ディーリアス 人生のミサ エルダー指揮
今年の秋は夏との境目がないように感じられ、秋らしい日、夏の終わりなどもあまり感じないです。
コスモスや彼岸花といった季節を感じさせる花々も今年は不調で、いつも見に行く場所もあまり咲いてなかったりで・・・
やはり季節のメリハリがなくなってきてます。
気候変動や温暖化、といった言葉でくくるのはあまり好きではないです。
こうした分析をするのは、いまを生きる、それこそ100~200年単位の人類の考えや思いにすぎず、地球と宇宙はもっとその何億倍の単位で活動しているのだから、安易に気候変動でひとくくりにするのもどうかと思う。
人間は自然の前には無力だし、人間の繁栄のために自然を犠牲にして自然エネルギーなんぞというものを推し進めるのもどうかと思う。
自然を愛した、そして宗教とは無縁の感性の作曲家。ディーリアス(1862~1934)の大作を。
ディーリアスは、今年は没後90年となりました。
ディーリアス 人生のミサ
S:ジェンマ・サマーフィールド
A:クラウディア・ハックル
T:ブロウ・マグネス・トーデネス
Br:ロデリック・ウィリアムス
サー・マーク・エルダー指揮
ベルゲン・フィルハーモニー管弦楽団
ベルゲン・フィルハーモニー合唱団
エドヴァルド・グリーグ・コール
コレギウム・ムジクム
(2022.9.26~29 @グリーグホール ベルゲン)
通算3度目の「人生のミサ」の記事となります。
最初はヒコックス盤の記事、次はビーチャム、デル・マー、グローヴス、さらに同じくヒコックスも取り上げあとヒル盤を残し、入手可能な音盤4種をレビューした記事でした。
そして今回は、この曲の最新のレコーディング、マーク・エルダー盤を入手しました。
予約して入荷待ちをしていたが、遅れに遅れて、鶴首状態でたしか5月の連休以降に届いた。
しかし、なんだかんだで聴いたのは夏が終わる頃になってしまった。
その間、指揮者のマーク・エルダーはPromsで、長年の手兵ハレ管弦楽団と最後の出演をマーラーで果たしてました。
イギリスの名匠となったマーク・エルダーは、2000年から2024年にわたって、ハレ管弦楽団の首席指揮者を務め、オケとまさに一体化した名コンビとなってました。
数々の英国音楽のレコーディングを通じ、バルビローリによって育まれた歴史あるオーケストラの指揮者を77歳にして降りることは、私にはとても残念なことでした。
ちなみに、次のハレ管の指揮者はカーチュン・ウォンです・・・
新しい風は必要なれどねぇ。
マーク・エルダーは、ハレ管を降りたあと、ノルウェーのベルゲン・フィルの首席客演指揮者になっていて、このディーリアスもハレでなく、ベルゲンでの演奏会と同時の録音となったようだ。
高弦の美しさ、しなやかさ、さらには重厚な低音域も北欧のオーケストラならではで、ややデッドな録音ながら、オーケストラの持ち味とディーリアスの音楽とのマッチングのよさも、ここに聴いてとれます。
ドイツで知り合った先輩グリーグ(1843~1907)を敬愛し、そのグリーグからは音楽の才能を高く評価され、実業家として跡継ぎにさせたかった父親を説得したのもグリーグだった。
そしてノルウェーの自然や風物を生涯愛したディーリアスは、そのノルウェーの海やフィヨルド、山々に感化されたかのような音楽を残したわけです。
グリーグの出身地であり、その指揮台にも立ったオーケストラ、ベルゲン・フィルほどディーリアスに相応しいオーケストラは、イギリスのオケを除いては随一の存在かもしれません。
少し年齢が上の、アンドリュー・デイヴィスがヒコックスやハンドレー、トムソン亡きあと、イギリス音楽の伝道師としての存在を一身に担ってましたが、そのデイヴィスは今年、あまりにも無念の死を迎えてしまった・・・
デイヴィスもベルゲンフィルと素敵なディーリアスを録音しましたが、まさにその跡を継ぐかのような、エルダーの存在です。
それからエルダーは、ほんとは根っからのオペラ指揮者だと思います。
エドワード・ダウンズの弟子でもあり、シドニーのオペラハウス、その後はイングリッシュ・ナショナル・オペラを長く率いて、ワーグナーからヴェルディ、ベルカントオペラやフランスオペラの数々もそのレパートリーにしているくらいです。
私は忘れもしないのは、1981年にバイロイトに登場し、のちにシュタインの指揮によるものが映像化された「マイスタージンガー」のプリミエを指揮したこと。
