カテゴリー「シュレーカー」の記事

2024年7月13日 (土)

シュレーカー「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 ②

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             (ある日の窓の外はこんな夕暮でした)

シュレーカーの3大オペラは、「はるかな響き」「烙印を押された人々」「宝さがし」の3作ですが、「
はるかな響き」のピアノ版のヴォーカルスコアを作成したのはアルバン・ベルク、シェーンベルクの「グレの歌」の初演を指揮し、「クリストフォロス」を献呈もした。

シュレーカーと同時代の独墺系の人々を有名どころのみ列挙します。
これも過去記事からのコピペですが、この時代の人々、そしてユダヤの出自やその関連から音楽史から消し去られてしまった人々を鑑みることも、いままた訪れつつある不自由なレッテル貼り社会を危惧する意味で大切なこと。
ここにあげた作曲家の作品はいまや完全に受容されているのだから、過去の間違いを犯してはならないということ。
このなかでもシュレーカーは、ウィーンやベルリンで要職を務めたこともあり、横のつながりもたくさんあり、当時はビッグネームだった。

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

独墺系以外のこの時代の作曲家にも注目することも、音楽の幅と楽しみを増強することだろう。
イタリアオペラの流れにある作曲家、イギリスのブリテン以前の作曲家、スラヴ系の民族とこの時代の流れを融合した作曲家。
そして、否定してはならないロシア系。

シュレーカーのオペラは、シュトラウスとツェムリンスキー、そして仲間のベルクの音楽の延長線上にありつつ、それらとはまた違った地平線をみせることで独自性を誇っている。
大オーケストラに、それに張り合う強い声の歌手たち。
エキセントリックな極端な歌い口、一方で抒情的な繊細な歌い口も要するので歌手には難役が多い。
重いワーグナー歌手よりも、後期のシュトラウスの自在さと軽やかさを伴ったオペラが歌えるような、リリカルさと強靭さを兼ね備えた歌手が必要なのがシュレーカーのオペラ。


シュレーカーのオペラを聴いてきて、見出した共通する音楽のパターン。

①ライトモティーフのさりげなかったり、あけすけな効果的な利用

②基本にある後期ロマン派の響き。
表現主義や象徴主義、印象派風、新古典風、民族風・・・、あの時代のあらゆる要素を後期ロマン派様式に入れ込んだ。

ゆえに中途半端な印象やとらえどころのなさ、なんでもあり的な印象を与えることとなる。

③超濃厚絶美なロマンテック場面が必ずある。
ヒロインのソプラノが夢見心地に陶酔感をもって歌うシーン。

④酒池肉林的な、はちゃむちゃ乱痴気シーンが必ず出てくる。
パーリー・ピープル大活躍。

そこでは、大衆的なダンス音楽だったり、高尚なワルツだったりと、舞踏の権化がつかの間展開。

⑤シュプレッヒシュテンメの先駆的な活用。
語りと歌唱の境目が薄く、ゆえに怪しい雰囲気と人物たちの心象の揺れを見事に表出。

⑥ヒロインの女性の心理が摩訶不思議で男性陣には理解が不能。
その女性たちは、たいてい「イタイ、どこか陰りある女性」たち。
わかっちゃいるけどイケナイ恋にはまってしまい、悔恨にくれることになるのが常。
彼女たちに与えられた没頭的な歌が実はステキで、そんな歌や役柄は、シュレーカー以外の作品にはあまりないと思う。
シュレーカーの心理もここに反映されているのか、同時代のフロイトの影響もあるのか。。。。


 ーーーーーー

このパターンを「クリストフォロス」に見出してみよう。

①ライトモティーフ
ワーグナーのような行動や心理を伴う裏付けとしてのライトモティーフはないが、登場人物、そして重要なか所での旋律の共通点はあり。
また全体に旋律の統一感はあり、よく聞けば過去を振り返ることも、また先に進んで、あのときの・・・と思い起こすこともできる。

②後期ロマン派の響き
それは基調としても、シュトラウスのような大衆性やオペラの勘所をわざとはずしたかのような塩梅が中途半端を与える。
しかし、このオペラではヴェリスモ的な様相に加え、甘味な濃厚サウンド、さらにはジャズ的な要素、新古典主義的な要素、それらも加え、極めて多彩な顔を見せてくれる。

③濃厚甘味な場面
危ういヒロインがみずから足を踏みはずし、主人公の思いと行動をかぶらせる1幕後半の銃殺の前のシーン。
その前段でのエキセントリックないがみあう二人のシーンも強烈で、冷静さを保とうとした夫のクリストフが、ふたりの抱擁を見て激高していく流れもなかなかに魅力的だ。

④乱痴気シーン
2幕はジャズの流れるダンスホールで、しかもイケないことにアヘン決めちゃってますぜ。
はちゃむちゃ・ハーレムサウンドはシュレーカーお得意だ。

⑤歌と語りがもう融合してしまい、語りのシーンが多いのに、みんな歌に聴こえちゃう

⑥イタイヒロイン、あぶない主人公、変貌する凡人たる夫、しかしここではその夫は聖人にさらに変貌するという二重舞台構造を越えたマトリューシュカ的な効果を味わえる。

以前の記事のコピペですが、これここでもあたってる。
ほかのオペラでは、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。

対する敵役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。
(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)

 こんな主人公たちがそのパターン。

こんな風にシュレーカーのオペラに共通な場面を、クリストフォロスにあてはめてみた。

でもこの「クリストフォロス」が特異なのは、クリストフォロスというキリスト教の聖人を扱っていながら、このオペラの根底にある、あるとされる「道教」のこと。
これが難しくて、一朝一夕には理解が及ばない。

第2幕でクリストフは、子供の登場で開眼し、妻殺しから修験の道へと目覚め、聖人クリストフォロスになったかのようになる。
これを目撃したアンゼルムは、オペラの作曲の筆を折り、ヨハン先生の教えのとおり、聖人クリストフォロスにちなんだ純音楽・四重奏曲の作曲に切り替えてこのオペラは終結する。
エピローグにおける、老子の『道徳経』を歌う場面。
ここが、その内容が難解なのです。

当日の詳細なプログラムから拝借します(独語和訳:田辺とおるさん)

「自分の男声的な強さを知り、しかし女性的な弱さの中に身を置くものは、
 この世の川床である。
 もし彼がこの世の川床ならば、永遠の生は彼から離れない
 そして再び引き返し、幼子のようになることができる、

 自分の光を知り、しかし闇のなかに身を置くものは
 この世の模範である。
 もし彼がこの世の模範ならば、永遠の生を欠くことはない
 そして、再び引き返すことができる
 いまだならざるものへと

 自分の名誉を知り
 しかし恥辱のなかに身を置くものは
 この夜の谷である
 もし彼がこの世の谷ならば
 永遠の生の充ち足りるを待つ。
 そして、再び引き返すことができる
 単純さへと」
 
難解ではあるが、じっくりと読むと、これらの言葉が、解説にあったようにクリストフとアンゼルムに対するものと思うこともできる。
「単純さへの回帰」
文字通りに、このオペラの最後は平安なシンプルな音楽で結末を迎える。

シュレーカーは当時、評論家筋に女々しい、弱い、退廃的だと批判されたが、このオペラでのモデルとされたヴァイスマンが急先鋒で、ウィーンでもかのコルンゴルトの親父ユリウスも批判者のひとりだった。
アンゼルムがシュレーカーであり、彼は才能があるも弱々しい存在で、クリストフは強い存在だが凡庸。
アンゼルムのオペラでの存在は、歌と語りで、クリストフはほぼ歌っている。
この二面性ある2人の対比とある意味同一性は、最後には一体となる。
このふたりと、リーザという女性の三角関係がオペラ部分とそれ以外の部分での対比で、また聴きものであると思う。

シュレーカーが抱いていた思いは、「オペラの行き先、それは終焉なのか?」ということもあるかと思いました。
同時代人が、ジャズ満載の「ジョニーは演奏する」やヴェリスモ的な「ヴォツェック」と「ルル」、新古典主義の「カルディアック」、人気を博すシュトラウスオペラの数々。。。これらに対しどうあるべきか、悩んだんだろうと思います。
思えば凄い時代です。
70年前に、ブーレーズがオペラは終わったと発言したが、その終わった発言が、いま世界的に訪れている経済危機や文化芸術への軽視、異様なまでのグローバリズムにおいて、まさにオペラの危機が西側にはやってきているものと思う。

シュレーカーのオペラ、このあと「歌う悪魔」「ヘントの鍛冶屋」を聴きこんでいきます。
あとツェムリンスキーのオペラもコンプリートできたし、こちらも全作のブログ記事がんばらねば。

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2024年6月30日 (日)

シュレーカー 「クリストフォロス」あるいは「あるオペラの幻影」 日本初演

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               (東京都清瀬市のけやきホール)

日本ではいまだに本格的な舞台上演のないシュレーカーのオペラ。
唯一、演奏会形式では「はるかな響き」のみがあるのみ。
こうしたなかで、シュレーカーの作品のなかでも、極めてマイナーで、かつ独創的・実験的な「クリストフォロス」を果敢に取り上げ、上演に導いていただいだ田辺とおるさんをはじめとする関係者の皆様に、感謝と敬意を最大限に表したいと思います。

ヨーロッパでは、「はるかな響き」「烙印をおされた人々」「宝探し」の3作がメジャーな劇場で上演されるようになり、さらには地方の有力劇場でも、シュレーカーのオペラは取り上げられつつある。

そんななかで、今回の本邦初演は、作者存命中はあたわず、1978年にフライブルグで初演され、1991年にウィーン交響楽団でコンサート形式で演奏(メッツマッハー指揮)、その後はCDとして残された2001年でのキール上演以降の世界で3度目の上演、4度目の演奏なんです。
シュレーカーのオペラを全部聴いて、ブログに残そうとしている自分にとって、こんなまたとない日本初演の機会でした。
全10作あるシュレーカーのオペラ、ブログ記事は、作品としては7本目となります。
残りは3作ですが、最終の「メムノン」は未完作ですので、あとふたつは、すでに視聴済みで記事にできるように今後聴き込んでいきたいと思います。

あらためて、フランツ・シュレーカー(1878~1934)について、過去記事から引用しておきます。

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・
ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。
強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。どこか遠くで鳴ってる音楽。

クリストフォロス」は、シェーンベルクに捧げられた1929年完成の作品で、シュレーカーのほかのオペラ作品は次のとおり。
下線は過去記事へと飛びます。

 ①「Flammen」 炎  1901年
 ②「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年
 ③「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年 
 ④「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年
 ⑤「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920
 ⑥「Irrelohe」   狂える焔   1924~29年
 ⑦「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1929

 ⑧「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年
   ⑨「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年 
 ⑩「Memnon」メムノン~未完   1933年

Christophorus

この作品、唯一の音源、そして世界で2度目の上演のライブ。 
2001年から2003年まで行われたキールオペラでのシュレーカー・シリーズの一環で2002年のライブです。
音源としては耳になじませてはいたが、英語の解説を読んでもちんぷんかんぷんで、そのせいもあり弊ブログのシュレーカーのオペラシリーズもこの作品で足踏み状態だった。

この度の日本初演に接し、さらにyoutubeでのプレイベントや詳細なるプログラム、さらにはそこに全文掲載された田辺とおるさんの訳による台本、これらにより、おぼろげだった「クリストフォロス・・・」というオペラの姿が見えるようになった。
ほんとうにありがたいことです。

まずは、このオペラにはその伝説は直接に登場しないけれど、必ず頭に置いておかなくてはならないこと、「聖クリストフォロス」のこと。
公演パンフレットにあったものがとても分かりやすいので、ここに貼り付けます。
クリックすると別画面で開きます。(使用に支障ございましたらご指摘ください)

St-christphorus

オペラの登場人物

 アンゼルム(テノール):作曲家でヨハン先生の弟子
 リーザ(ソプラノ)  :ヨハンの娘、アンゼルムに思いを寄せていた
 クリストフ(バリトン):作曲家でヨハン先生の弟子、リーザと結婚
 ヨハン先生(バス)  :信望厚い作曲の先生で弟子多し
 ロジータ(メゾソプラノ:2幕で登場するシャンソン歌手
 シュタルクマン(シュプレヒ):評論家(シュレーカーの批判者のモデル)
 霊媒フロランス(ソプラノ):2幕でリーザを召喚するイタコ
 ハインリヒ(バリトン):ヨハン先生の弟子
 フレデリク(バリトン):ヨハン先生の弟子
 アマンドィス(バリトン):ヨハン先生の弟子
 エルンスト(テノール) :ヨハン先生の弟子
 子供(ソプラノ)    :クリストフとリーザの子
 ハルトゥング博士(バスバリトン):クリストフを観察する心理学的先生
 カルダーニ神父(バス・バリトン):霊媒師に付き添う神父
 待女エッタ(アルト)  :リーザの家政婦さん

