カテゴリー「バッハ」の記事

2018年4月19日 (木)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 フレデリック・ハース

Zoujyouji_1

ひとひらの桜の花びら🌸

咲いた桜も美しいが、散る桜も儚くも美しい。

急襲した暖かさは、例年になく早く桜や、春の花々を開花させ、あっという間に散らしてしまった。

四季のメリハリがますます遠のく日本に、どこか不安を覚える。

3~4月は、公私ともに忙しくて、まともに音楽を聴けず、季節の移ろいの速さもそれに加えて、焦燥感を抱いている。
いまもそれは継続中だが、早くに目が覚め、夜寝れない方への音楽を、早朝の目覚めに聴いてみた。

そして、やたらと清新な気分になった。

Goldberg_haas_2

    バッハ  ゴールドベルク変奏曲 BWV988

             チェンバロ:フレデリック・ハース

                 (2010.10 @アセス、ベルギー)


ハースは、1968年生まれのベルギーのハープシコード奏者。
12歳のときからハープシコードを弾き始め、名教授につき、その奏法や楽器の研究に携わり、現在はブリュッセルの王立音楽院の教授も務めているイケメンさん。
ヘレヴェッヘとも関係が深いとのことで、その録音の通奏低音などで参加しているかもしれない。

繰り返しを忠実に行い、全曲は77分。
しかし、この長さ、まったく長いと感じさせない。
学究肌の経歴ながら、そんなことを微塵も感じさせない瑞々しさにあふれたバッハ。
そして、それぞれの変奏にあふれる豊かなニュアンス。
安心して、ずーーっと聴いていられる。
過度に表現しすぎない、でも、しっかりとバッハの音楽の精髄を聴かせてくれるハースのゴールドベルクでした。

25番目の変奏曲がとりわけ深く、瞑想的に聴くことができました。

この演奏のあと、手持ちの音源をつまみ聴きしてみましたが、自由すぎるグールドをはじめ、ハープシコード版、ピアノ版、いずれもみんな全然違って聴こえるところが面白かった。
ハープシコードは、楽器による音色の違いもあるからなおさらに。
かようにして、バッハの音楽には、ともかくいろんな可能性と閃きがあふれているのだと、いまさらながに痛感した次第。

このハースさんの録音で使用されたチェンバロは、1751年のアンリ・エムシュ作のもの。
で、まさにこの古楽器を奏して録音した場所が、ベルギーのアセスにある城。

Chateaudelaposte  Cembalo_2

こんな画像を見ながら聴いたハースさんのゴールドベルク。

眠れぬ朝の夢想なり。

Zoujyouji_2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月14日 (金)

バッハ マタイ受難曲 ヘレヴェッヘ指揮

Zojyouji_abcd

桜の季節は、同時に、イースター。

今年の歴では、この終末が復活節となりまして、本日が聖金曜日。
日曜日が、イースターとなります。

しかし、寒くて、暖かい、そして曇りや雨ばかりの4月の早々。
北海道では、雪も積もったりで、ままならない天候。

そして、世界情勢に目を転じれば、シリアの内紛に化学兵器使用の疑いあり、アメリカが中国国家主席の訪米中、しかも、大統領との食事のデザート中に空爆。
朝鮮半島も、北の挑発が止むことなく、緊迫の度合いを深める。

そんななか、安住に慣れ切った、わが日本は、警告を発する一部の方々をのぞいて、のんきに構える日々。

あとで大騒ぎになる、いつもの国民性と、悶着を恐れるマスコミ。

このブログでは、そんな情勢を云々する場ではなく、音楽ブログなのだけれど、さすがに、ここ数ヶ月の、国会における野党と、マスコミの狂ったような姿勢には、フラストレーションがたまる一方だった。
国会運営に一日数億円かかるなか、それは税金で賄われるわけで、あんなくだらない陳腐なショーを見せられて、ほんとに腹がたった。
もっともっと、大切なこと、喫緊の課題がたくさんあるだろうに!
 それも、しかし、ようやく静かになった。
日本の正面から触れてはいけないタブーや、追求者へのブーメランに、ようやく気がついた、ばかな野党とマスコミ・・・・・

あぁ、もうやめておこう。

今日は、聖金曜日。
イエスが十字架に架かった日。
清く、ただしく、マタイを聴くのだ。

Img_0001

     バッハ  マタイ受難曲 BWV244

  福音史家:イアン・ポストリッジ 
  イエス:フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
  アルト:アンドレアス・ショル    ソプラノ:シビッラ・ルーベンス
  テノール:ヴェルナー・ギューラ  バス:ディートリヒ・ヘンシェル
  
    フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 コレギウム・ヴォカーレ

                       (1998)
数ある、マタイ受難曲の演奏のなかで、わたくしの4指にはいるヘレヴェッヘ盤。
その4つは、昨年の同時期の記事にあります。

ダントツで、揺るぎのない絶対的な存在のリヒターに、暖かなヨッフム、そして、峻厳でありつつピュアなレオンハルト、それと、日常のなかにふつうに古楽演奏を根付かせてしまったヘレヴェッヘ。

今日は、朝から、仕事中も、この音盤を何度も流しております。

リヒターだと、そんなお気楽に聴くことができず、つねに襟を正して、正座をして聴かなくてはならないような緊張感を強いられる。
ヨッフムは、その対極にあって、ドイツやヨーロッパの日常のなかのマタイ。
レオンハルトは、リヒターに近くもあり、もっと切り詰めた厳しさももしかしたらありつつ、それが、古楽のありかたなところが新鮮。
そのレオンハルトの、これまた対極にあるのが、同じ古楽奏法のヘレヴェッヘ。

4つを、異論は多々ございましょうが、自分では、そんな分類とともに、仕切っている。

 坦々と、静かな音楽運びのヘレヴェッヘの指揮。
劇的な合唱や、心情を吐露するソロたちの場面においても、ことさらに構えることなく、バッハの楽譜を、そのままに純粋に再現している。
 胸かきむしられる、一番の感動どころ、ペテロの否認の場面でも、その音楽運びは、さりげなくも、また第三者的でありながら、磨かれた音色の美しさでもって光っている。
そう、なにもしてないようでいて、出てくる音、ひとつひとつは、深く考察され、ラテン的ともいえる輝きにあふれているように思えるのだ。

