カテゴリー「バッハ」の記事

2017年1月 6日 (金)

バッハ トッカータとフーガ ニ短調 リヒター

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2017年1月2日の朝焼け。

実家のあるいつもの山の上。

吾妻山です。

朝5時に起きてしまい、思いきって登りました。

日の出は、6時51分。

日の出前は、周辺がこのように朝焼けに染まります。

真鶴に遠くに伊豆半島。

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濃いオレンジの夕焼けとはまた違った、濃ピンク系? 朝焼け。

そして、もう少し東に目を向けると、相模湾から太陽が昇る様子が本来なら見えるのでした・・・・

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神奈川から見ると、遠く房総半島方面。

こりゃまるで、UFOのように見える日の出。

年末年始、晴天に恵まれたなか、この日の朝だけ、狙ったように雲に覆われました・・・。

ちーーん。

Richter

    バッハ  トッカータとフーガ ニ短調 BWV565

                     カール・リヒター

            (1964.1 @コペンハーゲン イエスボー教会)


ともかく有名な、こちらの名曲。

冒頭だけで、クラシックをふだん聴かない方にもピピッとくるものを持ってる曲。

トリルから始まる最初の2小節。
これが、衝撃的な場面のバックグランドを飾る音楽、いや、それこそ効果音として、数々の映像などに使われた。

でも、ほとんど多くの方々は、その2小節より先の即興的ともいえるフーガ展開部分を聴くことなく、やりすごしているだろう。

子供時代のわたくしも、そんなひとり。

 でも、そんな認識に、ファンタジー的とも呼べる喝を入れてくれたのは、NHKの「朗読の時間」というFMラジオ番組だった。
中学生だった、夏休みの間だったろうか。
朝の10時台くらいに、和洋の文学作品を、NHKアナウンサーが朗読する20分の番組で、1冊の本を、数日かけて取り上げていた。
そして、朗読に織り交ぜて、クラシック音楽を中心に流していたわけ。

そのときの音楽場面が、トッカータとフーガ。

そして、文学小説は、「不思議の国のアリス」。

不可思議な妄想のわく物語に、冒頭場面を外したフーガ場面が巧みにマッチングして、岩波文庫も購入し、耳と文字とで、ルイス・キャロルのアメイジングな文学がリアルに迫ってきて聴こえたものです。

あれから数十年も経ていますが、この作品のイメージから、アリスの世界をぬぐい去ることはできません。

 リヒターの旧盤は、かつて記事にしましたが、放送で使用されていたのは、おそらく、リヒターの2度目のアルヒーフ盤。

虚飾を廃し、音を切り詰めた、緊張感すら感じさせる演奏に思います。

近時、バッハの作品ではないのでは説もありますが、そんなことは関係なく、妄想引き起こす、幻想的な8分間に、いまもって魅せられます。。。。

2017、よき年になりますよう!

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2016年12月29日 (木)

バッハ クリスマス・オラトリオ シュナイト指揮

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冬のクリスマスのツリーの定番は、恵比寿のガーデンプレイス。

基本のカラーだけ、そして、装飾も基本のカラーに徹したシンプルな美しさ。

華やかだけど、華美じゃない。

毎年、手を加えてはいるでしょうけれど、毎年、ここが、わたくしのナンバーワンイルミ。

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ドイツのクリスマスマーケットでは、考えてもみたくもなかったテロ行為が起こり、キリストの生誕を祝う和やかなキリスト教者最大のイヴェントが、それすらを許さないごく一部の狂信者たちの行為により、ずたずたになった。

映像などでみた、踏み散らされ、破損したクリスマス・グッズを見ると、ほんとうにやるせない思いになった、そんな今年のクリスマスであります・・・・・

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  バッハ  クリスマス・オラトリオ

   Bs:フーベルタス・バウマン、フランク・ザーベッシュ=プア

   Cont:ミヒャエル・ホフマン

   T :ハイナー・ホップナー

   Bs:ニコラウス・ヒレブラント

 ハンス・マルティン・シュナイト 指揮 コレギウム聖エメラム

                        レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊

               (1977年6,7 @レーゲンスブルク 聖エメラム教会)


バッハの大作、でも実際は6つのカンタータの集積であり、クリスマスに全部一気に聴く必然性もいわけで、以下のような、降誕節にはじまる1月の祝日までを念頭においたもの。

   ①降誕節第1祝日 24日

   ②降誕節第2祝日 25日


   ③降誕節第3祝日 26日

   ④新年          1日

   ⑤新年最初の祝日 (2日) 

   ⑥主顕節        6日
      

>以下、一部以前の自己記事を引用<

主顕節というのは、イエスが初めて公に姿を現わされた日のことで、東方からの3博士が星に導かれて生後12日目のイエスを訪ねた日をいう。

1734年、バッハ壮年期に完成し、その年のクリスマスに暦どおりに1曲ずつ演奏し、翌新年にもまたがって演奏されている。

バッハの常として、この作品はそれまでの自作のカンタータなどからの転用で出来上がっているが、旋律は同じでも、当然に歌詞が違うから、その雰囲気に合わせて歌手や楽器の取り合わせなども全く変えていて、それらがまた元の作品と全然違う雰囲気に仕上がっているものだから、バッハの感性の豊かさに驚いてしまう。
バッハのカンタータは総じて、パロディとよく云われるが、それは自作のいい意味での使い回し、兼、最良のあるべき姿を求めての作曲家自身の信仰と音楽の融合の証し。

なんといってもこの「オラトリオ」の第1曲を飾る爆発的ともいえる歓喜の合唱。
これすらも、カンタータ214番からの引用だが、調性が違っているし、当然のことながら歌詞もまったく違う。
こんな風に分析するとするならば、この6つのカンタータの集積だけでも、カンタータの全貌を理解しつつ聴かねばならいからたいへんなこと。