シュレーカーのオペラの常で、登場人物は多く、そして多彩で多面的な存在で、それぞれに存在価値を示すのでまったく気が抜けないし、それぞれの歌手が、このオペラではシュプレヒシュティンメ的な存在を求められるので高難度。
歌と語りが混在し、語るようでいつの間にか長い旋律や絶え間ない変転を繰り返す歌へと常に移行するので、歌手はまったく大変だと思う。

オペラの構成

プロローグとエピローグを挟んで、2場からなる第1幕と第2幕とで構成
プロローグでヨハン先生から作曲の課題の提示があり、弟子たちが取り組む。
第1幕の本編以降は、作曲をするアンゼルムに、凡庸ゆえに作曲を卒業して愛に生きるクリストフ、悩み多きリーザの3人を中心とした劇の展開となり、劇中劇の様相を呈する。
さらに、この劇中劇は2幕の後半では、さらなる劇のなかの劇的な展開となり、劇中劇の劇となり、エピローグにつながり、調和和声のなかに音楽と劇も閉じる。
こうした構成が、音源ふだけではマジでややこしく、わからなかった。

オーケストラ

通常の編成に加え、ミュージカルソーという手鋸を弦で弾く珍しい楽器、ピアノ、チェレスタ、ギター、バンジョー、サックス、ハーモニウムなど当時の新機軸ともいえる楽器が総動員されている。
そして、作者の指示で、曲の冒頭や各幕の頭には、鐘が鳴らされる。
宗派によっては、聖クリストフォロスが守護聖人のような存在とされることへのリスペクトでありましょうか。
 今回の上演では、弦楽は最小限に抑えられたアンサンブルとし、金管・木管・打楽器などは2台のエレクトーンで代用。
これが普段聴いていたCDとほぼ類ない再現度合いで、むしろ緊張の度合いや、音楽への集中力を高める効果もあったことは大絶賛していい。

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 シュレーカー クリストフォロス、
           あるいは「あるオペラの幻影」


   アンゼルム:芹澤 佳通   リーザ:宮部 小牧
   クリストフ:高橋 宏典   ロジータ:塙 梨華
   ヨハン先生:岡部 一朗   シュタルクマン:田辺 とおる
   霊媒フロランス:大澤 桃佳 ハインリヒ:金子 快聖
   フレデリク:上田 駆    アマンドゥス:長島 有葵及
   エルンスト:西條 秀都   子供 :長嶋 穂乃香
   ハルトゥング
博士/司会者:ダニエル・ケルン
   ガルダーニ神父:ヨズア・バルチュ
   待女エッタ:中尾 梓
   ピアニスト:小林 遼、波木井 翔
   ホテルの客:小野寺 礼奈、小林 愛侑、西脇 紫恵

  佐久間 龍也 指揮 クライネス・コンツェルトハウス
          エレクトーン:山木 亜美、柿崎 俊也

   演 出:舘 亜里沙

   公園監督:田辺とおる

          (2024.6.23 @けやきホール、清瀬)

プロローグ

アンゼルムは、思いを寄せる教師の娘リサのことを考えているが、作曲コースの同僚のハインリヒ、アマンドゥス、エルンストは彼を「女々しい」「愚か」「恥さらし」などとからかっている。
聖クリストフの伝説について弦楽四重奏曲を作曲するという課題をヨハン先生が生徒たちに与えていた。
ヨハン先生は、この伝説を生徒たちに順繰りに語らせ、生徒たちも素晴らしい素材だと熱狂する。
 アンゼルムはその仕事に不満を抱き、四重奏曲ではなく、ドラマテックなものを求める。
「甘くて魅惑的な悪魔のような女性」が欠けていると語る。
伝説における悪魔の役割は、リーザによって演じられるべきだと確信し、陶酔する。
リーザがやってきて、不埒なことを言うのではなくてよと、彼女は彼の顔を殴ります。
ひざまずいていたアンゼルムはそこへやってきたクリストフに引きずり上げられ、恥を知れと侮辱。
クリストフはヨハンの作曲クラスに参加して「私が最高だと思う芸術に奉仕」したいと歌う。

第1幕 1年後

アンゼルムはオペラの制作に取り組んでいる。
モノローグでは、インテッルメッツォという名でひとつの幕を加えると歌う。
 彼やヨハン先生の両方に敵対する批評家シュタルクマンが訪ねてくる。
婚約したという若いクリストフに会いたがっているが、アンゼルムはクリストフをこきおろす。
 アンセルムは仕事を続け、エピローグの仕立てに悩み、伝説の存在が頭をめぐるといらつく。

クリストフとリーザやって来て、クリストフはシュタルクマンが彼の交響曲の演奏を推薦したいといったと報告する。
アンゼルスとリーザの間ではいさかいがいまだに残る。
クリストフはアンセルムスを擁護し、よく話しをしなさいと出ていく。
彼女がアンゼルムを怖かったのは彼女が戦おうとしている自分自身のなかにあるなにかの存在の一部に似ているからである。
アンゼルムは感情を爆発させ、あのときからあなたに縛られ鎖につながれていると激しく歌い出ていく。
リーザはショックを受け飛び出していく。

ヨハン先生は 、教師として、また人間としてもの自分の失敗についてクリストフに反省とともに語る。
クリストフは、愛が最も強い力であると強調し、けっして芸術ではないと歌う。
愛であるリーザに今後は使えたいと熱く語り、そこに居合わせたリーザも最愛の人と感激する。
 他の生徒たちは彼女の婚約を祝福するようにいろいろなプレゼントを捧げ、。レデリクは完成した弦楽四重奏曲を捧げる。
シュタルクマンの登場にヨハン先生は困惑するが、クリストフはこれを許し記事の作成も許諾。
そこで、クリストフは、芸術との別れを宣言する。
アンセルムスはリサに自分のオペラの第 1 幕を贈り物として贈る。「弱きものは、永遠で人生と世界を浄化する」と語る。

リーザの部屋。リーザは出産後、自分が美しくなくなったと感じて悩む。
クリストフはアンゼルムに嫉妬していて、そのオペラではリーザが「液体ガラスのように流れ輝き、繊細で銀色、邪悪で狂気の音楽」に合わせて踊ることになっていると歌う。
クリストフはベールのコスチュームを見て怒りに燃える。
クリストフは母としての聖なるものをリーザに感じるが、子供を運ぶことは、リーザにとっては重荷であると考えている。
クリストフは同情はするが、子供のこと、わたしのことも考えてと彼女に警告し去る。

アンゼルムが登場し、自分のオペラの大きな場面が始まろうとしていることを認識。
リーザは、炎、波、罪という地球の精霊の3つをアンゼルが朗読したテキストに合わせて踊る。
踊りながら罪とはなんて柔らかいのだろう、しかし罪は人を滅ぼすと歌いつつ、その罪は勝利すると陶酔。
「あなたは私を思い通りに創造した、私のなかで踊る悪魔を呼び出した」
やがてふたりは抱き合う。

アンセルムスが自分の仕事のコントロールを失っていることに気づくが、、クリストフはその場面を見てしまった。
笑っているのは悪魔だ、死ねと激しく笑い始めたリーザを撃ち殺す。
リーザは「ただの遊びだったのに…」と言い残して息を引き取る。
アンゼルムは捕まるまえに、クリストフを君がすきだからと逃避行を手伝う。

第2幕

ホテル・モンマルトル
アンゼルムとクリストフがジャズバンドで演奏するダンスホール。
ダンスホールともう一方にはアヘンの煙が立ち込める奥の部屋。
ハインリヒは心理学者の博士と一緒に座っている。
ハルトゥングは奥の部屋にいて、彼が唯一認め、逮捕から守りたいと思っているクリストフを救出する計画を立てています。
しかし、ハルトゥングは主にクリストフを心理学的に興味深い症例として見ており、ハインリヒは物乞いへと陥ったヨハン先生とその孫を助けに行く。

シュタルクマンはいまでは海の向こうの音楽に未来を見ている。
ロジータがアンゼルムのシャンソンをピアノ、サックス、ドラムの伴奏で歌ってている間、クリストフはアヘンをやり酩酊のなかにはいりこむ。
司会者に導かれ、霊媒師が死者を呼ぶことができる、みなさんのなかで誰か?と誘うとすかさずクリストフが手をあげる。
アンゼルムはことのなりゆきに、怒り、私の最終章は陳腐で感傷的なものになりさがると嘆く。

禍々しい雰囲気のなか、霊媒師フロランスとクリストフの対話が続き、クリストフが自分が殺し、最後の言葉は、ただの遊びだったとのことを告白。
霊媒師は興奮して、彼ら来る、はここにいると金縛りに会う・・・・

場は変わり、早朝の光のなか、老いたヨハン先生と子供がそれぞれギターとタンバリンを持って出てくる。
子どもは歌う、親愛なるみなさん、どうかお恵みを、僕には父も母もいません、喜んで歌います・・・ラ、ラ、ラ、春風に凍えている、お恵みを、と涙を誘います。
クリストフは目が覚めたようにふたりのもとへ駆け寄る・・・・

        間奏曲

エピローグ

目に見えない声が、老子の『道徳経』の文章を読み歌う。
ここは長く、極めて難解、ここを読み解くのは、今後の課題だし、シュレーカーの音楽の鍵にもなる部分と知った。。。

プロローグと同じ音楽たちの部屋。
アンゼルムはヨハンとリーザに見守られながら、楽譜が足元に乱れ、完成できないオペラに休みなく取り組む。
我が子の世話をするクリストフに話しかける。クリストフと子供はヨハンとリサには見えない。
クリストフは芸術も愛も乗り越え、罪悪さえも制服した、かつて同名の祖先が皇帝と悪魔に仕えたように、地上のあらゆる権力に身を捧げた。
しかし、舞台の中でしか生きることができなかったと淡々と語る。
これにアンゼルムは傷ましい真実、彼は創造主となり、私たちは幻にすぎないと嘆く。
このアンゼルムに対し、リーザは同情し、わたしのせいだと父に救いを求める。

アンゼルムにしか聞こえないクリストフの独白は続く。
子どもに向かい、その目に映る唯一の神格を認め、仕えたいと表明しいかに謝罪するか、最後の慈悲に値するかを問う。
アンゼルムは、そんなの黙れ、ヨハン先生も聞いているとささやく・・・
子どもは、わたしを背負って水のなかを運んでください、僕はますます重くなる、私たちは沈み溺れる・・・そして光のなかで燃えつきる。
お父さん、この苦しみを終わらせてと歌う。
私を家まで連れていって、家へ、家へ、来た場所へ・・・・
クリストフは、子どもを連れて舞台奥へ静かに歩み去る。

ヨハン先生は、アンゼルムに、お前は心の声を聞いている、お前の創った人物はお前のなかに生き、自身となる。
音楽であってそれ以上のものではない、四重奏曲なのだ、息子よ。と語る。

「アンダンテ・コン・リゴーレ」、黒板に向かい作曲の筆をとる。

「彼は子供を背負い、子供が彼を導く、孤独な道を」

音楽は四重奏による平穏な調と和声となり、最後はオーケストラも相和し、平和な雰囲気のうちに閉じる。

                

長いあらすじを起こしてしまいました。
田辺さんによる翻訳台本、CDのリブレット、ネット上の書き込みなども参照にしました。
こうしたオペラは、数年すると、その内容もおぼろげになるので、あとで見返す自分のためにもです。

本編の劇中劇のなかでも、アンゼルムは劇から飛び出し、劇中劇のなかの劇にまで進んでしまう。
マトルーシュカのような多層的なオペラだけれど、これを2時間の枠に収めたことで、展開が性急となり、理解が及ばないという恨みもあり。

しかし、こんな馴染みのない作品を、今回、見事に間断なく歌い演じた歌手のみなさんは大いにリスペクトすべきであります。
ダブルキャストで、わたしは2回目の上演でしたが、その素晴らしい舞台に接し、また前日はクロスするように交換した役柄もあり、双方を確認してみたかった。

没頭的かつ熱狂的なアンゼルムを歌った芹澤さんは、その姿もスタイルもまさにシュレーカーのオペラに相応しい声と演技でした。
リーザの宮部さん、CDでのベルンハルトは、やや不安定な歌唱がまさに揺れるリーザに相応しかったのですが、彼女の正確な生真面目な歌唱が、逆にリーザの複雑な心理とその存在を歌いこんでいたのではと思った。
いくつもダンスのシーンもあり、これは難役だと思いました。
それとクリストフ役の高橋さん、暖かいバリトンは、途中、嫉妬に走り、さらには狂気の世界に入る投役には優しすぎるかとも思いましたが、でも最後に到達した境地を淡々と歌った場面で、これもまたいい役柄でもあり、素敵な声と演技と認識しました。