当時、その名も知らないイギリスの指揮者が新演出上演に起用されたことに驚き、エアチェックも喜々として実行したものですが、そのテープは消失してしまい、どんな演奏だったかは記憶の彼方であります。
エルダーは、初年のみでそのあとは、シュタインに交代となってしまったことも、エルダーの後年の活躍を見るにつけ、残念なことでした。
規模の大きな歌を伴った作品を、うまくまとめあげる才能は、まさにオペラ指揮者エルダーの力量で、この長大さ作品、しかも旋律も少なめでまさに感覚的なおんふぁくでもあるディーリアスの大作をわかりやすく、各部の対照も鮮やかにして聴かせてくれます。
大きくシャウトするような合唱を伴ったフォルテから、繊細で耳を澄まさなかれば聴き逃してしまうようなオーケストラの細部まで、いずれもくっきりと、しっかりと、そして美しくあるように響きます。
ソロや合唱とのバランスも見事なものでした。
いまや英国ものでは一番の存在、R・ウィリアムスの明晰で暖かな歌唱がすばらしい。
ノルウェーのテノールトーデネスのイギリスのテノールにも通じる繊細さと明晰があり、澄んだ声のソプラノ、深みのあるメゾもともによろしい。
「人生のミサ」にまた素晴らしい名演が生まれたことがうれしい。
ベルゲンフィルのHPで、この演奏のライブ動画が全編見れます。
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以下はくり返しとなりますが、過去の記事を大きく修正して引用。
4人の独唱、2部合唱を伴なう100分あまりの大作。
ディーリアスは、世紀末に生きた人だが、英国に生まれたから典型的な英国作曲家と思いがちだが、両親は英国帰化の純粋ドイツ人で、実業家の父のため、フレデリックもアメリカ、そして音楽を志すために、ドイツ、フランスさらには、その風物を愛するがゆえに前述のとおりノルウェーなどとも関係が深く、コスモポリタンな作曲家だった。
その音楽の根幹には、「自然」と「人間」のみが扱われ、宗教とは一切無縁。
無神論者だったのである。
この作品も、「ミサ」と題されながらも、その素材は、ニーチェの「ツァラトゥストラ」。
アールヌーヴォ全盛のパリで有名な画家や作家たちと、放蕩生活をしている頃に「ツァラトゥストラ」に出会い、愛する伴侶となったイェルカ・ローゼンとともに、34歳のディーリアスはその「超人」と「永却回帰」の思想に心酔してしまった。
同じくして、R・シュトラウスがかの有名な交響詩を発表し大成功を収め、ディーリアスもそれを聴き、自分ならもっとこう書きたい・・・、と思った。
1896年のことである。
その後ディーリアスは、ツァラトゥストラを原詩とした「夜の歌」を1898年に作曲。
ドイツにおけるディーリアスの応援団であり、その音楽をドイツに広めた指揮者フィリッツ・カッシーラーが、ディーリアスのために、「ツァラトゥストラ」からドイツ語で原詩を作成し、そのドイツ語にそのまま作曲をしたディーリアス。
作品の完成は1905年で、全曲の初演は1909年、ビーチャムの指揮、その初録音もビーチャムによる。
初演の前、2部だけがミュンヘンで演奏されており、そのときに、もしかしたら前回取り上げたハウゼッガーが聴いていたかもしれない。
そして、カッシーラーはビーチャムにディーリアスの音楽を聴かせたことで、ビーチャムもディーリアスの使途となったといいます。
このドイツ語の抜粋版のテキストに付けた音楽の構成は、2部全11曲。
合唱の咆哮こそいくつかあるものの、ツァラトゥストラを歌うバリトン独唱を中心とした独唱と合唱の親密な対話のような静やかな音楽が大半を占める。
日頃親しんだディーリアスの世界がしっかりと息づいていて、大作にひるむ間もなく、すっかり心は解放され、打ち解けてしまう。
第1部
①「祈りの意志への呼びかけ」 the power of the human will
②「笑いの歌」 スケルツォ 万人に対して笑いと踊りに身をゆだねよ!
③「人生の歌」 人生がツァラトストラの前で踊る Now for a dance
④「謎」 ツァラトゥストラの悩みと不安
⑤「夜の歌」 不気味な夜の雰囲気 満たされない愛
第2部
①「山上にて」 静寂の山上でひとり思索にふける 谷間に響くホルン
ついに人間の真昼時は近い、エネルギーに満ちた合唱
②「竪琴の歌」 壮年期の歐歌!
