2008年3月19日 (水)

バッハ 「トッカータとフーガ」 リヒター

2新聞で読んだ記事から。
「暴走老人」・・・・分別あってしかるべき老人が、不可解な行動をとって周囲と摩擦を引き起こしたり、暴力行為を引き起こす。
病院の待合室で長く待たされた男性患者がしびれをきらせ暴れる。スーパーのレジで切れて店員に暴力をふるう等など。
新老人と名付け、①ネットや携帯による情報化や時間感覚に適応できない、②個室感覚の延長で公共の場でも自己のテリトリー意識が強くなった、③店舗や公共施設での接客マニュアル化で、明文化されないルールが増えすぎて、それに高齢者がついていけない・・・・(藤原智美氏「暴走老人!」)

こんな事情でキレる老人が増えているとみている。
確かに高齢者でなくとも、いまの日本の社会は息詰まるような無数の圧迫感に覆われていることを誰しも実感しているのではないだろうか。
昔なら、町には対話のある商店があったし、隣近所も力強いコミュニティだった。コンビニやファミレスは便利だけれど、あの紋きり型のマニュアル接客には背筋が寒くなるときがある。
その見知らぬ他人のにこやかな接客が、干渉されずにいいと思う若者が大半だろう。
私もあと数年で、新老人になってゆくのだろうか・・・・。
考えさせる記事を読んだから、今日はちょっと深刻に。

Richter_bach_organ 画像は、小樽の富岡教会の入口にあるステンドグラス。

バッハ「トッカータとフーガ」ニ短調は、あまりにも有名だ。でもその出だししか知らない人も多いかもしれない。
作曲の由来はあまり明らかになっていないが、バッハ20代初めの若い頃の作品とされている。
偉大なバッハは、こんなすごい音楽をそんな若さで書いてしまっていたんだ。

何がすごいかって、オルガンというひとつ楽器から、あまりに多彩で奔放な大伽藍のような音楽を作りあげてしまったのだから。
聴きようによっては、ロマンティックであり、100年あとの作品といわれても通用する。
私がこの曲をロマンティックで幻想的と思うのは、中学時代にFMで放送されていた「朗読の時間」でこの曲を初めて知ったから。
朗読の時間は、文字通り、小説をラジオで朗読してしまう訳だけれど、取上げる小説によって、テーマ音楽が毎回違っていた。
そしてこの曲が使われたのが、なんと「不思議の国のアリス」だったんだ!
まだ読んだこともないアリスの不可思議な物語に、時おり挟まれるこのオルガン音楽が絶妙にマッチしていた。若い頃のこうした体験はすり込みとなって、忘れられない思い出となってゆく。

Vh4 カール・リヒターのオルガンによるこの演奏は1954年の旧録音。DGへの新録音もあるが、その壮麗さにかけては、古いデッカ録音の方が上だ。

スイスはジュネーヴの「ヴィクトリア・ホール」のオルガンを使ったこの録音。
ステレオ最初期のものながら、驚くべき名録音でもある。響きがリアルで、目の前でリヒターがオルガンを弾きまくっているように聴こえる。
オルガンには素人だけれど、1890年頃の作で、アンセルメとスイスロマンドが活躍し、名録音を残したホールの豊かな響きが素晴らしい。
いまでも、名匠ヤノフスキが活躍するスイスロンド管の本拠地でもあるが、1984年に火災に遭い1993年に復興しているという。
オルガンもほぼ新調されたらしいので、50年以上前のこの録音、ますます貴重な1枚となりそうである。
ストイックなまでに厳粛なリヒターだが、オルガンの華麗さも加味してか、スケール豊かな壮大な演奏に思う。
いくつか収められているコラール前奏曲も胸に染み入るような名演で敬虔な思いにとらわれる。

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2008年3月16日 (日)

バッハ ヨハネ受難曲 ヘレヴェッヘ指揮

Imgp3187a 「つくし」がちらほらと見かけられるようになってきた。
タンポポも咲いているし、春がそこまでやってきたようだ。

娘の卒業式があり、そのビデオを見た。みんな泣いてる。
それを見て泣いてしまう父。
このところ、泣きっぱなし。
ただでさえ、花粉で涙目なのに。

それにしても、日本人は最近よく泣く。テレビをつけると泣くシーンがたくさんあるし、本屋行くと、泣ける本まで売っている。
誰はばかることなく涙を流せる世の中になったのだろうか。