この上演の立役者、田辺さんの憎たらしい評論家も存在感ばっちり。
最後の舞台挨拶でおっしゃってましたが、「ヴォツェック」からの冒頭場面、大尉がヴォツェックにむかって言う「Langsam Wozzeck、Langsam・・」このフレーズを、評論家の言葉のなかに入れたらしい。
そう、わたしも「あ!」と思いました。
ヴォツェックやベルクもこのオペラをひも解くキーだと思うので、まったく見事としか言いようがありませんね。

若い学生たちも、みなさんそれぞれに立派で力強い声で、その声はしっかりと客席に届きました。
霊媒さんも、子供の無垢な雰囲気も、いすれも声も姿も可愛い存在でしたね。
ふたりのドイツ人出演者、正直、ドイツ語のほんものぶりは、際立ってました。
とはいえ、語りの多いこの難解な作品を、原語上演で完璧に仕上げたこのプロダクションは、日本人として誇るべき精度の高さと音楽性の豊かさ、共感力の高さにあふれたものでした。

ウィーンで学び、オペラの経験も厚い佐久間さんの、適格な指揮もよかったです。
エレクトーンと弦楽アンサンブルで、ここまで雰囲気よくピットのなかのオーケストラが再現できてしまうことにも驚き、素晴らしく感じましたね。

比較的小ぶりなホールで制約のあるなか、全体をコンパクトにまとめつつも、緊張感ある舞台に仕上げた演出の舘さん、実によい出来栄えだったと思います。
ともかく簡潔でわかりやすい、これがいちばん。
紗幕のうまい使い方で、劇中劇と前後のプロローグ、エピローグの対比がしっかりできた。
100年前の社会様式が、いまでは陳腐ともなりかねないが、それが今の世の中にぴったりフィットするような動作や所作。
光と影を巧みに表現。
アヘン窟ではスモークでその怪しげさ満載の舞台となり、そこにいた、それぞれの思いをもった人物たちの怪しい思いがよくわかる仕組みに。
このように、ともかくわかりやすい舞台を仕上げてました、日本初演の舞台として、この簡明さは大正解だと思いました。

このあと、シュレーカーのこの音楽の印象や、自分が思った聴きどころなどは、追加で補筆したいと思います。

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2023年4月 7日 (金)

シュレーカー 「はるかな響き」夜曲 エッシェンバッハ指揮

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桜満開の小田原城のライトアップ🌸

城内外、お堀の周りも桜満開。

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月も輝き、ロマンテックな夜でした。

Schreker-eschenbach


  シュレーカー 「はるかな響き」夜曲

         「ゆるやかなワルツ」

          室内交響曲

          2つの抒情歌

           S:チェン・レイス

         5つの歌

           Br:マティアス・ゲルネ

         「小組曲」

         「ロマンテックな組曲」

    クリストフ・エッシェンバッハ指揮

     ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

       (2021.3,5 2022.5,6 @コンツェルトハウス、ベルリン)

忽然とあらわれたシュレーカーの音楽の新譜。
しかも指揮が、ばっちりお似合いのエッシェンバッハ。
その濃密な音楽造りと、没頭的な指揮ぶりから、マーラー以降の音楽、さらにはナチスの陥れにあった退廃系とレッテルされた音楽たちには、きっと間違いなく相性を発揮すると思っていたエッシェンバッハ。
いまのベルリンの手兵と、しかもDGへの万全なるスタジオ録音。
シュレーカーファンとしては、そく購入とポチリました。
おりからの急速で訪れた春と咲き誇る桜や花々に圧倒されつつ、連日このシュレーカーの音盤を聴いた。

フランツ・シュレーカー(1878~1934)

自らリブレットを創作して台本も書き、作曲もするという、かつてのワーグナーのような目覚ましい才能のシュレーカー。
10作(うち1つは未完)残されたオペラは、「烙印を押された人たち」「はるかな響き」あたりがレパートリー化している程度だが、全盛期にはドイツ・オペラ界を席巻するほどの人気を誇り、ワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。

さらに指揮者としても、シェーンベルクの「グレの歌」を初演したりして、作曲家・指揮者・教育者として、マルチな音楽かとして世紀末を生きた実力家、だったのに・・・・

ナチス政権によって、要職をすべて失い、失意とともに、脳梗塞を起こして56歳で亡くなってしまう気の毒さ。
その後すっかり忘れ去られてしまったシュレーカー。
作品の主体がオペラであることから、一般的な人気を得にくいのが現状。
交響作品をもっと残していたら、現在はまた違う存在となっていたかもしれない。

強烈な個性は持ち合わせておりませんが、しびれるような官能性と、その半面のシャープなほどの冷淡なそっけなさ、そして掴みがたい旋律線。
どこか遠くで鳴ってる音楽。

過去記事を引用しながら、各曲にコメント。

①「はるかな響き」の夜曲は、オペラ2作目で、いよいよ世紀末風ムードの作風に突入していく契機の作品。
3幕の2場への長大な間奏曲。
はるかな響きが聴こえる芸術家とその幼馴染の女性、それぞれの過ちと勘違い、転落の人生。
毎度痛い経歴を持つ登場人物たちの物語が多いのもシュレーカーの特徴。

夜にひとり悲しむヒロインの場面で、これまた超濃厚かつ、月と闇と夜露を感じさせるロマンティックな音楽であります。
鳥のさえずる中庭の死を待つ芸術家の部屋への場面転換の音楽で、ヒロインと最後の邂逅の場面。
トリスタンの物語にも通じるシーンであります。
エッシェンバッハらしい、濃密な演奏は、かつてのシナイスキーとBBCフィルのシャンドス盤があっさりすぎて聴こえる。
オペラ「はるかな響き」過去記事


②「ゆるやかなワルツ」
ウィーン風の瀟洒な感じの小粋なワルツ。
小管弦楽のために、と付されていて、パントマイム(バレエ)「王女の誕生日」との関連性もある桂作です。
クリムト主催の芸術祭でモダン・バレエの祖グレーテ・ヴィーゼンタールから委嘱を受けて作曲された「王女の誕生日」。
原曲も美しい組曲ですが、この繊細なワルツも美しく、演奏もステキなものでした。
(「王女の誕生日」過去記事)

③「
室内交響曲」
「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の濃密かつ明滅するような煌めきの音楽。
文字通り室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケに加わっている。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっている。
オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、これまでのオペラの旋律が何度か顔を出す。
エッシェンバッハの作り出す煌めきのサウンドは、とりとめなさと、醒めた雰囲気と、輝かしさとが綯い交ぜとなったこの音楽の魅力を引き立てているし、オーケストラも緻密だ。

④⑤「ふたつの抒情歌」「5つの歌曲」
初聴き、もしかしたら初録音のオーケストラ伴奏の歌曲で、これはこのアルバムの白眉かもしれない。
まだ聴きこみ不足だが、くめども尽きない世紀末感に満ちた濃密な歌曲集。
この時代、数多くの作曲家がホイットマンの詩に感化され歌を付けたが、「ふたつの抒情歌」はホイットマンの「草の葉」につけた歌曲で、1912年の作曲。
「5つの歌曲」は1909~22年の作で、アラビアンナイトに基づく原詩への歌曲。
ともに初なので、まだ詩と音楽、つかみ切れてませんが、ともかく美しくて深くて、味わいが深い。
これが歌手の力も強くて、チェン・レイスのヴィブラートのない美しいストレートボイスがえも言われぬ耳の快感をもよおす。
レイスさんは、イスラエル出身で、いま大活躍の歌手だけど、ずいぶんと前、「ばらの騎士」のゾフィーを聴いてます。
はい、美人です。
 M・ゲルネの深いバスによる5つの歌曲も、濃厚で味わい深く神々しいまでの声で、作品が輝いてる。
夜ふけて、ウィスキーをくゆらせて音量を抑えて聴くに相応しい静かでロマンテックな歌曲だった。

詩の内容とあわせて、もう少し掘り下げたい歌曲集でした。

⑥「小組曲」
1928年のシュレーカー後半生の終盤の作品。
オペラでは、もう人気も低下し、未完も含めると最後から3作目「歌う悪魔」は今にいたるまで上演記録はほんの数回で、音源もなし。
ラジオ放送局から、国営ラジオ放送用の新しい音楽を作曲するよう依頼された。
室内オーケストラのためのシュレーカーの小組曲は、放送マイクの限界を念頭に置いて作曲され、電波上でおいて初演された作品で。
これまではあまり例のないの音楽演奏と初演の試み。
しかしこの後、シュレカーのキャリアが下り坂になるとは本人も思うこともあたわず。
失敗したオペラ、出版社との契約のキャンセルや国家社会主義者からの政治的圧力、そしてベルリン音楽大学の作曲教師の辞任やほかの役職の辞任により、このあと数年で彼の人生は終了。
 こんな苦境の時期の作品は、表現主義的で、とっきも悪く、室内オケへの作品ながら、数多くの打楽器、ハープ、チェレスタなどの登用で多彩な響きにあふれてます。
そんな雰囲気にあふれた「小組曲」、シュレーカーがこの先、どんな作風に進んでいくかの指標になるような作品。
でも、後続の少しの作品だけでは、シュレーカーの「この先」は予見することができない。
いまでは死が早かったシュレーカー、その後を期待したかった。

⑦「ロマンテックな組曲
4編からなる1902年の作品。
オペラで言うと初作の歌劇「炎~Flammmen」の前にあたる初期作品。
歌劇「炎」は、室内オケを使いシュトラウスの大幅な影響下にあることを感じさせるものだったが、この組曲は、どちらかというと、のちの「遥かな響き」の先取りを予感させるし、シェーンベルクやウェーベルンの表現主義的なロマンティシズムを感じさせる桂品。

 Ⅰ.「牧歌」
 Ⅱ.「スケルツォ」
 Ⅲ.「インテルメッツォ」
 Ⅳ.「舞曲」

27分ぐらいの「ロマンティックな小交響曲」ともいえる存在。
ウェーベルンの「夏風・・」風な「牧歌」に濃厚でシリアスな雰囲気のシャープな味付けでどうぞ。
スケルツォは、大先輩シューベルトを思わせる爽快さもありつつほの暗い。
インテルメッツォは、以外にも北欧音楽のようなメルヘンと自然の調和のような優しい雰囲気。
最後の舞曲は、快活で前への推進力ある、シンフォニエッタの終楽章的存在に等しい。

こうした作品には軽いタッチで小回りよく聴かせることのできる器用なエッシェンバッハ。
2枚組のこの大作CDのラストを飾り、爽やかさををもたらせてくれました。

ベルリン・コンツェルトハウス管は1952年創設の旧東ベルリンにあった、あのザンデルリンクのベルリン交響楽団です。
4年前からエッシェンバッハが首席で、次の首席はヨアナ・マルヴィッツが決定している。
ちなみに今のベルリン交響楽団は、旧西ベルリンにあったオケがその名前のまま存続している団体。
両オケとも、5~6月に来日するようで、ともに見栄えのしないプログラムでございます。

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 独墺のこの時代の作曲家の生没年

  マーラー      1860~1911
  R・シュトラウス   1864~1949
  シリングス     1868~1933
  ツェムリンスキー  1871~1942
  シュレーカー    1873~1934
  シェーンベルク   1874~1951
  F・シュミット          1874~1939
  ブラウンフェルス  1882~1954
  ウェーベルン    1883~1945
  ベルク       1885~1935
      シュールホフ    1894~1942
      ヒンデミット    1895~1963
  コルンゴルト      1897~1959
      クシェネク     1900~1991

 以下、ヴェレス、ハース、クラーサ、アオスラー、ウルマン等々

私が音楽を聴き始めた頃には、こんな作曲家たちの作品が聴けるようになるなんて思いもしなかったし、その存在すら知るすべもなかった。

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音楽を聴く方法、ツールの変遷とともに、世界のあらゆる情報が瞬時に確認できるようになりメディア自体が変化せざるを得なくなった。

高校時代をこの城下町に通って過ごし、駅前にあった大きな本屋さんで毎月レコード芸術を購入して、食い入るように読んでいた。
どんなレコードがいつ発売されるか、それがどんな演奏なのか、海外の演奏会、新録音のニュース、ともにレコード芸術が頼りだった。

そのレコード芸術が今年7月で休刊となるそうだ。
時代の流れを痛感するとともに、感謝してもしきれない思いを感じます。

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2020年9月13日 (日)

シュレーカー 「烙印を押された人々」 K・ナガノ指揮

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青の世界。

どこか近未来の都市を思わせるこちらは、わたしの秘密のスポット。
秋冬バージョンは、この光がオレンジになります。

この写真の左側に、新しいビルが完成し、そこにソフトバンクグループが引っ越してくるそうで、総勢1万人もの人が増えるらしい。
わたしの秘密基地が・・・・・

竹芝桟橋の近くです。
右手奥は、勝どき、月島。

色めが似てるジャケット、でもちょっと怪しい。

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 シュレーカー 「烙印を押された人々」

  公爵アドルノ:ロバート・ヘイル 
  貴族タマーレ:ミヒャエル・フォレ
  市長ナルディ:ウォルフガンク・シェーネ
  その娘カルロッタ:アンネ・シュヴェンネウィルムス
  貴族アルヴィアーノ:ロバート・ブルベイカー
   その他大勢

