんな都市にも高層ビルやマンションが建ち、豊かさを途上国でも甘受できるようになったが、どこの国でも都市と地方の格差は大きい。
youtubeで世界各国をめぐってバーチャルで楽しんでいるので、そんな認識が確信となっている。

そんな豊かさを世界が受け入れるようになった反面は、その豊かさが世界均一で作られたものであり、その国の独自の文化やアイデンティティと引き換えに実は得たものばかりなのではないかと思うようになった。
そう、グローバリズムの悪しき一面。
そうすることで、世界規模の企業家たち・投資家たちは、あらゆる国や体制から利益を得ることができるだろう。

そうしたグローバリストたちに世界が支配されているとわかった。

敗戦国日本は自力で復興しつつも、そうした流れのなかにあって、アメリカに従うことでの繁栄ではなかったのだろうか。。。。
出る杭は徹底的にアメリカにつぶされてきた。

価値観や、正と悪の転換。
これまでの思いや考えが一転しつつあると思うし、そうではない人も大多数だとも思うが、これだけ進んだ情報の渦に気が付かない方がかえって幸せなんだろう。

いまから63年前のブリテンの「戦争レクイエム」のときは、反戦・戦争反対は正しき流れで、世界大戦への反省がもっとも大きかった時節。
みずからが反戦の立場で従軍しなかったブリテンの良心となにかと清らかな思いの反映が、このレクイエム。
ヨーロッパのイギリスからのレクイエムであり、その国からしたら第二次世界大戦の当事者は、イギリスとアメリカとドイツだった。
あえて反論覚悟で申せば、それは戦勝国側としてのイギリス・アメリカの立場であり、ドイツを悪としてそれでも手をのばし友愛を示した戦争の一面に過ぎないと思うのだ。

敗戦国の自虐史観にあふれたドイツと日本。
そうした局面で、誰かがレクイエムを書いても欲しかった。
ブリテンがもっと長生きしてくれたならば、歴史の見直しも感じて、違うレクイエムを書いてくれたかもしれない。

存続をかけて日本が国をあげて戦争にむかっていったことは事実であろうが、無辜の民間人を大量に殺された日本という国は、戦争の最大の被害国だと思う。
これからでもいい、堂々と日本人のためのレクイエムがあってもいいと思うのです。

Britten-requiem

  ブリテン 戦争レクイエム

   S:ガリーナ・ヴィジネフスカヤ

   T:ピーター・ピアーズ

   Br:ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ

  ベンジャミン・ブリテン指揮 ロンドン交響楽団
                ロンドン交響合唱団

   (1963.1.3~10 @キングスウェイホール、ロンドン)

いまや歴史的な作者の自演の録音は、これもまたカルショーの手になるものだった。

数年ぶりに聴いたこの曲の原点ともいえる演奏。

昨今の多彩な演奏を毎年聴いてきたが、やはりここに聴かれる演奏の真実味とシリアスさは違う。
あまりにリアルすぎるし、録音の生々しさもいまだに迫真にあふれるものだ。

この自演の録音以降、ブリテンの戦争レクイエムは、指揮者で演奏者でもあった作者の専売特許から離れ、さまざまな指揮者、様々なオーケストラ、そしてさまざまな国々で演奏されるようになり、作品として完全に独立したと思います。

リアルステックなこのブリテンの自演盤のあと、それらの新しい演奏や録音を楽しむ喜びも生まれ、演奏を聴く方に視点が移り、この音楽も本来持つ訴求力は薄まったとも思う。

3人の歌手の確信をついたすさまじい歌唱も、その後の歌手たちのうまさとはまた違った思いをいだきました。

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これ以上、戦渦が広がりませんように。

今年の後半は、世界の指導者が多く変わることもあり、その前がほんとに心配です。

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2024年8月 7日 (水)

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」 ビシュコフ指揮 バイロイト2024

Wagner-bayreuth-24

画像はドイツのニュース記事から拝借してます。

バイロイトの夏、今年も7月25日に開幕。

新演出は「トリスタンとイゾルデ」

一昨年、昨年と「トリスタンとイゾルデ」は上演されたが、それはロラント・シュワヴによる新演出で、今回のものは、アイスランド出身のトルレイフル・オルン・アルナルソンという演出家による、これまた新演出。