Bach_johannes_passion 今年の「復活祭」、イースターは3月23日。
そして、今日の日曜は「枝の主日」といって、イエスがエルサレムに入場した日。
人々が枝を持ってイエスを迎えたという。
映画などでもそんなシーンがあった。
この日より、1週間を聖週間といって、キリスト教の最大のイヴェントのひとつ。

さすがに、クリスマスやバレンタインなどをぱくった日本では、何事もなされない。
むしろお彼岸だし。

われわれ音楽好きだと、イエス受難の聖金曜日にまつわる音楽をいくつか思いおこすことができる。
バッハの受難曲やワーグナーのパルシファルがそう。

そして、本日は、バッハの「ヨハネ受難曲」を聴く。
現存するバッハの受難曲は、「マタイ」と「ヨハネ」の2作品ある。
「マタイ」は無人島にもってゆくCDのトップにランクされるくらいの人類不変の作品であるけれど、「ヨハネ」はそれに比べるとちょっと地味な存在だ。
どちらの受難曲も、それぞれの福音書にテクストを求め、福音書家エヴァンゲリストが朗唱し、イエスやピラトなども登場する。その合間に合唱によるコラールや合唱曲、独唱のアリアなどが挟まり、見事なバランスをとっている。

しかし、劇性において大きな違いがある。
アリアやエヴァンゲリストの比重が大きいマタイに比べて、民衆を歌う合唱の比重が高い。
よって現場の雰囲気が実にリアルなのである。
「あいつも弟子のひとりだ!」とか、「十字架につけよ!」とか・・・・。
 しかも、曲はいきなりユダの裏切りと捕縛というドラマテックな場面から始まり、十字架上で事切れるまでの短時間のドラマを2時間で物語るから、中身が濃い。

本来、ヨハネ伝にはない「ペテロの否認」や「神殿の幕が裂ける」などをマタイ伝から挿入してお決まりの場面を盛り込んで聴き手の心をくすぐる。

それでも、素晴らしいアリアに合唱曲はいくつも盛り込まれていて、「マタイ」と甲乙付け難い魅力がある。
冒頭のたゆたうようなオーケストラの響きにのって歌われる合唱曲は悲劇の予兆たっぷり。
2本のフルートに伴なわれて、イエスに従う信条を歌うソプラノのアリアとその後の、ペテロの否認のエヴァンゲリストの思いを込めた朗唱。
イエスの死を悼み「こと果たされぬ・・・」と歌う沈痛なアルトのアリア・・などなどあげだしたらきりがないくらい。

信者でなくとも、人間の心を歌いこんだバッハの宗教音楽はその謹厳さに素直に感動できると思う。

    福音書家:ハワード・クルック    イエス :ペーター・リカ
    ピラト  :ペーター・コーイ       ソプラノ:バーバラ・シュリック
    アルト  :カスリーン・パトリアッツ  テノール:ウィリアム・ケンドール

     フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮 シャペル・ロワイヤル
                       コレギウム・ヴォカーレ
                                    
ヘレヴェッヘのバッハは、どちらかというと軽めで、さらさらと流れてゆく。
ほどよい客観性が、ドラマをより深いものにする効果もあるし、聴く側の想像力も試される結果となる。抒情に満ちたヨハネに過ぎるかもしれないが、リヒターの厳しさばかりでなく、こうしたバッハも好きだ。
本録音は87年、ヘレヴェッヘは後に再録音をおこなっていて、そちらは第2稿を使用しているとのことで、だいぶ音楽の趣きが違うらしい。

週末から、ブルックナー、V・ウィリアムズと立て続けに心に響く音楽を聴いて、そして今日、静かな日曜を過ごすことが出来た。

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2007年12月25日 (火)

バッハ マニフィカート ガーディナー指揮

2街を彩るイルミネーションの発祥ともいえる、仙台の光のページェント。
何年も仙台には行っているが、国分町で夜は終わっていたので、見たこともなかった。
今年は根性据えて見にいった。

単色イルミネーションでは、髄一の規模と美しさ。
こんなイヴェントが主に商店主の努力や市民のボランティアが中心となって行なわれていることが驚き。行政の関与はちょっぴり・・・・。

Bach_magnificat クリスマスの日に、バッハのマニフィカートを聴く。
日本ではイヴェントと化してしまったクリスマス。
かくいう私も、通俗的な日を過ごしてしまうが、音楽だけは、キリストの降誕という史実や宗教感に根ざしたものを聴きたい。

