カテゴリー「古楽全般」の記事

2014年3月13日 (木)

ペルゴレージ 「スターバト・マーテル」 アバド指揮

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オーストリアのケルンテンのオシアッハ教会。

毎夏、ケルンテンでは、音楽祭が行われ、FM放送でもかねてより、しばしば放送されてました。

カトリックならではの、装飾性豊かな、雰囲気あふれる美しい教会。

この教会で、アバドは、かつて、スカラ座のアンサンブルを率いて、ペルゴレージを中心としたバロックコンサートを行い、映像化もされました。

同じペルゴレージの、美しい作品を、ロンドンで録音しました。
それは、レコード・アカデミー賞を受賞し、名盤の誉れ高いものとなりました。

そして、さらに、アバドは、2004年に設立した、イタリアの若者オーケストラ、モーツァルト管を率いて、まったく違うアプローチで、2007年に、再び録音しました。
アルヒーフ・レーベルから登場した、この一連のアバドのペルゴレージ・シリーズ。
まさか、ウィーンやベルリンのポストを歴任した指揮者が、古楽のジャンルから登場するとは、まったく思いもしなかった。

そんな驚きの清新さを持ち合わせた、アバドに、あらためて感心し、そして感謝です。

アバドが、最後に心血を注いだ、モーツァルト管弦楽団のレビューに入るまえに、アバドの最高傑作のひとつ、ペルゴレージの「スターバト・マーテル」を3種取り上げた過去記事を、ここに、そのまま引用させていただきますこと、どうかお許しください。

以下、2009年11月13日の、弊ブログ記事を、そのままに貼り付けて、終わりにします。

  >引用 開始<

Stabat_mater_orch














アバドは、特定の作曲家に強い思い入れをもって、執念ともいえる意欲で、その作品演奏に励むことが多い。
マーラー、ムソルグスキー、新ウィーン楽派などに加えて、ペルゴレージもそう。

一番有名な「スターバト・マーテル」だけではなく、「ディキシド・ドミヌス」を含む宗教作品を集めた1枚とさらにミサ曲などの1枚、都合3枚のペルゴレージ・アルバムを続々とリリースする。

来年、2010年が生誕300年の記念の年となることもあっての録音ながら、超巨匠になったアバドが、マーラーを繁茂に演奏するかたわら、スターバト・マーテルばかりでなく、ペルゴレージのまったく未知の作品まで掘り起こして録音を重ねているということ自体がすごいことだと思う。
しかも、ピリオド奏法に徹した積極的な演奏で、その探究心の豊かさと進取の気性は、かつての大巨匠たちには考えられないことだと思う。

ペルゴレージ(1710~1736)は、中部イタリアに生まれ、その後ナポリで活躍した作曲家で当時絶大な人気を誇ったらしい。
オペラを数十曲、宗教作品・歌曲多数と声中心にその作品を残したが、26歳で亡くなってしまうという天才につきものの早世ぶりであった。
スターバト・マーテルは、おそらく最後の作品とされているが、磔刑となったイエスの十字架のもとで、悲しむ聖母マリアを歌った聖歌で、ヴィヴァルディ、スカルラッティ、ロッシーニ、ドヴォルザーク、プーランクなどが有名どころ。
 それらの中にあって、抒情的な美しさと優しい歌と劇性にあふれていることで、ペルゴレージのものが燦然と輝いている。

アバド3度目の録音は、ピリオド奏法を用いながらも、少しも先鋭にならず、リュートを交えた響きは古雅で暖かく、そして繊細極まりない演奏となった。テンポも早くなっている。
嘆きの歌であるから、基本は短調であり、悲痛な音楽でもある。
アバドの透徹した表現は、その悲しみを歌いだしてやまない。
一方で、アバドのこの演奏には、不思議と明るさが漂っているように感じる。
それは、音楽をする喜びに満ち溢れた明るさとでもいえようか。
若い奏者たちのレスポンスの高い演奏が、アバドを若々しくしているのか、アバドの深淵な域に至った人間性が、若いオーケストラから驚くべきサウンドを引き出しているのか。
マーラー・チェンバーと同じことがここでも言えるのではないか。
 アバドのお気に入りの歌手ふたり、ハルニッシュミンガルドのニュートラルな歌もすっきりと好ましくも美しい。

    ソプラノ:ラヘル・ハルニッシュ   コントラルト:サラ・ミンガルド
   
         

   クラウディオ・アバド指揮 モーツァルト管弦楽団

                        (2007.11@ボローニャ)

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83年録音のロンドン響との録音。

こちらは、レコード・アカデミー賞をとった名盤である。
当時、コンサートスタイルの演奏が主流の中にあって、ロンドン響を小編成に組みなおし、バッハやヴィヴァルディをさかんに演奏していたアバド。
この録音が出たときも、垢をすっかり洗い落したかのような、スッキリとスマートなペルゴレージに、多くの聴き手が新鮮な思いを抱いたはずだ。

新盤を聴いて、こちらを聴きなおすと、そのあまりの違いに驚くを禁じ得ない。
テンポの相違は先に書いたとおりだが、響きが過剰に感じ、感情表現も濃く感じる。
演奏スタイルの時代の変遷もあろうが、それ以上にアバドのやりたいことが違ってきているわけである。歌手の歌い方も、大幅に異なる。
ここで歌っている、マーシャルヴァレンティーニ・テッラーニは見事としか言いようのない素晴らしい歌唱である。しかし、新盤での抑制の利いた若い歌と比べると、歌いすぎと聴こえるし、オペラティックですらある。
 でもですよ、私には、この清々しい歌に満ち溢れたペルゴレージも捨てがたく、どこか懐かしく、若い頃のことを思い起こしたりもしてしまう1枚なのであります。
25年も前だもの。私も若いですから。

  ソプラノ:マーガレット・マーシャル 

  コントラルト:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ

     クラウディオ・アバド指揮 ロンドン交響楽団員

                 (1983.11@ロンドン・キングスウェイホール)

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そして、79年の録画によるスカラ座メンバーとの演奏。

こんな映像が、今年、忽然と姿をあらわした。
しかも歌手が、リッチャレッリテッラーニなのだから。
さらに、演奏会場がすばらしい。
オーストリア、ケルンテン州の美しい湖のあるオシアッハの、シュティフツ教会。
装飾美あふれるバロック建築の、これまた美しい教会である。