ヘレヴェッヘのバッハは、ほとんど聴いたが、この2度目のマタイをピークに、ともかく美しく、磨きつくされている。

そんな指揮者のもと、歌手たちと、手兵の合唱の雄弁さに陥らない、透明感に満ち溢れた率直な歌唱も、指揮者の考えのもとにあるものと聴いた。
ナイーブ極まりないポストリッジのエヴァンゲリストが素晴らしく、ブリテンでの彼の神経質なまでの歌唱にも通じる見事さがある。
禁欲的なヘフリガーと、明晰なプレガルディエンと相立つ名福音詩家だと思う。
シュライヤーは、いろんな顔がありすぎて、自分的にはよくわからない。。。

ショルのアルト歌唱と、ゼーリヒのイエス、バスのヘンシェンも素晴らしいです。
ともかく、このヘレヴェッヘ盤は、歌手が豪華で実力派揃いなところがいいんだ!

Zojyouji_abcde_2

人類にとっての至芸品ともいえる、バッハのマタイ受難曲。

キリスト者からみた、人類の救い主たるイエスの受難の物語。

教徒ではなくとも、新約聖書の、ほんのごく一部から抜きだされたイエスの呪縛と、磔刑にいたる緊迫の物語にからむ、人間ドラマに、大いに共感し、そして自身を鏡で映しだされるかのような、内面と存在の弱さへの共感に、人間としての普遍的な価値を見出すのではないでしょうか。

中学生のときに聴いたリヒターの、最後の合唱「Wir setzen uns mit Tranen nieder」。
そこから始まった、わたくしの、マタイ歴。
そのあとは、聖書を物語的に読むにつれ深まる疑問と、感銘。
来日したH・リリングのマタイが、テレビやFMで何度も放送され、この作品が、完全に好きになった。

これからも、ずっと、大切に聴いていきたい。

そして、新しいマタイとも出会ってみたい。

 過去記事

「スワロフスキー&ウィーン国立歌劇場」

「レオンハルト&ラ・プティットバンド」

「ベーム&ウィーン響」

「4つのマタイ」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年1月 6日 (金)

バッハ トッカータとフーガ ニ短調 リヒター

12_azumayama_2

2017年1月2日の朝焼け。

実家のあるいつもの山の上。

吾妻山です。

朝5時に起きてしまい、思いきって登りました。

日の出は、6時51分。

日の出前は、周辺がこのように朝焼けに染まります。

真鶴に遠くに伊豆半島。

12_azumayama_1

濃いオレンジの夕焼けとはまた違った、濃ピンク系? 朝焼け。

そして、もう少し東に目を向けると、相模湾から太陽が昇る様子が本来なら見えるのでした・・・・

12_azumayama_3

神奈川から見ると、遠く房総半島方面。

こりゃまるで、UFOのように見える日の出。

年末年始、晴天に恵まれたなか、この日の朝だけ、狙ったように雲に覆われました・・・。

ちーーん。

Richter

    バッハ  トッカータとフーガ ニ短調 BWV565

                     カール・リヒター

            (1964.1 @コペンハーゲン イエスボー教会)


ともかく有名な、こちらの名曲。

冒頭だけで、クラシックをふだん聴かない方にもピピッとくるものを持ってる曲。

トリルから始まる最初の2小節。
これが、衝撃的な場面のバックグランドを飾る音楽、いや、それこそ効果音として、数々の映像などに使われた。

でも、ほとんど多くの方々は、その2小節より先の即興的ともいえるフーガ展開部分を聴くことなく、やりすごしているだろう。

子供時代のわたくしも、そんなひとり。

 でも、そんな認識に、ファンタジー的とも呼べる喝を入れてくれたのは、NHKの「朗読の時間」というFMラジオ番組だった。
中学生だった、夏休みの間だったろうか。
朝の10時台くらいに、和洋の文学作品を、NHKアナウンサーが朗読する20分の番組で、1冊の本を、数日かけて取り上げていた。
そして、朗読に織り交ぜて、クラシック音楽を中心に流していたわけ。

そのときの音楽場面が、トッカータとフーガ。

そして、文学小説は、「不思議の国のアリス」。

不可思議な妄想のわく物語に、冒頭場面を外したフーガ場面が巧みにマッチングして、岩波文庫も購入し、耳と文字とで、ルイス・キャロルのアメイジングな文学がリアルに迫ってきて聴こえたものです。

あれから数十年も経ていますが、この作品のイメージから、アリスの世界をぬぐい去ることはできません。

 リヒターの旧盤は、かつて記事にしましたが、放送で使用されていたのは、おそらく、リヒターの2度目のアルヒーフ盤。

虚飾を廃し、音を切り詰めた、緊張感すら感じさせる演奏に思います。

近時、バッハの作品ではないのでは説もありますが、そんなことは関係なく、妄想引き起こす、幻想的な8分間に、いまもって魅せられます。。。。

2017、よき年になりますよう!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年12月29日 (木)

バッハ クリスマス・オラトリオ シュナイト指揮

Ebisu_b

冬のクリスマスのツリーの定番は、恵比寿のガーデンプレイス。

基本のカラーだけ、そして、装飾も基本のカラーに徹したシンプルな美しさ。

華やかだけど、華美じゃない。

毎年、手を加えてはいるでしょうけれど、毎年、ここが、わたくしのナンバーワンイルミ。

Ebisu_17a

ドイツのクリスマスマーケットでは、考えてもみたくもなかったテロ行為が起こり、キリストの生誕を祝う和やかなキリスト教者最大のイヴェントが、それすらを許さないごく一部の狂信者たちの行為により、ずたずたになった。

映像などでみた、踏み散らされ、破損したクリスマス・グッズを見ると、ほんとうにやるせない思いになった、そんな今年のクリスマスであります・・・・・

Ccf20161227_00000

  バッハ  クリスマス・オラトリオ

   Bs:フーベルタス・バウマン、フランク・ザーベッシュ=プア

   Cont:ミヒャエル・ホフマン

   T :ハイナー・ホップナー

   Bs:ニコラウス・ヒレブラント

 ハンス・マルティン・シュナイト 指揮 コレギウム聖エメラム

                        レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊

               (1977年6,7 @レーゲンスブルク 聖エメラム教会)