 このクリスマス・カンタータにおいても、超有名な、マタイのコラール(それすらも古くからのドイツ古謡の引用であるが)が出てきたりする。

クリスマス音楽のお決まりとしての「田園曲」=「パストラーレ」は、第2夜のカンタータの冒頭におかれたシンフォニアである。
この曲だけでも単独で聴かれる、まさにパストラルな心優しい癒しの音楽である。
単独の演奏では、あまりにも意外な演奏だけれども、フィードラーとボストン・ポップスが好きだったりするくらいで、独立性のある名品であります。

それと、この曲集で印象的な場面は、ソロと合唱、ないしはエコーとしての合唱のやりとりの面白さと遠近感の巧みさ。
その場面においては、私のこの曲のすりこみ演奏であるリヒター盤の、ヤノヴィッツの歌が完璧に耳にあって、他のソプラノではどうしようもなくなっている。

リヒターの刷り込み演奏は、ひとえに第1曲が収められた、アルヒーフのリヒター・サンプラーというレコードゆえでして、そこには、マタイや独語メサイア、ハイドン、トッカータとフーガ、イタリア協奏曲など、マルチ演奏家としてのリヒターが浮き彫りにされた1枚であった。
当然に、布張りのカートンに収められた、「リヒターのクリスマス・オラトリオ」のレコードは、実家のレコード棚に鎮座する一品であります。

加えて、思い出深いのは、東独時代の古色あふれ、雰囲気豊かなフレーミヒとドレスデンフィルの演奏。
70年代の名歌手たちの歌唱にも感銘をうけます。

そして、数年前に入手したのが、ハンス・マルティン・シュナイト盤。
レコード時代に気にはなっていたものの、極めて地味な存在だった。
アルヒーフに、ヨハネやモテト、モンテヴェルディなどをそこそこに録音していたシュナイトだけど、あまりクローズアップされなかったし、わたくしもあまり気にとめてなかった。
そして、急逝したカール・リヒターの後任として、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団の指揮者になったけれど、残念ながら正規録音がなされなかったことも極めて残念なこと。

当時の雑誌を読んだりすると、マタイを振ってるし、なんと、オペラ指揮者としての経歴も豊富なため、リングも指揮してるし、ベルリン国立歌劇場と来演して魔笛も上演してることがわかったりしたことも、シュナイト師に親しく接するようになってから・・・・。

そう、東京フィル主体のシュナイト・バッハの活動のあと、神奈川フィルの指揮者となって、その多くのコンサートに接するようになった。
ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ブルックナー、シュトラウス等々、ドイツ本流、そして南ドイツ風の柔らかさもあわせもった本格的な名演を数々聴きました。
神奈川フィル以外でも、ヨハネとロ短調の圧倒的な演奏にも立ち会うことができました。

 そんなシュナイト師と中世ドイツの風合い色濃く残る街、レーゲンスブルクの高名な聖歌隊とのこちらの音盤。
南ドイツの古雅な雰囲気をたたえた、味わい深い演奏です。

70年代半ばの当時の古楽器も一部使い、オーケストラの響きは丸く優しい。
そして聖歌隊の無垢の合唱と、聖歌隊メンバーのボーイソプラノとコントラルトのソロは、現代の耳からすると、ちょっと厳しい点はあるかもしれないが、清らかで美しい。
 随所にあるコラールにおける、祈りの想いを強く感じさせるシュナイトならではの真摯な歌。実は、それらが一番素晴らしいかも。

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レーゲンスブルクのエメラム教会での録音も、こんな画像をながめながら聴くと、とても心あたたまり、清らかな気持ちになります。
ロマネスク様式に、途中バロックの華美さも加わった、ちょっと華やかな教会。
行ってみたいものです。

ことしもあと少し。

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2016年3月27日 (日)

バッハ マタイ受難曲

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桜の季節は、イースター週間と重なりました。

キリスト教徒国にとっては、クリスマスと並ぶ一大祭で、長いお休みがある。

この時期、欧米系の外国人の方々の観光客も多くみかけるのも、そのため。

日本では、クリスマスはあんなに大騒ぎするのに、復活祭はまったく話題になりません。

大好きな音楽、そして、もっとも大切な音楽のひとつ。

偉大な、バッハのマタイ受難曲。

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  J・S・バッハ  「マタイ受難曲」 BWV244

人類に残された音楽の至芸品。

それが、バッハのマタイ。

わたくしもご多分にもれず、最大級に愛する音楽として、ワーグナーやディーリアスの音楽とともに双璧の存在です。

イエス・キリストの受難劇。

すなわち、イエスの捕縛から、十字架上の死、そして、埋葬後の復活までを淡々と音楽で描く作品であるが、それがキリスト者のための音楽だけにとどまらず、人類普遍の、そして人間の存在の核心をついたという意味で、まさに人類のために存在する音楽作品なのだ。

 テキストは新約聖書のマタイ伝。

劇的でありつつ、ほかの伝記に比べて一番内省的かもしれない。

そんな聖書にバッハは、途方もなく感動的な音楽をつけた。

イエスの受難の物語を語る福音史家は淡々と、でも、ときに聖句に劇的な歌い口を示します。
その客観的な存在が、イエスへの同情、人間への問題提起を求めるさまが、ほんとうに鋭く、魂が揺さぶられる。

むごい感情をむき出しにする群衆と、聖なる清らかな合唱の二律背反が生むドラマティックな落差。

ソロ歌手たちの切実なアリアたちが、受難劇の進行のなかで、われわれ聴き手・人間たちの心に寄り添いつつも、その悲しみへの共感をよりそそる。

 マタイ受難曲、最大の聴きどころは、ペテロの否認の場面。
イエスを知らないと、イエスの予言通りに3度言ってしまうペテロ。
そのあと、にわとりが鳴き、イエスの預言が成就することで、激しく泣くペトロ。
「憐れみたまえ、わが神よ」
アルト独唱の名アリアは、それを聴くわれわれも、だれしもが思う自戒の念にとらわれ、心揺さぶられる。
わたくしは、必ず、泣いてしまう。