「ケルンテンの夏」音楽祭でのライブと思われる。

宗教音楽は、本来コンサート会場ではなく、教会での典礼の一部であったわけだから、こうした場所での演奏は至極当然であり、演奏する側も、聴く側も、音楽の感じ方が変わってくるはずだ。
アバドがこの音楽に求めたものが、こうしたシテュエーションでの映像を見てわかるような気がした。
ロンドンでの録音より、オーケストラは小規模で、教会の豊かな響きは意外と捉えられておらずデッドである。だから、よけいに音ひとつひとつが直接的に訴えかけてくる。
無駄なものを切り詰めた直截な表現に感じ、そうした意味では新盤に近い。
この演奏の2年後に、スカラ座を引き連れて、カルロスとともに来日したアバド。
その時のコンマスも座っていて、なぜか懐かしく思い出される。
アバドも歌手もともかく若い。
指揮棒を持たずに簡潔な動きで真摯な雰囲気がにじみ出ていて、ペルゴレージの音楽が持つ抒情と劇的な要素を見事に描き出している。
 惜しくも亡くなってしまった、ヴァレンティーニ・テッラーニの深みのある声がまったくもって素晴らしく、この頃は重い役柄で声が疲れていなかった、リッチャレッリのリリカルな歌声も素敵。ロンドン盤の歌唱より、こちらの方がオペラへの傾きが少ない。

     ソプラノ:カーティア・リッチャレッリ

     コントラルト:ルチア・ヴァレンティーニ・テッラーニ

       クラウディオ・アバド指揮 スカラ座合奏団

              (1979.夏@オシアッハ、シュティフツ教会)

3種類そろったアバドのペルゴレージ「悲しみの聖母」。
新盤は別次元の感あるが、それを含めて3つともに、わたしの大切なライブラリーとなりそうだ。願わくは、プティボンに、このソプラノ・パートを歌って欲しいもの。
キャプチャー画像を多めに貼ってみました。
若い、きれい、かっこいい、でしょ

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      >以上、引用終わり<

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2012年12月 9日 (日)

ジョスカン・デ・プレ アヴェ・マリア ヒリヤード・アンサンブル

Shukugawa_church_maria

教会に静かに佇むマリア像。

マリア信仰はカトリックのものですが、われわれ日本人にも馴染みやすい。

九州を中心としたキリシタン信者たちも、観音様と混ぜ合わせるようにして、マリア像を拝み、迫害から逃れようとした。
カトリック信仰とまた違った、いわば地キリスト教ともいうべき「カクレキリシタン」。
今年、天草に出張したおり、その足跡をいろいろ見てきました。

こちらは、でも、それと違って関西。以前訪れた、「夙川教会」です。

聖母マリアの象徴、白い百合の花とともに、清楚で心洗われる一角でした。

Josquin

     ジョスカン・デ・プレ  「アヴェ・マリア」

        ヒリヤード・アンサンブル

           (1983.2 @ロンドン テンプル教会)


中世ルネサンス期、いわゆるフランドル楽派の代表的な作曲家、ジョスカン・デ・プレ。

1440~1521年の生没年。

わたくしのブログで、異質に思われるでしょう、この世代とジャンル。

でも実は、相当にはまって聴き込んだ時期があるんです。

レコード時代の終り頃、ハルモニアムンディが大量に1500円の廉価版化。
EMIから、デイヴィット・マンロウのシリーズ。
これらに触発されたのが事実。

同時に、あらゆる音楽ジャンルを貪欲なまでに聴き込んでいこうという意欲的な若い自分がありました。
1980年前後、クラシックでは現代や中世ルネサンス音楽までも、その自分のレパートリーにしていこうという広範な好奇心にあふれていた時期にございます。

そして聴きまくりましたよ、先に紹介のレコードを次々に購入して。

音楽ファンなら、土日に心安くまとめ聴きをしますが、ワーグナーやヴェルディ、マーラーばっかりだったのに、あの当時、土日には、ジャズとルネサンス音楽ばかり。
ご近所でも変だと思ったでしょうね。
(話は違いますが、クラシックばかりを聴いてた少年が、いきなりビートルズを聴きだした中学時代、近所の方がどうしたんですか?なんて親に言ったりする時代でした)

そんな風に、傍から見ても、聴いても、音楽を聴く嗜好は大違いと聴こえるんですね。

いまは、あまり聴くことはなくなってしまいましたが、学生から社会人の頃、レコードからCDに変革してゆく直前。わたしの音楽生活の確かな一時期だったのが、ルネサンス音楽でした。

ジョスカンの音楽は、ともかく抒情的で、ポリフォニーの美しい彩が、シンプルに発し、絹織物のように静やかに織り込まれて、やがて美しい全貌をあらわすような繊細さと秩序に満ちております。

代表的な作品「アヴェ・マリア」は、まさにその典型。

プ・ロカンティオーネ・アンティカの名唱も過去ありましたが、80年代のヒリアード・アンサンブルのものは、さらに厳しい精度を増して、ともかく美しい。

抒情的なモテトをたくさん書いたジョスカンを知ったのは、わたしのブームのちょっと後ですが、いまこうして、豊饒なオーケストラやオペラの合間に聴きと、本当に、心洗われるような澄んだ心境にいざなわれます。

日曜の晩、お酒も飲み終わって、お風呂入ってさっぱりして、さぁ寝ましょうという前に聴くような安らぎの音楽。
マリア様の、言葉発しない優しい眼差しを、温かく感じる音楽です。
美しいです。

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2011年5月13日 (金)

アレグリ 「ミゼレーレ」 タリス・スコラーズ

Tokyotower20110513

本日5月13日、21時頃の東京タワー。
自粛と節電でライトアップが止まっておりましたが、11日から13日まで、「哀悼の光 ダイヤモンドヴェール」ということで、白色のライトをまといました。

上と下は点灯せず、しかも電力量も減らし通常の半分といいます。
東京タワーのサイトには、通常時との電力消費が対比されて表示してあります。
何事も、こうして使用電力を明示して、理解を請わないとならない世の中になったのであります。
節電ビジネスも数々登場し、節電コンサルタントの講演会などは大盛況。
3月10日までは、誰が、日本がこんな風になると予測しえたでしょうか。
しかし、本来的には、節電節約は正しきこと。