2020年がコロナ禍により音楽祭中止で、そこで予定されていたリング新演出(シュヴァルツ演出・インキネン指揮予定)が2年延期となり、翌2022年の上演となった。
コロナでリング中心の新演出上演のサイクルが乱れ、荒れるだろうと予測された破天荒のリングの不満のハケ口のようになったのが、2年前の穏健なトリスタンだったと思う。
2年で交替となったからには、今回の新演出への期待はいやでも大きかったが・・・・

2026年には、これまでバイロイトで上演されたことのない初期3作のひとつ「リエンツィ」が上演されるが、ことしの音楽祭前には、文化・メディア担当大臣のクラウディア・ロートが、バイロイトをより多様で若々しいものにしなくてはならない、「ヘンデルとグレーテル」のような作品も上演されるべし、と発言して炎上。
たしかに、フンパーディンクはワーグナーの後継でもあったが、より多くの層の観客に愛されるべしとの思いからなのだろう。
遠く、東洋の果てから、バイロイトに憧れを抱いてきた私たちからすれば、そんなのやめてくれ!ってことです。
ちなみに件の大臣さんは、緑の党の系統といいますので、押してしるべし・・・

※以下、画像はバイエルン放送局のものを拝借してます。

Ich borgte das Bild von der Stelle vom BR, die Station ausstrahlt.

Ich lasse dich sofort einen Staat von Bayreuth vermitteln und danke dir jedes Jahr sehr.

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  ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

    トリスタン:アンドレアス・シャガー
    イゾルデ :カミラ・ニールント
    マルケ王 :ギュンター・クロイスベック
    クルヴェナール:オルフール・シグルダルソン
    ブランゲーネ :クリスタ・マイヤー
    メロート :ビルガー・ラデ
    牧童   :ダニエル・ジェンツ
    舵手   :ロウソン・アンダーソン
    若い水夫 :マシュー・ニューリン

  セミョン・ビシュコフ指揮 バイロイト祝祭管弦楽団
               バイロイト祝祭合唱団
      合唱指揮:エバーハルト・フリードリヒ

      演出:トルレイファー・オルン・アルナルソン
      装置:ヴィータウタス・ナルブタス
      衣装:シビル・ウォーラム

          (2024.7.25 @バイロイト)

バイエルン放送の生放送を録音し、すぐさまに視聴。
今年もあの素晴らしいバイロイトの木質のサウンドが聴ける喜び。
美しい弦が、左右に分かれて展開し、やがそれがうねりを呼び、熱気へと向かい、ピークに達したあとに静まってゆく、この前奏曲を堪能し、若い水夫のテノールソロが始まる。
トリスタンを聴くとき、まず最初にワクワクするところだ。

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イライラと動揺を隠せないイゾルデの第1声は、バイロイトでのイゾルデデビューとなる、ニールントだ。
年々、ドラマテックな役柄にレパートリーを広げてきたニールント。
今年はチューリヒで先行したイゾルデに、ブリュンヒルデ、そしてバイロイトでイゾルデで、私は大丈夫かなと危ぶんだが、彼女は決して無理はせず、ニールントならではの細やかな歌唱で決して絶叫することのない、優美ともいえるイゾルデを歌ったと思う。
確かに声量という点では不満が残るが、いつものシュトラウスを歌うニールントらしい、やや硬質の声は魅力的だと思いました。
思えば2007年にニールントのマルシャリンを観劇して17年、年月とともに大歌手となったものです。

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相方のトリスタンは、もうこの役柄では定評あり、ジークフリートと並んでトリスタンは、シャガーがいないと成り立たないくらいのものになりました。
演技も声も、やや楽天的になる傾向のあったシャガーは、ここではそんな雰囲気は影をひそめて、極めて厳しいストイックな歌唱に感じられ、映像でもそんな姿を認めることができたのは大きな収穫。
3幕の長大なモノローグでは、それこそ声が枯れんばかりの劇唱で、ある意味聴いてて手に汗握るくらいでした。
終演後、いちばん大きな拍手とブラボーを受けていたのもわかります。