そんな1曲が、マニフィカートである。
この輝かしくも祝典的な音楽は、マリアの受胎告知後、喜び溢れるマリアが、親族エリザベツを訪問し、神を賛美する場面に基づくもの。
「私の魂は主をあがめ」という、ルカ伝の1節が原典。
独唱4人に合唱、金管の活躍するオーケストラのための音楽は、心踊るような躍動感と感謝の念に満ちている。
バッハの中でも壮麗な音楽のひとつ。

クリスマス・オラトリオとともに、この時期にぴったりの曲をガーディナーの屈託ない演奏で楽しむ。

5 1

25日を終えると、ツリーは撤去され、何事もなかったかのように元通りになってしまう、日本の街々。
なんなんだろ?
子供たちに聞いてみた。
クリスマスって何の日?
え?知らな~い・・・・・。

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2007年10月26日 (金)

バッハ 管弦楽組曲第2番・第3番 マリナー指揮

071026_211632_2 東京駅の地下通路を改造してオープンした、エキナカ「ランスタ」。毎日乗換えで通過するが、かつてはラーメン屋やワインショップなどがあった程度の場所に、45もの店舗が出来てしまった。今だけかもしれないけれど、あまりの混雑に先を急ぐ時は閉口する。品川のように、乗換え導線から内側に造ったのと違い、総武横須賀地下ホーム・丸の内と新幹線・八重洲を結ぶ通路だけに、落ち着くまでは混雑が困ったことになるかもしれない。
この通路に、表参道ヒルズにも入っている日本酒の「はせがわ酒店」が入店している。
カウンターで地酒が飲めるし、試飲販売もしている。駅の中なのに、かつては考えられないコンセプトの店舗がたくさん。焼鳥のテイクアウトなどもあるし、もうたいへん
エキナカが出来る駅はもう限られているらしいが、あとはショップの鮮度をどう維持するかですな。

Marriner_bach 鮮度といえば、時代とともに薄れるもの。
しかし、薄れたとはいえ、そのパイオニア的な存在が後に大きな影響を与えていたことが判明することもある。その先駆の存在には、大いに敬意を表さなければならない。

そんな音盤のひとつが、マリナーバッハ管弦楽組曲の第1回目の録音。

正確には、マリナー&サーストン・ダートとうことになる。「四季」の大胆な演奏で、颯爽と登場し音楽界を席捲したマリナー&アカデミー
マリナーは親友の音楽学者兼鍵盤奏者のダートと強力しながら、バッハのブランデンブルク協奏曲や管弦楽組曲の新解釈を施した録音をした。1972~3年頃のこと。

当時中学校の音楽の授業で、第2組曲が鑑賞曲として取り上げられていた。
でも同時期にFMで聴いたマリナーのそれとは、全然違う大掛かりな演奏に思えた。
このマリナーの演奏、小編成で小気味よく、テンポも速めにしたスピーディなバッハは当時、極めて新鮮だったに違いない。
今でこそ、古楽器を用いてのピリオド奏法が当たり前のように思えるけれど、当時は、クレンペラーやカラヤンの大演奏や、ミュンヒンガーやパイヤール、リヒターらの普通の室内オケでの演奏が当たり前だった。
そこに登場した、マリナー&ダートのバッハは驚きの1枚だった。
今聴けば、なんのことはない演奏かもしれないが、ここに秘められた大胆な革新とその解釈への確信。マリナーという指揮者が本来持つ進歩性と、革新性が伺える1枚。

本日のマリナーはこれまで。

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2007年4月 8日 (日)

バッハ 復活祭オラトリオ ヘリヴェッヘ指揮

Sakura_osaka_castel 桜もこの週末が見納めかな?
大阪城の桜の大写し。

桜は見る分には、美しく楽しいが、散ったあとが大変。
実家の前に、山桜が立っていて、これが咲き終わり散り始めると大変。
雨でも降れば、庭に、車に付着した花びらに往生することとなる。

テレビで見たけれど、この花びらを競って食べてる猿たちがいるんだそうな・・・。

Bach_osteroratorium

今日、日曜日はキリスト教でいうところの復活祭、イースターである。
キリスト教最大のお祭りでもあるが、いうまでもなく日本ではまったく無視。
クリスマスをあんなに商業的に楽しんでしまうのに、無節操な日本人。
 年に1回は、神妙に他国の宗教のことを考えてみてもいいのかも。

