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2024年10月14日 (月)

ハウゼッガー 自然交響曲 ラシライネン指揮

Oyama

少し前、春先きの丹沢連峰のひとつ、大山。

標高は1,252mで、オオヤマと読みます。

一方、西の鳥取の大山は、ダイセンと読んで標高は、1.729m。

どちらも容が美しく、そして信仰の対象ともなって霊験もあらたか。

Hadano

大山から西に目を転じると、丹沢の山々が連なり、盆地の都市、秦野市があります。

名水百選にも選ばれ、水が美味しい町。

第2東名がしっかり見えますが、なんだかこう見ると邪魔のものとしか思えないのよね。
大動脈としてさらに必要な高速なのでしょうが・・・

Hausegger-natursymphonie-1

 ジークムント・フォン・ハウゼッガー

   大オーケストラと最終合唱付きの「自然交響曲」

  アリ・ラシライネン指揮 ケルンWDR交響楽団
             WDR放送合唱団

        (2005,6 12~1 @ケルン・フィルハーモニー)

ジークムント・フォン・ハウゼッガー(1872~1948)は、オーストリアのグラーツ生まれの作曲家・指揮者。

その作品はあまり演奏されず、音源も数えるほどしかないが、ハウゼッガーの名前は、むしろ指揮者としてなしたことが注目されたりする。

ブルックナーの第9交響曲の初演は、1896年の作曲者の死後、1903年にフェルディナンド・レーヴェの指揮で、そのレーヴェの改訂版により行われた。
その後、校訂されたいまのノーヴァーク版に近いオーレル版で、1932年に初演したのが、指揮者としてのハウゼッガーだった。
そのときは、レーヴェ版とオーレル版を併行して演奏したという。
さらにハウゼッガーは1935年に、ハースによる原典版の初演も指揮している。
9番の方は、1938年にミュンヘンフィルと録音もしていて、復刻されていて聴くこともできる。
このように、ブルックナーへの原典への真摯な取り組みにみられるように、オーストリア人としての意気のようなものも感じてしまう。
指揮者の門下としてオイゲン・ヨッフムがいたことも興味深いです。

そんなハウゼッガー、父親のフリードリヒ・フォン・ハウゼッガーが高名な音楽学者であり評論家でもあった。
この親子鷹的な同じ関係を見ると、古くはモーツァルトを、同時代にはコルンゴルトを思い起こします。
そして、vonでわかる通り、オーストリアの貴族の家系であることもわかりますが、親父さまは、バッハ、ベートーヴェン、ワーグナー、ショーペンハウアーなどに関する著作も多数あるようで、まさに息子はそのDNAを継いで、重厚長大なワーグナー路線とそのあとに続く後期ロマン派路線を歩んだわけです。

ワーグナーとリスト、そしてブルックナー路線を歩み、しかも時代はナチスのドイツとも符合するオーストリア人。
ヒトラーからの覚えもめでたく、そのプロパガンダにも協力はしたり、音楽者としての要職も得たものの、再三の要求にもかかわらず、ドイツ労働者党(ナチス)への参加だけは絶対に固辞した。
業を煮やした当局は、ハウゼッガーの逮捕までも匂わせ脅したが、それでも拒絶を継続し、最後にはすべての職を辞した。
このあたり、うまくかわしつつも、最後は批判に回った同世代人のシュトラウスとも似ている。
しかし、そのシュトラウスに比べ、難解な音楽ばかりを残したハウゼッガーの名前は、忘れ去られたままなのであります。

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ハウゼッガーと同じころの作曲家

  マーラー      1860~1911
      ディーリアス    1862~1934
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  バントック     1868~1946
  ツェムリンスキー  1871~1942
  ハウゼッガー            1872~1948
  スクリャービン       1872~1915
  V・ウィリアムズ       1872~1958
  ラフマニノフ            1873~1943
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  スーク                     1874~1935
  ブラウンフェルス  1882~1954
  マルクス                  1882~1964
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      ハウェルズ     1892~1983

コルンゴルトはもう少しあと。
だいたいこのあたりの作曲家たちが、いまとても演奏されるようになってきている。
マーラーとシュトラウスがひと際人気を集めている存在ではあり、これらの作曲家たちは、みんなワーグナーにつながる。

この同世代の作曲家たちの作品をハウゼッガーは、どの程度実際に耳にしたり、指揮をしたりしていたのか、それを想像するのも楽しい。
いまのところ、ハウゼッガーの代表作である、今回の自然交響曲を聴くと、ここにあげた作曲家たちの名前を思い起こすシーンもいくつかあった。
この曲の海外レビューや、HMVの視聴レビューなどに多いのは、マーラーであり、冒頭のホルンは3番、終楽章の壮大な合唱は2番や千人をそれぞれ思い起こされると書かれたりしている。

ハウゼッガーの「自然交響曲」は1917年の作品。

そして千人交響曲は、1910年に初演。
千人はゲーテのファウストを扱っているが、自然交響曲の終楽章は、ゲーテの詩集「神と世界」からの序文「プロエミオン」が歌詞に使われている。
ゲーテのその詩の原典を調べたけれど、よくわかりませんでしたので想像の部分もありますのでご容赦ください。

マーラーの千人は、声楽を楽器と化した交響曲であり、聖霊と愛の喜びの賛歌で、その喜びに至る経過として、山上の厳しさや孤独、清々しさなどもあります。
ハウゼッガーの自然交響曲は、なんとなく流れも似ていて、というかベートーヴェン以来の苦しみから歓喜へといたる交響曲の流れがしっかりと踏襲されているようにも思う。
またシュトラウスのツァラトゥストラ(1896年)のようなオルガンの効果的な使用や、起承転結の巧さなども類似点ともいえる。