バッハの大作、でも実際は6つのカンタータの集積であり、クリスマスに全部一気に聴く必然性もいわけで、以下のような、降誕節にはじまる1月の祝日までを念頭においたもの。

   ①降誕節第1祝日 24日

   ②降誕節第2祝日 25日


   ③降誕節第3祝日 26日

   ④新年          1日

   ⑤新年最初の祝日 (2日) 

   ⑥主顕節        6日
      

>以下、一部以前の自己記事を引用<

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。

1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっているものだから、バッハの感性の豊かさに驚いてしまう。
バッハのカンタータは総じて、パロディとよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、兼、最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証し。

なんといってもこの「オラトリオ」の第1曲を飾る爆発的ともいえる歓喜の合唱。
これすらも、カンタータ214番からの引用だが、調性が違っているし、当然のことながら歌詞もまったく違う。
こんな風に分析するとするならば、この6つのカンタータの集積だけでも、カンタータの全貌を理解しつつ聴かねばならいからたいへんなこと。

 このクリスマス・カンタータにおいても、超有名な、マタイのコラール(それすらも古くからのドイツ古謡の引用であるが)が出てきたりする。

クリスマス音楽のお決まりとしての「田園曲」=「パストラーレ」は、第2夜のカンタータの冒頭におかれたシンフォニアである。
この曲だけでも単独で聴かれる、まさにパストラルな心優しい癒しの音楽である。
単独の演奏では、あまりにも意外な演奏だけれども、フィードラーとボストン・ポップスが好きだったりするくらいで、独立性のある名品であります。

それと、この曲集で印象的な場面は、ソロと合唱、ないしはエコーとしての合唱のやりとりの面白さと遠近感の巧みさ。
その場面においては、私のこの曲のすりこみ演奏であるリヒター盤の、ヤノヴィッツの歌が完璧に耳にあって、他のソプラノではどうしようもなくなっている。

リヒターの刷り込み演奏は、ひとえに第1曲が収められた、アルヒーフのリヒター・サンプラーというレコードゆえでして、そこには、マタイや独語メサイア、ハイドン、トッカータとフーガ、イタリア協奏曲など、マルチ演奏家としてのリヒターが浮き彫りにされた1枚であった。
当然に、布張りのカートンに収められた、「リヒターのクリスマス・オラトリオ」のレコードは、実家のレコード棚に鎮座する一品であります。

加えて、思い出深いのは、東独時代の古色あふれ、雰囲気豊かなフレーミヒとドレスデンフィルの演奏。
70年代の名歌手たちの歌唱にも感銘をうけます。

そして、数年前に入手したのが、ハンス・マルティン・シュナイト盤。
レコード時代に気にはなっていたものの、極めて地味な存在だった。
アルヒーフに、ヨハネやモテト、モンテヴェルディなどをそこそこに録音していたシュナイトだけど、あまりクローズアップされなかったし、わたくしもあまり気にとめてなかった。
そして、急逝したカール・リヒターの後任として、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団の指揮者になったけれど、残念ながら正規録音がなされなかったことも極めて残念なこと。

当時の雑誌を読んだりすると、マタイを振ってるし、なんと、オペラ指揮者としての経歴も豊富なため、リングも指揮してるし、ベルリン国立歌劇場と来演して魔笛も上演してることがわかったりしたことも、シュナイト師に親しく接するようになってから・・・・。

そう、東京フィル主体のシュナイト・バッハの活動のあと、神奈川フィルの指揮者となって、その多くのコンサートに接するようになった。
ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、シュトラウス等々、ドイツ本流、そして南ドイツ風の柔らかさもあわせもった本格的な名演を数々聴きました。
神奈川フィル以外でも、ヨハネとロ短調の圧倒的な演奏にも立ち会うことができました。

 そんなシュナイト師と中世ドイツの風合い色濃く残る街、レーゲンスブルクの高名な聖歌隊とのこちらの音盤。
南ドイツの古雅な雰囲気をたたえた、味わい深い演奏です。

70年代半ばの当時の古楽器も一部使い、オーケストラの響きは丸く優しい。
そして聖歌隊の無垢の合唱と、聖歌隊メンバーのボーイソプラノとコントラルトのソロは、現代の耳からすると、ちょっと厳しい点はあるかもしれないが、清らかで美しい。
 随所にあるコラールにおける、祈りの想いを強く感じさせるシュナイトならではの真摯な歌。実は、それらが一番素晴らしいかも。

4471007b5d

レーゲンスブルクのエメラム教会での録音も、こんな画像をながめながら聴くと、とても心あたたまり、清らかな気持ちになります。
ロマネスク様式に、途中バロックの華美さも加わった、ちょっと華やかな教会。
行ってみたいものです。

ことしもあと少し。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年3月27日 (日)

バッハ マタイ受難曲

Tokyo_tower_4

桜の季節は、イースター週間と重なりました。

キリスト教徒国にとっては、クリスマスと並ぶ一大祭で、長いお休みがある。

この時期、欧米系の外国人の方々の観光客も多くみかけるのも、そのため。

日本では、クリスマスはあんなに大騒ぎするのに、復活祭はまったく話題になりません。

大好きな音楽、そして、もっとも大切な音楽のひとつ。

偉大な、バッハのマタイ受難曲。

Bach_matthaus

  J・S・バッハ  「マタイ受難曲」 BWV244

人類に残された音楽の至芸品。

それが、バッハのマタイ。

わたくしもご多分にもれず、最大級に愛する音楽として、ワーグナーやディーリアスの音楽とともに双璧の存在です。

イエス・キリストの受難劇。

すなわち、イエスの捕縛から、十字架上の死、そして、埋葬後の復活までを淡々と音楽で描く作品であるが、それがキリスト者のための音楽だけにとどまらず、人類普遍の、そして人間の存在の核心をついたという意味で、まさに人類のために存在する音楽作品なのだ。

 テキストは新約聖書のマタイ伝。

劇的でありつつ、ほかの伝記に比べて一番内省的かもしれない。

そんな聖書にバッハは、途方もなく感動的な音楽をつけた。

イエスの受難の物語を語る福音史家は淡々と、でも、ときに聖句に劇的な歌い口を示します。
その客観的な存在が、イエスへの同情、人間への問題提起を求めるさまが、ほんとうに鋭く、魂が揺さぶられる。