 ケント・ナガノ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団
           ウィーン国立歌劇場合唱団

   演出:ニコラウス・レーンホフ

  (2005.7.26 @フェルゼンライトシューレ、ザルツブルク)

ときおり無性に聴きたくなるシュレーカーの音楽。
なかでも、「烙印を押された人々」は前奏曲だけでも始終聴いてます。
濃厚な世紀末ムードと、痺れるような感覚的な音楽、前奏曲がこのオペラの内容をすべてを表出している。

シュレーカー(1873~1934)は、ドイツにおける印象主義の先駆者ともいわれ、響きの魔術師ともいわれた。
独墺では、シェーンベルクのわずか下、フランスではラヴェルと同世代、ということでシュレーカーの時代的な立ち位置がわかると思う。
当時のドイツのおける人気オペラ作曲家で、そのオペラはワルターやクレンペラーがこぞって取り上げた。
ふたつの大戦に翻弄され、ことにそのユダヤの出自もあり、ナチスに目をつけられてからは、「退廃的」であるとのレッテルを貼られ、ご禁制の音楽とされてしまった。

ナチスの貼ったレッテルをはがし、その音楽たちがいかに現在において素晴らしい立ち位置を持ちうるか、ということに貢献したのは、ギーレン、アルブレヒトらの存在、ラインスドルフのコルンゴルト「死の都」の録音、そしてデッカの「退廃音楽シリーズ」の一連の録音、マゼールのツェムリンスキー「抒情交響曲」であると思う。
1970年代半ばからのこと。

今思えば、いずれ来たにせよ、一連のこうしたムーブメントがなければ、マーラー、シュトラウスのあとは、新ウィーン楽派どまりで、独墺の20世紀末周辺音楽の一部は封印されたままで、はなはだ彩りに欠いたものとなっていたことでしょう。
現在も、シュレーカーの音楽は一般的にはなっていないと思いますが、それでもその完成された9作のオペラはなんらかの形で聴くことができます。
2005年にザルツブルク音楽祭で上演された「烙印を押された人々」が、シュレーカーのオペラの唯一の映像作品かもしれない。
このコロナ禍で、シュレーカーのような大規模な作品は上演されにくくなるかもしれないけれど、でもコロナのおかげで、ネット配信された「はるかな響き」と「ヘントの鍛冶屋」のふたつの上演映像を録画することができました。
いずれのときに記事にしようかと思ってます。

さて、「烙印を押された人々」というタイトル。
独語の本題は「Die Gezeichneten」で、これをGoogle先生で翻訳すると、「描かれた」とか中途半端な邦訳にしかなりませんで、「Zeich」は「お絵かき」とかいうことになります。
なので、「描かれた人々」的な意味合いではないかと。(わかる方教えて欲しい)
 日本語でいう、「烙印を押す」という意味合いは、拭い去ることのできない汚名を着せられる、とか、不名誉な評判を立てられる、とかのマイナスイメージです。
 このオペラの内容は、まさに退廃的な場面もあり、そこに溺れる人々を描いてもいるので、邦題の意味合いは符合してます。
一方で、ヒロインのカルロッタは、病弱な画家であり、精神的にも危うく、醜男のアルヴァーノの姿絵を描くことを所望し、アルヴァーノはそんな彼女に同情と愛情を抱くわけです。
だから、「描かれた人々」という独題は、まさにオペラの中身でもあります。

自身で台本も起こすシュレーカーに、ツェムリンスキーは、「醜い男の悲劇」をオペラにしたいということで、台本制作を依頼。
シュレーカーは、以前、パントマイム付随音楽として作曲した「王女の誕生日」と同じように、オスカー・ワイルドの童話や戯曲を参考に、台本制作を進めるうちに、自分でこのオペラを作曲したい思いになった。
ツェムリンスキーに、断りをいれて作曲を進めて出来上がったのが「烙印を押された人々」。
ツェムリンスキーは、この素材を忘れがたく、のちにオペラ「小人」を作曲することとなります。

 1908年 シュレーカー  「王女の誕生日」
 1918年 シュレーカー  「烙印を押された人々」
 1922年 ツェムリンスキー「小人」(王女の誕生日)

いまでは、ポリコレもあり、これらのオペラの内容を台本通りにまともに演出・上演することは難しいでしょう。
しかし、シュレーカーもツェムリンスキーも、気の毒な彼らの存在があるから作曲したのではなく、彼らこそ、真実を見抜く目を持っている、繊細で豊かな感情を持っていることを、これらの作品の中の重要なモティーフや目線にしているものと思います。
シュレーカーのほかのオペラの登場人物たちは、どこかそうした人物たちが多い。

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自分がかつて書いたあらすじが超長いので、記事として独立させましたので下記リンクで。

「烙印を押された人々」 あらすじ

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今回のDVDのザルツブルク上演の演出は故レーンホフ。
そんなに過激な演出や極端な読替えはしないけれど、その舞台はいつも暗かったり、無機質だったり、そんなイメージを持ってまして、今回も全体に暗めで、美しい、なんていう形容詞とは程遠い・・・です。
横広の長いフェルゼンライトシューレをうまく活用し、背景の壁もうまく利用して多層的な舞台背景を作り出したのは見事。
 あの懐かしい、サヴァリッシュとバイエルンの「リング」が、人の顔のうえで登場人物たちが演技したように、今回も顔や手をダイナミックに使っているし、その石造の素材、それと市民たちの白塗り顔と仮面が、それこそ無機質で冷たく、感情表現を持たせないようにしている点にも意味があるように思えた。

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 主役のアルヴィアーノは、身体の不自由な醜男ではなく、トランスジェンダーとして描かれていたように思う。
前奏曲から、お化粧セットを取り出し、化粧に余念なく、カツラもかぶる。
貴族の仲間たちも、ちょっとそれっぽい。
 カルロッタは、まったく画家を思わせることがなく、ト書きをまったく無視。
アルヴィアーノを肖像を描くべく、自室へ招いたカルロッタは、絵を描くのでなく、アルヴィアーノの女装をひとつひとつ解いてゆく。
そこで発作を起こすのだが、倒れたときに指さすのは、頭上の巨大な人の手で、アルヴィアーノはそれを仰ぎ見る。
これが原作の「干からびた手と赤い筋のような紐・・・」の絵、これを描いたのがカルロッタで、その心を病んだ彼女を、アルヴィアーノが理解し、同情を寄せることになるシーンであった。

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しかし、ここでは、アルヴィアーノはカルロッタを肉体的に愛することができないことも、うまく描かれていて、最後に彼女が、ゲス野郎の色男タマーレに魅かれ、身体をゆだねてしまう流れがよくわかる。
 タマーレや貴族たちが、街の若い女性や人妻を誘拐して、監禁窟を作っていたわけだが、このレーンホフ演出では、婦人ではなく、いたいけのない、少年少女だった。貴族たちの性向が、そっち系と思わせたのが、最後の結末で見えたわけだが、これは思いがけなくも、アメリカで地下で潜行して起きている疑獄事件にも通じていて、レーンホフの社会の闇を見る鋭さを15年前の演出ながら感心もした次第。
話は変わりますが、トランプ大統領・共和党政権は、この問題の根が深いとみて、徹底的に調べようとしてます。
 そんなわけで、烙印を押された人々、これから押されるであろう人々は、まだまだたくさん世界中にいますよ。

衝撃的なラストは、石像の顔が血の涙を流すところ・・・・哀しい。

アメリカのテノール、ブルベイカーは、アルヴィアーノのスペシャリストで、その没頭的な歌と、どこか気の毒な風貌と歌いぶりが、完全にサマになってます。

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この上演の2年後、ドレスデンとの来演でマルシャリンを聴いたシュヴァンネウィリムスが、その時の典雅なムードとは大違いの体当たり的な歌と演技で引き込まれる、そんなカルロッタを演じている。
少し金属質な声も、この夢中な登場人物にぴったりだった。

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 あと、驚きは、やはりフォレの演技と声の圧倒的な存在感。
憎々しさもあまりあり、最後にアルヴィアーノに射殺されて、清々した気分になるほど(笑)
一昨年のバイロイトのマイスタージンガーで、ザックスとエヴァが、フォレとシュヴァンネウィリムスだったりで、不思議な感じだった。
それから、ベテラン、R・ヘイルのこれも表層的な紳士ぶった悪漢を高貴な声で歌い演じていて見事だった。

K・ナガノとベルリン・ドイツ響の作り出すオーケストラは、和声ではなく、流れゆく横へ横へと伸びてゆく響きを、次々に編み出して繋いて、そして紡いでゆく手法でもって、素晴らしいシュレーカーサウンドを作り上げている。

ドイツの劇場で、この作品はしばしば上演されていて、いずれそれらの映像も出ないものだろうか。
いろんな演出で観てみたい、社会的問題の発信力あるオペラだし、その音楽も汲めどもつきない魅力があって、まだまだいろんな発見があるものだから。

シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)
2024年6月20日修正

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1924

   ※CD入手済み 日本初演観劇予定

 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

   ※音源未入手、映像保存済み 記事予定

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年
   
   ※映像保存済み、CD入手済み 記事予定

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

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右手は東芝ビルや、新しいマンション。
左手からは、東京湾クルーズ船が出る波止場。

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秋冬バージョン。

もうじき、秋がやってくる。
長い秋になって欲しいもの。

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2019年10月18日 (金)

シュレーカー 「王女の誕生日」組曲 ファレッタ指揮

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三島市にある、三島スカイウォークのイベントスペース。

この道の駅的な観光スポットのウリは、400mの長いつり橋で、そこから見える景色は絶景とのこと。

とのこと、というのは、一度も渡ったことがないからです。
高いところ苦手だし、行くといつも風が強いし、なんたって、渡るのに一人税別1,000円もかかるし、犬や赤ちゃんも専用のカート500円が必要とのことで、あんまり何度も渡る人はいません・・・

しかし、これらの吊り花は、とてもきれいです。

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  シュレーカー 「王女の誕生日」組曲

 ジョアン・ファレッタ指揮 ベルリン放送交響楽団

       (2017.06.17~23 @ベルリン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)に関しましては、これまでオペラを中心に幾度も書いてきましたので、その人となりも含めまして、下段や右バーの「シュレーカー」タグをご照覧ください。

マーラーの後の世代、R・シュトラウスの一回り下、ツェムリンスキーやシェーンベルクと同世代で、指揮者としても活躍し、「グレの歌」の初演者でもあります。
作曲家としては、オペラの作家と言ってよく、台本からすべて自身で制作するというマルチな劇作家でありました。
当時は、シュトラウスや、後年のコルンゴルトなどと人気を分かち合う売れっ子オペラ作者だったのですが、ここでもやはりユダヤの出自ということが災いし、晩年は脳梗塞を罹患し失意のうちに亡くなってます。
 同じ、退廃音楽のレッテルを下されたコルンゴルトが、いまヴァイオリン協奏曲と「死の都」を中心に、多く聴かれるようになったの対し、シュレーカーは音源こそ、そこそこに出てきてはいるものの、まだまだ日の当たらない作曲家であることは間違いありません。
コルンゴルトのような明快かつ甘味なメロディラインを持つ音楽でなく、当時の東西のさまざまな作曲家の作風や技法を緻密に研究し、影響を受けつつ取り入れたその音楽は、斬新さもあるし、旧弊な様子もあるし、はたまた表現主義の先端でもあるし、ドビュッシーやディーリアスといった印象や感覚から来る音楽の作風すらも感じさせます。
そうした、ある意味、とりとめのなさが不明快さにつながり、とっつき悪さも感じさせるんだと思います。

わたくしは、そんなシュレーカーの音楽の、多様さと、そしてオペラにおける素材選びの奇矯さが好きなのであります。
そして、そのオペラたちも、ある程度パターンがあって、親しんでしまうと、とても分かりやすさにあふれていることに気が付きます。

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オペラではない、シュレーカーの劇音楽を。

「王女の誕生日」は、1908年に上演された同名の劇の付随音楽であります。

このパントマイム劇は、クリムトが主催していたウィーンクンストシャウでの上演で、そのときのダンスのプリマは、モダンバレエの祖である、グレーテ・ヴィーゼンタールで、彼女は妹とともに舞台に立ち、その音楽は彼女によってシュレーカーに依頼された。
シュレーカーは、室内オーケストラ用に35分ぐらいの12編からなる音楽を付けたが、のちに、それを拡大して長作のフル編成のオーケストラ作品に仕立て直そうとしたものの、それは実現せず、同じ3管編成の大オーケストラ向けに曲を少なくして、10曲からなる組曲を作り直したのが、いま聴かれるこの作品であります。