Richter

マタイといえば、リヒター
リヒターといえば、マタイ。

そんな図式が、6~70年代には行きわたっていて、わたくしも、同じく、そんな洗脳に近い想いに凝り固まっていた人間のひとりです。

人を寄せ付けないまでの峻厳、厳格なバッハ。
イエスをめぐる人間ドラマも容赦なく、切れ込みは鋭く、その一方で、その視線は鋭く、そして優しい。
重い足取りで始まる大ドラマも、最後は悲劇にあふれながらも、聴く人を包み込み、次へと羽ばたけそうな、大きな翼を与えてくれるような、後押しの巨大な力にあふれている。
そんな「ドラマ」に満ち溢れている、「リヒターのマタイ」なのであります。

これまた絶対的なエヴァンゲリストとしての存在であった、ヘフリガーの禁欲と情感、ともに満ち溢れる福音史家が完璧すぎる。
テッパーのアルトを始め、歌手たちも、ともかく素晴らしいリヒター旧盤。

つぎに、若き日に、マタイにより親しんだのが、リリングとシュトットガルトとの来日公演の放送。
明るい歌にあふれたリリングの指揮は、クラウスの福音史家とともに、何度もテレビ放送されたなか、マタイが完全に血肉化されるのを感じました。
聖書も全体を読み、ますます、マタイ受難曲への理解が進んだ大学生の時代です。

そのあとのマタイ遍歴は数々あれど、いつも戻るのはリヒター。

でも、柔らかで、ドイツの教会のひとコマを思い起こさせてくれるヨッフム盤。
ここでは、ヘフリガーが相変わらず素晴らしいのと、コンセルトヘボウの伝統あふれる木質の響きがなんとも美しいのです。

CD時代に購入した、リヒターと違う意味での峻厳なレオンハルト盤。
そこでは音楽が息づき、バッハの楽譜優先のピュアな再現がかえって、音楽に力を与えているようだった、

あと、明るく伸びやかなヘルヴェッヘ盤。
新鮮な響きのなかに、市井の人々の緩やかな毎日までも感じさせてくれる。

 
旅行鞄に、余裕があれば、この4つを持って行きたいマタイ。

でも、ひとつと言われたら、そう、あれしかないですね。

 あと、アバドのマタイを是非聴きたいものだが、ベルリンでの音源、なんとかならないものか・・・・・

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2015年4月 5日 (日)

バッハ ヨハネ受難曲 シュナイト指揮

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イースター週間。

今年の聖金曜日は、4月3日。

復活祭は、5日です。

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六本木の霊南坂教会。

満開の桜の見ごろに。

そして、イースターの時期には、欧州、ことにドイツでは、バッハのふたつの受難曲と「パルシファル」が演奏されます。

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      バッハ   ヨハネ受難曲 BWV245

  福音史家:畑 儀文       イエス:戸山 俊樹
  ソプラノ :平松 英子       メゾ・ソプラノ:寺谷 千枝子
  バリトン、ピラト:福島 明也

   ハンス=マルティン・シュナイト指揮

       シュナイト・バッハ管弦楽団/合唱団

                     (2005.11.26 @オペラ・シティ)


バッハの偉大なふたつの受難曲。

現存するのは、そのふたつですが、生涯に5つの受難曲を手掛けたともされてます。
(ヨハネ、マタイ、ルカ、マルコ、ヴァイマール)

マルティン・ルターの宗教改革から端を発したプロテスタント教派。
その音楽においても、ローマ・カトリックは、降誕と復活に重きをおいたものが多いのに比し、プロテスタントでは、降誕と受難が重んじられてます。

 ですから、バッハの受難曲も、その名の通り、ゲッセマネにおけるイエスの捕縛と、ピラトによる尋問、裁判、磔刑、十字架上の死までを描いていて、その後の復活については、触れられておりません。

「マタイ」と「ヨハネ」、そして「ロ短調ミサ」、いずれも、バッハの最高傑作、いや、人類がもちえた最上の音楽のひとつだということに、みなさま、ご異存はありませんね。

1724年(39歳)の作が「ヨハネ」。
1727年(42歳)に、「マタイ」。
ともに、ライプチヒ時代の作品。

「ヨハネ」は、イエスを追い詰めてゆく群衆がとても劇的に描かれていて、合唱やコラールの比率が高い。
おのずと、全体は動的なイメージ。
それは、すなわち、バッハの意欲的な若さにもつながります。
 一方の「マタイ」は、ソロのアリアが多く散りばめられ、それぞれの心情吐露は、深いものがあります。
「ヨハネの動」に対して、「マタイの静」です。
ライプチヒのトーマス・カントル就任の初期の「ヨハネ」に比べ、3年後の「マタイ」では、教会歴に即した数々の活動や、おそらく信仰上の想いの深化なども加わり、内面的掘り下げも深くなったに違いありません。

 合唱は、3種類の役割を担います。
受難の出来事に対し、イエスに寄り添うような思いを吐露するコラール。
合唱曲として。
そして、群衆として。
 アリアは、登場人物たちの想いや、しいてはバッハ自身の心情を歌う。
そして、レシタティーボは、福音の語り。
 こうした色分けは、「ヨハネ」の方が明確に思います。

そして、もうひとつ、イエスの死に向かって、淡々と進む「マタイ」では、最後が大きな合唱で、それは、悲しみに覆われ、涙にぬれていて、聴き手をもその悲しみと同情へと巻き込んでしまうものです。
 一方の「ヨハネ」は、一気にイエスの磔刑とその死まで駆け抜け、最後は、イエスよ安らかなれと慰めの合唱があり、そして、コラールで終る。
そのコラールは、イエスをほめたたえ、自身の死のあとの蘇りも願うもの。
イエスそのものではありませんが、死後の蘇りに言及したコラールが、受難曲の最後にあることによって、悲しみのうちに終わるのでなく、救いの光を感じさせながら、力強く終るのです。
日本を愛したシュナイトさんが、このCDの解説でも、そうしたことに触れてますし、この音盤でも、実際にその演奏に接したときにも、こうした「ヨハネ」の性格を、浮き彫りにして、大いに、感銘を受けました。