むごい感情をむき出しにする群衆と、聖なる清らかな合唱の二律背反が生むドラマティックな落差。

ソロ歌手たちの切実なアリアたちが、受難劇の進行のなかで、われわれ聴き手・人間たちの心に寄り添いつつも、その悲しみへの共感をよりそそる。

 マタイ受難曲、最大の聴きどころは、ペテロの否認の場面。
イエスを知らないと、イエスの予言通りに3度言ってしまうペテロ。
そのあと、にわとりが鳴き、イエスの預言が成就することで、激しく泣くペトロ。
「憐れみたまえ、わが神よ」
アルト独唱の名アリアは、それを聴くわれわれも、だれしもが思う自戒の念にとらわれ、心揺さぶられる。
わたくしは、必ず、泣いてしまう。

Richter

マタイといえば、リヒター
リヒターといえば、マタイ。

そんな図式が、6~70年代には行きわたっていて、わたくしも、同じく、そんな洗脳に近い想いに凝り固まっていた人間のひとりです。

人を寄せ付けないまでの峻厳、厳格なバッハ。
イエスをめぐる人間ドラマも容赦なく、切れ込みは鋭く、その一方で、その視線は鋭く、そして優しい。
重い足取りで始まる大ドラマも、最後は悲劇にあふれながらも、聴く人を包み込み、次へと羽ばたけそうな、大きな翼を与えてくれるような、後押しの巨大な力にあふれている。
そんな「ドラマ」に満ち溢れている、「リヒターのマタイ」なのであります。

これまた絶対的なエヴァンゲリストとしての存在であった、ヘフリガーの禁欲と情感、ともに満ち溢れる福音史家が完璧すぎる。
テッパーのアルトを始め、歌手たちも、ともかく素晴らしいリヒター旧盤。

つぎに、若き日に、マタイにより親しんだのが、リリングとシュトットガルトとの来日公演の放送。
明るい歌にあふれたリリングの指揮は、クラウスの福音史家とともに、何度もテレビ放送されたなか、マタイが完全に血肉化されるのを感じました。
聖書も全体を読み、ますます、マタイ受難曲への理解が進んだ大学生の時代です。

そのあとのマタイ遍歴は数々あれど、いつも戻るのはリヒター。

でも、柔らかで、ドイツの教会のひとコマを思い起こさせてくれるヨッフム盤。
ここでは、ヘフリガーが相変わらず素晴らしいのと、コンセルトヘボウの伝統あふれる木質の響きがなんとも美しいのです。

CD時代に購入した、リヒターと違う意味での峻厳なレオンハルト盤。
そこでは音楽が息づき、バッハの楽譜優先のピュアな再現がかえって、音楽に力を与えているようだった、

あと、明るく伸びやかなヘルヴェッヘ盤。
新鮮な響きのなかに、市井の人々の緩やかな毎日までも感じさせてくれる。

 
旅行鞄に、余裕があれば、この4つを持って行きたいマタイ。

でも、ひとつと言われたら、そう、あれしかないですね。

 あと、アバドのマタイを是非聴きたいものだが、ベルリンでの音源、なんとかならないものか・・・・・

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2015年4月 5日 (日)

バッハ ヨハネ受難曲 シュナイト指揮

Reinanzaka_3

イースター週間。

今年の聖金曜日は、4月3日。

復活祭は、5日です。

Reinanzaka_5

六本木の霊南坂教会。

満開の桜の見ごろに。

そして、イースターの時期には、欧州、ことにドイツでは、バッハのふたつの受難曲と「パルシファル」が演奏されます。

Reinanzaka_4

      バッハ   ヨハネ受難曲 BWV245

  福音史家:畑 儀文       イエス:戸山 俊樹
  ソプラノ :平松 英子       メゾ・ソプラノ:寺谷 千枝子
  バリトン、ピラト:福島 明也

   ハンス=マルティン・シュナイト指揮

       シュナイト・バッハ管弦楽団/合唱団

                     (2005.11.26 @オペラ・シティ)


バッハの偉大なふたつの受難曲。

現存するのは、そのふたつですが、生涯に5つの受難曲を手掛けたともされてます。
(ヨハネ、マタイ、ルカ、マルコ、ヴァイマール)

マルティン・ルターの宗教改革から端を発したプロテスタント教派。
その音楽においても、ローマ・カトリックは、降誕と復活に重きをおいたものが多いのに比し、プロテスタントでは、降誕と受難が重んじられてます。

 ですから、バッハの受難曲も、その名の通り、ゲッセマネにおけるイエスの捕縛と、ピラトによる尋問、裁判、磔刑、十字架上の死までを描いていて、その後の復活については、触れられておりません。

「マタイ」と「ヨハネ」、そして「ロ短調ミサ」、いずれも、バッハの最高傑作、いや、人類がもちえた最上の音楽のひとつだということに、みなさま、ご異存はありませんね。

1724年(39歳)の作が「ヨハネ」。
1727年(42歳)に、「マタイ」。
ともに、ライプチヒ時代の作品。

「ヨハネ」は、イエスを追い詰めてゆく群衆がとても劇的に描かれていて、合唱やコラールの比率が高い。
おのずと、全体は動的なイメージ。
それは、すなわち、バッハの意欲的な若さにもつながります。
 一方の「マタイ」は、ソロのアリアが多く散りばめられ、それぞれの心情吐露は、深いものがあります。
「ヨハネの動」に対して、「マタイの静」です。
ライプチヒのトーマス・カントル就任の初期の「ヨハネ」に比べ、3年後の「マタイ」では、教会歴に即した数々の活動や、おそらく信仰上の想いの深化なども加わり、内面的掘り下げも深くなったに違いありません。

 合唱は、3種類の役割を担います。
受難の出来事に対し、イエスに寄り添うような思いを吐露するコラール。
合唱曲として。
そして、群衆として。
 アリアは、登場人物たちの想いや、しいてはバッハ自身の心情を歌う。
そして、レシタティーボは、福音の語り。
 こうした色分けは、「ヨハネ」の方が明確に思います。