バッハの宗教曲は教会歴に沿った膨大なカンタータと、大小ミサ曲、クリスマス・オラトリオ、そして聳え立つ二つの受難曲があるが、この受難曲がイエスが十字架上で事切れ、終わっているのに対し、これらを補完する「復活」を扱ったのが、「復活祭オラトリオ」BWV249である。

1725年、バッハ40歳の時にヨハネ受難曲が演奏された三日目に初演されている。
曲は50分足らずなので、受難曲のように構えなくてよい。
冒頭のシンフォニアと、美しいオーボエソロを伴なったアダージョの2曲のオーケストラ曲に始まり、復活の様子を弟子やマリア達が語るレシタティーボとアリア、合唱曲と続く。
全体に明るく、抒情的な雰囲気で、ここには峻厳なバッハの顔は見当たらない。

バッハをいつもすっきりと、テンポよく聴かせている「ヘリヴェッヘ」は、ここでも実に気持ちいい演奏ぶり。
リヒターに疲れた時は、ヘリヴェッヘがいい。
音楽に深みや意味を求めすぎる、評論家筋の評価は、特にロマン派系の音楽を取上げたときに芳しくないが、私は結構この人好きなのである。
フランクの交響曲など耳が洗われる思いがしたのだが。

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2006年12月22日 (金)

バッハ カンタータ第147番「心と口と行いと生きざまをもって」 ガーディナー

Einsatz2_1 昨晩は、大阪のミナミとキタを堪能した。
毎度お馴染み、島之内の日本料理店「太庵」で気のおけない方々と、正統和食を極めておいしくいただいた。(別館にて近日公開)
 ついで、北新地に移動し、オネイサン達との会話を楽しんだ。
が、ここで沈没はできない。
最終日1日前の、「アインザッツ」へ行かねばならぬ。日の変わる直前に飛び込んで、マスターと楽しく会話し、一杯やれた。
「アインザッツ」さんのおかげで、大阪の夜がどんなに楽しかったことか。そして何より、マスターや、東西名ブロガーさん、楽しき音楽愛好家さん達と知り合うことができたこと。
ほんとうにありがとうございました。名残惜しみながら、店を出てビルを見上げた。
とても寂しい気持ちと感謝の念が湧き上がりました。マスター頑張ってよ。

Ramada_1 大阪の宿泊地にあったクリスマスツリー。
どこに行ってもツリーやイルミネーションだらけ。
クリスマスが終わるとあっという間に姿を消してしまう。
どこへいっちゃうんだろ。捨てるんならくれ!

Bach147_gardiner_1 大量にあるバッハのカンタータの中から、クリスマス前に相応しい1曲。
長たらしい邦題だが、原題を見るとシンプルだが、約せばこんな感じになるんだろう。日本語のニュアンスの豊富さには感謝しなくては。

もともとは、降誕節第4日曜(12月20日頃)のために書かれた曲を、転用の父でもあったバッハは、ライプチヒ時代、かの地では降誕節にカンタータ演奏が禁じられていたこともあって、7月の「マリア訪問の祝日」用のカンタータとして再利用したらしい。
「マリア訪問」とは、天使ガブリエルから、イエスの受胎を告知されたマリアが、洗礼者ヨハネ(かのサロメにより首を取られてしまったひと)の母エリザベトを訪問し、祝福された日をいうらしい。

こうした祝日用だから、曲は明るく希望に溢れた光に満ち満ちている。
そして、2部構成のそれぞれ最後に置かれた有名なコラールの部分になると、聴いていてジワリとこみ上げる感動に満たされることになる。
かのリパッティが弾いて超有名になったピアノ曲「主よ、人の望みよ、喜びよ」であります。

リヒターの禁欲的で厳しい表現になれてしまった世代からすると、ここに聴くガーディナーの造り出すバッハは、開放的で軽やかだ。音は内にこもらず、外へ、天へと広がっていくようだ。こうしたいわば優しいバッハならば、深刻にならずに毎日付き合える。
歌手達もどちらかといえば、軽くマイルドな歌声の人が選ばれている。
なかでも、ロルフ・ジョンソンのテノールとヴァーコーのバスは素晴らしい。

それにしても、バッハのカンタータをすべて制覇することは、ハイドンの交響曲を制覇する以上に至難の業だろうな。

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2006年12月14日 (木)

