R・シュトラウス 「影のない女」 二期会公演
2022年に予定されながら、流行り病の影響で流れた二期会の「影のない女」
クラウドファンディングや関係者の尽力の積み重ねで、ついに上演のはこびに。
その全オペラを楽しみ、愛するわたくし、シュトラウスの初オペラ体験がこの「影のない女」でした。
忘れもしない、ハンブルク国立歌劇場の来日公演。
1984年の5月7日、日本初演の初日から3日後で、このオペラはその2回のみの上演でした。
場所は同じく東京文化会館で、大切にしているチケットを確認したら、1階10列24番。
今回の二期会上演の席は、よく見たらその席のほぼすぐ近く。
40年を経過し、ワタクシも歳を経ましたが、あのときの感動はいまでも鮮やかに覚えてます。
ドホナーニの指揮、皇后:リザネック、皇帝:R・シェンク、乳母:デルネッシュ、バラクの妻:G・ジョーンズ、バラク:ネンドヴィヒ、、こんなキラ星のようなキャストで、その素晴らしい声の饗宴に痺れまくり。
なかでも3幕で、きらめく泉が皇后の顔にあたり、その頬が光るなか、「Ich will nicht・・・」と苦しみつつも発するリザネックに背筋がゾクゾクするような感動を覚えました。
このオペラのひとつの聴きどころ・見どころであるそのシーンは、今回どうなるのか・・・
R・シュトラウス 「影のない女」
皇帝 :伊達 達人
皇后 :冨平 安希子
乳母 :藤井 麻美
伝令使:友清 崇
〃 :高田 智士
〃 :宮城島 康
若い男:高柳 圭
鷹の声:宮地 江奈
バラク:大沼 徹
バラクの妻:板波 利加
バラクの兄弟:児玉 和弘
〃 岩田 健示
〃 水島 正樹
アレホ・ペレス指揮 東京交響楽団
二期会合唱団
演出:ペーター・コンヴィチュニー
舞台美術:ヨハネス・ライアカー
照明:グゥイド・ペツォルト
ドラマトゥルク:ベッティーナ・バルツ
(2024.10.26 @東京文化会館)
コンヴィチュニーだから、普通の演出じゃなくて、いろんな仕掛けをかましてくるだろうなと思っていたし、これまで観劇してきたコンヴィチュニー演出は4作あり、正直いずれも楽しんだし、面白かった。
また20年前ぐらい、まだ読み替え演出に嫌悪感のあった自分に、その楽しみを植え付けてくれたのもコンヴィチュニー演出なのだ。
しかし、今回はどうしたものだろう。
できるだけ情報をシャットアウトして、公演に挑むのが常であるが、二期会のSNSや出演者たちの「X」が目に入るようになり、気になって公式HPにアクセスして確認してみた。
カットと筋立ての読み替え、場の入替えなどがあらかじめ、あらすじ概要とともに書かれていた。
それを読んだとき、カットがあることに正直がっかりしたし、筋の内容も読んで暗澹たる気分になった。
でも実際の舞台に接すれば、コンヴィチュニー演出のことだ、面白いし納得感もあるに違いないという思いで上野に向かった。
今回のコンヴィチュニーの「影のない女」は、これまで好意的だった私としては、「No」と言っておきたい。
読み替え自体はそれは問題ではなく、でも今回のは好きじゃなかったけれど、やはりシュトラウス&ホフマンスタールの「原作」と「音楽」にあまりに手を入れすぎで、それはもう私には冒涜クラスのものに思われた。
「原作」の最終場面は正直言って取ってつけたようなエンディングで、アリアドネにもそんな風に感じることもあるが、長いオペラをずっと聴いてきて訪れる予定調和の平和は、なによりも安心感や安らぎを与えるのだ。
さらに、私がいつもこのオペラでこの皇后はどう歌うんだろうと注目する「否定」の場面。
あそこを冨平さんの皇后で聴きたかったし、観たかった。
そんな風な楽しみを奪われたと思う観客は多かったのではないだろうか。
忘れないうちに、どこをカットされたか、どうつながれたかを自分でまとめて、こんなの作りました。
クリックすると別画面で拡大表示します。
間違っていたらすいません。
背景は、上野駅で見かけたパンダの絵です。
たぶん夫婦のパンダですwww
こうなったらユーモアで封じるしかないか。
「影」は北欧伝説によると「多産」の象徴、すなわち「子」を意味し、霊魂の影じたいが肉体とも結びつくとされ、影を売る行為は、魂を売り渡してしまうという意味にも通じる。(ハンブルクオペラのときのパンフから)。
しかし、そんな高尚なところはみじんもなく、二組の夫婦の子をめぐる思いと抗争のみがここにあり。
夫婦は相手を入れ替えたらめでたく子ができてしまった。
子ができなかったのは、夫婦どっちが悪い?