そして、もうひとつ、イエスの死に向かって、淡々と進む「マタイ」では、最後が大きな合唱で、それは、悲しみに覆われ、涙にぬれていて、聴き手をもその悲しみと同情へと巻き込んでしまうものです。
 一方の「ヨハネ」は、一気にイエスの磔刑とその死まで駆け抜け、最後は、イエスよ安らかなれと慰めの合唱があり、そして、コラールで終る。
そのコラールは、イエスをほめたたえ、自身の死のあとの蘇りも願うもの。
イエスそのものではありませんが、死後の蘇りに言及したコラールが、受難曲の最後にあることによって、悲しみのうちに終わるのでなく、救いの光を感じさせながら、力強く終るのです。
日本を愛したシュナイトさんが、このCDの解説でも、そうしたことに触れてますし、この音盤でも、実際にその演奏に接したときにも、こうした「ヨハネ」の性格を、浮き彫りにして、大いに、感銘を受けました。

 「ペテロの否認」は、マタイの中で最大の聴きどころですが、こちらヨハネでも、その場面は描かれてます。
本来のヨハネ福音書には、このシーンはないのですが、バッハは、ほかの福音書から引用してまで、ここに描きたかった名場面。
人間の弱さと悲しさ、バッハは受難の物語に絶対に欲しかったテーマだと確信していたのでしょう。
福音史家の語りも、その後のアリアもふくめ、マタイほどの、深淵さはありませんが、それでもなかなかに劇的です。アリアはテノールにあたられてます。

 さらに、ヨハネ福音書にない場面があって、それは、イエスが息を引き取ったあとの、天変地異。
ここは、マタイやルカから採用されてまして、イエスの神性の表出と神からのメッセージをあらわすこの事象は、人間ドラマとも呼べる受難曲のなかにあって、大きなアクセントとなってます。

アリアにも、至玉の名品がぎっしり。
イエスに従う思いを、フルートを伴いながら、軽やかに歌うソプラノのアリア。
十字架上で、イエスが、「こと足れり」と言い、息を引き取る場面での、痛切なる悲しみのアルトのアリア。これは泣ける。そして、その後の消え入るような福音史家のレシタティーフ。
このあたりが好きです。

 シュナイトさん、3度目の録音で聴きました。
70年代にレーゲンスブルクでアルヒーフレーベルに、あと2回は、日本でのシュナイト・バッハとのライブ。
ライプチヒのトーマス教会で歌うことからスタートしたシュナイトさん。
その体に沁みついたバッハの魂、ドイツ音楽の神髄を日本で披歴してくれたことを、まことに感謝しなくてはなりません。
 宗教音楽ばかりでなく、ドイツ各地でオペラの指揮をしていて、ワーグナーのリングまでその記録にはあります。
その広範なレパートリーを、もっと日本で聴きたかったところですが、体調不良でいまは、ドイツで静かに暮らしております。
 コンサートでは、わたくしたち聴き手には、いつも好々爺然とした方でしたが、練習では、ほんとうに厳しくて、驚きの逸話もたくさんあります。

それもこれも、音楽に対する愛と奉仕。
そして、日本の演奏家と聴き手に、いかに自分の持っているものを体感させたいとの想い。

そんなことを、このヨハネを聴いても感じます。
言葉に乗せた思いを音楽で表現すること。
ドイツ語のディクションも含め、そうとうな練習の末に、成し遂げられたこの演奏の素晴らしさ。
シュナイト・ファミリーともいえる、ソロのみなさんや、各楽器奏者の精度もとても高いです。

最後のコラール。
2009年に聴いたライブと同じく、じわじわとカーブを描くように盛り上がっていき、祈りの気持ちがまるで高まっていくかのように、輝かしさも感じさせつつ感動的に終結します。

このように、エンディングに、いつも、おおいなる感動が隠されている、シュナイトさんの演奏。神奈川フィルのコンサートで、何度も同じように体験しました。
本当に、忘れ得ぬことばかりです。

今年、85歳になるシュナイトさん。
いつまでもお元気でいて欲しいです。

ところで、シュナイトさんの生地は、ドイツのキッシンゲン・アム・マインとされてますが、ご本人が、インタビューに応えて語るものでは、同じバイエルンのリンダウとしていますが、どっちなんでしょうね。かなり離れてますよ。
リンダウは、スイス・オーストリア国境に近く、ボーデン湖に接する美しい街です。
いつか行ってみたいものです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年11月30日 (日)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 シュタットフェルト

 Gaien_a

神宮外苑のいちょう並木。

連日晴れていたのに、土曜の午前は、よりによって厚い雲に覆われる曇天でした。

それでも、地面に降り積もった黄色い葉と、曇り空でも、上からは黄色い光が舞い降りてきて、目にも優しく、歩道の散策も楽しいものでしたね。

Bach_goldberg_stadferd

  バッハ   ゴールドベルク変奏曲

     Pf:マルティン・シュタットフェルト

             (2003.10 @カイザースラウテルン)


最近、よく眠れない。

夢ばかり見て、寝た気がしないうえ、朝、やたらと早く起きてしまう。

酒を飲んだ晩も、飲まない晩も、みんなおんなじ。

だから、電車に乗って座ったら即寝。
昼食べたら、パソコンのまえで、うつらうつら。
いかん悪循環。

そんないまの自分に、ぴったしの音楽が、なんといっても「ゴールドベルク」。

ただ、ワタクシは、この曲の作曲を依頼したカイザーリンク伯爵のように不眠ではありませんよ。
ちゃんと寝てるけど、目ざめが早すぎなだけ。

この曲、もう何度か取り上げてるし、いつもその内容は、同じようなことを書いてます。

あらためて、バッハのこの作品の緻密さと、全体が網の目のように、互いに結びつけあっているという完璧な統一感、それらを実によく解らせてくれる演奏で。

10年前の録音ですし、もう、多くの方がお聴きかもしれません。
わたくしは、ビジュアル的にも、売り出し方が気にいらず、どこぞの若造・・・・的な、偏向反応で、遠ざけておりましたが、彼のCDをいくつか入手したのは今年に入ってのことでした。