バッハ ゴールドベルク変奏曲 ペライア

Umeda_mbs 昨日は、名古屋に出張、そして大阪もこじつけ出張を作成し、晩に大阪入りし千秋楽を控えた「EINSATZ」に向かった。

ホテルから、北新地まで向かう途中、茶屋町あたりのイルミネーション。
今年は、どこの街に行ってもこんな美しい光景がたくさん溢れている。
省エネによる電力削減なんて昔の話なのかな、原油高なのに・・・。

Einsatz 「前向き閉店」を1週間後に控えたアインザッツで、常連の方々と再びお会いすることが出来ました。初めてお会いするのに、以前からの知り合い感覚になってしまうところが、音楽が取り持つ楽しい出会いと言えましょう。
こんな出会いと、語らいの場を提供してくれた「アインザッツ」さん、マスター、ありがとうございました。画像は店内の一隅。いいでしょ。
皆様、楽しいひと時をありがとうございました。

Bach_goldberg_perahia このところ、ヘヴィーな曲が続いたので、おやすみ前の1曲は「ゴールドベルク変奏曲」を聴く。
1741年、バッハが不眠のロシア大使のために書いた、アリアを前後に挟んだ30の変奏曲。
この曲といえば、「グレン・グールド」の2度にわたる録音があまりにも有名。ことに晩年の2度目のものは、聴くわれわれを呪縛してしまう個性的な演奏で、これを聴いてしまうと普通のピアノ版による演奏がユルく感じてしまうから困る。

グールドと同じCBS(ソニー)にペライアが録音したこの演奏は、いくつも聴いたわけではないけど、グールドとはまったく異なるステージにあって、これはこれで素晴らしいと思わせる1枚。すべてが自然で美しい。繰り返しを忠実に行っているため73分もかかっているが、全然長く感じない。3曲ごとにカノンが入りかなり緻密な構成で作曲がされているが、ペライアのピアノには、そんな難しいことは少しも感じさせない。
 どちらかといえば低音は押さえ気味で、明くるく軽い印象を与えるが、ひとつひとつの音の粒立ちの良さは実に新鮮で飽きがこない。

以前、アバドとヨーロッパ室内管と一緒に来日し、ベートーヴェンのチクルスを演奏した時、私は2番の協奏曲を聴いた。第2楽章でペライアが作り出した繊細で壊れそうな響きに息を飲んだ憶えがある。
あれからすいぶん時がたったが、そのイメージはだいたい当てはまるし、それ以上に余裕のようなものが感じられ、青年が熟年になったような印象をもった。
 
 最後にアリアが再び弾かれる時、全曲を締めくくる満足感とともに、「さあこれで、おやすみ」的な気分になるものだが、今日のペライアの素敵な演奏に目が冴えてしまった。
発泡酒1本にとどめ、プチ休肝日と決め込み、コーヒーなんて飲んじまったものだから、余計に眠れない。どうしてくれる、バッハさん・・・・・。

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2006年12月 7日 (木)

J・S・バッハ 「マタイ受難曲」 メンゲルベルク指揮

ブログ更新が、物理的に出来ない。だから、安心して大酒が飲める、というとんでもない言い訳を自ら作りだして、二日間は潰してしまった。ああ、神様、なんという弱い自分でしょうか・・・・。

ところがですよ。ココログによれば、メンテナンスの目的であった、データ分散化・バージョンアップが図れず、むしろ状態が悪化したため、メンテ前の状態に戻した。とのこと。

これっていったい???? おばかさんにもほどがある。上場して喜んでる場合かよ。
また、長期メンテをやるんだそうな。はぁ~。

先般のコンセルトヘボウ管の、生の響きが脳裏に残っているうちに、歴代の主席指揮者達の演奏をたどりながら、録音におけるこのオーケストラの響きを改めて確認してみたかった。

Bach_matthw_mengelberg そんな若干のブランクを置いて、取り出したのは、廉価盤になって手が伸びやすくなった、「メンゲルベルク(1871~1951)のマタイ受難曲」。
12月の降誕節を控えて、受難物語を聴くなんて不届きかもしれないが、音楽の持つ重みと凄みは、宗教という枠をこえて、私を捉えて離さない。そういえば、「のだめ・・」でも鳴っていたなぁ。

1895~1945年のコンセルトヘボウ在任中、ほぼ毎年復活祭の時期に「マタイ」を指揮したメンゲルベルク、このCDは1939年4月のSP録音に復刻だが、会場の様子をかなり生々しく捉えている。
1939年というと、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、事実上第2次世界大戦が開始された年。日本は、独・伊との3国同盟の準備を進め、41年の真珠湾に向けて戦争へ向けひた走っていた。