原作は、かのオスカー・ワイルドで、「幸福な王子」と「石榴の家」という9編からなる童話集のなかの同名の「王女の誕生日」の物語から採られたもので、シュレーカーは、この童話からインスパイアされて、ツェムリンスキーのためにオペラの台本を準備したが、結局は自らが気に入ってしまい、ツェムリンスキーに了承を得て、自作の台本にオペラを作曲することとなる。
それが、「烙印された人々」となるわけであります。
 一方のツェムリンスキーも、この物語の筋立てには、大いに共感したものだから、オペラにしたいという想いを捨てきれず、「こびと(Der Zwerg)」という作品になって結実した。

シュレーカーの「烙印された人々」は、せむしの醜男が主人公で、それにからむのが、心臓に病を持つ女、性力絶倫男、腐敗政治家・退廃市民などなど、ちょっと特異な方々の物語で、現在では、とても考えにくい設定なのであります。
 そして、「王女の誕生日」も同じく、醜いこびとが題材。

「物語はスペイン。せむしのこびとが遊んでいると、宮廷の廷臣たちに捕らえられてしまい、王女の誕生日プレゼントとして、宮廷に綺麗な服を着せられて差し出されてしまう。得意になって踊るこびとに、人々は笑って喝采を送り、いつしかこびとは、もっと彼女のことが知りたい、そして、王女に愛されていると思い込むようになる。あるとき、宮廷で鏡の部屋に迷い込んだこびとは、姿見に映った自分の姿をみて、そしてそれが自分であることを悟って叫び声をあげて悶絶して死んでしまう。王女は、『今度、おもちゃを持ってくるときは、心のないものにして!』と言い放ち・・・幕」

残酷な物語であります。

ワイルドは、スペインのベラスケスの絵画「女官たち(ラス・メニーナス)」に感化され、この物語を書いたとされます。
その絵が、今回のCDのジャケットになっているわけです。
たしかに、右端にそういう人物がいますし、王女とおぼしき少女は笑みも表情もないところが怖いです。
ワイルドといえば、「サロメ」でありますね。
ファム・ファタールという男をダメにしてしまう謎にあふれた魔性の女、ルルも、マリーもそうですが、シュレーカーのオペラにも不可思議なヒロインたちは続出します。

こんな残酷な物語なのに、この組曲の音楽は平易で、奇矯さはひとつもありません。
「烙印」の主題もそこここに出てきます。
ここから物語の筋を読み解くことができないほどです。
冒頭の第1曲が、いちばんよくって、この旋律はクセになります。

全体としては、短い曲の集積ながら、童話的なお伽噺感に満ちていて、宮廷内の微笑みすら感じさせます。
ある意味、物語の筋と、このシュレーカーの音楽のギャップが恐ろしいところでもありますが・・・・
きっと舞台で、前衛的なダンスなどを付けでもしたら、さらにそら恐ろしく、哀しいものになるんでしょう。。。。

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アメリカのベテラン女性指揮者ファレッタさんは、バッファローフィルを中心に、アメリカ各地と英国・ドイツで活躍してますが、コアなレパートリーを持っていて、シュレーカー作品にも、そのわかりやすい解釈で適性があると思います。
この組曲の前に、のちに「烙印された人々」の前奏曲へとなる「あるドラマへの前奏曲」が収録されているのも、その関連性において秀逸です。
最後には、初期のまさにロマン交響曲的な「ロマンティックな組曲」も収められてます。
 オーケストラは、旧東系のベルリン放送交響楽団。

つぎに取り上げるツェムリンスキーの「こびと」のオーケストラは、西側の旧ベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ響)なところが面白いです。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin 」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 1924


 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年

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2018年11月 3日 (土)

東京都交響楽団定期演奏会 シュレーカー、ツェムリンスキー

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 パソコンが逝ってしまったり、データも吹っ飛んでしまったりで傷心の日々。
遅ればせながら、超楽しみにしていたコンサートのことを書きます。

  東京都交響楽団 第864回定期演奏会

 シュレーカー      室内交響曲

 ツェムリンスキー   抒情交響曲

              S:アウシュリネ・ストゥンティーデ

      Br:アルマス・スヴィルパ

    大野 和士 指揮 東京都交響楽団

         (2018.10.24 @東京文化会館)

今年1月の「人魚姫」に続く、大野さんと都響のツェムリンスキー。
そして、シュレーカーとくれば、もう、わたくしのド・ストライク・ゾーンのコンサートなんです。

秋の装いが深まりつつある上野の森の晩、見上げれば月が美しい。

そこで響いた、後期ロマン派の終焉と、不安と焦燥、そして煌めく世紀末、それらを強く感じさせるふたりの作曲家の音楽。
その響きに身をゆだね、心身ともに開放され、我が脳裏は、100年前のウィーンやドイツの街を彷徨うような、そんな想いに満たされたのでした。

 シュレーカーの音楽をオペラを中心に聴き進めてきました。
9作あるオペラのうち、6作はブログにしました。
残る3作のうち、2つは準備中ですが、あとひとつが録音もない(たぶん)。
しかし、こんなわたくしも、「室内交響曲」は、存外の蚊帳の外状態でした。
音源も持ってるつもりが、持ってなかった。
 コンサートに合わせて予習しましたが、初期のブラームスチックな曲かと思いきや、「烙印された人々」の前ぐらいの時期で、わたくしの大好きなシュレーカー臭満載の、濃密かつ、明滅するような煌めきの音楽なのでした。

 文字通り、室内オーケストラサイズの編成でありながら、打楽器各種はふんだんに、そしてお得意のピアノに、チェレスタに、ハルモニウムが通常ミニサイズオケの後ろにぎっしり並んでる。
 連続する4つの楽章は、いろんなフレーズが、まるでパッチワークのように散り交ぜられ、それらが、混沌としつつも、大きな流れでひとつに繋がっているのを、眼前で、指揮姿や演奏姿を観ながら聴くとよくわかる。
それらの中で、オペラ「はるかな響き」と「音楽箱と王女」に出てきたような、聴きやすい旋律が何度か顔を出すのもうれしい聴きものでした。
 大野さんの、作品をしっかり掴んだ指揮ぶりは安定していて、都響のメンバーたちの感度の高い演奏スキルも見事なものでした。
 シュレーカーの音楽を聴いたあとに感じる、とりとめなさと、どこか離れたところにいる磨かずじまいの光沢ガラスみたいな感じ。
いつも思う、そんな感じも、自分的には、ちゃんとしっかり味わえました(笑)

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シュレーカー(1878~1934)、ツェムリンスキー(1871~1942)、ともにオペラ中心の作曲家であり、指揮者であり、教育者でもありました。
そして、ともに、ユダヤ系であったこともあり、活動期に登場するナチス政権により、他国に逃れたり、活動の制限を受けたりもしたし、シュレーカーの音楽にあっては、退廃音楽とのレッテルを貼られてしまう。
このふたりの音楽を並べて聴く意義を休憩時間にかみしめつつ。

後半は、オーケストラがステージ一杯にぎっしり。

黒い燕尾服に、シックな黒いドレス、リトアニアからやってきた、大野さんとも共演の多い二人の歌手は、指揮者の両脇に。

そして、始まったティンパニの強打と金管の咆哮。
この曲のモットーのようなモティーフ。
これを聴いちゃうと、もう数日間、このモティーフが頭に鳴り続けることになる。
この厭世観漂う、暗い宿命的な出だし、大野さん指揮する都響は、濁りなく豊かな響きでもって、この木質の文化会館のホールを満たした。
上々すぎる出だしに、加えてスヴィルパのバリトンがオーケストラを突き抜けるようにして豊麗なる歌声を聴かせるではないか。
不安に取りつかれたようなさまが、実に素晴らしい。
 それに対し、2楽章でのソプラノ、ストゥンティーデは、その出だしから声がこもりがち。
途中、強大化するオーケストラに、声が飲み込まれてしまう。
でも、のちの楽章では、しっかり復調したように、なかなかに尖がった、でもなかなかの美声を聴くことができて、とても安心した。

不安と焦燥から、こんどは濃密な愛を語る中間部。
バリトンの歌う、「Du bist mein Eigen、mein du,・・・」
「おまえは、わたしのもの、わたしのもの、わたしの絶えることのない、夢の中の住人よ」
もっとも好きなところ、まさに抒情交響曲と呼ぶにふさわしい場面。
胸が震えるほどステキだった。
 さらに、ソプラノがそれに応える、「Sprich zu mir , Geliebter」
「話してください、いとしい方」
復調のストゥンティーデのガラスのような繊細な歌声、それに絡まる、ヴァイオリンソロや、ハープにチェレスタといったキラキラサウンド。
耳を澄まして、そして研ぎ澄ませて、わたくしは、陶酔境へ誘われる思いだった。

でも、早くも男は愛から逃れようとし、女は別れを口にする。
大野さんのダイナミックな指揮のもと、激しいオーケストラの展開、打楽器の強打に、ビジュアル的にも目が離せない。
ここでのストゥンティーデの、カタストロフ的な絶叫も、ライブで聴くとCDと違ってスピーカーを心配することがなく、安心して堪能。
静的ななかでの、強大なダイナミズムの幅。
素晴らしい音楽であり、見事な都響の演奏と感じ入る。

最終章は、バリトンの回顧録。
スヴィルパさん、とてもマイルドな歌声で素晴らしい。
わたくしも、これまでの、この演奏のはじめから、振り返るような気持ちで聴き入りました。
そして、わたくしは、愛に満ちたマーラーの10番を思い起こしてしまった。
ときおり、あのモットーが顔を出しながらも、濃密でありながら、どこか吹っ切れたような、別れの音楽。
 ふだん、CDでは、あまり意識してなかった、オーケストラのグリッサンドが、この演奏ではとても強調され、そして効果的に聴こえたことも特筆すべきです。

静かに、しずかに終わったあとのしばしの静寂。
ひとこと、「ブラボ」と静かに発しようと思ったけど、そして、いい感じにできそうだったけれど、やめときました。
心のなかで、静かに声にするにとどめました。

この作品の良さを、心行くまで聴かせてくれた素晴らしい演奏でした。
大野さんの、この時代の音楽、オペラ指揮者としての適性をまた強く感じたこともここに記しておきたいです。

甘やかな気持ちで、ホールを出ると、月はさらに高く昇ってました。

Ueno

近くで軽く嗜んでから夢見心地で帰りました。

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2017年12月12日 (火)

シュレーカー 「狂える焔」 ギュルケ指揮

Keyaki_zaka_red_1

六本木けやき坂

今年もこの坂の並木を銀と琥珀色に染める、そんな季節がやってきた。

日々がほんと早いし、体調もすぐれない。

そんな気持ちを、さらにひっ迫させるような緊迫の美にあふれた音楽を聴くのだ。

そして、ウィーン交響楽団、三連発シリーズだったのだ。

Irrelohe

    シュレーカー 歌劇「狂える焔」

 領主ハインリヒ:ミヒャエル・パブスト 森林管:ゴラン・シミック
 エヴァ:ルアナ・デ・フォル      ローラ婆さん:エヴァ・ランドヴァ
 ペーター:モンテ・ペデルソン   クリストバルド:ハインツ・ツェドニク
 牧師:ネーフェン・ベラマリック   貴族:セバスティアン・ホーレック
 フュンクフェン:ヘルムート・ヴィルトハーバー
 シュトラールブッシュ:ネーフェン・ベラマリック
 ラッツェカール:セバスティアン・ホーレック
 アンセルムス:ゴラン・シミック   従者:ヘルムート・ヴィルトハーバー

   ペーター・ギュルケ 指揮 ウィーン交響楽団
                  ウィーン学友協会合唱団
              合唱指揮:ヘルムート・フロシャウアー

           (1989.3.15 @ムジークフェライン、ウィーン)

フランツ・シュレーカー(1878~1934)のオペラ作品を久しぶりに取り上げる。
キリスト教徒のユダヤ人を両親に、父が優秀で宮廷写真家の称号を得ていて、生まれたときはモナコにいた。
ツェムリンスキーの師フックスに学び、ウィーンとドイツワイマールて活躍し、9つのオペラ、オーケストラ曲、声楽作品などを残すも、いまやちょっとマイナーな存在になってしまった。
ナチスが退廃音楽としてレッテル貼りをして、目をつけられる1920年代後半までは、その作品がさかんに上演された人気作曲家であった。

ツェムリンスキーとともに、徐々にリヴァイバルしてきてはいるものの、かといってツェムリンスキーの「抒情交響曲」や「人魚姫」のような人気作はない。
そんな日陰者のシュレーカーが好きで、これまで、9作あるオペラのうち、5作品を取り上げてきました。

「狂える焔」は、9作中の6作目。

そもそも、「狂える焔」って誰がタイトルにしたのだろう。
「Irrelohe」で検索すると、「Irrenlohe」とあり、それはドイツ、バイエルン州、シュヴァンドルフ地区の駅と出てくる。
ニュルンベルクに通じる路線の駅名であり、小さな地区のようである。