2ヶ月間、真っ暗だった東京タワーに明かりが灯り、明日からもまた通常より使用電力を減らして点灯してゆくといいます。
少し、寂しさが晴れた気持ちもしますねぇ。

そして、この哀悼のヴェールとともに、わたしも音楽で、哀悼の意を表明したいと思いました。

Allegri_miserere

ルネサンス末期~バロック初期の狭間のローマの作曲家グレゴリオ・アレグリ(1582~1652)の「ミゼレーレ」
パレストリーナの流れをくみ、聖職も兼務した敬虔なアレグリの代表作。
というより、これしか知らない。

この曲は、いっとき流行りました。
英国BBCの通俗曲ばかりあつかうサイトの放送で、数年前、始終かかっていて、おぼえてしまった。
Classic FMというキー局だけど、ラフマニノフやブラームス、アダムズやグラスのミニマルミュージックもさかんに流していたのがおもしろい。
映画にまつわる音楽、ということでしょう。

「ミゼレーレ」とは、レクイエムやミサ曲に必ず出てくる言葉。
いずれも、哀感がこもり、切々とした歌と音楽が伴っております。
「救い給え」という意。
旧約の詩篇51篇の部分であります。

~神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。~

人間が罪を告白し、悔い改めを表明し、神に救いを求めるわけであります。
そして、キリストがその人間の罪を一身に背負い十字架に架けられ、生贄となったがゆえに、イエスを通じて神に語りかけるのがキリスト者なのです。

4声と5声の2団の二重合唱による、静謐でシンプルな音楽は、単調なまでに淡々として何事も動きが少ない。
一心不乱に告解をして熱っぽくなることは一切なく、静かな心乱すことのない祈り。
だからかえって、誠実な祈りとして心に迫ってくる。
キリスト教と遠い方であっても、この祈りの心情は不変でありましょうし、仮に、この曲が神社やお堂で流れたとしても、全然違和感がないのではないでしょうか。

ピーター・フィリップス指揮するタリス・スコラーズの録音は、ふたつの声部が少し距離を置いて、それぞれがこだまのように響き合うさまが、録音によってよく捉えられているし、完璧なウマさが無垢な歌声にとって変わって聴こえるまでに、研ぎ澄まされている。

モーツァルトが、この音楽を聴いて、記憶をもとに写譜を残したという話もあります。

ここに、タリス・スコラーズの映像がありましたので。



もう1枚、別の場所から。

Tokyotower20110513b

暗過ぎ?
でも、これでいい。

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2011年4月 8日 (金)

シュッツ マタイ受難曲 フレーミヒ指揮

Ginza201104

数日前の銀座の夜。
まだそんなに更けてないのに、この暗さと人通りの寂しさ。
都心部は、昼の活気が戻ったような気がするけれど、夜は引きが早い。
歓迎会なども、一次会で駅近あたりでさっぱりと終えてしまうから、よけいに寂しいですな。

Ginza201104_a

夜の暗さは、わたしはこれでいいと思う。
でも、飲む元気とお財布の余力のある方は、自粛しないで暗い中でどんどん飲んで食べればいいと思う。
一方で、コンビニやスーパーなどで、アルコールも含めた飲料が品薄状態。
製造側が被災してたり原材料の流通が滞ったりしているから。
チェーン店や仕入れ力のある居酒屋や飲食店はなんとかいいが、個人のお店は食材が限られ、コストも上がっている。
風評食材もここに影響してるし。
身の周りの個性的でおいしい個人のお店が、客足も減り、メニューも減り、当面休商との張り紙がなされたりしてました。

震災後、もうすぐ1ヶ月、こうしてじわじわと、悪影響はまだ浸食中。
止まない余震もますます気がかりで、糸口がまた遠のいた気もしてしまう・・・・。

Schutz_matthaus

聖金曜日、復活祭は2週間後。
今日は、もうひとつの「マタイ受難曲」、ハインリヒ・シュッツ(1585~1672)のものを。
バッハのまさに100年前の作曲家、シュッツはドイツの合唱音楽の神様ともいうべき人である。
ドレスデンで活動をしたが、当時のドイツ宮廷はどこもイタリアからの流れに浸食されていたが、シュッツは敢然とドイツ語によるドイツ人のための作品を書き続けた。
ほかにも「ルカ」も「マタイ」も受難曲として残されているし、有名な「クリスマス・ヒストーリエ」のような名作もある。
1666年、6が3つ並んでますが、これは偶然として、シュッツ81歳、バッハのマタイに先立つこと、約60年まえの受難曲。

オケや器楽は含まず、無伴奏の合唱と独唱とによって淡々と進められる。
テノールの福音史家、バスのイエス、その他のソロ、民衆や複数宗教家、権力側などの合唱からなる。
バッハのように、コラールや、詩による合唱曲は、冒頭の序の合唱(これ、マタイによるイエス・キリストの受難の物語なり)と、最後のイエスと神を讃える合唱を除いてまったくない。
ここでは、それら2曲を除くと、福音書の言葉(物語)がそっくりそのまま朗唱風に歌い、語り継がれてゆく。
このあまりに、静謐で地味な音楽の進行に、正直耐えられないかもしれない。

シュッツの静的な受難曲は、バッハの心に突き刺さるような雄弁さに比べると、劇性が少なく、1時間あまりの間、辛いものがあります。
今回久しぶりに聴いて、やはり、その感はぬぐえない気持ちだけれども、この厳粛さと、70年代初めの東ドイツ、ドレスデンにおける古雅で厳格な音楽造りが演奏に反映されたこのCDの希少ぶりに、妙に感じ入った次第なのです。

当時のザ・エヴァンゲリストともいうべきシュライアーの清潔な歌唱が素晴らしいのです。
のちに、思い入れ強い歌唱に傾き、「うま過ぎ」の印象を与えることになるシュライアーだけれども、ここでは、ドレスデンの教会内の響きの中に、美しく端正に収まっているように感じる。
全体を統括するフレーミヒの指揮。
どこがどうという訳ではありませんが、ストレートにシュッツの音楽を、感情を排して再現してみせたというべきでしょうか。
マタイ書をなどを見ながら聴くことで、この静かな語り口の音楽が、自分のなかでドラマテックに展開する思いがありました。

  福音史家:ペーター・シュライアー 
  イエス:ヘルマン・クリスティアン・ポルスター
  ピラト:ジークフリート・ローレンツ
  ペテロ:ハンス=ヨアヒム・ロッチュ  ほか