「種のない男」「豊かな畑のない女」どっちだ・・・いやどっちでもなく、なんのことはない、相手を変えたらできちゃった。
こんなインモラルなのありか、会場には中学生ぐらいの女子もいたぞ。
この書き換え構想を担ったドラマトゥルクのベッティーナ・バルツの書いた前置き、二期会HPでも読めます。
「このオペラは現実の物語ではなく、象徴的な出来事を描いている。筋の通った物語ではなく、架空の二層の世界で演じられる悪夢のようなエピソードであり、そのルールはどこにも制定されておらず、理解不能である。人物、場所、ルールは、夢の中のように流動的で変化する。
このプロダクションでは、妻が夫に隷属することを賛美し、美化するような筋書きのない終幕のフィナーレを排除し、代わりに元の第2幕のシーンを最後に置く皮肉な場面で終わる。」
まさにこの前置き通りの想定でオペラは進行した。
常套的なカットをいれても3時間の作品が、今回は2時間40分に短縮。
前の一覧にある通り、最終場面などはまったく演奏されず、幕という枠も排除し、場をばらばらにして交互にしたりして入れ替えてしまった。
夫婦を入れ違えてめでたく子ができたのもつかの間、暴力的な死の横溢するシーンで幕となった。
ちなみに、この演出でのエンディングシーンとなった2幕のラストは、わたくしは最初に影のない女を聴き馴染んだころ、めちゃくちゃ気にいって、初めて聴きエアチェックした75年のベームのザルツブルク上演を何度も聴いて、この激しくもダイナミックなシーンを指揮真似しながら興奮して楽しんだものだ。
しかし、今回の上演では、わたくしは意識することなく、このエンディングで幕が降りた瞬間「ブー」と叫んでいた。
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前段のバルツさんの書いたこの書き換えの意図を読んでみた。
正直、なにいってやがんだ・・という思いです。
「影のない女」の内容を家父長思考賛美、女性蔑視と断じ、「読み替えなしという選択肢はありえなかった。今日のわれわれが、道徳的に納得できる上演は読み替えによってよってのみ可能となる」としている。
「演出する私たちは、当時の男女の関係や問題を反映している芸術的な内容の部分を明らかにするために、このように手を加えることが必要だと考えている。この作品がなぜ、そんな手入れを必要とするほど、救いがたい出来損ないになってしまったかを検討してみたい」と書いている。
なぜに出来損ないなのか?
ホフマンスタールの台本が1911~19年にわたって何度も書き換えられ、「意味不明な童話的要素に満ちた悪趣味な混ぜ物になった。」
この作品は「子を産めない、あるいは産みたくないすべての女を。役立たずで下等な人間のくずと貶めるのが狙いだ」とホフマンスタールを断じている。
被害者はここに登場する作者さえ同情を寄せない女性の3人、加害者(男×2)は文字通り賛美される。
さらにバラクの弟たち、いまでは禁句となった障碍ある3人でさえ、男性であることからバラクの妻を蔑視していると。
こんな風に長々と書かれていて、しまいに、シュトラウスは「音楽と俳優のバランス」と言ったとおり、「歌手でなく俳優」と意識していた。
音楽ばかりでなく「演劇」もみたかったのだとシュトラウスの音楽をいじくったことの弁明をしているように感じた。
好意的にこの解釈を理解した人々からは、子供を産んでも断ざれてしまう女性ふたり、そのエンディングは、いまだに変わらない女性の立ち位置に対する猛烈な皮肉だったと評するだろう。
まあこういった議論がでて、賛否両論を呼ぶこと自体がコンヴィチュニー演出の意図でもあろう。
しかし、今回は、コンヴィチュニーがこのバルツ氏の書き換えた台本に乗ってしまったことは失敗だったと思う。
ここは日本だよ、ドイツじゃないし、男女は大昔から平等だし、ジェンダー指数なんて表面的なウソっぱちだい!