冒頭から重々しく、まるで聴く側もイエスの重い十字架を背負わされて、ゴルゴダの坂を歩むかのような思いにさせる。  2時間30分、全編にわたりこうした深刻な重々しさは変わらない。
何よりも違和感を生じるのが、そのロマンテックな解釈。
時に思い切ったポルタメントや、リタルダントを効かせるかと思うと、急速なスピードで驚くべき劇的な響きを聴かせる。通奏低音ですら濃く感じる。レシタティーボも情感たっぷり。
カール・エルプのエヴァンゲリストもドラマティックで激情的。

こんなのあり? 昨今の時代考証を経た奏法からは及びもつかない響きに満たされていて、最初は戸惑ってしまうかもしれない。現代楽器によるリヒター盤を最上のものと思っている私からしても、この今からすれば「太古の響き」には驚きだ。

でもこの響きは、人間の本質をえぐり出したような、切実なもので、魂を揺さぶる音楽解釈が永遠に不変であることを強く認識させる。何度も聴ける演奏ではないが、ああした特殊な時代背景の中、人々が平和を望み、神に祈りながらバッハの音楽に集中する様子がよくわかる。

メンゲルベルクの演奏は、多くを聴いてないが、概してロマンテックな時代がかった解釈ながら、マーラーなどは、没頭系の凄い演奏、との印象をもっている。
この人が、コンセルトヘボウを徹底的に鍛え、時として濃厚な音色を植え付けたとみていい。生きたマーラーとの接点もあるし、ニューヨークpoの指揮者もつとめたから、筋金入りのマーラー指揮者でもあった。
コンセルトヘボウのマーラーとバッハの伝統は、この指揮者にある。
私は「ヨッフムのマタイ」をレコードで親しんだ。そこには古雅で優しい響きがあったが、それより古いメンゲルベルクは、先に触れたとおり緊張感をロマンティックな大河のような流れのなかに歌いこめた。

 
聴衆のリアルな雑音も、音楽の一部となっている。有名な話だが、すすり泣く聴衆の声が何となく聞き取れる。私も涙ぐんでしまう、「ペテロの否認」の場面「憐れみたまえ」のアリアである。


人類にとってこれは、辛い「マタイ受難曲」かもしれない。

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2006年4月15日 (土)

バッハ「マタイ受難曲」 スワロフスキー

Swarowsky_matthew 「パルシファル」のあとは「マタイ受難曲」。人間が生み出した宗教という糧。そのひとつであるキリスト教は、今我々が好んで聴く西洋音楽の根幹を担っている。それ以上は話が大きくなり、議論も多次元に及ぶのでやめるが、キリスト教があって、その残された音楽の偉大さに感謝せざるを得ない。
バッハのマタイ受難曲はその中でも最も高みにある作品であろう。
マタイ伝のうちから、キリストの受難を描いたこの作品は、原典のもつ内省的な特徴を完璧に描きだしており、聖書の原典部分を読むテノールの福音書家のレシタティーヴォが要である以上に最大の聴き所に思われる。この役にどんなテノールが来るかで、全体の印象が変わってくる。私としては、劇的な歌いぶりよりは、第三者的に冷静・沈着な歌がいい。福音書家以外の通常ソロも、劇性を抑えた歌いぶりが好ましい。
アルトのペテロのイエスの否認を悔やむアリアは、人間が作りえた心の底を深く覗く、揺さぶられる音楽だと思う。

今回のCDは、懐かしい「コンサート・ホール」原盤の抜粋CDである。
アバドやメータのウィーンの師「ハンス・スワロフスキー」指揮のウィーン国立歌劇場管とウィーン少年合唱団。
           福音書家:クルト・エクィルツ
           ソプラノ :ヘザー・ハーパー
           アルト  :ゲルトルート・ヤーン
           バス(イエス):ヤコブ・シュテンプリ

こんな面々は、この作品にうってつけである。楽譜を信じ、淡々と指揮をするスワロフスキー、清潔で感情移入を抑えた歌手陣。鄙びてありふれたウィーンの香りをともなったオーケストラと合唱。おそらく60年代当時、ウィーンで日常何気なく演奏されていたバッハの姿であろう。

私のマタイの核心演奏は、ご多分にもれず「リヒター」であるが、あれだけの演奏はめったに取出す勇気がない。そんなときには、この何気ない「スワロフスキー」や「リリング」がいいのかもしれない。

  

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