   メルティン・フレーミヒ指揮 ドレスデン十字架合唱団
                    (73.3.10@ドレスデン、ルカ教会)

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2011年2月 6日 (日)

メユール 「ストラトニス」 クリスティ指揮

Akasaka_sakasu1

クリスマスが終わると、げんきんな日本はツリーはともかく、イルミネーションも引っ込めてしまうから正月ムードが終わると街はまったく寂しい。
でもこちらは嬉しい輝きが。
赤坂サカスです。
この先はTBS。
六本木もそうだけど、放送局のおひざ元はキラキラしてます。

Akasaka_sakasu2

日曜はオペラを聴きます。
短めだけど、私のアイドル、パトリシア・プティボンがちょろっと出演してます。
タイトルロールなんだけど、出番は少なめ。

Mehul_straronice

エティエンヌ・ニコラ・メユール(1763~1817)は、モーツァルトと同時代のフランスの作曲家。
解説書を参考に、少しご紹介。

古典派のくくりになるのだろうけれど、グルックの指導を受け、オペラやバレエ作品を得意として24作ものオペラを残している。
器楽・管弦楽作品もそこそこあって、最近ではその交響曲が、ミンコフスキが録音して話題となったりしていて、ハイドンやモーツァルトとも異なる斬新な響きの作品となっているようだ。
1792年、パリのコミューク座で初演された「ストラトニス」は、いま聴けるメユールの唯一のオペラかもしれない。
仲のよかった作曲家ケルビーニも、この作品を大いに評価し、先に亡くなったメユールの才能に対しても絶賛の評を数々残しているようだ。
フランス革命さなかのメユールのコメディ・イタリェンヌ(オペラ・コミーク)は、のちのベルリオーズや、ウェーバー、ワーグナーなどにも影響を与えているという。
1幕もので約1時間。

  ストラトニス:パトリシア・プティボン  アンティオコス:ヤン・ブロン
  セレウコス:エティエンヌ・レスクゥワ  エラシストラトス:カール・デイモント

    ウィリアム・クリスティ指揮 カペラ・コロニエンシス
                     コロナ・コロニエンシス
                         (95.4@ケルン)


紀元前300年頃のセレウコス統治下のシリア。
ここで言う、セレウコス王は、セレウコス1世ニカトル。
その息子である王子アンテオコスは、アンティオコス2世テオス。
王の妻がストラトニスで、王子からしたら継母。
エラシストラシスは、後世に名を残した名医。
こんな4人が登場人物。

病に伏せるアンティオコスの寝室。
友人たちが、お見舞いにやってきて、アンティオコスを元気づけている。
方や、アンティオコスは、「もう、だめ、死にそう、いっそ死んだ方が楽」と嘆きにくれ、シリアスかつ美しいアリアを歌う。
そこに父セレウコスがやってきて、息子を励まし、名医がやっくることを告げ、さらに、自分は今日、ストラトニスと教会に行き幸せになるのだ。おまえもきっとよくなる。
愛する息子よ、早く元気になってと歌う。
しかし、息子は相変わらず、死ぬ死ぬ言ってる。

そこへ、親父のフィアンセ、ストラトニスがやってくる。
親父は、母として、息子を慰めて欲しいと言うと、彼女もわたしもそのつもりなのですと。
名医の到着の知らせに、親父セレウコスは出て行く、若い息子と義母のふたり。
「どうしたのか話して」という彼女。そして、「わたしのことを言わないで・・・」という意味深な言葉を残して去る。
「彼女のことは、私を苦痛のうえ、敏感にする」と息子はいい、今後一切黙っていようと思うようになる。
 やがて、到着した名医エラシストラシス。
「なんにもない、話すことない、うそなんかないよ」と息子はすげない。
医師は、息子の手をとり、その熱さに驚く。
いつからそうなの?とかいろいろと問診を受けるアンティオコス。
「あなたは、情熱の苦しみに囚われている・・・」と断じる医師。
ここで、あーでもない、こーでもないの医師と患者の二重唱。
 そこへ、ストラトニスがやって来て、部屋の前で、希望と怖れへの思いと、部屋に入ることへの気後れを歌う。
彼女を認めると、医師はアンティオコスの手を取り、その鼓動が早まるのを診て確信する。
医者は席を外し、二人になると、愛を語りだす。
医者はすべてを理解し、このオペラの中でも以外にも素晴らしいバリトンのアリアを歌う。
二人を別室に移動させた医師。そこに、これより教会に向かわんとする喜びの父がやってくるが、医師は一計を案じ、セレウコスに、アンティオコスが医師の妻を自分が結婚する前に見染めていたらしい・・・と話す。それが病の元と。
最初はけしからん、許さんなどとしていたセレウコス。
若い二人を呼んで寄こし、最初は不機嫌に、二人に自分に従うか!
と厳しく言い、二人も観念し、父を、夫を慕い従いますと語る。
しかし、セレウコスは、息子に、さぁ、愛するストラトニスの手を取りなさい、父以上の愛情を注いでくださいとして、自分は退き、彼女と一緒になることを命じる。
喜びのうちに、幕・・・・。

歴史上の史実で、セレウコスは実際の妻を息子に譲り、自分は引退して王位も渡す。
アンティオコスはその後、名君として善政をひくことになる。
いまの世では考えられない不実なことだけれど、大昔はありの世界だったようです。

実はこのオペラ、1時間のうち3分の1が語りなんです。
そして、頭にくるのが、わたしのパトリシアさまは、ソロがひとつもなく重唱のみ。
タイトルロールなのに。ほかの3人には、ちゃんと立派なソロがあるのに・・・・。
アンティオコス役のブロンのリリカルな歌は素晴らしいです。
でも、欲求不満がつのるのですよ。
おしゃべりだけすから。
でもちゃんと、プティボンの声、しかも麗しいフランス語を味わえますから。
急速なシンフォニアから、静やかな合唱、抒情的なアリアや、劇的な重唱。
音楽は、なかなかに素晴らしいのでした。

クリスティ門下生の歌の素晴らしさはさることながら、先生のクリスティのイキの良い弾んだ音楽は、音だけで聴くこのアンバランスなオペラに、しっかりとしたメリハリを与えてくれて、語りのあとの音楽が待ち遠しく、そして鮮度が高く感じられる。
室内オペラみたいなもんだから、実際に上演しても動きが少なく、効果が上がりにくいかもしれない。
映像のみで、メノッティみたいなオペラとともに、心理劇風に制作してみたら面白いかもしれないメユールでした。