このオペラをシュレーカーは、1919年に書き始め、いつもの常としてリブレットも自らが構想・作成しつつのものであったが、最後に行き詰まり止まってしまう。
そう、それこそタイトルがバシッと決まらない。
そんなとき、寝台特急で移動中のときのこと、駅名をコールするアナウンスに飛び起きた。
そう、それが「Irrenlohe」だった。
シュレーカーは、それこそ、これだ!と思い、このオペラを一気に完成させた。
1924年のこと。
同年、ケルンにて、クレンペラーの指揮により初演され、一定の成功を収めたものの、これまで成功続きだったシュレーカーのオペラにしては、人気の持続性に陰りが出始めた。
ナチスは党として発足していたが、勢力はまだまだ。
 シュレーカーの音楽への飽きも、そしていっそう複雑化して行くシュレーカーの音楽への戸惑いも。同時期のR・シュトラウスは、「影のない女」や「町人貴族」「インテルメッツォ」などで、ワーグナーの敷いた道を確実に進化させ、より古典帰りを見せていただけに、その違いが歴然としている。
メロディも豊富で、ストーリーも簡潔なシュトラウスに対し、メロディよりは、大胆な和声とマイナーな調性を主体にしたほの暗いシュレーカーの音楽。

それと半ばワンパターン的な物語の筋立て。
以前にもブログで書いたけれど、「人間の欲望の尽きるところのない性(サガ)と、それへの肯定感」、こんなイメージがシュレーカーの書くドラマと音楽の背景にあるような思いがある。
そして、登場人物たちも、ヒロインは、イタイ女性ばかりで、ちょっと病的かつお嬢様的。
それに対する男声陣は、エキセントリックボーイで煽情的。

こんなパターンがわかっちゃいるけど、やめられない、知っちゃったからこそやめられない、そんなシュレーカーなんです。

外盤の解説書を紐解いて、もう少し書きます。

この物語の時代背景と場所は、「18世紀のイルローエ城とその村」。
そしてこの城にまつわる伝説と、その城を燃やしてしまわないといけない一派。
ヒロインは、城主と愛に陥るが、老母と暮らす、その彼女の幼馴染は嫉妬に狂い、城主を襲うが、逆に殺されてしまう。老母は、それはおまえの弟だよ~と、言う間もなく城は放火され燃え盛るなか、愛する二人は未来へ歩みを踏み出す。。。。。


こんな内容のオペラなんだけれど、まるで、「トロヴァトーレ」。
老母はアズチェーナにあたり、ライバルは兄弟で、そして炎。
解説によれば、ヴェルディの描いた伝統的な運命ドラマに、映画チックなホラー要素を交えたのがシュレーカーのドラマ。
平和な村と、ミステリアスな城は、ドイツの国民オペラ時代のマルシュナーの「吸血鬼」や、城はないものの村人との関係で、「ドン・ジョヴァンニ」を想起させると。
 さらに、炎は、シュトラウスが「火の欠乏」で、ワーグナーが「ワルキューレ」で、さらに、「黄昏」で、ヴァルハラ城の炎上で扱っていて、火は、浄化作用があって、このシュレーカー
のオペラでも城が燃えて、その一方で、二人の男女の愛が成就する、的な内容になっている。
ちなみに、ワーグナーは長調の調性で炎の場面は展開するのに対し、シュレーカーは短調。音楽に多分に狂気性をはらんでいるのもシュレーカーだ。

そして、このオペラのタイトルに戻ると。
「Irre」は、クレイジーとか狂った、「Irren」にすると誤ったとか間違ったと訳される。
「Lohe」は、焼ける、「Lohen」とすると炎。
なるほど、「狂った炎」となります。
ゆえに、シュレーカーは、「狂った焔」という駅名に飛び上がったわけなのであります。

第1幕

老いた母、ローラは、かつて私も若かった、と昔を歌うが、その息子ペーターは、人々があれこれ言うあそこに立つ城の秘密を教えてくれと頼む。
ローラはあの城は愛によって築かれたもの、かつて城主が水の精に恋をして、息子をもうけたが、彼女も亡くなり、父も亡くなり、息子は暗い狂気の炎を宿し、その血は代々に引き継がれている・・・
そして、ペーターは、自分の父はいったい誰なのか、村のものが自分を見る目がそう語っていると母に迫るが、彼女は、父はもう亡くなった、そしてすべては明日、明日に起こるだろうと、と言い残し奥に下がる。
 そこへ旅の人、すなわちクリストバルトがやってきて、一夜の宿と酒を求める。
ペーターを見て、一瞬驚き、幽霊でもみたのかと独り言ちるが、ペターに求められるままに、30年前に、城で起きた出来事を語る。
婚礼の日、村中の鐘という鐘がなり、みんながダンスに興じた。そこに巻き毛の可愛い女性がいて、私は彼女を愛してしまった。しかし、そこに城主が異様な眼差しでもってあらわれ、彼女を遅い、連れ去ってしまったのだ・・・。
 ペーターは、その彼女の名を訪ねると、クリストバルトは、「ローラ」と答え、ペーターは絶叫する。
 残されたペーターのもとへ、幼馴染のエヴァが駆け込んでくる。守って欲しい、あの城のハインリヒが私をつけてくる、昨日も、今日もと。。、これを聞いたペーターは、押し倒され衣服もはがされ・・と狂気のように妄想するので、エヴァは、彼が正気なのか疑う。
エヴァは、そうではないの、あのハインリヒの瞳が忘れられない、寝ても覚めても彼の顔が忘れられないの、と語るので、ペーターは、あいつを愛してるのかと悟り、出ていけと叫ぶ、そして、もう終わった、死以外に残されていないと絶望する。


第2幕

 街角にて、牧師と貴族が出会って挨拶、しかし、貴族は、昨晩、自分の工場が火災にあったことを語り、そして毎年7月13日には火事が起こる、これは不思議ではないかと。
貴族が去ったあと、森林官がやってきて牧師と挨拶、森林官の娘エヴァはこのところ見ないねと話しかけると、彼女はわたしを恐れているようだ、ちょっと話を聞いてもらいたいと、今度は二人で歩み去る。

 今度はラッツェカール、フュンクフェン、シュトラールブッシュの音楽家3人が、それぞれに楽器を持ってあらわれる。
昨晩は大成功、そして今度はあの城さ、われらが兄弟クリストバルトは最高の使い手さ!と気炎をあげる。
 それを隠れて盗み見てしまったエヴァは驚愕し、ハインリヒのことを心配して、急いで知らせようと城へ走る。

次にあらわれたのは、ローラとクリストバルト。彼女はクリストバルトに、そんな昔のことは忘れて欲しい、私は平和に暮らしたいと語るものの、彼は、この日を迎えるのは、30年越しの夢だった、残酷なこの世、すべてのものはみんな罪人なのだ、平和は火のうちにこそやってくるのだ!と執念を燃やす。

ハインリヒは、城へ向かってくるエヴァの姿を認め、熱く歌う。もうこれ以上、自分の人生を背負いたくない、彼女を知って以来、腐った家族の憎しみや城へのバカげた話、そんなものも、城ももうたくさんだ!
 そこへエヴァがやってくる。ハインリヒは執事アンセルムスに自分の想いを綴った手紙を持たせたが、その手紙と行き違いに、違う目的でもってやってきたエヴァ。
しかし、ふたりはお互いに惹かれ合い、熱い二重唱を歌う。
ハインリヒは呪われたアウトローで貧しいこんな自分でも本当に愛してくれるのか?と問うが、エヴァは強く、そんなものは終わらせましょうと強く答え、やがて、ハインリヒは結婚しようと求婚し、ふたりの愛は高まるのでありました。

戸口に佇むクリストバルト、ハインリヒに、婚礼でもあるのですか、迷ってしまったので門の中にはいってもいいかと聞くと、老人よ、どうぞと快く認めるが、エヴァは、嫌な予感と警告、しかし、もう彼の姿はない・・・・
 そこへ、エヴァへの手紙を渡しそこねた執事が帰ってくて、当の本人が、ここにいるのでびっくりする。ハインリヒは将来のあなたの主人といって紹介、そして母や姉たちも呼んで、村にも知らしめ、盛大にと指示を出す。
 外では、この様子を眺めながらクリストバルトが、イレローエ城を燃やしてやると独り言ちする。

第3幕

村の広場のローラの家、ペーターが帰ってくるが苦しそうにしている。
母は、ペーターに、お前は今日はどこへも行ってはいけないよ、あまえの足りない頭が何をしでかすか、アキシデントはいとも簡単におこるのだからと。
ペーターが家の前座っていると、エヴァが帰ってくる。
エヴァは、静かに聞いて欲しいと語りだす、自分たちは幼馴染だけれど、いまは、恐れにもにたものに取りつかれたようなの、それが愛と。しかし、一方のペーターも、昔からの思いでエヴァへの愛を語るものの、彼女は、そんな喜びのない感覚でなない、今までとは違うの、と諭すが、ペーターは、だんだんと狂気じみてきて、恨み節を歌う。
そして、お前に婚礼のダンスなど絶対にさせないと息まき、エヴァは、わたしを脅すのか、あなたの許しなんかいらない、とついに決裂してしまう。
 ペーターは、ローラに、母さん、俺を逃げ出さないように縛ってくれーーといって家に入る。

婚礼のファンファーレや人々の合唱などがにぎやかに錯綜するなか、村の人物たちは、いろんな符合、30年前のこと、エヴァのことなどを語り、不安と期待で慌ただしくしている。
踊りの中では、ハインリヒがローラを称える。
 そんななかローラは、オペラ冒頭の歌、かつての若い頃の想いをつづるが、ペーターは、脱兎のごとく家を飛び出していってしまい、またたく間に踊りのなかに紛れてしまう。
 そして、ハインリヒとエヴァのまえに飛び出したペーターは、エヴァと踊ろうと手を差し伸べた彼に向って、おまえは踊ることができない、俺が許さねぇとすごむ。
ハインリヒは、わけもわからず、この男は何をいってるのだと戸惑うが、ペーターは、遠くのローラを指さし、俺のかぁさんだ、かつてお前の父親が、結婚式の母を奪ったのだ、お前の父親はきっと地獄にいるだろうよ。
ハインリヒは、戸惑い、エヴァは、彼は嘘をついているよと対抗するが、ペーターはさらに毒づき、おい、おまえ、兄よ、すべてのものを共有だ、彼女は今夜、明日はお前、そして目には目を、歯には歯をと復讐に燃える。
丸腰のハインリヒを助けるものいない、ペーターはこの女は俺のものだとわめくが、ハインリヒは、神のお力をと、全力を振り絞って体当たりして首を絞めて、ペーターを殺してしまう。ローラは、ペーターの名を叫び、これはあなたの兄弟なのよと泣き崩れるが、そのとき、鐘が鳴り響き、城に火の手があがる。

クリストバルトは、イレローエが燃えていると炎を背景に小躍りするが、そのさまは、他所からきた魔物のようであった。
叫び、助けを求める人々。狂乱の音楽。

しかし、それも静まり、音楽も平和的なムードに満たされてゆく。
ハインリヒとエヴァのふたり。
ふたりは改めて愛が大きくなり、赤く染まった空も明けていくのを感じ歌う。
黄金の門が開くのを見たわ、灰や血が燃え盛る炎から明るい光に浄化されたの。
愛の輝き、夜と恐怖から解放された「幸福な炎」。
わたしたちの一日が始まった、いま日の光は自分たちのなかにある!

輝かしい音楽で幕!