 「ペテロの否認」は、マタイの中で最大の聴きどころですが、こちらヨハネでも、その場面は描かれてます。
本来のヨハネ福音書には、このシーンはないのですが、バッハは、ほかの福音書から引用してまで、ここに描きたかった名場面。
人間の弱さと悲しさ、バッハは受難の物語に絶対に欲しかったテーマだと確信していたのでしょう。
福音史家の語りも、その後のアリアもふくめ、マタイほどの、深淵さはありませんが、それでもなかなかに劇的です。アリアはテノールにあたられてます。

 さらに、ヨハネ福音書にない場面があって、それは、イエスが息を引き取ったあとの、天変地異。
ここは、マタイやルカから採用されてまして、イエスの神性の表出と神からのメッセージをあらわすこの事象は、人間ドラマとも呼べる受難曲のなかにあって、大きなアクセントとなってます。

アリアにも、至玉の名品がぎっしり。
イエスに従う思いを、フルートを伴いながら、軽やかに歌うソプラノのアリア。
十字架上で、イエスが、「こと足れり」と言い、息を引き取る場面での、痛切なる悲しみのアルトのアリア。これは泣ける。そして、その後の消え入るような福音史家のレシタティーフ。
このあたりが好きです。

 シュナイトさん、3度目の録音で聴きました。
70年代にレーゲンスブルクでアルヒーフレーベルに、あと2回は、日本でのシュナイト・バッハとのライブ。
ライプチヒのトーマス教会で歌うことからスタートしたシュナイトさん。
その体に沁みついたバッハの魂、ドイツ音楽の神髄を日本で披歴してくれたことを、まことに感謝しなくてはなりません。
 宗教音楽ばかりでなく、ドイツ各地でオペラの指揮をしていて、ワーグナーのリングまでその記録にはあります。
その広範なレパートリーを、もっと日本で聴きたかったところですが、体調不良でいまは、ドイツで静かに暮らしております。
 コンサートでは、わたくしたち聴き手には、いつも好々爺然とした方でしたが、練習では、ほんとうに厳しくて、驚きの逸話もたくさんあります。

それもこれも、音楽に対する愛と奉仕。
そして、日本の演奏家と聴き手に、いかに自分の持っているものを体感させたいとの想い。

そんなことを、このヨハネを聴いても感じます。
言葉に乗せた思いを音楽で表現すること。
ドイツ語のディクションも含め、そうとうな練習の末に、成し遂げられたこの演奏の素晴らしさ。
シュナイト・ファミリーともいえる、ソロのみなさんや、各楽器奏者の精度もとても高いです。

最後のコラール。
2009年に聴いたライブと同じく、じわじわとカーブを描くように盛り上がっていき、祈りの気持ちがまるで高まっていくかのように、輝かしさも感じさせつつ感動的に終結します。

このように、エンディングに、いつも、おおいなる感動が隠されている、シュナイトさんの演奏。神奈川フィルのコンサートで、何度も同じように体験しました。
本当に、忘れ得ぬことばかりです。

今年、85歳になるシュナイトさん。
いつまでもお元気でいて欲しいです。

ところで、シュナイトさんの生地は、ドイツのキッシンゲン・アム・マインとされてますが、ご本人が、インタビューに応えて語るものでは、同じバイエルンのリンダウとしていますが、どっちなんでしょうね。かなり離れてますよ。
リンダウは、スイス・オーストリア国境に近く、ボーデン湖に接する美しい街です。
いつか行ってみたいものです。

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2014年11月30日 (日)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 シュタットフェルト

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神宮外苑のいちょう並木。

連日晴れていたのに、土曜の午前は、よりによって厚い雲に覆われる曇天でした。

それでも、地面に降り積もった黄色い葉と、曇り空でも、上からは黄色い光が舞い降りてきて、目にも優しく、歩道の散策も楽しいものでしたね。

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  バッハ   ゴールドベルク変奏曲

     Pf:マルティン・シュタットフェルト

             (2003.10 @カイザースラウテルン)


最近、よく眠れない。

夢ばかり見て、寝た気がしないうえ、朝、やたらと早く起きてしまう。

酒を飲んだ晩も、飲まない晩も、みんなおんなじ。

だから、電車に乗って座ったら即寝。
昼食べたら、パソコンのまえで、うつらうつら。
いかん悪循環。

そんないまの自分に、ぴったしの音楽が、なんといっても「ゴールドベルク」。

ただ、ワタクシは、この曲の作曲を依頼したカイザーリンク伯爵のように不眠ではありませんよ。
ちゃんと寝てるけど、目ざめが早すぎなだけ。

この曲、もう何度か取り上げてるし、いつもその内容は、同じようなことを書いてます。

あらためて、バッハのこの作品の緻密さと、全体が網の目のように、互いに結びつけあっているという完璧な統一感、それらを実によく解らせてくれる演奏で。

10年前の録音ですし、もう、多くの方がお聴きかもしれません。
わたくしは、ビジュアル的にも、売り出し方が気にいらず、どこぞの若造・・・・的な、偏向反応で、遠ざけておりましたが、彼のCDをいくつか入手したのは今年に入ってのことでした。

その彼の名は、マルティン・シュタットフェルト。

1980年、ドイツ、ゴブレンツの生まれ。
録音時23歳、現在は34歳の若手。

97年、ルービンシュタイン・ピアノコンクール優勝
01年、ブゾーニ国際ピアノコンクール入賞
02年、バッハ・コンクール優勝
そして、03年の、この録音。

若さに似合わぬほどの巧みな語り口と、全体を見通した考え抜かれた表現力。
でも、一方で感じさせる、奔放なまでの若さの爆発という眩さ。
才気走ったところを感じさせずに、強い説得力を鮮やかな手口でもって披歴。

テンポや、表情は、ときに動きますが、それが、グールドのような感性的、突発的なものでなく、知的に考え抜かれたものと感じます。

最初と最後におかれたアリアが、それぞれに、異なる味付けでもって、嫌味なく滔々と奏されます。
楚々と展開するカノンのあと、変奏の中央に位置する16番目の序曲をきっぱりと弾いたあとの後半。
この前半と、後半の鮮やかな対比は、バッハの意図を見事に表出しているかと思います。