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2010年7月 6日 (火)

ラモー 「サンフォニー・イマジネール」 ミンコフスキ指揮

Taiyaki_tetsuji_3_2
まぁるい「たい焼き」食べました。
東京駅の大丸の地下に売ってますよ。
たい焼き鉄次」というお店。
たい焼きは、尻尾がなくちゃ! と言われるのもごもっとも。
でも、この丸いたい焼き、とてもウマかった。
薄皮のパリパリ、ずしりと重く、あんこぎっしり。食べ応えありですよ。
 これを頬張りながら、広い東京駅を歩くもよし、お家で、温め直して熱いお茶と食するもよし。
Taiyaki_tetsuji_1
1個買っても、こんな凝った包装@160円也。

Rameau_minkowski
今日は古楽演奏を聴きます。
「さまよえるクラヲタ人」では珍しいエントリー。
でも、バロックオペラを中心に最近聴いているんですよ。
それと、かつては中世ルネサンス音楽に相当はまった時期もあったのですよ。

で、このところお気に入りのマレク・ミンコフスキラモーを聴くのであります。
ミンコフスキは、ラモーやリュリの演奏で名を上げ、グルック、ヘンデル、バッハとそのレパートリーも時代を昇ってきて、古典からロマン派の音楽までを広範に取り上げるオールランド指揮者になってきた。

その音楽は、熱心で熱き探究心を伴った説得力の高いもので、緻密な考察を経ながらも、それらが頭でっかちの無味乾燥なものにならずに、常にいきいきとした鮮度の高さが保たれていて、数百年前の音楽が、今生まれてきたばかりのような新鮮さで目の前に展開されるのだ。

ジャン=フィリップ・ラモー(1683~1764)のオペラがいくつ存在しているかは、不明だけど、いまや、オペラのジャンルにしっかりと根をはっていて、ちょっと昔には思いもよらないことだった。
古楽器による演奏法の確立と技術的な進歩、そして優れた歌手たちの台頭、そしてなによりも優秀な指揮者たちの活躍によるところが大きく、映像というツールの存在も大きい。

「サンフォニー・イマジネール」とは、「空想の交響曲」とでいうのであろうか。
ラモーの11のオペラから、序曲や劇中バレエ、前奏、舞踏曲などをミンコフスキが選びだし、順番も独自に配して、一夜のシンフォニー・コンサートのように仕立てあげたもの。
約1時間、2分から長くても6分くらいの活気みなぎるラモーの音楽の洪水を浴びることになる。

1. 英雄牧歌劇《ザイス》 序曲
2. 音楽悲劇《カストールとポリュクス》 葬儀の場
3. オペラ=バレ《エベの祭典》 優美なエール
4. 音楽悲劇《ダルダニュス》 タンブーランⅠ&Ⅱ
5. オペラ=バレ《栄光の神殿》 女神たちのための優美なエール
6. 音楽悲劇《レ・ボレアード》 ロンドー形式によるコントルダンス
7. アクト・ド・バレ《オシリスの誕生》 優雅なエール
8. 音楽悲劇《レ・ボレアード》 時とゼフィールのためのガヴォット
9. バレ・ブフォン《プラテ》 嵐
10. 音楽悲劇《レ・ボレアード》 前奏曲
11. コンセール 第6番(六重奏による6つのコンセールから)めんどり
12. オペラ=バレ《エベの祭典》ロンドー形式によるミュゼット
タンブーラン(第3アントレ: 舞踏)
13. 音楽悲劇《イポリトとアリシ》 リトゥルネル
14. 英雄牧歌劇《ナイス》 リゴドンⅠ&Ⅱ
15. オペラ=バレ《優雅なインドの国々》 未開人の踊り: ロンドー
16. 音楽悲劇《レ・ボレアード》ポリヒュミニアのアントレ
17.

オペラ=バレ《優雅なインドの国々》シャコンヌ

マレク・ミンコフスキ 指揮 レ・ミュジシャン・デュ・ルーブル
                       (2003.6 ポワシー)

どの曲も、おっそろしく弾んでる。
聴いていて、こちらも弾んでくる。
心に、体の中のリズムに、手や足に、それぞれに刺激してくるものだから、気持ちいいことこのうえない。
オペラの中のオーケストラによる聴かせどころだし、バレエの見せ場でもあるから、短いながらも、個々に力のこもった作品ばかりで、これらをこうして連続聴きすることは、ラモーも想定してなかったことだろうけれど、ここまで鮮やかに、そして屈託なく明るく楽しくやられては、誰も文句のつけようがないのだ。
 これはまさにエンターテイメント
昨年のミンコフのライブは、行けなかったけれど、びっくりの仕掛けが満載。
クリスティ門下だけど、パトリシア・プティボンの魅惑のコンサートにも相通じるものがあるかもしれない。
日本人には、なかなかできそうにない、ラテン系のノリのよさでもあろうか。

これらの中では、プティボンのかかわいいダンスが印象的だった「優雅なインドの国々」が楽しくも愛らしいし、湧き出す感興がいかにもオペラの序曲らしい「ザイス」。
悲しみに満ちた葬儀の場、ノリノリで思わず指揮がしたくなる「ダルダニュス」。
「レ・ボレアド」も体が動きだしちゃう緩急豊かな活きのいい曲。同じオペラからでもは、優雅な雰囲気。
ぽつぽつ雨が、一気に風吹き荒れる悪天候に、「プラテ」の嵐は、すさまじいテンポで駆け巡る音楽。
は有名ですな、めんどり。田園曲のような
は、これらの中では大曲風で、交響曲の緩徐楽章のような「レ・ボレアド」とスケール大きな終曲「優雅なインドの国々~シャコンヌ」。

何度も聴いてたら、どれもこれも楽しくて好きになってしまった。
お酒をちびりちびりと飲りながら、ちょっと酩酊加減で聴くと、これまた空想の中に遊ぶがごとく楽しみもございますよ

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ラモーに、たい焼き、合うかも

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2010年4月15日 (木)