その彼の名は、マルティン・シュタットフェルト。

1980年、ドイツ、ゴブレンツの生まれ。
録音時23歳、現在は34歳の若手。

97年、ルービンシュタイン・ピアノコンクール優勝
01年、ブゾーニ国際ピアノコンクール入賞
02年、バッハ・コンクール優勝
そして、03年の、この録音。

若さに似合わぬほどの巧みな語り口と、全体を見通した考え抜かれた表現力。
でも、一方で感じさせる、奔放なまでの若さの爆発という眩さ。
才気走ったところを感じさせずに、強い説得力を鮮やかな手口でもって披歴。

テンポや、表情は、ときに動きますが、それが、グールドのような感性的、突発的なものでなく、知的に考え抜かれたものと感じます。

最初と最後におかれたアリアが、それぞれに、異なる味付けでもって、嫌味なく滔々と奏されます。
楚々と展開するカノンのあと、変奏の中央に位置する16番目の序曲をきっぱりと弾いたあとの後半。
この前半と、後半の鮮やかな対比は、バッハの意図を見事に表出しているかと思います。

わたくしには、ひとつひとつの変奏を個々に楽しめる個性的な演奏だし、全体を見渡して作品の緻密さに感じ入ることもできる、いわばマルチな演奏でもありました。

今のところ、ドイツ系の音楽ばかりのシュタットフェルト氏ですが、ショパンやフランスものなんかどうでしょう。

これからも注目の若手ですね。

 過去記事

「マレイ・ペライア盤」

「ピーター・ゼルキン盤」

「レオンハルト盤」

「リヒター盤」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年11月10日 (月)

石田泰尚・山本裕康 デュオ・リサイタル in建長寺Ⅲ

Kenchouji2

鎌倉の建長寺。

奥に長く、広い境内は、まだこのあたりは序の口の山門です。

この先の方丈にて、今回が3度目となる、神奈川フィルの誇るふたり、コンサートマスターの石田泰尚さん、首席チェロの山本裕康さん、おふたりのデュオコンサートが行われました。

Kenchouji3

こんな感じのセッティングで、三方を取り囲むように、わたくしたち聴き手は、後ろの方は3人掛けの椅子席、畳の上は、座布団に思い思いに座ってのコンサートです。

そして、場所が場所ですから、経文が配布され、みなさまで読経。

Img_0002

正座して、頼りない声ですが、お声を発して、清々しい気持ちになり、いよいよコンサートです。

Kenchouji4

ぎっしり満席。

350人前後でしょうか。

Img_0001

  ベートーヴェン 3つの二重奏曲より、第1番

  バッハ       無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007

            無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002

  グリエール   ヴァイオリンとチェロのための8つのニ重奏曲

  ヘンデル     パッサカリア (アンコール)

         Vn:石田 泰尚

         Vc:山本 裕康


                 (2014.11.9 @鎌倉 建長寺)

初めて聴きました、ベートーヴェン22歳の頃の作品といわれる二重奏曲。
クラリネットとファゴットによる作品が原曲で、このように、ヴァイオリンとチェロで演奏されることも多々あるそうです。(Musician's Partyの寺田さんの解説より)
 しかも、ベートーヴェン自身の作かどうかも、まだ定まっていないといいます。

若きベートーヴェンらしい、抒情とうららかな優しさに満ちた桂曲に聴きました。
まだ、手慣らし程度、軽いタッチで合わせた、名手のふたりの素敵な演奏でしたよ。

ついで、山本さんのソロで、無伴奏の1番。

あの冒頭を聴いた瞬間に、時間は、歴史ある方丈の空間に止まり、山本さんの奏でるバッハの音楽のみが、その空間を淡々と埋め尽くしてゆくのに感じ入りました。

おわかりいただけると思いますが、こうした、木造と畳、そこそこ厚着をした、多くの聴き手で満たされた、お堂の中は、音は響きにくく、デッドです。
そのかわり、わたくしたち聴き手には、ストレートに音のひとつひとつが届きます。
 しかし、この日、山本さんも語っておられましたが、演奏する側は、音を響きとして受け止められないので、たいへんに苦慮してしまう。

でも、ごめんなさい、聴き手ですから、この荘厳なる雰囲気も相まって、素晴らしいバッハを堪能しました。
CDで、何度も聴いてる山本さんの無伴奏ですが、回を増すごとに、音楽への切り込みと、集中力を増しているように思います。
日々、鍛練怠りない、まさにプロの技を、こうして、和の空間で味わう喜びは、筆舌に尽くしがたいものです。

Kenchouji7

休憩中に、ストレッチに育む方をパシャリ!

Kenchouji5

廊下を渡って、方丈の庭園を。

静謐な心持で、後半の、今度は、ヴァイオリンの無伴奏を。

石田さんが、いま取り組んでいるバッハの無伴奏。

一夜で、全6曲を演奏するコンサートも、12月に控えてます。

さっと、登場し、淡々と弾き始めるその音色は、いつもの石田サウンド。

優しくて、鋭くて、繊細で、でも、強い求心力をもってる。

でも、さすがに、この場所では響かない。

わたくしの場合、ヴァイリンの無伴奏は、レコード時代、教会で録音されたアーヨ盤に親しんだものですから、音の響きの按配に、もどかしさを覚えました。
でもさすがの石田さんですよ、ともかく美しいバッハ。
静々と迫ってきました。

途中途中で、チューニングに細心の中止を払ってました。
音が自分でつかめてないのかと思ったら、この方丈内は、人いきれもあるし、山の中腹だから、寒暖の差が激しく、外と内で温度差が激しい。
実際、蒸し暑かった。
そう、湿気だったようです。

最後は、初聴きのグリエールの作品。
グリエールは、ロシアの後期ロマン派で、その濃厚サウンドがお気に入りの作曲家ですが、この8つの作品も、ほんと、気にいりました。
完全に性格の異なる8つの小品の集まりですが、それぞれにみんな可愛いし、抒情的だし、ロシアならではの歌にもあふれてます。
 こんなような曲が、もしかしたら、この場所には、トーン的にはよかったのかもしれません。
次の、このコンビの定番、ヘンデルとともに、まったく間然とすることなく、熱気もはらみながらの素晴らしい演奏でした。