わたくしには、ひとつひとつの変奏を個々に楽しめる個性的な演奏だし、全体を見渡して作品の緻密さに感じ入ることもできる、いわばマルチな演奏でもありました。

今のところ、ドイツ系の音楽ばかりのシュタットフェルト氏ですが、ショパンやフランスものなんかどうでしょう。

これからも注目の若手ですね。

 過去記事

「マレイ・ペライア盤」

「ピーター・ゼルキン盤」

「レオンハルト盤」

「リヒター盤」

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2014年11月10日 (月)

石田泰尚・山本裕康 デュオ・リサイタル in建長寺Ⅲ

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鎌倉の建長寺。

奥に長く、広い境内は、まだこのあたりは序の口の山門です。

この先の方丈にて、今回が3度目となる、神奈川フィルの誇るふたり、コンサートマスターの石田泰尚さん、首席チェロの山本裕康さん、おふたりのデュオコンサートが行われました。

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こんな感じのセッティングで、三方を取り囲むように、わたくしたち聴き手は、後ろの方は3人掛けの椅子席、畳の上は、座布団に思い思いに座ってのコンサートです。

そして、場所が場所ですから、経文が配布され、みなさまで読経。

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正座して、頼りない声ですが、お声を発して、清々しい気持ちになり、いよいよコンサートです。

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ぎっしり満席。

350人前後でしょうか。

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  ベートーヴェン 3つの二重奏曲より、第1番

  バッハ       無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007

            無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番 ロ短調 BWV1002

  グリエール   ヴァイオリンとチェロのための8つのニ重奏曲

  ヘンデル     パッサカリア (アンコール)

         Vn:石田 泰尚

         Vc:山本 裕康


                 (2014.11.9 @鎌倉 建長寺)

初めて聴きました、ベートーヴェン22歳の頃の作品といわれる二重奏曲。
クラリネットとファゴットによる作品が原曲で、このように、ヴァイオリンとチェロで演奏されることも多々あるそうです。(Musician's Partyの寺田さんの解説より)
 しかも、ベートーヴェン自身の作かどうかも、まだ定まっていないといいます。

若きベートーヴェンらしい、抒情とうららかな優しさに満ちた桂曲に聴きました。
まだ、手慣らし程度、軽いタッチで合わせた、名手のふたりの素敵な演奏でしたよ。

ついで、山本さんのソロで、無伴奏の1番。

あの冒頭を聴いた瞬間に、時間は、歴史ある方丈の空間に止まり、山本さんの奏でるバッハの音楽のみが、その空間を淡々と埋め尽くしてゆくのに感じ入りました。

おわかりいただけると思いますが、こうした、木造と畳、そこそこ厚着をした、多くの聴き手で満たされた、お堂の中は、音は響きにくく、デッドです。
そのかわり、わたくしたち聴き手には、ストレートに音のひとつひとつが届きます。
 しかし、この日、山本さんも語っておられましたが、演奏する側は、音を響きとして受け止められないので、たいへんに苦慮してしまう。

でも、ごめんなさい、聴き手ですから、この荘厳なる雰囲気も相まって、素晴らしいバッハを堪能しました。
CDで、何度も聴いてる山本さんの無伴奏ですが、回を増すごとに、音楽への切り込みと、集中力を増しているように思います。
日々、鍛練怠りない、まさにプロの技を、こうして、和の空間で味わう喜びは、筆舌に尽くしがたいものです。

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休憩中に、ストレッチに育む方をパシャリ!

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廊下を渡って、方丈の庭園を。

静謐な心持で、後半の、今度は、ヴァイオリンの無伴奏を。

石田さんが、いま取り組んでいるバッハの無伴奏。

一夜で、全6曲を演奏するコンサートも、12月に控えてます。

さっと、登場し、淡々と弾き始めるその音色は、いつもの石田サウンド。

優しくて、鋭くて、繊細で、でも、強い求心力をもってる。

でも、さすがに、この場所では響かない。

わたくしの場合、ヴァイリンの無伴奏は、レコード時代、教会で録音されたアーヨ盤に親しんだものですから、音の響きの按配に、もどかしさを覚えました。
でもさすがの石田さんですよ、ともかく美しいバッハ。
静々と迫ってきました。

途中途中で、チューニングに細心の中止を払ってました。
音が自分でつかめてないのかと思ったら、この方丈内は、人いきれもあるし、山の中腹だから、寒暖の差が激しく、外と内で温度差が激しい。
実際、蒸し暑かった。
そう、湿気だったようです。

最後は、初聴きのグリエールの作品。
グリエールは、ロシアの後期ロマン派で、その濃厚サウンドがお気に入りの作曲家ですが、この8つの作品も、ほんと、気にいりました。
完全に性格の異なる8つの小品の集まりですが、それぞれにみんな可愛いし、抒情的だし、ロシアならではの歌にもあふれてます。
 こんなような曲が、もしかしたら、この場所には、トーン的にはよかったのかもしれません。
次の、このコンビの定番、ヘンデルとともに、まったく間然とすることなく、熱気もはらみながらの素晴らしい演奏でした。

 音のこと、あれこれ書きましたが、でもですよ、でもでも、こうした場所で、音楽が聴ける。
しかも、お馴染みの方々の演奏で。
こんな素晴らしい企画は、これで終わりにならずに、この先もずっと続いて欲しいです。

そんなこんなを、わいわい話しながら、音楽堂チームと、今回手分けして、聴いた仲間のみなさんと、大船へ繰り出して、ナイスな居酒屋で楽しく一杯beer

Kenchouji8

主催された如水会鎌倉支部、北鎌倉湧水ネットワークのみなさん、ミュージシャンズ・パーティさま、そして鎌倉市、建長寺、神奈川フィルの、それぞれみなさん、ありがとうございました。

そして、なにより、石田さん、山本さん、最高ですぜsign01

みなさま、おつかれさまでした。

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2014年4月 6日 (日)