シャルパンティエ 「愛はすべてのもに勝つ」 クリスティ&プティボン

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まだ桜。
向こうは相模湾。

日替わりで、冬と春。
なんだか変だぞ、日本。

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「春のプティボン祭り」開催中

今夜は、クリスティ門下時代のエラート録音から、シャルパンティエ(1643~1704)のパストラレッタ「愛はすべてのものに勝つ」を。

パストレッラは、牧歌劇のことで、イエスの誕生にまつわるパストラーレ=田園曲とはことなる神話世界の寓意劇で、宗教的な意味合いはまったくないのどかで、現世離れしたもの。
後世のオペラの人間ドラマからしたら、まったくもって呑気で、バカらしく感じるけれど、そんな素材に必死に取り組み、滋味深い音楽を書き残した当時の作曲家たちを思い、いまこんな時代に、その音楽を聴く邪念いっぱいのわれわれが、空しい存在に感じてしまう。

フランス・バロックの作曲家、マルカントワーヌ・シャルパンティエ。
多くを聴いてないけれど、キリスト降誕の「真夜中のミサ」が有名。
抒情的な作曲家との印象が強い。
一方で、イタリアに学んだことから、フランス的な優美でノンシャランな音楽と同時にイタリア的な形式重視かつオペラティックな要素も合わせもっているといわれる。

このCDには、フランス語によるディヴェルティスマンと、イタリア語によるパストラッタが収められ、クリスティらしい見事な対比を見せているが、わがパトリシア・プティボンが多く歌うのは後者の方。

プティボンは、二人の娘のうちのひとり、フィッリを歌っている。
羊飼いリンコとシルヴィオの恋人は、それぞれフィッリとエウリッラ。
彼らは、恋人たる彼女たちがつれないので空しい。
一方の女性陣は、子羊が狼に追いかけられたり、自身が熊に脅かされたりで、恋人どころでなく、嘆きの真っ最中。
そこに、牧神パンが現れ、君たちに恋してる羊飼いたちが助けてくれるよ、と歌う。
そのお礼は、「愛」と歌う。
「愛は勝つ」であります。(まるで、KANの歌ですな!~ご存じでしょうかねぇ)

まったく、ばかばかしいけど、真剣かつ優美、そしてオペラのように心情こもった音楽であります。ともかく美しく、緑の園にぼんやり映える音楽に聴こえました。

儚む恋人のひとりを歌うプティボン。
子羊を嘆いて歌うアリアは、ヴァイオリンとテオルボを伴って楚々と歌われ、短くて単純だけど、ジーンとくる音楽であり、プティボンの清純なる歌でありました。
全体のアンサンブルの中でも、ひいき目に聴いてるにしても、ひと際目だって聴こえる彼女の歌声です。

クリスティの意欲が全体にみなぎったシャルパンティエの演奏。
 ルイ14世も聴いたであろう音楽を、こんなに歌と情緒に満ちて、いきいきと再現してしまうのだ。
レザール・フロリサンの秀逸さにも感服。
プティボンの多彩さにも感服。
ここに聴く彼女が、いまやベルクやプッチーニを歌うのだもの。
1996年の録音。

Azumayama6
こちらも郷里桜シリーズ。
早咲きの「つつじ」とともに。

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2010年3月 2日 (火)

「宮廷の愛」 ディヴィッド・マンロウ

Rouge
ブルゴーニュワインでございます。
かなり前に贅沢しちまった時の画像。
バルーンのようなグラスに注ぐと、芳香が立ち上る。
ボルドーのように重厚にならず、さわやかさを残しながらも濃厚さをも味わえた。
ワインには、相当に凝った時期がありまして、もうかれこれ20年以上前。
ワインの場合は、食するものが、どうしても洋風、そして赤が好きだったから、肉やソース系になりがち。
お金も底なしにかかるのもさることながら、体のことを考えたら恐ろしくなった。
 そこで、ワインから泣く泣く身を引き、日本酒になった。
あれれ? 
変わんないじゃん。
だって、今みたいにおいしい焼酎なんかなかったんだもん。
 いまや、量は減ったけれど、あらゆるアルコール類(とあれば何でも)をたしなむオヤジになりました。
夢は、娘や息子と居酒屋で盃をくみかわすこと。 です。

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いまや、ディヴィッド・マンロウのことをご存じの方は少ないかもしれない。
すでに、亡き人だからである。
1942年にバーンガムで生まれ、1976年、33歳の若さで自殺してしまった。
彼こそは、天才と呼ぶに相応しい才気煥発の古楽演奏家だった。
リコーダー奏者にして、中世ルネサンス音楽の研究家・指揮者。

その発端は音楽学者サーストン・ダートとの出会い。
ダートは、ネヴィル・マリナーの斬新なヴィヴァルディやバッハ演奏の元になった人。
もともとファゴット奏者だったマンロウは、ダートから古楽器を紹介してもらい、その魅力にとりつかれた。
やがて、ホグウッドらとともに、ロンドン古楽コンソートを立ち上げたが、ここからは、現在活躍する古楽演奏者たちが綺羅星のごとく巣立っている。

BBCのメディアにもうまくのって大活躍し、EMI、アルヒーフに数々の名録音を残し、まさに当時の中世ルネサンス音楽ブームの中心的存在だったのだ。

ワーグナーやオペラ、英国音楽をフェイヴァリットとする私が、中世ルネサンス音楽に目覚めたのは、すでにマンロウ亡きあと。
EMIが、彼のすべての録音を@1800円の廉価盤としてシリーズ化してから。
そのレコードすべてを購入し、同時にハルモニア・ムンディの@1500円のシリーズから、PCAの演奏ばかりを集中して購入。
皆川達夫先生の本も読み漁り、ともかく聴きまくった。
そして、かならず、葡萄酒を飲みながら

CD化されても廃盤久しいそのシリーズの未開封盤を某店で発掘して、即聴き。

ルネサンス音楽の栄華とも呼ぶべきブルゴーニュの地。
フィリップ善良公のもと、その宮廷にまつわる音楽、それは世俗音楽であるが、それらを集めたシリーズ第3作。
作者不詳の舞曲を交えながら、デュファイバンショワなどの名歌曲が13曲。
楽器は今の耳で聴けばやや現代風であるけれど、ハリと活気にみちあふれていて、まったく見知らぬ、楽譜も確としれぬ曲が、生き生きと鮮やかに蘇る。

 こういうのを聴いてしまうと、時代考証がいまとなってはどうのこうの、と言ってもまったく意味がない。
音楽する喜びと、確信をもって当時の現代に広めようとする心意気。
中世の人々の、純朴で素直、清らかな思いが、600年もたった今、真っ直ぐに伝わってくる思いがする。
いまの演奏は、もっと先鋭だし、そしてもっと泥臭いかもしれないが、純粋音楽としてしっかりと演奏されているところが、マンロウの真骨超だった。