 音のこと、あれこれ書きましたが、でもですよ、でもでも、こうした場所で、音楽が聴ける。
しかも、お馴染みの方々の演奏で。
こんな素晴らしい企画は、これで終わりにならずに、この先もずっと続いて欲しいです。

そんなこんなを、わいわい話しながら、音楽堂チームと、今回手分けして、聴いた仲間のみなさんと、大船へ繰り出して、ナイスな居酒屋で楽しく一杯

Kenchouji8

主催された如水会鎌倉支部、北鎌倉湧水ネットワークのみなさん、ミュージシャンズ・パーティさま、そして鎌倉市、建長寺、神奈川フィルの、それぞれみなさん、ありがとうございました。

そして、なにより、石田さん、山本さん、最高ですぜ

みなさま、おつかれさまでした。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2014年4月 6日 (日)

バッハ ミサ曲ロ短調 アバド指揮

Tokyotower_201404_a

東京の桜は、もうほぼ終わってしまいましたが、ピーク時に見てきました。

左下の写真集にまとめておきたいと思います。

桜は、パッと咲いて、1週間ぐらいで、サッと散ってしまう、その潔さが刹那的で、その魔的なまでの美しさも、儚いから許されるのかもしれない。

咲いたあとの、花吹雪も、頼むから散らないで~的な、別れの悲しさ。

咲いてる時も、散る時も、日本の美しい春、そんな桜です。

Abbado


 バッハ   ミサ曲 ロ短調 

   S:ヴェロニク・ジャンス     Ms:アンネ・ゾフィー・オッター

   T:チャールズ・ワークマン   Bs:ホセ・ファン・ダム

     クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      スウェーデン放送合唱団

                       (1999.2.26 @ベルリン)


アバドの「ロ短調ミサ」。
これは、正規に残された演奏ではなくて、わたくしがFM放送を録音したものです。

カセット・テープからCDRに焼き起しました。

録音当時は、さして印象に残っておりませんでしたし、なんせ、カセットだったので、溢れかえるCDのなかにあって、繰り返し聴くこともなかったのです。

それを数年前にCDR化して、じっくりと聴いてみた。

そして、これが実に素晴らしい演奏だとわかったのでした。

 アバドのバッハの演奏は、ブランデンブルクが有名ですが、声楽作品では、「マタイ受難曲」をミラノ時代に指揮していたほか、ロンドン響でも、カンタータなどを数曲演奏しておりました。
そして、ベルリン時代、満を持して取り上げた「マタイ」は、1997年のことでした。
注目されたこの演奏、その模様は、レコ芸等の雑誌でも、伝えられたが、かなり抑制され、淡々としたものだったようで、福音史家のシュライヤーが、かなり苛立っていたとも報道されました。

当時のアバドの演奏には、たしかに、気の抜けたような瞬間を感じさせるようなものもあったり、一方で、得意の演目はさらに磨きがかかっていたものです。
長らくエヴァンゲリストを歌い続け、隅々まで知り尽くしたシュライヤーとの共演自体も、もしかしたら、アバドの目指そうとした「マタイ」からしたら失敗だったのではないかと、勝手に想像もしたものです。

この「マタイ」のライブは、ムジコムというイタリアのレーベルから正規発売されてますが、まったくの入手難となってまして、欲しくてしょうがないです。

さて、その「マタイ」から2年後にとりあげた、「ロ短調ミサ」。

アバドがベルリン・フィルにもたらした改革のひとつは、「響き」。

「カラヤン時代は、どの時代の音楽も、同じ響きで演奏してました。そんなベルリン・フィルの一色しかない響きに強い不満を感じたのです。そこで、近年急速に進化した古楽研究の成果も吸収しながら、その時代に相応しい響きと演奏様式をベルリン・フィルに持ち込みました。
 ご承知のように、バロック・古典・ロマン・現代と、その時代によって求められる響きは異なります。これを実現するために、数年かけて、世界各国の優秀な若手演奏家を採用するなど、ベルリン・フィルの新陳代謝を進めました。その結果、ベルリン・フィルは、さらに国際化するのに成功したと思います」

アバドが2003年に、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したときに、来日したおりのインタビュー記事です。

まさに、この言葉通りの響きが、このロ短調ミサの演奏からは聴こえてまいります。

おそらく、マタイの97年から、この99年の間での試行錯誤が、ここに結実したのではないでしょうか。
極端なピリオドではありませんが、奏者も合唱も少なめに刈り込んで、ヴィブラートは抑えめに、透明感あふれる清らかなバッハ演奏となっております。
オーケストラのソロのすべてにいたるまで、こうしたアバドの意向は行きわたっていて、グロリアにおける、ソプラノソロのオブリガート・ヴァイオリンを伴った場面は、いえも言われぬ美しさなのでした。

シュライヤーのような大ベテランを廃して、すっきり系の歌手たちを集めたのも成功の要因。
若いころはともかく、後年の劇的なシュライヤーのバッハは、カラヤンの指揮にこそ相応しく、アバドの目指すバッハには合わなかった。
とりわけ、ジャンスとオッターの清流のような歌声は、耳にも、心にも極めて優しく響きました。
ただ、ファン・ダムは少し甘味にすぎるかな。

この静的で、清らかなバッハに食い足りない思いを描く方もいるかもしれません。
もしかしたら、いずれ、正規音源として出てくるかもしれませんが、バッハ演奏に答はありません。
ベルリン・フィルで、このような演奏を打ちたてたこと自体が、驚きだし、ラトルの功績の端緒は、アバドのこうした革新にこそあったわけです。

アバドは、その晩年、バッハの音楽をつねに聴いていたそうです。
きっと、マタイも含めて、新たなバッハ演奏を思い描いていたかもしれません。

Karajan


こちらは、カラヤン盤。

1972年録音。ヤノヴィッツ、ルートヴィヒ、シュライヤー、カーンズ、リッターブッシュ、ウィーン楽友協会と、いつものカラヤン・チームは、オペラでも演奏できそうなメンバー。

アバドの演奏との違いの大きさに、いまさらながら驚き。
壮麗で、劇的で、テヌート気味に進行する場面も多く、カラヤン臭もたっぷり。
美しさの概念もいろいろありで、これはこれでまた独特の美的な演奏に思います。
しかし、大規模に演奏されたバッハは、いまの耳からすると、大時代的で、何度も聴くには辛すぎるものがあります。
歌手たちの美声は驚きですが、ヴィブラート過多の歌い口は、バッハにはもう厳しく感じるのです。