バッハ ミサ曲ロ短調 アバド指揮

Tokyotower_201404_a

東京の桜は、もうほぼ終わってしまいましたが、ピーク時に見てきました。

左下の写真集にまとめておきたいと思います。

桜は、パッと咲いて、1週間ぐらいで、サッと散ってしまう、その潔さが刹那的で、その魔的なまでの美しさも、儚いから許されるのかもしれない。

咲いたあとの、花吹雪も、頼むから散らないで~的な、別れの悲しさ。

咲いてる時も、散る時も、日本の美しい春、そんな桜です。

Abbado


 バッハ   ミサ曲 ロ短調 

   S:ヴェロニク・ジャンス     Ms:アンネ・ゾフィー・オッター

   T:チャールズ・ワークマン   Bs:ホセ・ファン・ダム

     クラウディオ・アバド指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
                      スウェーデン放送合唱団

                       (1999.2.26 @ベルリン)


アバドの「ロ短調ミサ」。
これは、正規に残された演奏ではなくて、わたくしがFM放送を録音したものです。

カセット・テープからCDRに焼き起しました。

録音当時は、さして印象に残っておりませんでしたし、なんせ、カセットだったので、溢れかえるCDのなかにあって、繰り返し聴くこともなかったのです。

それを数年前にCDR化して、じっくりと聴いてみた。

そして、これが実に素晴らしい演奏だとわかったのでした。

 アバドのバッハの演奏は、ブランデンブルクが有名ですが、声楽作品では、「マタイ受難曲」をミラノ時代に指揮していたほか、ロンドン響でも、カンタータなどを数曲演奏しておりました。
そして、ベルリン時代、満を持して取り上げた「マタイ」は、1997年のことでした。
注目されたこの演奏、その模様は、レコ芸等の雑誌でも、伝えられたが、かなり抑制され、淡々としたものだったようで、福音史家のシュライヤーが、かなり苛立っていたとも報道されました。

当時のアバドの演奏には、たしかに、気の抜けたような瞬間を感じさせるようなものもあったり、一方で、得意の演目はさらに磨きがかかっていたものです。
長らくエヴァンゲリストを歌い続け、隅々まで知り尽くしたシュライヤーとの共演自体も、もしかしたら、アバドの目指そうとした「マタイ」からしたら失敗だったのではないかと、勝手に想像もしたものです。

この「マタイ」のライブは、ムジコムというイタリアのレーベルから正規発売されてますが、まったくの入手難となってまして、欲しくてしょうがないです。

さて、その「マタイ」から2年後にとりあげた、「ロ短調ミサ」。

アバドがベルリン・フィルにもたらした改革のひとつは、「響き」。

「カラヤン時代は、どの時代の音楽も、同じ響きで演奏してました。そんなベルリン・フィルの一色しかない響きに強い不満を感じたのです。そこで、近年急速に進化した古楽研究の成果も吸収しながら、その時代に相応しい響きと演奏様式をベルリン・フィルに持ち込みました。
 ご承知のように、バロック・古典・ロマン・現代と、その時代によって求められる響きは異なります。これを実現するために、数年かけて、世界各国の優秀な若手演奏家を採用するなど、ベルリン・フィルの新陳代謝を進めました。その結果、ベルリン・フィルは、さらに国際化するのに成功したと思います」

アバドが2003年に、高松宮殿下記念世界文化賞を受賞したときに、来日したおりのインタビュー記事です。

まさに、この言葉通りの響きが、このロ短調ミサの演奏からは聴こえてまいります。

おそらく、マタイの97年から、この99年の間での試行錯誤が、ここに結実したのではないでしょうか。
極端なピリオドではありませんが、奏者も合唱も少なめに刈り込んで、ヴィブラートは抑えめに、透明感あふれる清らかなバッハ演奏となっております。
オーケストラのソロのすべてにいたるまで、こうしたアバドの意向は行きわたっていて、グロリアにおける、ソプラノソロのオブリガート・ヴァイオリンを伴った場面は、いえも言われぬ美しさなのでした。

シュライヤーのような大ベテランを廃して、すっきり系の歌手たちを集めたのも成功の要因。
若いころはともかく、後年の劇的なシュライヤーのバッハは、カラヤンの指揮にこそ相応しく、アバドの目指すバッハには合わなかった。
とりわけ、ジャンスとオッターの清流のような歌声は、耳にも、心にも極めて優しく響きました。
ただ、ファン・ダムは少し甘味にすぎるかな。

この静的で、清らかなバッハに食い足りない思いを描く方もいるかもしれません。
もしかしたら、いずれ、正規音源として出てくるかもしれませんが、バッハ演奏に答はありません。
ベルリン・フィルで、このような演奏を打ちたてたこと自体が、驚きだし、ラトルの功績の端緒は、アバドのこうした革新にこそあったわけです。

アバドは、その晩年、バッハの音楽をつねに聴いていたそうです。
きっと、マタイも含めて、新たなバッハ演奏を思い描いていたかもしれません。

Karajan


こちらは、カラヤン盤。

1972年録音。ヤノヴィッツ、ルートヴィヒ、シュライヤー、カーンズ、リッターブッシュ、ウィーン楽友協会と、いつものカラヤン・チームは、オペラでも演奏できそうなメンバー。

アバドの演奏との違いの大きさに、いまさらながら驚き。
壮麗で、劇的で、テヌート気味に進行する場面も多く、カラヤン臭もたっぷり。
美しさの概念もいろいろありで、これはこれでまた独特の美的な演奏に思います。
しかし、大規模に演奏されたバッハは、いまの耳からすると、大時代的で、何度も聴くには辛すぎるものがあります。
歌手たちの美声は驚きですが、ヴィブラート過多の歌い口は、バッハにはもう厳しく感じるのです。

カラヤンの演奏時間は、合計126分。
アバドは、110分です。

このカラヤンと、アバドの演奏との間の四半世紀の流れは、ベルリン・フィルにとっても、そして音楽演奏スタイルの変遷ひとつをとってみても、大きな変革期にあったものと痛感します。
 一方で、そんな演奏スタイルという枠を超越して、バッハや、その先にある神に帰依してしまったような、ハンス・マルティン・シュナイト師の大演奏もわたくしは体験しております。