宮廷の愛」とは、当時の貴族の世界でのこと。
市井の人々とは違う、取り澄ました、オブラートに包まれたような愛の社会だったのだろう。でもそこはおんなじ人間。
マンロウの生気あふれる音楽は、そのあたりの機微にあふれた感情の豊かさを味あわせてくれるもの。

マンロウが、まだ存命ならば67歳。
きっと古楽ジャンルの最先端を走り、多ジャンルとのクロスオーバーもこなし、押しも押されぬ存在となっていたことでありましょう。
マンロウの音源は、また折にふれてとりあげてみたい。

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2010年1月14日 (木)

「アルヒーフの軌跡」

Kikumasa 昨年、創業350年を迎えた「菊正宗」。
限定醸造の、大吟醸秘蔵古酒を飲ませてもらった。

大阪北新地にて、昨秋のこと。
ご贔屓のお店には、特別に「菊正読本」とともに、配布されたそうで、ワタクシも久しぶりに顔を出した店なのに、ご相伴に預かってしまった。

ただでさえ、辛口の菊正が好きなのに、大吟醸です。でも古酒入ってるから、すこしマッタリととろみがあって、濃い口。

Yukakiyo
お刺身のいいところ、ちょっとつまんで。
あとは、燗酒で、普通の菊正宗を。

今は、前みたいに毎日大量に酒を摂取しなくなったから、たまに飲むと、本当にお酒ってウマイ

こんな画像をみてるとやばいやばい。。。

今週の土曜日は、今年初めてのコンサートを予定しております。
神奈川フィルハーモニーの定期演奏会で、金聖響さんの指揮で、ベートーヴェンミサ・ソレムニスという大曲なのだ。
聖響さん、なんという大胆な選曲なのでございましょう。
いかなることになりますか?
 そこで、以前から開封してなかったノリントンシュトゥットガルトのCDを聴いて練習中()です。
これだけの、まさに「おごそかなる」大曲は、このところおいそれとは聴けないと思っている。大学生の頃に、開眼したこの美しいミサ曲。
あのヴァイオリン・ソロを伴うベネディクトスの場面で、落涙してしまった。
クーベリックとバイエルン放送のFMエァチェック音源でのこと。
それから、ジュリーニ&ウィーン響(FM)、カラヤン&ベルリン(FM)、ベーム&ウィーン(レコード)、バーンスタイン&コンセルトヘボウ(レコード)などを聴きまくり。
CDでも再購入し、リヒターの素晴らしいライブも手に入れたりしております。
いずれにしても、この曲に関しては古楽風の演奏から遠いところで、ずっと馴染んできた私である。

さて、金さん、どんな「ミサ・ソレ」を聴かせてくれますか。
確実に楽しみなのは、コンマス石田氏のソロでございます。

Archiv
聖書の各伝に、「新しいぶどう酒を、古い酒袋にはいれない。そんなことをしたら、酒が皮袋を切り裂いて、酒も袋も無駄になるだろう」とイエスが語るたとえがある。

古くなったものに新しいものは合わない。
パリサイ人ら古い考えの人には、新しい創造はできないということ。

う~む、音楽にも言えるのだろうか??

今日は、変ったところを1枚。
アルヒーフ・レーベル」のサンプラー盤。

だいぶ前に、アルヒーフの何だかのシリーズを集めて、特典でもらったもの。
もう10年以上前。

ドイツグラモフォンの古楽レーベルであるが、1950年代のモノラル時代からあるのでしょうか。
私のような、オジサン世代になると、いやでも「カール・リヒター」。
そして、「マタイ受難曲」といった図式がすぐにイメージされちゃうレーベルでありますな。
ほかには、ヴェンツィンガーやパウムガルトナー、ヴァルヒャ、フルニエ、ニコレ、ホリガー、メルクスなどなど。
そして、その分野もバロックからどんどん遡って、ルネサンスやゴシック、グレゴリオ聖歌までに広がっていった。
デジタル時代になると、ガーディナー、ピノック、コープマン、プレストンらが主流となり、今度は時代を逆流してベートーヴェンまでをカヴァーして、古楽的演奏を網羅するレーベルとなった。

いまや、アバドやラトルまでがDGと境界線がなく活躍しているわけで、かつて、リヒターがベルリンフィルを指揮したハイドンがDGから出たのと逆のことが起きている。
 これは、いまの音楽界を考えるうえで、とても示唆的なことだと思う。
アバドのモーツァルトやペルゴレージは、これがアバドかと疑うくらいに、古楽演奏家のそれそのもの。でも決して窮屈で貧血的な演奏でなく、アバドらしく、そこには豊かな歌と厳しい音の練磨がある。
逆に、多くは聴いてないので、断定的なことは言えないけれど、古楽系の人が、ロマン派以降の作品にチャレンジすると、ユニークな視点を開示するものの、ちょっと歌不足で血が通ってないようになってしまうような気がする。
もちろん、古楽系の人とそうでない人を区分けすること自体がナンセンスであることは百も承知のうえですが・・・。
でも、今後こうしたクロスオーバー現象は、どんどん加速するだろうし、ピリオド奏法も普通に根付いて、ほんとうに味のある演奏も生み出されてゆくものと思う。

こんなことを、書きつつ、懐かしのアルヒーフの過去を思い、私も柔軟な耳と心で、これからも音楽を聴いて行かなくてはならないと痛感。

 1.ベツレヘム教会の鐘の音
 2.コプト聖歌
 3.グレゴリオ聖歌(シオン修道院)
 4. 〃   (ボンロン聖マルティン・ベネディクト)
 5.インスブルクよ、さようなら(ムント指揮ウィーン少年合唱団)
 6.テレプシコーレ(ノイマイヤー)
 7.ムファット 合奏曲(アーノンクール)
 8.クープラン 王宮の合奏曲(ハンブルク・テレマン協会)
 9.ヴィヴァルディ 調和の霊感(パウムガルトナー)
10.バッハ フーガ (ヴァルヒャ)
11.バッハ 組曲第2番(リヒター)
12.バッハ イエスはわが喜び(リヒター)
13.ヘンデル 水上の音楽(ヴェンツィンガー)
14.ヘンデル ヴァイオリンソナタ(メルクス)
15.テレマン ターフェル・ムジーク(リンデ)
16.モーツァルト 旧ランバッハ(パウムガルトナー)