2幕でなぜかブーイングを浴びてしまったグロイスベック。
素晴らしいツェッペンフェルトに聴き慣れてしまったのか、少しクセのあるグロイスベックがお気に召さなかったのか。
はたまた、ウォータンを降りてしまったことへの反発か、バイロイトの聴衆は厳しいが、わたしは好意的に聴いた。

ブランゲーネのクリスタ・マイヤーがとても素晴らしく、主役ふたりに次ぐ喝采をあびていた。
昨年までメロートだったシグルダルソンのクルヴェナールは、声の質が軽すぎるように感じ、サンタクロースみたいなもっさりした風貌もトリスタンの機敏な朋友には見えにくかった。

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総じて歌手は見事で、その歌手たちがきっと歌いやすかったであろう、そして情報少なめの舞台を補完するような雄弁かつ説得あるオーケストラを率いたのがビシュコフ。
概してテンポは遅めだったが、その遅さはまったく感じず、豊かなダイナミズムは、繊細なピアノから強いフォルテまで、行く段階ものレベルを備えていて、ときには歌手に寄り添い、歌手たちを燃え立たせ、もしかしたら退屈な舞台を鼓舞するよな指揮ぶりだった。
ロシア人だったビシュコフは、カラヤンに注目され楽壇にデビューしたが、華やかなキャリアを歩まず、案外と地味な存在であり続けた。
そのビシュコフがチェコフィルで成功し、オペラもウィーンやドレスデン、パリで着実な歩みをみせていて、巨匠の第一候補かと思います。
 私は2008年のパリ・オペラ座の来日公演で、ビシュコフ指揮でおなじトリスタンを観劇しました。
パリのオーケストラの音色もあり、肌ざわりのいい粘らない、それでいてニュアンスが極めて豊かな音を引き出していることも素晴らしかった。
それと木管や特にホルンに日頃聞きなれないフレーズが強調されたりと、とてもユニークかつ新鮮。
ビシュコフのトリスタンの音源としては、2006年ウィーン国立歌劇場(マイヤー、ウィンヴェルイ)、2013年プロムス(ウルマーナ、スミス)の2種を聴いているが、タイムは今回のものとほぼ同じであったことも興味深い。
以上、総じて歌手たちと指揮に関してはほぼ万全だし、新鮮なイゾルデが聴けたことも大きい。

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アイスランド出身のアルナルソンは、もともとは俳優として劇場とのかかわりをスタートし、演出家としてはウィスバーデンの劇場で活躍をしているようだが、私は初めて耳にする名前。
北欧的なものを意識して演出をしてきたようで、劇としての「ペールギュント」で大成功を納めたりしていて、「パルジファル」も手掛けているようだ。

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今回のトリスタン演出、工夫して映像で見た私の印象は、よけいなことはしてないかわりに、可も不可もない無難なものでありつつ、装置や衣装へのこだわりをみせたものの、それらがトータルとして雑多でごちゃごちゃした印象を与え、美的には好ましくないものに終始した。
演出をしたという解釈としては、目新しいところはあったが、それはトリスタンのあるべき本質をあえて外してしまったものに思われた。

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トリスタンとイゾルデが、禁断の関係を結んでしまうきっかけが、ブランゲーネが忖度した媚薬。
しかし、この演出では、イゾルデが手にした薬の瓶は、媚薬でなく毒薬。
1幕でトリスタンはイゾルデから瓶を奪い取るが、それを飲むことなく、二人は初めて見つめ合い、なんだ、もとから好きだったんだようという楽天的な抱擁を交わす。