復活祭(20日)は、アバドの3か月忌、ロ短調ミサをその前に聴いてみました。

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過去記事

 「アバドのブランデンブルク協奏曲」



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2014年4月 4日 (金)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 リヒター

Tokyotower_20140328


モクレン(白木蓮)の花も、満開を過ぎて、華麗な香りを残しつつ散っていました。

3月のおしまいのころ。

季節の移り変わりのなかで、一番、劇的なのが、晩冬~初春。
しかも、ここ数年、いきなりの、まったくの春がやってくる感があります。

着るものも激しく替えなくちゃなんない。

オーバーを脱ぎ捨て、薄手のコートは手元に残しつつも、冬物のスーツやジャケットでは暑い。
街に新入社員が目立つようになる晴天の日は、ジャケットすら暑くなって、シャツ1枚で歩きたくなる昼時。

1年のうちで、一番、めんどくさい季節。

でも、爆発的にやってくる、春の美しさには、抗しきれません。

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  バッハ  ゴールドベルク変奏曲

      チェンバロ:カール・リヒター

                (1970.4 @ミュンヘン)


なんか、とっても久しぶりに聴く「ゴールドベルク」

しかも、わたくしのような世代には、絶対的なバッハ再現者だったリヒターの演奏で。

「二段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏」

日本語にすると、やたらと堅苦しく、娯楽性ゼロの音楽のように思えます。

バッハ自身による、この曲の名称なんです。

「眠れぬ夜のお楽しみにぃ~」、みたいな軽いタイトルを、間違ってもつけないとこが、バッハ様のいいところでしょうね。

アリア主題を、曲の最初と最後に置き、その間を30の巧みな変奏で埋める、しかも、それらは、フランス風序曲というドラマティックな作風を頂点に、曲順の倍数によって、形式を変えるという、緻密かつ律儀な作風になっているのです。

そんな、構成の姿に感づいてしまったら、本来の、お休みミュージックの機能はなくなり、いやでも、この素晴らしい音楽に、耳をとぎ澄まなくてはならなくなります。

わたくしが、音楽を聴き始めて、ほんのちょっとの間をおいて、目ざめたのがバッハの世界。
当時は、バッハ演奏は、カール・リヒターが最高峰にあり、レコードも当然に、リヒターを選んでおけば大丈夫、みたいな感覚でありました。
 指揮も、鍵盤楽器も、リヒターであることが、定番でした。
リヒター以外に、ミュンヒンガーやクレンペラーあたりが指揮者として、ヴァルヒャとルージチコヴァ、アラン、グールドあたりが鍵盤奏者として、それぞれが70年代初めの、わたくしのバッハ演奏のイメージでした。

マリナーや、コレギウム・アウレウム、レオンハルトは、もうちょっとあと。

このリヒターによる「ゴールドベルク」の演奏は、当時、レコード2枚にカッティングされて発売されました。

繰り返しを全部おこなっての77分間は、まったく弛緩することなく、いつものリヒターらしい、厳しい造形を背景にしたシビアな音楽です。
当時は、4面のレコード面を、少なくとも3回、裏返したり、セッティングし直したりの作業が伴いました。
 それが、いまや、1枚のCDで、連続して聴くことができる。
その革新ともいいたくなるような、一気聴きの、うれしさ。

そして、細部にわたるまで、気を配った、徹底した緻密な音楽造り。
余計な思い入れや、表情付けはゼロながら。
ドライだけど、バッハに帰依した演奏家の熱い思いが伝わってくる演奏です。

それにしても、冒頭のアリアが、散々に多彩な変奏や、鮮やかな演奏技法を味わったのちに、すべてを諭したように、静々と最後に、再現されるとき。
本当に、心から感動いたします。
どんな演奏、どんな編成を伴ったものでも、間違いなく、人の心を動かします。

今日はバッハでした。

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2013年11月27日 (水)

バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲 シェリング&マリナー

Nakai_mikan

いまがさかり、神奈川西部のみかん。

温暖で、かつ、画像の奥に見える大山を中心とする丹沢山系の恵みもあり、水もきれいで、寒暖の差がそこそこある。

男子なもので、そんなに多く食べないけれど、地場のみかんや柑橘系は、体に合うような気がします。

誰も監視してないのに、こんなに実ったみかん畑が続く道で、ふとどきなことをする人はいません。
カラスや野鳥さえも、満たされてますし。

Bach_szeryng

  バッハ 2つのヴァイオリンのための協奏曲

     Vn:ヘンリク・シェリング、モーリス・アッソン

 サー・ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・セント・マーテン・イン・ザ・フィールズ

                      (1976.6 @ウェンブリー、ロンドン)


バッハの2曲のヴァイオリン協奏曲と同じく、1717~23年にかけてのケーテン時代に書かれた名作。
この時代、バッハは仕えた領主レオポルド公が大の音楽好きで、公付きのオーケストラもあったことから、その宮廷のためにカンタータや声楽作品というよりは世俗的な管弦楽や協奏曲作品を多く作曲しました。

そんななかの、一連のヴァイオリン協奏曲は、いまではヴァイオリニストのみなさんの重要なレパートリーとして定着しておりますし、教則的な意味でもはずせない存在なのですね。

ヴィヴァルディの様式にも通じる、コンチェルト・グロッソ的な華やかさを持ちつつ、しかし、バッハ本来の求道的、求心的な、音楽の美しい綾取りを持つ、この2重ヴァイオリン協奏曲。

2本のヴァイオリンだけど、まるで1本のように聴こえちゃう。

それだけ、お互いに絡み合い、お互いにオーケストラとも溶け合い、融合してしまう、思えば稀有の美しさ。
ことに第2楽章は極めて美しく、献身的なデリケートな美感を感じる。