もう一回、この素晴らしいキャストとオケで、ちゃんとした演出で、演奏会形式でもいいからやり直して欲しい。
バラクの日本語のアドリブセリフ「ちゃんと台本通りやろうよ」だよう。
こんなところに不平等を見つけ出し、問題の顕在化をしてみせて、結果としてシュトラウスの素晴らしい音楽の一部を失くしてしまい、それを楽しみにしていた聴き手の心も消沈させてしまった。
始終、日本で上演されていて何度も接するオペラならまだしも、10年に1度クラスの上演機会のオペラで、これをやっちゃオシマイだよという気分です。
繰り返しますが読み替え演出は、わたしはぜんぜんOKだし、今回のピストルドンパチ、立ちんぼ、性描写などもがっかりはしても否定はしません。
舞台の詳しい様子は、今後書く気になったら記憶のある限り補足します。
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出演者の皆様を讃える大きな拍手とブラボー。
幕が降りた瞬間のブーのみで、わたくしは盛大な拍手をいたしました。
演出陣が出てきたらかましてやろうと待ってましたが出て来ず残念でした・・・・
こちらの歌手たちの皆さんについては、賛美しても尽くせない素晴らしさでした。
まず、皇后と乳母のふたり。
冨平さんはエンヒェンもルルもよかったが、今回は、あの演出でありながら、完全に役柄に没頭しての歌と演技。
その歌は涼やかな高音域が安定して美しかったし、音域の広い役柄なので、低い方の声にも哀しみが宿るような神々しさもありました。
二ールントの歌にもにたその歌唱、ドイツ語の発声も素敵でありました。
皇后との声の対比で万全だったのが乳母の藤井さん、明瞭ではっきりしたよく通る声で、一語一語がよく聴こえたし、ユーモラスな演技もその歌とともに印象的。
バラクの妻役の板波さんの力ある声も際立っていて、バラクの大沼さんとの夫婦漫才のようなやり取りも楽しかったです。
その大沼さんのバラクの人の好さそうな声質の暖かなバリトンも実によかった。
かなフィルのサロメでのヨカナーンは歌う位置で損をしたイメージがあったけれど、背中でも演技するステキな、(うらやましい)役柄でしたねぇ。
皇帝の伊達さんは、このヒロイックな役柄には軽すぎ・きれいごとすぎるように感じた。
確かに美声でクセのない声は素晴らしいが、今回の演出でのダーティに過ぎる存在もマイナスになってしまったのかもですが、ちょっと残念。
それにしても、なんであんな悪いヤツに仕立ててしまったんだろ・・・・
伝令を歌った、前のコンヴィチュニー・サロメでヨカナーン役の友清さんを見出したのもうれしかった。
あと登場場面の多かった、まるきり鷹じゃない、可愛い夜鷹(?)となった宮地さんもリリカルなお声がよかったです。
ペレスの指揮する東京交響楽団は、この日ピットでシュトラウスの音楽の神髄を、クソみたいな演出にもかかわらずしっかり聴かせてくれた感謝すべき存在だと思うし、大々絶賛されていい。
ノット監督のもと、シュトラウスオペラを順次演奏してきている経験値や近世の音楽の演奏履歴などを経て、どんな大音響でも混濁せずに聴かせてしまうオケ。
さらに各奏者たちの能動的な演奏姿勢が有機的なサウンドを産み出すというシュトラウスにとってなくてはならない能力も兼ね備える。
ヴァイオリンとチェロ、ふたりのソロも最高でした。
アルゼンチン出身のオペラ指揮者ペレス氏は、魔弾の射手に次いで2度目ですが、だれることのないスピード感あるテンポ設定と、抒情的な場面では美しく各パートを際立たせるような繊細な音楽造りもありました。
良い指揮者です。
もやもやする。
ジェイムズ・キングの皇帝を聴き、あの嫌なヤツとなった姿の皇帝をリセットし、聴けなかった皇后の3幕をリザネックとニールントで補完する日曜でした。
最後にもう一言、入りはよくなかったけれど、怒りつつも楽しんだのも事実ですし、二期会さんには、今後も攻めのプロダクションをぜひともお願いします。
追記)
公演前に何種類も聴いた「影のない女」のオーケストラ編幻想曲をあらためて聴いた。
20数分の管弦楽曲ですが、ここでの最後は、オペラと同じく3幕の二組夫婦によるシーンで静かに終わっています。
この曲は、シュトラウス晩年の1846年に、作者自らが選んで編曲した作品です。
シュトラウス晩年の思いも宿っているのではないでしょうか。。。
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