カラヤンの演奏時間は、合計126分。
アバドは、110分です。

このカラヤンと、アバドの演奏との間の四半世紀の流れは、ベルリン・フィルにとっても、そして音楽演奏スタイルの変遷ひとつをとってみても、大きな変革期にあったものと痛感します。
 一方で、そんな演奏スタイルという枠を超越して、バッハや、その先にある神に帰依してしまったような、ハンス・マルティン・シュナイト師の大演奏もわたくしは体験しております。

復活祭(20日)は、アバドの3か月忌、ロ短調ミサをその前に聴いてみました。

Tokyotower_201404_b


過去記事

 「アバドのブランデンブルク協奏曲」



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2014年4月 4日 (金)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 リヒター

Tokyotower_20140328


モクレン(白木蓮)の花も、満開を過ぎて、華麗な香りを残しつつ散っていました。

3月のおしまいのころ。

季節の移り変わりのなかで、一番、劇的なのが、晩冬~初春。
しかも、ここ数年、いきなりの、まったくの春がやってくる感があります。

着るものも激しく替えなくちゃなんない。

オーバーを脱ぎ捨て、薄手のコートは手元に残しつつも、冬物のスーツやジャケットでは暑い。
街に新入社員が目立つようになる晴天の日は、ジャケットすら暑くなって、シャツ1枚で歩きたくなる昼時。

1年のうちで、一番、めんどくさい季節。

でも、爆発的にやってくる、春の美しさには、抗しきれません。

Bach_goldberg_richter

  バッハ  ゴールドベルク変奏曲

      チェンバロ:カール・リヒター

                (1970.4 @ミュンヘン)


なんか、とっても久しぶりに聴く「ゴールドベルク」

しかも、わたくしのような世代には、絶対的なバッハ再現者だったリヒターの演奏で。

「二段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」

日本語にすると、やたらと堅苦しく、娯楽性ゼロの音楽のように思えます。

バッハ自身による、この曲の名称なんです。

「眠れぬ夜のお楽しみにぃ~」、みたいな軽いタイトルを、間違ってもつけないとこが、バッハ様のいいところでしょうね。

アリア主題を、曲の最初と最後に置き、その間を30の巧みな変奏で埋める、しかも、それらは、フランス風序曲というドラマティックな作風を頂点に、曲順の倍数によって、形式を変えるという、緻密かつ律儀な作風になっているのです。

そんな、構成の姿に感づいてしまったら、本来の、お休みミュージックの機能はなくなり、いやでも、この素晴らしい音楽に、耳をとぎ澄まなくてはならなくなります。

わたくしが、音楽を聴き始めて、ほんのちょっとの間をおいて、目ざめたのがバッハの世界。
当時は、バッハ演奏は、カール・リヒターが最高峰にあり、レコードも当然に、リヒターを選んでおけば大丈夫、みたいな感覚でありました。
 指揮も、鍵盤楽器も、リヒターであることが、定番でした。
リヒター以外に、ミュンヒンガーやクレンペラーあたりが指揮者として、ヴァルヒャとルージチコヴァ、アラン、グールドあたりが鍵盤奏者として、それぞれが70年代初めの、わたくしのバッハ演奏のイメージでした。

マリナーや、コレギウム・アウレウム、レオンハルトは、もうちょっとあと。

このリヒターによる「ゴールドベルク」の演奏は、当時、レコード2枚にカッティングされて発売されました。

繰り返しを全部おこなっての77分間は、まったく弛緩することなく、いつものリヒターらしい、厳しい造形を背景にしたシビアな音楽です。
当時は、4面のレコード面を、少なくとも3回、裏返したり、セッティングし直したりの作業が伴いました。
 それが、いまや、1枚のCDで、連続して聴くことができる。
その革新ともいいたくなるような、一気聴きの、うれしさ。

そして、細部にわたるまで、気を配った、徹底した緻密な音楽造り。
余計な思い入れや、表情付けはゼロながら。
ドライだけど、バッハに帰依した演奏家の熱い思いが伝わってくる演奏です。

それにしても、冒頭のアリアが、散々に多彩な変奏や、鮮やかな演奏技法を味わったのちに、すべてを諭したように、静々と最後に、再現されるとき。
本当に、心から感動いたします。
どんな演奏、どんな編成を伴ったものでも、間違いなく、人の心を動かします。

今日はバッハでした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

いぬ ねこ アイアランド アバド アメリカ音楽 イギリス音楽 イタリアオペラ イタリア音楽 ウェーベルン エッシェンバッハ エルガー オペラ カラヤン クラシック音楽以外 クリスマス クレー コルンゴルト コンサート シェーンベルク シベリウス シマノフスキ シュナイト シュレーカー シューベルト シューマン ショスタコーヴィチ ショパン スーク チャイコフスキー チャイ5 ツェムリンスキー テノール ディーリアス ディーヴァ トリスタンとイゾルデ ドビュッシー ドヴォルザーク ハイティンク ハウェルズ バス・バリトン バックス バッハ バルビローリ バレンボイム バーンスタイン ヒコックス ビートルズ ピアノ フィンジ フォーレ フランス音楽 ブラームス ブリテン ブルックナー プッチーニ プティボン プレヴィン ベイスターズ ベネデッティ ベルク ベルリオーズ ベートーヴェン ベーム ホルスト ポップ マリナー マーラー ミンコフスキ メータ モーツァルト ヤナーチェク ヤンソンス ラフマニノフ ランキング ラヴェル ルイージ レクイエム レスピーギ ロシア系音楽 ローエングリン ワーグナー ヴェルディ ヴォーン・ウィリアムズ 北欧系音楽 古楽全般 器楽曲 小澤征爾 尾高忠明 幻想交響曲 料理 新ウィーン楽派とその周辺 旅行・地域 日本の音楽 日記・コラム・つぶやき 映画 書籍・雑誌 東欧系音楽 歌入り交響曲 現田茂夫 神奈川フィル 第5番 若杉 弘 趣味 音楽 飯守泰次郎 R・シュトラウス