以上、いずれも抜粋。
今聴くと、正直、のどかでユルく感じてしまう。
でも先鋭さのない、いにしえの音楽を奏者が真剣に、かつ楽しみつつ演奏しているのがよくわかる。
ここにはまぎれもなく、音楽が人を感動させる音楽として存在している。
文献や学究から、大きく脱して、われわれが今(当時)聴く音楽として記録された古楽のスタートラインかもしれない。

そして、いま思えば、古楽ジャンルの大幅な拡充は、バロックオペラの盛隆をもたらしたし、ルネサンス時代の音楽の興隆は、アマチュアもふくめて楽しめるようになり、あの時代のイキイキとした人々の顔まで思い起こすことができるようになった。
音楽のジャンルがひとつ生まれたみたいで、これはとても大きなこと。
 そして、その演奏様式が古典やロマン派の音楽にまで及ぶようになっている今。
確かに、いま、音楽好きとして面白い時代に生きている。。。

追)ノリントンのミサ・ソレ、結構、普通です。73分間。
相変わらず、ツィーツィーと弦楽器はやっておりますが、合唱や独唱が入ると救われます。ベネデイクトゥスもかなり美しい、歌ってます。でもエンディングは・・・、あっけない。

ただいま出張中につき、本記事は、スウィトナー死去のニュースを知る前のものであります。

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2009年12月10日 (木)

「グレゴリオ聖歌」~奈良にて

1 ゆるキャラの中でも、気持ちわり~と評判の「せんとく
驚愕の「せんとくんツリー」を奈良市内で発見したのだ。

ちょっとどーすかね
街中いたるところに「せんとくん」がいますぞ。
コンビニにも「せんとくん」グッズが。

2unebiyama
車で移動しながら、途中寄り道ばかり。
でも朝早くから暗くなるまで走りまくったり、役所行ったりしてんですよ。
 ところで、奈良は道が狭いところがたくさんあって、みんな運転も怖いであります。

こちらは、畝傍山(うねび)。
耳成山、天香具山と合わせて大和三山のひとつ。
飛鳥の古代を偲ぶ歴史のつまった山々であります。

3
天理市内。
ようこそおかえり」とはまたいったい?
いうまでもなく、宗教関連色の強い本拠地。
でっかい地方別の館があちこちに・・・。

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鑑真さんの「唐招提寺」金堂。
8世紀後半の完成といいます。

5yakushiji
唐招提寺から歩いて行ける「薬師」。
700年頃の完成。
いまは、新しすぎて眩しすぎ。
東塔が修理中で、シート被っていて興をそぐことおびただしい。

6sentokun 駐車場の売店にもいましたよ、彼が。。。。
馴染んでくると、つぶらな瞳が憎めないわね~

7horyuji

泣く子もだまる隆寺
ここで聖徳太子登場。
607年がその起源といいます。
世界遺産の日本指定1号。
やはり風格があります。
ちょうど鐘がなりました。
優しいお顔の百済観音像もいらっしゃましたぞ。

8horyuji はいはい、ご苦労さん。
どなたか、名前は存じませんが、屋根をしっかり支えていらっしゃいます。

9kura 奈良に名居酒屋「蔵」あり。
ここで、さまよえるクラヲタ人は、ひとり憩うのであった。

酒は、奈良の地酒「貴専寿」。
そして七味よりは、山椒の似合う焼き鳥。
くぅ~、うまいね。

10kura
いぶし銀の店内の様子。
もともと蔵であったものを居酒屋にしたもの。
居酒屋としても長い歴史がある。
私のようなのんべには、聖地のような店だ。

そしてですよ、テレビドラマの「あおによし」で、玉木宏綾瀬はるかがビール飲んでたのが、この店だそうな。
全部録画してあるので確認してみよっと。
ここでの飲食状況は、いずれ更新の止まっている「別館」にてご案内。
11sentokun また君かね

やたら出てくる「んとくん
今度は、お伴を引き連れて(笑)。
平城遷都1300年ということでイヴェントが企画されているそうじゃ。
リンクしたHPからせんとくんのオフィシャルページにも行けますぞ。
ダンスやブログパーツもあります。
よろしければ是非(笑)
このポスターの上には「待っててね。待ってるよ。」と書かれてます。う~む・・・・・。

Gregorian_chant
日本の「いにしえ」を訪ねたのに、西洋の神様の音楽とは不届きなり!とお叱りを受けるかもしれないが、そこはクラヲタゆえ、当然にございますな。

法隆寺や聖徳太子の時代、西洋ではどんな音楽が鳴っていたのか?
それをこじつけようという寸法でございます。

そう、グレゴリオ聖歌もその候補の大きなもののひとつ。
教皇グレゴリウスⅠ世の在位が、590~604年であるから。
しかし、教皇や側近のみが編纂したものでなく、古代由来の聖歌がさまざまな形で変化していって今聴けるものとして残っている訳でもある。
楽譜がないというのもこうして困ったもの。
でもネウマ譜というのがこの聖歌の楽譜で、にょろにょろした線のようなものだったらしい。
それらを研究したのが19世紀、パリ郊外のソレーム修道院で、皆川先生の解説によれば、古写本の読み取りが不徹底で、無用なフレージングがつけられた結果、19世紀的な美学も混在していまうこととなった、とされている。
十年以上まえ、ヒーリング音楽として空前のブームとなった「チャント」であるが、今はもう誰も聴かなくなってしまった。
 私はワーグナーに目覚めたころから、朝のバロックで始終「グレゴリオ聖歌」がかかっていたので、この単旋律の神秘的な響きを持つ歌が、妙に好きだった。

このCDは、ソレーム修道院の格式あるものでかつての昔、レコード何十枚もの全集が出たりしていた。
教会の鐘も鳴り響き、残響豊かに聖歌が歌われる。その背景には、鳥たちのさえずりも聴こえる雰囲気ゆたかなもの。
クリスマスにまつわるミサを集めた1枚。

ヒットしたEMI盤は、シロス修道院のもので、こちらはもう少し荒削りな印象。
ソレームは、どちらかといえばムーディな感じか。
その後いろいろ研究されていて、本格声楽団体もキッチリと歌うようになったが、私はこのソレーム盤が懐かしく、これにこそ、「いにしえ」を感じる。
指揮は、ガジャール神父じゃ。

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