ちなみに、似ている選手権を勝手に述べてしまうと、シェーンベルク「グレの歌」(1911)、ディーリアス「人生のミサ」(1909)、F・シュミット 交響曲、バントック「オマル・ハイヤーム」「ケルト交響曲」、バックス 交響曲・交響詩、ハウェルズ「楽園賛歌」、ホルスト「雲の使者」・・・・・
こんな風に、これまで好んできた音楽たちが想起されたハウゼッガーの「自然交響曲」が、一発で気に入りました。

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連続する4章からなる56分の大作。
オルガンの多数の打楽器、終楽章には合唱も加わる大シンフォニー。

グラーツ生まれのハウゼッガーは、グラーツを囲む周辺の山々を見て育ち、その山々に着想を得ての「自然交響曲」でもあります。

ホルンの勇壮なるソロで始まり、オルガンの重低音が厳かに支える出だし。
そしてトランペットが引き継ぎ、段々とオケも厚くなり、テンポもあげて活気がみなぎるさまの高揚感は、後期ロマン派好きとしてはたまらない瞬間だ。
日差しを浴びた山々が目覚め、活気に帯びるさまを思い起こそう。
歩みを止めて振り返り、静かな場面になるが、そこでの甘味な雰囲気もよろしいし、山々の自然の孤独すらも感じる。
やがてまたスピードをあげて、さらなる歩みを進め、元気も満タン、威勢もよろしく、ティンパニの連打に乗り、最初の主題や静かなときの主題などが複層的に鳴り響いたりして、聴き手を混乱させてしまうのも事実。
だが音楽は、急に静まり夜が近づいてきたことを感じさせる。

休みなく、オルガンが神秘的な雰囲気で鳴り、ティンパニがゆっくりと静かに連打されるなか、ファゴットが哀歌を奏でる。
深刻なムードで各楽器に引き継がれて行き、哀しみのムードが増して、ブラスも加わって深刻の度合いも増す。
ソロヴァイオリンを契機に、安らぎの雰囲気が漂い、弦が優しい旋律を奏で、ハープのグリッサンドやチェレシタも加わり、なかなかいい感じに拡がりを見せる中間部は素敵なものだ。
このまま終わるかと思うとそうはいかない。
ティンパニに冒頭のリズムが回帰してきて、こんどは葬列のような沈鬱な行進調になり、やがてそれが壮絶なまでに盛り上がる。
ここもまた聴かせどころで、この深刻さからすると、マーラーは優しすぎると思うくらいの深刻ぶりと強烈さだ・・・・
葬列の哀しみの去ったあとは、寂寞の雰囲気でオルガンも静かに鳴る

突如始まるスケルツォ的な3楽章は、前章がウソみたいに活力のあふれた、ティンパニも大活躍のかっこいい雰囲気だが、中間部の平和にあふれた田園調の幸福感がまたよい。
チェレスタの使い方とキラキラした雰囲気など、のちのコルンゴルトを感じた。
ずっと若いコルンゴルドは早熟の天才だったので、14歳のときのシンフォニエッタは、1911年の作品だからこの自然交響曲よりは前です。

なだれを打つように突入する4楽章でいきなり合唱の登場。
これまた超カッコいいのだ。
ここに至って、これまでの苦難が解放されたかのような浄化作用と解放感が満ち溢れる仕組みだ。
幾重にも連続する音楽の高まり、寄せては返す高揚感
最後は金管とオルガンの咆哮、ティンパニの痛打で、音楽は崇高な雰囲気とダイナミックな盛り上がりで持って閉じられる。

グーグル先生による翻訳 Proomion

「ご自身を創造された方の御名において!

 創造的な御業において永遠に。
 信仰、信頼、愛、行動、力を
生み出す神の御名において。
 しばし言われるその御名は、本質は常に未知のまま。


 耳が聞こえうる限り、目に見える限り、
 あなたは神に似た見慣れたものしか見つけられない
 そしてあなたの精神の最も高い火の飛行
 すでにたとえもあり、イメージを十分にあるはずだ
 それはあなたを惹きつけ、明るくもあなたを連れ去り、
 あなたが行くところ、道も場所も飾られる
 もう数えたり、時間を計算したりすることはなく
 そして、すべてにわたりその一歩一歩は計り知れない

こうした作品を盛んに演奏し録音しているラシライネン。
WDR響(旧ケルン放送響)という優秀なオーケストラを得て、解像度の高い明快な演奏です。
録音も超優秀ですが、海外盤なのであまりに細かな文字でびっしり書かれたライナーノーツは、難解極まりなく、まったく判読不能。
海外評などを読むと、曲や演奏の良しあしより、この解説の長ったらしさと難解さを指摘しているものも多いのも笑える。
こうした作品こそ、その作者がブレイクするきっかけにもなるので、平明でわかりやすい案内が必要です。

Groer-speikkogel

ハウゼッガーが眺めていたグラーツ周辺の山。

いったいどこだろうとマップ検索。

それっぽかったのがグラーツ南西のグローセル・シュパイクコーゲルという山

標高2,200m、山頂には十字架が立っている。

借り物の画像ですが、周辺も山並みが連なり、さらに悲しいことに風力発電の風車がたくさん・・・

自然を壊す人間なんて、100年前のハウゼッガーは思いもしなかっただろう。

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