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2幕で、メロートに率いられたマルケ王が乱入するが、トリスタンはイゾルデに着いてくるかい?と故郷のことを歌いつつ、毒瓶を飲んでしまう。
メロートの剣に飛び込むのでなく、自らが独薬を飲む。
さらに、その瓶を奪い飲もうとしたイゾルデからは、メロートが瓶を取り上げて放り投げる。
メロートは嫌なヤツでもなく、トリスタンを愛するおホモだちのように見えたがいかに・・・
3幕では、死に際に飛び込んできたイゾルデは、生きてください、どうして?何で?と歌うモノローグのところで、毒瓶を飲み干してしまう。
トリスタンの死ぬ、その横で、イゾルデは死に際の歌のように、「愛の死」を歌ってこと切れる・・・

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このように媚薬はなく、死を覚悟した毒薬が、主役の二人を死に導くというストーリー解釈だった。

これには怒る聴衆がいてもおかしくない。

ブラボー飛び交うカーテンコールの最後に出てきた演出チームには、今年も容赦なくブーイングが浴びせられた。
シュヴァルツの2年前のリングほどではないが。
しかし、ブーに恐れをなしたアルナルソンは、チームのほかの4人を残し、カーテンの裏に駆け込み、歌手たちを招きだそうとした。
歌手たちは、そんな準備も出来てないので、しばしの間、演出の張本人の欠けた、装置や衣装、照明の担当たちがカーテンの前で立ち尽くすこととなった。
ブーで自信消失となったアルナルソンのこの奇態はまずかったな・・・
堂々としたより若かったシュヴァルツ君の方が立派だったと思うよ。

そもそも、そんなにビクビクすることはない、独自の解釈だったと思う。

この楽劇で死んでしまうのは、この演出では「トリスタンとイゾルデ」だけだった。
メロートもクルヴェナールも、兵士たちも、みんな戦わず、死ぬこともなく、ふたりの恋人の死を、ブランゲーネやマルケとともに見つめ立ち会うのだった。
歌っている内容との矛盾にあふれてはいるが、ふたりの死のみをクローズアップした演出だろう。
こうすることで、登場人物たちは、静的で動きが少なく、背景で見つめ立ち会う存在のようにもなり、マルケも悩みつつも立ち尽くし、また座りつくす存在となっていて、全体の印象を単調にしてしまう結果ともなったと思う。

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その単調さに比して、舞台装置の雄弁さと雑多さには苦言を呈したい。
1幕で結ばれた二人が船に空いた穴から下をのぞき込んで終了したが、2幕のふたりの逢瀬は、きっとその船の船底。
そこには古今東西の美術品やらイゾルデの幼少時代の写真やら、あきれるほどによくできたリアル品々がびっしり並んでいる。
マルケはトレジャーハンターなのか、世界からお宝を収集するオタクなのか、イゾルデもそんな収集品のひとつだったのだろうか。
3幕は、トリスタンの故郷のコーンウォールとは思えず、2幕のままにその場が朽ちただけに見えた。
あまりに小道具が多すぎて、気分がそがれることこのうえない。
死に体のトリスタンの元に駆けつけるイゾルデは、ものが多すぎる、こうしたごちゃごちゃした道具を乗り越えて、そろりそろりとやってくるので、切迫感ゼロだ。

こんな風に変なとこもあげればキリがないが、この演出家の意図は、今後よく見て考えてみたいし、海外評なんかも読んでみたいと思う。

演奏は全然OKで素晴らしく、演出は消化不良でイマイチ、でも余計なことしてないので頑張りました!
ということに今年はさせていただきました。

毎年毎年、勝手に偉そうなこと書いててすいません。
これもまたバイロイト、ワーグナーの楽しみなのですから。

今年は、あと「オランダ人」「タンホイザー」「リング」「パルジファル」が上演されている。
残念ながら「パルジファル」の放送がないが、ほかの作品は順次聴いております。
また書くかもしてません。

来年は、ガッティが新演出「マイスタージンガー」、ティーレマンが再演の「ローエングリン」が追加されるので、タンホイザーとオランダ人はお休みか。
そして早くも次の28年の「リング」の指揮に、カサドの名前があがっている。

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手水舎にあった涼しげな、「ほおずき」。

夏本番🌻

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