                

 

こんな内容のドラマです(対訳がないので、だと思います)

炎による悪しきことの浄化。

そう、前褐のとおり、ワーグナーの「神々の黄昏」にも通じる概念であり、火の修行を経て愛の高みで結ばれる、モーツァルトの「魔笛」にも似たり。

ドイツやイタリアのオペラの歴史を集大成して、自身がすぐれたオペラ指揮者であり、オペラ作曲家であったシュレーカーのオペラ作品。

こんな風に、わたくしは連日聴き、ようやく記事にできるようになりました。

思えば、これまで聴いたシュレーカーのオペラと同じような音楽のパターンはちゃんとあります。
先に書いたように、エキセントリックなテノール役に、それに惹かれる妙に無垢なソプラノ。
対する適役は、同じようにエキセントリックだけど、やたらと陰りをもっていて宿命的な運命を背負っているバリトン。
あと、当事者の肉親だけれども、妙に冷静でいて傍観者になってしまう裏方のような当事者。(本当は、いろんなこと、すべてを知っているのに・・・)
 こんな主人公たちがそのパターン。
で、音楽面でのパターンは、扇情的でありつつ、すべてが断片的で、連続する旋律は少なめ。少しづつのフレーズが積み重なって、美的なモザイクのような音楽になってて、クライマックスなどでは、それが同時進行してややこしい流れとなる。
 で、そのオペラには、祭りや祭典のシーンが必ずあって、飲めや歌えや的なにぎやかなバックグランドが築かれる。

今回は、ほんと長いですね。
あと一息、演奏について。

このCDは、1989年、ウィーンでの演奏会形式ライブ録音で、埋もれていたこの作品をちゃんと演奏した蘇演であります。

ベーレンライター版が定着するまえ、独自の校訂を行ったペーター・ギュルケ。
スウィトナーのベートーヴェンがその版だったろうか?N響でも第九を指揮していたはず。
そんなギュルケの危なげのない指揮は、こうした未知の作品の演奏にはぴったり。
で、なんたってウィーン響が機能的かつ美しいし、その響きがいまほどにインターナショナルじゃなくて、ゴシックなシュレーカーの音楽にふさわしく、ほどよく錆びれている。

80~90年代の歌手たちも、自分には懐かしく、いまの映像主体に重心を移した歌唱とは違い、各々、深みがあるように思った。
 なかでも性格テノールのツェドニクが素晴らしい。
放火犯のクレドたる2幕の信条告白はなかなかのもので、とんでもなく疚しい。
あとヒロインのデ・フォルの清純さのなかに、熱を帯びた情熱を感じさせる感情豊かな歌唱。それと懐かしいランドヴァーの母親の声。クンドリーのイメージもその声から浮かびましたよ。
あと特筆は、没頭的だけど、なめらかなバリトンの声を聴かせるペデルソン。
で、ハインリヒ様のヘルデンは、ちょいと一本調子。
しかし、皮肉にも、運命のもとにあったハインリヒの常に切迫した役柄には合っているという符合。

ここ数年、音楽だけは何度も聴いて耳になじませ、その後、徐々にリブレットを解析。
国内情報の少ない気に入った作曲家、気に入ったオペラを楽しむには、ともかく何度も何度も聴くこと。そうして後に、そのオペラが大好きになり、むこうからいろんなものを発信してくれるように感じるようになります。
こんな風にして、3~6か月、じっくり楽しむのです。
以前は、こうして、好きなオペラの拡充に努めてました。
まだまだたくさん、手持ちの未開拓作品あります。
体調管理に気をつけて、ゆっくりと聴いていきたいと思ってます。

この度は、長尺の記事を起こしまして申し訳なく思います。

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シューレーカーのオペラ(記事ありはリンクあります)

 「Flammen」 炎  1901年

 「De Freme Klang」 はるかな響き  1912年

 「Das Spielwerk und Prinzessin」 音楽箱と王女 1913年
 
 「Die Gezeichenten」 烙印された人々  1918年

 「Der Schatzgraber」 宝さがし 1920年

 「Irrelohe」   狂える焔   1924年

 「Christophorus oder Die Vision einer Oper 」 
         クリストフォス、あるいはオペラの幻想 
  1924年

 「Der singende Teufel」 歌う悪魔   1927年

  「Der Schmied von Gent」 ヘントの鍛冶屋 1929年

 「Memnon」メムノン~未完   1933年


 

 

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2016年3月30日 (水)

大好きなオペラ総集編

Tokyo_tower

桜は足踏みしたけれど、また暖かさが戻って、一気に咲きそう。

まだ寒い時に、芝公園にて撮った1枚。

すてきでしょ。

大好きなオペラ。

3月も終わりなので、一気にまとめにはいります。

Tristan

  ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」

ワーグナーの魔力をたっぷりと含んだ、そう魅惑の媚薬のような音楽。
この作品に、古来多くの作曲家や芸術家たちが魅かれてきたし、いまもそれは同じ。
我が日本でも、トリスタンは多くの人に愛され、近時は、歌手の進化と、オーケストラの技量のアップもあって、全曲が舞台や、コンサート形式にと、多く取り上げられるようになった。

わたくしも、これまで、9度の舞台(演奏会形式も含む)体験があります。

そして、何度も書いたかもしれませんが、初めて買ったオペラのレコードがこのトリスタンなのであります。
レコード店の奥に鎮座していた、ずしりと重いベームの5枚組を手に取って、レジに向かった中学生を、驚きの眼差しでもって迎えた店員さんの顔はいまでも覚えてますよ。

ですから、指揮も歌手も、バイロイトの響きを捉えた、そう右から第1ヴァイオリンが響いてくる素晴らしい録音も、このベーム盤がいまでも、わたくしのナンバーワンなんです。

次に聴いた、カラヤンのうねりと美感が巧みに両立したトリスタンにも魅惑された。
あとは、スッキリしすぎか、カルロスならバイロイトかスカラ座のライブの方が熱いと思わせたクライバー盤。ここでは、コロの素晴らしいトリスタンが残されたことが大きい。
 それと、いまでは、ちょっと胃にもたれるバーンスタイン盤だけど、集中力がすごいのと、ホフマンがいい。
フルトヴェングラーは、世評通りの名盤とは思うが、いまではちょっと辛いところ。

あと、病後来日し、空前絶後の壮絶な演奏を聴かせてくれたアバド。
あの舞台は、生涯忘れることなない。
1幕は前奏曲のみ、ほかの2幕はバラバラながら聴くことができる。
透明感あふれ、明晰な響きに心が解放されるような「アバドのトリスタン」。
いつかは、完全盤が登場して欲しい。

Ring_full_2

  ワーグナー 「ニーベルングの指環」

わたくしの大好きなオペラ、ナンバーワンかもしれない・・・

興にまかせて、こんな画像を作っちゃいました。

オペラ界の大河ドラマとも呼ぶべきこの4部作は、その壮大さもさることながら、時代に応じて、いろんな視点でみることで、さまざまな演出解釈を施すことができるから、常に新しく、革新的でもある。
 そして、長大な音楽は、極めて緻密に書かれているため、演奏解釈の方も、まだまださまざまな可能性を秘めていて、かつては欧米でしか上演・録音されなかったリングが、アジアや南半球からも登場するようになり、世界の潮流ともなった。

まだまだ進化し続けるであろう、そんなリングの演奏史。

でも、わたくしは、古めです。
バイロイトの放送は、シュタインの指揮から入った。

Bohm_ring1

そして、初めて買ってもらったリングは、73年に忽然と出現したベームのバイロイトライブ。
明けても覚めても、日々、このレコードばかり聴いたし、分厚い解説書と対訳に首っ引きだった。
ライブで燃えるベームの熱い指揮と、当時最高の歌手たち。
ニルソンとヴィントガッセンを筆頭に、その歌声たちは、わたくしの脳裏にしっかりと刻み付けられている。
なんといっても、ベームのリングが一番。

そして、ベーム盤と同時に、4部作がセットで発売されたカラヤン盤も大いに気になった。
でも、こちらと、定盤ショルティは、ちょっと遅れて、CD時代になって即買い求めた。
歌手にでこぼこがあるカラヤンより、総合点ではショルティの方が優れているが、それにしても、カラヤンとベルリンフィルの作り上げた精緻で美しい、でも雄弁な演奏は魅力的。

あと、忘れがたいのが、ブーレーズ盤。
シェローの演出があって成り立ったクリアーで、すみずみに光があたり、曖昧さのないラテン的な演奏だった。歌手も、いまや懐かしいな。
 歌手といえば、ルネ・コロのジークフリートが素晴らしい、そしてドレスデンの木質の渋い響きが味わえたヤノフスキ。

舞台で初めて味わったのが日本初演だったベルリン・ドイツ・オペラ公演。
G・フリードリヒのトンネルリングは、実に面白かったし、なんといっても、コロとリゲンツァが聴けたことが、これまた忘れえぬ思い出だ。

舞台ではあと、若杉さんのチクルスと、新国の2度のK・ウォーナー演出。
あと、朝比奈さんのコンサート全部。
みんな、懐かしいな。。。

以下、各国別にまとめてドン。

ドイツ

 モーツァルト   「フィガロ」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」

 
 ワーグナー   「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」 「ローエングリン」
           「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
            「ニーベルングの指環」「パルシファル」

 ダルベール   「低地」

 R・シュトラウス 「ばらの騎士」「ナクソスのアリアドネ」「影のない女」「アラベラ」
            「ダフネ」「ダナエの愛」「カプリッチョ」

 ツェムリンスキー 「フィレンツェの悲劇」 (昔々あるとき、夢見るゾルゲ2作は練習中)

 ベルク      「ヴォツェック」「ルル」

 シュレーカー   「はるかな響き」 「烙印された人々」「宝探し」

 コルンゴルト  「死の都」「ヘリアーネの奇蹟」「カトリーン」

 ブラウンフェルス 「鳥たち」

 レハール    「メリー・ウィドウ」「微笑みの国」

イタリア

 ロッシーニ   「セビリアの理髪師」「チェネレントラ」

 ヴェルディ   「マクベス」「リゴレット」「シモン・ボッカネグラ」「仮面舞踏会」
           「ドン・カルロ」「オテロ」「ファルスタッフ」

 カタラーニ   「ワリー」

 マスカーニ   「イリス」

 レオンカヴァッロ  「パリアッチ」「ラ・ボエーム」

 プッチーニ   「マノン・レスコー」「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「三部作」
           「ラ・ロンディーヌ」「トゥーランドット」

 チレーア    「アドリアーナ・ルクヴルール」

 ジョルダーノ  「アンドレア・シェニエ」「フェドーラ」

 モンテメッツィ 「三王の愛」

 ザンドナーイ  「フランチェスカ・ダ・リミニ」

 アルファーノ  「シラノ・ド・ベルジュラック」「復活」

 レスピーギ   「セミラーナ」「ベルファゴール」「炎」

フランス

 オッフェンバック 「ホフマン物語」

 ビゼー      「カルメン」

 グノー      「ファウスト」

 マスネ      「ウェルテル」

 ドビュッシー   「ペレアスとメリザンド」

イギリス
 

 パーセル   「ダイドーとエネアス」

 スマイス    「難破船掠奪者」

 ディーリアス  「コアンガ」「村のロメオとジュリエット」「フェニモアとゲルダ」

 R・V・ウィリアムズ  「毒の口づけ」「恋するサージョン」「天路歴程」

 バントック   「オマール・ハイヤーム」

 ブリテン    「ピーター・グライムズ」「アルバート・ヘリング」「ビリー・バッド」
          「グロリアーナ」「ねじの回転」「真夏の夜の夢」「カーリュー・リバー」
          「ヴェニスに死す」

ロシア・東欧

 ムソルグスキー 「ボリス・ゴドゥノフ」

 チャイコフスキー 「エフゲニ・オネーギン」「スペードの女王」「イオランタ」

 ラフマニノフ    「アレコ」

 ショスタコーヴィチ 「ムチェンスクのマクベス夫人」「鼻」

 ドヴォルザーク   「ルサルカ」

 ヤナーチェク    「カーチャ・カヴァノヴァ」「イエヌーファ」「死者の家より」
             「利口な女狐の物語」「マクロプロス家のこと」

 バルトーク     「青髭公の城」

以上、ハッキリ言って、偏ってます。

イタリア・ベルカント系はありませんし、バロックも、フランス・ロシアも手薄。

新しい、未知のオペラ、しいては、未知の作曲家にチャレンジし、じっくりと開拓してきた部分もある、わたくしのオペラ道。
そんななかで、お気に入りの作品を見つけたときの喜びといったらありません。

それをブログに残すことによって、より自分の理解も深まるという相乗効果もありました。

そして、CD棚には、まだまだ完全に把握できていない未知オペラがたくさん。

これまで、さんざん聴いてきた、ことに、長大なワーグナー作品たちを、今後もどれだけ聴き続けることができるかと思うと同時に、まだ未開の分野もあるということへの、不安と焦り。
もう若くないから、残された時間も悠久ではない。
さらに、忙しくも不安な日々の連続で、ゆったりのんびりとオペラを楽しむ余裕もなくなっている。
それがまた、焦燥感を呼ぶわけだ。

でも、こうして、総決算のようなことをして、少しはスッキリしましたよ。

リングをいろんな演奏でツマミ聴きしながら。。。。
 

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2014年9月13日 (土)

シュレーカー 「烙印を押された人々」 あらすじ

ところは、ルネサンス期、イタリアのジェノヴァ。

第1幕 貴族アルヴィアーノ・サルヴァーノの館

 「しかめっ面、せむしの私に、どうしてこれほどの感情、欲望があるんだろう・・・」と一人悩むアルヴィアーノ。
そのまわりでは、仲間の貴族たちが、面白おかしく、おれたちは街の娘や夫人たちをつまらない恋人や、技巧に不慣れな夫たちから解放してやってると言っている。
 アルヴィアーノは、かつて金で娼婦を買ったとき、その時の自分への嫌悪感を思っていて、いまでも嫌な思い出と次元の違うことを話す・・・。
そこへ、公証人到着の知らせに、貴族連中は、何事かと色めき立つので、アルヴィアーノは、「楽園島」~それは人工噴水、庭園、芸術のステージ、自然の配合からなるパラダイス~をジェノヴァ市へ寄贈することにしたと語る。
 貴族たちは、「え? おいおい、わかってるんだろうな、それは裏切りだぜーー」「事が露見したらどうすんだ!」、とせっかくの私財をなげうった施設を惜しむとともに、必死に食い止めようとして、なんとか手を打たなくてはならないと語り合う。
そこへ、貴族タマーレが遅れてやってきて、美しい女性を見て惚れてしまったとひとり大騒ぎする。