かつて、1987年に上演された映画「愛は静けさの中に」を封切で観たことがあります。

アメリカの片田舎の聾唖学校に赴任した若い教師ジェームズと、そこで働く卒業生のサラの美しく、哀しい愛の物語。

 音楽好きなジェイムズが愛したのは、バッハのこの曲で、その第2楽章が映画のなかに流れていました。
ときに、この曲のレコードに針をそっと落とすジェイムズ。
でも彼は、大好きなこの曲が楽しめないと言う。
彼女には聞こえないから・・・。

ふたりの抱擁も、この曲が背景じゃなかったかな。
ショッキングな、サラの過去が判明。
同情ではなくて、真実の愛を悟り、語るジェイムズ。
そして、ついに発したサラの、振り絞るような叫ぶような声は、当然に美しいものでなかったけれど、真実の、心からの声でした・・・・・そして、涙にむせった若き日に一夜でした。

もう26年も前の映画ですが、心に残るものでした。
誰と観たかは、ご想像にお任せします。

バッハのこの曲を聴くと思いだします。

シェリングと、その弟子アッソンのこの録音は、ピュアなマリナー&アカデミーの楚々とした好伴奏に恵まれ、当面、この曲のナンバーワンでしょう。

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2013年10月 4日 (金)

バッハ ブランデンブルク協奏曲第4番 アバド指揮


Benihana


ベニバナ(紅花)のドライフラワーです。

山形県の県花として、あちらでは油や食用にと多く使われてます。

濃い黄色からオレンジの色は、とても秋の色合いでございました。

レストラン紅花もござますが、こちらは、東京駅グランルーフにオープンした山形蕎麦とお酒の店の店頭にあったオープン記念の花々のひとつです。
 このお隣には、山形交響楽団音楽監督飯森範親より、というきれいな花も飾られてましたよ。

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  バッハ  ブランデンブルク協奏曲第4番 

     クラウディオ・アバド指揮 ミラノ・スカラ座管弦楽団

                      (1975、76 11、5 @ミラノ)


6曲のブランデンブルク。
最初は5番がお気に入り。華やかだし、バロック風だし、チェンバロの活躍も素敵だし。
3番とか6番の渋いところも好きになっていった。
次は、2番のキンキンのトランペットの世界も悪くないと思うようになったし、そこにリコーダー(フルート)やオーボエが組み合わせられるとこがスゴイと思った。
で、一番かわいらしい4番は、実はこっそりと常に好きだった。
そして、いまだによくわからないのは規模の大きい1番。

ブランデンブルク協奏曲は、かつてはオーケストラ・レパートリーとしてよくのっていて、コンサートオケが演る際は、通常楽器で代用するのでリコーダーはフルートで演奏された。
かつての多くの録音がそういうことになっていた。

かねてより聴いてきたアバドの第一回目の録音もまさにそうで、コンサートスタイルとしてのブランデンブルクで、4番や2番では、フルートが演奏してます。

アバドとスカラ座の蜜月の時代。
この録音のころ、いまや伝説的な名演の「マクベス」と「シモン・ボッカネグラ」が録音された。
座付きオーケストラのコンサート活動は、どこでも珍しくはないけれど、オペラの殿堂スカラ座のバッハというのは録音上、今もって希少なものです。
当時、古楽奏法は今のようには確立されていなくて、古楽器合奏団はあっても先鋭さというよりは緩やかな古雅な雰囲気が先立つものでした。
当然に、このアバド盤は現代楽器による通常奏法で、フォルムの美しさと歌心に満ちたおーソドックな解釈です。
こうした演奏に、懐かしさを感じてしまうのは、嬉しいことでしょうか、悲しいことでしょうか。

それだけ、いまのわれわれの耳が異なる演奏・奏法にすっかり馴染んだということでしょう。

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 バッハ  ブランデンブルク協奏曲第4番 

      リコーダー:ニコラ・ペトリ、ニコラーイ・タラソフ

      ヴァイオリン:ジュリアーノ・カルミニョーラ

     クラウディオ・アバド指揮 オーケストラ・モーツァルト

              (2007.4  @ヴァーリ市立劇場、レッジョ・エミリア)


こちらは、前回ミラノ盤より30年が経過したアバドのライブ演奏。

ふくよかなお顔は、すっかりシャープになり、病で全身がシェイプされたので、小柄で、その指揮姿はむしろキビキビしたものに拝見します。

今年の来日は延期(と思いたい)になってしまったけれど、この演奏は、前回来日のあの2006年の翌年のもの。

指揮棒を持たず、楽員さんと同じ平土間で、最小限の動きでキューだしぐらいしかしてない。
アバドももう、そこにいるだけで・・・・的なオーラを発する超存在になっていることを痛感します。
とりたてて何もしていないように見えるけど、演奏者ひとりひとりと目を合わせ、心を通わせて、音楽だけに打ち込んでいるのが映像と出てくる音楽でよくわかる。

到達した領域は高みすぎて、凡人の及ばぬところですが、アバドはどこまでも謙虚で、微笑みを忘れません。
華やかな2番で終わる、このコンサートの拍手喝采は、常に楽員さんたちと同じ位置か、むしろそれより一歩後ろ。
どこにいるかわからないくらいの立ち位置なのです。

Abbado_bach

そしてここでのバッハの演奏の響きに、いまのわたくしの耳は、これこそ馴染みます。
旧来の演奏の粋にいまや留まったスカラ座盤に比して、こちらの若い楽団とキラ星のごとくのアバド仲間の名手たちの新盤は、いまこの時代に普通に違和感なく聴かれる普遍的な古楽演奏様式なのです。
行きすぎた先鋭さもないし、鈍長さもない、リズムに敏感で歌う気持ちも満載。
誰にも納得できる、「今」が行き着いた普通のバッハ演奏だと思います。
ともかく、音楽の活きの良さと、気持ちの充分入った若々しい表現もまたアバドならではです。

少女のようだった、ニコラ・ペトリさまが、アバドと共演して落ち着いたリコーダーを聴かせてくれちゃう。
ペトリちゃんが、デビューのころの35年くらい前には、こんな構図、夢にも思わなかった。

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