人生に喜びの意味を悟る
③「舞踏歌」 黄昏時、森の中をさまよう
牧場で乙女たちが踊り、一緒になり踊り疲れて夜となる
④「牧場の真昼に」 人生の真昼時に達したツァラトゥストラ
孤独を愛し、幸せに酔っている
木陰で、羊飼いの笛にまどろむ
⑤「歓喜の歌」 人生の黄昏時
過ぎし日を振りかえり人間の無関心さを嘆く
<喜びは、なお心の悲しみよりも深い>
⑥「喜びへの感謝の歌」
真夜中の鐘の意味するもの、喜びの歌、
永遠なる喜びを高らかに歌う!
(本概略は一部、かつてのレコ芸の三浦先生の記事を参照しました)
「祈りの意志への呼びかけ」での冒頭のシャウトする合唱は強烈
だがしかし、安心してください、すぐに美しいディーリアスの世界が展開。
「笑いの歌」では軽妙な、まさにスケルツォ的な章でバリトンの歌が楽しい
「人生の歌」、ソロがバリトンを中心に春の喜びを歌う。
そこに絡む妖精のような女声合唱のLaLaLaの楽しくも愛らしい踊りの歌
章の最後に歌われるアルトと、マーラーの3番と同じ歌詞の合唱を挟んでのソプラノのソロは、沈みゆく美しさが沁みる
「謎」ではバリトンが自分に問いかける、自分とは・・・男性合唱も加わり、謎を残しつつ不可思議なままに終わる
「夜の歌」における夜の時の止まってしまったかのような音楽はディーリアスならでは。
ここでも合唱とバリトンが歌い継ぐが、静的な雰囲気、感覚を呼び覚ますような遠くで鳴る音楽が、まさにディーリアス。
「山上にて」の序奏は茫洋とした雰囲気にこだまする、ホルンはとても素晴らしく絵画的でもある。
続く活気あふれる壮大な合唱とバリトン以外のソロが真昼を謳歌するように歌う。
「竪琴の歌」はバリトンのソロで、静かな語り口につきる、夜半に聴くと実にじみじみする。
「舞踏歌」では、オーケストラの前奏ともいえる森の情景が美しい
乙女たちの踊りは、女声無歌詞の合唱の軽やかさが時に笑いを伴い涼やかななものだ
バリトンはやめないでと恐れた女性たちに優しく歌いかける(そこが邪なアルベリヒと違いますな)
ディーリアスのバリトンを伴った数々の作品にも通じます。
ハープのグリッサンドがここでは効果的だし、女性たちもまた楽しく応じます。
「牧場の昼に」この作品の最美の章かと思う
羊飼いの笛の音は、オーボエとコールアングレで奏され、涙がでるほどに切なく悲しい。
この場面を聴いて心動かされない人がいるだろうか!
まどろむツァラトゥストラの心中は、悩みと孤独・・・・。
テノールが物憂い気分で優しく歌い、バリトンは覚醒しようとするが、他の独唱ソロたちに優しく戒められる
「歓喜の歌」の合唱とそのオーケストラ伴奏、ここでは第1部の旋律が回顧され、極めて感動的で徐々にエンディングに向けて準備も整う。
休みなく入る最後の「喜びへの感謝の歌」
低弦が豊かに響き、そこにクライマックスに向かうかのような静かなステージが準備されたのを感じる。
バリトンは呼びかける、時は来た、来るんだ一緒に夜へと歩もうと・・、合唱もそれに応じる。
最後に4人の独唱者が高らかに喜びを歌い上げ、合唱は壮大かつ高みに登りつめる。
やがて音楽は静かになっていって胸に染み込むように終わる。
エルガーの「ゲロンティアスの夢」(1900)、マーラー「千人」(1906)、シェーンベルクの「グレの歌」(1911)とともに、わたしの好む、あの世紀末の時代の大好きな声楽を伴った一連の名作のひとつと思います。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」を学生時代に文庫版で買って読んだことがあり、前もこの曲を聴く際に引っ張り出して照合してみたが、あのツァラトゥストラの文言をあまり意識することなく、ディーリアスの美しく儚い音楽のみに集中した方がよいかもです。
というか凡人のワタクシにはわかりませぬゆえ・・・
畑中良輔さんの批評で読んだこと。
「人生のミサ」の人生は「生ける命」のような意味で、いわゆる「人生」という人の生の完結論的な意味ではないと。
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