市長と娘、元老院議員がやってくる。
市長はアルヴィアーノに、娘があなたにお願いがある、まったく奔放で困ったヤツだ、そりゃそうと今回の寄贈は素晴らしいと長口舌。
その話の中で、最近女性がさらわれ行方不明となっている事態も語られる。
島の譲渡を受けるには、アドルノ公爵の了解も必要、こちらは自分が責任もって対処しますと市長は請け負う。

タマーレが見染めたのは、実はその市長の娘、カルロッタ。
彼は、そこで、これ幸いと言い寄るが、彼女は、私の好きなのは酬いを求めて苦しみ、犠牲となる男性、あんたが死んだらそうなるかもね」、と厳しくも不可解な態度。
ますます彼女に夢中になるエロいイタリア男、タマーレであった。

貴族の雇った刺客ピエトロとアルヴィアーノの家政婦マルトゥッチはいい仲で、スパイとなることが予見される。
彼は冒頭に出てきた悪い貴族メナルドと間違えられ、ある女性に追いかけられていると語る・・・・

 アルヴィアーノとカルロッタが二人になり、彼女は、いろいろ絵を描いているけれど、一番描きたいのは「魂」と歌う。この場面の彼女の危ういほどの情熱の歌は素晴らしい。
だから、あなたを描きたい、と語るが、アルヴィアーノは自分が醜いというコンプレックスがあるものだから、ばかにされていると思いこみ、なら道化に描いて欲しいと嘲笑する。
カルロッタは、ある朝、あなたが私のアトリエの前を通り過ぎそこに朝日が昇るのを見た。その時の巨大な姿を私は絵にしたけれど、顔がないの、太陽に向かって進むアルヴィアーノを描きたいと熱烈に語り、ついにアルヴィアーノも絵のモデルになることを同意する。。。

第2幕 アドルノ公爵家の広間


 アドルノ侯爵の館から市長と元老議員が怒りながら出てくる。
島の譲渡に関して貴族仲間への配慮もあり、慎重な姿勢を崩さなかったことへの憤りである。
 そのアドルノに貴族タマーレがやってきて、またもやある女性への熱愛を語り、友人ゆえに公爵は協力を約束。
でも相手が市民の市長の娘とわかると貴族の立場ゆえの自戒を伝える。
それでも、あの女をものにしたいと語るので、アドルノは引いてしまう。
どうせわかりゃしないし、昨晩も一人、こっちに知らないうちに娘がかどわかされたのだと。
え??、おまえ、まさか一連の事件に」、とアドルノ。
そうとなりゃ、仕方あるめぇ、じつはあの島の地下洞窟に愛の宴の巣窟があるんですよ。アルヴィアーノが、解放してしまったらすべてがバレちまうのですわ。だから、市への譲渡を阻止していただきてぃんですよ~。
 アルヴィアーノ7は関与してるのかとの問いに、ヤツは加わってません。今や後悔してるかもしれませんぜ。アドルノは怒り、おまえは愛を覚えたから悪い奴らとは違うと思うし、一度は助けるといってしまったのだ、でも暴力はイカンぞ」、と不愉快ながらクギを刺す。

カルロッタのアトリエ
 アルヴィアーノがモデルとなっている。
彼女は、「かつて心臓を病んだ友人がいて、彼女は風景や人物も描くが、人の手を描き、あるとき干からびた枯れ枝のような死んだ手を描いた。その手は死に怯え飢えていたようだったし、赤い筋のようなものも見えたのだ」、と語る。
アルヴィアーノに、「視線をのがれてはいけない、こっちを見て、自信をもって」と言い、情熱的な音楽(前奏曲に同じ)になる。
「そうそう、その調子」。
でも、すっかり思いが高ぶり、彼女に詰め寄ろうとするアルヴィアーノ。
それを制し、絵の仕上げにふらふらになりながらのカルロッタ。
彼女は危ない雰囲気で倒れそう。
やがて出来上がり、倒れこむカルロッタが傍らの画架に手をすがると、その布のあいだから、やせ細った手が見える。
すべてを察知したアルヴィアーノ
ぎこちない抱擁。かわいそうな優しい人を大事に守る決意を歌う・・・・。

第3幕 楽園島にて

市民たちが解放された楽園島にやってくる。
そこでは、怪しいしいニンフやパンたちのマイムが行われていて、市民たちも、これじゃなんだかななぁ、の意見。
行方不明となった女性に関し、ご主人に危害が及ぶかもしれないと警告しようと家政婦が出てくるが、悪漢ピエトロに捕えられてしまう。
奴はいまや、完全にアドルノの手下なのだ。
 むしょうに、いなくなってしまったカルロッタを心配するアルヴィアーノが市長とともに出てくる。
市長は、今宵アドルノのある告発があるのを知っていて警告するが、アルヴィアーノは娘さんは最高の女性、自分の罪は自覚していると語り、市長は混乱する。

そのあとそこには、アドルノとカルロッタ。
絵が出来上がってから、自分の中で何かがしぼんでしまった、アルヴィアーノはもう私にすべて最高のものを与え、これ以上は期待できないとぶちまける。
同情というヴェールが包んでいたのに、それを破り捨ててしまうと、かつてアルヴィアーノが自嘲して語った「花々の中にある醜い毒虫・・・」という言葉を思い出すのよ。。と語る。
それを聴き、アドルノは、アルヴィアーノはもう情欲の僕となっている劣等肝と語るが、彼女はがぜん、それを否定し、アルヴィアーノの高貴さと気品を称え怒りすべてを否定する。
揺れ動く女心は難しいのだ。
でも夏の蒸し暑さに火照り、灼熱に浮かれたようになってしまう・・・。

狂おしく花嫁のカルロッタを探しまくるアルヴィアーノ。

祭りの催しに熱狂する市民、そこで夢遊するカルロッタを見つけだした、マスクをかぶったタマーレ。
彼は狂おしく迫り、あらがうカルロッタだが、しかし負けてしまい抱かれてしまう。

民衆は、この島譲渡の善行に、アルヴィアーノ万歳、あんたは祝祭の王だ、とはやし立てる。
でもかれは、自分はそんな立派なものではないと言いつつ、それどころでなく、カルロッタが不明となり、「彼女を探し出せば私財をすべてやる」と混乱の極み。市長やその女中連中も必死に探している。

そこへ8人の屈強の覆面男が、司法警察の隊長とともに登場。
アドルノの起訴をもとにやってきたのだ。


アドルノは民衆に向かい、「おまえらはたぶらかされている。この男はお前らの嫁や娘をさらい、たらしこんだヤツだ」と告発する。
 しかし、民衆は逆に、いまある快楽をねたんで奪う盗人と逆ぎれし証拠を示せとさわぐ。
そこで出ました、刺客が悪漢貴族のために誘拐した女性が、アルヴィアーノ邸にいたの証言で、スパイの仕業が見事に。
これで、はめられたとわかったアルヴィアーノ。

民衆をともない地下室へと降りてゆくアルヴィアーノ。
そこには乱痴気騒ぎが中断され茫然自失の女たちと、すでに捕えられた貴族たち。
その中には、タマーレもいるし、倒れたカルロッタもいる。

アルヴィアーノは、彼に、彼女がおまえを愛したということであれば、最初から自分は何も所有しなかったということで、元のみじめな日々に戻るだけ」、と語る。
タマーレは不敵にも、「これは宿命、おまえは自分が一時強者だと思ったろ、でも違うんだ、喜びにしり込みしたのさ、なぜ、彼女を奪わなかったのだ?」と強く攻める。

アルヴィアーノは、「自分は人生の深淵を見てきた人間だからだ。

対するタマーレ、そんなことぁ知らねぇ。強烈な抱擁のうちに至福の死を彼女は求めてきたんだ。彼女は自由になり、死を与えられたのだ。

アルヴィアーノは、「きさま、彼女の心臓の病、そのことを知ってやがったのか、このくそやろう!!」

タマーノは、まるでばかにしたかのように、道化のヴァイオリン弾きの女を奪うために、そのヴァイオリンでたたき殺したと歌う。
ついにアルヴィアーノは、タマーノを刺殺し、その断末魔の叫びに正気に戻ったカルロッタ。
彼女に、「大丈夫、自分ならここに」、というものの、「近寄らないで、妖怪、失せて、あの赤い糸が・・・」、「いとしい人よとタマーラに・・・・。

ここで茫然とするアルヴィアーノ。
私はヴァイオリンが欲しい、それと赤く鮮やかな、隅に鈴の付いた帽子も。
どこへ行った? あれ、ここに死体が・・・」
皆さん死体がありますよ・・・・

怖れ、道を開ける人々の間をぬって舞台奥へ消えゆく、正気を失ったアルヴィアーノ・・・・・


静寂から、やがて虚無的なまでのフォルテに盛り上がって後ろ髪引かれるようにして音楽は終わる。

                             幕


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2014年9月12日 (金)

シュレーカー 「烙印を押された人々」 前奏曲

Hills

何度か登場の、六本木ヒルズのシュールなモニュメントと、遠景の夏の東京タワー。

10月には、東京タワーもオレンジ色になります。

このところ、忙しいいのと、別口ライブなどで、記事更新が滞ってまして、申し訳ありません。

聴きたい曲、書きたい曲、紹介したい曲など、それこそ、次から次にあるのですが、あれよと言う間に、日が経ってしまい、季節感も失い、記事のタイミングも失してしまうというもどかしさを感じてます。

今宵は、ときおり頭のなかで鳴りだす音楽のひとつを取りだしてみました。

 シュレーカー 歌劇「烙印を押された人々」 前奏曲

Schreker_die_gezeichneten

    エド・デ・ワールト指揮 オランダ放送フィルハーモニー

Schreker_die_gezeichneten_albrecht

    ゲルト・アルブレヒト指揮 ウィーン放送交響楽団

Schreker_die_gezeichneten_nagano

    ケント・ナガノ指揮 ベルリン・ドイツ交響楽団

Schreker_prelude_toadorama_shinaisk

    ヴァシリー・シナイフスキー指揮 BBCフィルハーモニック

いま、手持ちの「烙印を押された人々」の前奏曲にまつわる音源です。

最後のシナイフスキー盤は、オペラの全般をもイメージして、幻想曲風にしたてた「あるドラマへの前奏曲」という、ロングバージョン。
おおいに聴き応えがあります。

ですが、オペラ全体をつまみ聴くには、この曲はそぐわず、コンサートバージョンっぽい。

でも、時間がない時などは、わたくしは、とても重宝してます。

 このオペラは、いろんなストーリーを入れ込みすぎて、焦点がぼやけぎみないつものシュレーカーのオペラの中にあって、2時間30分の長帳場ながら、ややこしい筋立てながらも、求心的なドラマになっていて、聴き応えも、劇としての面白さも高いと思います。

醜い男と思いこんでいる主人公、そして、その彼が同情と、やがて愛情を注いだのが、ヒロインで、彼女は美しいけれど、心臓が悪く、熱い恋などできる体でない。
そんな彼女をたらしこむ、遊び人のイケメン。
 この3人に、快楽悪逆追及の貴族たちと、彼らが作った快楽のテーマパークに心奪われる民衆。

出てくる連中、みんなが、あかんレッテルを貼りたくなる、そんなオペラって珍しいですね。

成功したオペラでありますが、台本も指揮も、すべてひとりでこなす才人であったシュレーカーは、そのユダヤという出自ゆえに、華やかな第一線から締め出され、心臓の疾患も出てしまい、失意のうちに亡くなってしまう・・・。

いわゆる、「退廃のレッテルをナチス政権によって貼られた作曲家」の代表格であります。

この前奏曲、ほんとに好きで、痺れるような、甘味なまでの官能に、酔いしれるようにして聴いてしまいます。
ザルツブルクのフェルゼンライトシューレの特性を活かした、ケント・ナガノ指揮による映像の演出は、レーンホフによるもの。
仮面劇のようで、怪しくも、想像力を抱かせる秀逸なものです。
いずれまた、ちゃんとレビューしたいと思います。

ここにあげた前奏曲のみの演奏において、一番好きなのは、デ・ワールトによるものですね。
マーラーと、ツェムリンスキー、シェーンベルクと同列の存在としてのシュレーカーを感じさせる明快な演奏なんです。

新国あたりで、このオペラが取り上げられることは、永遠にないだろうなぁ~

過去記事

 「デ・ワールト&デンマーク国立歌劇場」

 「シナイスキー&BBCフィルハーモニック」

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